情報81 『~歴史と観光~みずさわ浪漫』にアテルイ

水沢の歴史と観光にふれる手引書としてあった『観光水沢』を全面改訂し、名称も『みずさわ浪漫』と変えて平成11年㋂に出版された。アテルイの名前は初版(1955年)から、改訂版(1964年)、以後最近の五版(1981年)まで主には「歴史」の部の「巣伏古戦場」の項に出ていましたが、今回の全面改訂版では「人物」の部にも初めてアテルイが単独でとりあげられました。以下、その全文を紹介します。なお、この項の執筆は当会の佐藤秀昭副会長が担当しました。
「アテルイ」この耳慣れない人物は、昭和62年10月17日、「北方の王者アテルイの会」が水沢で発足、平成元年11月17日から26日までの10日間、「延暦八年の会」が"巣伏の戦い1200年記念"の「アテルイとエミシ展」を開催した頃から、その名がこの地域で急速にクローズアップされてきた。やがてアテルイは、胆江地域おこしの象徴的な人物となってきたが、その人物像について実像を掌握することは困難である。陸奥のエミシ征伐に、大和朝廷の軍事力を最大に投入し、その王化に最も力を入れたのが桓武天皇であった。『続日本紀』延暦元年五月二十日の条に、「...陸奥国言。祈祷鹿嶋神。討撥凶賊...」とあって、昔から軍神として名高い常陸国一の宮(現在の茨城県鹿島町)に、まつろわぬ賊徒ときめつけたエミシ等の征討を祈っている。それから882年後、寛文4年(1664)に鹿嶋神社に納められた木彫首像がある。「悪路王首像」と名付けられたこの像のレプリカが、現在水沢市埋蔵文化財調査センターに展示されている。奉納した人物は、「奥州住水谷加兵衛尉 藤原満清」である。アテルイが歴史上に登場してくる875年後の年代であり、当然アテルイの顔など知り得るはずがなく、仮りに寛文年間まで何らかの根拠となるものが残されていたとしても、悪路王=アテルイとはならない。が、目下のところこの「悪路王首像」が、この地域のシンボライズされたアテルイの「代理」もしくは影武者でもあるかのような存在として、はためいているのである。どんな風貌、体躯のアテルイであったのかを、今は再現する手掛りすら無いのであるが、唯一アテルイという名の直接的な人物の存在を示すのが、三つの文献である。アテルイの名が初出されるのは、その記述が正確であるかどうかは別として、六国史の一つである『続日本紀』延暦八年(789)六月三日の条に、「...此至賊帥夷阿弖流為之居...」として初登場するのである。『続日本紀』は桓武天皇の側近といわれた藤原継縄、菅野真道らによって、延暦16年(797)に『日本書紀』を継いで、全40巻の完成をみたものとされている。次いで文献にアテルイの名が記されているのが、寛平4年(892)に編纂されたとする説の『類聚国史』である。これはもともと六国史といわれる『日本書記』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を種別、事項毎に分類し、編年体にしたものであり、菅原道真の編纂である。三つめの文献は、『日本紀略』である。この文献の成立年代や撰者は共に不祥であるが、アテルイやエミシに対する公卿たちの見方から、一方的ではあるが、アテルイの一面を彷彿させるものがある。この書にアテルイの名が出てくるのは、延暦21年(802)四月十五日の条からである。「...夷大墓公阿弖利為。盤具公母 禮等種類五百餘人降...」さらに七月十日には、「田村麿来。夷大墓公二人並従...」とあって、アテルイたちが田村麻呂の軍門に降って、田村麻呂に従って京へやって来たことが記されている。興味深いのはその後日、八月十三日の条である。意訳すれば、「アテルイとモレを斬った。この二人は奥地の賊の首領である。この二人を斬る時に、田村麻呂はこの二人を胆沢へ帰そうと云ったが、公卿たちが執拗に云うには、彼等は獣であるし、限りなくまた反抗してくることだろうから、この夷賊の大将をこのまま帰すことは、後日の禍根となる。だから斬った」というのである。この記述は、アテルイの容姿の問題などではなく、いかに当時の為政者にとって、アテルイの存在が脅威であったかということを物語っている。裏を反せば、時の朝廷は勿論のこと、田村麻呂にとってもアテルイがこの地域における軍政、民政の統括者として、偉大な存在感を有していたか、ということを認めたことにもなるのであろう。アテルイの出自については全く不明である。田村麻呂よりは若干年齢が多かったのではないかという推論もあり、とすると河内国(今の大阪の東部)で斬首されたのは、50歳前後であったのかもしれない。アテルイについての歴史書の記録は、おそらく『続日本紀』が最も古いものと思われるが、その初出では「賊帥夷阿弖流為」とあり、賊の大将、エミシのアテルイである。だが、『続日本紀』よりも編集は後であろう『日本紀略』や『類聚国史』の中のアテルイは、いずれも「夷大墓公阿弖利為」となっている。「夷」は付いているものの、「賊帥」が一転して「公」という姓を冠されている。これは降伏したと見る朝廷側の意によるものであろうか、知る由もないが、名についても「流」が「利」と記されている。その名の「流」と「利」について一つを取りあげてみても、朝廷から与えられた良字とする説や、夷語表記の漢字描写の差とする説などさまざまであり、アテルイの人物像については多くの謎が残されている。故に魅力的であるということができよう。ともあれ、六国史という大和朝廷の側の歴史書の中に名をとどめた「アテルイ」は、まぎれもなくこの地域の有能な統率者として、1200年前の古代の先人として、今、最も市民の熱い視線を浴びている人物であることに違いはないのである。〔水沢観光協会発行 千円〕