~資料・アテルイ復権関係年表~

蝦夷の首長アテルイに関わる一部の事は、正史とされる『続日本紀』と『日本後紀』の複数箇所に記録され、アテルイが今から千二百年をも前に実在した歴史的人物であることが知られる。『続日本紀』の延暦八年(789)の記事には、その年における朝廷軍の胆沢(岩手県奥州市付近)侵攻にアテルイを指導者とする蝦夷の戦士たちが立ちはだかったことが、『日本紀略』と『類聚国史』の延暦二十一年(802)の記事にはアテルイらの降伏と斬刑にいたる『日本後紀』の記事を原文とするとみられる内容が伝わっている。

これらの記事内容は確かに僅かにすぎないが、一人の蝦夷にかかわる記録(史料)として見た場合は、他に例を見ることができないものである。朝廷の大軍による三度の胆沢侵攻に対決し、一度は敗退させるなど、十数年間にわたって古代国家に抵抗し続けたことが、特にも際立っていたことからするものであろう。

しかし、そのような歴史的事実は、「正史」に記録されたにかかわらず、時の経過とともにいつしか彼方に押しやられた。アテルイは長期にわたる戦いの末、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂のもとに降伏し、斬刑に処せられたのであったが、後の時代の圧倒する坂上田村麻呂伝説のなかで、アテルイはその名前すら消し去られてしまったのであった。

鎌倉時代後期の作とされる『吾妻鏡』は、文治五年(1189)に源頼朝が「田谷窟(達谷窟)」(岩手県平泉町)に立寄った際に、「これ田村麻呂利仁将軍綸命を奉じて征夷の時、賊主悪路王ならびに赤頭等塞を構える岩屋なり」との説明を受けたことを記している。「悪路王」という名前の初見であるが、その名は特に北東北の田村麻呂伝説のなかに多く出てくることが知られている。本来なら、伝説であれ、田村麻呂と対置されるべきはアテルイであるはずだが、なぜかその名は悪路王なのである。しかも、その悪路王は達谷窟付近の伝説では、良民を苦しめ女子供を掠める賊の主なのであった。

また、『元享釈書』(1322年)の清水寺延鎮伝には、坂上田村麻呂が駿州の清見関(静岡県清水市付近)まで攻め上がってきた「奥州の逆賊高丸」を追撃して神楽岡で射殺したことが記されている。この「高丸」という名前もよくでてくる。田村麻呂が征伐した賊は悪路王であり、高丸であり、他では大武丸(大岳丸、大嶽丸)であったりもするが、このような伝説が史実であるがごとくに広く語り継がれる時代が続くのである。アテルイの名はほとんど忘れ去られていたと言ってよかった。

この間に「大墓公阿弖利為」の名前を記した書物として目に付くものといえば、徳川光圀が編纂した『大日本史』(1709年完成)と佐藤信要『封内名蹟志』(1741年)、相原友直『平泉雑記』(1773年)くらいではなかろうか。『前々太平記』(1715年)は「大墓公」とだけ記述している。

大きな転換点となったのは、やはり明治維新以後であり、近代に入ってからであった。
「正史」に残る記事をとりあげるだけでなく、アテルイに関係する地を具体的に比定する試みなどが始まるのである。大槻文彦『復軒雑纂』(1902年)は、「阿弖流為の居」について、「膽澤郡水澤町の東に接して、安土呂井村あり、是れ、阿弖流為の居なりしなるべし、西岸にあれど、「比至」とあれば、妨げあらじ」(「古奥舊地考摘録」)とした。吉田東伍『大日本地名辞書』(1900-1907年)は、阿弖流為は「水澤驛東の跡呂井の酋長」と推断しつつ、盟友の盤具公母礼についてふれたほか、二人が斬殺されたところは河内国交野郡の宇山(現枚方市)で、その墓は同郡藤坂の鬼墓(王仁墓)ではないかと推定した。この両書をアテルイ研究の第一歩として位置付けることができよう。

また、明治から昭和にかけて出版された歴史書の「蝦夷征伐」や坂上田村麻呂の記述のなかで、「大墓公阿弖利為」の名前をあげたものもいくつか見えるようになるが、いずれも「賊」の扱い以外ではなかった。アテルイが正しく評価され始めるのは、伝統的権威から相対的に解き放たれる戦後を待つことになる。

以下は、戦後におけるアテルイの復権の歩みを年表形式にして示したものである。アテルイ没後1200年記念企画展「甦れ、アテルイ」に展示した<アテルイ復権年表>に、現在までの事項を新たに加えるなどした。詳細にすぎるが、アテルイの復権経過をたどる基礎資料として一覧していただければ幸いである。

アテルイ復権関係年表
資料:アテルイ情報

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