情報82 呰麻呂と阿弖流為は同一人物か?

水沢市埋蔵文化財調査センター所報『鎮守府胆沢城』第33号(平成10年2月16日発行)は、一年をふり返っての同センターを訪れた見学者の声を紹介している。そのなかには、「阿弖流為は田村麻呂にだまされた日本一の馬鹿武将だという話を昔聞いたことがあるが、本当だろうか。」(静岡・会社員)など、アテルイにふれたものがある(これには一応、「本当ではないだろう」と答えておく)。ほかに気になる内容として、宮城県の大学生からの「阿弖流為は伊治公呰麻呂と同一人物ではないだろうか。」という「声」が載っていた。平成元年(1989)、延暦八年の会主催で巣伏の戦い千二百年記念「アテルイとエミシ展」を開催したときに、宮城県から来られた方から「阿弖流為は呰麻呂と同一人物だ、本にも書いてあった。」と、強く同意を求められたことがある。河北新報社の一力会長も、高橋克彦氏との対談のなかで「呰麻呂が名を変えて阿弖流為になったという説もある」(平成9年4月18日付『河北新報』掲載)と述べていられた。はたして、そのような説はどこからするものであろうか。
呰麻呂とは、陸奥国上治郡の大領であった伊治公呰麻呂のことである。宝亀11年(780)3月、呰麻呂は伊治城(宮城県栗原郡築館町城生野地区)で叛乱を起こし、入城していた陸奥守兼鎮守府将軍の紀朝臣広純と牡鹿郡大領の道嶋大楯を殺害したうえ、国府多賀城にまで攻めのぼり、大量の武器などを掠奪して炎上させた。「夷俘」と侮蔑されてきたことからの怒りが原因としてあった。朝廷はただちに征討軍を差し向けたが、抵抗が激しく失地回復には数年を要したのである。しかし、叛乱のリーダーである呰麻呂が討たれたという記録はなく、呰麻呂自身のその後については全くわからない。以降、朝廷軍との対決には「賊の奥区」とされた胆沢の阿弖流為が大きく登場してくるのである。このようなことが「呰麻呂=阿弖流為」説が出てくる背景となるものであろう。
おそらく、呰麻呂は胆沢の阿弖流為に合流したのではないかと考えられるが、それを検証することはできない。ただし、阿弖流為が呰麻呂でないことは、降伏後の記録に呰麻呂の名前が出て来ないことにも明らかであろう。降伏した阿弖流為を見れば、呰麻呂であるかどうかは一目瞭然であるはずなのだから。
もうひとつ、「呰麻呂=阿弖流為」説には、二十数年前に河北新報紙上に連載された「ものがたり古代東北」(『蝦夷 ~古代東北の英雄たち~』1978年10月発行)の、文字どおりの「ものがたり」が投影されているように思われる。この連載は、「自由な推理や仮説を交えて」構成された内容になっていた。呰麻呂と阿弖流為にかかわる部分は次のような記述になっている。「北へ逃げた呰麻呂は-。百八十里の道を一気に突っ走って、二日後の三月二十八日(宝亀十一年)には胆沢の地にたどり着く。...呰麻呂はひとまず跡呂井(水沢市跡呂井付近)に落ち着き、腹心の大鳥広目を直ちに胆沢公のもとへ遣わした。首尾を報告するためであるが、広目はその翌日、意外な返事を持ち帰る。なんと、盟友関係を結んだ胆沢公は、ちょうど呰麻呂が伊治城で事を起こしたころに亡くなっていたのである。...使いの広目と一緒に、盤具公母礼ら胆沢連合の主だった族長たちが呰麻呂を訪ねて来た。「この後は、伊治公殿を統領と仰ぐように」。これが胆沢公の遺言だったというのである。...胆沢公の子はまだ幼く、適当な後継者がいない。彼は、自分の死によって胆沢連合の統一が崩れるのを恐れたのだろう。...新しいスター呰麻呂を中心に結束を固めて欲しい。それが胆沢公の願いだったのだ。...呰麻呂はようやく決意を固める。翌朝、彼は近くに陣を構えている母礼を訪ねた。「統領の役、お引き受けいたす。ただし条件が一つ。胆沢公を名乗らぬことをお許しいただきとう存ずる」。呰麻呂は自ら大墓公阿弖流為と名乗り、再出発することになった」。このようにして、「呰麻呂が阿弖流為と名を変えて胆沢連合の統領」に納まったというのである。この「ものがたり」においては、「史実との錯誤を避けるため、正史の記述を併記し、仮説や創作部分はその旨を断るという手法」を採っている。そして、以上の部分に関しては、「多賀城焼き討ち後、呰麻呂が胆沢の地へ逃げたこと、胆沢公が死亡して呰麻呂が新統率者・阿弖流為に"変身"したことなどは、いずれも創作。」との断りがついている。「阿弖流為=呰麻呂」説は、ものがたり上の創作に発しているようだ。