情報289 阿弖流為・母禮顕彰碑の説明文を多言語化

関西アテルイ・モレの会(和賀亮太郎会長)のホームページの「研究員便り」に、清水寺に建立した阿弖流為・母禮の顕彰碑の裏面に記した説明文の外国語版が掲載されている。
言語は、英語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ヒンディー語、韓国語、インドネシア語と多言語にわたる。

同会研究員の高橋正吾氏(兵庫県尼崎市在住)の発案によるもので、翻訳には京都大学などに留学する外国人学生などが協力しているが、翻訳協力者はいずれも京阪神在住の二十代の若者たちで、
「何か役立ちたい」「日本の文化・歴史を体感したい」
という外国の若者たちが多いのにはビックリだという。

高橋氏は、
「清水寺に限らず、今や京都・関西の観光地は中国や韓国、台湾をはじめとするアジア各地、欧米からの観光客で連日にぎわいを見せています。
せっかく訪れる外国人へも、我が故郷の蝦夷の歴史、アテルイ、モレの物語の一端を知っていただこうというのが大きな狙いです。
蝦夷・アテルイ・モレの認知度の国際化、世界への拡散です。
いずれ、冊子化(パンフレット)にして、顕彰碑の前で興味・関心をもっていただける方に配布したいと考えています。」
としている。

今後さらに、ベトナム語、タイ語、ロシア語、アラビア語などへの翻訳が予定されているようだ。
意義のある仕事であり、応援したい。

ちなみに、碑裏面の建立説明文(原文)は次のとおり。

八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。
政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。

胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。
なかでも七八九年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多大の損害を与えた。

八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。
阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。
田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。
しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。

平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。
両雄をもつて冥さるべし。

一九九四年十一月吉祥日
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会