北天の雄 阿弖流為母禮之碑

北天の雄 阿弖流為 母禮之碑撮影:和賀亮太郎

建立場所
京都府京都市東山区清水 清水寺南苑
建立年月
平成6年(1994)11月6日
建 立 者
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会
碑の概要

総高235㎝(台座含む)。碑石は岩手県産御影石(高さ185㎝、幅165㎝)。碑表面に東北地方の地図が彫り抜かれ、清水寺の森清範貫主の筆で<北天の雄 阿弖流為母禮之碑>と刻まれている。碑裏面には碑の説明文と建立者の名が刻まれている。

碑説明文
八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。
胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多大の損害を与えた。
八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄をもつて冥さるべし。

一九九四年十一月吉祥日
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会

顕彰碑文面

八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。
田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。
この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。

建立経緯

関西在住の岩手県水沢市(現奥州市水沢)周辺出身者で組織する関西胆江同郷会(高橋敏男会長)は、河内国で処刑されたアテルイとモレの供養碑を建立すべく平成元年頃より活動を進めていたが、平成2年10月に清水寺に対し同寺域にアテルイ、モレの供養碑を建立したい旨の要望書を提出、平成3年2月に応諾の正式決定をいただくに至った。清水寺の格別の厚意、同郷会の熱意、水沢、岩手にゆかりある人の尽力もあった。
清水寺への碑建立の決定は地元水沢においても大きな賛同をもって受け入れられ、これを機にアテルイを顕彰する会(藤波隆夫会長)が設立されるなど、アテルイ顕彰の一大事業として推進がはかられることになった。
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、水沢市関係者等が、平成3年10月と平成4年5月に清水寺を訪問、碑の建立場所、碑の規模、建立年等を協議、基本合意し、平成6年(1994年)の平安建都千二百年祭の年に合わせて建立された。

法   要
毎年11月の第2土曜日に碑の前で顕彰と慰霊供養の法要が執り行われます。
関西アテルイ・モレの会(和賀亮太郎会長)の主催で、当会も毎回参加しています。
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