現在299件のアテルイ情報を掲載しております。

岩手県の水沢地方振興局(現県南広域振興局)の委託を受けて延暦八年の会(佐藤秀昭会長)が作成(2000年3月)した「アテルイのイメージ肖像」(現在は当会が管理)が、昨年7月の歌舞伎NEXT阿弖流為における公演時筋書(プログラム)の冊子に掲載されたのをはじめ、様々な方面からも「肖像」の使用希望と画像の提供依頼が来るようになっている。
これまでは、アテルイというと鹿島神宮の悪路王首像の写真が使われることがほとんどであったが、ここにきて変化の兆しが見える。以下に紹介する。

平成27年6月 松竹(株)新橋演舞場宣伝部より、画像提供他の依頼
『歌舞伎NEXT阿弖流為〔公演時筋書〕』(H27.7.5)
平成27年8月 福岡市の大村紀征氏より、画像提供他の依頼
『月刊秘伝』10月号(H27.9)「真説"戦う日本刀"(第2回)」
平成28年3月 テレビ朝日「クイズプレゼンバラエティQさま!!」番組担当者より、画像提供の依頼
「学力王NO.1決定戦3時間スペシャル」(4月11日放送)
平成28年4月 (株)ベストセラーズ『歴史人』編集部より、画像提供の依頼
『歴史人』NO.67(H28.6)星亮一「東北の英雄たちの果てしなき「反骨」と「矜持」」
平成28年4月 奥州市の胆江日日新聞社より、画像提供の依頼
シネマ歌舞伎アテルイ先行上映会、トークライブ(H28.5.15)
平成28年6月 奥州市水沢区の跡呂井町内会より、画像提供の依頼
国体競技〔弓道〕応援ののぼり旗作成に使用(H28.10予定)
平成28年7月 岩手県警水沢警察署より、画像提供の依頼
使用内容は現段階で不明

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「英雄たちの選択」は、2013年5月からNHKのBSプレミアムで毎週木曜日に放送されているもので、歴史に名を残した人物が人生の選択に迫られた際に抱えたであろう葛藤に着目した歴史エンターティメント番組。
5月26日の放送が、「衝突!その時 男は何を見た 征夷大将軍・坂上田村麻呂」のタイトルで、アテルイの降伏をめぐる田村麻呂の選択がテーマとなっていた。

平安遷都を行った桓武天皇の時、遷都と並ぶ国家プロジェクトが東北の蝦夷(えみし)の制圧だった。
大きな期待を背負い戦った坂上田村麻呂は、蝦夷のリーダー・アテルイを降伏させることに成功する。
しかし田村麻呂はアテルイから助命を要請される。
朝廷の大反発が予想されるなか命を救う行動にでるか、それとも処刑やむなしと突き放すのか、田村麻呂の苦悩に迫るという興味深い内容。

司会は歴史家の磯田道史(国際日本文化研究センター准教授)とNHKアナウンサーの渡邊佐和子、出演はレギュラーコメンテーターの宮崎哲弥(評論家)にゲストコメンテーターの赤坂憲雄(民俗学者・学習院大学教授)、里中真智子(漫画家)、鈴木拓也(歴史学者・近畿大学教授)の各氏。

「延暦21年4月、アテルイは副将モレとともに胆沢城に姿を現した。自らを後ろ手に縛り降伏を申し出てきたのである。田村麻呂そして朝廷の悲願が達成された瞬間だった。田村麻呂は二人を伴い平安京に凱旋する。ところがその時、田村麻呂はアテルイから思いもかけない言葉をかけられる。「命を救ってほしい。そのかわり残る仲間たちを説得しよう」。それは朝廷を恐怖に陥れた敵将の言葉としては、にわかに信じがたいものだった。」

「アテルイの申し出をどう受け止めるべきか、田村麻呂の心の内に分け入ってみよう。アテルイの言葉は確かにまたとない申し出だが、ここは冷静に考えてみるべきだ。なかなか朝廷に屈しなかったアテルイを無条件に信じていいものだろうか。望みをかなえたところで裏切る可能性は十分にある。蝦夷たちの怒りはまだ完全に収まったとは言えない。とはいえアテルイは蝦夷たちを率いた族長、そのアテルイを処刑すればすでに服属した蝦夷たちが怒りの声をあげる恐れもある。アテルイを生かし交渉役として東北に帰せば未だ小競り合いを続ける蝦夷たちを懐柔する有効な手段であることも確かだ。アテルイは自らの命を差し出し降伏してきた、その覚悟は誠実の一言に尽きる。ここはアテルイの申し出に賭けてみるべきか。」

「実はアテルイにまつわる興味深い事実がある。それは朝廷側の歴史書に登場するアテルイの名前には「大墓公(おおはかのきみ)」と書かれているのである。」

【熊谷公男(東北学院大学教授)】「アテルイの本名は「大墓公阿弖利為(おおはかのきみあてりい)」といいます。「公(きみ)」というのは姓(かばね)というもので、これは天皇から授かるものです。だからアテルイの一族であってもある時期には中央政府側に服属していた。うまく説得できれば、また中央政府側につくことになるかもしれない、というのは考えるわけです」
【渡邊】「みなさんが田村麻呂の立場だったら、どちらを選択されるでしょうか。」

【宮崎】「私は申し出を信じます。彼は武人であり官吏ですから、朝廷側の財政状況も、遷都と度重なる侵攻によって苦しくなっていた台所事情も知っていた。アテルイは朝廷との戦いで部族をまとめてきた。そういうことを評価して、帰属していない蝦夷たちを服属させることができると。ここは信用してアテルイにかけてみようと、これは合理的な答えであると思います。」
【鈴木】「私もアテルイを信じる。古代の降伏は相手に対して自分の身柄を生かすも殺すもあなたの自由です、そういう態度を表明して初めて降伏が成立する。アテルイは処刑を覚悟で降伏してきている。その言葉は信ずるに足りる重いものだ。」
【赤坂】「アテルイを信じるというよりは、それこそが田村麻呂の心の声だったと思う。戦争を収めて蝦夷の部族連合みたいなのを解体して、むしろもっと平和な暮らしの中に戻っていくためにアテルイとモレが彼らを説得する、それはむしろ田村麻呂も望んでいた「声」だったのではないか。」
【里中】「信じたいと思います。おそらく田村麻呂とアテルイとのあいだには信頼関係があったと思う。だから、当然信じます。ですが田村麻呂は想像を絶するような心境だったと思う。せっかく国が莫大なお金をかけて、犠牲を払ってやっと降伏してきた、それを信じて放すとはなにごとだと、坂上田村麻呂は敵と通じて国を裏切る算段があるのではないかと、変なふうに勘ぐられないか。そのように利用されないか。そういう危惧がある。」
【宮崎】「最も政治的に利用されやすい。故郷に帰したあとに、もしアテルイが再び反乱を起こしたら、田村麻呂の政治的命とりになる。この人はエリート街道を実力で昇ってきた人です。そういう人が、あえて逸脱的なことをやるというのは、大変な葛藤があったと考えられます。」
【磯田】「アテルイを信じるのはかなりむずかしい。このとき桓武天皇の政権というのは、目に見える勝ちを欲している。都に降伏したアテルイを連れてきて、衆人環視のもとに公開処刑する、これほど目に焼き付けられる勝利はないわけです。それを田村麻呂がアテルイを信じて故郷に戻すというのは相当にむずかしい選択にならざるをえないだろうという想像はつく。」

田村麻呂は決断を下し、アテルイの助命を嘆願するが、公家たちは驚愕、猛反発し、アテルイとモレは処刑された。みずからの命を差し出し散ったアテルイ、その無念の死を田村麻呂はどんな思いで受け止めただろうか。

【宮崎】「田村麻呂は優れた武人であると同時に優秀な官僚だ。自分の主張が受け入れられないということは分かっていただろう。それでも生かしておきたいという判断をした。切りすててしまうのはあまりにも惜しいという、戦士の誉れ、そういうものが彼の中にあった。それが官僚としての答えを超えさせるような主張につながったというふうに想像します。」
【赤坂】「坂上田村麻呂という武将が東北において伝説になりえたのは、田村麻呂のこの逡巡した姿だったかもしれないと思いたい。朝廷の貴族たちにはまったく理解できない蝦夷に対する理解や同情というようなものを持っていた人だ。だからアテルイやモレに対する尊敬がゆえに逡巡したという、こういう場面というのはものすごく重要だと思う。」
【鈴木】「アテルイの処刑は、田村麻呂の助命嘆願に()(ぎょう)が反対しその結果実施となっていますが、これは桓武天皇の本人の意向と考えて間違いない。しかし田村麻呂の意見は孤立した意見だったのではないことがわかってきた。田村麻呂には共感者がいる。公卿たちの発言を『日本紀略』が引用するさいに「(しか)るに公卿(くぎょう)執論(しつろん)して」とあって、「執」の字を使っている。この記事を書いた人は、公卿は頭が固い、固定観念にとらわれている...とみている。言い換えれば田村麻呂の意見のほうが正しいと...。」
【里中】「私はずっとこのくだりは不思議でした。本当にアテルイがそう言ったのか。むしろ田村麻呂が仕掛けたのではないか。アテルイは命をかけてみずから降伏したのに、今さら生かしてほしいとか言うはずがない。これは想像だが、田村麻呂がアテルイに相談し、おまえとモレを故郷に帰すから、そのかわり故郷をおさえてくれないかと。それをアテルイからの申し出ということによって説得力を増そうとしたのではないか。」
【磯田】「私はブラック田村麻呂というのも想像してしまう。全部、はかりごとだったかもしれない。アテルイが「命を助けてくれ」と、あれだけの英雄が言うわけがないと私も思う。アテルイのカリスマ性を破壊できる、命乞いをしている情けない男にできる。そのあと自分が助命嘆願したら、アテルイの元仲間たちにも自分は頼れる将軍ということにもなる。うまくいったらアテルイとモレを自分の支配に使える。うまくいかなくても桓武天皇がこれを処刑して、おまえよくやったと手柄になる。どこにも損はない。これは武略として最善手だ。」
【宮崎】「田村麻呂は桓武の意向に反することを言いながら、桓武の不興を買うこともなく官途を昇りつめていく。そうすると磯田説というのも、そういうことも、あるかもな、と思う。」
【磯田】「私はこういうことを思いつくのはイヤだった。人物造形からすると、田村麻呂いい人で終わりたかった。でも、やったかもしれない。主人公はいい人だということで終わらせたいのですがね。基本的には。」

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テレビ朝日の人気番組「クイズブレゼンバラエティQさま!!」の問題にアテルイが取り上げられた。
4月11日放送の「学力王NO.1決定戦3時間スペシャル」で、各界の学者・博士・先生が選んだ世の中を変えたスゴイ指導者30人から全問を出題、上位3人が決勝ラウンドに残る予選第18問に、日本で活躍した「ある英雄」は誰かとして問題が出された。
ちなみに、ここまで勝ち抜いてきた「最強のインテリ」は、元祖インテリ芸能人・辰巳琢郎(京大卒)、「スゴイ本」の学力王・三浦奈保子(東大卒)、2度の学力女王・天明麻衣子(東大卒)、2度の学力王・やくみつる(早大卒)、東大を4回卒業した吉田たかよし、の5人。

この英雄を選んだのは、この英雄を主人公に小説を書いたという博物学者の荒俣宏。
「僕が小説を書こうとした理由は、水戸黄門のことを聞いたから。実は水戸黄門は、秘密の使者をもって何年かに一回、ある首の模型を清め、悪くなったところを補修している。東北が平穏になるようにするには犠牲になった○○の首を鎮魂しなくてはならない...」
というようなことを話し、次のように出題される。
水戸黄門は、[1]数年に一度、英雄の首の模型を清め補修 ※諸説あり
水戸黄門は、[2]東北の平和を祈念し英雄を鎮魂していた ※諸説あり
このスゴイ英雄は誰?
そして、一枚目のパネルは、『清水寺縁起絵巻』の一部写真に「10年以上朝廷軍の進撃を阻む」と出るが、回答者なし。
二枚目のパネルは「巣伏古戦場」と彫られた石碑とよくわからない川らしき写真で「岩手県にある戦場跡地」と出て、ここで天明麻衣子が正解のアテルイと答えた。
本人いわく「ちょっと賭けでした。カタカナで東北に昔いた、蝦夷(えみし)の似たような名前の人がいっぱいいたような気がしたが、アテルイが一番有名だなと思ったので...」。

三枚目のパネルは、「アテルイのイメージ肖像」(当会提供)と鹿島神宮の悪路王首像の写真(「本人とされる首像」との説明)で、「古くから東北地方に住んでいた人々(蝦夷(えみし))のリーダー。奈良・平安初期、朝廷軍を2度倒し郷土を守った英雄」との説明。
四枚目のパネルは、「802年蝦夷兵とともに降伏」との説明文が入った降伏の場面が描かれた絵と坂上田村麻呂の肖像画の写真に、「最後は坂上田村麻呂の遠征軍に降伏。現在の大阪・枚方市付近で処刑された」との説明だった。
そして最後に、世の中を変えたスゴイ指導者、ファイルナンバーはNO.10「東北の英雄アテルイ」と、再び「アテルイのイメージ肖像」とともに紹介された。

続いて、アテルイの慰霊碑がアテルイとかかわりの深い人物が建てたある建造物の境内にあると前置きし、第19問の地理の問題として「パラパラ建造物」この建物は何?と出題。
12枚に分割された写真が次々にめくられていき、緑の木々の背景から5枚目の大きな屋根が見えたところで三浦奈保子が正解の清水寺と答えた。
本人いわく、「私、関西に住んでいて清水寺に行ったりしたんで、朝廷軍の指揮をとっていた坂上田村麻呂が造ったというのを知ったんです」。

最後に、「アテルイを降伏させた朝廷軍の指揮官、坂上田村麻呂が建てた清水寺で慰霊した」と説明があって、アテルイに関する問題は終了した。
 

解説

アテルイを選んだ荒俣宏氏は、幻想文学、博物学、風水など多岐にわたるジャンルで活躍していて多数の著作がある。
荒俣氏が最初に話した「ある首の模型」とは、茨城県城里町高久の鹿島神社に伝わる「悪路王頭形(悪路王面形彫刻)」のこと。
水戸黄門(水戸藩二代藩主徳川光圀)は元禄六年(1693年)に傷んだ頭形を修理させ、文政八年(1825年)には八代藩主徳川斎脩も修理させたとの記録が残っている。
ただ、修理の記録はこの二回である。

また水戸黄門が「東北の平和を祈念し英雄アテルイを鎮魂していた」というが、そのような事実は確認できない。
徳川光圀は『大日本史』を編纂させ、古代の史蹟等にも強い関心を寄せているが、アテルイに対する特別な認識を示すものなどはどこにも見えない。
水戸藩主が「悪路王頭形」の修理をさせたことなどの意味は、坂上田村麻呂が「蝦夷征伐」をして朝廷の威光を高めたことから、その歴史的証拠物として、征伐された蝦夷の象徴としての悪路王の頭形に存在価値を認めたからであった。

荒俣宏氏がアテルイを主人公に書いた小説とは、『帝都幻談』下(2007年)のことであろう。
内容は、「嘉永六年、黒船という外国の妖怪の侵寇に呼応するかのごとく、日本の各地で目覚めた先住の妖怪が大挙して江戸に攻め寄せつつあったが、これらの事態に乗じてすべての妖怪どもの怨念を凝縮して戦を仕掛けてきた「鬼」と対決する勇者の物語」であるとしている。
このなかで、アテルイは「蝦夷の怨霊アテルイ」、「怨霊アテルイの首」として登場するのである。
ただし、これが小説の主人公といえるかどうかは疑問。

「水戸領内の神社に、古くより「悪路王」の生首と称される社宝が伝えられていた。 もちろん、本物の生首ではなく、カラクリ細工の人形である。 だが、数すくない古老の証言によれば、じつは細工物は飾りに過ぎず、ほんとうの干し生首が神社の地下祠に祀られているのだと噂されていた。 この生首、水戸領内では、悪路王あるいは阿黒王と呼ばれている。 その正体は、坂上田村麻呂に敗れた蝦夷最強の猛者であったアテルイだと噂されている。 アテルイは、今もなお、大和朝廷を呪っているという。 なぜならこの蝦夷人は、田村麻呂にともなわれて京にのぼり和睦の評議に臨んだが、京で捕らえられ、だまし討ちも同然のかたちで首をはねられたからであった」。

このように「怨霊アテルイ」となる背景とアテルイの生首の存在を語り、怨霊アテルイの甦りを最大の山場として戦いの決着に進むのである。.........
〔文責:朝〕

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昨年7月に新橋演舞場で上演された歌舞伎NEXT『阿弖流為』が、シネマ歌舞伎第24弾作品「歌舞伎NEXT阿弖流為」として、北海道から鹿児島まで全国57の映画館で一斉公開(6月25日)された。

主役の市川染五郎さんはJR東日本の『大人の休日倶楽部』6月号の表紙を飾って、アテルイについて熱く語っている。
「昨年、『阿弖流為』という新作歌舞伎を上演しました。今では北の民・蝦夷の英雄として広く知られるアテルイですが、僕が目を付けたころは「誰?」という存在でした。初めて知ったのは、少年時代に読んだ学習漫画の短いくだり。征夷大将軍の坂上田村麻呂がアテルイの処刑を知り、敵将であるにもかかわらず涙したという逸話に、二人の間には敵同士以上の何かがあったに違いない。そう想像した途端、二人が両花道で向かい合う姿が浮かびました。これは面白い歌舞伎になる!と。そうやって温めていたネタは、平成14年、「劇団☆新感線」とのコラボレーション企画『アテルイ』で実現。それから13年後、歌舞伎として『阿弖流為』を上演することができました。歌舞伎作品とするにあたり、昨年、再び岩手を訪ねました。厳美渓、達谷窟毘沙門堂...。前と同じ所を巡ったはずですが、感じたことが違いました。厳美渓の流れが、そのまま一幅の絵になりそうな"青"であることに気付いたのです。そして遠くに広がる森と空。それを目にしたとき、アテルイの「この森を守るため、この里を守るために戦うのだ」というせりふが、心底実感できました。北上川を挟んで向き合う朝廷軍と蝦夷。やつらの侵略を許すことは、この美しい自然が汚されること。それは絶対に許せない。だからアテルイたちは、全てを懸けて戦ったのだと、あの光景が教えてくれました」。このほか染五郎さんは、『AERA(アエラ)』など50冊を超える雑誌への登場、ラジオ、テレビなどメディアへの数多くの出演など、驚くばかりの力の入れ方を見せている。
このシネマ歌舞伎「阿弖流為」、どれくらいの人が観ることになるのだろうか。

5月15日、岩手県奥州市では胆江日日新聞創刊70周年記念事業として、地元先行上映会を市文化会館大ホールで開催、来場者1400人余りを感動と興奮で包み込んだ。
染五郎さんのトークライブも行われた。アテルイ第三のブームが到来しつつあるように思える。

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歌舞伎NEXT『阿弖流為』が七月五日を初日に二十七日まで新橋演舞場で上演された。
アテルイ没後1200年にあたる平成14年に、市川染五郎主演により同じ新橋演舞場で上演した劇団☆新感線の『アテルイ』を歌舞伎として再創造したもので、タイトルにある「歌舞伎NEXT」にふさわしく新しい歌舞伎に挑戦する意欲溢れる舞台となった。
阿弖流為役の市川染五郎、坂上田村麻呂役の中村勘九郎、(たて)烏帽子(えぼし)鈴鹿(すずか)の二役の中村七之助に加えて、坂東彌十郎、市村萬次郎、片岡亀蔵、澤村宗之助、市村橘太郎、中村鶴松、大谷廣太郎、坂東新悟らの錚々たる面々が重要な役どころを演ずるという豪華な配役である。

脚本は13年前の『アテルイ』と同じく劇団☆新感線の中島かずき。
物語としては前回作の<(みかど)-大和(やまと)-田村麻呂>に対する<荒覇吐(あらはばき)の神-蝦夷(えみし)-アテルイ>という対決構図を基本とした展開から、今回は田村麻呂が<大和>に殺されかかり、阿弖流為は<蝦夷>が奉じる荒覇吐の神とも戦うという、複雑な展開となっている。
立烏帽子は実は荒覇吐の神で、「人が作った神を奉じるお前たち大和が、この日の国に息づく八百万の神の息の根を絶つ。それがこの戦の正体ではないか。だから私は阿弖流為を新たな(いくさ)(がみ)として呼び戻した。」と語り、阿弖流為は「......それは神の都合だ。」と言い放つ。
なかなか深い話にもなっている。

場内で販売していた『プログラム』に、当会が提供した「アテルイのイメージ肖像」と清水寺に建立した「阿弖流為・母禮之碑」の写真が掲載されている。
なお大阪公演は十月三日から十七日まで大阪松竹座で。

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延暦八年の合戦に大勝利したのは、蝦夷最大の豪族モレが、若いアテルイを「祭り上げ」、日高見国連合軍を組織してのものだった。
物語は胆沢の族長「巣伏」の長男として生まれながら、虚弱体質で家督は継げないと周囲に見られていたアテルイが、山で鍛えられ、戻って胆沢の大棟梁に祭られて戦いを進めていくものである。

10歳になったアテルイは一人前にするために軽業を使う青年「梵天」に預けられ、教育される。
「梵天」は口から火を吹いて敵を威嚇するテズマの術の持ち主であった。
しかし、2年後に大和の落武者に殺される。
アテルイはその後、山で出会った醜い老婆「野枝」と「春日」という孤児の娘と一緒に暮らすことになる。
「野枝」は軽業を身に着けた蝦夷出身の下女で、坂上苅田麻呂に仕えて密偵の仕事もしていた。
肉体強化に励むアテルイに御身刀を授け秘術を伝えたが、約一年後に田村麻呂の軍師で法華経の修行僧「薬丸」に殺される。
アテルイは残された「春日」と山で荒行を続けるが、16歳になり巣伏の村に帰ることを決意する。
胆沢では大和の大軍に対抗する連合軍を組織することになり、それを束ねる棟梁を誰にするかの会合が続いていた。そこにアテルイが呼び出され、口から火を吹く術を見せたことで棟梁に決まり、モレは守り役となって戦いが本格的に始まるのである。

しかし、蝦夷の連合軍が次第に劣勢となっていくなかで、この物語は完結することなく終わる。
最後のほうでは、「征夷の正義を賭けた戦い」とか、「蝦夷軍は人肉を食ってもという、極悪集団である」というような記述があり、著者の意図?が誤解されなければいいがと思う。
著者は会員。
【龍書房、2014年6月発行】

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平成26年11月8日、平成6年11月に清水寺南苑に〈北天の雄 阿弖流為 母禮之碑〉を建立して20周年の記念法要が営まれました。
午前9時、仁王門横の広場で伊藤流行山鹿踊りと京都市の岩崎伝京都鬼剣舞を奉納、碑前に移動して笛師の森美和子さんが篠笛を奉納。
午前11時より森清範貫主と大西眞興執事長他一山の僧侶が総出仕されて記念法要が営まれました。
関係者総勢150余名が参列し、多数の観光客が見守るなかでの法要でした。

12時からは円通殿で森貫主により、関西アテルイ・モレの会の故高橋敏男初代会長、故安倍満穂第二代会長、他二名、アテルイを顕彰する会の故藤波隆夫初代会長、故一力一夫顧問、故佐々木盛副会長、故小河原淳事務局、故佐々木隆男前胆江日日新聞社社長の建碑に尽力された物故者の追善供養の法要が営まれました。
その後、森貫主の法話をいただき、松坂定徳会長から関係者への謝辞がありました。
「20年前は雨降りの中で碑の除幕式を執り行いましたが、今日は天気にも恵まれ、このように多くの参列者にお越し頂き、感激の至りであります。特に奥州市の皆様には遠くから駆けつけて下さり、常に励まされての20年間でありました。長い間には中断しそうな時期もありましたが、会員の皆様に励まされ、役員の皆様に支えられて今日を迎えることができました。心より感謝申し上げます」とのご挨拶でした。
午後1時からは会場を洗心洞に移して懇親会が行われました。
中締めの後、当会の有志がエミシの出で立ちで登場、安藤睦夫作詞作曲の「ああアテルイ」とわらび座のミュージカル「アテルイ」から「日高見我がまほろば」を熱唱すると、会場が一体となったごとくに大いに盛り上がり、最後は来年の再会を約してすべてを終了しました。

今回の法要には岩手日報社の東根千万億社長が初参加し、翌日の紙面には大きく記念法要の特集が組まれ、これまでの顕彰活動や清水寺の思いなどが紹介されました。
森貫主は記者の「なぜ碑の建立を快諾したのか」等のインタビューに、次のように答えています。
「田村麻呂公はアテルイ、モレを京都に連れてきて朝廷に助命の嘆願をしている。残念ながら大阪府枚方市で処刑されたが、2人の供養について真剣に考えた。清水の観音様に、敵も味方もなくみ霊の供養をしたというのが清水寺の始まりだ。だからこそ、碑を建ててもらうことが大本願の心に添うことだと思った。」
「これはアテルイ、モレの鎮魂の碑だ。それまでは碑らしいものはできておらず、一般の人は名前を知らなかった。1200年の歴史でアテルイ、モレにこれだけ光が当たったのは初めて。歴史の観点が変わってきた。先祖に対する思いを地元関係者がしっかり持って、努力してきたということだ。」
「碑ができたことで親しく交流を重ねている。これも田村麻呂公のご縁だと思う。歴史は単なる時間の経過ではなく、その時々に息吹を吹き込むことが大事。その点でアテルイ、モレが人々の意識の中によみがえり、顕彰されたことは大きい。縁をもらった私たちがこれを代々伝え、発展させることで、京都と岩手の人たちの交流をさらに重ねていきたい」。

また、延暦八年の会の佐藤秀昭会長は「ひとこと」の欄で、「感無量だ。関西と奥州で一緒に検討しながら浄財を集めたことが思い出される。建碑を機にアテルイの講演会やシンポジウムを開いたり、教科書でも取り上げられるようになったため、子どもたちも学べるようになった。今後も次世代に活動をつなげていきたい。恩讐を乗り越えて顕彰しようという清水寺の協力に感謝したい」と語っている。

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平成26年9月6日、奥州市水沢区羽田町の羽黒山頂に建立された<阿弖流為・母禮慰霊碑>の前で第10回となる阿弖流為・母禮の慰霊祭が執り行われました。
平成17年9月17日の「アテルイの日」に合わせ、碑の除幕式と慰霊祭を開催して早くも10年を迎えたものです。
当会は今回が節目となる慰霊祭になることから、主催する阿弖流為・母禮を慰霊する会(小野寺一雄会長)に申し出、共催団体となることを了承していただき開催に全面協力しました。

開催にあたっては関係諸団体他にご案内をし、京都清水寺からは森清範貫主、森孝忍法務部長、大西皓久執事補、坂井輝久学芸員。
関西アテルイ・モレの会(松阪定徳会長)からは柏山喬相談役、和賀亮太郎副会長兼事務局長、鈴木力会員。
大阪府枚方市の伝阿弖流為・母禮之塚保存会からは中野一雄会長。
福島県の田村歴史観光協議会からは景山勝夫会長、富田孝男事務局長他が参列。
地元からは小沢昌記奥州市長、佐藤修孝市議会議長、菊池達也奥州市観光物産協会会長他が参列しました。

午前9時30分から伊藤流行山鹿踊りと田植祭保存会による田植踊りが奉納された後、午前10時より慰霊祭式典が始まり、慰霊する会の小野寺一雄会長が主催者を代表して「古代蝦夷の英雄アテルイ、モレの遺徳を偲び、1200有余年の時空を超え、次世代に語り継ぐべく、この地に慰霊碑を建立して十回の記念の年となった。
この羽黒山慰霊地が心の安らぎを与える場として皆さまに愛され、来てもらえる楽しい歴史の丘になることを願い、今後とも顕彰事業を進めていきたい」とあいさつ。
祝辞のあと、神事が執り行われ、慰霊碑の前に設けられた祭壇の前で、小野寺会長はじめ市内の関係諸団体の代表、清水寺の森貫主他の来賓らが玉串を奉奠し、古代の英雄に思いをはせました。
慰霊する会と当会の会員を含め約70人が参列しました。

当日正午からは市内ホテルを会場に清水寺森清範貫主の記念法話が行われ、関係者、市民の約150人が聴講しました。

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平成25年12月1日に枚方市市民会館大ホールで上演された。ひらかた(きむ)(たか)倶楽部の小中高生が演じるもので、2012年12月の初回公演に続く「火怨の蝦夷・阿弖流為」の第二回公演。今回も子供たちのいきいきとした演技に、会場は大きな感動に包まれた。

同倶楽部は、沖縄で始まった現代版組踊りの様式を手本に、枚方に伝わる歴史物語を舞台劇として作り上げることをとおし、アテルイら先人の気高い生き方を子供たちが学び、併せて地元に愛着や誇りを持つ子供を育てることを目的に活動をしている。「肝高」とは沖縄地方の古語で「心が豊か」「気高い志」という意味。

高橋克彦氏の『火怨 北の燿星アテルイ』を原作に、蝦夷の若きリーダー阿弖流為と仲間たちの「絆」を描いたもので、震災で大きな被害にあいながらも肝高の心で雄々しく立ち上がる東北の方たちの思いと、枚方との絆を重ね合わせたようとしたという。

劇中では河内音頭のルーツとも言われている伝統芸能の交野節「火怨の蝦夷、阿弖流為音頭」も歌われている。

なお、ひらかた肝高倶楽部は、子供たちのための舞台活動の継続を目的に平成26年度中に一般社団法人化を図るとしており、そのための出資者を募集している。

詳細は、連絡先 072-857-6000(FAX兼用) aaafz704★nike.eonet.ne.jp ★を@に変更してください。

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平成25年12月25日、奥州市水沢区東大通りの医師、室塚あや子さんがアテルイの里の石碑を同区神明町の市立常盤小学校(児童667人)に寄贈し、同校校庭の南側に設置された。花崗岩の碑(高さ約1.2m、幅約1m)には、横に「アテルイの里」と刻んだ御影石を中央に配している。

室塚さんは「アテルイは信念を貫き、純粋に勇敢に古里を守ろうとした。未來を担う子どもたちにも純粋に勇敢に生きてもらいたい。」と話し、寄贈を受けた常盤小学校の菅原孝司校長は「アテルイにゆかりのある当校に建てていただいたことに感謝したい。郷土学習などでアテルイを知ってもらう機会に役立てたい」と感謝している。

同校付近には、アテルイの拠点集落跡などが散らばる。10月に行われた同校の学習発表会では、アテルイの史跡まわりなどで学習した成果を「常小アテルイ」という劇で表現するなど、さまざまかたちでアテルイとの関わりを深めている。

平成26年5月12日には、室塚邦良・あや子さん夫妻が奥州市水沢区佐倉河の東水沢中学校に阿弖流為の郷の石碑を寄贈し、校舎東側の庭に建立された。昨年12月の常盤小学校への石碑寄贈に続くもの。碑は一関市室根山の花崗岩を使用(高さ1.2m、幅1.4m)し、「阿弖流為の郷」と刻んだ御影石を中央に配している。

室塚さんは「愛する故郷で死にたかったというアテルイの無念を晴らす意味も込めて建立した。東水沢中学校周辺にはアテルイに結びつく遺跡があり、これからも多くの人に知ってもらうきっかけにしたい」と話している。

東水沢中学校の千葉正岐校長は「室塚さん夫婦の厚意により石碑が建立され、郷土の平和のために力を尽くした英雄を学ぶための身近な石碑となる。今年度の創立五十周年の節目に花を添えてくれた」と感謝している。

室塚さんは広島市出身だが、1986年に行政医師として岩手県庁に勤務した経験があり、その後は外務省の一等書記官兼医務官としてアフリカなどに赴き、東日本大震災の発生後の2011年11月に栃木県那須町から水沢に移り住んだ。現在は市内の医療法人に勤務しながら、ボランティアガイドもしている。ご夫妻とも当会の会員にもなっている。石碑はお世話になった岩手への感謝の気持ちとアテルイの人徳をたたえ、市教育委員会や歴史研究家らの協力を得て、跡呂井地区の小学校と中学校に建立した。

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古代蝦夷の雄・アテルイの初の評伝が2013年10月に刊行された。著者の樋口(とも)()氏(岩手大学教授)は東北古代史の研究を専門としており、アテルイに関係するこれまでの研究でも通説を覆す有力な新説を発表してきた。本書では更に新たな研究成果が加えられ、大墓公一族における新しいアテルイ像が描きだされている。以下、順をおって著者の叙述を要約して紹介する。

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国立天文台水沢VLBI観測所(奥州市水沢区)に導入されたスーパーコンピューター(スパコン)が四月から本格的に運用を開始した。天文台本部(東京都三鷹市)から移転したもので、天文学専用のシステムとしては世界最速の処理能力を有する米クレイ社製の「XC30システム」。毎秒500兆回の計算が可能で、2014年秋には性能を倍増させて毎秒1000兆回に計算能力を高める計画。これにより、星の最期である超新星爆発や銀河の動きを再現する研究などで活躍が期待されるという。

その愛称は、「宇宙の謎に果敢に挑んでほしいとの願いを込め」(国立天文台小久保英一郎教授)、古代東北の蝦夷の英雄にちなみ「アテルイ」と名付けられた。ケースの表面にはアテルイの漢字表記「阿弖流為」をコンピューター回路に模してデザインされている。8月24日の同観測所開催「銀河フェスタ」で、施設特別公開の目玉として「アテルイがやってきた」と称して一般公開される予定。

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NHK BS時代劇 大型時代劇 オリジナルサウンドトラック 火怨・北の英雄「アテルイ伝」が2月27日に発売された(定価2,500円)。音楽を担当した川井憲次氏は多くの映画音楽などを手がけ、その評価は高くファンも多い。わずか4回のシリーズでCDとなるのは珍しいことというが、それも氏の人気と曲の出来ばえゆえからか。

CDは「阿弖流為のテーマ」に始まり、「蝦夷への思い」、「阿弖流為の悲しみ」など、最後の「復活への希望」まで全33曲が収録されている。最初に情報を寄せていただいた会員からは、「オープニングの雄大な風景に見事に調和して、迫力ある壮大なテーマ音楽でした。おおらかでスケールの大きさを感じさせる映像と共に、アテルイの心情を見事に表現されていると思いました」との感想もいただいている。Vocal(おおたか静流)の入った曲が強く印象に残るが、静かにCDを聴き、「アテルイ伝」の物語の余韻を楽しめる作品となっている。

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本年5月5日、樹齢推定千年超の滝桜(国の天然記念物)で有名な福島県田村郡三春町で三春春祭りが開催され、祭りのメインとなる時代行列に坂上田村麻呂と並んで阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)が初めて出演した。

田村郡三春町には坂上田村麻呂の生誕伝説があり、数年前からは京都清水寺での阿弖流為・母禮の法要に毎回多数の町民が参列するようになっている。その前には奥州市を訪れるなど、当会を含む関係者との交流が毎年深められており、今回は三春町から正式の要請を受け、当会会員でもある二人が出演することになった。アテルイ役には安彦公一氏(胆江日日新聞社取締役主筆)、モレ役には関口善之介氏(水沢信用金庫胆沢支店長)が扮した。アテルイの衣裳は『アテルイ伝』で大沢たかおが身に着けたものと似るデザインで斬新なものであった。奥州市からは当会会員関係者を中心に約20人のツアーが組まれた。

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1月31日の午後8時から9時まで、NHKのBS歴史館で「不屈の英雄アテルイ~古代東北の底力~」が放送された。出演は渡辺真理の司会で、東北学院大学の熊谷公男教授、「アテルイ伝」原作者の高橋克彦氏、俳優の苅谷俊介氏で、佐々木蔵之介が語りを担当している。  番組紹介には、「1200年前、平安京を築いた桓武天皇が、どうしても打ち負かせなかった不屈のリーダーが東北にいた。その名はアテルイ!朝廷は20年にわたって大軍勢を送りこんだが、勝利をあげることはできなかった。アテルイたちが強かったのはなぜか?最新の発掘や研究から浮かび上がったのは、東北の自然の中で培った驚きの戦闘能力と、広大な交易ネットワークを操る知恵。そのリーダー、アテルイの実像に迫る!」とある。

番組では、各所に「アテルイ伝」の映像を流しながら、新野直吉秋田大学名誉教授をはじめ多くの東北古代史の研究者も登場し、様々な角度からアテルイと蝦夷の実像に迫っている。

まずアテルイ軍が強かった理由について、新野氏は、朝廷軍はそもそも徴兵された農民兵が主体だったことと、蝦夷が農耕に加え狩猟採集の暮らしをしていたことから日々に戦闘能力が磨かれていたことをあげる。熊谷教授は具体的に①弓(縄文以来の狩猟)、②馬(名馬の産地、弓との結合)、③稲作(長期の戦いを支えた)の三つをあげた。

アテルイの実像については、岩手大学の樋口知志教授が、「日上乃湊」の存在等からアテルイをある時期まで朝廷側にいて「貿易の現地管理者」の役割をしていたのではないかとし、「交易を担う人物」「ダイナミックな交易の中の経済人」という新たな人物像を描いてみせた。

アテルイの降伏については、新野氏が坂上田村麻呂を信頼しての「和睦」説を、今泉隆雄氏(東北歴史博物館館長)は蝦夷勢力の「内部崩壊」説を、高橋克彦氏は「アテルイは20年間無敗だった」として「偽装降伏」説を主張した。最後に熊谷教授は、「アテルイは東北の自立を守るために戦った。アテルイは地域の自立を考える原点だ」と語った。

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本書については、『図書新聞』3103号(2013年3月23日)に、「中央対エミシの三八戦争を描く」として、堀江朋子氏(作家)の書評が掲載されている。
「三十八年戦争と呼ばれる東北騒乱を、胆沢(現水沢付近)の族長阿弖流為を中心に描いた七五七ページにわたる大著で、史実を踏まえて、史実の裏側にあったであろう様々な事象を、精密な筆致で描いている。文献資料に記載されている史実を点とすれば、点と点を結ぶ線の部分(時空)を物語として描いているわけだが、このフィクションの部分で著者の筆が冴える。...中略...知られていない部分の多い中央対エミシの争いを、説得力ある物語として伝えてくれた著者のストーリーテラーとしての才能に注目した。」との評である。

胆沢に生まれ育った阿弖流為と母礼と阿奴志己の三人は幼友達で、阿奴志己は胆沢一の豪族・伊佐西古の息子、母礼も数か村を束ねる豪族の子、阿弖流為だけが山夷の村長の子というユニークな設定。阿奴志己、伊佐西古の名はいずれも実在した人物の名前であり、空海の登場なども物語への興味を湧かせる。

宝亀元年(770年)、「同族を率いて必ず城柵を侵さむ」と宣言し、徒族を率いて朝廷側から離反した蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇の事件が史実としてある。そのなかに少年期の阿弖流為と母礼、阿奴志己、胆沢の蝦夷が深く関わっていくところから物語が始まる(第一章)。宝亀五年(774年)、海道の蝦夷が桃生城を襲撃した。宇屈波宇の軍と青年となった阿弖流為、母礼、阿奴志己が指揮する胆沢の蝦夷軍の共同作戦によるものだった(第二章)。宝亀十一年(780年)、呰麻呂が伊治城で反乱を起こし按察使参議の紀広純を殺した。阿弖流為はその頃すでに連合蝦夷軍の総大将に祭り上げられていた(第三章)。都では桓武天皇が即位し、大伴家持が鎮守府将軍に任命される(第四章)。阿弖流為らは都を見に上った。蝦夷の族長たちの微妙な意見の違いも出てくる(第五章)。延暦八年(789年)、ついに全面対決の時を迎える。有名な巣伏の戦いであるが、著者はここで知られていない作戦を導入する。日高見川の東側での戦いでは挟み撃ちにして川に追い込んだことは記録にあるが、西側を北上した朝廷軍も日高見川を東岸に徒歩で渡河させるように仕向け、上流に丸太で組んでいた堰を決壊させて多くの兵を一緒に押し流したのである。小説とはいえ、日高見川(北上川)の水量等からしてこの作戦はあまりに現実離れしているのではと首をひねった(第六章)。勝利したにかかわらず、蝦夷社会に亀裂が走る。阿奴志己は戦線離脱した。朝廷軍との二度目の戦いに蝦夷軍は大きな痛手を受けた(第七章)。胆沢は国府軍に支配され、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命された(第八章)。胆沢城の造営に着手した田村麻呂は、阿弖流為と直接話し合うため自ら蝦夷軍に捕まり、阿弖流為に「陸奥国王」への就任を提案する。阿弖流為と母礼は停戦を決め、交渉のため田村麻呂に伴われて都に向かった。桓武大王は阿弖流為に大墓公、母礼に盤具公の氏と姓を許す(第九章)。阿弖流為と母礼は清水の田村邸にいたが、都の人々は阿弖流為を悪路王と呼んだりしていた。内裏の広間で二人の処遇について議論がかわされ、桓武が意見を預かるかたちで閉会したが、桓武は必死に説得する田村麻呂に「殺せ!首を刎ねよ!」と告げる。田村麻呂は逃がすことを画策するが二人は死を覚悟する(第十章)。桓武の対応がちぐはぐなのはどうしてか。また、田村麻呂があまりに善意の人として描かれているという、堀江さんの評に同感せざるをえない。〔海象社、本体3,200円、2013年1月刊〕

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NHK盛岡放送局は、同局制作の岩手県内向けニュース情報番組「おばんですいわて」(平日の夕方放送)で、「アテルイ伝を百倍楽しむ!」を1月7日、8日、9日に3回シリーズで放送した。「アテルイ伝」がBSプレミアムで1月11日より放映されることから、その番組紹介をかねてアテルイの人物像に迫る企画。

村上由利子アナウンサーが案内役をつとめ、第1回は「アテルイ登場の舞台」で、アテルイの集落があったと考えられる奥州市の跡呂井地区の住民のインタビューなどが放送された。第2回「こうしてアテルイは英雄になった」では、当会の副会長でもある岩手大学教授の伊藤博幸氏が延暦八年の巣伏の戦いを立体模型で再現・説明。第3回「アテルイ最後の選択」では、アテルイが降伏を決意した理由を原作者である高橋克彦氏が「選択肢がないまま育った子供たちの未来のため」に決断したのだと語る。そして、「辛い生活の中で生きる被災地の人々が毅然として立ち向かおうとしている心、手をとり合い助け合っている気持ち、それはアテルイが朝廷軍と戦っていたときの蝦夷たちの結束とプライドと通じるものがある。」と結んでいた。

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本年2月号の第二特集に「東北の英雄アテルイ」が組まれている。最初に、「アテルイの日」制定記念アテルイ史跡写真コンテストで最高賞のアテルイ賞に輝いた及川庄一郎氏撮影の巣伏古戦場跡の写真(見開き2ページ)を背景に、「一二〇〇年前、朝廷軍に挑んだ男がいた!東北の英雄・アテルイ、何のために戦ったのか」の特集見出しがあり、アテルイとその戦いについての簡略な紹介がある。次に作家の高橋克彦氏が「蝦夷の誇りと将来のために...伝説の男が語りかけるもの」の題で、アテルイは何のために立ち上がったのか、そしてアテルイが日本人に語りかけるものは何かを、同じく作家の松田十刻氏が「巣伏の圧勝、田村麻呂との激闘...史料に見る実像とは」と題してアテルイの実像を探っている。ほかに、「NHKドラマ「火怨・北の英雄アテルイ伝」に見る族旗、騎射、巫女...、古代東北に生きた蝦夷たちの世界」として、「アテルイ伝」が描いたものをスチール写真とともに紹介している。【PHP研究所、H25年1月5日発行、630円】

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著者はアテルイを顕彰する会の会長で、本書は『アテルイ研究入門』(2002)、長編小説『阿弖流為』(2009)、『阿弖流為と田村麻呂伝説』(2011)に続く四冊目の著作になる。書きためたノートを見直し、出てきた疑問を史料や文献に当って解明し、まとめたものが本書という。その綿密な記述は、アテルイに関係する全般的な内容におよんでいて、著者の半世紀に及ぶ研究の集大成といってよいものである。
第一章は「アテルイの名と生誕地」について、第二章、第三章は「律令国家の北進」「宝亀七年の戦い」で、アテルイが登場してくるまでの朝廷による蝦夷征討の歴史的経過を記述、第四章の「延暦八年の戦い」から、第五章「延暦十三年の戦い」、第六章「延暦二十年の戦い」、第七章「巨星落つ」まではアテルイの戦いから降伏、処刑までの記述で本書の中心部分となっている。第八章は伝説について、第九章は戦後のアテルイ関係著作を追うなかでのアテルイ復権の動きを紹介している。

これまでアテルイを主題にして、このように全般にわたって記述された著作はほとんどなかったといってよい。今後、東北古代史を専門とする研究者が「アテルイ」についての著作を出版する企画が二、三予定されていると聞き及ぶが、当会の会長である著者がその誰よりも早く出版に到ったのである。本書は文庫版で記述も読みやすく、定価も求めやすくなっており、まずは広く読まれることを期待したい。以下、史料が少なく解明しにくいことが多いなかで、今後の争点となりそうなところを、いくつか紹介もかね見ていきたい。

まず延暦八年の戦いでは、【1】陸路からの征討と並行して海路での海岸地域の征討も行われたとする樋口知志氏(岩手大学教授)の有力な新説に歩調を合わせながら、征東大将軍の報告の中で使用された「海浦の窟宅」という語句について、「海沿いの洞窟住居」と訳したうえで、「誇張された表現であろう。筆者らの気仙地方遺跡分布調査で海岸に洞窟住居はない」と指摘する。海路の征討を推察させるに顕著な「海浦の窟宅」という語句をどのように理解するのかは重要で、まだ新説について議論の余地があるように思える。
【2】著者は「巣伏村」「日上之湊」などをはじめ巣伏の戦いの関係地について、その推定地を具体的にあげて戦いの実相をよりリアルに描きだしている。その中で、朝廷軍の北上川渡河の上陸地点として「赤生津(奥州市前沢区生母)附近」をあげて、その理由に「赤生津の人々は征討軍と交戦したという伝説がある。身を隠したという大きい石もある」という。だが、この「伝説」は、「モレの屋敷跡」などという「伝承」と同じく最近になってまとめて湧き出てきたものであり、安易に採用してよいのかという疑問が残る。

延暦十三年の戦いでは、まず「アテルイ軍は敗れ、征討軍の大勝利」になったと評価している。そのうえで、「勝った朝廷軍がなぜそのまま胆沢に駐留し、胆沢城を築かなかったのか」、さらに「勝利した朝廷軍の中から逃亡兵が出ている」ことの疑問をあげ、考えられるのは「伝染病」で、それに恐れをなして逃亡者が出たことから、軍士を駐留させ、城柵を築造することかができなかったと、著者は独自の推定をしている。

延暦二十年の戦いの章では、【1】アテルイとモレの二人が賜姓された時期を降伏した後だとする。すなわち田村麻呂が二人に「公」の姓を与えることで降伏を説得し、二人がそれを受け入れた結果だとするのである。アテルイとモレが「公姓」を受けることができる時期について、著者は宝亀七年(776)に胆沢が攻撃されてからの後は考えにくく、また、「これより以前は、アテルイは若輩であり、入朝しての調貢は考えられない」という。これまででは賜姓は降伏前という見方が多いように思うが、著者の指摘により、さらに踏み込んだ検討が必要になった。
【2】アテルイのウジ名である「大墓」については、万葉仮名で「た」「も」と読み、現奥州市水沢区羽田町(古くは江刺郡)の田茂山の田茂であるとし、その地名は『葛西真記録』に見えるように鎌倉時代より前に存在していたことを強調している。もとより、それでアテルイの時代の地名ということにはならないが、『奥羽観蹟聞老志』巻之九は「気仙郡」の「田茂山館」について「在田茂山村小沢右京者居之」と記しており、葛西家臣の「小沢右馬丞 田茂山村」(『葛西真記録』)との関係が気にかかる。機会があれば『葛西真記録』の原文を見てみたい。
【3】また、「母禮」については、「モレ」、「モライ」、「モタイ」の読みがあり、「モタイ」であれば「母体郷」(奥州市前前沢区生母)があったとし、高橋富雄氏の「盤具」⇒「磐貝」⇒イワイという考え方を「磐井郡母体」ではっきり地名と結びつくと肯定的に紹介している。

巨星落つの章では、「アテルイとモレは、田村麻呂を信じて京へ同行した。...そして突然逮捕された」とし、処刑の決定は桓武天皇の意向だとする。処刑地は河内国の植山と推定し、現大阪府枚方市宇山町だとしている。その理由として、「伝・アテルイとモレの首塚」伝説は河内国の中で宇山村以外にないことに着目すべきだとし、なぜ交野の「禁野地に近い狩猟地」で処刑したのかというと、「二人は蝦夷で獣である。狩猟地では多数の動物を殺し、血を流している。獣に祟りはない。桓武天皇がこの場所を選んだのは、そのような理由だったはずである」という。

だが、大阪大学の馬場隆弘氏は、『河内国禁野交野供御所定文』の解読から天皇の狩猟地である禁野の四至を明確にし、少なくとも天の川以北の枚方市域(東部の山間部を除く)がおよその範囲であり、宇山は禁野の中心やや西寄りに位置していると指摘している。禁野の「近く」ではなく、宇山は禁野の内にあった。また同史料から、禁野では鷹の餌を獲るための狩りと鷹を使っての狩り以外の殺生を禁じることが最も重視されていたことを示し、朝廷が自ら禁を犯し、あえて禁野を穢すような指示を出すはずがないと断じている(「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』3号、2006年4月)。

本書はアテルイ研究の現在の地平を示す画期となるものであり、これからのさらなる研究の進展を促すに意義ある一冊である。 [2013年6月刊、文芸社、740円+税]

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NHK制作の『火怨・北の英雄アテルイ伝』がBSプレミアムで本年1月11日から2月1日までの毎週金曜日に4回シリーズで放送された。総合テレビでは3月23日と30日に、大型時代劇として前編「蝦夷と呼ばれた人々」、後編「最後の戦い」に編集されて全国に放送された。これまでアテルイを主役とするアニメ映画やミュージカルはあったが、テレビ時代劇として取り上げられ全国に放送されたのは初めてのことである。出演者もアテルイ役の大沢たかお、モレ役の北村一輝をはじめ存在感のある俳優陣が並び、重厚で見ごたえのある作品に仕上がった。

原作は高橋克彦の『火怨』であるが、東北古代史の研究者が時代考証等に参画しており、内容的にも蝦夷の社会、蝦夷のアイデンティーなどについて、発想の起点をしっかりと保持した演出になった。ストーリーとしては原作とは違った展開があり、そのなかで馬と鉄を駆使して朝廷軍と対決していった展開には精神的側面からの描きかたに留まらず、当時の蝦夷社会を別の側面からも意欲的に描いていくものであった。

BSプレミアムでの第一話は「蝦夷(えみし)と呼ばれた人々」、第二話が「族長の決意」、第三話が「悲しき宿命」、第四話が「最後の願い」。6月に発売されたDVD(税抜7,600円)は、総合テレビで放送されたもので、大沢たかおのインタビューなどが特典映像として付いている。

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 10月2日にクランクイン、4日から岩手ロケが始まり釜石市、奥州市などの各地で12日までロケが続けられた。8日は奥州市江刺区の歴史公園えさし藤原の郷で、アテルイの住む村に官軍が攻め入り、アテルイらが応戦するシーンを撮影し、市民エキストラ約60人を含む約200人が参加し迫力あるシーンの収録を重ねた。主役のアテルイを演じる大沢たかおさんは取材に対して次のように話した。

-アテルイに対しどのようなイメージをもっているか。
「自然と会話ができる、自然の痛みが分かるような人間。それを意識しながら芝居をしている。」
-初のロケとなる岩手の印象は。
「どこに行っても緑や空気が澄んでいて気持ちがいい。自然とアテルイの世界、蝦夷の時代の東北の世界を演じることができる。」
-アテルイ伝には地元エキストラも参加している。
「皆楽しそうに現場にいてくれるので助かっている。皆がここの出身だということに自信を持ち、自然体で演技しているようだ。」
-岩手、奥州の方々にメッセージを。
「皆さんの期待に応えられるような、喜んでもらえるような作品にしなければならないと思っている。東北のみならず、日本全国にアテルイの存在の意味がちゃんと伝わればうれしい。」

 NHKエンタープライズの真鍋斎プロデューサーは、「東日本大震災発生後、直接的ではなくても何か復興に寄与できることはないかと考えていた時に、高橋克彦先生の作品でアテルイを知った」と制作のきっかけを語り、「今までテレビや映画では扱ったことのない時代を舞台としており、新鮮な世界になるのではないか。東北を舞台に、東北を生きた古代の英雄を描くことで、東北の方々に少しでも勇気や元気を持っていただければ」とアピールしている。〔胆江日日新聞記事より〕
 放送は来年1月11日からBSプミアムで全4回、3月に総合テレビで全2回の予定。

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 岩手県知事責任編集の岩手県ゆかりの漫画家による岩手を題材とした描き下ろしコミック。1は昨年1月に、2は2012年3月に発行された。アテルイが出てくるのは、岩手県一関市在住の飛鳥あると作「キリコ、閉じます!~奥州阿弖流為異譚~」で、根暗少女で霊能力を秘める主人公のキリコが友人の祖先であるアテルイを黄泉から現世に呼び寄せ、ストーリーが進む。阿弖流為については、「平安時代「蝦夷」と呼ばれた東北地方日高見にて朝廷軍の侵略に屈することなく戦い続けた末敗れ、処刑された陸奥の英雄」と説明され、羽黒山の慰霊碑のことがでてきたりする。〔発行:岩手県 岩手日報社〕

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 9月17日、奥州市水沢区佐倉河の巣伏古戦場跡公園で周辺の清掃奉仕とともに鎮魂祭が行われた。1935年生まれの同級生で組織し昨秋解散した親睦団体「進友会」の元会員らで、「アテルイの顕彰活動をやめるわけにはいかない」と有志が声を掛け合い9人が参加した。1時間ほど碑周辺の植え込みを剪定したり落ち葉を集めたりした後、碑の前に祭壇を設け神事を執り行った。同会元会長の佐々木勲さんは「会員の思いを若い人たちに引き継ぐことができれば」と語り、元会員は「来年も再来年も元気なうちはみんなで参加したい」と変わらぬ意欲を見せている。巣伏の戦い跡碑は平成七年に同会によって建立された。

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 9月18日、奥州市前沢区の有志で組織する母禮をたたえる会(菊地栄治会長)主催の10回目となる慰霊祭が同区生母の曹洞宗耕雲院で営まれた。同会会員ら約30人が参列、森住俊英住職の読経のなか、同会が作った位牌の前で順に焼香。前沢吟詠会の会員が詩吟「束稲山懐古」と「母禮賛歌」を奉納した。菊地会長は「耕雲院には母禮の位牌を安置する仏間も作っていただいた。これからもさまざまな人たちの協力を頂きながら、母禮の功績を後世に伝えていきたい」と話している。[岩手日日新聞記事より]
 同会は毎年、母禮の命日にあたる9月17日前後に慰霊祭を執り行っている。

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 第1巻は神代・奈良・平安時代で、~「怨霊信仰」が伝説を生んだ~の副題がついている。神代の卑弥呼に始まる23人で、坂上田村麻呂と阿弖流為が入っている。坂上田村麻呂の項では、「異民族である蝦夷の族長「アテルイ」という大英雄...」というように蝦夷=異民族とし、789年の巣伏の戦いを概説するが、征東将軍紀古佐美が「四千人の主力軍に衣川を渡らせ...」云々と、北上川とすべきところを「衣川」にしている。また田村麻呂が築いた胆沢城を「城郭都市としての城」「長安同様、人間が住む街を柵や城壁で囲んだ城塞都市」「都市そのものを城壁や柵で囲んだ城壁都市」だったとの考えを示している。いずれも誤りであろう。
 「怨霊信仰」に関わることでは、「田村麻呂が降伏してきたふたりをその場で殺さずに、京まで連行したのは命を救うためなのに、政府はふたりを殺してしまったことです。ふたりは非業の死を遂げたわけですから、本来はふたりの怨念、怨霊が祟るわけです。ところが朝廷はこのアテルイとモレの怨念や魂に対して、鎮魂をした形跡が何もないのです。...日本神話でアマテラスは、異民族と思われるオオクニヌシから「国譲り」を受け、オオクニヌシの鎮魂のために巨大な出雲大社を造りました。しかし、東北の異民族であるアテルイとモレたちを鎮魂したという形跡は全くありません。ここからわかることは、これは嫌な言い方ですが、大和民族にとって祟るのは人間であって、アテルイとモレたちを人間ではなく、動物のように見ていたのではないかということがいえるわけです。」とし、『逆説の日本史』での見解と同様のことを述べている。そして、「もっとも現在では、そういうことはあまりに酷いのではないかということで、...京都の清水寺に阿弖流為・母礼の顕彰碑が建てられています」と紹介。
 阿弖流為の項では、アテルイ、蝦夷を「彼らは間違いなく異民族だった」と強調するぐらいで、伝説に関することにはひとつも触れないてしまっている。がっかり。〔光文社、2012年11月発行〕

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 11月10日、京都清水寺境内で「阿弖流為・母禮之碑」法要が営まれた。1994年(平成6年)の建碑以来、19回目となる。主催者の関西アテルイ・モレの会(松坂定徳会長)会員をはじめ、奥州市からは及川洵会長ら当会の関係者や市民訪問団、小沢昌記市長など百余人が参列した。法要の前に京都在住の笛師森美和子さんが、東日本大震災の犠牲者の鎮魂と東北復興の願いを込めて篠笛を奉納。続いて清水寺の森貫主ら僧侶の読経に合わせ参列者全員が次々と焼香した。終了後、洗心洞で行われた懇親会で森貫主は「アテルイ・モレの碑は世界遺産清水寺の真ん中にある。みなさまの力で二十年近くたとうとしている。これからも盛り上げていきたい」と挨拶しました。

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 在京の著者は日本藝術家協会会員で「文芸復興」代表だが、岩手県北上市口内町ふるさと大使にもなっていて、岩手県との縁を深めるなかで、古代蝦夷の歴史に関心を寄せ、エミシの無念に心を添わせるようになる。本書の副題は「遥かなるエミシの里の記憶」である。序章の「被災地へ」から終章の「再び被災地へ」で締めくくるが、第一章は「石巻市と多賀城市~古代王権の東北侵攻~」、第二章は「水沢市・枚方市・人首(米里)~三十八年戦争とその終焉~」、第三章は「盛岡市・矢巾町・北上市~東北統治の衰退~」というように、古代東北(宮城、岩手)の歴史を追って、それぞれの地域を訪問、念入りに取材して詳細に叙述している。エミシに関わる歴史が著者の蝦夷への共鳴とともに伝わってくる内容である。
 アテルイについては第二章で中心的に取り上げている。「胆沢の戦いと阿弖流為・母禮-水沢」、「阿弖流為・母禮終焉の地-大阪府枚方市」、「伝説の人 阿弖流為・坂上田村麻呂」の展開。ここでは当会発行の『阿弖流為復権』(2004年)が主要参考文献として数カ所に引用されている。アテルイとモレが処刑された地と考えられる枚方市には平成24年2月に訪れた後、牧野公園の塚について東京から枚方市史編纂室(和田氏)に電話で問い合わせている。「老婦人が枚方市を訪れて夢の話をしたというのは、本当ですか」、と私は質問した。「ええ、それは、事実です」、「その内容も?」、「大体は、そのようですが、伝えられていくうちに、尾ひれが付いたりもしたのでしょう。それに、老婦人が拝んだ石は、昭和二十年代に、ここに運ばれてきたもので、昔からあったわけではないのですよ」、「その老婦人はご存命で?」、「いや、亡くなられています。三十年も前のことですから」。誠実そうな年配の男性の声音に、戸惑いの気配が感じられた。「アテルイ・モレの塚と確定はできないのですね、埋め墓ではなくて、参り墓ですね」、私は云った。「そうです、ここを、二人の塚と確定する資料が見つからないかぎり、市として碑を建てることはできないのです」、と少し和んだ声が返ってきた。
 そして堀江さんは、「おばあさんの夢、いいなあ。しみじみと思った。塚の特定はできなくてもいいじゃないか。参り墓で充分である。阿弖流為・母禮は、きっと成仏できただろう。」と云う。本当にそのとおりである。「埋め墓」と「参り墓」、学問的な定義云々抜きの字句通り、牧野公園内の塚はアテルイとモレの「参り墓」として、これからも堂々とあり続けてよい。おばあさんの夢、アテルイへの思いから始まって大事にされてきた塚であり、アテルイとモレが処刑された枚方にあって唯一「参り墓」としての年月を積んできた塚であるのだから。 〔図書新聞、2012年5月発行〕

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 奥州市水沢区の第8回アテルイ歴史の里まつり(跡呂井町内会主催)は9月9日(日曜日)、同区神明町の神明社境内などで行われた。3年毎の開催だが、昨年は東日本大震災があり自粛し今年の開催となった。
 祭りは午後1時から「アテルイ王千二百年祭記念碑」の前で始まり、主催者を代表して阿部勝アテルイ歴史の里振興会長が挨拶、安全祈願、拝礼などの後、アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列が勝ち鬨と煙火打ち上げを合図に出発。アテルイに扮した奥州市の佐藤孝守教育長、モレ役の住民代表が馬にまたがり、その後に約五十人の吹流し・弓隊・槍隊が続いて約三キロの区間を二時間にわたって練り歩いた。境内では町内会婦人によるアテルイ音頭の奉納、そのあと他二か所で披露。子供神輿も運行され町内を一周した。
 武者行列の趣旨は次のとおり。「わが「跡呂井」の地名は、八世期後半にこの地を治めた族長「アテルイ」から由来すると言われ、住む者の心に"アテルイのふるさと意識の絆と共通の誇り"を培ってきました。アテルイは、朝廷軍と十年にわたる郷土の守戦を果たし、時の征夷大将軍坂上田村麻呂に副将モレと共に降伏、上京。田村麻呂の助命嘆願も叶わず斬刑となり、今は大阪府枚方市に眠ると言われます。平成6年、田村麻呂ゆかりの京都清水寺にアテルイ・モレ顕彰碑が建立され、讃えられています。アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列は、延暦八年(789年)に紀古佐美征夷大将軍が率いる5万余の大軍を巣伏(現在の四丑付近)の戦いで、わずか一千余の兵でうち破った故事を再現したものです。このことを子孫に伝承することにより、ふるさと連帯意識を深め、更なる地域の振興を図るものです。」

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 9月8日(土曜日)奥州市水沢区羽田町の羽黒山出羽神社境内の阿弖流為・母禮慰霊碑前において行われた。阿弖流為・母禮を慰霊する会が主催し、当会も参加した。主催者を代表して小野寺一雄会長が「古代の英雄たちの偉大さを次世代に語り継ぐためにこの地に慰霊碑を建立した。ここが皆さんに親しまれる場になることを目指し顕彰活動を続けていきたい」と挨拶。来賓の小沢昌記奥州市長は「時空を超えて伝えなければならないこと、次の世代に引き継がなければならない大切な思いがあると、この碑を前にすると思ってしまう。これからも二人が示したものを引き継いでいく会であってほしい」と呼び掛けた。清水寺の森清範貫主も参列し祝辞を寄せた。

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 NHKは9月2日、古代東北の英雄アテルイの生涯を描く『火怨・北の英雄アテルイ伝』の制作を発表した。「東北を平定しようと北へ攻め上る朝廷軍の襲撃に、命を捨てて一族の未来を救った古代東北の英雄・阿弖流為(アテルイ)の生涯を、空前のスケールで描く歴史冒険巨編」で、かつて不屈の魂をもって東北を守った陸奥の英雄を描くことで、生きている「東北の人たちへの応援歌」を目指すという。【原作】は高橋克彦氏の『火怨・北の耀星アテルイ』。【脚本】西岡琢也。【音楽】川井憲次。10月に岩手県でクランクインし、来年1月にBSプレミアムでBS時代劇として全4回(各43分)の放送、3月に総合テレビで大型時代劇として全2回に編集して放送する予定。
 主演のアテルイ役には大沢たかお(44歳)が抜擢された。大沢さんは、数多くの映画やドラマに出演する実力派俳優で、2009年11月から22話にわたって放送されたTBS日曜劇場『JIN―仁―』で主役を演じ、高視聴率とともに高い評価を得た。大沢さんをとりまく主な出演者は、アテルイの妻(佳那)に内田有紀、父(阿久斗)に神山繁、母(海浦)に江波杏子、兄(阿真比古)に石黒賢、妹(阿佐斗)に高梨臨。アテルイと共に戦う参謀役の母礼に北村一輝、呰麻呂に大杉漣、女戦士(古天奈)に伊藤歩、志波の族長(波奴志己)に西宮徳馬。他に豪族(大伴須受)に原田美枝子、坂上田村麻呂に高嶋政宏、桓武天皇に近藤正臣、という豪華な顔ぶれとなった。
 【ストーリー】奈良に大仏が作られ、都が今の京都に遷されようとしていた頃、東北には朝廷から" 蝦夷"と呼ばれた民が暮らしていた。蝦夷は独自の文化を持ち自然とともに平和に暮らしていたが、その威光を広くあまねく行き届かせようとする朝廷によって、彼らの平和が脅かされようとしていた。故郷の地を、そして民たちを守るために立ち上がった一人の若者がいた。胆沢(現在の岩手県奥州市) に住むアテルイである。アテルイは仲間のモレとともに、圧倒的な兵力を誇る朝廷軍に果敢に挑んでゆく。幾度かにわたる戦いの中で、土地は荒れ、仲間の多くを失ったアテルイは、次第に争いそのものに疑問を抱き始める。人間としての葛藤を抱き、悲しみを背負いつつ、なおも戦いへと向かうアテルイ。そして、最後の戦い。朝廷軍最高の司令官である宿敵・坂上田村麻呂との決戦の幕が切って落とされる。

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 今年の青森ねぶた祭の最高賞である<ねぶた大賞>に、サンロード青森の『奥州平泉の栄華 阿弖流為と清衡』(作:千葉作龍)が選ばれた。大賞作品は、阿弖流為と藤原清衡がにらみ合う姿を通して東日本大震災の鎮魂と復興への励ましを表現したものという。アテルイを作品とした大型ねぶたは、大賞を受賞した同じサンロード青森が2004年に『北の炎 阿弖流為』(作:千葉作龍)として初めて取り上げて出陣したことがあったが、その時は受賞に到らなかった。また、第二位に相当する知事賞にはJR東日本ねぶた実行プロジェクトの『東北の雄 阿弖流為』が選ばれ、制作した竹浪比呂央さんが最優秀制作者賞も受賞した。今年の青森ねぶた祭りには22台の大型ねぶたが出陣したが、最高賞と第二位にアテルイを取り上げた作品が入ったことは実に喜ばしく、まさに快挙。
 青森ねぶた祭の最高賞は1962年から<田村麿賞>としてきたが、坂上田村麻呂は東北地方から見れば征服者であり、また、坂上田村麻呂が青森まで来たという史実もないことなどから、1995年(平成17年)に<ねぶた大賞>に名称を変更したという経緯がある。

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 福岡県立大学の岡本雅享准教授が、大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター『アジア太平洋レビュー』第8号(2011年11月発行)に、「アテルイ復権の軌跡」を詳細に紹介しつつ、それを主導した人々の思いを探り、その意味したものを明らかにしようとした論文を発表している。以下の目次から、その内容もある程度推察できよう。

1.エミシをめぐる自意識と他者認識
 (1)民族国家の形成とエミシ
 (2)矛盾する自己認識
 (3)中近世から近代日本における他者による奥羽・東北観
2.アテルイの戦いと悪路王の伝説
 (1)ヤマトの侵略とエミシの抵抗
 (2)東北の鬼と悪路王の伝説
 3.東北「熊襲」発言事件にみる現代日本のエミシ観
 (1)大阪商工会議所会頭がもらした畿内人の東北観
 (2)東北人の怒り
 (3)再生産される東北人蔑視観
4.エミシの末裔という自意識
5.アテルイ復権を導いた人々とその思い
 (1)一力一夫河北新報社長
 (2)「延暦八年の会」と「アテルイを顕彰する会」
 (3)関西アテルイ顕彰会
 (4)映画「アテルイ」と鳥居明夫・シネマ東北社長
 (5)アテルイ復権をめぐるその他の動き
6.東北の風土が育むエミシ民族

 このなかでは、当会の初代会長である故藤波隆夫氏の話をはじめ、「アテルイ復権は運動によらなければならない」という2002年の当会の声明、さらにそれは「中央から押しつけられた一方的な歴史観をはねのける運動」であるという及川洵現会長の言葉なども紹介されている。そして、「エミシの復権を全国にアピールする原動力となった民間団体が、胆江地域の「延暦八年の会」や「アテルイを顕彰する会」である。」との評価を受けている。筆者は最後に、「勝者の描く歴史によって、アテルイは歴史の中に埋もれ、命を賭して自分達の国を侵略者から守ったエミシのリーダーたちは、田村麻呂の英雄伝説が流布される中、逆賊、悪者として、民間伝承の中では鬼にまで貶められて、語られていった。東北人は、勝者の描く歴史を史実と思い、故郷を守った祖先の英雄を、悪者、鬼として語り継いできたのである。だからこそ、東北が中央への従属を断ち切り、誇りをとり戻すためには、「日本」の歴史の中で賊と蔑まれたアテルイを、祖先の英雄として評価しなおす作業が必要だったのである。アテルイ顕彰・復権運動には、東北人の中に醸成されてきた負のイメージを払拭する願いが込められていたともいえる。」とまとめている。

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 当会会長でもある及川洵氏が、一昨年に小説『阿弖流為』を出版したのに続き、今回は伝説をまとめた。第一章 蝦夷とはなにか、第二章 蝦夷と国家の対立、第三章 各地に残る伝説、第四章 奥浄瑠璃『田村三代記』を読む、第五章 田村麻呂と討たれた者たち、からなる。著者は「あとがき」で、田村麻呂の伝説は多く取捨選択に苦労するほどであったが、阿弖流為と母禮には伝説がほとんどなく、蒐集できなかったので、考古学の情報や周辺の事情から二人に迫ろうとした。と述べている。第一章の五に、阿弖流為は何を食べたか。第二章の二に、阿弖流為・母禮の降伏と処刑。四に、伝アテルイ砦の調査。第三章の二に、阿弖流為・母禮の伝説。の項目がある。最後に、「田村麻呂はその薨伝や伝説、多数の関連寺社から確かに偉大な人物であったといえる。その田村麻呂と二度にわたり戈を交えた阿弖流為と母禮をどう評価すべきなのだろうか。朝廷の野望を挫こうとした蝦夷の英雄と考えるべきか、それとも胆沢の人々に対し戦いの苦痛を与えた無謀な領袖と見るべきなのか、判断は読者に委ねたい。」と結んでいる。〔胆江日日新聞社、2011年5月発行、1,600円〕

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 著者のペンネームの千尼田はアイヌ語で「夢」を意味する言葉。著者は1961年生まれで、高校時代にアテルイを知り、大学時代に本稿の執筆に着手し書名も筆名も決めたが中途で断念、平成20年に再着手し平成22年にようやく完成して出版に至った。上巻の帯に「蝦夷の盟主(大将)の阿弖流為は坂上田村麻呂の大軍を胆沢で迎え撃つ!蝦夷は山の掟を守り、狩猟の暮らしをしていた。そこに和人が大軍で押し寄せる。阿弖流為は故郷、胆沢を和人から守るべく立ち上がる。」と書かれている。蝦夷は狩猟の民で、大将はアイヌ語でシカリであり、和人との対決という小説の基本構図である。そして胆沢の合戦においては、延暦8年の最初の戦いは蝦夷側の大勝利、続く延暦十三年の戦いは史実を変え、和人の遠征軍が胆沢に踏み込まずに終ったとし、三回目の延暦二十一年の戦いを最終決戦として小説の中心に据えて描いている。上下巻の半分以上がその戦いの布陣、展開、戦闘シーンなどで占められていて、なかなかの迫力がある。最後に、阿弖流為が田村麻呂と和議交渉し上京を申し出、入京後には投獄され斬刑となるのだが、この経過は著者が最も考え抜いたという部分でもあり、説得力もある。達谷窟の悪路王伝説(姫待瀧伝説)に関連して鬘石や和人の姫をストーリーに登場させることも忘れていない。〔文芸社、2010年11月発行、上下巻3,150円〕

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 本の帯に、蝦夷の末裔が伝える田村麿の裏切りと闇の王国の秘祭とは?奥羽山地を舞台に、中央と辺境、日米関係の今を照射する新アテルイ伝説。とある。岩手県内の寺から毘沙門天立像が何者かに持ち去られ、一夜明ければ無事に戻るという奇妙な出来事が相次ぐ。~毘沙門天は、「先住民攻略の尖兵」として将兵らから軍神と奉られ、蝦夷から見れば「血ぬられた侵略者ヤマトの象徴」で、田村麻呂はその化身と崇められた。さらに著者は「全ての邪悪な存在の象徴」とまで言う~。そして、その日はいずれも旧暦の八月十三日で阿弖流為の命日にあたっていた。阿弖流為を祖とする蝦夷の末裔の集落が、過疎化が進み3家族9人となって奥羽山地最深部の山襞に隠れてあった。そこでは、「阿弖流為はヤマトに謀殺された。罠にはめた謀略の主役は田村麻呂だ」と代々言い伝えてきた。毘沙門天の持ち去りは「ヤマトに謀られた遠祖阿弖流為の真実を世に問いたい」ということであった。その集落の秘儀は、「忘れはせぬぞ怨み千年」を唱え、首で截ち切られた毘沙門天の頭に木槌をそっと打ちおろす「お叩き」と呼ぶ儀式であった。復讐を諦め、千二百年もの間叩き続け、「お叩き」で阿弖流為の受けた辱めを伝えてきたのである。著者は元朝日新聞社記者。〔朝日クリエ、2010年10月発行、1,890円〕

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 奥州市の駒形神社は、駒ケ岳山頂の駒形神社奥宮の老朽化が進んだことから、前社殿を解体し、新社殿の造営工事を行った(8月1日竣工)記録を記念冊子とした。山下明宮司代務者は、冒頭の「式辞」でアテルイについて次のようにふれている。「千二百年ほど前の坂上田村麻呂の北勢の成果は、胆沢城を築き、蝦夷の指導者アテルイに無血の降伏をさせたことでしょう。田村麻呂はアテルイに東北経営の力となるよう京に帰還した際訴えましたが、公家らに認められずアテルイは処刑されたのでした。また、田村麻呂は、東北が平定できたのは駒形大神様のご神徳によるものと、神階の昇格を何度も上奏しておりました。その結果、延暦二十一年(西暦802年)神階を得、仁寿元年(西暦851年)に正五位下、貞観四年(西暦862年)に従四位下に進み、東北地方で最高位の神階に昇格したのです(『文徳天皇実録』)。みちのくの平穏を見守ってきた駒形神社の神階の昇格はせめてものその地で生きてきたアテルイの慰霊になったのではと思います。」〔陸中一宮駒形神社、2010年9月発行、非売品〕

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 八世紀中頃の黄金発見に伴う中央政界の権力抗争と蝦夷たちの戦いを描く歴史巨編で、第一弾【立志篇】(1995年12月)に始まり【大望篇】【天命篇】【風雲篇】と続いたシリーズ第五弾の完結篇。陸奥の黄金を求めて牙を剥く朝廷に対し、多賀城に仕えながらも蝦夷の楽土の建設を願う伊治鮮麻呂がついに起ち上がり、若き阿弖流為も登場する。このシリーズの次の展開は、『火怨~北の耀星アテルイ』に連なる。
 伊治城を預かる鮮麻呂は、蝦夷に対する理不尽な討伐が避けられない事態になるなかで、陸奥守で按察使の紀広純と道嶋大楯が伊治の城に来るという好機に反逆を決意する。そして、すべての蝦夷をひとつにまとめるために、胆沢を治める阿久斗と息子の阿弖流為に援軍を求める。阿弖流為は「わずか十やそこらのとき田村麻呂に馬の駆け競べを挑んだほどの怖い物知らず」であり、すでに「蝦夷一の強者」との評判で、胆沢中に勇名が響き渡っていた。決起の日、阿弖流為と副将の母礼が150の胆沢の兵を率いて伊治城外で果敢な戦いを繰り広げる。目的を達した鮮麻呂は最後に、「人とは...次の時代に繋がる橋を渡すために生まれてきたのだ。それを自分は果たした。自分が架けた橋を阿弖流為たちが渡って行くだろう。その先の大地は阿弖流為たちが切り拓く。たとえ自分がこの目で見られぬとて、それでいい。爽やかに吹き抜けてこそ...風である」との境地に。〔PHP研究所、2010年9月発行、1,890円〕

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 前東北歴史博物館館長の編者が、東北古代城柵と官衙遺跡についての現段階の成果をとりまとめたガイドブックで、第1章古代城柵の沿革、第2章陸奥国の城柵と官衙遺跡、第3章出羽国の城柵と官衙遺跡、からなっている。第1章(2)奈良・平安時代の城柵で、伊藤博幸氏(奥州市埋蔵文化財調査センター所長)が「5蝦夷の反乱」を執筆し、アテルイ登場前の蝦夷反乱から「胆沢の合戦」「田村麻呂の登場」「阿弖流為の降伏」について見事なまでに簡潔に記述している。「胆沢の合戦の蝦夷側の勝利は、七八九年の巣伏村の戦いである。大墓公阿弖流為らのゲリラ作戦が功を奏し、紀古佐美将軍率いる政府軍を完膚なきまでに破ったことである。」〔高志書院、2010年9月発行、2,625円〕

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 著者は歴史作家で、大胆な推理で数多くの著作がある。著者は、蝦夷征討の第一の目的は律令制度を広め、領土を拡大することにあったとしつつも、その裏側には「蝦夷とも関係をもっていた」大伴氏に「東」を討たせることにより、両者の力を徐々に削いでいった藤原氏の策謀があったとする。そのうえで、「阿弖流為の恭順を引き出したのは坂上田村麻呂であったが、この人物は蘇我氏の懐刀・東漢氏と同族であり、やはり藤原氏にとっては油断ならない氏族であったろう。けれども、藤原氏がほぼ朝堂を支配した平安時代、かつての「親蘇我系豪族」「親東国政権の末裔」たちは、生き残りのために人並み以上に手柄をあげねばならぬ宿業を負っていく。坂上田村麻呂の鬼神のような活躍は、反藤原派豪族の苦悩の裏返しであり、彼らの葛藤、その無念の思いはわれわれの胸を打つ。その一方で、坂上田村麻呂は「せめて、蝦夷の恭順を引き出し、両者が共存する道を探りたい」と願ったにちがいない。そして阿弖流為は、坂上田村麻呂が、かつての「親東国政権の末裔」だからこそ、説得に応じたのだろう。けれども都で阿弖流為を待っていたのは、藤原政権の非情な仕打ちであった。」と推理している。また、著者がもし東北歴史博物館の館長になったら、次の日からホームベージを書き換えるという。「東北人にとっての本当の「戦後」とは、阿弖流為が都で処刑されたあとを指すのであります。つまり、博物館の名称を「阿弖流為顕彰館」にあらためましたのは、東北人の矜持であります。憤怒であります。都人、都の貴族に対する、いまだに消えぬ怨念なのです。...」 〔ポブラ社、2010年5月発行、1,470円〕

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 全35ページの内、大部分の26ページが「マンガ古代の英雄対決」(細雪純、シナリオ北島ヒロ)で、坂上田村麻呂とアテルイの「対決」を描いている。田村麻呂が副将軍となった第二次征討における場面を中心に、田村麻呂とアテルイのそれぞれの立場からする思いをかけた「対決」が繰り広げられる。史実では朝廷軍の圧勝に終ったとみられるのだが、その戦いには触れず、田村麻呂の説得とアテルイの主張のやり取りがなかなかの内容となっている。田村麻呂は戦いの勝利を前提に、「小岩が立ちはだかったところで大河の流れは止められぬ...」、「勝手は承知だ」、「故郷の地を荒らされた怒りがわからぬではない」とまで踏み込み、「だが、このままでは蝦夷の最後の一人まで滅ぼし尽くさねばならぬ」、「生きるべき者をその背に乗せ、破滅に向かい走り続けるというのならば...おまえをここで斬り捨てでも止めてみせる...」と語る。数年後、胆沢を占拠されたアテルイは降伏の道を選ぶ。〔朝日新聞出版、2010年12月発行、490円〕

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 劇団わらび座は来年(平成23年)4月から創立60周年を記念してミュージカル「北の燿星アテルイ」を10年ぶりで再上演する。来年は平泉の世界遺産登録再挑戦の年であり、朝廷と蝦夷の戦い、いわゆる宝亀五年(774)の海道の蝦夷による桃生城襲撃に始まるとする「三十八年戦争」が終焉して1200年の記念年にもあたることから、「アテルイ」の再演を通じて、みちのくの力とロマンを全国に発信する。5月14日、岩手県や関係団体は全県実行委員会(高橋克彦会長)を立ち上げた。発足会は盛岡市内のホテルで開かれ約30人が参加し、わらび座劇団員によるアテルイのテーマソング「日高見、わがまほろば」の披露、意見交換などが行われた。会長に就任した高橋克彦氏は「大地に根を張り、力強く生きてきた東北人の姿を全国の人たちに伝え、新たな東北の創世につながることを願う。今一番の願いは、再演する「アテルイ」を若い世代に見てもらうこと」と挨拶した。ミュージカル「アテルイ」は盛岡市の作家高橋克彦氏の『火怨』が原作で、朝廷の侵攻に立ち上がった蝦夷の若きリーダー、アテルイの物語。アテルイ没後1200年を控えた2001年(平成13)8月から3年にわたり全国各地で上演され、大きな反響を得た。再上演される「アテルイ」は、坂上田村麻呂の人物像を再構築し、アテルイに感化され変わっていく姿をより深く描くという。また、人間としての生き方を真正面からぶつけるアテルイの姿は「蝦夷の誇り」を超え、「人間の誇り」を現代社会に問いかけるものになるという。今回は若手を中心にキャストを一新し、新曲も登場する。アテルイ役には、初演でアテルイの片腕ヒラテ役を演じた戎本みろ(40)が務める。戎本さんは「以前の公演で、岩手の皆さんに熱く迎え入れられたことがずっと忘れられなかった。このほとばしる思いを原動力に、アテルイ役に臨みたい。ミュージカルアテルイを輝きにあふれた、燃えるような公演にし、みちのくの魂を全国に発信していきたい」と話している。来年1月から稽古をスタートし、4月10日の秋田県仙北市のわらび劇場での公演を皮切りに全国上演される。岩手県内では5月中旬から各市町村や学校で公演する予定。

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 不撓不屈!!歴史アドベンチャーシリーズ第4弾!伝説の猛者「アテルイ」を追いつめた真実とは?とあり、表紙カバーには悪路王首像の写真。裏には「失踪していた諒司に助けを請われ、甲斐は岩手・水沢へ向かった。無事の再会を喜ぶ間もなく、甲斐たちは敵の手に落ちた「出賀茂神社社伝」奪還計画を練る。一方、蝦夷の指導者・アテルイの降伏に疑念を抱いた甲斐は、信じがたい歴史的捏造と自らに関わる衝撃的な共通点に気づいた。傷ついた甲斐を救うのは...」とある。その疑念とは、(1)アテルイたちは本当に降伏したのか?(2)何故アテルイとモレは田村麻呂に従って京まで行ったのか?田村麻呂はどうして降伏した彼らの首をその場で刎ねなかったのか?(3)田村麻呂はアテルイたちを京に連行したら、彼らの運命がどうなるかということを分からなかったのか?というもの。講談社ノベルズ。2009年7月発行。945円。

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【第19回アテルイ杯中学サッカー大会】平成21年10月10~11日、奥州市のふれあいの丘公園を会場に開催された。一関選抜、花巻選抜、和賀地区選抜、FCみやぎ、など8チームが参加し、胆江3年選抜チームが3位トーナメントで宮城県の多賀城FCチームを決勝で破った。
【第2回アテルイ杯少年サッカー選抜大会】平成21年11月7~8日、奥州市のふれあいの丘公園を会場に開催された。小学校6年では5チームが参加し、北上地区選抜が3勝1分で優勝。5年生も5チームが参加し、花巻市選抜U11が4勝で優勝した。奥州トレセンは6年で4位、5年で3位だった。
【ラクビー第26回東北クラブ選手権大会】平成21年11月22日、大会の決勝が秋田市八橋陸上競技場で行われ、岩手県代表の奥州アテルイR・F・C(高野栄仁監督)が青森県代表の青南クラブを50対10で下し、昨年の準優勝から今年の初優勝に輝いた。
【第10回アテルイの心と輝き陶芸展】平成21年11月27~29日、奥州市水沢区羽田町の社会福祉法人愛護会の千養寺焼陶芸館が主催し、同区のめんこい美術館で開催された。同会が運営する保育園の園児や知的障害者更生施設の利用者、一般市民らが陶芸教室で制作した花瓶、茶碗、皿など400点余の作品が展示された。いずれも東北最大級とされる四連窯で焼き上げられたもの。
【第8回アテルイ杯囲碁大会】平成21年12月23日、奥州市胆沢区のアタゴ囲碁センターで開催され、A級では安倍雅章7段が、B級では佐藤悠太初段が優勝した。
【水沢競馬アテルイ杯】平成22年1月10日のメーンレースが奥州市職員奥馬の会会長杯のアテルイ賞。C1クラスの1600m戦で、9頭が出走した。
【少年相撲「アテルイ部屋」が慰問】平成22年3月13日、奥州市水沢区の市立常盤小学校児童を中心とした少年相撲のアテルイ部屋が同区の特別養護老人ホーム福寿荘を訪れ入所者を喜ばせた。毎年この時期に行っている恒例行事で、園児から小学6年生までの11人が基本稽古や土俵入り、年齢別の取り組みを元気いっぱいに披露した。

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 胆江日日新聞の安彦公一編集長の連載コラム『穏やかな時間』(平成22年2月26日付)は、「ライバルについて」をテーマとし、そのなかで自身がNHKの番組ロケでアテルイ役を演じた体験を交えながら書いている。その部分を抜粋して紹介する。はや20年ほども昔になる。NHK総合テレビの番組に「ライバル日本史」というのがあって、「アテルイ」と「坂上田村麻呂」を取り上げた。そのロケ隊が胆沢城跡にやってきた。その日は大雪だった。「地元にアテルイ役はいないか」ということになって、白羽の矢が立った。どうせ、体が大きく、ヒゲ面がその安易な選択の理由だったのだろう。が、そのロケの内容も聞かずに、出ることにしたのが間違いだった。テレビでは、大雪の中、胆沢城跡でアテルイ降伏のシーンを撮りたい、という。が、アテルイが胆沢城の坂上田村麻呂を訪ねて降伏したのは、夏のことだ。しかも、当時は「ワラジ」をはいているはずもないのに、「当時の沓がないので、ワラジにしましょう」とワラジで雪の中を歩くはめになった。当然のことながら、ワラジに防水、防寒機能などのぞむべくもない。足を雪に入れた瞬間、足が凍りついたかと思った。その上、ひざまづいて、雪の中に頭を突っ込まなければならない。それだけでもいいかげん頭にきていたのに、かのNHKの看板アナウンサー三宅さんが、何度もとちって、テイク6までいった。そのつど、雪の中を歩き、ひざまづき、雪に頭をつけるのを繰り返した。
 史実に遠いことを演じさせられている不満と、寒さで散々だったが、せめてもの救いが、衣装の女性の言葉だった。「この毛皮は、『炎立つ』のとき、里見さんが着けたんですよ」。里見浩太朗といえば、いまでは「水戸黄門」を演じている時代劇の大スターだ。で、周囲には今回の出演をこう言うことにした。「NHK主演俳優」。せりふも共演者もなかったが、アテルイ役を演じたことは間違いない。一方のライバル役、田村麻呂はどこにもいない。誰か、雪の中に立っていてくれるだけでも、こちらは迫真の演技ができたのに...。こんなことを言ってはなんだが、アテルイと田村麻呂は、そもそもライバルでもなんでもない。「敵」である。たまたま田村麻呂は、アテルイを評価し、胆沢の統治に用いようと助命を嘆願したし、おそらくは「友情」に近い感情も芽生えてはいたのだろう。が、二人の関係は肉食獣と馬と同じだ。アテルイの戦いは、仲間の離反との戦いでもあった。最終的には、統率力が問われた。アテルイにとってのライバルはむしろ、エミシの中にこそいた。(以下、略)

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 地元の胆江日日新聞は、毎年十二月にその年に亡くなられ地域に貢献された方々について、その功績をたたえ、紙面「追悼碑」として特集している。当会の初代会長の故藤波隆夫氏(84歳)については「関西との絆づくり」の見出しで掲載されている。以下、全文を紹介する。
 ほとんどの人が「アテルイ」の存在を知らなかったころ、史書にある「河内国植山(杜山)」の処刑地特定に向けて現地に足を運んだ。四半世紀以上も前になる。河内一宮・片埜神社がある大阪府枚方市の一帯だ。枚方市教育委員会は、アテルイといっても返事もしてくれない。周囲に聞いても誰も知らない。「アテルイの塚」が建てられた現在の状況とは大違いだ。同じころ、大阪でもアテルイ顕彰に熱心な人たちがいた。故高橋敏男さんを中心とする「関西同郷会」のメンバーだ。大阪・枚方が熱心でないことを知ると、ただちに京都・清水寺に話を持ちかけた。藤波さんとともに、京に上った。同郷会との間で建立場所の選定なども話し合った。「観光客の邪魔にならないよう、あの境内の奥の方でもいいのではないか」藤波さんが遠慮がちに言った。こちらもうなずいた。ところが、清水寺が「どこでもよろしいですよ」と言った。「どこでもいい」といわれて言葉の真意をはかりかねていたら、「さすがに、開山堂の前(入場口近く)だけは、勘弁してもらいます」と言って清水の大西真興執事長が笑った。それが現在の清水の舞台の真下に決まって驚いた。「黒石寺の執事長」と声をかけたら「大西さんみたいに言うな。おれは掃除専門の寺男だ」と言った。今日のアテルイ顕彰は、藤波さんが掘ったその基礎の上にある。「いまどきは、新しくつくるのは何ほどのこともない。だけど、長く守るというのが難しいんだ」。長く病気療養していたが、境内のせみ時雨を待たずに不帰の客になった。まさに、古きを守るために尽くした人生だった。水沢区黒石町=平成21年5月28日没

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【清水寺<阿弖流為・母禮之碑>法要】平成21年11月14日、関西アテルイ・モレの会(松坂定徳会長)の主催により法要と直会が行われた。地元奥州市からは「アテルイ京都・清水法要の旅」のツアーが組まれ、当会の及川洵会長をはじめ、幹事他会員、関係者等が参加した。
【講演会「阿弖流為と母禮」】平成21年11月3日、奥州市前沢区の母禮をたたえる会主催による文化の日記念講演会が前沢ふれあいセンターで開催され、当会の及川洵会長が「阿弖流為と母禮」と題して、遺跡などの発掘成果などを交えながらアテルイとモレについて話した。
【長編アニメ「アテルイ」上映会】平成22年3月7日、奥州市埋蔵文化財調査センター主催により、同センター研修室において「まいぶん映画上映会」として開催された。フィルマズ・アテルイが協力した。

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 平成22年3月9日に実施された岩手県の公立高校入試問題文中にアテルイに関する記述がある。社会の問題で、「次の資料は、中学生が「岩手と中央の歴史上のかかわり」というテーマで調べて作成したものです。これを見て、下の問いに答えなさい。」というもの。資料は、「桓武天皇の政治」という項目で、「現在の奥州市を中心とする蝦夷の長であるアテルイが、東北地方に支配を広げようとする(1)朝廷から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の軍と戦った。」とあり、この下線部(1)について、次のア~エのうち、この時期の朝廷が政治を立て直すために行ったことはどれですか。という問いになっている。ア、全国の戸籍をはじめてつくった。イ、国ごとに国分寺や国分尼寺を建てた。ハ、現在の京都に新しい都をつくった。ニ、能力や功績によって12段階の地位を定めた。さて正解はどれ。また、2月21日に実施された一関工業高等専門学校の入試問題にもアテルイが取り上げられている。「朝廷による支配の拡大に対して、東北地方の蝦夷たちがアテルイ(阿弖流為)を中心に激しく抵抗し、戦乱が拡大した。これに対処するため、朝廷は坂上田村麻呂をに起用して蝦夷の平定を命じた。そののち田村麻呂は胆沢城を築いてアテルイらを降伏させた。」とあり、空欄にあてはまるものを選ぶもの。

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 水沢区佐倉河地区振興会などの主催による「鎮守府胆沢城にかかわった人々」をテーマとする歴史講座が、平成21年7月2日より奥州市埋蔵文化財調査センター研修室を会場に始まった。初回は同調査センターの伊藤博幸所長が「アテルイが戦った将軍たち」をテーマに講義。「朝廷の征夷なくしてアテルイというカリスマ的指導者は現れなかった」と強調した。

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 奥州市水沢区羽田町の伊藤流行山鹿踊りは、平成16年の清水寺のアテルイ法要に参加し奉納するなど積極的な活動を続けている。今年の阿弖流為・母禮の慰霊祭においても奉納の鹿踊りを披露したが、なかなか聞き取りにくい口上の内容が文書で配布されたので紹介する。

アテルイの 御魂を迎えむ 羽黒山 月日を今は 日高見ぞ見ゆ後の世を 祈りをかけし
アテルイの 生々流転 誇りひとすじ はろばろと この世のちの世 アテルイの 深き誓いの いのち生きをり
アテルイの 誠の道よ 後の世へ 人は情けの 徳に花咲く アテルイの 御霊安らぎ くもりなき 風ぞ吹きぬる 羽黒山かな 

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