情報87 新版『岩手県の歴史』に「アテルイの世界」

山川出版社の新版県史シリーズの一つとして『岩手県の歴史』が平成11年8月に発刊された。故森嘉兵衛氏執筆の旧版『岩手県の歴史』が刊行 (1972年)されて四半世紀以上の歳月が経つなかで、4人の新執筆者により全面的に書き下ろしされたものである。
 第1章から3章までの原始・古代は伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)が担当、第2章は「エミシの世界」のタイトルで、その3には「アテルイの世界」という独立した項目がたてられている。
岩手県内では隠れたベストセラーであったといわれる旧版では、原始・古代の「2、東夷の開拓」に、「産金事始」、「坂上田村麻呂」以下の項目が続くが、征夷戦の経過が記述され田村麻呂の評価には及んでいるものの、一方の蝦夷側の指導者であるアテルイの名前はどこにも出てこなかった。
 また、旧版では「陸奥における現地人と官軍との衝突」「志和・胆沢の現地人と戦闘」など、最初の方では「蝦夷」ではなく「現地人」と記述されていて、疑問を生じさせていた。しかし、「...坂上田村麻呂の大弾圧が開始されたのである。それは政府軍からは開拓と称されたが、原住民にとっては弾圧であった。」とする著者(旧版)の基本認識にくもりはなく、「現地人」と記述するところの意味は蔑称たる「蝦夷」の名を最初から使用することによって始めから支配(征伐)されて然るべき対象と観念されることを危惧したことからする慎重な使い分けではなかったかと推測される。その点、始めから「エミシの世界」に主体をおいて叙述する新版の著者の立場はあまりに明確であり、四半世紀とはいえ時代の大きな進展というものを感ずる。
さて、新版の「アテルイの世界」の項目は、東北大戦争/アテルイとモレ/坂上田村麻呂とアテルイ/の小項目で構成され、約8ページにわたっている。/東北大戦争/では、国家によるエミシ政策(エミシの入朝を基本とする)の段階的展開とそれによるエミシ社会との緊張、エミシの抵抗、反乱へと到る過程が簡潔にまとめられている。/アテルイとモレ/では、二人のフルネームを大墓公阿弖利為、盤具公母礼と紹介したうえで、まず岩手県が古代史に登場してくる過程として呰麻呂の反乱までを述べる。それから、いよいよアテルイが登場する胆沢の合戦に移るが、ここで著者は面白い仕掛けを試みている。敵将坂上田村麻呂の年齢、地位と対比する形でアテルイの地位、年齢等をあえて仮定しながら叙述するのである。アテルイの生年はもちろん不明なのであるが著者は田村麻呂とそれほど歳の差がないと仮定、例えば延暦5(786)年の胆沢遠征の準備が始まるころ、「アテルイはエミシ戦士首長に成長しており、三〇代前半頃か。」とする。この項は、延暦8年に遠征軍が衣川に布陣するまでとなっているが、著者はその場所を胆沢平野が一望できる「胆沢川扇状地の最南端、東西方向に馬の背状に延びる高位段丘の一首坂面」であると比定している。/坂上田村麻呂とアテルイ/では、史上有名な延暦八年における胆沢の合戦の戦闘経過とアテルイ軍の勝利、第2回胆沢遠征と遠征軍の勝利、第3回遠征と胆沢城造営、アテルイとモレの降伏と続く。最後は、田村麻呂が二人に対して丁重に応対したようであるにかかわらず、「河内国椙山(杜山)」で斬刑に処されたことを記し、「初老のアテルイであったか。」と結んでいる。
 なお、新版の口絵には「悪路王首像」のカラー写真が掲載されていて、次のような説明がなされている。
「茨城県鹿島神宮の縁起に、坂上田村麻呂が「奥州征伐」に際し神社に加護を祈り、願が叶ったため帰路、賊の酋長の首を奉納したとある。同神宮の木製首像は江戸時代の作。「賊帥アテルイ」とイメージが重なるが元来は別。」