2025年5月14日

情報304 天文学専用スパコン「アテルイⅢ」始動

2024年12月2日、奥州市の国立天文台水沢VLBI観測所で天文学専用スーパーコンピューター「アテルイⅢ」の本格的運用が始まった。8月まで稼働していた従来機の愛称「アテルイⅡ」を踏襲し命名された。毎秒約1990兆回の計算能力に加え、性能が異なる2種類のシステムを搭載することでデータ転送速度が向上し、処理時間も短縮したという。本体の大きさは、幅4㍍、高さ2.3㍍、奥行き1.6㍍で、従来機の半分以下となった。本体外側の化粧板デザインは美術家の小阪淳さんが担当、篆書体と回路図を組み合わせたようなデザインで「阿弖流為」とⅢを「参」の字で表現している。宇宙のさまざまな謎を解明する活躍が期待される。

ページの上に戻る

2025年5月14日

情報303 奥州市の「おうしゅうたろう」

2024年5月、奥州市初の公式マスコットキャラクターとして「おうしゅうたろう」が誕生した。「奥州市に住み着いた宇宙人」をコンセプトに漫画家の吉田戦車さん(奥州市出身)がデザインした。戦車さんは「制作を喜んでお引き受けしたものの、奥州市の個性とは何か、考えれば考えるほど分からなくなりました。...それまでの試行錯誤を一度全部忘れて好きに描いてみたのがこのキャラクターです。大まかなイメージの基は、アテルイなど蝦夷と呼ばれた先人たち。想像するしかないはるか昔の人たちの気配を取り入れたかった。...」とコメントしています。アテルイのイメージといっても、本当にむずかしいもの。暖かく見守り、そのうちにアテルイバージョンでも生まれれば楽しいかも。

ページの上に戻る

2025年5月14日

情報302 令和7年度の「中学の歴史教科書」

本年4月より、昨年3月(2社は4月)に検定合格した中学の歴史教科書が使用開始される。
今回の検定では9社(東京書籍、教育出版、日本文教出版、帝国書院、山川出版社、自由社、学び社、育鵬社、令和書籍)の歴史教科書が検定に通った。使用期間は令和10年度までとなる。
このなかで、古代東北の蝦夷やアテルイはどのように記述されているのか、関係部分を全文紹介することにする。

教育出版『中学社会歴史 未来をひらく』

「古代、律令国家が成立すると、奈良や京都の都を「中央」として、「地方」への支配を広げていきました。...」そのなかで、古代には「地方」であった東北の歴史を調べようということで、「蝦夷の指導者である阿弖流為あてるい」に注目し、「阿弖流為の戦い」について大きく取り上げています。まず「坂上田村麻呂と阿弖流為の戦い」と題して以下のように記述しています。
「朝廷は、東北地方を従えるため、ときには武力を用いて攻めていきました。東北地方の蝦夷は、朝廷軍に対して、さまざまな形で激しく抵抗しました。780年には、もと蝦夷の指導者で、朝廷に従っていた伊治いじのあざ麻呂まろが反乱を起こしました。朝廷に降伏していた蝦夷で編成された軍を指揮して伊治城(宮城県)を囲み、朝廷の役人紀きのひろずみを殺害し、さらに、朝廷が東北地方を支配するための最大の拠点にしていた多賀城たがじょう(宮城県)をおそいました。伊治呰麻呂の反乱ののちも、蝦夷は、朝廷に対して抵抗を続けました。その最大のものの一つが、阿弖流為の戦いです。789年、桓武天皇は、蝦夷が本拠地としていた北上川中流の胆沢地方を一気に攻め落そうと、10万人の大軍を送りました。しかし、蝦夷の族長であった阿弖流為の率いる軍に包囲され、敗退しました。その後も阿弖流為は、13年にわたって朝廷軍と戦いましたが、802年、征夷大将軍の坂上田村麻呂が率いる軍に降伏しました。坂上田村麻呂は、蝦夷を従えるためには阿弖流為らの協力が必要であるとして、朝廷に阿弖流為の助命を願い出ました。しかし、その願いは聞きいれられず、阿弖流為は河内(大阪府)で処刑されました。その後も、蝦夷の抵抗は断続的に続きましたが、胆沢城や志波城しわじょう(岩手県)を築いて支配を強める朝廷のもとに、しだいに従えられていきました。一方、朝廷にとっては、東北地方の蝦夷を従えるための約40年にわたる戦いは、国家財政や民衆に大きな負担を与えるものでした。阿弖流為の処刑から10年ほどのちに嵯峨さが天皇はみことのり(天皇の命令)を発し、降伏した蝦夷をさげすんでよぶことを禁止し正式な官位や姓名(せいめい)でよぶように命じました。」
次に、『続日本紀』に記録された蝦夷との戦いの様子(一部要約)として、「阿弖流為の本拠地に着くと、蝦夷軍は退却したので、彼らと戦いながら、彼らの住居を焼き、巣伏村に進んだ。ここで、さきに北上川を渡った軍と合流する予定だったが、はばまれてまだ到着していない。そこへ、蝦夷の軍勢800人ばかりが次々とやってきて、政府軍をさえぎって戦った。...さらに400人ばかりの蝦夷軍が東山から現れて政府軍の後ろに回った。前後から攻撃されて、戦死25人、矢に当たった者245人、おぼれ死んだ者1036人、裸になって泳いで逃げた者1257人、という損害で、残りは多賀城に逃げ帰った。」と記載している。
そして、「蝦夷えみし朝廷ちょうてい軍の戦い」と題して<土佐光信筆『清水寺縁起絵巻』>の〔蝦夷を鬼のように描く〕絵の写真を掲載し、蝦夷はどのように描かれているか読み取り、その理由を考えよう。と書いている。

他の教科書より格段に大きく取り上げており、内容もほぼ評価できるものである。ただ疑問点として

  1. 「10万人の大軍」とあるが、『続日本紀』には「五万二千八百余人」とあり、「10万人説」は少数説にとどまる。もしくは第二次胆沢征討軍の「10万人」と取り違えたものか誤解を生む。
  2. 「阿弖流為の本拠地」とあるが、正確には「居館」があったのであり、本拠地は北上川の西側にあったと考えられる。
  3. 「多賀城に逃げ帰った」とあるが、北上川の東に渡った政府軍4000人の残りということなので、「衣川の営」に逃げ帰ったのであろう

東京書籍『新編新しい社会 歴史』

「律令国家の変化」の見出しがある本文で「...朝廷は、支配が及ばない東北地方に住む人々を古くから蝦夷えみしと呼び、8世紀末から9世紀にかけて、たびたび大軍を送りました。征夷大将軍になった坂上田村麻呂の働きもあって、朝廷の勢力の及ぶ範囲は広がりましたが、その後も蝦夷たちは、律令国家の支配に抵抗し続けました。」と記述、「もっと知りたい!蝦夷の抵抗」という枠では「朝廷の東北侵攻に対して、蝦夷と呼ばれた人々は激しく抵抗しました。胆沢地方(岩手県奥州市付近)を中心にした蝦夷の指導者のアテルイは、789年、たくみな作戦で、6000人の朝廷軍をはね返しました。桓武天皇はその後も、坂上田村麻呂を征夷大将軍(蝦夷を征服するための総司令官)に任じて攻撃を続けました。802年、ついにアテルイは降伏し、捕虜として都に連れていかれました。田村麻呂は、朝廷にアテルイの命を助けるように強く訴えましたが、アテルイは河内(大阪府)で処刑されました。」と記述、「朝廷の東北地方への進出」という地図には、朝廷の勢力範囲と主な拠点が記載されている。

「6000人」の朝廷軍とは、選抜されて北上川を東に渡った4000人と、同時に西側を進んだ朝廷軍を2000人と推定したものか。この戦いの後、衣川の軍営に留まっていた朝廷軍の兵士数は「二万七千四百七十人」(『続日本紀』6月9日条)であった。

日本文教出版『中学社会 歴史的分野』

「蝦夷のリーダーと、その助命を願った征夷大将軍」とある見出しの枠内に、「阿弖流為(?~802)とされる面」として茨城県鹿島神宮蔵の首像の写真を掲載。「朝廷が送った軍と勇敢に戦った蝦夷に現在の奥州市を拠点とした阿弖流為がいます。十数年にわたって戦ったすえ、最後は坂上田村麻呂に降伏しました。田村麻呂は、蝦夷の支配には阿弖流為の協力が必要として、助命を願いますが、朝廷は聞き入れず、処刑してしまいました。」と記述している。「東北地方への進出」と題する地図には城または柵を書き入れている。

「阿弖流為(?~802)とされる面」とあるが、鹿島神宮が「悪路王の首」とするものであり、それを直接「阿弖流為」と結びつける根拠はない。

帝国書院『社会科 中学生の歴史』

「平安京と東北支配」の見出しがある本文に、「桓武天皇は、...都づくりとともに東北地方の支配にも力を入れました。東北地方北部には律令国家の支配が及ばない人々が住んでおり、朝廷は彼らを蝦夷とよんで差別しました。蝦夷は律令国家の支配に対し、激しい戦いを繰り広げて抵抗しましたが、やがて坂上田村麻呂を征夷大将軍とする軍が蝦夷の主な拠点を攻め、東北地方への支配を広げました。しかしその後も、蝦夷の抵抗は東北各地で続きました。」と記述、「地域史 蝦夷と東北の支配」と題する枠には、「アテルイ」として[茨城県鹿島神宮蔵]の首像の写真を掲載、「東北に住んでいた蝦夷は、狩りや農耕のほかに、馬や毛皮などの交易をしていました。朝廷は、城や柵を築いて戦いに備えつつ、関東地方などから兵士や農民を移して東北地方の開拓を進めました。これに対して、蝦夷は激しく抵抗しました。特に胆沢地域(岩手県奥州市)の指導者アテルイは、朝廷に抵抗を続け、しばしばその大軍を破りました。征夷大将軍の坂上田村麻呂にようやく降伏したアテルイは、田村麻呂による助命の願いもかなわず河内国(大阪府)で処刑されました。」と記述している。

鹿島神宮が「悪路王の首」とする写真を、実在した「アテルイ」とするのは完全な誤りであろう。

学び社『ともに学ぶ人間の歴史 中学社会歴史的分野』

「(6)北で戦い、都をつくる」のなかの「蝦夷の人々と陸奥国大津波」と題する本文では、「...802年、桓武天皇の命令を受けた征夷大将軍・坂上田村麻呂は、蝦夷の指導者アテルイの本拠地に侵入して胆沢城を築き、アテルイを降伏させた...」と記述している。本文の脇には、鹿島神宮蔵の首像の写真が掲載され、「悪路王の像/アテルイをかたどったものとされる」と説明している。

鹿島神宮が「悪路王の首」とする写真を「悪路王の像」と呼んでも、「アテルイをかたどったもの」とは聞いたことがない。

山川出版社『中学歴史 日本と世界 改訂版』

「平安京造営と支配地域の拡大」と題する本文では、「...桓武天皇は、東北地方の支配にも力を入れた。すでに奈良時代前半には多賀城(宮城県)や秋田城がつくられ、東北地方支配の拠点となっていたが、奈良時代の終わりごろになると、さらに北へ支配の拡大が図られ、これに抵抗する蝦夷との間で衝突が激しくなった。桓武天皇は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して蝦夷を従わせ、支配領域が現在の岩手県中部まで拡大した。あいつぐ都づくりや蝦夷との戦いの負担によって、人々の生活が苦しくなったため、桓武天皇は都づくりと蝦夷との戦いをいったん停止するよう命じた。しかし、東北地方北部では、その後も朝廷の支配に従わない蝦夷との戦いがしばらく続いた。」と記述している。「蝦夷えみし」に関するコラムでは、「7世紀から10世紀にかけて、現在の東北地方から北海道地方にかけて住んでいた、朝廷の支配下に入っていない人々を朝廷は「蝦夷」と呼んだ。蝦夷は戸籍に登録されておらず、調や庸もおさめていないほか、律令による行政が行われている地域の人々とは言語も異なっていた。また、狩猟・採集・農業・漁労など、生活のあり方が異なるさまざまな人々が含まれており、政治的に統一されていなかった。7世紀以降、朝廷は東北地方の各地に拠点を設けて蝦夷への支配拡大を目指したが、地域によっては強い抵抗を受けて戦争状態となることがたびたびあった。」と記述している。

「朝廷の支配下に入っていない人々」が戸籍に登録されないのも、税を納めないのもあたりまえのことで、教科書でわざわざそれを取り上げるのは何故であろうか。

自由社『新しい歴史教科書』

「平安京と摂関政治」のなかの「律令国家の立て直し」の見出しの本文では、「...このころ朝廷は、東北地方の蝦夷とよばれる人々を服属させようとしましたが、激しい抵抗にあいました。桓武天皇は、坂上田村麻呂を征夷大将軍(朝廷が認めた総大将)とする軍勢を送り、802年、蝦夷の指導者アテルイを降伏させました。」と記述している。他に「東北地方への進出」の図がある。

育鵬社『新しい日本の歴史』

「桓武天皇の政治」と題する本文には「桓武天皇は律令政治を立て直すため、地方政治に力を入れました。国司や郡司に対する監督を強め、律令のしくみを九州南部や東北地方へも広げていきました。東北地方に住む蝦夷が起こした反乱には、坂上田村麻呂を征夷大将軍として派遣し、鎮圧しました。...」と記述している。「東北地方への進出」の図の説明には、「古代の東北地方や北海道に住んで居た蝦夷には、縄文時代以来の採集や狩猟の伝統が残っていた。蝦夷の首長アテルイは反乱を起こしたが、激しい抵抗の末、降伏した。」と記述している。

「蝦夷が起こした反乱」に「鎮圧した」と正当化し、「アテルイは反乱を起こした」とするが、事実は桓武天皇による律令国家支配地域拡大のための一方的な侵攻であり、アテルイの戦いはそれに対する「激しい抵抗」であった。

令和書籍『国史教科書第7版』

明治天皇の玄孫を自称する武田恒泰氏が出版社代表で著者でもある教科書で、これまで四回検定申請し不合格となっていたが、今回初めて合格した。「平安遷都」の本文のなかで、「...桓武天皇は、長年の懸案だった蝦夷征討でも成果をあげました。天皇から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂は延暦二十一年(八〇二)、幾度も朝廷軍を退けた蝦夷の指導者アテルイを降伏させ、東北の中部まで支配領域を拡大しました。ところが、二つの都の造営と蝦夷征討の費用がかさみ、人々の生活が困窮すると、桓武天皇は、造都と蝦夷征討をいずれも停止するよう命じました。そのため、平安京の碁盤の目の全体は完成しませんでした。しかし、蝦夷との戦いはその後も続きました。」と記述している。「蝦夷征討」の注では、「蝦夷とは、東北地方で朝廷に従わない勢力で、政治的には統合されていなかった。朝廷は奈良時代の前半、神亀元年(724年、諸説あり)には多賀城(宮城県)、天平5年(733)には秋田城を築き、蝦夷支配の拠点とした。蝦夷はしばしば反乱を起こしてこれに抵抗し、宝亀5年(774)からは大規模で長期的な反乱となった。(38年戦争、...)」とする。

「蝦夷とは、東北地方で朝廷に従わない勢力」との規定は、はじめから「蝦夷」をまるごと敵視し、「征伐」を当然とする考えと結びつくものであろう。

【◆は朝記】

ページの上に戻る