第38号(2002年6月13日) 18P


梅草一郎「アテルイの降伏から斬殺まで」

はじめに

アテルイらの降伏から斬殺に至るまでの問題については、古代東北史研究の専門家である高橋崇氏、新野直吉氏、今泉隆雄氏、及川洵氏らが史書に記された内容からいくつかの注意すべき問題点をとりあげ、それぞれの見解を述べている。

これらの研究については伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)が平成12年度岩手史学会大会の研究発表で整理を試み、コメントも加えているが、氏がそのまとめで指摘したように、とりあげられている諸問題は個別的に考えるのではなく、全体的に関連する問題として再検討してみる必要があろう。

すなわち、

1
アテルイらの降伏をどうみるかということ、
2
降伏したアテルイ(阿弖流為)とモレト(母禮等)に「大墓公」「盤具公」という公姓がつけられているのはなぜかということ、
3
田村麻呂がアテルイとモレトを従えて京に向かった目的、
4
朝廷がアテルイとモレトを斬ることに決した経過、
5
京の市ではなく河内国椙山で斬った理由、

などについて、『日本後紀』に記されていたと考えられる僅かな史料(『日本紀略』と『類聚国史』の三つの記事)の考察を基本に、その整合的解釈から史実に迫ることが求められるのである。

以下、史料により具体的に検討を進めていくことにする。

1.アテルイらの降伏

「造陸奥國膽澤城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢田村麻呂ら言す、夷大墓公阿弖利為、盤具公母禮等、種類五百餘人を率て降る、と。」
(『類聚国史』巻百九十、延暦二十一年四月十五日条。『日本紀略』の同日条は前半部を「造陸奥國膽澤城使田村麿等言」とのみ記している。)

アテルイらが降伏したことを坂上田村麻呂らが言上したという記事である。田村麻呂は前年の延暦20年(801)に征夷大将軍として胆沢地方などの蝦夷〔えみし〕を「討伏」して凱旋(10月)したばかりであったが、年を明けた1月には陸奥国胆沢城の造営を命じられ現地で指揮をとっていた。
 

(1)降伏の背景

「降」は〔くだ-る〕で、「敵に負けて降参する」という意味以外には解釈できない。

それではまず最初に、アテルイらはなぜ降伏したのであろうか。
その背景、降伏に至る理由としては次のことが考えられる。

第一に、アテルイら胆沢の蝦夷抵抗勢力の孤立化が進んだことである。延暦八年の戦いでは朝廷軍に勝利したのであるが、その軍事的勝利も胆沢を中心とする蝦夷抵抗勢力の連携強化、抵抗戦線の拡大には進まなかった。逆に、朝廷側に帰降する蝦夷集団が相次ぐなど、胆沢の勢力との乖離がすすみ、孤立化の様相を深めていった。延暦11年1月には斯波村の胆沢公阿奴志己らが王化に帰したいと願い出ているが、この胆沢公は元々は胆沢地方に本拠をおく族長だったと考えられ、戦線離脱して斯波村に移住していたとみられる。同年11月には岩手県北部の蝦夷族長とみられる爾散南公阿波蘇、宇漢米公隠賀の二人が上京し、長岡京で饗されている。延暦八年の戦いではアテルイらの見事な作戦で撃退したとはいえ、朝廷軍の圧倒的な兵力と物量、侵入され焦土と化した胆沢の地の荒廃を聞き及び、続く第二次征討の大掛かりかつ紫波地方までを征討の目的地とする動きに怖れをなして、早めの判断をしたのであろう。蝦夷社会は族長中心の社会であり、律令国家との関係も濃淡の差があった。胆沢より北の和賀地方の族長(和我君計安壘)などは、天平9年(737)にはすでに帰服していて積極的に親国家的な行動をとっていたことが知られる。

さらに延暦二十年の第三次征討の前には、陸奥国の各城塞に帰降する夷俘が続々と集まり朝参が続いた(『類聚国史』延暦19年5月21日条)。この段階での和賀地方、稗貫地方の蝦夷族長の動きは史料にでてこないが、樋口知志氏(岩手大学助教授)が指摘しているように、「胆沢の勢力を背後から圧迫する存在になっていた可能性」(「9世紀の蝦夷政策」)すら考えられるのである。

第二に、胆沢地方の蝦夷社会の疲弊と戦力(蝦夷戦士)の激減があげられる。勝利した延暦八年の戦いでも89人の戦死者をだし、朝廷軍の焦土作戦により800戸が焼かれたのであった。また、征東将軍の紀古佐美が報告したように、水田や陸田(畠)に種を播くこともできず、農作業の時期を失ってしまったのであった。胆沢は「水陸万頃」と表現されたが、水田、陸田に依拠した生活であればあるほど、収穫ができない影響は深刻なものだったのである。

そして延暦十三年の戦いでは、村落75処が焼かれたほかに、戦死者(斬首)457人、捕虜150人、馬85疋が捕獲されるという大打撃を被ったのであった。延暦八年の戦いでの朝廷軍の死者は1,061人であるが、北上川に追い落とされて溺死した者を除く直接的な戦闘での戦死者は25人を数えるだけであった。蝦夷側にこれだけ多数の戦死者と捕虜がでる戦いというのは、ゲリラ戦によるものとは考えられない。また、アテルイが10万人の朝廷軍に無謀な正面戦を挑んだとも考えられないから、征夷副将軍として実質的な戦闘を指揮した田村麻呂による蝦夷軍の隠し砦などに対する大規模な包囲殲滅戦が行われたことなどが想定されるのである。それとも非戦闘員の避難キャンプへの攻撃を阻止するためなどの強いられた戦いであったのかもしれない。アテルイらは無事だったが、これまでにない凄絶な戦いが展開されたことは想像に難くない。当初兵士数の三分の一に及ぶかとも推定される600人以上の戦士を一挙に失ったのである。

その七年後の延暦20年には坂上田村麻呂を征夷大将軍とする四万人の朝廷軍が胆沢に侵入する。記録には「夷賊を討伏す」とあるだけだが、その表現からは田村麻呂が指揮する朝廷軍の攻勢にほとんど戦いにもならず敗れたこと、アテルイらはさらに山中奥深く追いやられたことが想像される。軍事的損害も相当にあったことであろう。

朝廷軍は第一次征討では衣川に軍営を設けたが、第二次征討では胆沢の平野部に軍営を進め、第三次征討では征討後も軍の一部を残留させて、そのまま胆沢城造営の準備(「造胆沢城所」?)をなしたのではないかと考えられる。

第三に、三度の征討後の延暦21年1月に坂上田村麻呂が胆沢城造営のために派遣され、あわせて坂東などから集められた浮浪人四千人が胆沢地方に移配されたことがある。これにより胆沢地方は山間地を除きほぼ完全に制圧され、恒常的な支配下におかれることになったのである。これを見ては、小勢力によるゲリラ的抵抗は継続できるとしても、常駐する朝廷軍と四千人もの浮浪人を退却させ、胆沢の地を奪回・維持するということは困難であると判断せざるをえなかったであろう。これ以上の犠牲を出してまで戦う意味が問われたのである。

また、これまでは朝廷軍の撤退後に復旧作業をし翌春からの耕種が可能であったが、今度は移植された浮浪人たちが各所に村をつくり蝦夷の田畑を我が物顔に耕し始めたのである。胆沢の蝦夷たちが長い時をかけて守り育ててきた土地が完全に奪われてしまったことの現実をまざまざと見せつけられたのであった。蝦夷たちにとっては造営中の胆沢城を見る以上にショックであったに違いない。それは精神的打撃にとどまるものではなかった。前年に続いて収穫できないという見通しは、逼迫する食料問題をより切実なものとして浮かび上がらせたであろう。備蓄した食料にも限界があったろうし、避難している蝦夷戦士と数千人ともなるその家族たちの食料は山中において賄えるものではなかった。早晩、飢餓的状況が訪れることは明白であった。

以上のことが、アテルイらが戦いをやめる決断をした大きな理由と考えられるのである。着々と完成に向かう胆沢城の威容と蝦夷の田畑を耕作する四千人の浮浪人たち、決断を下した時期はそのような4月中旬(今の5月中旬頃)前のことであった。

(2)降伏

アテルイとモレトらは戦いをやめる決断をしたうえで、田村麻呂の下に降伏した。伊治城において反乱を起こし按察使の紀広純らを殺害、多賀城を焼き討ちした伊治公呰麻呂の乱(780年)では、呰麻呂をはじめ、叛乱側に転じ「一以当千」と畏れられた伊佐西古、諸絞、八十嶋、乙代などのだれ一人として捕まることがなかったし、降伏した者もいなかった。伊治地方(宮城県北部)は十数年後にようやく朝廷側の支配に復したが、彼らの行方は知られなかった。しかし、アテルイはみずから降伏する道を選んだのである。しかも「種類五百余人」を率いての降伏であった。

「種類五百余人」の「種」も「類」も、意味は同じ「なかま、ともがら」であるが、「五百余人」の内訳については研究者によってもとらえ方がさまざまである。一番ひどいのが武光誠氏(明治学院大学教授)で、「その中の多くが、女子供や老人であったと思われる。...兵士は100人ていどだったろう。...阿弖流為の本拠地の村の住人と、それと同数ていどのあちこちの集団からはじき出された脱落者。」(『古代東北まつろわぬ者の系譜』)だというのである。一方、新野直吉氏は、「村落生活では隣保班長とか、ゲリラ戦の夷軍を編成した時は分隊長とでもいうようなしかるべき幹部までの人数なのであろう。」(『古代東北の兵乱』)とする。

朝廷軍が延暦八年に焼き討ちしたのは「十四村、宅八百許烟」と史書に記録されている。「烟」はカマドを意味しており、住居の戸数をあらわす単位である。「十四村...」はその数からして北上川の東側だけでなく、西側も合わせた地域のものと考えられる。及川洵氏は奈良時代の胆沢地方(胆沢・江刺)の人口数を澤田吾一氏と小山修三氏の研究を基礎に遺跡数から算出して「7,390人程度」(『アテルイをめぐる二、三の問題』)と推定している。また、及川氏は胆沢地方における竪穴住居の平均居住人数を一定の算式を用いて7.3人と算出しており、そうすると焼かれた住居に住んでいた人数は5,840人ほどということになる。朝廷軍の攻撃を受けなかった地域もあり、その割合を20%ぐらいとみれば、「7,390人程度」という胆沢の蝦夷の推定人口とも合致する。朝廷軍による度重なる焦土作戦をみても、戦時には婦女子、老人ら非戦闘員の殆ど(5,000人以上)は山中奥深くに組織的に避難、分散して非常時の生活をしていたと思われ、「種類五百余人」が最後まで残っていた一般住民を含むものであるとは考えることができない。

また、延暦八年の戦いでは少なくても1,500人から2,000人ぐらいまでの蝦夷戦士が参戦していた。三度の戦いのなかで戦死した者(89人+457人+α人)、深い傷を負った者(β人)、捕虜となった者(150人+γ人)、離脱した者(δ人)などを差引くと、500余人という人数はぎりぎりであっても十分に残っていたと考えられる。「種類五百余人」の内訳は最後まで戦い抜いた戦士たちであったと判断されるのである。

この降伏の仕方からは、アテルイら指導者と戦士たちの揺るがない信頼関係と、アテルイ、モレトの強固な統率力をうかがうことができる。指導者たるアテルイとモレトは、戦いをやめることを決めても胆沢の地から逃げなかったし、戦士たちも霧散しなかった。彼らは戦闘余力を残しながらも、胆沢の蝦夷として戦いをやめることの意思を降伏という形で明確に示したのである。それは、田村麻呂の投降勧告もあったであろうが、それ以上に彼ら戦士みずからの生命と引き換えても、残る多くの家族たちの生き残れる道を念じ、胆沢での生活の保証にわずかであれ希望を託すという意味をこめた崇高な行動であったと考えられる。

(3)田村麻呂の報告文

アテルイとモレトらは造営中の胆沢城において降伏した。500余人の戦士たちも武装解除し、整然と古の帰降の法に則って行われたであろう。それは「面縛待命」といわれるもので、両手を背に縛り面を前に向けて死生の裁決を待つのである。

これまで、降伏してきた蝦夷を斬った例はない。実際、田村麻呂も斬らなかった。それは田村麻呂がアテルイらに降伏を勧告していたということもあったろうが、見事な統率力をもって降伏してきたアテルイに対して、生かして後述するような役割を担わせたいとする考えが生まれたことが大きかったであろう。

田村麻呂はアテルイらが降伏してきたことを朝廷に報告する。その報告には、アテルイには「大墓公」、モレトには「盤具公」というように氏〔ウジ〕名に「公〔きみ〕」の姓〔かばね〕がつけられていた。『類従国史』『日本紀略』に伝わるこの件は、「...田村麻呂らが、「夷大墓公阿弖利為と盤具公母礼等が種類五百余名を率いて降伏しました。」と言上した。」というものであり、「 」内は田村麻呂の報告の一部を原形に忠実に採録したものと考えられる。

姓は天皇のみが賜与する権限を有しており、田村麻呂が勝手に姓を与えたということはないから、二人とも延暦八年の戦い以前に国家との関係をもち賜姓されていたと考えられる。岩手県北部地方の蝦夷族長らも公姓をもっていたが、ある時期までは国家側が蝦夷を取りこんでいく手段として有力族長に姓を積極的に与えていたのであろう。ただし、反乱に転じると、伊治公呰麻呂は「呰麻呂」、吉弥侯伊佐西古は「伊佐西古」というように名だけで記された。アテルイもその後、国家と対決するにいたって、『続日本紀』延暦八年条では「夷阿弖流為」と名のみで記されることになったのである。

アテルイとモレトのウジ名に公姓をつけて報告しているということは、報告の段階で田村麻呂は二人を国家に逆らった罪人としてではなく、国家側の人間とみなしているということを意味しよう。それは、たんに降伏したからということではない。降伏の仕方にもみられるアテルイの力量を田村麻呂が認め、その後の陸奥経営にアテルイらを国家側で活用(「賊類を招く」)するという方針を前提としていたからであった。おそらく、報告にはそのことが併せて記されていたのではなかったか。

胆沢地方の蝦夷征討では、「夷を以って夷を制する」という俘囚軍を先頭に立てた戦いができなかったが、俘囚を使って夷を懐ける(懐柔する)という方策により胆沢の蝦夷勢力の孤立化を進めたのであった。俘囚の吉弥侯部真麻呂、大伴部宿奈麻呂は「外虜を懐くる」功によって延暦11年10月に外従五位下を、俘囚の吉弥侯部荒嶋は「荒を懐くる」をもって同年11月に外従五位下を叙されている。田村麻呂の勝利は、圧倒的な軍事力によるだけではなく、懐柔・帰服策が有効に働いた結果でもあった。今泉隆雄氏は「征討の経験が豊かで現地の状況に通暁する田村麻呂は、懐柔・帰服策が征討などよりどれほど有利な方策かを熟知していた。...そして三度の征討に蝦夷軍の首長として対抗して声望の高い阿弖流為と母禮が帰服への仲介者となったならば、吉弥侯部真麻呂などと比べようもない大きな力を、この後計画されるさらに北方の征討で発揮できると考えていたであろう。」(「三人の蝦夷」)と述べているが、田村麻呂がアテルイとモレトに公姓をつけて報告しているのは、二人にそのような役割を果たさせることができると確信したからであったろう。

田村麻呂は「造陸奥国胆沢城使」に任ぜられていたが、奥羽の最高行政官である「陸奥出羽按察使」のほか、「陸奥守」「鎮守将軍」も兼任しており、陸奥における行政軍事の全権限を委ねられていた。田村麻呂の報告は、たんなるアテルイ降伏の報告にとどまらず、その後の蝦夷政策に関わる重要な方策を含むものであったと考えられるのである。

2.アテルイら京に向かう

「造陸奥國膽澤城使田村麿来たる。夷大墓公二人並びに従ふ。」
(『日本紀略』延暦二十一年七月十日条。なお、新訂増補国史大系『日本逸史』は同日条の「夷大墓公」の後に「盤具公」の脱落を推定し、「大墓公盤具公二人竝従」と補っている。)

田村麻呂は降伏したアテルイとモレトの二人を従えて京に向かった...。

(1)「二虜」と「二人」

「並従」は〔なら-びに〕〔したが-ふ〕で、「ともに従う」という意味である。そこには高橋富雄氏(「アテルイは、なぜ殺されたのか」)、新野直吉氏(「阿弖流為、その風土性豊かな復活」)が指摘しているように、束縛されて護送されているという様子を読み取ることができない。

「並従」の用語は、呰麻呂の乱に関する記述にも「時廣純建議造覚鼈柵。以遠戌候因率俘軍入。大楯呰麻呂並従。」(『続日本紀』寳亀十一年三月二十二日条)とある。「...(紀)広純が俘軍を率いて(伊治城に)入るとき、(道嶋)大楯と(伊治公)呰麻呂がともに従った。」というもので、同じ使い方である。しかも、紀広純に従った二人は「大楯」「呰麻呂」と名だけで記されているのに比べ、アテルイはここでも「夷大墓公」と記されており、「罪人」や「俘虜」として扱われているとはみえない。

次にとりあげる八月十三日条では、斬ることに決したアテルイとモレトを「二虜」「両虜」としているのに対し、七月十日条のこの時点では「二人」としていることでもそれは明かであろう。前述した田村麻呂の考えからしても当然のことであった。

田村麻呂が二人を従えて京に向かった目的について、高橋富雄氏は「戦犯として京上」(『蝦夷』)、高橋崇氏は「降伏⇒捕虜として連行、或いは桓武天皇の強い意向」(『律令国家東北史の研究』)、及川洵氏は「(裁判のため)刑部省に移送」(「アテルイをめぐる二、三の問題」)、今泉隆雄氏は「俘虜の京進」(「三人の蝦夷」)としているが、いずれも二人を捕虜の扱いとするものである。

一方、新野直吉氏は、アテルイらは「外交交渉」(『古代東北史の人々』)、「講和の交渉と調印」(『古代東北史』)を目的に上京したもので、もともと捕虜の扱いではなかったとする。アテルイらの降伏を「和睦の形で帰順」したとみているからであるが、最初に述べたようにそのような力関係にはなかった。

すでにみてきたように、アテルイらの処遇についての田村麻呂の考えは明確であった。そのうえで二人を従えて京に向かったのであるから、その目的とするところは、実際にも田村麻呂が申入れたようにアテルイとモレトを今後の蝦夷政策(「賊類を招く」懐柔・帰服策)の任にあたらせることについて、桓武天皇の裁可を直々に仰ぐためであったと考えられる。田村麻呂にすれば、二人に忠誠を誓わせ、桓武天皇の威徳を際立たせるとの考えもあったことであろうし、その後の二人の働きをより確実にし権威づけるものになるとも考えたであろう。

陸奥から平安京までは約一ヶ月の道のりである。そうすると6月10日前後には胆沢を出立したことになる。降伏の報告が4月15日であるから、その間の約2ヶ月は降伏した胆沢の蝦夷の処置に費やされたものか、もしくは胆沢城の完成を待って二人を従えて京に向かったと考えられる。

(2)アテルイらは入京したか

次の問題として、一般には「...田村麿来。」とあることをもって入京したとみているが、実際はどうであったかを疑ってみたい。というのは、アテルイとモレトを束縛することもなく従えている田村麻呂の一行を、朝廷が何事もなくすんなりと入京させたであろうかと考えるからである。検討できる余地として、七月十日条ははっきりと「入京」したとは記していないし、新羅使の来着と入京が別の意味で記載されている例(『続日本紀』慶雲二年条など)があるように、必ずしも「来」〔きた-る〕が「入京」を意味しているわけではないからである。

将軍らが征討を終え都に戻ったとの記録は、『続日本紀』では「事畢入朝」「還帰」「来帰」「自至陸奥」などと記されている。戦果をあげて入朝した将軍の場合は、恩寵を与えられたことなどが記録に加えられているが、はかばかしい戦果をあげることができなかった将軍については帰ったことを短く記しているだけである。田村麻呂の場合は、三度の征討で二十万人もの軍隊を繰り出しても屈しなかった蝦夷の首長アテルイをついに降伏させて戻ってきたのである。そうした情報は都に住むあらゆる人々の関心を呼び、凱旋といってもよい田村麻呂らの入京に都は騒然とした雰囲気に包まれたことであろう。本当に入京したのなら、「来...」とだけ記すような表現では足りない状況があったはずと思うのである。

それでは、「来る」というのはどこに来たということなのか。

地方に赴任していた国司が任期を終えて帰京するときであれ、自由に入京できるわけではなかった。一定の手続きが必要とされたのである。将軍の凱旋の場合は『儀式』(巻十)の「将軍進節刀儀」にあるように明確に定められていた。すなわち、将軍が入京するときは、【1】「去京一駅」に至ったら、先ず軍曹を遣わし入京させてそのことを太政官に告げる。【2】それを受けて大蔵省の官人が到着駅付近の河辺に「幄〔とばり〕」を設置する。【3】そこで派遣されてきた神祇官の祓禊をうけ戦場の穢れを払う。【4】次に天皇が派遣した使者が征討将軍らを慰労する。ということが行われて後に、京に入ることになるのである。

このときの田村麻呂は「造胆沢城使」であるが、将軍の凱旋に準じた手続きによって入京しようとしたことが考えられる。そうすると、田村麻呂は平安京から古代の東山道、東海道の初駅になる近江国勢多駅に到着して、随行の軍曹を太政官に走らせたのである。派遣された軍曹は田村麻呂が勢多駅に来着したことのほか、アテルイらを従えている状況も告げたであろう。七月十日条は、「...田村麿(勢多駅まで)来たる。夷大墓公二人並びに従ふ」という、そのときの報告を記したものではなかったか。

『日本紀略』に残る記録はそれだけであるが、筆者はそれに加えるべき内容があったことを想定する。桓武天皇から派遣された使者は田村麻呂らの労をねぎらったであろうが、その他の入京の手続き(儀式)は行われず、かわりに太政官からの特命が伝えられたと考えるのである。

田村麻呂がアテルイとモレトを捕虜として連行して来たのなら、何事もなく入京の手続きが進められたであろう。また、朝廷が田村麻呂の考えを是としていたのならば、これも何事もなく入京することができたであろう。その後の経過は、田村麻呂の考えが二人の斬殺ということをもって否定されたことを示している。

アテルイらを捕虜として束縛することもなく堂々と京に入れるということは、田村麻呂の考えを是として処することになる。二人をどのようなかたちで京に入れるかということが、その後の処置につながる分かれ目であった。近江国勢多駅到着までは田村麻呂の考えをもとに動いてきたが、ここに朝廷の意向が初めて示され事態が転換したとみるのである。ただし、田村麻呂の考えをあからさまに否定し、二人を捕虜として即座に京に入れるということはさすがにできなかった。桓武が信任する征夷の英雄たる坂上田村麻呂その人に大きな傷を負わせることになってしまうからである。おそらく、田村麻呂への配慮から、二人に対する最終的な処置が決まるまでは入京は認められないということで、問題を先送りにする方法がとられたものと推測する。

その場合、京に近く交通の要衝でもある勢多駅に足止めしておくのでは衆目が集まり、二人の身柄を確保しておくうえでも不都合であることから、アテルイとモレトを一旦別の場所に移すことを合わせて命じたであろう。桓武は藤原種継暗殺事件に関わったとして実弟の早良親王を一旦乙訓寺に幽閉し、その後に淡路配流を決めたことがある。同様の手法がこの時もとられたのではなかったか。

(3)交野への移送

アテルイとモレトが斬殺されたのは、河内国椙山(現在の枚方市杉地区)で交野郡内の地であった。なぜ、京を離れたその地が斬殺地となったのかについては、筆者も検討(「アテルイ最期の地について(続)」)してみたが、適当な理由を見出すことができなかった。推論に推論を重ねてのことであるが、ここではじめて河内国交野と結び付くのである。

アテルイとモレトの身柄を預けるのに最も適すると考えたところが、蝦夷征討にも深く関わって蝦夷をよく知り、桓武天皇の外戚として信頼も厚い百済王氏であった。この頃の百済王氏には、延暦23年に征夷副将軍に任命される百済王教雲、大同3年に陸奥介にも任官される鎮守府将軍の百済王教俊がおり、河内国の交野を本拠地として繁栄していた。もうひとつには、勢多駅近くの勢多津から琵琶湖より流れ出す瀬田川(山城国に入ると宇治川)を船で下り、淀川に出て支流の天野川を遡るか、その河口付近から陸路で百済王氏の本拠地へと向かうことができるという移送上の便があった。その場所は陸奥により遠く、陸奥への陸路は淀川と木津川が遮っていた。アテルイとモレトは百済王氏のもとにあずけられ、実質的な軟禁状態に置かれたものと考えるのである。

7月25日、『日本紀略』は「百官、表を抗げて蝦夷の平らぐことを賀す。」と記している。平安京のもろもろの役人が桓武天皇に文書を奉じて蝦夷平定を祝賀したのである。田村麻呂らの到着報告から半月を経てようやく祝賀の儀式が行われたのであるが、それは準備等のためというより、アテルイらを河内国交野に移送した田村麻呂の入京を待ってのことであったからではなかったろうか。

3.アテルイ、モレトの斬殺

「夷大墓公阿弖利為、盤具公母禮等を斬る。此の二虜は、並に奥地の賊首なり。
二虜を斬る時、将軍等申して云ふ。此の度は願ひに任せて返し入れ、其の賊類を招かんと。
而るに公卿執論して云ふ。野性獣心、反覆定まりなし。儻〔たまたま〕朝威に縁りて、此の梟帥を獲たり。
縦〔たと〕ひ申請に依り、奥地に放還するは、いふところの虎を養ひ患を遺すなり。即ち両虜を捉へ、河内國椙山にて斬る。」

(『日本紀略』延暦二十一年八月十三日条)

坂上田村麻呂の申入れにもかかわらず、アテルイとモレトを斬ったということの記事である。

(1)斬殺理由

斬った理由は、二人は「奥地の賊首」であるということであった。この「賊」とは、もちろん「盗賊」というような意味ではない。アテルイは延暦八年時にも「賊帥」と記録されたが、その後十数年にわたって朝廷軍の胆沢地方侵攻に抵抗した蝦夷の首長であった。「賊」とは朝廷に対する反逆者の意味で、二人はその首領であるというのである。

その罪状を律令法に照らしてみるならば、アテルイとモレトが以前に国家と関わり「公」の姓を持っていたことからして、八虐のなかの謀叛〔むほん〕に該当することになろう。八虐の第一である謀反〔むへん〕の「反」が、君主に面を向けて攻撃する意であるのに、「叛」は君主に背を向けてその秩序から離脱する意であるという。その刑は、「凡謀叛者絞。已上者、皆斬」(「賊盗律4」)とあるように「絞刑」で、実行すれば皆「斬刑」であった。

しかし、陸奥、出羽に関する"正史"の記述には「賊」のほかに「賊地」というような用語も使われていて、この「賊」の意味を単に「朝廷への反逆者」ととらえるのでは強引にすぎる感じがする。「賊地」は「夷地」や「狄地」とも呼びかえられるものであり、「賊」は未服の蝦夷(狄)というような意味も含んだ概念だと思われるのである。そうすると、二人は律令法に照らした「賊」として処置されたというのではなく、蝦夷政策における政治的判断によって処置されたと考えるほうが妥当なのかもしれない。呰麻呂の乱が勃発し伊佐西古らも反乱側に転じた時、光仁天皇(桓武の父)は「元凶の誅殺」と「俘虜の献上」を厳しく求めたのであったが、それが桓武朝の蝦夷政策の基底に継承されていて判断の基準になったとも考えられるのである。

二人を斬る時に、田村麻呂らが「この度は二人の願いに任せて陸奥の奥地に返し入れ、その賊類を招くようにさせたい。」と申入れたことが記されている。このときの田村麻呂は非参議であったが従三位と高い位にあり、また陸奥出羽按察使としても蝦夷政策に関して意見を申入れることができる立場にあったと考えられるが、「将軍等...」とあるから、鎮守将軍としての立場から申入れたということなのかもしれない。二人を従えてきた田村麻呂の考えはすでに伝わっていたが、二人を斬ることに反対して、あらためて主張したのである。

ただし、アテルイとモレトの二人が本当にそのような願いを持っていたかということについては疑問がある。前述したように、二人は生命を惜しんで降伏したわけでも、生命の保証を得たから降伏したわけでもなかった。そのような二人が「賊類を招く」ために働くこと、即ち生き延びることをみずから田村麻呂に願うなどとは考えにくいことである。二人は降伏を決めたときから、どのような運命も受け入れる心境にあったと思われる。二人は、残された戦士とその家族たちのことだけを思い、田村麻呂にすべてを任せたのであろう。田村麻呂からすれば、形の上であっても二人の自発的な願いということがなければ強く申入れることもできなかったと思われる。

"正史"は田村麻呂が申入れた内容に公卿〔くぎょう〕がどのような理由をもって反対したかまでもていねいに記録している。それはまず「野性獣心、反覆无定」と、蝦夷は「荒々しい性質で、獣のような人道にはずれた心」の持ち主であることをいい、「変心して信義を破るし、定まりというものがない」とする。そして二人を蛮族の大将や賊軍の首領を意味する「梟帥〔きょうすい〕」とし、その降伏を、「たまたま朝廷の威光によって、獲たものである」とみなすのである。「夷性狼心」や「狼子野心」と同じ伝統的蝦夷観を振りかざして、二人の降伏を打ち消したのである。

そのうえで、「かりに願い出のままに陸奥の奥地に放ち還すとしても、いふところの"虎を養ひ患を遺す"ということになる」と結論し、田村麻呂の申入れを退けたのであった。「養虎遺患」は、『史記』の項羽紀に見える「養虎自遺患也」という成句を引用(増補六国史『日本後紀逸文』標注)したものであるが、呰麻呂叛乱のこともあり、字句通りに危惧したのであろう。

(2)桓武天皇の意向

「公卿」とは、太政官の議政官と三位以上の位階を帯する者との総称であるが、「執論」したという公卿会議は議政官によって行われたのであろう。そのときの議政官を構成していたのは、右大臣で従二位の神王、大納言で正三位の壹志濃王、中納言で従三位の和家麻呂、藤原雄友、藤原内麻呂、参議で従三位の藤原乙叡、正四位上の紀梶長、正四位下の藤原縄主、従四位下の藤原緒嗣の8人であった。

左大臣は置かれず、最上位の公卿は二人とも皇族で占められていて桓武天皇の独裁に近い体制が成立していた。そこにおける結論は桓武の意向に沿ったものであることは無論のことであったろう。専門の研究者の見方にも、「阿弖利為等の処刑は桓武天皇の一方的意思だけで決せられた可能性も否定し切れないであろう」(高橋崇『律令国家東北史の研究』)、「桓武天皇の判断によって、その二人が死刑にされたのではあるまいか。」(武光誠『古代東北まつろわぬ者の系譜』)、「桓武は田村麻呂の助命嘆願を退けて阿弖流為を処刑」(熊谷公男「夷狄・諸蕃と天皇」)というような記述がみられる。

獄令の規定によれば、流以上の罪については上奏して勅断を待つことになるし、死刑の場合は天皇の執行命令が出ても処刑前に執行してよいか奏聞しその都度許可を得る必要があった。このような律令法に照らした手続きという面からみた場合でも、桓武がアテルイらの斬殺を是認する立場をとっていたことは明白であった。桓武は謀反した氷上川継を極刑ではなく遠流に減刑したこともあるが、アテルイらについては躊躇することもなかったようである。いずれにしろ、アテルイらを斬殺することに桓武天皇が深く関与していたことが垣間見られるのである。

桓武の意向は、朝廷の方針として田村麻呂らが勢多駅に到着した七月十日を境に具体的に動き始めた。『日本紀略』の七月十日条にすぐ続く七月十二日条は、「狼有り朱雀道を走る。人を殺すところと為す。」と記している。平安京の中央を走る朱雀大路に狼が出て人を噛み殺したということであろうが、はたして、これが事実としても"正史"に記すべきことであろうか。"正史"のなかには生き物の動きに仮託して何かを暗示させる記事がたびたび見られる。蝦夷が狼に例えられることがあるが、この記事はアテルイらを狼に擬して入京させ野放しにする危険を断じた桓武天皇の意向を表現したものであるとは考えられないであろうか。七月十二日という日は、田村麻呂らの勢多駅到着報告(十日)を受けて朝廷の特命(アテルイらの交野への移送)を伝えた日であると筆者は憶測するのだが、"正史"の編者は、そこに明確になった桓武の強い意向を狼の記事をもって示したのではなかったか。

そして『日本紀略』の翌日(十三日)条は、一転して「白鷺が朝堂院に集まる」と、蝦夷平定の祝賀につながる吉兆の記事を続けるのである。

(3)捉えて、斬る

田村麻呂の申入れは退けられた。それを受けて、「即両虜捉...」と八月十三日条は記している。そこで「両虜」を斬ったというのではなく、まず捉えたのであった。もともと捕虜であればすでに拘束されているわけで、あらためて捉えることもない。高橋崇氏は、「では、処刑が決まるまで捕虜扱いではなかったのか」(『律令国家東北史の研究』)と疑問を投げかけている。「促」は「つかまえてはなさない」という意である。筆者はアテルイとモレトの二人は百済王氏の本拠地にあずけられ軟禁状態におかれたと推理したが、それが実際であったならば、「捉えた」とする意味が理解できるものとなる。二人はここで初めて縄をかけられたのである。

この条でアテルイとモレトは「二人」ではなく、「二虜」「両虜」と呼ばれる。「虜」は一般的には「とりこ」という意味であるが、「えびす、蛮族」という意味もあり、"正史"においても蝦夷を「外虜」「逆虜」「夷虜」などと「虜」と表現する例が見られる。新野直吉氏は「虜」を「えびす」の意とし、斬ることに決まり「二人」から「二虜」と表記を変えたと解釈しているが、ここでは二人を「朝威によって獲たり」とする認識から「虜〔とりこ〕」というのであり、軟禁状態であれ実質的に「とりこ」の状態にあったことから「虜」の字を使用したとみてもいいのではないだろうか。

公卿会議の決定はすぐさま百済王氏のもとに伝えられ、二人はそこで捉えられたのであった。しかし、京に連行することはしないで「河内国椙山」で斬ったのである。「椙山」は現在の枚方市杉地区であったと考えられ、百済王氏の本拠地(枚方市の百済寺跡付近)から西に約5キロほどの穂谷川が流れる津田山中の渓間である。この杉地区に隣接する藤阪には「於爾墓〔おにつか〕」(現在の「伝王仁墓」)があるが、その場所はかっては御墓谷〔おはかだに〕と呼ばれていたところであった。この「御墓」とは、「大墓公阿弖利為」の「大墓〔おおはか〕」であって、「大墓公」が葬られている谷(=御墓谷)ということで伝わって来たのかもしれない。千二百年前のことで、殆どの手がかりが失われていることからすれば、貴重な地名である。

律令法に照らせば、二人を京の東西市で斬ることもできたであろう。それに準ずるような場所を選んで見せしめにすることもできたはずである。しかし二人を斬った場所は人知れぬ山中であった。それは「隠所」での処刑という見方もあるが、アテルイとモレトは蝦夷であってはじめから適用外であるし、二人に対する配慮があったとも考えられない。それはあくまで田村麻呂への配慮として選択されたものであったと考えるべきであろう。二人の「賊首」を斬るか、生かして利用すべきかは桓武と田村麻呂の蝦夷政策をめぐる相違であったが、斬殺の仕方については二人を従えてきた田村麻呂の誇りをいくらなりとも傷つけないよう配慮したものとみられるのである。

怨霊に苦しんだ桓武天皇がアテルイらを斬殺するのに平気であったのは、そもそも蝦夷を人とはみていなかったことによる。身分の低い者、ましてや人ともみなされない者は憤死するとも怨霊にならないのである。二人を京外で斬殺したのも怨霊を恐れてのことなどではなく、むしろ新京を蝦夷の血で汚すことを嫌ったためということが、もうひとつの理由にあったかもしれない。

アテルイらが斬殺されて13年後の弘仁6年、空海は友人の小野岑守が陸奥守に赴任するにあたって詩を贈っている。そこには、「彼らは虎や狼のように猛々しく、年老いたカラスのような目つきをしており、猪や鹿の毛皮を着ている。束ねた髪には毒を塗った矢を差し挟み、常に刀や矛を持っている。人を食するという悪鬼(羅刹)のようなもので、人とはいえない。時に村里を襲って千万の人と牛を殺して食べるのである。」(『性霊集』所收「贈野陸州歌」)という空海の蝦夷観が示されている。誇張されているとはいえ、おそらくそれは都人に共通する蝦夷観に近いものであったろう。

アテルイとモレトは田村麻呂に従い上京したが、結局のところ斬殺されることになった。それは田村麻呂に「だまされた」とか、「裏切られた」とかいうようなことではなく、桓武天皇と田村麻呂の蝦夷政策上の相違から生じた結果であった。桓武はそれから二年も経たないうちに田村麻呂をふたたび征夷大将軍に任ずるなど、あくまで征夷に執念を燃やし続けるのである。アテルイとモレトは、蝦夷を人とも見ない朝廷の手先になって生き長らえるよりは、むしろ斬られることに安堵したかもしれない。

氏家和典氏は、「帰服した夷、然も党類を率いて降った夷長をば、斬殺したのは、対蝦夷政策史上初の事件であって、これを以てしても、胆沢の抵抗がいかに大であったかが察せられる...」(「蝦夷の抵抗とその背景」)と指摘している。その後においても、降伏してきた蝦夷を斬ったという記録はない。

(4)『日本後紀』の編纂

八月十三日条は、アテルイとモレトを斬ることに反対する田村麻呂の申入れとそれを退けた公卿の論理を記していた。その記述の仕方は、田村麻呂の主張を第一にまず取り上げ、「而るに」とそれに対置する公卿の論理を第二に置いている。続く「公卿執論」の「執論」の意味をどう考えるか難しいが、「執」には物事にしつこく取りつくなどの意味があって、肯定的な意味において使用されているようにはみえない。一応、「公卿が議論を決めてかかって」とでも訳しておくが、どちらかというと公卿に批判的な記述になっていると思われるのである。

『類聚国史』『日本紀略』の原本である『日本後紀』は承和七年(840)の成立で、最初の撰者は大納言正三位藤原冬嗣、正三位中納言藤原緒嗣ら四人である。弘仁十年(819)に勅命があって編纂事業が進められたのであるが冬嗣は天長3年(826)に死亡するなど緒継一人が残り、その後は緒継が総裁となって完成させたのであった。『日本後紀』序文には「左大臣正二位臣藤原朝臣緒継」とその名が筆頭に記されている。

この緒継は、前述したがアテルイらを斬ることに決したときの公卿の一人である。緒嗣は桓武朝に貢献した藤原百川の長子で、そのときは弱冠29歳で参議に任命(6月19日)されたばかりであった。緒継は勅により菅野真道と殿上において「天下の徳政」を論じたことでも知られるように、「国の利害を奏せざるなし」と評される直言をこととする憂国の士であった。緒継は公卿会議の末席にありながらも、田村麻呂の申入れを支持した一人であったかもしれない。そして上位の公卿たちの姿を批判的に見ていたかもしれない。八月十三日条は、そのような緒継の関わり方を反映した記述となっているのではないだろうか。

当該条でもアテルイらは「夷大墓公阿弖利為」「盤具公母禮等」とフルネームで記されている。「虜」と表記し、斬ることに決しても、二人に公姓をつけて記述しているのである。それはおそらく、『日本後紀』の撰者たる諸継が田村麻呂の申入れにあった言葉(当初の報告と同じく「夷大墓公阿弖利為」「盤具公母禮等」という公姓のついた名)を尊重してそのまま採録することにより、田村麻呂の考えが本来の正しいあり方であったことを示そうとしたのではなかったろうか。蝦夷政策はすでに征夷の方針から懐柔、間接支配の方向に変り、田村麻呂の評価も固まっていたことから、そのような記述もなしえたと思われるのである。

中路正恒氏(東京造形芸術大学助教授)は『聖徳太子伝暦』(917年)にある「蝦夷綾糟」の事件を引いて興味深い分析を試みている。それは、蝦夷数千が辺境に侵攻してきたので敏達天皇が群臣に征討のことを議論させたとき、まだ少年だった聖徳太子が「衆生を滅ぼすこと」ではなく「まず魁帥を召して、大いに教え諭し、彼にしっかりとした誓いを立てさせ、そうして本拠地にもどし、十分な俸給をあたえ、そうしてその貧な性質をなくさせてはどうでしょうか」と答えたところ、天皇が大いに悦んで群臣に命じて綾糟を召した、という話である。聖徳太子の聡明さを語るための創作であるが、そこには作者の脳裏に延暦二十一年の事件のことが鮮明にあったこと、また「賢明な処置」とは当時どのように考えられていたかが示されている。そして、「桓武天皇の下、田村麻呂の助命嘆願にもかかわらず杜山の地で処刑されたアテルイ、モタイらは、側に太子のような聡明なアドバイザーを欠いていた桓武朝の不幸を体現したことになる。おそらく、その時の群臣たちの議論も、「衆生を滅ぼすこと」ばかりを唱えていた、と『伝暦』の作者には見えていたことだろう。」(『古代東北と王権』)というのである。公卿にあっても当時は若輩であった藤原緒継も同じように見えていたのではなかったろうか。

おわりに

アテルイとモレトが斬殺されて6年後の大同3年5月に、藤原緒継が田村麻呂の後任として陸奥出羽按察使に任命される。緒継はそのとき病身等を理由に再三にわたって任官を固辞するが許されず、翌年3月になってやっと陸奥の現地に赴任している。老齢を理由として任官を固辞した駿河麻呂の例はあるが、三度も辞退を願い出ているのはよほどの事情によるものか通常のこととは思われない。緒継が辞退を願う文書には、「...狂賊は病なく強勇常の如し。降者の徒の叛端既に見ゆ。これにより奥郡庶民、出走すること数度...」などと、陸奥が尋常な状態にないことを訴えている。しかし赴任後にそのような状況が実際にあると報告されることはなく、そこにはただただ陸奥国への赴任を怖れる心情だけが伝わるのである。それはアテルイとモレトの斬殺に対する蝦夷の怒りを知るからであり、その決定に中枢で関わったことからする報復への怯えが本当の理由ではなかったか。

同じ大同3年の7月には、鎮守将軍の百済王教俊が「遠く鎮所を離れ、常に国府に在り、もし非常有らば何ぞ機容を済さん」と叱責を受けている。鎮守府が多賀城から胆沢城に移っていたにもかかわらず、百済王教俊が胆沢の地に入ることを躊躇していた様子がうかがわれるのである。教俊の場合もアテルイ、モレトの斬殺に関わったことからする報復への特別な怯えが心底にあったのではなかったか。たまたま同時期になったが、二人のこのような行動の在り方は、偶然のこととだけは思われないのである。

朝廷軍と十数年間にわたって戦い、ついには降伏するも斬殺されたアテルイとモレトのことは陸奥中に知れ渡り、長く語り継がれたであろう。そして蝦夷の地に新たに移り住んだ人々の蝦夷に対する畏怖の念は、いつしか田村麻呂と悪路王の伝説を生む素地にもなっていくのである。

アテルイとモレトが斬殺された延暦二十一年の八月丁酉(十三日)は、西暦では802年9月17日になる。平成14年(2002年)の今年がアテルイとモレトの没後千二百年にあたっている。