情報124 特集:インターネット・ホームページ(古いのも含む)から

【1】 競走馬アテルイ http://www.rnac.ne.jp/^eclipsc/race1998/race0405.htm
1998年4月5日、第1回水沢競馬2日目に出走したアテルイ(アラブ系牝4才)。同年9月には、はるか佐賀県の第12回佐賀競馬に。12月の第17回佐賀競馬2日目の第2レースでは5着という成績。その後は消息不明。いま何処に...。
【2】 ひのきみ通信第6号 http://member.nifty.ne.jp/hinokimi/html/97/006.htm 
 千葉県の教員関係団体の発行物か?。1997年11月に自民党が提出した「適正な教科書検定を求める意見書案」を採択した千葉県議会を批判、歴史教科書問題をとりあげている。その中で、意見書に賛成する船橋の中学校教師のアピールを紹介している。「現在使っている教科書は恐ろしいことに韓国で使っても受け入れられるもの。教科書通り教えれば...古代では坂上田村麻呂ではなく、反乱者のアテルイを英雄視し、朝鮮出兵の豊臣秀吉は侵略者で、抵抗者のイ・スンマンを英雄視する。...こんな教科書は使いたくない。ぜひ直してほしい。」というもの。4、5年前のアピールではあるが、こんな先生はいまもいるのであろう。
【3】 ゲストブック:tsunekiyo より http://members.tripod.co.jp/bin/gb?member-name=tsunekiyo
 アテルイに関して  蝦夷(えみし)の族長として、大和朝廷と戦った人物。大和朝廷側の総大将は、征夷大将軍「坂上田村麻呂」である。西暦800年頃、長い戦いが繰り広げられ、田村麻呂もかなり苦戦した。そこで、和平交渉を結ぶことになり、蝦夷側の族長アテルイともう1名が代表として京の都に同行した。しかし、京の都ではその気はなく、だまし討ちのような形で、加茂の河原において斬首された。ところが、朝廷側は「たたり」を恐れその2名の魂を鎮めるため、清水寺に鎮魂碑を建立したという。そして、毎年天皇がその碑を詣でているらしい。...
 From:がじ  Date:Sun May 21 09:41:10 2000
【4】 達曽(たっそ)拓也の国会便りV2/7月第4週号  http://www.sphere.ad.jp/tasso/000718.htm
 「火怨」は、朝廷軍による蝦夷征伐に立ち向かったアテルイの戦いを描いたものです。私は今回の総選挙、特に岩手県における選挙戦を「西暦2000年のアテルイの戦い」と呼んだところ、マスコミにも大いに取り上げられました。朝廷が派遣する大軍を次々にうち負かし、蝦夷の独立、そして何より蝦夷の心を守り抜いたアテルイとその同志たち。「改革の政治」の理想と、その理想にかける岩手県民の心を守り抜こうとする、自由党岩手県連の戦いに重なるものでありました。アテルイは我々にとって「神」であります。NHK大河ドラマ「炎立つ」の最終回、藤原泰衡=経清が死を迎えようとするとき、安倍貞任、宗任らの霊がやってきて口々に「アテルイのもとへ行こう!」と言う泣けるシーンがありますが、みちのくに生まれた、あるいはみちのくに生きる我々にとって、「正しく生き、正しく死ねばアテルイのもとに行ける」。そのアテルイを活き活きと描ききった「火怨」は、我々にとってまさにバイブルであると言えましょう。また、そんな本が全国的にベストセラーになっているということは、日本全体がアテルイを求めているということではないでしょうか。
【5】 川村カ子トアイヌ記念館で学んだ【アイヌモシリ年表】http://www.jade.dti.ne.jp/^mount/ainu.moshiri.html
 600年ユカラ(叙事詩)形成される。788年延暦7年 桓武、五万の大軍を派遣するも、東北アイヌに敗北する
 (岩手県水沢市)。803年延暦22年 アテルイ父子、京都の帰りに大阪で虐殺される。1443年和人によるアイヌ・モシリへの移住始まる。
【6】 秋田市「土崎港曳山まつり」に阿弖流為 http://ishii.gadget.ne.jp/Maturi/h11pic/h1107.htm
 毎年7月20、21日に行われる土崎神明社祭の曳山まつりは、重要無形民俗文化財に指定されている。各町から、歴史上の事象に題材をとった人形を配した多数の曳き山車が出る。平成11年の祭りには25台が出ていて、統前加賀町の山車は「北上に夷将阿弖流為颯の猛攻」。解説には、「延暦八(789)年、桓武天皇は大規模な蝦夷征討計画を開始した。紀古佐美を征討将軍とする朝廷軍が北上川を渡ろうとした時、胆沢の族長・阿弖流為に率いられた蝦夷軍が奇襲攻撃をかけ、千人以上を溺死させたという。朝廷軍の大敗北であった。...」 山車の写真を見ると、アテルイの人形は上半身裸の半ズボン姿で、髭をはやし髪はぼうぼうで胸まで垂れ、白馬に乗った紀古佐美とは対照的である。これでは「悪役(鬼)?」かと思ったが、他の町の山車を見ると本能寺の変の「蘭丸」など、ほとんどの主役が阿弖流為の人形とほぼ同じ作りであった。どのような理由か?
【7】 日本人物総覧 http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gi11496/00/0a-004.html
 ※(悪路王首像の写真) アテルイ [あてるい] ≪8世紀後半頃~802≫【別 称】 大墓阿弖利為(おおつかのあてりえ。『続日本紀』)。【肩書き・職業】 蝦夷の長。【出自・系譜関係】 奥州胆沢地方(現・岩手県)を拠点とする。系譜関係不明。【履歴・事績】 大化改新以来、奥州支配を推進する大和朝廷側に反発する先住民とみられる。延暦七(788)年、奥州へ赴任していた征夷大使兼将軍・紀古佐美(きのこさみ)ら5万2千の兵を迎え討つ為、同胞・盤具公母礼(いわれのきみもれ)ら荒吐一族と共に北上川流域でこれを敗退せしめる。これに対し、紀ら征夷軍は新たに4千人を奇襲兵として胆沢に派遣したが、これも死傷者を3千人以上も出した上、無残に全滅させられている。...
【8】 BEAUTY RIDING 南部馬:古代編   http://www.hi-net.ne.jp/tjouba/btr3-1.htm
 紀古佐美に始まり坂上田村麻呂らに及ぶ再三の蝦夷征伐は、単に「まつろわぬ夷狄」を鎮圧し領地を拡大することだけが目的ではなく、南部駒の略奪は重要な任務であった。当時西国の馬は貧弱で、乗用ならともかく挽用としてはほとんど役に立たなかった。貴族の乗り物として、平安時代に至ってなお牛車しかなかったのもそのためだ。...延暦8年、紀古佐美を大将に胆沢地方(岩手県中部)の討伐に向かった総勢4000人の部隊は、戦死25人、水死1036人、行方不明1600人余と全滅に近い惨敗を喫した。この戦は、蝦夷軍を追って北上川で立ち往生していた討伐軍に対し、折りからの大雨で水かさの増した川を蝦夷軍が渡河して反撃に出たものだ。騎馬隊が川を泳いで渡るなど想像だにしなかった討伐軍は、戦わずしてパニックに陥り敗走を余儀なくされた。この戦いに限らず、野山を風のように駆け巡る蝦夷軍の騎馬隊は、常に討伐軍を攪乱し奇襲した。そこで、力で蝦夷を討つことの難しさを悟った大和朝廷は、懐柔策に切り替える。...
【9】 蝦夷によって継承された鉄器文化 http://202.211.8.173/SATOK/data/sigaku.html
 蕨手刀は、5世紀末に既に製造されている。789年の紀古佐美軍と戦った阿弖流為が使っていた。...鉄を造るための材料...磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄の4種類。破砕を必要としない「餅鉄」。粒状の磁鉄鉱。岩手は以上の4種が豊富に存在していた。...東磐井郡の蕨手刀は、餅鉄を使用した形跡が大。和賀郡のは砂鉄。...阿弖流為の製鉄と蕨手刀つくりについて。●石井昌国氏:蕨手刀は奈良時代後期を中心にして、奈良時代前期から平安時代初期にわたって、短期間につくられたもの。特に胆沢と和賀が拠点。現在鹿児島や徳島まで180刀発見されているが、岩手が57刀。阿弖流為のはいとうは66cmぐらいあった、という。
【10】 みちのくの鬼は、エンジニアであった!?  Http://202.211.8.173/SATOK/pr/ezo/ezo.html
 人の倫を信じ平安京へ旅立った蝦夷(エミシ)の雄アテルイも、幻想を感じた詩人だったのではないだろうか。アテルイ、大墓公阿弖流為は、774年から38年間続いた蝦夷征討戦争で、前沢・衣川付近でひと頃は約10万の田村麻呂率いる朝廷軍の侵入を抑えた。それ以前にも、紀古佐美率いる約5万朝廷軍をわずか千数百の兵で打ち破り、遁走を余儀なくした。そんな日本を二分した日高見(北上)の戦場が、この地、一関から始まっていた。...雲霞のような大軍が、水陸万頃の地、胆沢平野へとなだれこんできた。しかし胆沢の巨星、アテルイはひるまなかった。5cm鉄鏃矢の強弓をひき、チームワークのよいゲリラ戦で、大軍を翻弄した。鬼のアテルイ達は、日本刀の原型になった蕨手刀の量産技術をもっていた。平和な地になぜこのような武具等の製造プラントが存在したのであろう。憶測では、朝廷とも交易していた渤海と独自に交易し、技術立国しており、採鉱、燃料調達、製鉄、出羽や津軽を通じた物流、また抜群の人的管理技術が存在していたと思う。
【11】 金田一温泉郷 http://www.shokokai.com/iwateken/news/no147/p7.html
「江戸時代には南部藩指定の湯治場であり「侍の湯」とも呼ばれていた金田一温泉(二戸市)は、さらに溯れば千年以上の歴史を持ち、蝦夷の首長アテルイが湯浴みしたのに始まるといわれています。」二戸は、弘仁2年の文屋綿麻呂による閉伊・爾薩平征討時の蝦夷首領伊加古の本拠地であろうといわれる(『角川日本地名大辞典』)。二戸市仁左平地内には伊加古塚と呼ばれる古い塚もある。どうせなら、「アテルイ」というより、「蝦夷の首長イカコが湯浴みしたのに始まる」としたほうがいいのでは...。
【12】 米澤牛一人芝居『アテルイの首』2000改訂版 http://www2u.biglobe.ne.jp/^set/gekihyou/76605224609375.html 
 『アテルイの首』は今回で三度目。同じ物語を、同じ役者が演じてこれほど変化するものかと、つくづく感じる作品である。三作見てきて、今回が一番、芝居として良くまとまり、かつエネルギッシュで、構造的にも複層的で豊かな芝居であったと思う。...なんと言っても前二作と大きく変り、この芝居自体の方向性さえ変えたのが、ラストの展開である。...今回は、エゾの麻呂が辛くも悪露を切り倒し、真のアテルイを探して旅に出る、それを見送るイタコのババが、「エゾの麻呂よ何処まで行ったんだ...。何処までも走って行けよ。お前のアテルイ様は見つかったか?」と語りかける。また、史実上でアテルイとされ降伏し、京都で首を切られた男の首を鞄から取り出し語りかけるシーンも良かった。「お前がこんなになって、エゾとヤマトを結びつけたが、そのかわり、エゾもヤマトも何かを失ったな?」この一言で前二作と今回の『アテルイの首』は全く別物になったように思う。否、前二回で語れなかった部分が、まとまりこなれてくることで、やっと表面に出てきたと言うべきか。...[2000年9月26日23時34分33秒]
【13】 アテルイ・ドット・コム  http://www.aterui.com/aterui.html
スタッフの平均年齢が弱冠25歳というベンチャー企業。インターネット事業のトータルプロデュース等を事業とする。水沢市に事務所を置き、設立から1周年を迎えた本年4月には株式会社となった。その会社名の由来をホームページに記載している。アテルイの生涯に関する概要を載せた後に、「私は、自分が暮らすこの地を誇りに思います。もっと若いころは、自分が田舎者であることに強烈なコンプレックスを感じていました。しかし、今は違います。インターネットとの衝撃的な出会いから数年...社会は間違いなくネット化の道を歩んでおり、この素晴らしいツールを使えば、この地で暮らしながらでも、世界を相手に対等に渡り合えると確信しております。そんな思いから、『アテルイ』の名前とネット時代の象徴である『ドットコム』を融合させて『アテルイ・ドット・コム』という会社名になったのです。」若い人たちが、素晴らしい気概をもって新しい事業を立ち上げ、会社名には「アテルイ」の名前を使用するということ、ようやくアテルイが次代に受け入れられつつあり、その芽が見え始めたと言っていいのかもしれない。