現在314件のアテルイ情報を掲載しております。

 平成18年11月11日(土)午前11時から、雨天のため会場を屋内に移して法要が行われ、終了後に寺務所内「洗心洞」において懇親会が開かれた。参加者は、森清範貫主、大西眞興執事長をはじめとする清水寺関係者、奥州市出身の穀田恵二衆議院議員、「伝阿弖流為母禮之塚」の建立を進めている枚方市牧野歴史懇話会の笠井義弘会長、同西川毅副会長、清水寺の碑建立に尽力した故福岡精道師夫人の姿も見られた。主催した関西アテルイ・モレの会は、小瀬川操一会長、柏山喬副会長、松坂定徳事務局長他30人。奥州市からは岩井憲男奥州市助役、水沢観光協会佐々木隆男会長、水沢商工会議所後藤新吉専務理事ほか21人が参加した。このうち当会からは、及川洵会長、佐藤秀昭(延暦八年の会会長、NPO法人奥州おもしろ学理事長)、伊藤博幸(奥州市埋蔵文化財調査センター所長)両副会長ら役員・会員を含め9人が参加し、交流を深めた。碑の法要は毎年11月の第二土曜日に行われている。

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 吉川弘文館の<古代を考える>シリーズ全26冊の最新冊で、アテルイら蝦夷の時代を中心とした古代東北史研究の現状と問題点を提示している。2006年9月発行、本体定価3000円。内容は次のとおり。 
 一新しい古代東北史像を求めて―総論― 青木和夫、岡田茂弘、二多賀城前史 須藤隆(東北大学教授)、三城柵の設置 岡田茂弘(国立歴史民俗博物館名誉教授)、四多賀城発掘 進藤秋輝(宮城県考古学会会長)、五掘り出された文字は語る 平川南(国立歴史民俗博物館館長)、六天平産金と国分寺 桑原滋郎(多賀城市文化財保護委員会会長)、七東北の社会と律令制 笹山晴生(東京大学名誉教授)、八 東北の動乱 伊藤博幸(奥州市埋蔵文化財調査センター館長)、九俘囚長と藤原氏 新野直吉(秋田大学名誉教授)
 アテルイに関係する部分の記述を以下に紹介する。岡田茂弘氏は、アテルイの名前が出てくる『日本紀略』延暦21年の記事を取り上げ、その公姓である「大墓公」に「おおばかのきみ」と訓じている。平川南氏は、「延暦期の征討」を取り上げ、「延暦七年三月には、陸奥国内に命じて、軍粮三千五百余斛を多賀城に運び込ませ、さらに広く東海・東山・坂東諸国から歩騎五万二千八百余人を徴発し、翌年三月までに多賀城に集合させることにした。この時の戦いは蝦夷側が総帥阿弖流為の指揮のもと、政府軍に大きな打撃を与えた。政府は敗北と断定し、責任者を処分した。しかし、実態は紀古佐美の報告に「いわゆる胆沢は、水陸万頃にして蝦虜生を存す。大兵一挙して、忽ち荒墟と為る。余燼縦い息むとも危きこと朝露の如し」とあるように、政府軍の被害に対しての責任回避の面を無視できないが、長期の戦乱によって蝦夷側の被害も甚大であったろう。また報告の中の「軍入りしより以来春夏を経渉して、征軍輜重(軍需品の運搬)並びに是れ疲弊せり」という部分には、政府軍の疲れがよく表現されている。」と記述している。 
 笹山晴生氏は、「八世紀末の戦乱」を取り上げ、「桓武朝の征夷は、要した年月といい、その規模といい、前後に例をみないもので、桓武天皇が長岡・平安両京の造営とともに、国家の威信をかけて行った事業であった。五万数千人の兵を動員して行われた延暦八年(七八九)の征夷は、阿弖流為の率いる蝦夷の軍との戦いで死者1061人という大敗を喫して失敗した。その後政府は、大量の軍粮の貯備や武具の充実をはかった上で、同十三年、十万余の軍兵をもって再征し、副将軍坂上田村麻呂の活躍で、ようやく胆沢の地の平定に成功した。この上に立って、同二十年には坂上田村麻呂が征夷大将軍として陸奥に赴き、翌年胆沢城を築城、阿弖流為は田村麻呂のもとに投降した。同二十二年、田村麻呂はさらに北進して今の岩手県盛岡市の地に志波城を築き、北上川中流域の支配の安定がはかられた。」と記述している。
 伊藤博幸氏は、古代東北の動乱を宝亀・延暦・弘仁の三期に分け、アテルイが登場する時期を「延暦期の大戦争」として、史料により詳細に検証を加えている。アテルイに関係する部分は、胆沢遠征の準備始まる~第一回延暦の遠征~胆沢の合戦~古佐美軍兵を解く~第二回胆沢遠征への対応~第二回延暦の遠征~田村麻呂の施策~第三回遠征と胆沢城造営~阿弖流為の降伏、の小項目で経過を追って記述されている。この中で、延暦八年の胆沢合戦について、「蝦夷は河東に集結しているという逆の情報操作を行ったらしく、政府軍はこれをもとに、渡河作戦を練ったと考えられる」が、この「陽動作戦は蝦夷にとって賭けであった」と、次のように推定している。「考古学的にみると、河西一帯の胆沢扇状地は八世紀蝦夷の一般集落と農業生産地帯である。水沢段丘上一面にはこの時期の集落が大・小の遺跡となって分布しており、対岸の北上山地にこのような集落は認められていない(伊藤博幸「胆沢城と古代村落」『日本歴史』第215号)。もし、この河西を戦場にすれば軍勢や戦法からみても政府軍とでは勝算はないに等しく、仮に対等に交戦しても、その代償に人家と耕作地が破壊されては、蝦夷自身の存立基盤そのものが失せてしまう。蝦夷の長老たちはこのように分析したであろう。この指示を受けて、蝦夷の戦闘集団は前述の情報を流布する作戦を立て、河東に主力があると思わせた。」また、アテルイの降伏については、「胆沢の地の消耗は大きく、これ以上戦っても犠牲が増大するだけというのが、蝦夷側の判断だったと推定される。政府としても、政治的課題が山積しているいま、いつまでも蝦夷の全部を敵にして戦うわけにはいかず、現地との妥協策を練る必要があった。そして蝦夷の主戦力である武装集団を解体すれば、抵抗は緩和ないし消散し得るとの判断から、阿弖流為らの懐柔策に乗りだしたのである。これ以上の推定は危険だが、田村麻呂は彼らに帰降を進め、それが奏功して先の結果となったのである。」としている。

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 『史敏』(大阪大学大学院文学研究科日本史研究室)2006春号(通巻3号)に掲載されている馬部隆弘氏(大阪大学大学院生)の論文。副題には「官民一体となった史蹟の捏造」とある。枚方市牧野阪の牧野公園内に存在するアテルイの「首塚」とされるものについて、「そのような伝承があった形跡は全く認められない」とし、なぜこのような「突飛な説が定着」しつつあるのかの分析を興味深い資料の紹介とともに進めている。馬部氏はまず、「明治以降アテルイ処刑地を宇山とする説がある一方で、地元では一切その伝承がなく、反面一九八○年前後になってアテルイの「首塚」と称されるものが、宇山(近世宇山村)内ではなく隣接する牧野阪(近世坂村)に突如として生まれた」ことから、これは「現代に創造された史蹟由緒といってよい」とする。そして、その経緯を示すものとして、枚方市の市史編纂室担当者であった田宮久史氏による1990.5.25付けのメモ「アテルイの墓についての考え方」(枚方市立中央図書館市史資料室架蔵コピー)を【史料】として紹介している。初めて知るものであり、特に「三、アテルイの墓とされた経過」の部分をそのまま紹介する。

[1] 10年程前、牧野地区の女性が市史編纂室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。
[2] 田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。
[3] その女性、また後日曰く、きっとその酋長だと思う。恨みをもって未だに成仏できずに苦しんでいるに違いない。きちんとお祠りしてあげなさい。
[4] 田宮、貴女の夢や提案は市としてはどうしようもありません。
[5] 市は頼むに足らずと知った女性は、せめて犬の大小便から守るためにと、独自に柵を立て、綱をはり、何やら曰くあり気に飾りたてた。市はこの段階では一市民の酔狂と放置し、また他の市民もこの女性に同調する人はなかった。
[6] ところが、時の経過と共に木は繁茂し、柵は強化されるにつれて、一帯は妙に存在感をもち出し、一種聖域の雰囲気をただよわせるようになった。

 その後、取材に訪れた河北新報大阪支社の記者が田宮氏から女性の存在を知り、片埜神社の宮司を取材して、「アテルイの墓を発見したとばかり報道」、何らかのつながりを求める動きがにわかに高まった、というのでる。
 馬部氏はつぎに、「アテルイ処刑地は枚方市北部にはありえないこと、したがって牧野公園内の塚はアテルイの「首塚」ではない」ことを近年紹介された史料「河内国禁野交野供御所定文」の考察から断じている。交野郡北部は天皇の狩猟地である「禁野」であったが、その範囲は明確ではなかった。ところが前記史料は「禁野」の四至を記し、「天の川以北の枚方市域(東部の山間部を除く)がおよその範囲」として想定できた。そして、一般に「禁野」ではケガレに対して慎重な配慮がなされていたが、前記史料には「一、御野内にて穢駈鷹駈の外ハ曽不可殺生者也」という最も重視されるべき条目がある。すなわち、鷹の餌を獲るための狩り(穢駈)と鷹を使っての狩り(鷹駈)以外の殺生は禁じるというものである。こうなると、「禁野の中心やや西寄りに位置する宇山でのアテルイ処刑など毛頭考えられない」ことになる。「朝廷が自ら禁を犯し、あえて禁野を穢すことがあろうか」、加えて、桓武天皇は「交野での狩猟を最も好んだ天皇であり、また禁野が最も機能していた時代でもある。そこを穢すような指示を出すはずがない」というのである。
 最後に、枚方市議会における「首塚」に関する議論について平成5年と平成17年の議事録を引用して、市の答弁が中司宏現市長になって「記念碑建立実現に向けた支援を行う」と変わったことを指摘し、「公共機関が動けば嘘も真になる」と厳しく批判している。平成5年の教育委員会社会教育部長の答弁は次のような内容であった。「牧野公園のマウンド状の高まりが首塚とも呼ばれることをただ一つの根拠にして、ここを阿弖流為が埋葬された場所と特定するに至ったものであります。もちろん地元にはこれを裏付けるような伝承なり、伝説のたぐいは一切ありません。このような経過をたどってきたのが実情でありまして、枚方市としては歴史的根拠のない場所を確たる証拠もないのに、阿弖流為の墓にはできませんし、説明板なり顕彰碑を建設すべきではないと考えます」。
 馬部論文が例として取り上げている「首塚」に関する種々の記述を紹介しておく。

[1] 瀧波貞子『平安建都』(集英社1991)は、「首塚」の写真を掲載し、「伝アテルイの首塚、坂上田村麻呂の助命もむなしく殺されたアテルイ。付近に胴塚もあり、アテルイの怨霊を慰撫するために作られたと伝えられる。」と説明している。
[2] 枚方市史編纂委員会編の新版『郷土枚方の歴史』(1997)は、「首塚」のことに触れて「杜山・椙山・植山のなかで植山が正しいとする論拠はなく、まして、牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは首塚とする歴史的根拠はまったくない」と記述している。
[3] 枚方市発行の『ひらかた昔ばなし《子ども編》』(2003)は、アテルイの首塚を実在の史蹟として紹介、枚方市教育委員会発行の社会科副読本『わたしたちのまち枚方』(2003)も、「アテルイの首塚」として写真入りで紹介している。
[4] 『中学社会 歴史 未来をみつめて』(教育出版、2005年3月30日検定済)に、「現在、大阪府枚方市には、『エゾ塚』とよばれる石碑があり、阿弖流為の墓とも伝えられています」との記述がある。

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 山川出版社の<散歩コース>シリーズ岩手県版で、平泉・遠野・盛岡の散歩コースと散歩事典。2006年7月初版発行、定価1500円(税別)。第Ⅰ部の散歩24コースの第11コース「北辺の古墳と城柵を訪ねる」がアテルイにふれることができる散歩コース。第Ⅱ部の事典の最初には、「阿弖流為 ?~802年」が紹介されている。「フルネームは大墓公阿弖流為。奈良時代後半から平安時代初頭ごろの胆沢地方の蝦夷族長のひとり。阿弖利為とも書く。789(延暦8)年、盤具公母礼とともに、胆沢の蝦夷を指揮して巣伏村(現、奥州市)付近を拠点に、征東大将軍紀古佐美率いる5万2800余人の政府軍に抵抗、北上川東に渡河した4000人を迎えてこれを破った。801(延暦20)年征夷大将軍坂上田村麻呂が4万人の軍を動員し、翌年に胆沢城を造営すると、母礼とともに500余人を率いて降伏した。田村麻呂は同年7月2人をつれて帰京し、胆沢の統治と蝦夷社会再建には2人が必要であることを説き、助命を進言したが、公卿らの反対にあい、両名は同年8月河内国椙(杜)山(現、大阪府枚方市付近)で斬られた。」執筆者は大石直正(東北学院大学名誉教授)、伊藤博幸(奥州市埋蔵文化財調査センター所長)、大島晃一(一関市博物館副館長)他

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 TSミュージカルファンデーションのオリジナルミュージカル「AKURO<悪路>」(2006年文化庁芸術祭参加予定)が平成18年10月19日から29日までサンシャイン劇場で上演された。企画・演出・振付は日本で唯一の女性ミュージカル演出家で、第20回菊田一夫演劇賞を受賞している謝珠栄(しゃたまえ)。今回の新作では、アテルイが治めた蝦夷の地に、故郷をこよなく愛し故郷を守るために立ち上がる若者たちを息づかせた。キャストは坂元健児、吉野圭吾、彩輝なお、他。大和朝廷はなぜ蝦夷を討たなければならなかったのか。それは、民衆を「情報操作」するためにわかりやすい「悪役」が必要だったからではないか、という視点でこの物語は書かれている。また、企画意図には、「創られたヒーロー・アテルイ」、「権力の哀しい道化師・坂上田村麻呂・・・そして心から美しい故郷を愛した、歴史に名前の残らない本当のヒーローたち」とも紹介されている。
 実際のストーリーは、延暦21年にアテルイが降伏・斬首された2年後に始まる。平定した蝦夷を監督するため都から若き軍人・安倍高麿(坂元健児)が胆沢城に赴任し、敬愛する田村麻呂から蝦夷の隠れ里「鉄の谷」の探索を極秘に命ぜられる。任務遂行に勇む高麿は"謎の若者"(吉野圭吾)に導かれ目的の地にたどり着くが、そこで待ち受けていたのは大和による侵略で無惨なまでに虐げられ続けた蝦夷が語る衝撃的真実だった。蝦夷の男たちや大和に連れ去られた過去を持つ盲目の蝦夷の女アケシ(彩輝なお)らと交わるうち、高麿はこれまで信じて疑わなかった勧善懲悪の歴史と、真実のそれとには恐ろしいほどの隔たりがあることに気づく。ついに高麿は蝦夷と共に立ち上がるが、田村麻呂によって皆殺しにされてしまうのである。企画した謝珠栄は言う。「しかし、この物語の結末は決して悲劇ではない。私には、高麿とアケシの間に生まれた子供が、藤原清衡の祖父・安倍頼良につながっていくという夢もあり、二人の「架け橋」は見事に未来の新しい世界を作った」と。
 この舞台でアテルイ(吉野圭吾)は、都に連行され奴隷にされている蝦夷を救うために降伏するものの、欺かれ殺されたという設定だが、登場する"謎の若者"とは若かりし頃のアテルイであり、アテルイの思いを引き継ぐ霊のような存在。アテルイは生前、皆が共に手を取り合って生きていく世の中を夢見ていて、その夢を少しでも叶えてくれる存在と見込んだ高麿を"謎の若者"の姿で導いていくのである。劇団わらび座のミュージカル「北の耀星アテルイ」、劇団★新感線の市川染五郎主演「アテルイ」、に続く良質な舞台作品である。

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 大阪府枚方市に「伝阿弖流為母禮之塚」建立実行委員会が設立され、18年度中に首塚の伝承がある同市牧野公園(元片埜神社境内)に建立されることになった。塚の規模は、石碑の高さ約2m、幅約1mで、銘板は高さ約0.7m、幅約1.2m。碑文の表は清水寺の森清範貫主に、裏面の歴史記述は関西外語大学瀬川芳則教授に書いていただく予定。費用は総額500万円で、本年12月末日まで寄付を募集する。
「伝 阿弖流為 母禮之塚」建立 趣意書
 奈良時代から平安時代にかけ、時の朝廷は東北平定を目指し幾度も朝廷軍を送り込みました。これに対し、蝦夷(えみし)軍は首領の阿弖流為と副将の母禮をリーダーに、郷土を守るため勇敢に戦い朝廷軍を敗走させました。しかし、戦いが長引き蝦夷の民は疲弊しました。加えて多勢に無勢、ついに坂上田村麻呂の軍門にくだり、二人は、延暦21年(802年)8月河内の国で処刑されました。阿弖流為 母禮を顕彰する碑は坂上田村麻呂ゆかりの京都・清水寺や出身地・水沢地区(岩手県奥州市)に建立されております。しかし、二人の終焉の地で首塚が伝承される牧野公園には現在、名もない石が置かれているだけです。建立を目指す「伝 阿弖流為 母禮之塚」はひと目見て、終焉の地であることが確認できる歴史伝承発掘のランドマークとなる石碑です。なにとぞこの主旨にご理解とご賛同を頂き、浄財をご寄付下さいますよう切にお願いいたします。平成18年9月吉日。「伝阿弖流為母禮之塚」建立実行委員会会長中司実。事務局:大阪府枚方市牧野阪2-21-15 河州一宮片埜神社内 TEL 072-857-7775

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 平成18年9月19日、奥州市前沢区生母の耕雲院において古代東北の英雄・母禮の慰霊祭が行われた。母禮をたたえる会(菊地栄治会長)が主催したもので、同会の会員や地元住民など約50人が参列し、読経が流れるなかで焼香した。式では前沢吟詠会が「母禮賛歌」を披露した。一行はその後、水沢羽黒山の阿弖流為・母禮碑でも慰霊祭を行った。同会は、「母禮」の名を生母地区の旧地名である母体(もたい)に関係させてモライと訓み、慰霊祭も前日までの雨の影響で会場を移したが、同区生母字市ノ渡地内の「モライの居所とされる屋敷跡」で実地する予定だったという。また、今後は「伝母禮屋敷跡など、伝説に基づいたモライゆかりの場所に標識を立てる作業を進めていく」(菊地会長)という。

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 平成18年9月17日の<アテルイの日>を記念し、市内の映画上映ボランティアグループ「フィルマズ・アテルイ」(菊池千賀子代表)主催による、アニメ「アテルイ」の上映会が奥州市水沢内メイプル地階の親子ライブラリーで開催された。同日午後2時からの一回上映で、大人16人、子供14人の参加があった。菊池代表は、「来年の<アテルイの日>にも上映したい」とのこと。

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 平成18年9月17日、奥州市水沢羽田町羽黒山の<阿弖流為・母禮 慰霊碑>前において行われ、主催した阿弖流為・母禮を慰霊する会の会員や市民など約70人が参列した。出羽神社宮司による祝詞奏上、玉ぐし奉てんなどの神事が執り行われ、追悼の儀では相原市長が「新生奥州市が誕生し、初めての慰霊祭となる。アテルイ、モレの活躍は全国に知られている。郷土の先人の遺徳をしのぶとともに、その力をもって郷里の一層の発展に寄与したい」と述べた。式後には伊藤流行山鹿踊りが奉納された。慰霊する会ではこの日の慰霊祭に合わせ、うっそうと樹木が生い茂っていた周辺の間伐を実施し、政府軍が野営した衣川の地や胆沢城を一望できる環境も整えた。及川松右衛門会長は「市内を一望できる慰霊碑を中心にしたこの地を市の歴史公園に指定してほしいと運動を始めた。行政の力も借りながら、アテルイ、モレが愛した地を後世まで伝え残していきたい」と語った。午後には、水沢内のホテルに会場を移し、慰霊祭に参列した京都・清水寺の森清範貫主の法話と直会が行われた。森貫主の法話には市内外から約100人の聴講者が足を運び、ユーモアあふれる説教に耳を傾けた。直会の最後に、わらび座ミュージカル「アテルイ」で歌われた「日高見わがまほろば」を全員で熱唱し、来年の慰霊祭での再会を確認しあった。

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◆「子供の日」に野外映画会 平成17年5月5日、映画上映活動を展開するボランティア団体「フィルマズアテルイ」(菊池千賀子代表)が、初の活動として児童向けアニメなど3本の映画上映会を水沢市のみずさわ観光物産センター(Zプラザアテルイ)を会場に実施した。同団体の発足のきっかけは、中心市街地の活性化につなげようと平成15年6~11月の第二、第四土曜日に実施した長編アニメーション「アテルイ」の上映だった。同会は本年のこどもの日にも同会場でアニメの上映会を実施した。秋にはまたアニメ「アテルイ」を上映するという。
◆胆江神楽大会(胆江地方神楽振興協議会主催) 8月22日、水沢の日高神社神楽殿で開かれ、胆江各地から10団体約60人が出演。市立水沢南小学校神楽クラブは、アテルイと坂上田村麻呂の戦いを描いた創作神楽「アテルイの里」を舞い、会場から大きな拍手が上がった。
◆天空アテルイ体操の普及 平成14年にシンガー・ソングライターあんべ光俊さんが作曲した「天空アテルイ」に、水沢市の保険センターの職員が振り付けして創作した「健康運動天空アテルイ」の普及が進んでいる。同市では16年度から3ヵ年の普及推進を計画。2年目の17年度は11月末までに計272回にわたって実施、参加者数は10,352人に上った。講師を派遣する同市の「こっちゃ講座」、スポーツ大会、健康まつり、健康づくりリーダー研修会などで行われたほか、保険センターでの定例実技講習会、各公民館でも普及、定着に力が注がれている。一方で、看護学校が授業の一環として、養護学校では高等科の体育授業として導入した。財団法人日本公衆衛生協会はこのような活動を評価し、17年度の衛生教育奨励賞を贈った。
◆第7回あてるいカップ中学校バスケットボール交流大会 水沢市の市総合体育館を主会場に4月30日と5月1日の2日間の日程で開催され、岩手、宮城、秋田の3県から男女計42チームが参加した。
◆第4回羽田町 アテルイ 鋳とグルメまつり 10月16日、鋳物の町の秋の祭典として開催された。水沢の羽田町は北上川の東に位置し、延暦八年の「巣伏の戦い」の主戦場となったアテルイの勝利に関連深い地域。当日は「アテルイぼた餅」のサービスも行われた。
◆ストップ・ザ・交通事故「アテルイの里」作戦 平成17年5月18日に水沢警察署と県警本部が水沢暑管内主要幹線道路で展開した集中取り締り作戦。約3時間足らずで122件を摘発した。内訳は、無免許1件、速度違反31件、一時不停止20件、シートベルト不着用64件、携帯電話使用4件など。

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◆平成17年7月、胆沢町小山の阿部充子さん(69)による張り絵「義経伝記とふるさとの民話・伝説」展が同町若柳の胆沢ダム学習館で開かれた。その作品の中に水沢の伝記「勇者アテルイ」があった。
◆平成17年11月30日まで、水沢市高屋敷の佐藤龍夫さん(67)が面・獅子頭の個展をめんこい美術館で開催した。佐藤さんはアテルイ没後1200年を記念し新旧2つの「アテルイ面」を制作しており、アテルイの顔をかたどった木彫りのループタイも展示された。
◆平成17年11月26日から前沢町古城地区の文化祭が古城公民館で始まり、同地区の岩淵時雄さんが趣味で作った能面50点が飾られた。そこには木目を生かしたアテルイとモレの面も並んだ。

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 平成17年5月19日、東北古代史を研究している宮野英夫氏(盛岡市在住)が盛岡市内で開催された「文化サロン」(主催:NPOいわてシニアネットなど)で「アテルイの謎に迫る」と題し講演した。
 平成17年6月4日、胆江6市町村合併期成同盟会主催の講演会「もっと胆江の歴史を知ろう」が行われ、岩手県文化財愛護協会会長で元岩手県立博物館長の金野静一氏が「新陸奥物語~アテルイと田村麻呂~」の演題で講演した。

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 物語は延暦21年に降伏したアテルイとモレが処刑されようとするところから始まる。それは劇団わらび座ミュージカル「アテルイ」の処刑シーンと重なる。舞台はそれから四年後の江刺の里。アテルイの姉の子として登場する珠姫(あくだま姫)を軸にストーリーが展開されるという。平成17年の5月号からスタートし、3ヶ月おきに6回の連載が予定されている。

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 昨年9月の衆議院選挙を前に、立候補者の横顔が紹介された。報道各社の共同インタビューに、小沢氏はアテルイにもふれた。「古代アテルイにも親近感を持つという」(『河北新報』)「古里の偉人では第一にアテルイをあげる。「中央の権力の一方的な行使に対する地域の反乱。今だって同じだ」。」(『岩手日報』)「郷土の歴史的人物の中で一目を置くのはアテルイだ。「だって子孫だもの」と表情を緩ませる。「大和朝廷の統一は必然だったが、中央集権体制は、中央の物差しや都合で計る。それは今も同じだ」と、朝廷に立ち向かったアテルイと自分とを重ね合わせる。」(『胆江日日新聞』)

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 阿弖流為・母禮慰霊碑建立実行委員会が発掘調査を進めていた羽黒堂古館跡で、アテルイが活躍した時代の八世紀後半(奈良-平安時代)とみられる土師器片が出土した。同破片は「へらみがき」という技法で仕上げられ、表面と裏面の両方が黒くいぶされた「内外黒」になっており年代判定の手がかりとなった。
 調査は慰霊碑建立に際しての予備調査として、日本考古学協会員である及川洵同実行委員会副会長を調査団長に8月から9月までの2ヶ月間実施された。当会の会長でもある及川洵氏は「アテルイの碑の基礎部分から同時代と思われる土師器が出たことに縁を感じる。01年の羽黒山市民発掘でも八世紀後半に近い土器片が出ているので、伝承だけでなく史料的にもアテルイ関連の地と裏付けられたのではないか」と語っている。

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 平成17年8月21、22日の両日に横浜市で開かれた全国中学校文化祭において岩手県矢巾町矢次の矢巾北中(生徒431人)の3年生61人が県代表としてオリジナル群読劇「アテルイ」を上演した。わらび座のミュージカルを参考に生徒が中心になって創作したもので、上演時間は約40分。

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 劇団わらび座のミュージカル「北の耀星アテルイ」が、ミュージカル専門誌『月刊ミュージカル』の04年ミュージカルベストテンで10位にランクインした。同コンテストは東京を中心に全国上演されたミュージカルを対象にしており、「屋根の上のバイオリン弾き」(東宝)「南十字星」(劇団四季)「ウエストサイドストーリー」(フジテレビほか)など、著名作品がランクインした中、堂々10位に入った。
 同誌の中で、演劇評論家の岩波剛は「(日本人のオリジナルミュージカルを待望するものとして)アテルイは願望をかなえてくれた一作。舞踊、音楽、動きにそれ(ブロードウエィ打破への意欲)は脈動する収穫になった」と高く評価している。

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 およそ90劇団の応募から12団体が選出されて行われた大阪市主催の演劇祭(3月~6月)で、中島かずき作の「アテルイ」(第47回岸田戯曲賞受賞作品)がエレベーター企画によって上演された。平成17年4月28~30日の3日間の4回公演で、大阪港の巨大倉庫に設営された劇場が会場となった。同作は平成14年に新橋演舞場で市川染五郎がアテルイ、堤真一が坂上田村麻呂という豪華キャストで上演された<劇団☆新感線>の代表作。

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 平成17年4月15日から「侵入・ヤマトの暗雲」(4回)、6月24日から「反乱・北の民の目覚め」(4回)、8月17日から「決戦・北上川燃ゆ」(4回)、9月28日から「征夷・夷をもって夷を制す」(4回)、平成18年1月14日から「血脈・まつろわぬ民の足跡」(4回)、2月20日から「もうひとつの日本」(6回)として長期にわたってとりあげた。「蝦夷」の題字の下には鹿島神宮蔵の「阿弖流為首像」の写真。
「決戦・北上川燃ゆ」では延暦八年の戦いの勝利からアテルイの投降までを新たな視点も加えて叙述。シリーズ最終回は、<延暦八年の会>の佐藤秀昭会長と安彦公一氏がアテルイへの思いを語っている。

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 平成17年3月28日の夕刊。連載「歴史のかたち」に、「悪路王の首像をみる」を特集した。鹿島神宮所蔵の「悪路王の首」を紹介しながら、「悪路王のモデルは蝦夷だったのだ。阿弖流為(アテルイ)という名の今の岩手・胆沢地方の族長だったと言われる。」と、延暦八年の巣伏の合戦など、アテルイについて詳しくとりあげた。当会副会長の佐藤秀昭氏(延暦八年の会会長)、同伊藤博幸氏(現水沢市埋蔵文化財調査センター所長)のコメントも載っている。

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◆アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭
 平成17年8月15日に当会も共催団体となり行われた。午後2時から江刺市の各地区(田原・耕田寺=アテルイ、藤里・愛宕山広場=人首丸、米里・米里地区センター=人首丸、梁川・大岳丸顕彰碑前=大岳丸)においてそれぞれ慰霊を行った後、午後4時より本会場の<えさし藤原の郷>において慰霊祭が行われた。今回が11回目となった。
◆京都清水寺でアテルイ・モレの慰霊法要
 11月5日、関西アテルイ・モレの会(小瀬川操一会長)主催による、<古代の英雄アテルイ・モレの記念法要>が行われ、水沢市からの高橋光夫市長や川辺賢治水沢地方振興局長ら25人の慰霊訪問団を加え約70人が参列した。清水寺境内に建立された顕彰碑の前に祭壇が設けられ、穏やかな秋晴れの下、森清範貫主ら4人の僧侶が読経、参列者は焼香して碑に手を合わせた。顕彰碑は1994年に建立され、毎年この時期に供養法要が行われる。法要後の直会には大阪府枚方市の中司宏市長が駆けつけ、「アテルイ慰霊碑を首塚附近に建立することを考えている」との話題を提供した。

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 アテルイに由緒ある「跡呂井」地区と巣伏の戦いの舞台となった「四丑」地区の住民95人が会員。平成14年度のキラリ輝くまちづくり推進事業をきっかけに活動を開始し、15年度からはアテルイの史跡の場所を紹介する看板と標柱の設置に取り組んだ。看板の文字は補助金で専門業者に依頼したものの、看板の柱や枠それに標柱はすべて手作り。材料のスギ、ヒバも地区の人からの提供、標柱の文字入れから設置まで会員が仕事の合間を見つけての作業ということで、三年がかりでこのほど完成した。案内板は水沢東バイパス沿いの四丑橋近くと物見櫓近くに設置され、「アテルイ生誕の地跡呂井」と刻まれた標柱は神明神社前に立てられた。

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 平成17年9月11日、水沢市の跡呂井地区で「アテルイ歴史の里まつり」が行われた。神明社境内を会場に式典が行われ、「アテルイ王記念碑」に拝礼、婦人連が「アテルイ音頭」を奉納した。その後、アテルイが五万余の朝廷軍を打ち破った巣伏の戦いを再現した<アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列>が勝ち鬨をもって出発、約40人の行列が地区内を練り歩いた。跡呂井町内会などが主催するこのまつりは三年に一度開催され、今回で6回目となった。

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 平成17年(2005)9月17日の「アテルイの日」、現奥州市水沢羽田町の羽黒山頂出羽神社神域に<阿弖流為 母禮 慰霊碑>が建立され、午後1時半から<入魂並びに除幕式>が行われた。除幕式に先立ち、同神社境内では記念の郷土芸能発表会として北天太鼓(前沢町)、鶯沢神楽(羽田町)、伊藤流行山鹿踊(同)、鋳物太鼓(同)が協賛奉納された。式典にはアテルイとモレが処刑された地とされる大阪府枚方市からの関係者や関西アテルイ・モレの会会員ら約二百人が参列した。入魂の儀では枚方市にある首塚から採取した土や碑建立寄付者の芳名簿を碑の下に安置。及川会長、高橋光夫水沢市長、相原正明江刺市長、清水寺森貫主らが地元の子供たちと紅白の綱を引き除幕した。慰霊碑は高さ約3メートルの黒御影石製。清水寺の森清範貫主が「阿弖流為 母禮慰霊碑」と揮毫した。碑の脇には高さ1.2メートルの碑誌が立てられた。
 羽黒山は延暦八年(789)の「巣伏の戦い」でアテルイが朝廷軍を破った古戦場の一部と考えられている。参列者は地元で初めての慰霊碑に合掌し、郷土の英雄に思いをはせた。建立実行委員会の及川松右衛門会長は、「アテルイをはじめとする蝦夷と言われた人たちのレジスタンスは、自主独立の気運や戦争の愚かしさを伝えている。今後も顕彰活動を続けていきたい」と挨拶。森貫主は「郷土の英雄を回向する真摯な気持ちで揮毫した。地域を超えて交流し、古代文化を継承し発展させていきたい」と話した。
 アテルイとモレの慰霊碑は、京都の清水寺に建立されてすでに10年余が経過した。しかし地元の胆江地方には慰霊施設がないことから、「二人の魂を岩手に戻そう」と当会の及川洵会長をはじめとする有志によって「阿弖流為・母禮慰霊碑」建立実行委員会を結成。平成16年11月には枚方市の首塚から分霊し、清水寺で慰霊祭を開催。この間、建立のための募金活動を続けることにより五百万円を超える浄財が寄せられていた。今後は、この慰霊碑を中心に地元の慰霊祭も毎年行われることになり、アテルイの顕彰活動など各種の取組みもより活発に展開されていくことが期待されている。

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◆水沢市ラグビーフットボール協会は、同協会傘下のクラブチーム4チームを統合し、新組織「阿弖流為R・F・C水沢」を結成させ、トップチーム「ATERUI・BRAVES・MIZUSAWA」、セカンドチームを「阿弖流為ドリーム水沢」、サードチームを「阿弖流為倶楽部」の名称にすることを決めた。東日本クラブ選手権県代表を目指す。【胆江日日新聞16.4.13】
◆水沢市健康づくり推進協議会は、16年度健康づくり関連事業実施計画を協議し、新規導入の健康運動の普及として市が独自に創作した健康体操「天空アテルイ体操」の普及などを確認した。【胆江日日新聞16.4.15】
◆第6回あてるいカップ中学校バスケットボール交流会は、5月29、30日に岩手、宮城、秋田、青森の4県から男女各24チーム、計48チームが出場して、水沢市と江刺市を会場に熱戦を繰り広げた。【胆江日日新聞16.5.29】
◆水沢市のYOSAKOIグループ「幻夢伝」は、札幌で行われるYOSAKOIソーラン祭り出場にあたり、水沢市駒形神社においてアテルイをテーマにした勇壮な創作舞踊を奉納した。【岩手日日新聞16.5.30】
◆第3回アテルイ杯カヌー・ゴムボート川下り大会が、NPO法人北上川中流域エコミュージアム推進会議の主催により、北上川を会場に8月8日に開催された。古代の英雄アテルイにちなんだ大会で、ゴムボート77艇、カヌー15艇が参加した。【岩手日日新聞16.8.10】
◆学習研究社編『週間日本川紀行』15号は「北上川」で、直木賞作家の熊谷達也さんが「阿弖流為(アテルイ)」を語っている。【河北新報16.8.16】

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 平成16年8月15日、岩手県江刺市のえさし藤原の郷で<アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭>が行われた。アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会(岩崎景助会長)が主催、当会と延暦八年の会が共催するもので、今回で10回目。開祭の詩朗読、献灯、玉串奉奠などが行われ、相原江刺市長が追悼の辞を述べ、岩谷堂農林高校の生徒による鹿踊が奉納された。
 8月20日には、枚方市片埜神社において縄文アテルイ、モレの会(松永憲生代表)主催による<阿弖流為・母礼らの縄文慰霊祭>が行われた。こちらも今回が10回目の開催だが、今後は4年毎に実施するとのこと。
 9月12日午後2時からは、当会の会員でもある杜かじかさんの呼びかけで、アテルイの慰霊祭が枚方市の片埜神社で行われる。奉納費千円ほどお持ちくだされば嬉しいとのこと。なお、京都清水寺において毎年行われているアテルイ、モレを供養する法要は11月6日の午後3時から実施される。今年は<阿弖流為・母禮之碑>建立10周年にあたり、地元から鹿踊りの一行を派遣、奉納することなどが計画されている。当会も碑の建立者に名前を連ねており、多くの会員の参加が望まれる。

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 秋田県田沢湖町を拠点とする劇団わらび座のミュージカル「北の燿星アテルイ」が、原作者の高橋克彦氏と㈱北斎企画によって録画収録され、約二時間のDVDに編集された。平成16年5月27日には、当会の呼びかけにより、DVDの完成試写会が水沢市文化会館Zホールで開かれ、高橋克彦氏のほか、わらび座の劇団員も駆けつけ、大画面に再現されたミュージカルに感動を新たにした。その後には、市内のホテルに会場を移して交流会を開き、DVDの感想やアテルイへの思いなどを語り合った。
 このミュージカルは、高橋克彦氏の『火怨』を原作とし、中村哮夫氏が演出したもので2002年8月から今年の3月まで全国で444公演し、各地で好評を博した。アテルイ没後1200年を記念しては、水沢市における上演を皮切りにし、全国公演にあたっては京都清水寺で成功祈願の奉納、最終公演は江刺市において行われている。高橋克彦氏は、県内の小中学校などに寄贈し、活用していきたい、と話している。

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 青森のねぶた祭りに「阿弖流為」のねぶたが登場した。千葉作龍作の「北の炎・阿弖流為」で、サンロード青森の製作。何年か前には「悪路王」のねぶたがあったと思うが、アテルイは初めての出陣。平成16年8月2日の『読売新聞』一面の「編集手帳」がそのことを取り上げている。全文を紹介する。
 青森市出身の版画家棟方志功が「世界一の火祭り」と評した青森ねぶた祭が今日から始まる。歴史や神話を題材にした人形型の大灯ろうに明かりをともし、市内を練り歩く。
◆太鼓や笛の勇壮な囃子に合わせ、何万人ものハネト(踊り手)がラッセラーと叫んで飛びはねる。浴衣とたすきのハネト衣装で踊っていた作家の中上健次さんに感想を聞いたのは二十年近く前のねぶた祭の夜だった。
◆「自由で単純で開放的で。これは縄文の祭りに違いない」。出身地の和歌山県新宮市の御燈祭に通い合うところがあるとも語っていた。今年は、その縄文文化を継承した東北の原住民である蝦夷の一首長、阿弖流為を描いたねぶたが登場する。
◆胆沢地方(現在の岩手県水沢市)を本拠地とした阿弖流為は、大和朝廷の北進に激しく抵抗したが、八0二年、征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏、処刑される。水沢市出身の衆院議員の小沢一郎さんは演説で時折この故事に触れ、「被支配者から見れば歴史は一変する」と説く。
◆阿弖流為は今も東北人の誇りなのだろう。ねぶたは、田村麻呂が蝦夷征伐の際に用いた戦術だったという説がある。今回は、この敵将にちなんだねぶたも運行される。東北人は懐が深い。
◆千二百年の時を超えて両雄相まみえ、漆黒の空を焦がす。縄文の鼓動が響いてきそうだ。

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 岐阜県高山市で、「スクナとアテルイ」をテーマにしたイベントが開催された。飛騨の高山には『日本書紀』に記述がある両面宿儺(りょうめんすくな)が古代の英雄として伝えられており、共通する面をもつアテルイとともに取り上げたもの。平成15年9月25日から10月5日まで企画展、9月28日には「二人がもたらす新時代の光」をテーマにシンポジュウムが開催され、水沢市から延暦八年の会会長の佐藤秀昭氏がパネリストとして参加して意見交換をした。

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 京都市交通局のポスター「市バス・地下鉄ぐるっと発見、人権ゆかりの地をめぐる」に、冬の清水寺の写真とともに、北天の雄阿弖流為・母禮の碑の写真が掲載され、(財)世界人権問題研究センター監修による京都人権啓発推進会議の「えみし」と「阿弖流為・母禮」に関する説明文。その最後は「...坂上田村麻呂は阿弖流為らの才能を高く評価しました。今、阿弖流為・母禮を顕彰する鎮魂の碑が、坂上田村麻呂が開基したと伝えられている清水寺境内に立っています。」

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 平成15年8月9日付の15面に、「英雄アテルイに脚光」と題して、アニメ映画アテルイが7月から道内各地で上映されていること、9月からはミュージカル「アテルイ」の道内公演も行われるとし、これまでほとんど顧みられることがなかったアテルイが注目されていることについて大きくその意義を取り上げた。また、翌日の日曜版の「みちを歩く」(1、2面)では、「大和朝廷と戦ったアテルイの地」として、"延暦八年の英雄伝説"を佐藤秀昭氏(延暦八年の会会長)の現地案内で写真を交えて詳しく紹介した。

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[1]アテルイ杯争奪県南地方囲碁大会
 昨年12月に第3回大会が行われ74人が参加し熱戦を繰り広げた。今年も...。
[2]第5回アテルイ杯高校生サッカー大会
 8月10、11日に16チームが参加して水沢市で開催された。1位は遠野高、2位は東北朝鮮高級学校、3位はFCみやぎユースと新屋高。
[3]第2回プールフェスタ「球彩祭」阿弖流為カップ
 岩手県内のビリヤード愛好者による大会で、決勝トーナメントは12月1日。

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 水沢市の不動産情報バンクは、不動産を小口の証券化し投資家から資金を調達する特定目的会社(SPC)を7月に設立した。資産流動化法に基づくもので、東北では初という。その社名は「アテルイ特定目的会社」。 

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 江刺市教育委員会が発掘調査している同市愛宕の新川Ⅲ遺跡から、県内最古と見られる7世紀後半の畑跡が見つかり、7月20日に現地説明会が行われた。同遺跡は広瀬川東岸の休耕田にあり、調査面積950平方メートルのうち、畑跡は六区画分計約500平方メートルの広さ。7世紀後半、8世紀後半、9世紀初頭とみられる三つの地層の土壌分析の結果、各層からイネ科植物の葉に含まれるガラス質のプラントオパールが見つかり、陸稲栽培を長い間繰返していたことがわかった。調査を担当する同市埋蔵文化財調査員の及川洵氏(当会会長)は、「蝦夷はコメを作り生活し、アテルイもコメを食べていたことになる。蝦夷は貧しい生活をしていたとみられてきたが、そうでないことを証明することになる」と話している。

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[1]岩手大学拡充整備促進期成会公開科学講演会
 2月3日「北の将星アテルイ」伊藤満(漫画家)
 「仏像造形を通して見た蝦夷と仏教文化について」田中惠(岩手大学教授)
[2]アニメ「アテルイ」製作上映運動推進一関・西磐井の会主催講演会
 4月13日「大墓公アテルイと東北三十年戦争」伊藤満(漫画家)
[3]水沢市羽田地区高齢者学級「志村大学」歴史講座
 5月24日 「アテルイの郷にロマンを求めて」安彦公一(胆江新聞編集委員)
[4]江刺市えさし郷土文化館歴史講座
 5月26日「アテルイとその時代」及川洵(アテルイを顕彰する会会長)
[5]アニメ「アテルイ」製作上映運動推進北上の会主催講演会
 6月15日 「北の将星アテルイ」伊藤満(漫画家)
[6]千厩町十四年度町民大学「メオトピアカレッジ」第1回講座
 6月「アテルイの戦いと古代エミシの社会」女鹿潤哉(県立博物館学芸調査員)
[7]水沢市常盤公民館郷土史セミナー「アテルイを知ろう」
 7月2日、23日 「アテルイ(前編、後編)」佐藤秀昭(延暦八年の会代表)
[8]岩手県文化財愛護協会、県教育弘済会主催「文学歴史伝承講座」
 7月16日 「大墓公アテルイと田村麻呂」金野静一(元県立博物館長)
[9]第50回岩手県公民館大会(水沢市文化会館)記念講演
 8月1日 「アテルイ(阿弖流為)と現代」一力一夫(河北新報社社主)
[10]釜石市郷土資料館、釜石民話の会主催郷土学習会
 8月24日「アテルイ没後1200年」 金野静一(元県立博物館長)
[11]江刺市立岩谷堂公民館主催「郷土研究セミナー公開講座」
 9月11日 「大墓公アテルイと田村麻呂」金野静一(元県立博物館長)
[12]一関市厳美町本寺地区教育講演会
 9月11日「東北の古代・アテルイの時代」伊藤満(漫画家)
[13]岩手県、京都県人会主催アテルイ没後1200年記念講演会
 10月27日 「蝦夷と北天の雄」 三好京三(直木賞作家)

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 平成14年11月10日、前沢町で開催された。モレを取り上げた初めてのシンポジウム。パネリストは一力一夫氏(河北新報社社主)、佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)、宮野英夫氏(えみし学会員)の三人で、直木賞作家の三好京三氏がコーディネーターを務め、「母禮」という名前をどう読むかなどについて取り上げた。シンポの前には、水沢民族舞踊サークル「たけのこ」による創作太鼓「母禮」が披露されたほか、母禮の似顔絵と三好京三作「母禮物語」読書感想文コンクールの入賞者表彰が行われた。

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 平成14年10月19日、奈良文化会館国際ホールにおいて、歴史街道推進協議会と奈良新聞社の主催で開催された。シンポのタイトルは「古代の東北と畿内~黄金ロードから、東北の強者アテルイまで~」で、アテルイが取り上げられている。第1部:ビデオ上映「古代東北・蝦夷の世界」(水沢市埋蔵文化財調査センター制作)、基調講演「知らざれる古代史~大和政権と東北との劇的関係」講師豊田有恒氏(作家)、第2部:パネルデスカッション パネリスト:豊田有恒氏(作家)井上満郎氏(京都産業大学教授)工藤雅樹氏(福島大学教授)浅川 肇氏(元禰宜/談山神社相談役)コーディネーター:中路正恒氏(京都造形芸術大学助教授)。10月18日付の奈良新聞は同シンポジウムを大きく取り上げ、アテルイを中心に紙面の三面を割いて詳しく紹介した。この企画は当日の司会を務めた杜かじかさんが奔走して実現させたもの。

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 花巻地区の「わらび座の『アテルイ』を鑑賞する会」が、アテルイ没後千二百年をミュージカルの鑑賞だけに終らせないためにと企画した。第1回(平成14年6月19日)[講師] 牛崎敏哉(宮沢賢治イーハトーブ館)「岩手とアテルイ」、第2回(7月21日)[講師] 瀬川司男(鑑賞する会会長)「アテルイと田村麻呂の史跡探訪」、第3回(8月17日)[講師] 相澤史郎(東海大学名誉教授、詩人)「悪路王伝説と田村麻呂伝説の起源」、第4回(9月23日)[講師] 山折哲雄(国際日本文化研究センター所長)「いま、なぜアテルイなのか」、第5回(10月19日)シンポジウム「私たちにとって、"東北"とは何か」[パネリスト] 斉藤彰吾(元北天塾副塾頭)門屋光昭(盛岡大学教授)、佐藤秀昭(延暦八年の会代表)。花巻市文化会館を会場として開催されたが、水沢市以外の場所でアテルイをテーマにした講座をこれだけ連続して開催したのは初めてのことであろう。

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 記念講演会は8月11日に水沢市の佐倉河公民館で開かれ、前岩手大学教授の高橋崇氏が「坂上田村麻呂と胆沢城」と題して講演した。高橋氏はアテルイに関しても研究しており、水沢に来てふれないわけにはいかないだろうと、いくつかの問題点を紹介し、関心を呼んだ。水沢市埋蔵文化財調査センターを会場に開催された連続講座では、8月24日の第1回に新野直吉氏(前秋田大学長)が「私と東北古代史とアテルイ」と題して講義した。これまでの著書でアテルイを取り上げてきた内容を詳細に紹介し、最初にアテルイを取り上げた本を出版したときには「国賊だと非難された」ことなども振り返った。そのうえで、「現在アテルイがあるべき座標を得て認められるに至ったのは、岩手県民のアテルイ顕彰の機運が高まったからだ」とこれまでの運動の取組みを評価した。

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 平成14年9月14日の午前10時から午後4時まで、≪延暦八年の会≫主催により水沢市の商工会館大ホールにおいて開催され、約二百人が参加した。◇基調報告[1]今泉隆雄氏(東北大学教授)「律令国家とエミシ~エミシ支配の基本政策~」、[2]熊谷公男(東北学院大学教授)「古代蝦夷の生業と社会構造~蝦夷の戦闘能力を手がかりとして~」◇研究報告[1]武田佐知子氏(大阪外国語大学教授)「律令国家と蝦夷の衣服」、[2]樋口知志氏(岩手大学助教授)「延暦八年胆沢の合戦の再検討」、[3]伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)「水沢地方における7・8世紀蝦夷社会の構造」◇シンポジウム「アテルイとエミシの時代」(司会:今泉隆雄氏)

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 当会の会員でもある杜かじかさんが6月に開設した"アテルイふぁんサイト"。"アテルイを通じた関西と東北(岩手)の交流"を掲げる行動派だけに、アテルイ関連イベントには必ずといってよいほど参加していて情報も豊富。HPで彼女の思いや活動を知るのも楽しい。「1200年の恨みなどを乗り越えて、地域同士の新しい交流が生まれることが、アテルイの「心」に応えることではないだろうか。」とは、"かじかさんのつぶやき"。

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 インターネット情報検索HPヤフー・ジャパンが、9月16日に行われたアテルイ没後1200年記念グランドステージの様子を取り上げた新聞記事の紹介を17日午後2時から18日未明まで掲載した。そのため普段は2,000件程度のアクセスが、17日だけでなんと47万件余りに上ったという。同HPは実行委員会の委託を受けてNPO法人アテルイビレッジネットワークが作成、管理しているが、委託期間以降もアテルイHPとして有志による継続を検討したいとしている。同HPのアドレスは、http://www.aterui.jp/

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[1]木村倶子著『ひらかた昔ばなし六 田村麻呂と阿弖流為 熱い友情』 枚方市伝承文化保存懇話会事務局、枚方市市民生活部文化観光課発行の木村さんの手作り冊子。木村さんの文は手書きの挿絵と同じようにほのぼのとしていてやさしさにあふれている。裏表紙には「田村麻呂と阿弖流為・相手のよさを知り深い友情を育てよう」の文も記されている。この「ひらかた昔ばなし」は、枚方市の(人口40万6808人)『広報ひらかた』1036号(9月1日)にも掲載された。
[2]水沢市社会科副読本『アテルイの里』 水沢市教育委員会がアテルイ没後千二百年を記念して作製し、市内の小学生4年生以上と中学生全員に配布した。A4判、八ページで、アテルイの歴史をわかりやすく、コンパクトにまとめたもので、郷土理解を深める学習教材として活用される。
[3]胆江青年懇話会『創作シナリオ・北の耀星~アテルイ~』(2002.7) アテルイ没後千二百年記念として作成されたもので、京都市の有済小学校の児童が演じたアテルイをテーマにした創作人権劇の台本を若干手直しして発刊した。冊子は五百部作製され胆江管内の小学校、子供会育成会などに配布された。
金ヶ崎町立西小学校の6年生14人が創作劇に取組み、10月26日、同校の学習発表会で上演した。

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[1]久慈力著『蝦夷・アテルイの戦い』(批評社2002.7) 前編が「エミシとは何か」、中編が「大和朝廷とは何か」で、後編が「アテルイの戦いとは何か」。その小見出しに、「アテルイは謀略によって拉致された」「桓武、田村麻呂、公家による騙し討ち」「百済亡命者の根拠地にアテルイは封殺された」と見えるように、田村麻呂の「善意」を信じないとし、「彼は国史の編纂者同様、老獪な渡来人である。」という認識に立つ。そして、「ヒタカミ大戦争はエミシ側の勝利」ということもできる、という。筆者は「むじくれ・天の邪鬼」を宣言。
[2]佐藤秀昭・文『アテルイ』(岩手日報社2002.7) 長編アニメ「アテルイ」のストーリーブック。映画を監修した佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)の文で、最初に歴史的背景を「アテルイが活躍したころ」として、わかりやすく説明している。A5判、百ページ、千二百円。
[3]中島かずき著『アテルイ』(論創社2002.8) 8月に新橋演舞場で上演された市川染五郎主演『アテルイ』の台本。「日の国若き時、其の東の夷に蝦夷あり。彼ら野に在りて、未だ王化に染はず。山を駆けること禽の如く、草を走ること獣の如し。かの長の名は阿弖流為。帝、これを悪路王と呼び、邪しき神姦しき鬼と怖れたり。」 この最初に掲げられた文章からして、的確な切り口からする展開の面白さを十分に予感させるし、実際にも期待を裏切らなかった。
[4]千葉周秋編著『エミシ・タムラマロ伝説』(自費出版2002.9) 前半にエミシと田村麻呂に関する東北各地の伝説302編、後半に岩手県内の寺社などに伝わるエミシ伝承を地域別にまとめた。A5判278P、2千円。

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[1]『週間 ビジュアル日本の歴史 奈良から平安へ5』(デアゴスティーニ2001.12) 第四章 呪われた桓武朝 のFOCUS で、「桓武天皇こだわりの蝦夷征討大作戦」を検証。第五章 中央政権への蝦夷の反抗 には「朝廷軍を手こずらせた謎の蝦夷総帥・阿弖流為」の見出しでアテルイについて詳しく紹介している。
[2]『週間 再現日本史 原始・奈良10』(講談社2002.3)ニュース・ファイル「『国家鎮護』と女帝」(目録752~793)の1ページ目には悪路王首像の大きな写真を背景に"大和政権の蝦夷侵攻と城柵"の図があり、「●アテルイ、勝つ!(延暦8年6月3日)北上川中流で、五万人余の政府軍にゲリラ戦を挑んだ蝦夷軍が、大勝した。写真は、首長・アテルイがモデルと伝わる悪路王の首像」との説明文がある。"歴史瓦版"の発見のコーナーでは、岩手発として「蝦夷・阿弖流為の砦か 巣伏の古戦場で遺構発掘」との見だしで昨秋実地した羽黒山市民発掘の成果を紹介している。  
[3]『ふうらい』(六花舎2002.4) "フィールドワークで岩手の謎に挑む"という季刊誌で、特集に「鬼(エミシ)紀行」を組んだ。表紙には悪路王首像の横顔のアップ写真。紀行そのⅠ「誇り高きエミシの魂は、永遠に生き続ける。」(文◎高橋政彦)は、アテルイを軸にした内容(8ページ)になっている。 
[4]『歴史読本』4月号(2002.4) 3分で読める歴史ドラマ≪れきどくショートショート専科≫に、読者の松平稲五郎さんが投稿した「古代みちのくの英雄」が掲載されている(2ページ)。「...それから半年ほど経った年の暮れ、襤褸のような衣を纏った坊主が、アテルイとモレの晒し首の前にきて額ずいた。...坊主は涙を流して謝っている。この坊主こそ誰あろう、かつての征夷大将軍坂上田村麻呂の成れの果てであった。」で、お終い。
[5]『トランヴェール』6月号(2002.6) JR東日本が発行している旅情報誌。「みちのく歴史紀行・その名は阿弖流為」の大特集が組まれた(18ページ)。アテルイの人物像などに触れているほか、水沢市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸副所長が延暦八年の戦いの想定図や、各地の遺跡の出土品から東北古代の社会について解説、後半は「アテルイの面影を旅する」と銘打ちアテルイに関係した歴史スポットをたどるモデルコースを紹介している。同誌はJR東日本管内を走る特急グリーン車内で無料配布されたほか、駅売店で三百円で販売された。
[6]『NEXT Stage 』Vol.31(2002.6) 季刊の"いわて就職情報誌"で、橋本祐子さんが「【アテルイブーム】現代の岩手に息づく蝦夷の英雄の物語」を書いている(2ページ)。
[7]『歴史街道』6月号(2002.6) 中津文彦氏の「東北の英雄・アテルイが「逆賊」にされた本当の理由」が載っている(7ページ)。アテルイは「朝廷への帰順を申し出、そのかわり徴税システムを守ってほしい、と訴えたかったのではないか。」とし、その訴えを一蹴した朝廷は、「黄金さえ手に入ればよかった。できるだけ多くを収奪できれば、陸奥国の安定などはどうでもよかったのだ。」とする。それが"本当の理由"?。
[8]『 Basic 』第56号(2002.7) 「アテルイ(阿弖流為)・1200年目のメッセージ。」として、記念事業の多彩な内容とアテルイ顕彰の取組み経過などを紹介(4ページ)している。同誌は一関市の㈱平野組が発行している"くらしと文化の地域情報誌"。
[9]『岩手経済研究』9月号(岩手経済研究所2002.7) 巻頭の"やまびこ"に、新田清二水沢商工会議所会頭が「アテルイと田村麻呂、歴史文化の中に新たな胎動」を寄稿している。アテルイ没後千二百年にふれ、「アテルイを通じたコミュニティとチャレンジを梃子として、地域の再生を果たしたい」という。
[10]『地域づくり』第158号(2002.8) 財団法人地域活性化センターが発行する"地域活性化のための情報誌"。そのトピックスに水沢市を取り上げ、同市社教課の佐久間氏が「没後千二百年でイベント目白押し、アテルイを英雄として評価」のタイトルで取組みの内容を紹介(1ページ)している。

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 平成14年7月1日発売のビジネスジャンプ増刊『ビージャンこん』№7(集英社)に掲載された58ページの長編漫画。歴史的には「呰麻呂の反乱」までで終っているが、ストーリーに工夫が見られ、今後の続編が期待される。池田氏は水沢市内に在住していて、『ビジネスジャンプ』に「BAR来夢来人」を連載しているプロの漫画家。

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[1]蕨手刀のペーパーナイフ 水沢鋳物工業協同組合が製作した。約10cmほどの長さで細く小さいが、刃の部分に"阿弖流為"と彫ってあるのがうれしい。六百円。
[2]鋳物風鈴 水沢市羽田町の及勘鋳造所が、アテルイ没後・胆沢城造営1200年を記念してアテルイと坂上田村麻呂の顔をかたどった鋳物風鈴を製作した。製品名は「福鈴アテルイと田村麻呂」。一個の大きさは高さ7㌢、幅5㌢、奥行き4㌢で、重さは約200㌘。下地が金色でできており、アテルイは黄緑、田村麻呂がやや青味がかっている。販売価格はセットで千五百円。どちらもユーモラスな表情だが、どういうわけか、田村麻呂が鉢巻をしているのがご愛嬌。

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[1]和紙人形アテルイ 金ヶ崎町に"さわはん工房"を構える澤藤範次郎さんが製作した成島和紙を使った張り子。馬にまたがり、ヤリを構えるがどこか人間臭く親しみやすい。高さ14㌢、幅12㌢。澤藤さんは平成4年に兵を踏みつける大型のアテルイ人形を製作し、東北ふるさと物産展最高位の東北通算局長賞を受賞した。
[2]繭細工人形アテルイ 盛岡市の村田民芸工房の村田三樹二郎さんがアテルイ没後千二百年を記念して製作した。槍を持った木片の胴体に繭細工の愛きょうたっぷりの頭をのせた体長約10㌢のかわいい人形。
[3]樹脂製ミニ胸像型のアテルイと田村麻呂人形 水沢市駅通りのチャレンジショップ「あきんど考房21」に出店している"ペーパームーン"の福島研一さんが製作にとりかかり、試作品を完成させた。高さ12㌢、幅8㌢。両人形ともなかなかの出来あがり。価格は一個千円。福島さんはアテルイ手拭も製作した。 

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