- 建立場所
- 岩手県奥州市水沢羽田町字御山下 羽黒山山頂
- 建立年月
- 平成17年(2005)9月17日
- 建立者
- 阿弖流為・母禮慰霊碑建立実行委員会(会長 及川松右衛門)
- 碑の概要
碑は黒御影石で芝台、台座をいれると高さ2.61m、幅1.66m。
石碑には阿弖流為と母禮の名前を並べ、その下に 慰霊碑と刻まれている。揮ごうは清水寺の森清範貫主。碑の脇に高さ1.2mの碑誌が建つ。
慰霊碑にはアテルイとモレが処刑された河内国の土(枚方市牧野公園内の塚の土)を分霊として納めている。
建立場所は羽黒山頂の出羽神社から西に200mほどのところで、胆沢平野を望む一段と高い絶好の場所。
- 碑誌文面
宝亀七年(七七六)以来、度重なる朝廷軍の攻撃に対し古代胆沢の蝦夷と呼ばれた人々は、郷土を守るべく敢然と立ち上がりました。
延暦八年(七八九)には勝利を収めましたが、その後も繰り返された戦いにより多くの命が失われ、胆沢の地は荒廃しました。
地元胆沢の長阿弖流為と母禮は、仲間五百余人と共に坂上田村麻呂に降伏します。
二人は、延暦二十一年(八〇二)八月十三日(九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。
阿弖流為、母禮をはじめとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛、友情は私たちの誇りです。
ここに多くの賛同者の浄財により、ゆかりの地に慰霊碑を建立し、永く顕彰します。平成十七年(二〇〇五)九月十七日
後 藤 晨 撰文
- 碑説明板
アテルイ・モレ顕彰の地
朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄・毛人・蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。
胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。
その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。
二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。この羽黒山は、『続日本紀』延暦八年六月条の「四百人ばかりありて、東山より出でて官軍の後を絶てり」の東山に比定できることから、私たちはアテルイ・モレを始めとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛に深く心を打たれ、ここに慰霊碑を建立しました。今後、この地を「顕彰の地」として、永く語り継ぎたいと考えています。平成二十一(二〇〇九)年九月十七日
アテルイ・モレを慰霊する会 及川洵 撰文
- 建立経緯
京都清水寺に平成6年に碑が建立され毎年法要が行われているが、地元では顕彰すれども慰霊する碑はなく、 碑建立はアテルイに関心を寄せる地元関係者の長い間の念願になっていた。 当会の及川洵会長をはじめとする水沢市(現奥州市水沢)羽田町の有志を中心に、同町の羽黒山頂への建碑を呼びかけ、2004年2月に碑建立実行委員会(及川松右衛門会長)が設立され、準備が進められた。 同年11月には、アテルイとモレが処刑された河内国の土を分霊として慰霊碑に納めることとし、枚方市の片埜神社の協力を得て、隣接する牧野公園の塚の土をもらいうけた。
翌年の7月27日に地鎮祭を行い、9月17日の「アテルイの日」に合わせて入魂並びに除幕式を行った。
- 慰霊祭
毎年9月の第2土曜日に慰霊碑の前で執り行われます。
阿弖流為・母禮を慰霊する会(佐藤健寿会長)の主催で、当会も毎回開催に協力、参加してきました。
2019年に慰霊する会が解散し、慰霊祭も15回の開催をもって休止しています。