情報66 相原康二責任編集『大いなる夢の史跡』

地域在住の6人の研究者が最新の胆江地域の歴史・考古学の研究成果を分かりやすく、簡潔にまとめた。この中で、伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)は「蝦夷と政府の激突の時代」を以下のように記述している。
「蝦夷と政府の激突を物語る有名なものに宝亀十一年(780)の伊治公呰麻呂の乱と、延暦八年(789)の胆沢地方を舞台にした胆沢の合戦があります。とくに後者は、当地方の北上川東岸を主戦場に、阿弖流為・母礼らに率いられた蝦夷軍が五万の軍を向こうにして戦い、蝦夷側の大勝利に終わった合戦として私たちに記憶されています。これらの戦いは「蝦夷英雄時代」と呼ぶにふさわしいものがあります。しかし、政府も胆沢攻略に執念を燃やします。延暦十三年(794)には副将軍坂上田村麻呂を実戦部隊の総指揮官として、前回遠征の倍近い十万の大軍を投入してきました。「正史」は詳細を記していませんが、前回にも増した激戦だったようで、戦死者、捕虜、焼亡村落を含めて蝦夷側の被害は甚大でした。それは前回の戦いが北上川東岸中心であったのに対し、今回は西岸一帯も戦場となったためでしょう。水沢市の東郊、北上川右岸一帯に杉の堂、熊の堂遺跡群があります。調査は十数年前から行われていますが、ちょうど阿弖流為の時代に重なる奈良時代の終わり頃の竪穴住居跡に、ある共通した現象があることに最近気づきました。ほとんどの住居が焼失しているのです。さっそくデータをとってみました。遺跡群の範囲は約二万平方㍍、これまでの調査でこの時期の住居は約四十棟。そのうち八割が火災に遭っていました。焼失状況は強風に煽られた様子はなく、垂木や屋根材のカヤは自然に焼け落ちたものばかりです。遺跡群内は空閑地もあり、隣のムラとは区別され、類焼は考えられません。記録を残さなかったモノ言わぬ蝦夷たちのメッセージがここにあるのかもしれません。」【胆江日々新聞社刊 1800円】