情報96 岡村 青「悪路王とは何者~蝦夷王国と神格化した悪路王~」

昨年(平成11年)9月に発行された『常総の歴史』第23号に掲載されている。岡村氏は同8月発行『謎解き祭りの古代史を歩く』(彩流社)にも、「常陸の国・祭りの地勢図~蝦夷征伐に協力しながら「悪路王」を称える不思議~」との題で、茨城県鹿嶋市鹿島神宮所蔵の「悪路王首像」ではなく、同県東茨城郡桂村高久の鹿島神社に祀られているもうひとつの「悪路王首像」(写真)を紹介している。
 桂村は水戸市と栃木県宇都宮市を結ぶ国道123号線を北西に約20キロ進んだ途中にある。岡村氏によると桂村では「アテルイを神として崇めるだけでなく、「虫干し祭り」と称して毎年旧暦七月十日には祭礼まで催している。しかも地元民はアテルイのことを「悪路王様」と敬称し、決して粗末に扱ってはいないのだ。」という。この桂村の首像は、「悪路王頭形」(神社の案内板では「悪路王面形彫刻」)と呼ばれているもので、有名になった鹿島神宮の「悪路王首像」より以前にアテルイとの関係で知られていたのであるが、取り上げられることも少なく、その後は鹿島神宮の「首像」の陰に隠れてしまっていたのであった。悪路王の伝説にもとづいて作られた"首像"が、確かにふたつは現存しているのである。
この桂村の「頭形」を最初に取上げたのは、相沢史郎著『<ウラ>の文化』(1976)であったろう。相沢氏は同書の「東国に葬られたアテルイの首」という項で、「悪路王頭形」の写真とともに次のように紹介しているのである。「高久の鹿島神社縁起によると、延暦年間に田村麻呂が北征の折り、下野達谷窟 (平泉の南方にも、達谷窟と呼ばれる悪路王の住居がある)で悪路王を誅し、この地にその首を納めたとある。現在の首級の高さは50センチメートルほどで、最初はミイラだったといわれる」。
 その後に調査に訪れた三木日出夫氏も、「桂村郷土誌によると、延暦年間、坂上田村麻呂が北征の折、下野達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し、凱旋の途中、本社前の休塚に納めた。最初はミイラであったがこれを模型としたものといわれる。」と紹介している(1984.5『えみし』第5号「悪路王を追って」)。
この「頭形」については、水戸の徳川光圀が家来に命じて修理させた記録が残っている。「悪路王頭形久敗朽 今新彩飾 安坐常州高久村安塚之社中 元禄癸酉六年 源 光国」というものである。高久の鹿島神社の創建は天応一年(781)といい、かつては休塚(安塚)明神とも呼ばれていた。修理が行なわれたという元禄六年(1693)といえば、「首像」のほうが鹿島神宮に奉納された寛文四年(1664)から約30年後になるが、「頭形」はその時には「久敗朽」という状態であったというのであるから、もともとは「首像」より古いものと考えられよう。「頭形」はさらに132年後の文政8年(1825)にも八代藩主徳川斉脩によって修理が加えられるなど、手厚く庇護されてきたことが知られる。伝承では坂上田村麻呂に誅伐された悪路王であるが、その「頭形」は社宝となり、年に一度の祭礼の日には拝殿の前にお出ましになり、今も高久地区の人々の参拝を受けているのである。
 岡村氏は「首領として蝦夷の平和と秩序を守らんとして坂上田村麻呂と死闘を演じた。それであれば本来なら本拠地の東北地方でこそ高く評価されてよいはず。ところが実際はそうではなく、蝦夷征伐のための前線基地となった常陸国で評価され、悲劇の英雄としていまなお神格化されている。歴史の皮肉とはきさしくこのことではないか」と結んでいる。