情報56 新野直吉 「阿弖流為、その風土性豊かな復活」

『岩手の歴史と風土-岩手史学研究80号記念特集-』(熊谷印刷出版部、平成9年3月発行) 所収。新野直吉氏は秋田大学の名誉教授で、前学長。
〔初めに〕は、平成六年十一月に京都清水寺に建立された阿弖流為と母礼の顕彰碑に触れ、「顕彰された阿弖流為と母礼は、一二00年の歴史の彼方から華麗に復活した。」と書き出す。そして、近代になってからの阿弖流為に対する関心について、大槻文彦博士が『復軒雑纂』(明治35年刊)で延暦八年紀の阿弖流為に注目したこと、吉田東伍『大日本地名辞書』が胆沢郡安土呂井の項で阿弖流為に言及したことを紹介している。
 〔一、胆江の自己主張〕では、現代の顕彰運動に関わる時期に阿弖流為を史上に位置づけたのは高橋富雄博士であると断言、昭和38年刊『蝦夷』(吉川弘文館)で「阿弖流為」という項題を設定して、「五万の組織された軍隊と、こうも鮮やかに渡り合う軍隊は、烏合の衆ではありえない。それじしん、高度に組織された統一体でなければならない。胆沢における一0年をこえる抵抗の組織者、それこそ、ここにいう大墓公阿弖流為であった。彼は、...」と論じたのがそれであるとする。
〔二、阿弖流為を知って〕では、氏自身が阿弖流為を知ったのは昭和34年段階であったが、著述で阿弖流為に触れたのは昭和44年刊の『律令古代の東北』(北望社)と同年刊の『古代東北の開拓』(塙書房)が最初であったこと、しかし実際に解釈的に阿弖流為に言及したのは昭和49年刊の『古代東北の覇者』(中央公論社)という新書が初めてであったと振り返る。そこでは、「田村麻呂と二族長」という項目を出し、「和睦の形で帰順した大墓公阿弖流為・盤具公母礼の両族長」という位置づけとともに、その背景や二人の心情などについてまで踏み込んで述べた。そして初めて「おおつかのきみあてるい」「いわくのきみもれ」とルビを付した、とするが、原本のルビは「おおつかのきみ」ではなく、「たいものきみ」となっている。
〔三、阿弖流為を見つめて〕では、次第に阿弖流為に対する関心を深めた氏が、昭和53年刊の『古代東北史の人々』(吉川弘文館)で、「死に就く阿弖流為」という項をたてて阿弖流為が死に臨む「こころ」にまで言及するに至ったと書く。またこの書では二人の姓名の訓みについての考え方も述べた。ここで、大墓公を「あるいはタイボ(モ)ノキミとでもいうのかもしれないが、...オオツカノと読んで置く」としている。関連して、例えば大墓公を「たものきみ」「たのものきみ」「おおものきみ」と訓む可能性に触れては、「古代蝦夷語というものの言語学的座標が明確になっていない以上、色々の仮説が生まれる可能性がある。私見が、仮に言えば「許容範囲」とでもいうべきものを緩やかに取っているのも、それによるのである。只古代蝦夷語を安易にアイヌ語と通わせ「アイヌ語地名」の如く扱うことには許容性を認めていない」と、氏の考え方をより明確に打ち出している。
〔四、復活への道のりの中で〕では、「阿弖流為は降伏したのではなく、「平和的調印」の申し入れをしたとか、逆に田村麻呂が和睦を申し出たが、結局、阿弖流為等は、だまされて処刑されてしまうという、いわば郷土愛的な発言もある。史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」(高橋崇『坂上田村麻呂』)という批判があったことにふれながら、『古代東北史』(昭和63年)で「阿弖流為の心」という項を設け、「乏しいながらも存在する史料条文の解釈で田村麻呂と阿弖流為の双方の諒解点を論定しよう」としたこと。『古代東北の兵乱』(平成元年)においても、『類聚国史』延暦21年4月15日条に関してさらに踏み込み、「阿弖流為の立場の田村麻呂将軍に対する座標の評価が単に愛郷的情緒に偏る発言と決めつけられるのは妥当ではないことを強調した」と、その部分を掲げて述べている。そして、このような研究とは別のところでアテルイの顕彰運動が徐々に進んでいたことを、碑の『建立記念誌』や「アテルイを顕彰する会」の第二回総会資料などから拾って、その展開経過を紹介している。
〔終りに〕では、阿弖流為「アイヌ民族」説や「百済人」説などの異聞を一蹴。また、アテルイやモレは狭域の領袖と過小評価し、率いた「種類五百余人」は敗残兵で村落からはじきだされた人々だ、などとするひどい論文が発表されていることも明らかにし、厳しく批判している。
 【本論文により、アテルイに関する研究の現段階における一定のまとめがはかられたとともに、今後のいっそうの研究に向けた諸課題も与えられたように思う。また、清水寺への碑建立に至るアテルイ顕彰運動の過程も紹介していただいた。「アテルイ通信」第20号の区切りにふさわしい内容を、<アテルイ情報>に取り上げることができた。新野先生に感謝。】