第68号(2016年8月22日)12P

アテルイの処刑地について~「牡山(男山)」説への疑問~

朝倉授

東北の古代史シリーズ第四巻の鈴木拓也編『三十八年戦争と蝦夷政策の転換』(吉川弘文館、2016年6月)が発刊された。このなかで、鈴木拓也氏(近畿大学教授)は序の「三十八年戦争とその後の東北」、第一章の「光仁・桓武朝の征夷」、第二章の「征夷の終焉と蝦夷政策の転換」を執筆しているほかに、第一章に関連したコラムとして「阿弖流為の処刑地」も執筆している。
そこで鈴木氏は、アテルイの処刑地を「(おとこ)(やま)」とする西本昌弘氏(関西大学教授)の説をとりあげ、自身の見解等も加えつつ、西本説の「優れている」ところなどをあげて肯定的に評価している。これにより、西本氏が提示した「牡山」説は、有力な新説であるがごとくに、今後に注目されていくことになるのかも知れない。

1.牡山(おとこやま)」と「杜山(もりやま)

「牡山」は、京都府南西部で桂川、宇治川、木津川が合流して淀川となる地点の東に位置する丘陵で、大阪府とも接する八幡(やわた)市の男山(おとこやま)のことである。
山上には石清水八幡宮が鎮座し、八幡山の愛称でも知られている。
古代の男山は、「雄徳山」とも記されているが、アテルイが処刑されたころは「牡山」(『日本後紀』延暦15年9月1日条)とも表記されていた。

西本氏は自著の『桓武天皇~造都と征夷を宿命づけられた帝王~』(山川出版社、2013年)において、「阿弖流為らは八月に河内(かわち)国の「杜山(もりやま)」(「植山(うえやま)」とも)で斬首された。
「杜山」は「(おとこ)(やま)」(男山)の誤写であろう。」とし、アテルイの処刑地を「牡山(男山)」とする見解を提示していた。

アテルイの処刑地は『日本(にほん)()(りゃく)』の延暦21年8月13日条によって知られており、それに言及する歴史学者らの著作には処刑地を河内国の「杜山(もりやま)」と記述しているものが多くある。
それは現在に普及する新訂増補国史大系『日本紀略』(吉川弘文館)の当該条に「河内國杜山」とあることによる。
しかし、その旧版である国史大系『日本紀略』(経済雑誌社)や増補六国史『日本後紀(にほんこうき)(逸文)』(朝日新聞社)の当該条には「河内國植山(うえやま)」とあった。
さらに『日本後紀』の散逸部分を『日本紀略』等で補った鴨祐之(かものすけゆき)日本(にほん)逸史(いつし)』は、国史大系本、新訂増補国史大系本とも処刑地を「河内國椙山(すぎやま)」としていた。
平安時代末期頃の成立という『日本紀略』の原本は既に散逸し、その写本だけが残っているが、それも書写の過程で誤写が含まれたことにより、これまでの刊本が底本とした写本によって「杜山」「植山」「椙山」という異なった処刑地が記述されることになったのであった。

アテルイに対する関心の高まりのなかで、処刑地としてどれが正しいのか、その埋葬地はどこか、ということも盛んに語られるようになった。
この問題に関する研究を大きくすすめたのが神英雄氏(当時、竜谷大学講師)で、その論文が「蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察」(『歴史と伝承』1988年)であった。

神氏は現存する当該条が含まれる『日本紀略』の写本30程のうち、宮内庁書陵部所蔵の久邇宮(くにのみや)文庫本を始めとする23本について実際に閲覧し、調査した。
その結果は、処刑地として、「椙山」とあるのが最も多くて9例、「植山」とあるのが4例、「榲山」と見えるのが2例、「木山(または木(へん)の右側の(つくり)の部分が欠けているものなど)」が4例、「山」の前の字が「植」の略字(木(へん)(つくり)は本の字の下にノ)になっているのが2例、「山」の前にくる字がまったく欠字となっている「□山」が2例であった。

「杜山」とあるものは一例もなく、新訂増補国史大系『日本紀略』の記す「杜山」が誤写であることが判明したのであった。
その原因は底本とした久邇宮文庫本の「植」字のくずし字を「杜」に読み誤ったことであった。

さらに神氏は、「榲山」が、「植」の(つくり)の「直」に「椙」の(つくり)の「昌」を重ね書きして、「椙」字に似せて「榲」字ようになったもので、このことは江戸時代初期に処刑地を「椙山」とする考え方が有力であったことを示すとした。
また「植山」とある写本はいずれも同一系統のものであるが、「椙山」の写本を一つに求めることは困難であるということから、『日本紀略』の原本に掲載されていた本来の文字は「椙山」であるとした。

これに対し今泉隆雄氏(当時、東北大学教授)は、「杜山が誤りであることを認めるが、神の根拠では一概に植山が誤りで椙山が正しいとはいえない」(「三人の蝦夷」脚注1995年)とし、「椙山」が原本の文字であると結論づけるには、根拠が十分ではないことを指摘している。ここまでが処刑地として記載された文字に関する研究の現状であろう。

西本氏は、アテルイの処刑地が河内国の「杜山(植山とも)」であることを前提にしていた。
植山説もあることの認識はあったが、「杜山」の誤りがすでに明確になっていることは念頭になかったようである。
だから、男山の古代の表記に「牡山」があり、「杜山」の字と非常に似ているところから、誤字ではないかと推測したのであろう。
しかも、河内国に「杜山」という山はないが、「牡山」は表記を変えて男山として現存しており、それは何よりの強みとして自説を主張できると考えたであろう。

だが、すでに神氏の調査で明らかとなった誤認した字の「杜」に、「牡」の字がかなり似ているとしても、そこに何の意味はない。
「植」のくずし字を「杜」だけではなく、「牡」字にも誤認する可能性があったというぐらいのことである。
西本説ははじめから成立せず、新説とはなりえないものであった。
あえて取り上げることの必要性もなかった。

ところが、鈴木拓也氏は前掲書のコラム「阿弖流為の処刑地」において、「「杜」は「植」の誤認である」と神氏の指摘を認めながら、続けて「「植」と「牡」の字は字形が似ていないこともない」と意味不明なことを述べ、西本説の「優れている」指摘の説明に移るのである。
これは、どのように理解すればいいのだろうか。
西本説の基本的な誤りを指摘することなく論を進めていることからは、写本にある「植山」は「字形が似ていないこともない」ので、本来の文字は「牡山」であるかもしれない、という意味なのか。
「杜」は「植」の誤認であるが、その「植」も「牡」の誤認(誤写)かも、という見解なのかもしれないが、何度も確認するように、神氏の調査した写本に「杜山」とするものはなかったし、「牡山」とするものもない。
調査からは「椙山」か「植山」であって、「牡山」が潜り込む余地はないのである。
鈴木氏はもっと明確に説明する必要がある。
 

2.江戸時代の歴史書等に見えるアテルイの処刑地

神氏の調査によると、現存する『日本紀略』の当該条を含む写本は、古いものでも江戸時代初期のものであるという。
調査した写本23本の内、書写の時期を江戸末期とするものが5本、明治期が4本あるなど、比較的新しい写本が含まれている。

江戸時代に編纂された歴史書等のアテルイの処刑地に関する記述も、当時に現存していた『日本紀略』のいずれかの写本を典拠としたのであろうから、これの検討も参考とするべきものになるかもしれない。

(1)林羅山・鵞峰編纂『本(ほん)朝(ちょう)通(つ)鑑(がん)』(1670年完成)

江戸幕府が寛文二年(1662年)に林羅山の子の鵞峰に命じて編纂させ、寛文十年(1670年)に完成した全310巻であるが、長く幕府に秘蔵され世には出なかった。この巻之九の桓武天皇下に「斬ル於河内國岡山ニ」とあり、標柱にも「斬二夷梟帥大墓公磐具公於岡山一」とある。
「岡山」は神氏が調査したどの写本にもなく、似ている字といえるものもない。当時には伝わっていたまったく別系統の写本で、その後に紛失したものであろうか。現存する写本のほとんどの字は偏(へん)の部分を「木」としており、「岡」は字形からも異例で、どのようなことが考えられるのかも思い浮かばない。
未調査の写本も調査の必要があろう。

(2)長井定宗集編『本朝通紀』(1698年刊)

会津藩の長井定宗が神武天皇から後陽成天皇にいたる通史を漢文で記した全55巻で、通俗史書と評価されるが、江戸時代には広く読まれていたという。

巻十四の延暦二十一年に、「斬二二虜河内國杉山一」とある。
この「杉山(すぎやま)」も現存する写本には一例もない。
ただ「(すぎ)」字は地名において「(すぎ)」字から変化することもあり、まったくの推測であるが、編者の長井定宗が当時の河内国杉村に着目し、その丘陵部を「杉山」と呼んでいたかもしれないことから、写本の「椙山」を「杉山」に変えて記載したと考えることもできるかもしれない。

建春山人橘墩『前々太平記』(1715年)は歴史書とはいえないが、巻之八「田村麻呂夷賊退治并任官位之事」において、「二人の族長河内国杉山に於て斬られける。」と記述している。
本書は『本朝通紀』に拠っている部分が多いといい、アテルイの処刑地を「杉山」とするのも同書に拠ったものであろう。

処刑地を「杉山」と記述する歴史書等は、明治の時代に入っても散見する。 『本朝通紀』『前々太平記』に拠るとみられるが、以下に羅列する。

  • 青山延光編『国史紀事本末』八(1871年)に、「河内杉山、日本紀略」
  • 近藤芳樹『十(と)符(ふ)の管薦(すがこも)』(1876年)に、「杉山」
  • 『田村将軍一代記』(1889年)に、「...大墓盤具とも河内国杉山に於て死罪」
  • 藤原相之助「田村麿と奥羽の鬼」(1942年)に、「河内の杉山で斬殺した」

(3)徳川光圀編纂『大日本史』

水戸藩二代藩主徳川光圀により1657年に編纂事業が開始され、1906年(明治39年)に完成した本紀73巻、列伝170巻、志126巻、表28巻からなる紀伝体の歴史書。
ただし、本紀と列伝は1715年(正徳5年)には完成していたといわれ、1720年(享保5年)には享保本が幕府に献上されている。

アテルイの処刑地については、本紀には「斬蝦夷二酋」とあるだけで記載はなく、列伝の蝦夷下に「斬于河内」、列伝の坂上田村麻呂伝に「斬於河内植山」とする記載がある。これについては出典を『日本紀略』と明記している。

アテルイの処刑地を「植山」と記述する歴史書等は、江戸時代において『大日本史』のほかにはない。 明治の時代に入ってからは、以下に羅列する。

  • 大森金五郎・重田定一『国史読本』巻上(1898年)に、「河内國植山。(日本紀略)
  • 吉田東伍『大日本地名辞書』(1900年)に、「蝦夷二虜を河内植山に斬る...」
  • 谷口流鶯『大日本史列伝訓解』(1901年)に、「河()植山(ハニヤマ)
  • 馬淵冷佑『尋常小学読本参考』(1911年)に、「植山...日本紀略
  • 山路弥吉訳『訳文大日本史』三(1912年)に、「河内の植山(たてやま)に斬る」
  • 池田晃淵『平安朝時代史』(1915年)に、「紀略に「...植山」とあり。」
  • 早稲田大学編集部編『平安朝史』(1915年)に、「紀略に「...植山」とあり。」
  • 『訳注大日本史』(1939年)に、「河内の植山(たてやま)に斬る」

(4)(かもの)(すけ)(ゆき)『日本逸史(いつし)』(1692年完成、1724年刊)

国学者で神官でもあった鴨祐之が、散逸していた『日本後紀』の復元を試み、『日本紀略』他の文献から当代の史料を拾い集めて編纂した40巻20冊である。
一般には享保9年(1724)の刊本が流布したという。

享保九年刊本を底本とする旧国史大系本、鴨県主裕之清書本を底本とする新訂増補国史大系本に「河内國椙山」とある。
神氏が調査した書陵部所蔵の宝永七年(1710年)書写の四冊本にも「河内國椙山」とあった。

(5)佐久間義和『奥羽観蹟聞(おううかんせきもん)老志(ろうし)』(1719年)

仙台藩の儒学者佐久間洞巌(本名義和)による仙台藩の地誌全20巻で、巻之十の膽澤郡に『日本紀略』の当該条が掲載されており、処刑地について「斬河内國椙山」とある。
『日本逸史』の当該条とは8カ所の異同があり、他の写本から引用したものとみられる。
神氏が調査した諸写本にも含まれていない可能性がある。
処刑地を「椙山」とする明治以降の文献について、以下に羅列する。

  • 高平真藤『平泉志』(1907年)に、「河内国椙山」
  • 伊能嘉矩「古奥に於ける東夷」(?年)に、「河内の椙山に斬殺せり」
  • 京都府師範学校編輯『小学国史教師用書 史料詳解〔上巻〕』(1934年)に、「(すぎ)山」
  • 『訳注大日本史』一(1939年)の「二酋を斬る」の脚注に、「...河内国椙山に斬る。」

3.処刑地の現地比定

吉田東伍『大日本地名辞書』(1900年)は河内国の北河内郡宇山の項で、『大日本史』を引用して「蝦夷二虜を河内植山に斬ると云ふは此れなるべし」と、アテルイの処刑地について最初の現地比定を行った。
「植山」を大阪府枚方(ひらかた)宇山(うやま)(旧交野(かたの)郡宇山村)に比定したのである。
宇山村は元和年間に上山村から改称したものであり、「植山」からの変化の可能性がある。
上山村の初見は文禄3年(1594)の検地帳にみえる「河州牧之郷上山村」である。

「椙山」を本来の字とした神氏は、それを枚方市の杉地区(旧交野郡杉村)に比定した。
その初見は枚方市三宮神社文書の『交野郡五ケ郷惣侍連名帳』(1559年)で、「杉村」が記されている。
この旧杉村の村域は穂谷川流域の河谷平野と周辺の丘陵に広がる。

鈴木拓也氏は処刑地に関して、「『日本紀略』は郡名を記していないのであるから、植山にせよ椙山にせよ、交野郡内に求めるべき確かな根拠はなく、河内国全体に候補地を求めることも可能である。阿弖流為・母礼の処刑地は、今のところ不明としておくしかない。」(『蝦夷と東北戦争』2008年)としていた。
コラムでは、『日本紀略』にあるアテルイの処刑地が「河内国椙山」もしくは「河内国植山」とあって、「村」や「郷」がついていないことから、「植山」「椙山」は山で結ぶ地名ではなく「山そのもの」で、しかも郡名がないということは「国名だけでそれとわかる著名な山」であったと考えられるとした。
「植山」の比定地である宇山町は「平地」で、「椙山」の比定地である「杉」は「河谷平野と丘陵地」であるから、いずれも処刑地ではないと結論したのであった。
そのうえで西本説に接近し、「男山なら平安京に近く、のちに石清水八幡宮がつくられる著名な山である。」と、原本の文字の問題を実際には無視し、「著名な山」である「男山」に注目するのである。

「山そのもの」ということで「杉」を比定地から外しているが、杉の丘陵地一帯を「椙山(杉山)」と呼んでいた可能性も十分に考えられる。
また、旧杉村に接していた旧氷室村は831年に朝廷の氷室が置かれたことからする村名で、『枚方市史』はその場所を「旧氷室村大字杉」と推定している。
この地にはそれ以前から「椙山の氷室」として知られる氷室が営まれていた可能性があり、著名とまでは言わないまでも朝廷にも知られる山であったことも考えられるのである。
その可能性はまだ排除できない。

次に鈴木拓也氏は、「さらに西本説が優れているのは、同じ桓武朝に男山で斬刑が行われた例を指摘していることである。延暦四年の藤原種継暗殺事件で、実行犯の牡鹿木積麿らが「山崎椅(やまざきばし)の南の河の(ほとり)」で処刑されている。山崎橋の南はまさに男山である。」とする。
西本氏は「牡山烽火(とぶひ)は山城・河内両国の境界にあったが、七八五(延暦四)年には藤原種継暗殺事件の実行犯が「山埼椅(やまざきばし)(みなみの)()(とう)」で斬られている。山崎橋南詰の牡山は平安初期の刑場だったのであろう。」(前掲書)と述べていた。
西本氏が述べる「牡山は平安初期の刑場だった」という歴史的事実はないであろう。
鈴木氏は西本説が「優れている」のは、「同じ桓武朝に男山で斬刑が行われた例」を指摘していることだという。
どこに「男山で斬刑が行われた例」を指摘しているというのだろうか。
藤原種継暗殺事件の実行犯が「山埼椅(やまざきばし)(みなみの)()(とう)」で斬られた例を指摘しているが、男山は斬刑が行われた場所の南面の背景をなすものにすぎない。

続けて鈴木氏は、「桓武天皇が山崎橋の南の男山で阿弖流為らを処刑したとすれば」と、いくつかの「興味深い事実」なるものを述べる。

[1]まず、当時の山崎橋は、桓武天皇自身が長岡京の造営と同時進行でつくらせたもので、「桓武にとってはみずからの征夷で捕らえた阿弖流為らの処刑地としてふさわしかったのであろう。」というのである。ふさわしかった云々は別にして、ここでは男山ではなく山崎橋をアテルイらの処刑地としている。

[2]もう一つは、山崎橋が南海道という幹線ルート上にあることで、「阿弖流為らは決して人目につかない山のふもとで殺されたのではなく、人通りの多い場所で公開処刑されたことになる。」という。山中でもなく、「山のふもと」でもない人通りの多い場所(山崎橋)で殺されたというのなら、それを男山(牡山)で処刑された、とはなるまい。

鈴木氏は「今泉隆雄は、牡鹿木積麿らが処刑された山崎橋の南が交通の要衝であり、人の会衆するところなので、そこでの死刑執行は、律令が規定する東西市でのそれと同じ意味をもったことを指摘している。」と最後に述べている。
アテルイの処刑地(山崎橋)も律令が規定する東西市での処刑と同じ意味を持っていたと言いたいようである。
今泉氏はアテルイらの植山または椙山での処刑は、衆人の面前での処罰を避ける「穏処での処刑」( 「三人の蝦夷」1995年)との見解を示し、死刑の執行例のひとつとして山崎橋での執行とその意味を述べていた。

神英雄氏は、「まず、原典批判重視の立場から、刊本により文字の異同を論じるのではなく、個々の写本によって文字の異同を比較・検討し、原本での文字を推定することが最も必要なのである。
しかる後に、現地比定を試み、斬殺地を明らかにすべきであると考える」(前掲書)としている。
そのとおりであると思う。

鈴木氏は西本氏の「牡山(男山)」説に従いながら、『日本紀略』当該条の原本の文字の推定から離れ、しかも「牡山(男山)」ではなく、その地に近い「山崎橋(の南の河のほとり)」がアテルイらの処刑地ではないかと主張しているようだ。
この場合『日本紀略』は、「斬於河内国山崎橋南」とでも記したであろうか。