情報275 ミネルヴァ日本評伝選『阿弖流為』

古代蝦夷の雄・アテルイの初の評伝が2013年10月に刊行された。著者の樋口(とも)()氏(岩手大学教授)は東北古代史の研究を専門としており、アテルイに関係するこれまでの研究でも通説を覆す有力な新説を発表してきた。本書では更に新たな研究成果が加えられ、大墓公一族における新しいアテルイ像が描きだされている。以下、順をおって著者の叙述を要約して紹介する。

【アテルイの生年】
15年間の幅をもたせているが、天平十年(738)~天平勝宝五年(753)頃であると推察している。すなわち、阿弖流為本人は胆沢平野に根を張る農耕民系の蝦夷族長でありながら、奥羽山脈や北上山地で活動する狩猟民系蝦夷をも配下におさめるほどのかなり卓越した政治力をもっており、また自軍の数倍の軍勢による猛攻を前にしても少しも動ぜず、機を見て一気に攻勢に転じる冷静沈着な剛胆さを有していたことから、阿弖流為の延暦八年時点での年齢は、すでに人生経験豊かな壮年の域には達していたのではないかとし、延暦八年合戦時で37~52歳と想定、延暦二十一年の死没時で50~65歳になるとした。

【大墓公一族】
阿弖流為らの一族は北上川本流を擁した胆沢の地の東部を勢力下に治めていた蝦夷豪族であった。大墓公一族は、八世紀半ば頃にこの地の伝統的な譜代族長家であった胆沢公一族より分出した支族で、阿弖流為の父か祖父の代にあたる八世紀中頃か後半頃のある時点で、彼らの一家は律令国家より新たに「大墓公」の姓を賜って本宗家からの独立を果たした。その後急速に台頭していき、本宗である胆沢公一族にも匹敵するほどの大きな勢力をもつ存在へ成長を遂げた。

【「日上の湊」の現地管理者】
八世紀中頃から後半にかけての時期に、律令国家勢力は蝦夷社会側との対話を経て、南北間交易の拠点港として「日上の湊」を北上川西岸に設置し、その現地管理者に胆沢公一族の分家筋にあたる大墓公一族を登用した。
桃生城の造営計画(756年頃)がきっかけとなって、北上川中流域西岸の地に拠点集落を有していた大墓公一族の存在が律令国家側の注視するところとなり、その地に「日上の港」が設置されるとともに、その河港を拠点とする南北間交易の現地管理が委ねられた。それまでは胆沢公一族の支族として、北上川舟運を介した交易にそれなりの関わりをもっていたにすぎなかった大墓公一族であったが、律令国家による登用を契機として一躍急成長を遂げることとなり、桃生城を中心拠点とした国家による北上川舟運機構の管理を部分的に代行する役割をも担わされることになったのである。

【台頭した道嶋氏の下僚的存在】
陸奥国国造となる道嶋氏は、北上盆地の一大交易拠点である胆沢の地に通じる川の道と陸の道の両方を掌握することで、北方の蝦夷に対する律令国家の諸政策の策定・執行を推進する現地機関となった。蝦夷の正月上京朝貢の復活において、道嶋氏はすべての陸奥の蝦夷の上に君臨する巨大な族長権を樹立。道嶋宿祢一族はみちのくの覇者の座に上り詰め、道嶋氏を水先案内人として律令国家の辺境統治政策が大きく進められた。大墓公一族は、道嶋氏の本格的台頭をきっかけにそれまで以上に国家に重用されるようになった。神護景雲元年(767)の伊治城造営の後に、同氏の下僚的存在としてその政治的傘下に組み入れられて、蝦夷政策の遂行を最前線においてサポートする役割をもあたえられることになった。大多数の蝦夷豪族が道嶋宿祢氏に帰服してその麾下に編成されたが、当時の大墓公一族は、あらゆる蝦夷系豪族の中でも最も律令国家寄りの政治的スタンスをとる一群に属していた。

【律令国家の攻勢と蝦夷大連合】
推察したアテルイの生年からすると、彼は国家との戦争を実体験として知らずに育った世代の一人であった。蝦夷社会と国家側社会との間に平和共存の関係が成立していた穏やかな時代に成長し、国家の後ろ盾をえて台頭してきた新興の蝦夷族長家の御曹司として、かなり裕福で恵まれた環境の中で暮らしていた。
都における称徳天皇の死去と道鏡の失脚、光仁天皇の即位(770年)という政変劇は、道嶋氏の前途に暗い影を落とし、道嶋宿祢一族はこれ以降、凋落の一途をたどる。光仁天皇は東北の地に新たな支配秩序を築き上げようとし、その中で、桃生城襲撃事件(774年)や志波村蝦夷の反乱(776年)が発生するなど戦乱が勃発する。そして同年に陸奥国軍三千人が胆沢に侵攻した。780年、光仁天皇は覚鱉城の造営を足がかりに胆沢の地の占領を命じた。この段階ではまだ阿弖流為は国家への反乱に身を投じてはいなかったにもかかわらず、胆沢の地が官軍側の最重要の攻撃目標に設定されたのである。しかしそのまもなく、此治郡大領の伊治公呰麻呂が突如反乱を起こした。呰麻呂は阿弖流為らの故郷胆沢を守るために蹶起したのである。阿弖流為はこのとき28~43歳くらいの年齢とみられ、胆沢地方東部、北上川本流沿いの集落を統べる族長の地位にあった。国家が胆沢の地を奪い取ろうとしていることが明白となるに至って、彼の国家への不信や反発の感情は、父祖の代から培われてきた国家への恩義や臣従の感情を大きく凌ぐほどに昂まっていった。桓武天皇が即位、元号が延暦に改まった頃より奥羽各地の蝦夷の村々の間では、来るべき律令国家の厳しい攻勢に備え、広範な地域におよぶ大連合を組織し、互いに連携して立ち向かおうとする動きが生まれていった。そうした運動が展開する中で、蝦夷大連合の総帥格にふさわしい人材として周囲から最も嘱望されたのが、阿弖流為であった。

【延暦八年の胆沢合戦】
このときの征夷軍の総兵数についてはこれまで、徴発が命じられた五万二千八百余人という人数を根拠に推測されてきたが、実際には総勢十万人もの大軍勢であった可能性が高い。また今次の征夷では、「河道」「陸道」「海道」に分かれて進軍したことが知られ、官軍の軍事行動は内陸部ばかりでなく、太平洋沿岸部の諸地域でもおこなわれた。
胆沢攻略作戦では阿弖流為らの奇襲によって手痛い敗戦を喫したが、胆沢蝦夷の側の戦災被害も深刻なものであった。その後に行われたと考えられる第二次胆沢合戦は両軍が互いに正面から激突するような大激戦であった。戦死者数では蝦夷軍の方が官軍よりも上回っていた可能性があり、同年における胆沢合戦の実態は、前後二回の戦いをトータルでみれば、阿弖流為らの胆沢連合軍の大勝利とはいいがたいものだった。

【延暦十三年の征夷と和平への動き】
 延暦十三年の征夷戦では総勢十万人もの大軍勢が動員され、征夷史上最大の激戦が展開された。蝦夷軍は大きな苦戦を強いられ、深い痛手を負ったが、阿弖流為は最後まで官軍の手にかかることなく、抵抗の旗標を掲げ続けた。
 延暦十六年以降、坂上田村麻呂の下で陸奥の国政は蝦夷社会に対する懐柔・譲歩路線へと大きく転換していった。双方に無益な戦争を早期に終結させようとする考えに傾いていた田村麻呂が、阿弖流為の許に使者を送り和睦のために動き出したという可能性は低くない。蝦夷の側も、抵抗勢力と帰降勢力とに分裂したようにみせつつも、よりよい和平条件の下での戦争終結と平和の回復を求めており、和解に応じる準備はできていた。

【アテルイの降伏】 
 阿弖流為と田村麻呂との間での和平・停戦に向けての話し合いは、水面下で徐々に進行していた。その合意により延暦二十年の征夷戦後に、阿弖流為と母礼は正式に国家に降伏、二人は河内国植山または椙山で斬刑に処された。弘仁五年(814年)、嵯峨天皇は「夷俘と号すること莫(な)かるべし」との勅を発した。すなわち、すでに帰降している蝦夷や俘囚に対して「夷俘」と蔑称することを禁じたのである。阿弖流為らが願っていた征夷の時代の終焉は、彼の死より十年余り後に、彼らがかつて思い描いていたものに近いかたちで実現し、大きな果実を結んだのであった。