2013年1月 4日

情報150 アテルイ・モレ没後1200年祭

「縄文アテルイ・モレの会」(松永憲生代表)主催による第8回目の日高見大戦戦没者慰霊祭で、平成14年8月23日に枚方市の片埜神社に隣接する牧野公園で行われた。会員、関西アテルイ・モレの会、枚方市の市民生活部長ら約50人が参加し、神事に加え、「川村アイヌ民族記念館」(旭川市)の川村シンリツ.エオリパック.アイヌ館長によるアイヌの先祖供養「イチャルパ」も行われた。

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2013年1月 4日

情報149 アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭

 平成14年8月15日、同慰霊祭実行委員会(岩崎景助会長)主催により江刺市の歴史公園えさし藤原の郷を会場に開催された。今年が8回目で、及川勉江刺市長ら約50人が出席、劇団わらび座俳優による「日高見わがまほろば」の独唱や地元高校生による鹿踊りが奉納された。当会名誉顧問の一力一夫氏(河北新報社社主)、及川洵会長らが出席した。

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2013年1月 4日

情報148 アテルイ没後1200年記念大会

 平成14年9月16日、アテルイ没後1200年記念事業実行委員会主催により水沢市文化会館で開催された。式典では、アテルイ顕彰活動者表彰が行われ、一力一夫氏(河北新報社社主)、三好京三氏(直木賞作家)、延暦八年の会(佐藤秀昭会長)に賞状が授与された。アトラクションでは、アニメ「アテルイ」のラッシュ上映、わらび座「アテルイ」ショートステージが行われた。会場にはアテルイ最期の地である枚方市の中司市長も姿を見せ、ステージに上がって水沢市長らと固い握手を交わした。

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2013年1月 4日

情報147 水沢市の中心商店街で「アテルイ古代まつり!」

 平成14年9月14日、「アテルイ没後千二百年」の黄色のノボリが林立する駅通り商店街で、「アテルイ古代まつり!」と銘打ったイベントが行われた。毎月開催している「駅通り楽市」の会場で、アテルイ没後1200年記念事業に合わせて企画したもの。古代米を使用したクルミ入り田楽、おこわの試食会などがその内容であった。

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2013年1月 4日

情報146 アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列

 平成14年9月14日、水沢市の跡呂井町内会などの主催による"アテルイ歴史の里まつり"が開催され、アテルイ軍が延暦八年の戦いで朝廷軍に大勝利し凱旋するシーンをイメージした武者行列が行われた。このまつりは三年に一度開催されていて今回が5回目となる。アテルイ役に扮して乗馬した後藤水沢市長を先頭に、蝦夷武者姿の住民ら総勢150人が跡呂井地区周辺6キロのコースを練り歩いた。なお、同地区婦人連40人による「アテルイ音頭」の踊りも東大通のアテルイ公園など6ヶ所で披露された。

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2013年1月 4日

情報145 古代ののろしフェステバル

 8月24日、水沢市羽田地区振興会主催により羽田町の羽黒山で開催され、軍事通信手段に使われた"のろし"の再現が行われた。高々と舞い上がったのろしは約6.5キロ離れた胆沢城造営千二百年記念"夢あかりコンサート"会場でも確認され、開幕を告げる合図ともなった。同地では、昨年にアテルイ関連遺跡として、延べ五百人以上が参加した市民発掘が行われており、今回のイベントはアテルイ没後千二百年協賛事業として位置付けられた。北上川を見下ろす高台には高さ5メートルの物見やぐらも設置された。

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2013年1月 4日

情報144 合唱歌「今はむかしアテルイの里」

 アテルイ没後1200年記念大会において、アテルイの里から未来へのメッセージとして水沢市立常盤小学校合唱団が出演、その合唱は大きな感動を呼んだ。

♪ときをこえ かけてゆけば そこは父なる大地と 馬と清水とヒタカミのいまに伝えた北上川
 今はむかしアテルイの ああアテルイ エミシのかしら 里を守らんと 燃えた人♪ 

 この歌は、常盤小学校の「施設活用授業研究会表現集会」(平成4年度)のために作られたものであるが、今も児童たちが歌い続け、第二校歌的に親しんでいる歌であるという。

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2013年1月 4日

情報143 姫神/星吉昭「アテルイのテーマ」

 平成14年9月16日、水沢市のZホールで開催された≪アテルイの里・姫神コンサート~天空を駆けるアテルイの想い≫で披露された。コンサートの構成は、第1章「去国府多賀城界一百二十里~道奥まほろば~」、第2章「蝦夷立つ~ふるさとの山河と人々を守れ~」で、第3章が「阿弖流為~胆沢蝦夷賛歌~」。シンセサイザーとバイオリンによる幻想的な調べが古代ロマンの世界に誘った。
「アテルイが没して1200年。その遥かな年数に想いをはせると共に、私がこの岩手の地から音楽を紡いでいることの、後ろ楯のようなものをアテルイからもらっているような気がします。岩手に根をはって生きる私の、アテルイに対する想いを少しでも皆様にお伝えすることが出来たなら、これに勝る喜びはございません。...」以上は、姫神/星吉昭さんのメッセージ。

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2013年1月 4日

情報142 あんべ光俊「天空アテルイ」

 シンガーソングライターあんべ光俊さんが、胆沢城造営・アテルイ没後1200年記念歌として作曲し、平成14年8月24日の夢あかりコンサートで発表した。歌詞は短歌形式で全国公募したところ、239人から960編の作品が寄せられ、この中の佳作9編から一曲に再構成した。11月21日にCDが全国発売される。
 いにしえの/えみしいさまし/アテルイのなごりの城を風青く吹く/我もまた/えみしの末か/
 みちのくにあふれたる血潮脈うつを聞く/エイオー エイエイエイエー ... ♪
 北天の空に流れるアテルイの生きてるリズム大地の響き/ ... ♪

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2013年1月 4日

情報141 水沢市民祭「アテルイ外伝」

 平成14年11月24日に開催される第11回水沢市民祭で、創作劇「アテルイ外伝~1200年の時空を超え 未来への飛翔~」が上演される。小学生から高齢者まで約60人が参加、音響や照明、舞台装飾などの技術スタッフも一般市民が手掛ける初の試み。

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2013年1月 4日

情報140 群読劇「アテルイ」

 岩手県演劇協会副会長の浅沼久さんが脚色演出を担当。アテルイの少年時代に焦点をあて、ミュージカルの要素も取り入れ全13場の一時間を超える舞台にした。出演者は公募で集まった幼稚園児から高齢者までの42人で、4月下旬から練習を重ね、平成14年7月26日に盛岡市で開かれたアニメ「アテルイ」上映前夜祭で公演した。

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2013年1月 4日

情報139 創作神楽

【1】「夕霧物語」 アテルイを題材に衣川村の神楽継承四団体が創作した。アテルイや同村に伝わる霧山太郎、達谷窟に伝わる悪路王と坂上田村麻呂との人間愛を描いたストーリー。
【2】「アテルイ」 水沢市羽田町外浦地区のうぐいす沢神楽保存会(今野芳郎会長)が創作し、8月24日に開催された「羽黒山古代ののろしフェステバル」会場で初披露した。アテルイ誕生、朝廷軍の侵攻、巣伏の戦い、坂上田村麻呂への降伏の全四場面構成で、アテルイが外浦地区で誕生したという新解釈以外は史実どおりの内容。
【3】「アテルイの里」 水沢南小学校神楽クラブのアテルイを題材にした創作神楽。8月22日、水沢市の日高神社で開催された胆江神楽大会で披露された。

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2013年1月 4日

情報138 米沢牛ひとり芝居「アテルイの首」

 仙台を拠点に活動している俳優の米沢牛が、ひとり芝居「アテルイの首」2002年版を、広島公演を皮切りに全国七都市で上演。東北では山形県川西町(10月12日)、仙台市(10月16~18日)、盛岡市(10月22.23日)。10月14日には江刺市の藤原の郷でも特別公演した。三作目となる2002年版は、米沢牛が四役を演じ分け、蝦夷の首長アテルイをゆかりの人間に語らせることで描き出す。

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2013年1月 4日

情報137 市川染五郎主演「アテルイ」

 平成14年8月5日から28日まで、「劇団☆新幹線」の中島かずき作、いのうえひでのり演出による「アテルイ」が新橋演舞場において上演された。アテルイには市川染五郎、坂上田村麻呂には堤慎一が扮したほか、水野美紀、渡辺いっけい、金久美子らも加わる豪華キャスト。派手な照明、ハードロックの大音響、絶え間なく続く立ち回り、繰り出されるギャグ、楽しくスピ―ド感あふれる展開に休憩を挟んでの約三時間も瞬く間であった。歴史に大胆な脚色を加えているが、その根底に流れるものをきっちりと掴んで内容を組み立てており、その意味でも素晴らしい作品と拍手できるものであった。
 なお、新橋演舞場での公演を前に市川染五郎、堤慎一さんら一行15人が、イメージづくりとスチール撮影のため水沢市の埋蔵文化財調査センターなどを訪れた(6月19日)。染五郎さんは「十数年前、新しい歌舞伎をやりたいと思い題材をさがしていたらアテルイに出会った」という。「悪路王像は刺激的...」と見入っていた。

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2013年1月 4日

情報136 長編アニメ映画「アテルイ」完成、上映始まる

 平成14年8月5日、映画での物語も始まる水沢市において公開された。公開に先立ち、上映会前夜祭"アテルイ・フェスタ"が7月26日に盛岡市で開かれ、佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)による講演やトークショーなどが行われた。また7月29日には水沢市で、30日に盛岡市で完成試写会が行われた。県内各地での上映は、盛岡市、花巻市、北上市、一関市、玉山村、宮古市、衣川村、陸前高田市、江刺市、前沢町、葛巻町、岩手町、西根村、滝沢村、大船渡市、矢巾町、花泉町、紫波町、二戸市、安代町、軽米町、普代村、山形村、岩泉町、藤沢町、沢内村、川井村、松尾村、雫石町、大槌町と続いている。9月28日には東京で試写会が行われ、12月には千葉市と横浜市で、来年1月にはよみうりホールで上映される。大阪では10月8日に試写会が行われ、11月23日~12月6日に天王寺フェスティバルゲート7階のシネフェスタで上映される。

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2013年1月 4日

情報135 わらび座ミュージカル「アテルイ~北の耀星」全国巡演スタート

 秋田県わらび劇場での一年間のロングランを終え、平成14年9月1日の水沢市文化会館での公演から全国巡演のスタートを切った。同ミュージカルは初演から約一年間で220回を公演、延べ入場者は七万人を超えた。
 水沢公演のカーテンコールでは、演出を手がけた中村哮夫氏が「今日は熱く燃え上がった。エミシの思いを全国に伝えたい。理不尽に力で攻め入られ、虐げられている人たちは現在も世界中にいる。立ち上がる魂の尊厳を発信していきたい。」と話し、アテルイを演じた安達和平さんは「蝦夷の心を伝えるため、全国を駆け巡ってきます」と挨拶した。また、この日には水沢市内の有志が集まって「アテルイを全国に発信する会」(発起人代表:後藤水沢市長)が結成され、「没後1200年を契機に、さらに全国の「郷土を愛する人たち」にアテルイを知ってもらいたい」とする発会決議文を採択し、全国巡回公演の成功を祈った。巡回公演はまず岩手県内に始まり、盛岡市、東山町、前沢町、玉山村、藤沢町、住田町、遠野市、大船渡市、種市町、宮古市、金ヶ崎町、二戸市、花巻市、一関市などで上演。11月には神奈川県厚木市、宮城県の小牛田町、白石市、仙台市、築館町、岩沼市、多賀城市、石巻市、福島県の棚倉町などでの上演と続く。2004年3月まで全国で約280ステージが予定され、最終公演を岩手県内で行う。

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2013年1月 4日

情報 アテルイ没後1200年記念事業"甦れ、アテルイ展"終る

 アテルイ没後1200年記念事業のメインをなす当会主催の ≪ 甦れ、アテルイ展 ≫ が閉幕した。平成14年9月13日から24日までは水沢市のメイプル4階ホールにおいて、9月28日から10月21日までは江刺市の歴史公園えさし藤原の郷において開催された。
 展示内容は、【序】として、開催宣言(次ぺージ)と"古代国家と蝦夷"のコーナー。
【Ⅰ.アテルイが起つ!】のコーナーは、延暦期における胆沢の戦いとアテルイの降伏・斬殺まで。ここでは、「水陸万頃の胆沢の図」として古代胆沢の1万分の1模型を製作、延暦八年の戦いを再現した。また、戦いに関連して蝦夷の武器武具も展示した。
【Ⅱ.アテルイの村々】のコーナーでは、江刺市で発掘された蝦夷の畠と墓、金ヶ崎町で発掘された蝦夷の墳墓群、水沢市で発掘されたアテルイ時代の蝦夷の村々を取り上げ、それぞれから出土した土器類を展示した。
【Ⅲ.わが名はアテルイ】のコーナーでは、阿弖流為の名前が登場する『続日本紀』(明暦三年版)を展示したほか、名前に関わる研究の現状をパネルにして紹介した。
【Ⅳ.われは悪路王にあらず】のコーナーでは、茨城県桂村の鹿島神社社宝「悪路王頭形」と鹿島神宮蔵「悪路王首像」を展示、中尊寺に伝わる「伝悪路王佩刀」の写真パネルなども展示した。
【Ⅴ.甦るアテルイ】のコーナーは、アテルイ復権年表をはじめ、清水寺建立のアテルイ碑、教科書に掲載されたアテルイなどの写真パネルを展示、関係出版物も多数展示した。アテルイの全身像も独自に製作し展示した。水沢会場の入場者は、3,862人にのぼった。

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2013年1月 4日

情報134 日本経済新聞でアテルイを紹介

 平成14年2月25日付け同紙文化面の 文化 に、「エミシの族長アテルイの史実伝える会を主宰」と紹介されている佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)の「古代東北、英雄の顔」が掲載された。佐藤氏は今年が古代東北の英雄アテルイの没後千二百年にあたることと、これまでの顕彰活動をアテルイの新しい肖像作成を中心に紹介しながら、最後に「ぜひとも後世に伝えたいのは、アテルイたちは都に攻め上ろうと思ったわけではなく、国家を牛耳ろうとしたわけでもないということだ。守勢一方で、豊かな地域と心豊かな仲間たちを守るため戦った。その精神こそ、次の世代に引き継いでいきたい。」と結んでいる。全国紙にアテルイに関する内容がこれだけ大きく取り上げられたのは初めてのことである。

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2013年1月 4日

情報133 市川染五郎が「アテルイ」を主演

 新橋演舞場2002年8月公演に、中島かずき作、いのうえひでのり演出による新作「アテルイ」の上演が決定した。主催製作は松竹株式会社。8月5日(月)が初日で8月28日まで。アテルイには市川染五郎、坂上田村麻呂には堤慎一が扮するほか、舞台初出演の水野美紀が2人の男の運命に関わる謎の女を演じるとのこと。さらに渡辺いっけいや金久美子らの客演俳優陣も加わる豪華キャスト。
「平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂による「蝦夷征伐」の世界を題材に...、蝦夷(えみし)の長アテルイと田村麻呂の闘いという歴史上の出来事から大きく想をふくらませ、二人の男の交情と宿命的な闘いの物語をスピ―ド感ふあふれるエンターテイメントとして舞台上に繰り広げます。」との作品紹介。
 新橋演舞場のホームページに掲載された出演者のコメントは。【市川染五郎】10年近く前から興味を持っていた人物「アテルイ」を<いのうえ歌舞伎>で演じることができて、最高に興奮しています。お能や歌舞伎では"鬼"としか書かれていない「アテルイ」に血を通わせ、歴史上のどの人物よりも注目され、愛される魅力的でミステリアスな"人間"を目指しています。【水野美紀】『火怨』という小説を読んで「アテルイ」という人の生きざまに心がふるえました。その人と出逢えるのです。憧れていた方々の舞台に参加できるのです。いいんでしょうか?実は、私初舞台なんですけど...。"御観劇料(税込)"は、1等席10,500円から、3階B席3,150円まで。

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2013年1月 4日

情報132 中路正恒著『古代東北と王権』( 講談社現代新書 )

 サブタイトルは、「日本書紀」の語る蝦夷。蝦夷の綾糟が服属した問題などの徹底的な検討から、独自な征夷の歴史解釈を試みていて興味深い。第八章が、「アテルイと田村麻呂」で、アテルイの坂上田村麻呂への投降の意味が探究されている。以下、アテルイに直接言及した部分の一部を紹介する。
「わたしには、政府が、伊治城を築き、武力による制圧の路線をとりはじめて以降、王化を慕っての蝦夷の帰服ということはもはや存在しなくなっているように見えるのである。後の延暦二十一年(八0二)の、胆沢の蝦夷を代表する阿弖流為らの投降にしても、決してみずからの土地の独立を守る戦いが誤りだったと考えたためではなく、土地の同胞たちを飢え死にさせないための最終的な選択として、やむなく国家への帰服を選んだものに見えるのである。そのような帰服の場合、たとえ自身は一陣の夢と散ったにしても、同胞たちの間には、みずからへの誇りと、独立の気概が、どこかに、いつまでも残るものなのである。」
「この投降には、田村麻呂の方からのさそいかけもあったことであろう。しかし、もはや対等の戦いができなくなっていることは事実であったろうし、たとえ田夷というよりは山夷というべき生活をしていたとしても、うち続く戦乱のために生活の疲弊にはおびただしいものがあったであろう。意欲の点でも、この延暦二十年までくれば、終息することなく数年ごとに征軍を送ってくる敵に対して、果てしなく戦いを続ける気力は、もはや相当に乏しくなってきていたことだろう。そして、...田村麻呂をはじめとした陸奥国の為政者が、夷俘の誇りを尊重し、その生活の維持の配慮をしてくれるものであれば、あえて戦う必要はもはやないと思えてくるであろう。こうしてアテルイらは降伏してくるのである。」

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2013年1月 4日

情報131 ミュージカル「アテルイ 北の耀星」始まる

 8月8日、秋田県田沢湖町のわらび劇場で始まった。わらび座創立50周年を記念しての上演。当日は水沢市から100人の観劇ツアーが訪れるなど約700人の観客で劇場が埋め尽された。今後一年間、わらび劇場で上演した後、来年9月から岩手、宮城で公演、平成15年4月から全国公演となる。初演に先立つシンポジウム「アテルイと現代」は、作家の高橋克彦氏、岩手県の増田知事、河北新報社の一力一夫会長の3人がパネリストとなり、赤坂憲雄東北芸術工科大学教授の進行で行われた。

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2013年1月 4日

情報130 新種のトビムシ発見、その名はアテルイ

 茨城大学名誉教授で土壌動物の研究を続ける田村浩志さんが、胆沢町内の焼石岳のブナ林で新種のトビムシ3種を発見、同大学の研究報告誌『自然誌』に論文を発表した。頭部に5本の剛毛が生えているムラサキトビムシ属の「アテルイムラサキトビムシ」は、その身体形状が他のものと際立って違っていて非常にいかつい姿をしているのが特徴。この地方の英雄・アテルイにちなみ名付けたという。

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2013年1月 4日

情報129 『東北学』4号(作品社)

 東北芸術工科大学東北文化研究センターの発行(1999年10月創刊)。本号の特集は南北論の視座で、責任編集者赤坂憲雄氏の工藤雅樹福島大学教授へのインタビュー「蝦夷の古代史」が掲載されている。工藤氏の古代蝦夷の社会は部族制社会、英雄時代でもあるという説に関連して、赤坂氏は「ピエール・クラストルというフランスの人類学者が『国家に抗する社会』という本の中で、富が蓄積され権力が生まれ、やがて族長が王に転化して国家ができるというマルクス主義的な歴史発展説に対して、部族社会の族長と国家を支配する王との間には大きな裂け目があると論じています。むしろ部族制社会のある段階には、国家や王という異質な権力を生むことに抵抗する社会の状態が見られるといいます。工藤さんは時に、古代蝦夷の社会を「国家を作ることを挫折させられた」という表現を使われていますが、それはひょっとしたら国家や王という権力を拒んだ社会なのかもしれませんね。」

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2013年1月 4日

情報127 アニメーション映画「アテルイ」(仮題)の製作

 6月11日、同映画製作を支援する水沢地区推進委員会(会長:新田清二水沢商工会議所会頭)が行政、市民団体など38団体の参加により発足した。6月29日には、盛岡市において同映画製作上映運動推進県民の会(代表委員:水沢市長、岩手日報社社長、県商工会連合会会長、県PTA連合会会長、県商工会議所連合会会長、JA県五連会長)が発足した。名誉会長は増田岩手県知事。アニメ「アテルイ」は、シネマとうほくなど民間三社が製作する35㍉カラー作品(80分)で来年6月の完成を目指している。製作費約一億円のうち6500万円の支援を目標に協賛金の募集や鑑賞券を兼ねた製作協力券(一枚千円)3万枚の販売に全県規模の運動を繰り広げていく。映画は、岩手県内全市町村、さらに全国での自主上映も計画されている。

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2013年1月 4日

情報126 たつみや章『天地のはざま』(講談社)

 『月神の統べる森で』『地の掟 月のまなざし』に続くシリーズ第3弾。縄文のムラ(オサの名前がアテルイ)とそれを征服しようとする弥生のクニ、神話的構想で描かれたファンタジー作品であるが、物語はついに戦いに突入した。児童文学のジヤンルに入っているが、大人が読んでも興味深く、想像力豊かな世界に引き込まれる。つぎが最終巻だという。

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2013年1月 4日

情報125 「アテルイの里」観光ガイド

 アテルイの里観光協議会は、三種類の胆江地区観光ガイドを発行した。高齢者・女性向けの「アテルイの里」、小中学生向けの「遠足ガイドブック」、一般旅行者向けの「古代東北日高見国へ」で、それぞれのガイドで"古代東北の英雄・アテルイ"を紹介している。なかでも一般旅行者向けのガイドは、「東の夷の中に、日高見国あり。土地沃壌えて曂し。撃ちて取りつべし。」の『日本書紀』からの引用に説明が始まり、次ページには高橋克彦氏の「アテルイの怒り」と題する文が載っている。
「アテルイはただ襲い来る朝廷軍に対して歯向かったのではない。差別する人間の心に向けて剣を突き付けたのだ。だからこそ勝たねばならない。勝てぬまでも、その訴えはきちんと伝えなければならない。...アテルイは決して過去の英雄ではない。私たち東北に生きる者たちの心の中に今もある根本的な問題だ。我々は今もアテルイとおなじところに立たされている。」...心に響く。

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2013年1月 4日

情報124 特集:インターネット・ホームページ(古いのも含む)から

【1】 競走馬アテルイ http://www.rnac.ne.jp/^eclipsc/race1998/race0405.htm
1998年4月5日、第1回水沢競馬2日目に出走したアテルイ(アラブ系牝4才)。同年9月には、はるか佐賀県の第12回佐賀競馬に。12月の第17回佐賀競馬2日目の第2レースでは5着という成績。その後は消息不明。いま何処に...。
【2】 ひのきみ通信第6号 http://member.nifty.ne.jp/hinokimi/html/97/006.htm 
 千葉県の教員関係団体の発行物か?。1997年11月に自民党が提出した「適正な教科書検定を求める意見書案」を採択した千葉県議会を批判、歴史教科書問題をとりあげている。その中で、意見書に賛成する船橋の中学校教師のアピールを紹介している。「現在使っている教科書は恐ろしいことに韓国で使っても受け入れられるもの。教科書通り教えれば...古代では坂上田村麻呂ではなく、反乱者のアテルイを英雄視し、朝鮮出兵の豊臣秀吉は侵略者で、抵抗者のイ・スンマンを英雄視する。...こんな教科書は使いたくない。ぜひ直してほしい。」というもの。4、5年前のアピールではあるが、こんな先生はいまもいるのであろう。
【3】 ゲストブック:tsunekiyo より http://members.tripod.co.jp/bin/gb?member-name=tsunekiyo
 アテルイに関して  蝦夷(えみし)の族長として、大和朝廷と戦った人物。大和朝廷側の総大将は、征夷大将軍「坂上田村麻呂」である。西暦800年頃、長い戦いが繰り広げられ、田村麻呂もかなり苦戦した。そこで、和平交渉を結ぶことになり、蝦夷側の族長アテルイともう1名が代表として京の都に同行した。しかし、京の都ではその気はなく、だまし討ちのような形で、加茂の河原において斬首された。ところが、朝廷側は「たたり」を恐れその2名の魂を鎮めるため、清水寺に鎮魂碑を建立したという。そして、毎年天皇がその碑を詣でているらしい。...
 From:がじ  Date:Sun May 21 09:41:10 2000
【4】 達曽(たっそ)拓也の国会便りV2/7月第4週号  http://www.sphere.ad.jp/tasso/000718.htm
 「火怨」は、朝廷軍による蝦夷征伐に立ち向かったアテルイの戦いを描いたものです。私は今回の総選挙、特に岩手県における選挙戦を「西暦2000年のアテルイの戦い」と呼んだところ、マスコミにも大いに取り上げられました。朝廷が派遣する大軍を次々にうち負かし、蝦夷の独立、そして何より蝦夷の心を守り抜いたアテルイとその同志たち。「改革の政治」の理想と、その理想にかける岩手県民の心を守り抜こうとする、自由党岩手県連の戦いに重なるものでありました。アテルイは我々にとって「神」であります。NHK大河ドラマ「炎立つ」の最終回、藤原泰衡=経清が死を迎えようとするとき、安倍貞任、宗任らの霊がやってきて口々に「アテルイのもとへ行こう!」と言う泣けるシーンがありますが、みちのくに生まれた、あるいはみちのくに生きる我々にとって、「正しく生き、正しく死ねばアテルイのもとに行ける」。そのアテルイを活き活きと描ききった「火怨」は、我々にとってまさにバイブルであると言えましょう。また、そんな本が全国的にベストセラーになっているということは、日本全体がアテルイを求めているということではないでしょうか。
【5】 川村カ子トアイヌ記念館で学んだ【アイヌモシリ年表】http://www.jade.dti.ne.jp/^mount/ainu.moshiri.html
 600年ユカラ(叙事詩)形成される。788年延暦7年 桓武、五万の大軍を派遣するも、東北アイヌに敗北する
 (岩手県水沢市)。803年延暦22年 アテルイ父子、京都の帰りに大阪で虐殺される。1443年和人によるアイヌ・モシリへの移住始まる。
【6】 秋田市「土崎港曳山まつり」に阿弖流為 http://ishii.gadget.ne.jp/Maturi/h11pic/h1107.htm
 毎年7月20、21日に行われる土崎神明社祭の曳山まつりは、重要無形民俗文化財に指定されている。各町から、歴史上の事象に題材をとった人形を配した多数の曳き山車が出る。平成11年の祭りには25台が出ていて、統前加賀町の山車は「北上に夷将阿弖流為颯の猛攻」。解説には、「延暦八(789)年、桓武天皇は大規模な蝦夷征討計画を開始した。紀古佐美を征討将軍とする朝廷軍が北上川を渡ろうとした時、胆沢の族長・阿弖流為に率いられた蝦夷軍が奇襲攻撃をかけ、千人以上を溺死させたという。朝廷軍の大敗北であった。...」 山車の写真を見ると、アテルイの人形は上半身裸の半ズボン姿で、髭をはやし髪はぼうぼうで胸まで垂れ、白馬に乗った紀古佐美とは対照的である。これでは「悪役(鬼)?」かと思ったが、他の町の山車を見ると本能寺の変の「蘭丸」など、ほとんどの主役が阿弖流為の人形とほぼ同じ作りであった。どのような理由か?
【7】 日本人物総覧 http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gi11496/00/0a-004.html
 ※(悪路王首像の写真) アテルイ [あてるい] ≪8世紀後半頃~802≫【別 称】 大墓阿弖利為(おおつかのあてりえ。『続日本紀』)。【肩書き・職業】 蝦夷の長。【出自・系譜関係】 奥州胆沢地方(現・岩手県)を拠点とする。系譜関係不明。【履歴・事績】 大化改新以来、奥州支配を推進する大和朝廷側に反発する先住民とみられる。延暦七(788)年、奥州へ赴任していた征夷大使兼将軍・紀古佐美(きのこさみ)ら5万2千の兵を迎え討つ為、同胞・盤具公母礼(いわれのきみもれ)ら荒吐一族と共に北上川流域でこれを敗退せしめる。これに対し、紀ら征夷軍は新たに4千人を奇襲兵として胆沢に派遣したが、これも死傷者を3千人以上も出した上、無残に全滅させられている。...
【8】 BEAUTY RIDING 南部馬:古代編   http://www.hi-net.ne.jp/tjouba/btr3-1.htm
 紀古佐美に始まり坂上田村麻呂らに及ぶ再三の蝦夷征伐は、単に「まつろわぬ夷狄」を鎮圧し領地を拡大することだけが目的ではなく、南部駒の略奪は重要な任務であった。当時西国の馬は貧弱で、乗用ならともかく挽用としてはほとんど役に立たなかった。貴族の乗り物として、平安時代に至ってなお牛車しかなかったのもそのためだ。...延暦8年、紀古佐美を大将に胆沢地方(岩手県中部)の討伐に向かった総勢4000人の部隊は、戦死25人、水死1036人、行方不明1600人余と全滅に近い惨敗を喫した。この戦は、蝦夷軍を追って北上川で立ち往生していた討伐軍に対し、折りからの大雨で水かさの増した川を蝦夷軍が渡河して反撃に出たものだ。騎馬隊が川を泳いで渡るなど想像だにしなかった討伐軍は、戦わずしてパニックに陥り敗走を余儀なくされた。この戦いに限らず、野山を風のように駆け巡る蝦夷軍の騎馬隊は、常に討伐軍を攪乱し奇襲した。そこで、力で蝦夷を討つことの難しさを悟った大和朝廷は、懐柔策に切り替える。...
【9】 蝦夷によって継承された鉄器文化 http://202.211.8.173/SATOK/data/sigaku.html
 蕨手刀は、5世紀末に既に製造されている。789年の紀古佐美軍と戦った阿弖流為が使っていた。...鉄を造るための材料...磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄の4種類。破砕を必要としない「餅鉄」。粒状の磁鉄鉱。岩手は以上の4種が豊富に存在していた。...東磐井郡の蕨手刀は、餅鉄を使用した形跡が大。和賀郡のは砂鉄。...阿弖流為の製鉄と蕨手刀つくりについて。●石井昌国氏:蕨手刀は奈良時代後期を中心にして、奈良時代前期から平安時代初期にわたって、短期間につくられたもの。特に胆沢と和賀が拠点。現在鹿児島や徳島まで180刀発見されているが、岩手が57刀。阿弖流為のはいとうは66cmぐらいあった、という。
【10】 みちのくの鬼は、エンジニアであった!?  Http://202.211.8.173/SATOK/pr/ezo/ezo.html
 人の倫を信じ平安京へ旅立った蝦夷(エミシ)の雄アテルイも、幻想を感じた詩人だったのではないだろうか。アテルイ、大墓公阿弖流為は、774年から38年間続いた蝦夷征討戦争で、前沢・衣川付近でひと頃は約10万の田村麻呂率いる朝廷軍の侵入を抑えた。それ以前にも、紀古佐美率いる約5万朝廷軍をわずか千数百の兵で打ち破り、遁走を余儀なくした。そんな日本を二分した日高見(北上)の戦場が、この地、一関から始まっていた。...雲霞のような大軍が、水陸万頃の地、胆沢平野へとなだれこんできた。しかし胆沢の巨星、アテルイはひるまなかった。5cm鉄鏃矢の強弓をひき、チームワークのよいゲリラ戦で、大軍を翻弄した。鬼のアテルイ達は、日本刀の原型になった蕨手刀の量産技術をもっていた。平和な地になぜこのような武具等の製造プラントが存在したのであろう。憶測では、朝廷とも交易していた渤海と独自に交易し、技術立国しており、採鉱、燃料調達、製鉄、出羽や津軽を通じた物流、また抜群の人的管理技術が存在していたと思う。
【11】 金田一温泉郷 http://www.shokokai.com/iwateken/news/no147/p7.html
「江戸時代には南部藩指定の湯治場であり「侍の湯」とも呼ばれていた金田一温泉(二戸市)は、さらに溯れば千年以上の歴史を持ち、蝦夷の首長アテルイが湯浴みしたのに始まるといわれています。」二戸は、弘仁2年の文屋綿麻呂による閉伊・爾薩平征討時の蝦夷首領伊加古の本拠地であろうといわれる(『角川日本地名大辞典』)。二戸市仁左平地内には伊加古塚と呼ばれる古い塚もある。どうせなら、「アテルイ」というより、「蝦夷の首長イカコが湯浴みしたのに始まる」としたほうがいいのでは...。
【12】 米澤牛一人芝居『アテルイの首』2000改訂版 http://www2u.biglobe.ne.jp/^set/gekihyou/76605224609375.html 
 『アテルイの首』は今回で三度目。同じ物語を、同じ役者が演じてこれほど変化するものかと、つくづく感じる作品である。三作見てきて、今回が一番、芝居として良くまとまり、かつエネルギッシュで、構造的にも複層的で豊かな芝居であったと思う。...なんと言っても前二作と大きく変り、この芝居自体の方向性さえ変えたのが、ラストの展開である。...今回は、エゾの麻呂が辛くも悪露を切り倒し、真のアテルイを探して旅に出る、それを見送るイタコのババが、「エゾの麻呂よ何処まで行ったんだ...。何処までも走って行けよ。お前のアテルイ様は見つかったか?」と語りかける。また、史実上でアテルイとされ降伏し、京都で首を切られた男の首を鞄から取り出し語りかけるシーンも良かった。「お前がこんなになって、エゾとヤマトを結びつけたが、そのかわり、エゾもヤマトも何かを失ったな?」この一言で前二作と今回の『アテルイの首』は全く別物になったように思う。否、前二回で語れなかった部分が、まとまりこなれてくることで、やっと表面に出てきたと言うべきか。...[2000年9月26日23時34分33秒]
【13】 アテルイ・ドット・コム  http://www.aterui.com/aterui.html
スタッフの平均年齢が弱冠25歳というベンチャー企業。インターネット事業のトータルプロデュース等を事業とする。水沢市に事務所を置き、設立から1周年を迎えた本年4月には株式会社となった。その会社名の由来をホームページに記載している。アテルイの生涯に関する概要を載せた後に、「私は、自分が暮らすこの地を誇りに思います。もっと若いころは、自分が田舎者であることに強烈なコンプレックスを感じていました。しかし、今は違います。インターネットとの衝撃的な出会いから数年...社会は間違いなくネット化の道を歩んでおり、この素晴らしいツールを使えば、この地で暮らしながらでも、世界を相手に対等に渡り合えると確信しております。そんな思いから、『アテルイ』の名前とネット時代の象徴である『ドットコム』を融合させて『アテルイ・ドット・コム』という会社名になったのです。」若い人たちが、素晴らしい気概をもって新しい事業を立ち上げ、会社名には「アテルイ」の名前を使用するということ、ようやくアテルイが次代に受け入れられつつあり、その芽が見え始めたと言っていいのかもしれない。

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2013年1月 4日

情報123 21世紀いわてへの提言【4】

 平成13年4月18日付『岩手日報』が、えみし学会会長柴田弘武さん(千葉県在住)の「脱中央の歴史教育を」という提言を大きく取り上げた。えみし学会は設立されて今年で十年、事務局は盛岡市にあり、毎年、岩手県内の各地で文化ゼミナールを開催している。...朝廷派遣軍にゲリラ戦で挑んだ阿弖流為を顕彰する動きが活発化している。ということについて、柴田さんは―――
「蝦夷や阿弖流為のことを堂々と顕彰できる時代がきたということは岩手にとって何よりも喜ばしいことだと思う。征服者の側からではなく、もともとその土地に暮していた側から見た歴史に県民が目を開く好機だ。中央からみれば征伐したとなるが、岩手の側からみれば阿弖流為は侵略者に対して郷土防衛のために戦ったというまったく違う歴史になるわけです。ちょうど、来年は没後千二百年。意識のうえで、自立回復元年と位置づけたい。」巣伏古戦場の石碑=江刺市愛宕の写真も大きく掲載されている。

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2013年1月 4日

情報122 いわて学講座でアテルイ

 岩手県が東京の銀座に開設した〔いわて銀河プラザ〕では、毎月いわて学講座が開催されている。平成13年3月11日には、「闇に封じ込まれた真実~悲劇の英雄アテルイ~」と題して、延暦八年の会会長の佐藤秀昭氏が講話をした。岩手県東京事務所の佐藤観光課長は、「賢治、啄木ならともかくアテルイは知名度不足だろうと内心はらはらしたが、定員を上回る聴講があった」とコメントしている。

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2013年1月 4日

情報121 東京に縄文研究会誕生

 アテルイ、蝦夷(えみし)を通じて縄文文化を見直そう、との呼びかけで動き出した。2月20日の勉強会には約50人が参加し、えみし学会の柴田弘武会長を講師に蝦夷の歴史等について学んだ。研究会を呼びかけた一人の宮古市出身の弁護士、西垣内堅佑さんは「アテルイ、蝦夷の歴史、縄文に対する人々の関心はかなり高い。来年はアテルイ没後千二百年でもあり、首都圏から岩手にエールを送りたい」と語っている。第2回研究会は、太田龍氏を講師に「縄文の正しいとらえ方」を主題として3月に開催された。資料の講演要旨の中には、「アテルイが日本原住民の指導者、という説(八切止夫)の誤謬。」とある。また、第2回研究会の案内文には、太田氏の講演趣旨の一部が紹介されており、「アテルイ・モレは、縄文系日本原住民どころではなかった、韃靼人系日本侵略の首魁。国難第二波は同韃靼人系の元寇襲来である。」としている。【平成13年2月28日付『岩手日報』夕刊より】

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2013年1月 4日

情報120 アテルイのイメージキャラクター決定

 アテルイの肖像をモチーフとしたイメージキャラクターの入選作品が決定した。応募者95人、応募作品161点の中から選定された。製作者は愛知県立芸術大学4年生の小谷圭史さん。アテルイという英雄にふさわしい威厳と風格、力強さを出すため、四角の中に、アテルイの顔の目、口、髭の特徴的な部分を生かしてデザインした、とのこと。選考理由は、【1】「アテルイが見つめている」という意味付けができる。【2】シンプルな中に強烈な力強さがあり、その斬新さがひときわ目立ち、印象的である。【3】デザインの力点を片方の目に集中しているため、いやおうなく人の目をひきつける。【4】印象的な目が、喜んでいるように、怒っているように、悲しそうに、楽しそうにも、見る者の心の状態に応じて投影し、アテルイの生涯や地域の歴史を象徴すると理解できる。【5】地域と人々の暮しを過去、未来にわたって見つめている印象を与え、「アテルイの里づくり」のイメージを象徴する。【6】本事業のほか、多様なキャンペーンで活用できる拡張性を備えている。というもの。応募作品のほとんどは、顔もしくは体全体を描いたものであったが、最も抽象化された異色ともいえる作品に決まった。アテルイの肖像との関係から考える時、イメージキャラクターといってもむずかしく、ベターな選択だったとも言える。
 なお、キャッチフレーズには、応募者209人、応募作品482点の中から、北九州市の江島昭雄さん(74歳)の作品『見なおそう古代 見つめよう次代』が選ばれた。選考理由は、【1】胆江地方の歴史と文化を見つめ直し、広域的な地域づくりを目指す「アテルイの里づくり」の事業目的を的確に表現している。【2】イメージキャラクター「アテルイが見つめている」とイメージ上の整合性をとることが出来る。というもの。

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2013年1月 4日

情報 アテルイ没後1200年記念事業実行委員会設立

 平成13年4月24日、水沢市役所において設立総会が開かれた。これまでの準備委員会から発展させたものである。構成団体は以下のとおりで、会長には後藤晨水沢市長、副会長には佐藤秀昭アテルイの里地域づくりネットワーク会長、小沢賢胆江青年懇話会会長が選出された。市民団体:アテルイを顕彰する会、延暦八年の会、アテルイの里地域づくりネットワーク、NPO北上川中流域エコミュージアム推進会議、アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会、アテルイ歴史の里振興会、胆江芸術文化振興協会、胆江青年懇話会、八幡地区明るいふるさとづくり推進協議会、水沢市羽田地区振興会(今後、この他にも広く民間団体等の参加を呼びかける)観光団体:アテルイの里観光振興協議会、アテルイの里温泉協議会商工団体:水沢商工会議所、江刺商工会議所、金ヶ崎町商工会、前沢町商工会、胆沢商工会、衣川商工会、広域商工業振興協議会農業団体:岩手ふるさと農業協同組合、江刺市農業協同組合、行政機関:水沢地方振興局、胆江地区広域行政組合、水沢市、江刺市、金ヶ崎町、前沢町、胆沢町、衣川村、行政機関等:水沢教育事務所、水沢市教育委員会、江刺市教育委員会、金ヶ崎町教育委員会、前沢町教育委員会、胆沢町教育委員会、衣川村教育委員会、水沢市文化振興財団。
平成13年度事業計画の第一は、開幕行事としてアテルイ特別記念講演会とアテルイのイメージキャラクター、キャッチフレーズ入選作品発表等を中心としたイベントの開催。第二に、全国へ情報発信する事業宣伝としてPRポスター等の作製、わらび座「アテルイ」公演と提携したアテルイビールのラベル作製等。第三に、プレ事業の開催として「アテルイ関連遺跡市民発掘事業」があげられている。この発掘事業は、「延暦八年巣伏の戦いの再現を主テーマに、史実に現れた「東山」の解明」を目指すというもので、水沢市の羽黒山を調査対象としている。すでに発掘に関係する諸団体の第1回準備会議がもたれており、当会、延暦八年の会、水沢市羽田地区振興会の主催、水沢市埋蔵文化財調査センター、出羽神社、羽田公民館の協力で9月21~25日の予定で発掘を実施することが確認されている。

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2013年1月 4日

情報119 特集・昨年の新聞から(2000.1~2000.12)

【1】「1200年目の真実~アテルイの素顔~」 (胆江日日新聞 平成12年1月1日)
 元旦号の特別紙面半分に掲載された。アテルイ没後千二百年記念に向けてさまざまなイベントや企画の準備が始められていることから、アテルイの実像に迫った。アテルイは国史に「夷」や「賊」として扱われているが、それは「異人種」や「盗賊」を意味していたのではないこと。アテルイの処刑は「正規の処刑ではない」こと。また、伝説の悪路王とアテルイの関係などについて取り上げている。   
【2】 佐島直三郎 「アテルイ巡礼【4】」 (胆江日日新聞 1月4日)
 15回の連載で、アテルイの墓所の問題などについてふれているが、それよりも強調されているのが、アテルイとともに降伏した「モレの内応」ということである。第4回、10回、12回、15回と四度も言及している。すなわち、延暦八年の戦いにおいて朝廷軍が「いとも簡単に北上川を渡った」ことから、「水際作戦、橋頭堡でたたくのが最上の作戦ではなかったかと思うのであるが、それがいとも、川の流れを凌いで渡ったということは、水際作戦がなかった、或いはモレが行動を起こしていない、恐らく朝廷側から誘われ内応したのではなかったかと観られるのである。」等というのである。アテルイの戦いを描いた長尾誠夫の「蝦夷大乱」(『時代小説』№22、1993年)は「モレの内応」をストーリーに含んでいたが、小説ならまだしも、郷土史家の新見解というには根拠も薄く、理解に苦しむところである。
【3】「いわて21世紀への遺産~古代・中世を歩く~」(岩手日報 1月4日)
 「遺跡は語る・旧石器~古墳時代」に続く「奈良~安土桃山時代」の第1回。悪路王首像の大きなカラー写真を掲載し、奈良時代概観として水沢市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸氏が「蝦夷研究の現状と課題」について説明している。悪路王首像の写真説明に、「極彩色。首像は左右に割れたものをかすがいで止める。頭頂部のまげも端部を欠損。首像そのものの分析調査が必要である。江戸時代の作」。
【4】 久慈吉野右衛門「田村麻呂 阿弖流為」(岩手日報 1月17日)
 岩手日報の時評「日進」欄。久慈氏は岩手日報社会長。この欄では、1981年11月16日の「「西高東低」に思う」でもアテルイにふれている。
【5】 劇詞作家・可能あらた 「アテルイはなぜ戦ったか?」 (教育新聞 2月3日)
教育新聞 「円卓」 欄。延暦八年、「この時アテルイは一万数千人の村人を砦に匿い、千五百人の戦士とともに征東将軍・紀古佐美の率いる五万の朝廷軍と北上川を挟んで対峙し、その精鋭六千と戦った」。 一万数千人の村人を砦に匿った? 
【6】 後藤晨市長に聞く(岩手日報 2月6日)
 1月の水沢市長選に勝ち、3期目にあたってのインタビュー。「アテルイの志」で市勢発展を、の見出し。最後にリーダー論を聞かれて、「水沢にゆかりのアテルイは、時の政府からみれば反逆者でしょうが、私たちにとっては地域の幸福を第一に考え、住民を守った英雄です。私も行政のトップとしてアテルイのような高い志を持ち、市政のかじ取りにあたりたいと考えています。」
【7】「作家高橋克彦 故郷東北への誇り回復」 (日本経済新聞 3月19日)
 「創る アングル」の欄で紹介された。『火怨』で吉川英治文学賞を受賞し、多くの新聞にとりあげられたが、同新聞は『火怨』を「東北を舞台に、先住民・蝦夷(えみし)の若きリーダー、阿弖流為(アテルイ)が朝廷軍を迎え撃つ戦いを描いた長編。東北各地に残る伝承を拾い、歴史上、反逆者とされてきた阿弖流為に、誇りに満ちた武将という新しい像を与えた。」と評価し、「東北にとって、阿弖流為は精神的なよりどころに成りうる人物。いつか思いのたけを書いてみたかった」という克彦氏の言葉を紹介している。
【8】「新たな顔を得たアテルイ」(岩手日報夕刊 4月1日)
 「ニュース最前線」として水沢支局の神田由紀記者が大きくとりあげた。アテルイの肖像発表についてはどの新聞も記事としているが、肖像の基となった悪路王首像と黒石寺薬師如来坐像の写真を示して詳しく解説、さらに新野直吉秋田県立博物館長の「まゆを上げ、まなじりを決して戦いに赴くようだ。兵農分離のない時代、指導者は攻められたときは先頭に立って戦ったが、普段はもっとゆったりした顔だろう」とのコメント、作家高橋克彦氏の「抱くイメージはリーダーとしてのりりしさ。肖像は優しくて力持ちという印象で厳しい一面が伝わりにくい。大人より子どもがアテルイを理解し、あこがれるようであってほしいので、もう少し少年ぽくてもいいのでは。」という意見も紹介している。神田記者は、「新しい肖像は「蝦夷が鬼や獣などでない」ことをはっきり伝えている。ただ、時間的な制約があったにしろ、もう少し歴史的視点からじっくり議論したかった。」
【9】「河北春秋」欄 (河北新報 5月2日)
吉川英治文学賞を受賞した『火怨』にたいする井上ひさし氏の「人間の誇りは理不尽さに立ち向かうことという主題が全編を貫く。壮大な叙事詩の誕生だ。」という激賞する言葉を紹介した後、次のように続ける。「▼ただ、残念なのは英雄叙事詩の主人公には「顔」がないことだ。これまでは伝説上の人物悪路王の首像(茨城県・鹿島神宮所蔵)を阿弖流為の顔としてきたが、同一人物かどうかは定かではない。英雄がどんな面構えだったか、自由な想像が許されよう。▼岩手県水沢地方振興局がコンピュータグラフィックス技術で画像化した阿弖流為の顔は、ヒゲ面ながら穏やかだ(本紙三月二十五日付とうほく面)。仏像の顔を合わせたのだという。憤怒をためた悪路王首像は捨て難いが、悪相の気を消し去り英雄の雰囲気が漂う結構な出来栄えだ▼こうした熱心さは、東北人としての阿弖流為に対する誇りと尊敬の念から発するものだろう。」
【10】 書評欄「こどもの本 中学生向け」(読売新聞 5月4日)
 評者の永井悦重氏が、歴史ファンタジー『日高見戦記』の書評で、この作品が意識したと考えられる本として、次のように書いている。「ここ数年、中学生に読み継がれている本の中に、萩原規子の「勾玉」三部作(徳間書店)がある。日本の古代史に取材したファンタジーで、歴史小説ではないが、作者の歴史観は当然作品に反映されている。三部作完結編の「薄紅天女」に登場する坂上田村麻呂やアテルイの描き方については、出版当時から批判的意見もあるのだが、もっと本格的な論争が望まれるところである。」主人公は、武蔵国足立郡郡司の息子と蝦夷の巫女チキサニの間に生まれた阿高。アテルイについては人物紹介に、「倭人に抵抗する蝦夷の首領の一人。阿高をチキサニの生まれ変わりとして連れてくる。そして、チキサニとして、倭人と戦うことを強要する」とある。
【11】「天頂儀」欄(岩手日日新聞 7月4日)
 阿弖流為に関する国史の史料からは本当の人物像までうかがい知ることはできない。としたうえで次のように続ける。「▼肖像になると、なおさら。これまでは、鹿島神宮(茨城)所蔵の「悪路王首像」のいかめしい顔つきが、ややもすると、阿弖流為の顔と信じられてきた。しかし、今春、水沢地方振興局と地元の歴史研究グループらによって作製された肖像は、この首像と、胆沢の地に残る最も古い仏像である黒石寺の薬師如来坐像を"融合"させた▼この坐像は、阿弖流為が死んでから、六十年後に作製されたといわれ、「蝦夷の面影を残す」という薬師如来としてはまれな表情。ひげを蓄えた新しい肖像は、威風堂々とした感じを受ける。古代の英雄がよみがえり、その顔を見たら、何と言うだろう。「似て る」か、「違うぞ」か。夢はまた広がった。」
【12】「洛中のエミシたち・上」(胆江日日新聞 7月20日)
 胆江日々新聞社が企画したアテルイと田村麻呂に出会う京都ツアーの同行取材報告。片埜神社隣の牧野公園には「アテルイとモレの首を納めたと伝えられる首塚」がある。「...小さな石碑だ。身長も高く筋骨隆々だったと思われるアテルイらには似つかわしくない、小さくかわいらしささえ感じる」との感想。
 宇山東公園の近くは「アテルイとモレ斬首の地と伝えられる」が、「すでに住居が立ち並び調査は不可能という。」とのこと。
【13】 坂野勝雄「寄稿 逆説の歴(郷土)史2 アテルイ」(胆江日日新聞 7月24日)
 大墓公についての考察。大墓公をどう読むべきかということで、「胆沢町南都田字塚田にある『大墓(おおつか)前方後円墳』を比定とみて考えてはどうだろう」という。角塚古墳のこと。また、「墳墓が立派であればあるほど...盗掘防止策として大墓公(墓守)を置いたと考えられる。大墓公は国家的支配機構に属し、アテルイの家柄ではかなり以前から代々「大墓公姓」を継承されていたのではなかろうか。」という。墓守?。
【14】「9月9日あてるい祭」(胆江日日新聞 8月30日)
いわて生協水沢支部が、「いわて生協あてるい祭」を水沢市武道館で開くとの案内記事。「あてるい」に特段の関係なし。
【15】 県高校総合文化祭開会式・史劇で郷土をアピール(胆江日日新聞 9月30日)
水沢市を主会場に開催され、市文化会館では岩谷堂高校演劇部員が胆江地方の歴史を演劇に仕立て、三つの時代の歴史上の人物をとりあげて発表した。最初に演じたのが「東北地方の民が"えみし"と呼ばれた時代に生きた英雄アテルイ」。
【16】「北上で鬼学講座」(岩手日日新聞 9月25日)
 北上市立「鬼の館」では毎年「鬼学講座」を開設していて、24日には福島県立博物館の高橋富雄館長が「文献から見た日高見の国」をテーマに講演を行った。「十月の次回講座では、アテルイの城跡がある福島県などを訪ねる移動研修が予定されている。」とのこと。福島県になぜアテルイの城跡があるのか?。
【17】 すもうクラブ「アテルイ部屋」(胆江日日新聞 10月9日)
 第26回水沢市スポーツまつりが8日に開催され、市営相撲場で開かれたチビッコ相撲大会には市内の常盤、真城小学校から約20人が参加した。常盤小学校の相撲クラブの名前が「アテルイ部屋」。
【18】「水沢・あてるい委員会が寄附」(胆江日日新聞 8月9日)
 水沢市社会福祉協議会に、福祉まつりでのフリーマーケットの売上金20,060円と水沢局管内で回収した書き損じはがきから交換した2,685枚の未使用はがきを寄附した。「あてるい委員会」は水沢市内の各郵便局長で組織されている。
【19】「時針」欄(胆江日日新聞 11月27日)
 「...▼過日、北上湖畔の「道の駅」に出かけ、店内で川を背景に立っているアテルイ像にお目にかかった。白木彫りのその全身像は1㍍はあろうか。右手に弓を携え、左の肩に袋を担ぎ、その姿はふと、因幡(いなば)の白兎を助けた大国主命を連想させた。なかなかの美男子である▼一見、優しく映るアテルイ像は、蝦夷(えみし)の長。まなじりを上げ、その眼には哀愁をたたえている。それは蝦夷の民たちを思う憂いでもあろう▼アテルイの実像はない、と聞く。従って作品を手掛ける人たちはそれぞれの感性をアテルイに打ち込み、趣を異にしてかえっておもしろいかもしれない。この穏やかなアテルイを作者はどんなイメージを膨らませて彫り上げたのだろう。頭髪をきっちりと結い上げ、その髪の毛、垂らしたひげの一本一本を糸のごとく丹念に彫り、まさに「ひたむきさ」を地で行き、「ばか」になりきっている。その心意気が伝わってきた...」

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2013年1月 4日

情報118 漫画『 阿弖流為Ⅱ世 』(小学館)単行本になる

昨年『GOTTA(ガッタ)』に連載され、第1部が終了した高橋克彦原作・原哲夫漫画の「阿弖流為Ⅱ世」が早くも単行本になって発売された。ただし、奥付には全1巻とあり、第2部はなさそうである。第1部もストーリー自体充分に展開しつくしたとはいえないまま終わっており、残念な結果となった。

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2013年1月 4日

情報117 タウン情報誌『 ダ・ダ・スコ 』第54号にアテルイ特集

延暦八年の会会長で当会副会長の佐藤秀昭氏と水沢市埋蔵文化財調査センター副所長で当会幹事の伊藤博幸氏による対談「恩讐を越えてアテルイと田村麻呂」、それに「阿弖流為の郷・探訪」が特集されている。対談では、胆沢の戦いやアテルイの降伏などについて興味深い内容が語られている。探訪では、古代国家とエミシ社会、律令国家にエミシ反乱、大勝利した巣伏の戦い、胆沢城造営エミシ帰順という内容が多くの写真とともに読みやすく工夫されている。『ダ・ダ・スコ』は北上市を本拠とする岩手県南半部のタウン情報誌。420円。

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2013年1月 4日

情報116 アテルイのイメージキャラクター募集

アテルイ没後1200年記念事業準備委員会は、全国に発信する本格的な事業の展開に向け「アテルイの肖像」をモチーフとしたイメージキャラクターを募集した。採用作品はポスターやチラシなどで使用されるほか、賞金として25万円が贈られる。応募者は県内だけでなく、北海道、首都圏、中国地方、応募者の年代も職業もさまざま。2月20日の締切りまでに95人から161点が集まる予想以上の反響があった。作品の内容も、かわいいマンガ調、劇画調、CGを駆使した立体画などさまざまなタイプのキャラクターがそろった。いずれの作品も水準が高く、むずかしい選考になりそうだが、3月下旬に入選作品が決まる。
 また、同時に募集した記念事業の周知をはかるキャッチフレーズ(入選1点5万円、佳作5点1万円)には、209人から482点の応募があった。これも3月下旬に決定し、発表される。なお、これに先立ち水沢地方振興局は同振興局だより「アテルイの里」第5号(特集:アテルイ没後1200年記念事業)を胆江地域全世帯に配布し、事業の説明とキャッチフレーズ等の募集についての告知をおこなった。

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2013年1月 4日

情報115 工藤雅樹著『古代蝦夷の英雄時代』(新日本新書)

蝦夷社会はどのような社会だったのかということを主題としている。第4章4の「阿弖流為と胆沢の蝦夷」では、政府軍と蝦夷側との武力対決の経過にふれたうえで、「胆沢の蝦夷社会」について言及している。以下、抜粋して紹介する。
「胆沢の蝦夷社会はたび重なる数万規模の政府軍を相手に、その攻撃を一歩も退くことがなく戦う実力を具えていた。そして阿弖流為や母礼の指導力は、単一の、あるいはごく少数の集落を超えた広い範囲に及んでいたのである。このようなまとまりを生み出した背後には、七世紀の後半以来展開してきた、安定した農耕生活があったことは容易に推測できるであろう。」
「しかしながら胆沢の蝦夷勢力は政府側との関係も含めて、決して孤立した存在ではなかった。そのことを端的に物語るものが阿弖流為も母礼もそれぞれ大墓公、磐具公というカバネを有していることである。先にも述べたように、公というカバネは政府側がそれぞれの地域の蝦夷の族長に与えたものである。...阿弖流為や母礼もある時期には大墓公、磐具公というカバネを与えられるほどに、政府側と良好な関係にあった時期もあったのだが、胆沢地方の蝦夷に反政府的な面が強く出てきたときにそのカバネが剥奪されたのであろう。...そして阿弖流為や母礼が政府側に降り、その処置が未定の段階で大墓公、磐具公というカバネが復活したのであろう。」

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2013年1月 4日

情報114 アテルイ出前講座

昨年10月に設立されたアテルイ没後1200年記念 古代から新発見「アテルイの里」づくり事業準備委員会(会長・村田行夫水沢市助役)は、没後1200年記念に向けた気運づくりとしてアテルイをより知ってもらうための講座を設置し、胆江管内で10人以上の集まりであれば要請に応じどこへでも無料で講師を派遣するというユニークな事業を実施した(3月まで)。
 平成12年11月17日の初回は、胆沢町愛宕公民館高齢者大学の35人が受講した。講師は延暦八年の会に委託しており、現在までさまざまな集まりに28回(水沢市12、江刺市7、胆沢町5、金ヶ崎町3、衣川村1)の講座を出前している。なお、出前講座の参加者に配布する資料として、A4判8ページのリーフレット「古代からの新発見 アテルイの里」も作製された。アテルイの登場と最期に関する史料のほか、アテルイの時代、古代胆江のリーダーたち、アテルイの里の伝説について、それに歴史マップと略年表がコンパクトに構成されている。

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2013年1月 4日

情報 劇団わらび座アテルイを舞台化

秋田県田沢湖町に本拠を置く劇団わらび座の創立50周年記念作品として、高橋克彦著『火怨~北の耀星アテルイ』を原作とする「アテルイ」がミュージカルとして舞台化されることになった。脚本はNHKの大河ドラマ「天と地と」をはじめ多数の有名作品を手がけている杉山義法氏、演出は中村哮夫氏。
「ミュージカル・北の耀星アテルイ」は、本年(平成13年)8月8日から来年1月2日までたざわこ芸術村のわらび劇場で公演の後、アテルイ没後千二百年にあたる平成14年の記念事業に合わせて水沢市で全国公演のスタートを切る予定になっている。すでに前売り券も発売されている。一般が2,500円(当日3,000円)、小・中学生が1,700円(当日2,000円)。
たざわこ芸術村には年間30万人が訪れているという。アテルイ没後千二百年記念事業準備委員会では、たざわこ芸術村で作っている地ビールにアテルイのラベルを作製、アテルイ・ビールとして販売、宣伝してもらうことも計画している。アテルイを全国に発信する準備は着実に進んでいる。アテルイを顕彰する会がどのような事業を行うのか、注目されることになろう。

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2013年1月 4日

情報113 たつみや章『地の掟 月のまなざし』(講談社)

第37回(1999年度)の野間児童文芸賞を受賞した『月神の統べる森で』に続く連作第2弾。縄文のムラを征服しようとする新来の弥生のクニ、そこに起る憎悪と争い、理解と友情の芽生えを描く長編古代ファンタジー。それぞれの社会の命運をにぎる二人の少年を主人公としているものの、縄文のムラの若き長であるアテルイが物語の最重要人物として始めから最後まで登場している。「日本人の文化的基層であると信じている縄文という文明に、みなさんの学究心を引き寄せたいという思い」が、この物語を書き始めた作者の動機という。

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2013年1月 4日

情報112 羽黒山アテルイの郷を訪ね地域の英雄アテルイを知る会

平成12年11月21日、水沢市の羽田振興会により開催された。同会は平成七年より「地域の英雄アテルイの郷」づくりに取り組み、講演会等を行ってきた。本年はそれをさらに一歩進めるものとして「訪ね知る会」が企画された。当日は、アテルイ軍の本陣があったのでは...、とも考えられている羽黒山頂上から周辺を踏査、その後会場を羽田公民館に移して水沢市埋蔵文化財調査センター伊藤博幸副所長、当会及川洵副会長のアテルイに関する講話を聴講した。同会は、【1】「アテルイの郷」についての看板と広告塔の設置、【2】羽黒山の発掘調査を当面の目標としている。

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2013年1月 4日

情報111 京都清水寺でアテルイとモレの法要

平成12年11月18日、清水寺境内にあるアテルイの顕彰碑前で行われた。北天会(関西アテルイ顕彰会、高橋敏男会長)が主催したもので、関西岩手県人会、京都岩手県人会のほか一般参詣者ら約五十人が参列した。今回の法要は、碑建立七年目と清水寺の本尊開帳の年とも重なることから開帳記念として行われた。森清範貫主ら二人の僧侶が読経するなか、参列者が焼香し、古代の英雄を慰霊した。【11月19日付『岩手日報』より】 

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2013年1月 4日

情報110 工藤雅樹著『古代蝦夷』(吉川弘文館)

アテルイに関連しては、日本最北の前方後円墳である角塚古墳等にふれて、「後にこの地に政府軍をもっとも悩ませた阿弖流為らに率いられた蝦夷勢力が出現し、また胆沢城が造営されるのもこの点と関係するのであろう」と述べている。アテルイの名前に関しては、「大墓君阿弖利為」「大墓公」と二通りの読みをしている。また、「公」の姓を有していることからすると、「一時は政府側に属していたことがあるのであろう。」「政府側との接触によって公という姓を与えられ、地域の族長としての地位を公認され、保証されていたこともあったのである。」としている。著者によると、蝦夷社会は部族制社会の最終段階としての部族同盟の域に達しようとしていた。「古代国家が決定的に成立する以前に、共同体成員の先頭に立って戦う英雄の姿は、...胆沢地方の蝦夷を率いて坂上田村麻呂と対決した阿弖流為や母礼...などに見ることができる。彼らもまた部族成員の先頭に立って行動する存在であり、英雄時代の英雄であった。」「もし部族同盟段階から更に一歩を進めることができれば、蝦夷社会にも古代国家が誕生し、...そうなれば阿弖流為のような軍事首長の後継者は国王に転化していたであろう。」という。  

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2013年1月 4日

情報109 日高見大戦ほか戦没者慰霊祭

平成12年8月28日、「縄文戦士 アテルイ・モレ1198年祭」にちなんだ慰霊祭が大阪府枚方市にある片埜神社わきの牧野公園で行われた。東京にある縄文アテルイ・モレの会(西垣内堅佑代表)が毎年開催しているもので、今回で6回目となる。牧野公園内には「首塚」と伝承されている場所があり、アテルイとモレの墓ではないかとも推測されている。当日は、東京から参加した会員や関西岩手県人会の会員ら二十人が出席し、神事でアテルイとモレを慰霊した。 【 8月29日付「岩手日報」記事より 】

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2013年1月 4日

情報108 アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭

平成12年8月15日、江刺市南町の多聞寺で開かれた。アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会(岩崎景助会長)が主催したもので、今年で6回目となる。追悼の辞、「開祭の詩」朗読、献灯・献杯、祝詞奉上・玉串奉奠のあと、鹿踊りが奉納され、最後に「閉祭の詩」朗読をもって閉会した。

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2013年1月 4日

情報107 アテルイの肖像入りペン立て

アテルイの肖像が入った鋳物のペン立てが製作された(左側)。水沢市の㈱岩手鋳機工業が水沢地方振興局にアテルイの肖像の使用許可を求め、快諾を受けて完成した。ペン立ては、縦8cm、横9.5cm、厚さ4cmで、ペンを立てる部分が傾斜し、短くなった鉛筆も立てられるよう工夫されている。一個1,350円(税別)とのこと。

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2013年1月 4日

情報106 月刊『男の隠れ家』平成12年9月号にアテルイ

特集「未知の国みちのく、伝説と秘湯の旅」のなかで、「みちのくの聖地、英雄伝説にひたる」として、出羽三山とアテルイが取り上げられた。「十万の朝廷軍と戦っても守ろうとした蝦夷の英雄阿弖流為の心とは...」と題したページ(カラー6頁)では、東和町の丹内山神社に鎮座する巨石を「蝦夷たちの神、アラハバキ神のご神体」として大きく紹介、次に悪路王首像と巣伏の戦いの跡地の写真を入れて戦いの経過等を説明、最後に達谷窟毘沙門堂の写真とともに悪路王伝説にふれている。また、高橋克彦氏が語る「阿弖流為の時代、東北は最も輝いていた」も、2ページにわたって掲載されている。

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2013年1月 4日

情報105 熊谷達也著『まほろばの疾風』(集英社)

「蝦夷の長、アテルイ。朝廷軍の将、坂上田村麻呂。古代東北を駆け抜けた両雄の新しい物語。新田次郎文学賞作家が放つ書き下ろし歴史巨編。」という触れこみ。イサワの村長の息子で村を捨て大和に走ったアザマロがアテルイの父、桃生城を襲ったウクツハウはアテルイが生まれ育ったトイメム村の村長の息子で母の弟、そしてモレはイワイ村の大巫女で女村長という意外な人物設定。
 アテルイが14歳の時、村が大和の軍勢の焼き討ちにあう。アテルイは桃生城に連行され俘囚としての生活を強いられるが、やがては反乱を起こしイサワの長になる父アザマロと合流。蝦夷の国の建国を目指したアザマロの死後、イサワの長として大和の軍と戦うというストーリー。
 この小説のアテルイは、敵将を直接襲い威嚇して取り引きするのがかなり得意である。新田柵まで軍勢を進めた百済王俊哲の寝所を襲って喉元に刃を付きつけ、撤退の密約をさせ、延暦八年には多賀城に入った紀古佐美の寝所に女装して入りこみ小刀を喉仏に突きつけ取り引きをもちかける。最後には、桓武天皇から直接の許しを得るが、突然桓武を襲って羽交い締めにし、自ら首を切られることを選ぶ。

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2013年1月 4日

情報104 武光誠著『日本地図から歴史を読む方法➁』(河出書房新社)

第四章「彼らは、なぜその地で時の権力に反逆したのか」の最初の項、「蝦夷の首長の反乱と坂上田村麻呂の東北経営」にアテルイが取り上げられている。著者(明治学院大学教授)の説によると、「阿弖流為がすぐれた武将であったことは確かである、しかし、彼らは蝦夷対日本といった形の民族の対立で動いたのではなく、地方官の悪政に反抗して立ったのである」という。「ゆえに、善政にこころがければ、蝦夷はおのずと朝廷に従うことになった」と。また、延暦21年にアテルイは五百余人を率いて降伏したが、「このとき阿弖流為に従った兵士は、田村麻呂のはからいで帰農を許された。」という。著者は日本古代史を専攻と紹介にあり、著書も多数あるが、どのような史料と研究からそこまで言い切るのであろうか。

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2013年1月 4日

情報103 IBC岩手放送『火怨~高橋克彦の世界~』

6月4日、同局制作のテレビ番組「いわて大陸」の時間帯で放映された。第34回吉川英治文学賞の授賞式の模様から始まり、パーティ会場では渡部昇一氏から「いい意味で地方発信の素晴らしい小説」という評価があった。番組では『火怨』の中心場面を、河北新報掲載の挿絵を入れたドラマ構成にして紹介、さらに、戦いの舞台となった胆沢の現地から延暦八年の会の佐藤秀昭会長が解説した。受賞した高橋克彦氏は、「千年以上も前に一個の人間として、対等に、朝廷の強大な波に対峙した人がいたということを書きたかった」と語り、「アテルイは人間としての誇りを守るために戦ったのだ」とあらためて強調していた。

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2013年1月 4日

情報102 NHK教育テレビ『蝦夷の首長・アテルイ』

平成12年5月17日の午後11時30分から12時まで、教育セミナー「歴史でみる日本」で放映された。副題は~朝廷の北方政策~。「攻め入る朝廷軍に対して果敢に戦った蝦夷の首長アテルイを中心に平安初期の朝廷による東北遠征を考える」というもの。東京都立大学の服藤早苗講師が多賀城政庁跡から伊治城跡、胆沢城跡、志和城跡と史蹟を実際に辿りながら、三十八年戦争の経緯を簡潔に説明。特に、延暦八年の巣伏の戦いに始まるアテルイと朝廷軍の攻防については、「アテルイの本拠地に建てられた物見櫓」「アテルイの根拠地と考えられている跡呂井の地」なども現地で紹介、研究成果を踏まえた解説が適切に加えられた番組となっていた。

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2013年1月 4日

情報 月刊コミック誌に超伝奇SF『阿弖流為Ⅱ世』

 月刊コミック誌『GOTTA(ガッタ)』(小学館発行)の平成12年8月号から、直木賞を受賞した高橋克彦氏の原作による『阿弖流為Ⅱ世』の連載がはじまった。作画は代表作『北斗の拳』などの熱筆で知られる原哲夫氏。ストーリーは千二百年の時を経て現代に蘇った阿弖流為が、人類を滅ぼそうとする破壊神の末裔たちと戦うというもの。第1話は、「時代は今を遡ること1200年余り― まだ大和に都がありし頃、陸の奥に蝦夷という自由の民がいた。ある時、その陸奥に"黄金の龍"見つかりて帝、これを欲せんと蝦夷を"鬼"と蔑み討伐を命ず。時同じくして、蝦夷に英雄豪傑が現れ頭領となりこれに抵抗。二十余年の長きにわたり朝廷の大軍を退けたが、坂上田村麻呂の軍勢の前についに凄絶なる投降の時来たれり。その誇り高き蝦夷の頭領の名は――阿弖流為――」と、格調の高い出だしでスタートした。
アテルイについては、中学の教科書などにも取り上げられるようになっているものの、全国的にはまだまだ知られていない。そのなかで、子供向け漫画の全国誌にアテルイが登場したことは、これからの若い人たちに広く知ってもらえるということであり、大きな意味がある。読者からの反響も大きく、アテルイについてのさまざまな質問がGOTTA編集部に届いているとのこと。10月号には緊急企画<阿弖流為Ⅱ世はこうして生まれた!>の第1回として「実在した東北の英雄アテルイ!」のコーナーが漫画とは別に3ページにわたって組まれた。「東北の生んだ最大にして最高の英雄、それが阿弖流為である。」に始まり、アテルイの戦いと降伏までを紹介、最後は「阿弖流為の英雄伝説は、今も東北地方に語り伝えられ、蝦夷の心を熱く燃やし続けているのだ。」で文章は終わる。まさに絶賛、アテルイこそニューヒーローである。はたして漫画「阿弖流為Ⅱ世」の影響はどのようなものであろうか。

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2013年1月 4日

情報101 高橋克彦著『火怨』に第34回吉川英治文学賞

アテルイの生涯を描いた『火怨』が栄えある受賞に輝いた。同じくアテルイを描いた澤田ふじ子の長編歴史小説『陸奥甲冑記』が昭和57年に第三回吉川英治新人賞に選ばれて、以来18年、アテルイに対する関心と注目の度合いが大きく変化しつつあることを感じる。高橋氏は、「主人公の阿弖流為は東北では著名ながら、私のいだいている彼への共感がどこまで全国に通用するかと思っていた。私の作品だけでなく、蝦夷が認められたようでうれしい」と受賞の喜びを語っている。

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2013年1月 4日

情報100 安達徹著『東北人の原像~私の蝦夷について~』(一粒社)

第二章< エミシの英雄時代 第二次抵抗 >に「勇将アテルイ」の戦いなどが取り上げられている。著者は「悪路王という名にされたアテルイの伝説に、庶民の無念さがにじみでていて心のひかれる思いがする」という。また、アテルイの本拠・水沢市から『化外』(教化、順化の外のもの。化外の民とは"まつろわぬ"者どもを意味する)という詩誌を発行(1973~)していた詩人仲間との交流のエピソードなども、ずいぶん前からアテルイの末裔をひそかに自負していた人達がいたことが知られて興味深い。

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2013年1月 4日

情報98 宮野英夫著『えみし風聞 ~史書の余白から 』(熊谷印刷)

本書は「歴史小説と歴史入門の中間に位置するジャンルに挑戦」したものであるという。後半の「日高見五流 阿弖流為・外伝」「征旗を北に 紀朝臣古佐美・外伝」「怨霊の都 坂上田村麻呂・外伝」がアテルイに関わる内容になっている。著者は『日本紀略』などの記事を分析して歴史的推理を行う一方、ユニークな視点から自在に叙述を進めており、随所に興味深い内容がみられる。ただ、疑問となる部分もあり、以下、「今までの歴史家が誰一人として言及していなかった」(序文)という内容のひとつを取り上げておく。
 それは、『日本紀略』の「延暦二十一年四月十五日と七月十日の条、言うなれば阿弖流為と直接に関わりのある時に限って、田村麻呂の肩書から全ての官位が外されて<造陸奥国胆沢城使>だけになる」ことに着眼した分析である。これは単なる偶然ではなく何かの作為が働いていると見て、その理由を、アテルイを処断した「天皇の背信」を公にしないため、「助命の約束は造陸奥国胆沢城使の<口約>であって、朝廷の<公約>ではない、と言うための伏線を用意した」のではないか等というのである。『朝日新聞』の書評(4月8日)もこの推理を第一に取り上げて紹介している。しかし、著者は四月十五日条について、原本である『日本後紀』から抜粋された『日本紀略』の同記事だけを見て、『類聚国史』の同日条のほうは見ていないようである。それには、「造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢田村麻呂...(以下『紀略』の記事と同じ)」とあって、『紀略』の記事が田村麻呂の官位などを省略(下線部)して記載しただけであることがわかるのである。また、『紀略』に「大墓公阿弖利為」とあるのを、「阿弖流為の誤記と考えて間違いありません。」と簡単に断定しているのも、いかがかと思われる。

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2013年1月 4日

情報97 豊田有恒著『古代英雄七人の謎』(東京書籍)

ヤマトタケル、継体天皇、聖徳太子、推古天皇、天武天皇、長屋王と続き、最後に「悪路王」が取り上げられている。「アテルイこそ、まさに郷土の英雄だった。大和の侵略者を撃退した民族的指導者だった。だが、時が下るにつれて、坂上田村麻呂が神聖化されるのとまるで反比例するかのように、アテルイはとうとう盗賊や鬼という域にまで貶められてしまった。伝説の悪路王こそ、変形され歪曲されたアテルイの成れの果てということになる。」(文中より)
 これまで、アテルイが登場する歴史小説(『陸奥の対決』1976年)なども書いている著者は、「はじめて悪路王の看板を達谷窟で目にしたときは、言いしれぬ義憤を覚えたものである」と振り返り、だが、一昔まえと比べると事態は改善されていると、現況を次のように紹介している。
 「水沢市には、「アテルイを顕彰する会」がある。また、関係者の運動で、京都清水寺の境内に、アテルイの顕彰碑が建立された。清水寺が、坂上田村麻呂が開基した名刹だからである。悪路王という盗賊や、はては異形の鬼とまで貶められた郷土の英雄は、はるか時の流れを越えて、ようやく人権を回復されつつあるのだ。」

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2013年1月 4日

情報96 岡村 青「悪路王とは何者~蝦夷王国と神格化した悪路王~」

昨年(平成11年)9月に発行された『常総の歴史』第23号に掲載されている。岡村氏は同8月発行『謎解き祭りの古代史を歩く』(彩流社)にも、「常陸の国・祭りの地勢図~蝦夷征伐に協力しながら「悪路王」を称える不思議~」との題で、茨城県鹿嶋市鹿島神宮所蔵の「悪路王首像」ではなく、同県東茨城郡桂村高久の鹿島神社に祀られているもうひとつの「悪路王首像」(写真)を紹介している。
 桂村は水戸市と栃木県宇都宮市を結ぶ国道123号線を北西に約20キロ進んだ途中にある。岡村氏によると桂村では「アテルイを神として崇めるだけでなく、「虫干し祭り」と称して毎年旧暦七月十日には祭礼まで催している。しかも地元民はアテルイのことを「悪路王様」と敬称し、決して粗末に扱ってはいないのだ。」という。この桂村の首像は、「悪路王頭形」(神社の案内板では「悪路王面形彫刻」)と呼ばれているもので、有名になった鹿島神宮の「悪路王首像」より以前にアテルイとの関係で知られていたのであるが、取り上げられることも少なく、その後は鹿島神宮の「首像」の陰に隠れてしまっていたのであった。悪路王の伝説にもとづいて作られた"首像"が、確かにふたつは現存しているのである。
この桂村の「頭形」を最初に取上げたのは、相沢史郎著『<ウラ>の文化』(1976)であったろう。相沢氏は同書の「東国に葬られたアテルイの首」という項で、「悪路王頭形」の写真とともに次のように紹介しているのである。「高久の鹿島神社縁起によると、延暦年間に田村麻呂が北征の折り、下野達谷窟 (平泉の南方にも、達谷窟と呼ばれる悪路王の住居がある)で悪路王を誅し、この地にその首を納めたとある。現在の首級の高さは50センチメートルほどで、最初はミイラだったといわれる」。
 その後に調査に訪れた三木日出夫氏も、「桂村郷土誌によると、延暦年間、坂上田村麻呂が北征の折、下野達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し、凱旋の途中、本社前の休塚に納めた。最初はミイラであったがこれを模型としたものといわれる。」と紹介している(1984.5『えみし』第5号「悪路王を追って」)。
この「頭形」については、水戸の徳川光圀が家来に命じて修理させた記録が残っている。「悪路王頭形久敗朽 今新彩飾 安坐常州高久村安塚之社中 元禄癸酉六年 源 光国」というものである。高久の鹿島神社の創建は天応一年(781)といい、かつては休塚(安塚)明神とも呼ばれていた。修理が行なわれたという元禄六年(1693)といえば、「首像」のほうが鹿島神宮に奉納された寛文四年(1664)から約30年後になるが、「頭形」はその時には「久敗朽」という状態であったというのであるから、もともとは「首像」より古いものと考えられよう。「頭形」はさらに132年後の文政8年(1825)にも八代藩主徳川斉脩によって修理が加えられるなど、手厚く庇護されてきたことが知られる。伝承では坂上田村麻呂に誅伐された悪路王であるが、その「頭形」は社宝となり、年に一度の祭礼の日には拝殿の前にお出ましになり、今も高久地区の人々の参拝を受けているのである。
 岡村氏は「首領として蝦夷の平和と秩序を守らんとして坂上田村麻呂と死闘を演じた。それであれば本来なら本拠地の東北地方でこそ高く評価されてよいはず。ところが実際はそうではなく、蝦夷征伐のための前線基地となった常陸国で評価され、悲劇の英雄としていまなお神格化されている。歴史の皮肉とはきさしくこのことではないか」と結んでいる。

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2013年1月 4日

情報95 『「アテルイの里」シンボルマーク・アンケート調査報告書』

昨年11月に実施された調査の結果が『報告書』として発表された。この調査は、胆江地区(水沢市、江刺市、胆沢町、金ヶ崎町、前沢町、衣川村)の小学生、中学生、高校生各100人、20代、30代、40代、50代、60代、70歳以上から各100人、胆江地区外に居住する100人、合計1000人(男性500人、女性500人)を対象として行われ、666人から回答があった。以下、集計結果の部分を中心に紹介する。
 1.アテルイの知名度について
  「あなたはアテルイについて知っていますか。」という問いにたいする回答。
A.少しは知っている 281[42.2%] B.名前だけは知っている 259[38.9%]
C.かなり知っている 64[ 9.6%] D.名前も聞いたことがない 62 [9.3%]
  アテルイについて「知っている」とした人は、合計で90.7% にのぼり、高い知名度となっている。
 2.「悪路王首像」の認識について
  「あなたは「悪路王首像」の写真をだれの顔だと思っていましたか。」という問いにたいする回答。
   A.アテルイの顔 174[26.2%] B.見たことがない 147[22.1%]
   C.アテルイ=悪路王の顔132[19.8%] D.だれだかわからなかった119[17.9%]
   E.悪路王の顔 93[14.0%]
  だれの顔かを特定した人は全体の60%であったが、「悪路王の顔」と正しく認識していた人は最も少なかった。
3.「悪路王首像」の印象について
 「あなたはこの「悪路王首像」を見てどのような印象をもちましたか。」(いくつでも可)という問にたいする回答数とその回収数に対する割合。
A.強そうだ404[60.7%]B.こわい337[50.6%]C.悪い人にみえる302[45.3%]
   D.英雄にふさわしい顔だ120[18.0%]E.気持ちが悪い114[17.1%]
F.かっこわるい94[14.1%]G.やさしそうだ25[3.8%]H.好い人にみえる23[3.5%]
   I.かっこいい18[2.7%]
  上位のA.B.C (61~45%)、中位のD.E.F(18~14%)、下位のG.H.I(4%以下)に大きく分かれた。このくくりは男女とも同じで、その中での順位の異動が一部にみられるだけである。男性でみると第2位に「悪い人にみえる」がきて、「こわい」が第3位になる。プラス印象の項目では「英雄にふさわしい顔だ」の第4位が最高で、「やさしそうだ」「好い人にみえる」「かっこいい」は下位を占めた。マイナス印象の項目では「こわい」「悪い人にみえる」が上位に入り、「気持ちが悪い」「かっこわるい」が中位になっている。
4.シンボルマークについて
 「あなたは「アテルイの里」のシンボルマークとして別紙のマークをどう思いますか。」という問にたいする回答。
  A.どちらともいえない258[38.7%] B.ふさわしい186[27.9%]
  C.ふさわしくない163[24.5%]  D.その他59[8.9%]
 「どちらともいえない」に「その他」を加えると約半数を占め、「ふさわしい」と「ふさわしくない」の差も僅少であった。

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2013年1月 4日

情報94 「アテルイの里」のシンボルマークに関するアンケート調査

水沢地方振興局は、平成元年より胆江地区を郷土の雄アテルイの名前にちなんで「アテルイの里」と名づけ、そのキャッチフレーズのもとに地域の活性化対策を進めてきた。そして、そのシンボルマークとしては茨城県鹿島神宮の「悪路王首像」を図案化したものを使用してきたのであった。しかし、アテルイの名前が広く知られていくなかで、とりわけ女性や子どもたちには「悪路王首像」が怖く見え、不評であるという声が聞こえはじめている。また、この首像がアテルイの顔そのものだと誤って認識されるなどの問題も出てきていた。アテルイ没後千二百年という大きな節目となる年(2002年)が近づいており、全国に発信する記念事業の展開にシンボルマークは重要な役目を担うことになることから、ここで再検討の必要性に迫られたものである。
 アンケートは、胆江地区の小学生、中学生、高校生各百人の計三百人。胆江地区の20歳代、30歳代、40歳代、50歳代、60歳代、70歳以上の各百人、計六百人。胆江地区外の百人、以上合計千人を対象(無作為抽出)として調査票が送られ、郵送で回収される。アンケートの内容は、【1】アテルイについて知っていますか、【2】「悪路王首像」はだれの顔だと思っていましたか、【3】「悪路王首像」を見てどのような印象をもちましたか、【4】現在のシンボルマークをどう思いますか、の設問に3~9項目のうちから選択してチェック印を記入するもの。この結果は、報告書にまとめられ、延暦八年の会と水沢地方振興局主催による平成11年12月11日開催のシンポジウム「アテルイと悪路王伝説」の資料としても配付される予定とのこと。

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2013年1月 4日

情報93 清水寺でアテルイとモレの法要

平成11年11月6日、北天会=関西アテルイ顕彰会(高橋敏男会長)主催によるアテルイ・モレの法要が京都・清水寺境内に建立(平成6年)された「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の前で営まれた。当日は、水沢市から駆けつけた後藤晟市長、花山雅夫市議会議長とともに関西在住の会員ら約40人が参列した。清水寺の森清範貫主は、今年六月に水沢市で開催された文化講演会で講演するなど、交流が深められており、アテルイ没後千二百年に向けて手を携えた記念事業が実現されることを期待したい。
 なお、来年3月3日から12月3日まで、三十三年に一度という清水寺の本尊が開帳される。

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2013年1月 4日

情報92 小惑星に「Aterui(アテルイ)」の名前

水沢市の国立天文台(旧緯度観測所)百年を記念して全国から公募していた小惑星の名前が「Aterui」に決まった。通常、小惑星の命名は発見者に権利があり、発見した札幌市のアマチュア天文家渡辺和郎さんと円館金さんの承諾を得て国際小惑星センターに申請していたが、このほど正式に決定された。「Aterui」と名づけられた小惑星は、平成四年十月に北海道北見で二人が発見していた。小惑星のほとんどは、火星と木星の間(約三億km~五億km)にベルト状に分布している。大きくても直径一千km以下で、ほとんどは百km以下。発見されると、精密な位置観測を踏まえ一連の番号と固有の名前が与えられる。昨年六月までに八千九百八十九個の小惑星に登録番号がついているという。肉眼では見えないが、宇宙の彼方に小惑星「アテルイ」が輝く。

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2013年1月 4日

情報91 長編アニメ映画『蝦夷(えみし)の勇者~アテルイ~』(仮題)

製作に向けた準備が着々と進められている。計画を進めているのは、宮沢賢治作品の長編アニメも手掛けた㈱シネマとうほく(本社仙台市)。盛岡市出身の鳥居明夫社長は、「歴史を正しく伝えることは岩手の二十一世紀を担う子どもが地域に対して誇りを持つことにつながる。同時に二十一世紀は地方の時代。その『旗頭』としてアテルイの世界を岩手にとどまらず全国に発信したい」と、2001年夏の上映を目標にしている。製作費は約一億五千万円。このため同社が平成5年に宮沢賢治作品をアニメ化した「グスコーブドリの伝記」と同じく、広く協賛金を募るための全県的な製作実行委員会を年内にも組織し、県民運動として展開していく考えという。

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2013年1月 4日

情報90 CD-ROMマルチメディア『 鬼百科 』に悪路王

パソコンを使って鬼に関する伝説などさまざまな情報を見ることができる。北上市立「鬼の館」館長の門屋光昭・盛岡大学教授監修により、北上オフィスプラザが制作、CDには悪路王首像がデザインされている。悪路王はメインメニュー「鬼曼荼羅」(大人の世界)に収録されているほか、メインメニュー「鬼の原像」(鬼の伝説)の中にも悪路王伝説として収録され、「田村麻呂伝説と悪路王1」「田村麻呂伝説と悪路王2」「田村麻呂とアテルイ」「アテルイ終焉の地」の項目があって詳しい。その一部分をそのまま紹介する。「茨城県鹿嶋市の鹿島神宮には、田村麻呂が東北征伐に就く際に戦勝を祈願、無事任務を終えて感謝の念をこめて献納したといわれる「悪路王首像」があります。この像は、都で処刑されたアテルイや戦いで殺された蝦夷(えみし)の首長たちの象徴で、北をめざして飛んで来たともいわれています。鼻が高く、眉や目尻がつり上がり、技楽面の酔胡王に似た忿怒の容貌をしていて、伝説の鬼の強い怨念を感じさせます。悪路王という想像上の鬼ながら、髷を結うなど当時の蝦夷の姿をそのまま写したように実写的で、アテルイとしてのリアリティを感じさせる迫力満点の首像です。」

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2013年1月 4日

情報89 高橋克彦著『火怨~北の耀星アテルイ~』

平成9年1月から467回にわたって河北新報朝刊に連載され、単行本となることが待たれていたが、このほど講談社から上下2巻となって出版された。この小説は、下野新聞、苫小牧民報、長野日報、サンパウロ新聞、奈良新聞、東愛知新聞、千葉日報、大分合同新聞、岡山日々新聞、新潟日報の各紙に順次連載された。

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2013年1月 4日

情報88 三好京三「みちのくの鬼神 悪路王の正体」

宮沢賢治の詩「原体剣舞連」の中にも登場する悪路王は、平泉の達谷窟、姫待滝に残る伝説からは「弱者に対してむごい悪者たちの王」であった。この悪路王については二つの像があることが知られている。ひとつは茨城県鹿島神宮にあり、今では悪路王の顔の原型のごとくに認識されているものである。もうひとつは、同じ茨城県であるが桂村の鹿島神宮にあるものである。三好氏は「鹿島神宮の悪路王像は蛮勇の表情だが、(桂村の)鹿島神宮のものは幽鬼の如くだ。子女をかどわかし、悪行を働く悪路王の顔は、右の二つの像に見られるのである。」と指摘している。
 悪路王の正体ということでは、【1】「悪路王は伝説上の存在であり、実在とは言えない」。【2】しかし、「朝廷に反逆し、将軍田村麻呂によって征伐された蝦夷の王アテルイは実際にいた。そのため、悪路王はしばしばアテルイに擬される」。【3】伝説その他で悪路王が顔を出している場所をみると「坂上田村麻呂の征夷の道」にあたっており、「悪路王はやはり田村麻呂によって攻撃されて討たれ、あるいは降伏した アテルイ、モライ、その伝説的な存在ということになりそうである。」とする。最後は、「●王化に従おうとしない荒ぶる民●礼儀を解せぬ野蛮な民の最後の王として、悪路王は伝説として、アテルイは史実として残ったのである。...そして坂上田村麻呂にかかわる両エミシの王のゆるぎない共通性は、延暦二十年に、その命運を絶たれるところだ。やはり悪路王はアテルイだったのである。」と結んでいる。平成11年9月に発行された『歴史と旅』増刊号に掲載されている。

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2013年1月 4日

情報87 新版『岩手県の歴史』に「アテルイの世界」

山川出版社の新版県史シリーズの一つとして『岩手県の歴史』が平成11年8月に発刊された。故森嘉兵衛氏執筆の旧版『岩手県の歴史』が刊行 (1972年)されて四半世紀以上の歳月が経つなかで、4人の新執筆者により全面的に書き下ろしされたものである。
 第1章から3章までの原始・古代は伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)が担当、第2章は「エミシの世界」のタイトルで、その3には「アテルイの世界」という独立した項目がたてられている。
岩手県内では隠れたベストセラーであったといわれる旧版では、原始・古代の「2、東夷の開拓」に、「産金事始」、「坂上田村麻呂」以下の項目が続くが、征夷戦の経過が記述され田村麻呂の評価には及んでいるものの、一方の蝦夷側の指導者であるアテルイの名前はどこにも出てこなかった。
 また、旧版では「陸奥における現地人と官軍との衝突」「志和・胆沢の現地人と戦闘」など、最初の方では「蝦夷」ではなく「現地人」と記述されていて、疑問を生じさせていた。しかし、「...坂上田村麻呂の大弾圧が開始されたのである。それは政府軍からは開拓と称されたが、原住民にとっては弾圧であった。」とする著者(旧版)の基本認識にくもりはなく、「現地人」と記述するところの意味は蔑称たる「蝦夷」の名を最初から使用することによって始めから支配(征伐)されて然るべき対象と観念されることを危惧したことからする慎重な使い分けではなかったかと推測される。その点、始めから「エミシの世界」に主体をおいて叙述する新版の著者の立場はあまりに明確であり、四半世紀とはいえ時代の大きな進展というものを感ずる。
さて、新版の「アテルイの世界」の項目は、東北大戦争/アテルイとモレ/坂上田村麻呂とアテルイ/の小項目で構成され、約8ページにわたっている。/東北大戦争/では、国家によるエミシ政策(エミシの入朝を基本とする)の段階的展開とそれによるエミシ社会との緊張、エミシの抵抗、反乱へと到る過程が簡潔にまとめられている。/アテルイとモレ/では、二人のフルネームを大墓公阿弖利為、盤具公母礼と紹介したうえで、まず岩手県が古代史に登場してくる過程として呰麻呂の反乱までを述べる。それから、いよいよアテルイが登場する胆沢の合戦に移るが、ここで著者は面白い仕掛けを試みている。敵将坂上田村麻呂の年齢、地位と対比する形でアテルイの地位、年齢等をあえて仮定しながら叙述するのである。アテルイの生年はもちろん不明なのであるが著者は田村麻呂とそれほど歳の差がないと仮定、例えば延暦5(786)年の胆沢遠征の準備が始まるころ、「アテルイはエミシ戦士首長に成長しており、三〇代前半頃か。」とする。この項は、延暦8年に遠征軍が衣川に布陣するまでとなっているが、著者はその場所を胆沢平野が一望できる「胆沢川扇状地の最南端、東西方向に馬の背状に延びる高位段丘の一首坂面」であると比定している。/坂上田村麻呂とアテルイ/では、史上有名な延暦八年における胆沢の合戦の戦闘経過とアテルイ軍の勝利、第2回胆沢遠征と遠征軍の勝利、第3回遠征と胆沢城造営、アテルイとモレの降伏と続く。最後は、田村麻呂が二人に対して丁重に応対したようであるにかかわらず、「河内国椙山(杜山)」で斬刑に処されたことを記し、「初老のアテルイであったか。」と結んでいる。
 なお、新版の口絵には「悪路王首像」のカラー写真が掲載されていて、次のような説明がなされている。
「茨城県鹿島神宮の縁起に、坂上田村麻呂が「奥州征伐」に際し神社に加護を祈り、願が叶ったため帰路、賊の酋長の首を奉納したとある。同神宮の木製首像は江戸時代の作。「賊帥アテルイ」とイメージが重なるが元来は別。」

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2013年1月 4日

情報86 市民ミュージカル『北天の風・戯作アテルイ伝』

水沢市文化会館で開催される第8回水沢市民祭に、今年はアテルイをとりあげた創作ミュージカルが登場することになった。脚本・演出は盛岡市在住の加藤源広さん。劇団風紀委員会(盛岡市)の代表で、演出家、脚本家、演劇プロデューサーなどとして幅広く活躍している。「ストーリーは かつて都で位の高い貴族の娘だった百合姫の恋人となっていたアテルイ。姫を愛していた時の帝(みかど)は姫の取り戻しと、土地が豊かで黄金が眠る蝦夷の大地を手に入れるため大軍を進めると展開。征夷大将軍坂上田村麻呂とアテルイの間に生まれた友情、アテルイや蝦夷の人たちの心の豊かさなどを描く。」(胆江日々新聞より)主催者では、アテルイ、田村麻呂、モレ、桓武天皇など約百人の出演者を市民から公募し、九月十一日の初顔合わせから週二回程度、夜間を中心に約三十回のけい古を重ねて平成11年11月28日日の本番にのぞむという。

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2013年1月 4日

情報85 水沢地方振興局発行『アテルイの里タイムラビリンス』

胆江地域のトラベルガイド。タイムラビリンス(時間の迷宮)と銘打っているように、仮想の旅人が「アテルイの時代」「炎の時代」「偉人の時代」に分けて時代旅行をしながら歴史と文化を学び、観光地などを紹介する内容になっている。「アテルイの時代」が楽しく案内されている。左はその一部。

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2013年1月 4日

情報84 日高見大戦ほか戦没者慰霊祭が開催される

平成11年8月27日、〈侵略に抗して戦った日高見大戦ほか戦没者慰霊祭~縄文戦士アテルイ・モレ1197年祭~〉が大阪府枚方市の牧野公園で開催されました。「縄文 アテルイ・モレの会」が主催するもので、毎年枚方市片埜神社の岡田宮司さんにお願いして行なわれ、今年で第五回目になります。当日は北天会(関西アテルイ顕彰会)の高橋敏男会長らも合流し、約30人が出席して執り行なわれました。開催場所の牧野公園は、三月に「蝦夷の首長アテルイらのゆかりについて」と題する看板が設置された宇山東公園のすぐ近くにあります。そして、かつては片埜神社の社域にあったという牧野公園には「首塚」と呼ばれるところがあり、アテルイとモレが埋葬された場所ではないかとも推定されています。

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2013年1月 4日

情報83 阿部義平『蝦夷と倭人』(青木書店 1999年2月)

アテルイに触れた部分だけを抜き出して紹介します。
◆「岩手県胆沢町の角塚古墳は、北上川中流域の一扇状地に築かれた5世紀末期頃の前方後円墳である。...東北南部や北関東でもみられる帆立貝式の古墳で、それらの地域の大豪族層を後盾に、北上河谷に進出した首長層がおり、古墳のうちでは帆立貝式という格付けをされて、古墳築造や埴輪製作等のノウ・ハウを伴って開発拠点を定めたものであろう。...この地の後代の蝦夷の首長層として、大墓たも君と呼ばれる人がおり、それが古い大墓の存在を反映している可能性があり、対律令国家戦争の軍事指導者となっている点も面白い事実である。」
◆「この国力をかけた8世紀末の38年戦争といわれる大戦争は、按察使殺害に対する罰などとしてでなく、北方の北上川河谷中心に形成されていた古墳築造地帯の連合勢力を征服する明瞭な意図に統一されていったものである。蝦夷側の成長とそれに対する律令国家政策との基本的対立が読みとられなければならない。...延暦8年の北上川渡河作戦では、5万余の大軍が動員されながら戦闘では大敗した。そのときの蝦夷の軍事指導者は大墓君ママ阿弖利為あてるいであり、先にみた北上河谷の古墳築造階層の指導者となっていた。延暦20年に征夷大将軍の坂上田村麿は、大墓君ママ阿弖利為と磐具公母礼いわぐもれを降し、この賊首二人を都につれていったが、二人は斬首された。」

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2013年1月 4日

情報82 呰麻呂と阿弖流為は同一人物か?

水沢市埋蔵文化財調査センター所報『鎮守府胆沢城』第33号(平成10年2月16日発行)は、一年をふり返っての同センターを訪れた見学者の声を紹介している。そのなかには、「阿弖流為は田村麻呂にだまされた日本一の馬鹿武将だという話を昔聞いたことがあるが、本当だろうか。」(静岡・会社員)など、アテルイにふれたものがある(これには一応、「本当ではないだろう」と答えておく)。ほかに気になる内容として、宮城県の大学生からの「阿弖流為は伊治公呰麻呂と同一人物ではないだろうか。」という「声」が載っていた。平成元年(1989)、延暦八年の会主催で巣伏の戦い千二百年記念「アテルイとエミシ展」を開催したときに、宮城県から来られた方から「阿弖流為は呰麻呂と同一人物だ、本にも書いてあった。」と、強く同意を求められたことがある。河北新報社の一力会長も、高橋克彦氏との対談のなかで「呰麻呂が名を変えて阿弖流為になったという説もある」(平成9年4月18日付『河北新報』掲載)と述べていられた。はたして、そのような説はどこからするものであろうか。
呰麻呂とは、陸奥国上治郡の大領であった伊治公呰麻呂のことである。宝亀11年(780)3月、呰麻呂は伊治城(宮城県栗原郡築館町城生野地区)で叛乱を起こし、入城していた陸奥守兼鎮守府将軍の紀朝臣広純と牡鹿郡大領の道嶋大楯を殺害したうえ、国府多賀城にまで攻めのぼり、大量の武器などを掠奪して炎上させた。「夷俘」と侮蔑されてきたことからの怒りが原因としてあった。朝廷はただちに征討軍を差し向けたが、抵抗が激しく失地回復には数年を要したのである。しかし、叛乱のリーダーである呰麻呂が討たれたという記録はなく、呰麻呂自身のその後については全くわからない。以降、朝廷軍との対決には「賊の奥区」とされた胆沢の阿弖流為が大きく登場してくるのである。このようなことが「呰麻呂=阿弖流為」説が出てくる背景となるものであろう。
おそらく、呰麻呂は胆沢の阿弖流為に合流したのではないかと考えられるが、それを検証することはできない。ただし、阿弖流為が呰麻呂でないことは、降伏後の記録に呰麻呂の名前が出て来ないことにも明らかであろう。降伏した阿弖流為を見れば、呰麻呂であるかどうかは一目瞭然であるはずなのだから。
もうひとつ、「呰麻呂=阿弖流為」説には、二十数年前に河北新報紙上に連載された「ものがたり古代東北」(『蝦夷 ~古代東北の英雄たち~』1978年10月発行)の、文字どおりの「ものがたり」が投影されているように思われる。この連載は、「自由な推理や仮説を交えて」構成された内容になっていた。呰麻呂と阿弖流為にかかわる部分は次のような記述になっている。「北へ逃げた呰麻呂は-。百八十里の道を一気に突っ走って、二日後の三月二十八日(宝亀十一年)には胆沢の地にたどり着く。...呰麻呂はひとまず跡呂井(水沢市跡呂井付近)に落ち着き、腹心の大鳥広目を直ちに胆沢公のもとへ遣わした。首尾を報告するためであるが、広目はその翌日、意外な返事を持ち帰る。なんと、盟友関係を結んだ胆沢公は、ちょうど呰麻呂が伊治城で事を起こしたころに亡くなっていたのである。...使いの広目と一緒に、盤具公母礼ら胆沢連合の主だった族長たちが呰麻呂を訪ねて来た。「この後は、伊治公殿を統領と仰ぐように」。これが胆沢公の遺言だったというのである。...胆沢公の子はまだ幼く、適当な後継者がいない。彼は、自分の死によって胆沢連合の統一が崩れるのを恐れたのだろう。...新しいスター呰麻呂を中心に結束を固めて欲しい。それが胆沢公の願いだったのだ。...呰麻呂はようやく決意を固める。翌朝、彼は近くに陣を構えている母礼を訪ねた。「統領の役、お引き受けいたす。ただし条件が一つ。胆沢公を名乗らぬことをお許しいただきとう存ずる」。呰麻呂は自ら大墓公阿弖流為と名乗り、再出発することになった」。このようにして、「呰麻呂が阿弖流為と名を変えて胆沢連合の統領」に納まったというのである。この「ものがたり」においては、「史実との錯誤を避けるため、正史の記述を併記し、仮説や創作部分はその旨を断るという手法」を採っている。そして、以上の部分に関しては、「多賀城焼き討ち後、呰麻呂が胆沢の地へ逃げたこと、胆沢公が死亡して呰麻呂が新統率者・阿弖流為に"変身"したことなどは、いずれも創作。」との断りがついている。「阿弖流為=呰麻呂」説は、ものがたり上の創作に発しているようだ。

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2013年1月 4日

情報81 『~歴史と観光~みずさわ浪漫』にアテルイ

水沢の歴史と観光にふれる手引書としてあった『観光水沢』を全面改訂し、名称も『みずさわ浪漫』と変えて平成11年㋂に出版された。アテルイの名前は初版(1955年)から、改訂版(1964年)、以後最近の五版(1981年)まで主には「歴史」の部の「巣伏古戦場」の項に出ていましたが、今回の全面改訂版では「人物」の部にも初めてアテルイが単独でとりあげられました。以下、その全文を紹介します。なお、この項の執筆は当会の佐藤秀昭副会長が担当しました。
「アテルイ」この耳慣れない人物は、昭和62年10月17日、「北方の王者アテルイの会」が水沢で発足、平成元年11月17日から26日までの10日間、「延暦八年の会」が"巣伏の戦い1200年記念"の「アテルイとエミシ展」を開催した頃から、その名がこの地域で急速にクローズアップされてきた。やがてアテルイは、胆江地域おこしの象徴的な人物となってきたが、その人物像について実像を掌握することは困難である。陸奥のエミシ征伐に、大和朝廷の軍事力を最大に投入し、その王化に最も力を入れたのが桓武天皇であった。『続日本紀』延暦元年五月二十日の条に、「...陸奥国言。祈祷鹿嶋神。討撥凶賊...」とあって、昔から軍神として名高い常陸国一の宮(現在の茨城県鹿島町)に、まつろわぬ賊徒ときめつけたエミシ等の征討を祈っている。それから882年後、寛文4年(1664)に鹿嶋神社に納められた木彫首像がある。「悪路王首像」と名付けられたこの像のレプリカが、現在水沢市埋蔵文化財調査センターに展示されている。奉納した人物は、「奥州住水谷加兵衛尉 藤原満清」である。アテルイが歴史上に登場してくる875年後の年代であり、当然アテルイの顔など知り得るはずがなく、仮りに寛文年間まで何らかの根拠となるものが残されていたとしても、悪路王=アテルイとはならない。が、目下のところこの「悪路王首像」が、この地域のシンボライズされたアテルイの「代理」もしくは影武者でもあるかのような存在として、はためいているのである。どんな風貌、体躯のアテルイであったのかを、今は再現する手掛りすら無いのであるが、唯一アテルイという名の直接的な人物の存在を示すのが、三つの文献である。アテルイの名が初出されるのは、その記述が正確であるかどうかは別として、六国史の一つである『続日本紀』延暦八年(789)六月三日の条に、「...此至賊帥夷阿弖流為之居...」として初登場するのである。『続日本紀』は桓武天皇の側近といわれた藤原継縄、菅野真道らによって、延暦16年(797)に『日本書紀』を継いで、全40巻の完成をみたものとされている。次いで文献にアテルイの名が記されているのが、寛平4年(892)に編纂されたとする説の『類聚国史』である。これはもともと六国史といわれる『日本書記』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を種別、事項毎に分類し、編年体にしたものであり、菅原道真の編纂である。三つめの文献は、『日本紀略』である。この文献の成立年代や撰者は共に不祥であるが、アテルイやエミシに対する公卿たちの見方から、一方的ではあるが、アテルイの一面を彷彿させるものがある。この書にアテルイの名が出てくるのは、延暦21年(802)四月十五日の条からである。「...夷大墓公阿弖利為。盤具公母 禮等種類五百餘人降...」さらに七月十日には、「田村麿来。夷大墓公二人並従...」とあって、アテルイたちが田村麻呂の軍門に降って、田村麻呂に従って京へやって来たことが記されている。興味深いのはその後日、八月十三日の条である。意訳すれば、「アテルイとモレを斬った。この二人は奥地の賊の首領である。この二人を斬る時に、田村麻呂はこの二人を胆沢へ帰そうと云ったが、公卿たちが執拗に云うには、彼等は獣であるし、限りなくまた反抗してくることだろうから、この夷賊の大将をこのまま帰すことは、後日の禍根となる。だから斬った」というのである。この記述は、アテルイの容姿の問題などではなく、いかに当時の為政者にとって、アテルイの存在が脅威であったかということを物語っている。裏を反せば、時の朝廷は勿論のこと、田村麻呂にとってもアテルイがこの地域における軍政、民政の統括者として、偉大な存在感を有していたか、ということを認めたことにもなるのであろう。アテルイの出自については全く不明である。田村麻呂よりは若干年齢が多かったのではないかという推論もあり、とすると河内国(今の大阪の東部)で斬首されたのは、50歳前後であったのかもしれない。アテルイについての歴史書の記録は、おそらく『続日本紀』が最も古いものと思われるが、その初出では「賊帥夷阿弖流為」とあり、賊の大将、エミシのアテルイである。だが、『続日本紀』よりも編集は後であろう『日本紀略』や『類聚国史』の中のアテルイは、いずれも「夷大墓公阿弖利為」となっている。「夷」は付いているものの、「賊帥」が一転して「公」という姓を冠されている。これは降伏したと見る朝廷側の意によるものであろうか、知る由もないが、名についても「流」が「利」と記されている。その名の「流」と「利」について一つを取りあげてみても、朝廷から与えられた良字とする説や、夷語表記の漢字描写の差とする説などさまざまであり、アテルイの人物像については多くの謎が残されている。故に魅力的であるということができよう。ともあれ、六国史という大和朝廷の側の歴史書の中に名をとどめた「アテルイ」は、まぎれもなくこの地域の有能な統率者として、1200年前の古代の先人として、今、最も市民の熱い視線を浴びている人物であることに違いはないのである。〔水沢観光協会発行 千円〕

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2013年1月 4日

情報80 伊藤博幸「~蝦夷英雄時代~阿弖流為 」

宮城・秋田・岩手のタウン交流誌『すくらむぶる』第209号(1998.11~12)に「すくらむぶる偉人英雄伝 其の五 」として掲載されている。簡単に紹介すると、【1】七、八世紀にかけて蝦夷社会は急成長し安定した独自の社会を形成していた。【2】阿弖流為の村落では豊かな生産力を背景に戦士の専業化が進み、兵法もそれまでの蝦夷間抗争の経験から多くを学んで一定の発達をみせていた。【3】国家による蝦夷遠征問題に対して阿弖流為と母礼の村落は反国家の姿勢を明確にした。このような自立主義が抬頭するところに彼らの村落社会の真の成長が窺える。二人は各戦士団を代表する軍事首長でもあった。【4】蝦夷の命運を握って果敢に戦った阿弖流為と母礼、古代蝦夷の希望がひとえに二人が率いる蝦夷戦士に集約されたとき胆沢に英雄時代があった。【5】13年間の耐久戦の結果、
降伏することになったのはこれ以上戦い続けても蝦夷社会が破壊されるだけとの判断であろう。敗戦にもいろいろあり、むしろ敗戦の中から実を取る方法を選択したのである。

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2013年1月 4日

情報79 東和町に「モレの墓」?

岩手県東和町土沢のふるさと歴史資料館で、特別企画展「坂上田村麻呂展~エミシ・伝説・信仰~」が昨年(平成10年)11月3日から12月23日まで開催され、アテルイのコーナーも設置された。発行された企画展図録の「アテルイ伝説」のページには、悪路王首像等の写真とともに「東和町六本木のモレの墓」として左の写真(カラー)が掲載されている。ただし、ほかには何の説明もなく、どのような伝承に基づくものなのかもわからない。「モレの墓」があったとは初めて知ることであるが、発表された以上、現地に調査に行く必要があろうと考えている。

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2013年1月 4日

情報78 シンボジウム 古代東北日本の再発見

平成10年11月15日、盛岡市の岩手県高校教育会館大ホールにおいて開催された。㈱解放出版社他の主催で、人権教育のための国連10年・世界人権宣言50周年を記念するシンポジウム。
「偏見に満ちた「蝦夷」観を科学的に問い直し、北天の英雄、阿弖流為(あてるい)・母禮(もれ)をはじめとする人物像、そして陸奥・出羽の按察使、陸奥守・鎮守府将軍を兼ねた坂上田村麻呂の実像に迫る」試みで、整理券、配布のパンフレットには清水寺に建立された〈阿弖流為・母禮の碑〉の大きな写真が使用されている。
当日は、パネラーの上田正昭氏(京都大学名誉教授)が「エミシの視点から歴史を読み直す」、森清範氏(清水寺貫主)が「坂上田村麻呂とアテルイ、モレ、そして清水寺」、新野直吉氏(秋田大学名誉教授)が「勇者アテルイを見つめて」と題して講演し、その後に意見交換が行なわれた。会場は満員であった。

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2013年1月 4日

情報77 新野直吉著『ジュニア版古代東北史』(文献出版)

「征夷軍と阿弖流為」「田村麻呂と阿弖流為」の項目がたてられている。その中からひとつを紹介する。
新野氏は、アテルイとモレの二人のことを「二虜」と史籍に表記していることから、「初めから斬られても不思議のない捕虜だったのだと受け止める向きもあります。しかしそれは違うようです」と自説を述べている。
【1】.斬刑が相当の罪人なら陸奥の現地か、上洛しても都の東西市で処刑されたはずで、河内国で斬られたというのは正常な状態で斬られたのではない。【2】.田村麻呂は初めから捕えたり殺したりする気はなく、彼らに故郷で仲間の朝廷に帰一する気持の醸成に当たらせるべきだと主張していた。【3】.ところが公卿らの強引な説が通り、そこで初めて捕らえられ河内国で斬られた。それまでは二人は全く自由の身であった。というのである。 「「虜」の文字は罪人で捕虜になった者の意味ではなくて、「虜軍・虜将・虜酋・虜人」等という用法の、「昔時、北方民族に対する蔑称」などと辞典に書かれるような「蝦夷=えびす」の意味なのです。」と結んでいる。

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2013年1月 4日

情報76 日高見大戦ほか戦没者慰霊祭

平成10年8月29日、四回目の慰霊祭が大阪府枚方市の片埜神社で開かれた。同神社境内には「首塚」があり、アテルイとモレが処刑され埋められた場所ではないかという説がある。東京在住のジャーナリスト、弁護士、北天会(関西アテルイ顕彰会)などで実行委員会を組織して毎年慰霊祭を続けているという。アテルイを筆頭とするエミシたちを追悼した。

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