2013年1月 6日

情報250 『陸中一宮駒形神社 奥宮ご造営記録集』

 奥州市の駒形神社は、駒ケ岳山頂の駒形神社奥宮の老朽化が進んだことから、前社殿を解体し、新社殿の造営工事を行った(8月1日竣工)記録を記念冊子とした。山下明宮司代務者は、冒頭の「式辞」でアテルイについて次のようにふれている。「千二百年ほど前の坂上田村麻呂の北勢の成果は、胆沢城を築き、蝦夷の指導者アテルイに無血の降伏をさせたことでしょう。田村麻呂はアテルイに東北経営の力となるよう京に帰還した際訴えましたが、公家らに認められずアテルイは処刑されたのでした。また、田村麻呂は、東北が平定できたのは駒形大神様のご神徳によるものと、神階の昇格を何度も上奏しておりました。その結果、延暦二十一年(西暦802年)神階を得、仁寿元年(西暦851年)に正五位下、貞観四年(西暦862年)に従四位下に進み、東北地方で最高位の神階に昇格したのです(『文徳天皇実録』)。みちのくの平穏を見守ってきた駒形神社の神階の昇格はせめてものその地で生きてきたアテルイの慰霊になったのではと思います。」〔陸中一宮駒形神社、2010年9月発行、非売品〕

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2013年1月 6日

情報249 高橋克彦『風の陣 裂心篇』

 八世紀中頃の黄金発見に伴う中央政界の権力抗争と蝦夷たちの戦いを描く歴史巨編で、第一弾【立志篇】(1995年12月)に始まり【大望篇】【天命篇】【風雲篇】と続いたシリーズ第五弾の完結篇。陸奥の黄金を求めて牙を剥く朝廷に対し、多賀城に仕えながらも蝦夷の楽土の建設を願う伊治鮮麻呂がついに起ち上がり、若き阿弖流為も登場する。このシリーズの次の展開は、『火怨~北の耀星アテルイ』に連なる。
 伊治城を預かる鮮麻呂は、蝦夷に対する理不尽な討伐が避けられない事態になるなかで、陸奥守で按察使の紀広純と道嶋大楯が伊治の城に来るという好機に反逆を決意する。そして、すべての蝦夷をひとつにまとめるために、胆沢を治める阿久斗と息子の阿弖流為に援軍を求める。阿弖流為は「わずか十やそこらのとき田村麻呂に馬の駆け競べを挑んだほどの怖い物知らず」であり、すでに「蝦夷一の強者」との評判で、胆沢中に勇名が響き渡っていた。決起の日、阿弖流為と副将の母礼が150の胆沢の兵を率いて伊治城外で果敢な戦いを繰り広げる。目的を達した鮮麻呂は最後に、「人とは...次の時代に繋がる橋を渡すために生まれてきたのだ。それを自分は果たした。自分が架けた橋を阿弖流為たちが渡って行くだろう。その先の大地は阿弖流為たちが切り拓く。たとえ自分がこの目で見られぬとて、それでいい。爽やかに吹き抜けてこそ...風である」との境地に。〔PHP研究所、2010年9月発行、1,890円〕

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2013年1月 6日

情報248 進藤秋輝編『東北の古代遺跡 城柵・官衙と寺院』

 前東北歴史博物館館長の編者が、東北古代城柵と官衙遺跡についての現段階の成果をとりまとめたガイドブックで、第1章古代城柵の沿革、第2章陸奥国の城柵と官衙遺跡、第3章出羽国の城柵と官衙遺跡、からなっている。第1章(2)奈良・平安時代の城柵で、伊藤博幸氏(奥州市埋蔵文化財調査センター所長)が「5蝦夷の反乱」を執筆し、アテルイ登場前の蝦夷反乱から「胆沢の合戦」「田村麻呂の登場」「阿弖流為の降伏」について見事なまでに簡潔に記述している。「胆沢の合戦の蝦夷側の勝利は、七八九年の巣伏村の戦いである。大墓公阿弖流為らのゲリラ作戦が功を奏し、紀古佐美将軍率いる政府軍を完膚なきまでに破ったことである。」〔高志書院、2010年9月発行、2,625円〕

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2013年1月 6日

情報247 関祐二『新古代史謎解き紀行 消えた蝦夷たちの謎』

 著者は歴史作家で、大胆な推理で数多くの著作がある。著者は、蝦夷征討の第一の目的は律令制度を広め、領土を拡大することにあったとしつつも、その裏側には「蝦夷とも関係をもっていた」大伴氏に「東」を討たせることにより、両者の力を徐々に削いでいった藤原氏の策謀があったとする。そのうえで、「阿弖流為の恭順を引き出したのは坂上田村麻呂であったが、この人物は蘇我氏の懐刀・東漢氏と同族であり、やはり藤原氏にとっては油断ならない氏族であったろう。けれども、藤原氏がほぼ朝堂を支配した平安時代、かつての「親蘇我系豪族」「親東国政権の末裔」たちは、生き残りのために人並み以上に手柄をあげねばならぬ宿業を負っていく。坂上田村麻呂の鬼神のような活躍は、反藤原派豪族の苦悩の裏返しであり、彼らの葛藤、その無念の思いはわれわれの胸を打つ。その一方で、坂上田村麻呂は「せめて、蝦夷の恭順を引き出し、両者が共存する道を探りたい」と願ったにちがいない。そして阿弖流為は、坂上田村麻呂が、かつての「親東国政権の末裔」だからこそ、説得に応じたのだろう。けれども都で阿弖流為を待っていたのは、藤原政権の非情な仕打ちであった。」と推理している。また、著者がもし東北歴史博物館の館長になったら、次の日からホームベージを書き換えるという。「東北人にとっての本当の「戦後」とは、阿弖流為が都で処刑されたあとを指すのであります。つまり、博物館の名称を「阿弖流為顕彰館」にあらためましたのは、東北人の矜持であります。憤怒であります。都人、都の貴族に対する、いまだに消えぬ怨念なのです。...」 〔ポブラ社、2010年5月発行、1,470円〕

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2013年1月 6日

情報246 『週刊 新マンガ日本史7坂上田村麻呂』

 全35ページの内、大部分の26ページが「マンガ古代の英雄対決」(細雪純、シナリオ北島ヒロ)で、坂上田村麻呂とアテルイの「対決」を描いている。田村麻呂が副将軍となった第二次征討における場面を中心に、田村麻呂とアテルイのそれぞれの立場からする思いをかけた「対決」が繰り広げられる。史実では朝廷軍の圧勝に終ったとみられるのだが、その戦いには触れず、田村麻呂の説得とアテルイの主張のやり取りがなかなかの内容となっている。田村麻呂は戦いの勝利を前提に、「小岩が立ちはだかったところで大河の流れは止められぬ...」、「勝手は承知だ」、「故郷の地を荒らされた怒りがわからぬではない」とまで踏み込み、「だが、このままでは蝦夷の最後の一人まで滅ぼし尽くさねばならぬ」、「生きるべき者をその背に乗せ、破滅に向かい走り続けるというのならば...おまえをここで斬り捨てでも止めてみせる...」と語る。数年後、胆沢を占拠されたアテルイは降伏の道を選ぶ。〔朝日新聞出版、2010年12月発行、490円〕

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2013年1月 6日

情報 わらび座ミュージカル「北の燿星アテルイ」再演決定

 劇団わらび座は来年(平成23年)4月から創立60周年を記念してミュージカル「北の燿星アテルイ」を10年ぶりで再上演する。来年は平泉の世界遺産登録再挑戦の年であり、朝廷と蝦夷の戦い、いわゆる宝亀五年(774)の海道の蝦夷による桃生城襲撃に始まるとする「三十八年戦争」が終焉して1200年の記念年にもあたることから、「アテルイ」の再演を通じて、みちのくの力とロマンを全国に発信する。5月14日、岩手県や関係団体は全県実行委員会(高橋克彦会長)を立ち上げた。発足会は盛岡市内のホテルで開かれ約30人が参加し、わらび座劇団員によるアテルイのテーマソング「日高見、わがまほろば」の披露、意見交換などが行われた。会長に就任した高橋克彦氏は「大地に根を張り、力強く生きてきた東北人の姿を全国の人たちに伝え、新たな東北の創世につながることを願う。今一番の願いは、再演する「アテルイ」を若い世代に見てもらうこと」と挨拶した。ミュージカル「アテルイ」は盛岡市の作家高橋克彦氏の『火怨』が原作で、朝廷の侵攻に立ち上がった蝦夷の若きリーダー、アテルイの物語。アテルイ没後1200年を控えた2001年(平成13)8月から3年にわたり全国各地で上演され、大きな反響を得た。再上演される「アテルイ」は、坂上田村麻呂の人物像を再構築し、アテルイに感化され変わっていく姿をより深く描くという。また、人間としての生き方を真正面からぶつけるアテルイの姿は「蝦夷の誇り」を超え、「人間の誇り」を現代社会に問いかけるものになるという。今回は若手を中心にキャストを一新し、新曲も登場する。アテルイ役には、初演でアテルイの片腕ヒラテ役を演じた戎本みろ(40)が務める。戎本さんは「以前の公演で、岩手の皆さんに熱く迎え入れられたことがずっと忘れられなかった。このほとばしる思いを原動力に、アテルイ役に臨みたい。ミュージカルアテルイを輝きにあふれた、燃えるような公演にし、みちのくの魂を全国に発信していきたい」と話している。来年1月から稽古をスタートし、4月10日の秋田県仙北市のわらび劇場での公演を皮切りに全国上演される。岩手県内では5月中旬から各市町村や学校で公演する予定。

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2013年1月 6日

情報244 高田崇史『カンナ 奥州の覇者』

 不撓不屈!!歴史アドベンチャーシリーズ第4弾!伝説の猛者「アテルイ」を追いつめた真実とは?とあり、表紙カバーには悪路王首像の写真。裏には「失踪していた諒司に助けを請われ、甲斐は岩手・水沢へ向かった。無事の再会を喜ぶ間もなく、甲斐たちは敵の手に落ちた「出賀茂神社社伝」奪還計画を練る。一方、蝦夷の指導者・アテルイの降伏に疑念を抱いた甲斐は、信じがたい歴史的捏造と自らに関わる衝撃的な共通点に気づいた。傷ついた甲斐を救うのは...」とある。その疑念とは、(1)アテルイたちは本当に降伏したのか?(2)何故アテルイとモレは田村麻呂に従って京まで行ったのか?田村麻呂はどうして降伏した彼らの首をその場で刎ねなかったのか?(3)田村麻呂はアテルイたちを京に連行したら、彼らの運命がどうなるかということを分からなかったのか?というもの。講談社ノベルズ。2009年7月発行。945円。

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2013年1月 6日

情報243 その他

【第19回アテルイ杯中学サッカー大会】平成21年10月10~11日、奥州市のふれあいの丘公園を会場に開催された。一関選抜、花巻選抜、和賀地区選抜、FCみやぎ、など8チームが参加し、胆江3年選抜チームが3位トーナメントで宮城県の多賀城FCチームを決勝で破った。
【第2回アテルイ杯少年サッカー選抜大会】平成21年11月7~8日、奥州市のふれあいの丘公園を会場に開催された。小学校6年では5チームが参加し、北上地区選抜が3勝1分で優勝。5年生も5チームが参加し、花巻市選抜U11が4勝で優勝した。奥州トレセンは6年で4位、5年で3位だった。
【ラクビー第26回東北クラブ選手権大会】平成21年11月22日、大会の決勝が秋田市八橋陸上競技場で行われ、岩手県代表の奥州アテルイR・F・C(高野栄仁監督)が青森県代表の青南クラブを50対10で下し、昨年の準優勝から今年の初優勝に輝いた。
【第10回アテルイの心と輝き陶芸展】平成21年11月27~29日、奥州市水沢羽田町の社会福祉法人愛護会の千養寺焼陶芸館が主催し、同区のめんこい美術館で開催された。同会が運営する保育園の園児や知的障害者更生施設の利用者、一般市民らが陶芸教室で制作した花瓶、茶碗、皿など400点余の作品が展示された。いずれも東北最大級とされる四連窯で焼き上げられたもの。
【第8回アテルイ杯囲碁大会】平成21年12月23日、奥州市胆沢区のアタゴ囲碁センターで開催され、A級では安倍雅章7段が、B級では佐藤悠太初段が優勝した。
【水沢競馬アテルイ杯】平成22年1月10日のメーンレースが奥州市職員奥馬の会会長杯のアテルイ賞。C1クラスの1600m戦で、9頭が出走した。
【少年相撲「アテルイ部屋」が慰問】平成22年3月13日、奥州市水沢の市立常盤小学校児童を中心とした少年相撲のアテルイ部屋が同区の特別養護老人ホーム福寿荘を訪れ入所者を喜ばせた。毎年この時期に行っている恒例行事で、園児から小学6年生までの11人が基本稽古や土俵入り、年齢別の取り組みを元気いっぱいに披露した。

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2013年1月 6日

情報242 NHK「ライバル日本史」でのアテルイ役

 胆江日日新聞の安彦公一編集長の連載コラム『穏やかな時間』(平成22年2月26日付)は、「ライバルについて」をテーマとし、そのなかで自身がNHKの番組ロケでアテルイ役を演じた体験を交えながら書いている。その部分を抜粋して紹介する。はや20年ほども昔になる。NHK総合テレビの番組に「ライバル日本史」というのがあって、「アテルイ」と「坂上田村麻呂」を取り上げた。そのロケ隊が胆沢城跡にやってきた。その日は大雪だった。「地元にアテルイ役はいないか」ということになって、白羽の矢が立った。どうせ、体が大きく、ヒゲ面がその安易な選択の理由だったのだろう。が、そのロケの内容も聞かずに、出ることにしたのが間違いだった。テレビでは、大雪の中、胆沢城跡でアテルイ降伏のシーンを撮りたい、という。が、アテルイが胆沢城の坂上田村麻呂を訪ねて降伏したのは、夏のことだ。しかも、当時は「ワラジ」をはいているはずもないのに、「当時の沓がないので、ワラジにしましょう」とワラジで雪の中を歩くはめになった。当然のことながら、ワラジに防水、防寒機能などのぞむべくもない。足を雪に入れた瞬間、足が凍りついたかと思った。その上、ひざまづいて、雪の中に頭を突っ込まなければならない。それだけでもいいかげん頭にきていたのに、かのNHKの看板アナウンサー三宅さんが、何度もとちって、テイク6までいった。そのつど、雪の中を歩き、ひざまづき、雪に頭をつけるのを繰り返した。
 史実に遠いことを演じさせられている不満と、寒さで散々だったが、せめてもの救いが、衣装の女性の言葉だった。「この毛皮は、『炎立つ』のとき、里見さんが着けたんですよ」。里見浩太朗といえば、いまでは「水戸黄門」を演じている時代劇の大スターだ。で、周囲には今回の出演をこう言うことにした。「NHK主演俳優」。せりふも共演者もなかったが、アテルイ役を演じたことは間違いない。一方のライバル役、田村麻呂はどこにもいない。誰か、雪の中に立っていてくれるだけでも、こちらは迫真の演技ができたのに...。こんなことを言ってはなんだが、アテルイと田村麻呂は、そもそもライバルでもなんでもない。「敵」である。たまたま田村麻呂は、アテルイを評価し、胆沢の統治に用いようと助命を嘆願したし、おそらくは「友情」に近い感情も芽生えてはいたのだろう。が、二人の関係は肉食獣と馬と同じだ。アテルイの戦いは、仲間の離反との戦いでもあった。最終的には、統率力が問われた。アテルイにとってのライバルはむしろ、エミシの中にこそいた。(以下、略)

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2013年1月 6日

情報241 関西との絆づくり

 地元の胆江日日新聞は、毎年十二月にその年に亡くなられ地域に貢献された方々について、その功績をたたえ、紙面「追悼碑」として特集している。当会の初代会長の故藤波隆夫氏(84歳)については「関西との絆づくり」の見出しで掲載されている。以下、全文を紹介する。
 ほとんどの人が「アテルイ」の存在を知らなかったころ、史書にある「河内国植山(杜山)」の処刑地特定に向けて現地に足を運んだ。四半世紀以上も前になる。河内一宮・片埜神社がある大阪府枚方市の一帯だ。枚方市教育委員会は、アテルイといっても返事もしてくれない。周囲に聞いても誰も知らない。「アテルイの塚」が建てられた現在の状況とは大違いだ。同じころ、大阪でもアテルイ顕彰に熱心な人たちがいた。故高橋敏男さんを中心とする「関西同郷会」のメンバーだ。大阪・枚方が熱心でないことを知ると、ただちに京都・清水寺に話を持ちかけた。藤波さんとともに、京に上った。同郷会との間で建立場所の選定なども話し合った。「観光客の邪魔にならないよう、あの境内の奥の方でもいいのではないか」藤波さんが遠慮がちに言った。こちらもうなずいた。ところが、清水寺が「どこでもよろしいですよ」と言った。「どこでもいい」といわれて言葉の真意をはかりかねていたら、「さすがに、開山堂の前(入場口近く)だけは、勘弁してもらいます」と言って清水の大西真興執事長が笑った。それが現在の清水の舞台の真下に決まって驚いた。「黒石寺の執事長」と声をかけたら「大西さんみたいに言うな。おれは掃除専門の寺男だ」と言った。今日のアテルイ顕彰は、藤波さんが掘ったその基礎の上にある。「いまどきは、新しくつくるのは何ほどのこともない。だけど、長く守るというのが難しいんだ」。長く病気療養していたが、境内のせみ時雨を待たずに不帰の客になった。まさに、古きを守るために尽くした人生だった。水沢黒石町=平成21年5月28日没

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2013年1月 6日

情報240 アテルイ顕彰

【清水寺<阿弖流為・母禮之碑>法要】平成21年11月14日、関西アテルイ・モレの会(松坂定徳会長)の主催により法要と直会が行われた。地元奥州市からは「アテルイ京都・清水法要の旅」のツアーが組まれ、当会の及川洵会長をはじめ、幹事他会員、関係者等が参加した。
【講演会「阿弖流為と母禮」】平成21年11月3日、奥州市前沢区の母禮をたたえる会主催による文化の日記念講演会が前沢ふれあいセンターで開催され、当会の及川洵会長が「阿弖流為と母禮」と題して、遺跡などの発掘成果などを交えながらアテルイとモレについて話した。
【長編アニメ「アテルイ」上映会】平成22年3月7日、奥州市埋蔵文化財調査センター主催により、同センター研修室において「まいぶん映画上映会」として開催された。フィルマズ・アテルイが協力した。

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2013年1月 6日

情報239 入試問題文にアテルイ

 平成22年3月9日に実施された岩手県の公立高校入試問題文中にアテルイに関する記述がある。社会の問題で、「次の資料は、中学生が「岩手と中央の歴史上のかかわり」というテーマで調べて作成したものです。これを見て、下の問いに答えなさい。」というもの。資料は、「桓武天皇の政治」という項目で、「現在の奥州市を中心とする蝦夷の長であるアテルイが、東北地方に支配を広げようとする(1)朝廷から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の軍と戦った。」とあり、この下線部(1)について、次のア~エのうち、この時期の朝廷が政治を立て直すために行ったことはどれですか。という問いになっている。ア、全国の戸籍をはじめてつくった。イ、国ごとに国分寺や国分尼寺を建てた。ハ、現在の京都に新しい都をつくった。ニ、能力や功績によって12段階の地位を定めた。さて正解はどれ。また、2月21日に実施された一関工業高等専門学校の入試問題にもアテルイが取り上げられている。「朝廷による支配の拡大に対して、東北地方の蝦夷たちがアテルイ(阿弖流為)を中心に激しく抵抗し、戦乱が拡大した。これに対処するため、朝廷は坂上田村麻呂をに起用して蝦夷の平定を命じた。そののち田村麻呂は胆沢城を築いてアテルイらを降伏させた。」とあり、空欄にあてはまるものを選ぶもの。

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2013年1月 6日

情報238 歴史講座「アテルイが戦った将軍たち」

 水沢佐倉河地区振興会などの主催による「鎮守府胆沢城にかかわった人々」をテーマとする歴史講座が、平成21年7月2日より奥州市埋蔵文化財調査センター研修室を会場に始まった。初回は同調査センターの伊藤博幸所長が「アテルイが戦った将軍たち」をテーマに講義。「朝廷の征夷なくしてアテルイというカリスマ的指導者は現れなかった」と強調した。

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2013年1月 6日

情報237 伊藤流行山鹿踊りの口上

 奥州市水沢羽田町の伊藤流行山鹿踊りは、平成16年の清水寺のアテルイ法要に参加し奉納するなど積極的な活動を続けている。今年の阿弖流為・母禮の慰霊祭においても奉納の鹿踊りを披露したが、なかなか聞き取りにくい口上の内容が文書で配布されたので紹介する。

アテルイの 御魂を迎えむ 羽黒山 月日を今は 日高見ぞ見ゆ後の世を 祈りをかけし
アテルイの 生々流転 誇りひとすじ はろばろと この世のちの世 アテルイの 深き誓いの いのち生きをり
アテルイの 誠の道よ 後の世へ 人は情けの 徳に花咲く アテルイの 御霊安らぎ くもりなき 風ぞ吹きぬる 羽黒山かな 

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2013年1月 6日

情報236 第八回母禮慰霊祭

 平成21年9月15日、母禮をたたえる会(菊地榮治会長)主催により、奥州市前沢区生母の耕雲院で会員ら34人が参列して営まれた。森住俊英住職の読経に続いて、同会が作った母禮の位牌の前で順に焼香。最後に前沢吟詠会の会員15人が詩吟「母禮賛歌」を奉納した。

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2013年1月 6日

情報235 "巣伏古戦場跡公園"で鎮魂祭

 9月17日、1935(昭和10)年度生まれの同級生組織「進友会」(佐々木勲会長、会員300人)は、水沢佐倉河の"巣伏古戦場跡公園"で恒例となっている清掃奉仕活動をするとともに、アテルイの鎮魂祭を行った。同会は、平成七年に還暦を記念し物見やぐらが立つ公園内に「巣伏古戦場跡碑」を建立。会員たちは毎年、アテルイの命日となる9月17日前後に碑周辺の清掃と鎮魂祭を行ってきた。同会幹事の青野弘さんは、「会員に限らず、市民の皆さんにも参加してもらえれば」と呼びかけている。

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2013年1月 6日

情報234 「アテルイ・モレ顕彰の地」の標柱

 アテルイ・モレを慰霊する会(及川松右衛門会長)は平成21年9月10日、阿弖流為・母禮慰霊碑のある羽田町羽黒山の出羽神社近くに「アテルイ・モレ顕彰の地」の標柱を立てた。アテルイ、モレの顕彰活動を盛り上げようと市教育委員会の補助を受けて設置したもの。約15㌢角、長さ約160㌢の木製標柱で黒地に白い字で「アテルイ・モレ顕彰の地」と書かれている。及川会長は「慰霊碑を訪ねて来る人たちから『目印になるものを』との要望も多く受けていた。顕彰の機運がさらに高まるといい」(岩手日報)と話している。同会では、来年3月までに、羽田地区内に「アテルイ・モレの里」と記した標識を取り付けることも計画している。

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2013年1月 6日

情報233 「アテルイ・モレ顕彰の地」の説明板

 平成21年8月24日、奥州市の協力により、水沢羽田町羽黒山山頂の阿弖流為・母禮慰霊碑の付近に「アテルイ・モレ顕彰の地」の説明版が設置された。[アテルイ・モレ顕彰の地] 朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄、毛人、蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。この羽黒山は、『続日本紀』延暦八年六月条の「四百人ばかりありて、東山より出て官軍の後を絶てり」の東山に比定できることから、私たちはアテルイ・モレを始めとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛に深く心を打たれ、ここに慰霊碑を建立しました。今後、この地を「顕彰の地」として、永く語り継ぎたいと考えています。平成二十一(二〇〇九)年九月十七日 アテルイ・モレを慰霊する会 及川 洵 撰文

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2013年1月 6日

情報 清水寺の森清範貫主を迎え阿弖流為・母禮の慰霊祭

 平成21年9月12日、阿弖流為・母禮を慰霊する会(及川松右衛門会長)の主催で、当会が後援する<阿弖流為・母禮慰霊祭>の式典が、奥州市水沢羽田町の羽黒山山頂の阿弖流為・母禮慰霊碑前で行われた。2005年に慰霊碑を建立して今回が5回目の慰霊祭となることから、京都・清水寺の森貫主をはじめ、関西アテルイ・モレの会の会員、枚方市の伝アテルイ・モレの塚保存会の中野会長らも出席、約80人の参加となった。慰霊祭に先立ち、相原正明奥州市長が「日本の歴史にとっても非常に重要なアテルイ、モレの戦いと友情の物語の地であり、慰霊祭が5周年を迎えたことに敬意を表する。」とあいさつ。続いて前沢区の北天太鼓と地元羽田町の伊藤流行山鹿踊が奉納された。主催者を代表し及川会長は、市の協力で慰霊碑付近に設置された「アテルイ・モレ顕彰の地」の説明版を参列者に紹介、「4年前、阿弖流為・母禮の碑を皆さんの尽力により建立した。この慰霊碑を中心に、アテルイ、モレ顕彰の地として歴史公園の指定を目指したい。そして地元として永く顕彰していきたい。」とあいさつした。神事では笙などの演奏が響き渡る中、清水寺森貫主、奥州市関係者、各顕彰団体の代表者、県会議員、地元住民代表らが慰霊碑前に設けられた祭壇に玉ぐしを奉てんし、両雄に祈りをささげた。この日の午後2時からは、地元羽田町の会場で清水寺森貫主による慰霊祭記念法話が行われ、地元住民らで会場が埋め尽くされた。さらに午後4時からホテルに会場を移して直会が開かれ、約70人の参加者が歓談、交流を深めた。

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2013年1月 6日

情報232 アテルイ題材のアルバム

 新潟県在住のヘビーメタルバンド・クリスタルオワナイトは、平成21年3月18日、コンセプトアルバム『アテルイ』を発売した(モアイレコード)。15分を超える表題曲「アテルイ」を始め、「エミシ」「アラハバキ」など6曲を収録。バンドリーダーの佐藤現氏は、数年前に東北地方を旅した際、「おれの魂を伝えてくれ」という声を聞いたという。そして「その声の主はアテルイだったと確信した」という。アルバムに対する評価は、「演奏と歌が半端なく超ハイレベル」という絶賛の声と、「あまりに稚拙」「随所に意識の低さ」などの酷評がある。

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2013年1月 6日

情報231 『おうしゅう歴史散策ガイドブック』

 合併して奥州市となっての歴史散策ガイドブック。最初に奥州市の歴史が三区分されて叙述される。「旧石器から蝦夷の時代」に続いて「アテルイ・安倍氏の時代」。まず年表でアテルイが登場する部分は、789年アテルイら、紀古佐美率いる征討軍を巣伏村で撃退。794年坂上田村麻呂らの征討軍10万人に北上川流域の蝦夷が討たれ、集落75ヵ所が焼かれる。801年坂上田村麻呂ら4万の軍が来攻。802年坂上田村麻呂、胆沢城(水沢)を築造。アテルイら降伏し、北上川流域の胆沢の蝦夷が服属。
 アテルイに関する叙述は、「789(延暦8)年、蝦夷は紀古佐美率いる5万余りの朝廷軍との戦いに、わずかな手勢で勝利を収めます。この巣伏の戦いで一躍勇名を馳せたのが、アテルイ(阿弖流為)です。アテルイの出自については、正確なことは分かりません。ただ、胆沢地域の蝦夷の指導者であったことは間違いありません。朝廷軍に脅かされる故郷を守るため、アテルイは盟友・モレ(母禮)らとともに強力な蝦夷集団を率い、巧みな戦術で数的不利を克服し、朝廷軍を退けたのです。巣伏の戦いの後、朝廷軍は790年、794年と胆沢に進攻。とくに、794年には、10万人の軍が投入され、蝦夷に対して朝廷が大攻勢に転じます。801年には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が4万の大軍を率いて岩手県域を転戦し、翌年には胆沢城(水沢)の築造に着手。長期に渡る戦禍によって疲弊する故郷を憂うアテルイは、モレら500余人と降伏し、田村麻呂はそれを受け容れます。田村麻呂はアテルイらを連れて京に上り助命を嘆願しますが、それも空しく、アテルイらは処刑されました。」790年の胆沢進攻?、「794年、801年と胆沢に進攻」か。

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2013年1月 6日

情報230 その他

(1)【アテルイ・グランドゴルフ大会】産業技術短期大学水沢校グランドを会場に成20年10月25日に開催された。水沢老人クラブ連合会の主催で12年前から続けられている大会。八地区からクラブ会員約270人が参加し、8ホール2ラウンドの合計打数で順位を争った。
(2)【第9回アテルイの心と輝き陶芸展】愛護会が運営する千養寺焼陶芸館の作品展。園児や市民らが陶芸教室で制作した花瓶、茶碗など約300点を展示。めんこい美術館で平成20年11月に開催された。
(3)【「アテルイ部屋」が県青少年育成貢献団体として表彰】水沢の少年相撲「アテルイ部屋」は平成3年に創設され、これまでに東北大会団体準優勝という好成績を残している。部員14人が毎週土曜日の午前に練習場の市立常盤小学校の土俵に集まり、千葉栄親方の指導のもと稽古を続けてきた。
(4)【アテルイカップ9人制職場対抗バレーボール大会】平成20年12月14日、奥州市江刺西体育館を会場に開催された。優勝は県南広域振興局B、準優勝は大井電気水沢製作所。
(5)【水沢競馬・第2回アテルイ賞】水沢商工会議所青年部杯として平成21年1月11日にレースが組まれました。入賞者には賞金と副賞として水沢産のひとめぼれ(米)が贈呈されました。

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2013年1月 6日

情報229 平谷美樹作『沙棗(さそう) 義経になった男』

 河北新報に連載中の異色の歴史小説。沙棗とは『吾妻鏡』に出てくる人の名で、この小説では近江の俘囚出身の男で義経の身近に仕えることになる。蝦夷や俘囚ということを物語の底流に据えており、アテルイの名も随所に出てくる。「宝亀七年。朝廷軍三千人が胆沢を攻めましたが、敗走しております。また、延暦八年に朝廷軍を率いる紀古佐美が大墓公阿弖流為の軍と戦い、敗走。以後、延暦二十年に阿弖流為公が坂上田村麻呂公に降伏なさるまでに、蝦夷軍は勝利し続けます。大軍勢に対し、どのように戦えば勝利することが出来るか、蝦夷軍はそれを熟知しておりました。実俊は、阿弖流為の<巣伏の戦い>の兵略を事細かに語り始めた。」(第101回)など。

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2013年1月 6日

情報228 読売新聞岩手版『蘇る東北史 第一部古代編』

 第10回(20年10月12日)が「英雄阿弖流為の登場」。大軍を迎え撃つ蝦夷軍が伏兵で政府軍を返り討ちにした胆沢の戦い(789年)を分かりやすい図で示す。第11回(20年10月27日)が「征討軍撃退の代償 襲われた阿弖流為の村」。奥州市跡呂井地区にある岩手県最大級の古代集落跡「杉の堂・熊之堂遺跡群」で、奈良時代後半の竪穴住居約60棟が出土、そのほとんどが焼失し、しかも同じ場所で建て直してはまた燃やされるということを2、3回繰り返していた。戦争の爪痕。第12回(20年11月16日)が「「征夷」将軍の登場」。終戦は訪れなかった。坂上田村麻呂は三年かけ軍備増強と懐柔を進め、794年再び激突した。蝦夷側は75もの村落を焼き尽くされ、457人が戦死した。阿弖流為は瀬戸際に追い込まれた。第13回(20年11月30日)が「軍神田村麻呂の経済戦 阿弖流為屈服させた力」。近年の考古学研究から浮かぶのは武力より経済戦で阿弖流為に対した田村麻呂の意外な一面だという。当時の技術の粋を集めた寺院などを「見せつける」ことで屈服させるものだったと考えられるという。 

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2013年1月 6日

情報227 鈴木拓也著『戦争の日本史3 蝦夷と東北戦争』

 本書は律令国家として初めて征夷を行った和銅二(709)年から、いわゆる「38年戦争」を終わらせた弘仁二(811)年の征夷までを対象とし、律令国家と蝦夷プロローグ、Ⅰ奈良時代前半の征夷、Ⅱ光仁朝の征夷、Ⅲ桓武朝の征夷、Ⅳ征夷の終焉と九世紀の蝦夷社会、征夷の側面観エピローグ、で構成されている。アテルイが取り上げられるのは「Ⅲ桓武朝の征夷」の、2.延暦八年の征夷と阿弖流為の登場、3.延暦十三年の征夷と平安遷都、4.延暦二十年の征夷と阿弖流為の降伏。
 まず「北上盆地の蝦夷は、本来強力であった上に、阿弖流為というカリスマ性を持った族長が現れ、彼らの武力を総結集して国家に対抗した。本来部族集団ごとに活動していた彼らは、阿弖流為のもとに大同団結し、国家による圧倒的な武力侵攻に三度にわたって徹底抗戦したのである。」とする。次に延暦八年の戦いが詳述され、その中で征夷軍は動員計画の52,800人をかなり上回っていたとし、また征東副将軍多治比浜成が船団を率いて三陸海岸沿いを征討したと想定する樋口知志氏(岩手大学教授)の見解に従うべきとしている。アテルイの降伏では、田村麻呂の受け入れによりアテルイは大墓公という姓を与えられ、大墓は「タモ」と読み羽田町の田茂山に由来するという及川洵氏の見解を紹介している。アテルイの処刑地については、『日本紀略』は郡名を記していないので「植山」にせよ「椙山」にせよ交野郡内に求める確かな根拠がなく不明としておくしかないとする。枚方市牧野公園内の阿弖流為の首塚と称する塚状の高まりについては、古くさかのぼる伝承ではなく、また、この地で阿弖流為を処刑したり、葬ったりすることは考えがたいとする。著者は1965年仙台市生まれ。近畿大学准教授。吉川弘文館、2,625円。

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2013年1月 6日

情報226 『週刊 古代文明 ビジュアルファィル』 No.96

 古代へのアプローチFile07として「「まつろわぬ民」蝦夷とは何者だったのか?」が特集され、「アテルイと田村麻呂」の項目でアテルイがとりあげられている。掲載写真には、(1)「田村麻呂伝説に登場し、アテルイの化身ともいわれる蝦夷の首長・悪路王の木像の複製」、(2)「アテルイの率いる蝦夷軍が大和朝廷軍を打ち破った巣伏古戦場に再現された櫓」、(3)「国内最北の前方後円墳である角塚古墳。五世紀頃の築造とされ、大和の古墳を受容した蝦夷の墓ではないかとされる。」他の説明がある。 2008年12月23日発行、発行所 デアゴスティーニ、560円

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