情報201 論文「蝦夷の首長アテルイと枚方市」

 『史敏』(大阪大学大学院文学研究科日本史研究室)2006春号(通巻3号)に掲載されている馬部隆弘氏(大阪大学大学院生)の論文。副題には「官民一体となった史蹟の捏造」とある。枚方市牧野阪の牧野公園内に存在するアテルイの「首塚」とされるものについて、「そのような伝承があった形跡は全く認められない」とし、なぜこのような「突飛な説が定着」しつつあるのかの分析を興味深い資料の紹介とともに進めている。馬部氏はまず、「明治以降アテルイ処刑地を宇山とする説がある一方で、地元では一切その伝承がなく、反面一九八○年前後になってアテルイの「首塚」と称されるものが、宇山(近世宇山村)内ではなく隣接する牧野阪(近世坂村)に突如として生まれた」ことから、これは「現代に創造された史蹟由緒といってよい」とする。そして、その経緯を示すものとして、枚方市の市史編纂室担当者であった田宮久史氏による1990.5.25付けのメモ「アテルイの墓についての考え方」(枚方市立中央図書館市史資料室架蔵コピー)を【史料】として紹介している。初めて知るものであり、特に「三、アテルイの墓とされた経過」の部分をそのまま紹介する。

[1] 10年程前、牧野地区の女性が市史編纂室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。
[2] 田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。
[3] その女性、また後日曰く、きっとその酋長だと思う。恨みをもって未だに成仏できずに苦しんでいるに違いない。きちんとお祠りしてあげなさい。
[4] 田宮、貴女の夢や提案は市としてはどうしようもありません。
[5] 市は頼むに足らずと知った女性は、せめて犬の大小便から守るためにと、独自に柵を立て、綱をはり、何やら曰くあり気に飾りたてた。市はこの段階では一市民の酔狂と放置し、また他の市民もこの女性に同調する人はなかった。
[6] ところが、時の経過と共に木は繁茂し、柵は強化されるにつれて、一帯は妙に存在感をもち出し、一種聖域の雰囲気をただよわせるようになった。

 その後、取材に訪れた河北新報大阪支社の記者が田宮氏から女性の存在を知り、片埜神社の宮司を取材して、「アテルイの墓を発見したとばかり報道」、何らかのつながりを求める動きがにわかに高まった、というのでる。
 馬部氏はつぎに、「アテルイ処刑地は枚方市北部にはありえないこと、したがって牧野公園内の塚はアテルイの「首塚」ではない」ことを近年紹介された史料「河内国禁野交野供御所定文」の考察から断じている。交野郡北部は天皇の狩猟地である「禁野」であったが、その範囲は明確ではなかった。ところが前記史料は「禁野」の四至を記し、「天の川以北の枚方市域(東部の山間部を除く)がおよその範囲」として想定できた。そして、一般に「禁野」ではケガレに対して慎重な配慮がなされていたが、前記史料には「一、御野内にて穢駈鷹駈の外ハ曽不可殺生者也」という最も重視されるべき条目がある。すなわち、鷹の餌を獲るための狩り(穢駈)と鷹を使っての狩り(鷹駈)以外の殺生は禁じるというものである。こうなると、「禁野の中心やや西寄りに位置する宇山でのアテルイ処刑など毛頭考えられない」ことになる。「朝廷が自ら禁を犯し、あえて禁野を穢すことがあろうか」、加えて、桓武天皇は「交野での狩猟を最も好んだ天皇であり、また禁野が最も機能していた時代でもある。そこを穢すような指示を出すはずがない」というのである。
 最後に、枚方市議会における「首塚」に関する議論について平成5年と平成17年の議事録を引用して、市の答弁が中司宏現市長になって「記念碑建立実現に向けた支援を行う」と変わったことを指摘し、「公共機関が動けば嘘も真になる」と厳しく批判している。平成5年の教育委員会社会教育部長の答弁は次のような内容であった。「牧野公園のマウンド状の高まりが首塚とも呼ばれることをただ一つの根拠にして、ここを阿弖流為が埋葬された場所と特定するに至ったものであります。もちろん地元にはこれを裏付けるような伝承なり、伝説のたぐいは一切ありません。このような経過をたどってきたのが実情でありまして、枚方市としては歴史的根拠のない場所を確たる証拠もないのに、阿弖流為の墓にはできませんし、説明板なり顕彰碑を建設すべきではないと考えます」。
 馬部論文が例として取り上げている「首塚」に関する種々の記述を紹介しておく。

[1] 瀧波貞子『平安建都』(集英社1991)は、「首塚」の写真を掲載し、「伝アテルイの首塚、坂上田村麻呂の助命もむなしく殺されたアテルイ。付近に胴塚もあり、アテルイの怨霊を慰撫するために作られたと伝えられる。」と説明している。
[2] 枚方市史編纂委員会編の新版『郷土枚方の歴史』(1997)は、「首塚」のことに触れて「杜山・椙山・植山のなかで植山が正しいとする論拠はなく、まして、牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは首塚とする歴史的根拠はまったくない」と記述している。
[3] 枚方市発行の『ひらかた昔ばなし《子ども編》』(2003)は、アテルイの首塚を実在の史蹟として紹介、枚方市教育委員会発行の社会科副読本『わたしたちのまち枚方』(2003)も、「アテルイの首塚」として写真入りで紹介している。
[4] 『中学社会 歴史 未来をみつめて』(教育出版、2005年3月30日検定済)に、「現在、大阪府枚方市には、『エゾ塚』とよばれる石碑があり、阿弖流為の墓とも伝えられています」との記述がある。