2013年1月 2日

情報75 大武丸顕彰碑の建立

江刺市の梁川にはエミシ伝承として「大武(岳)丸伝説」が古くから語り伝えられ、「大岳」「武道坂」の関係する地名が残されている。蝦夷の首魁・悪路王は磐井郡の鬼死骸村で討たれ、その弟の大武丸と一子人首丸は栗原郡大武村に攻められたが逃れ、人首丸は大森山で、大武丸は野手崎(梁川)で討たれた。その最後の地を「大岳」と称した、という伝承である。梁川には、「大岳丸を顕彰する会」があるが、大岳丸顕彰碑建設実行委員会を結成して浄財を集め、碑を建立した。建立場所は梁川の武道坂、碑文は「伝古代エミシの将大武丸終焉の地」。碑は、高さ3.5㍍(台座を含めると4.5㍍)、幅3㍍、奥行2㍍の堂々たるもの。平成10年9月26日に除幕式が行なわれた。

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2013年1月 2日

情報74 佐藤秀昭・千坂げん峰 「延暦八年の「奇想天外な兵士」たち」

千坂峰責任編集『だまされるな東北人~『東日流外三郡誌』をめぐって~』(1998年7月発行、本の森) に収録されている。佐藤氏らが和田喜八郎氏を訪ねて見てきた「アテルイの首像」や、西暦802年にアテルイが五百余名を率いて降伏したときのうちの、「およそ三百五十ぐらいの兵士の名前を書いたもの」などについて話している。なお、本書では驚くべき事実も明らかにされている。すなわち、衣川村の「安倍一族の墓苑」に埋骨された和田氏から寄付された安倍頼時の「骨」と称するものが、鑑定を仰いだところ化石化した鯨の内耳の一部であることが判明したというのである。まさしく、だまされたのである。

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2013年1月 2日

情報73 角川書店『岩手県姓氏歴史人物大辞典』(1998.5)

「阿弖流為あてるい(?~八〇二)奈良末期から平安初期のエミシの首長。阿弖利為とも書く。延暦年間の一連のエミシ征討戦争で、胆沢のエミシの中心として最も頑強に抵抗した。延暦七年末に第一回征討が開始され、翌年四,〇〇〇余人の軍勢が北上川の渡河作戦を強行した際、一,五〇〇余人のエミシを縦横に指揮して奇襲を行い、征討軍の大半を戦闘不能にするという勝利を収めた(続日本紀)。しかし、その後の度重なる征討に抗しきれず、延暦二一年に盤具公母礼と共に配下のエミシ五,〇〇〇余人を率いて胆沢城建設に当たっていた坂上田村麻呂に降伏、平安京に上る。田村麻呂は阿弖流為らの助命を主張したが、政府はこれを容れず、河内国(大阪府)杜山で処刑された(続日本紀)。その本拠地については、大墓公たものきみ を大萬公の誤記として江刺市太田大万館にもとめ、あるいはアテルイの名を水沢市内の安土呂井に関連させる説などがある。」
1、このなかで、「配下のエミシ五,〇〇〇余人」とあるが、その人数については「五百余人」の誤り。
2、処刑地については「杜」山のほか、「椙」山説、「植」山説がある。
3、後半部分のアテルイらの降伏等について記しているのは『続日本紀』ではなく、『類聚国史』と『日本紀略』である。
4、「墓」を「萬」とする「大萬公」誤記説は、高橋富雄氏が20年ぐらい前から提唱(例えば、『岩手百科辞典』1978年、岩手放送)しているが、それを支持する研究者は今までのところ見当らない。高橋氏はエミシ研究の画期をなす『蝦夷』(1963年、吉川弘文館) において、「大墓」はタモと読み、水沢市内にある地名「田茂」からするものではないかとしていた。以来、本辞典でも採用しているように、有力な説となっていた。同氏の『古代蝦夷を考える』(1991年、吉川弘文館) では、大墓公を「たいものきみ」と訓じておいたうえで、「大萬(オオマ)公」誤記説を繰り返している。誤記でなければ、「大墓」はタモでなく、タイモと訓むということだったのか。本辞典では、高橋氏は「岩手の風土」を執筆している。その中で、氏はアテルイの姓の「大墓公」は、「巨大古墳」(胆沢の角塚古墳を指す)に連なる王者の義であろうとし、オオハカノキミと訓じている。かつては、「大墓の意味は不明」(『岩手百科辞典』)とし、誤記説を唱えていたのであるが、このように、「墓」の意味を認めたうえでオオハカと訓んでいるということは、「大萬公」誤記説を完全に撤回されたということであろうか。
5、「安土呂井」の地名は、「跡呂井」として現在に残っている。

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2013年1月 2日

情報72 アテルイを題材とした一人芝居

仙台を拠点に活動している役者米沢牛(よねざわぎゅう)の一人芝居「アテルイの首」の公演が行なわれる。アテルイを題材に、その伝説の謎や、大和と融合していった蝦夷の葛藤、東北人のアイデンティティーを浮き彫りにする舞台という。平成10年7月8日からの仙台公演を皮切りに、宮城県迫町(15日)、大河原町(18日)、本吉町(24日)で行なわれる。問い合わせはヨネザワギュウ事務所〔℡ 022-272-2744〕

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2013年1月 2日

情報71 アテルイをテーマに成人大学が開講

平成10年6月19日、胆沢町愛宕公民館の成人大学が開講した。本年度のテーマは「アテルイ」。11月まで6回の予定で、アテルイが生きた時代やその背景、エミシ・田村麻呂伝説などの講義が行なわれる。第1回は、北上市立「鬼の館」主任学芸員の鈴木明美氏が「古代国家とエミシ」と題する講義を行なった。胆沢町だけでなく、水沢市、金ケ崎町からの参加者もあり、65人が受講した。

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2013年1月 2日

情報70 水沢小学校PTA文集『やまなみ』№28より

袋町の石川タミ子さんが「アテルイ」と題して寄稿している。「数年前放映されたNHK大河ドラマ「炎立つ」でアテルイが登場し、古代の英雄に興味を持った。田村麻呂に討伐されたんだっけなという程度の知識しかない。まして清水寺が田村麻呂開基とは知らなんだ。そもそも、この胆江地方で独自の生活と文化を形成していた平和な地に、中央政府が蝦夷と蔑視し侵略してきたのだ。我が郷土の雄アテルイさんは、モレさん等と共にこの侵略を頑強に阻止したが、十数年に及ぶ激戦も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降った後京都に連行され、処刑された。田村麻呂は敵ながら両雄の武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが受け入れられなかった。平安建都一二00年祭に阿弖流為・母禮の顕碑が清水寺境内に建立されたので、いつか訪ねてみたいと思う。小学校の遠足で行った平泉の伊谷の窟も、チョッと歴史を知っただけで見方が違うもんだ。
アテルイは従来、朝廷に歯向かった賊徒として扱われていたが、郷土を朝廷の侵略から身をもって護った英雄として見直される様になり、中学校社会科歴史教科書にも載るそうだ。水沢の三偉人も素晴らしいが、古代東北の日高見国胆沢に思いをはせる時、アテルイという人物がガンバッテいた事を誇りに思う。こんな浅い知識でも歴史のロマンを充分感じるんだナ。」

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2013年1月 2日

情報69 高橋克彦氏へのインタビュー

盛岡市在住の直木賞作家で、河北新報朝刊にエミシの英雄アテルイを主人公にした小説「火怨~北の耀星アテルイ~」を連載した高橋克彦氏が、同新聞掲載「直言東北へ7」(平成10年2月10日)で、東北の視点や歴史の書き換えということについて次のように話している。
「アテルイや奥州藤原一族を小説のテーマに選んだのは『東北人自身に東北の歴史を知ってもらいたい』と思ったからだ。歴史上、東北の人物が悪者になったり、土地が辺ぴとされたりするのは、東北独自の史観がないからだ。われわれは中央史観を押し付けられてきたのではないか。」「東北の歴史は史料や記録が少ない。例えば坂上田村麻呂が副将軍として遠征してきたときの、エミシとの戦闘の記録がない。朝廷側が勝ったとされているが、その数年後に田村麻呂が将軍として再び東北に赴いたということは、実は戦いに勝っていなかった、という仮説が成り立つ。『都合の悪い歴史は消してしまえ』と、アテルイの記録は時の権力者によって抹殺されてしまった可能性もある。」「東北の歴史を語ることは、他の地域とは違ったニュアンスを持つ。日本史には耶馬台国など多くのなぞが残されているが、それを解き明かしたところで地域の意識が変わることはない。東北の歴史をひもとくことは、東北の根底にあるコンプレックスを打ち破ることにつながる。エミシが東北に住む人々の総称だとすると、その歴史は東北に生きた人間が中央に立ち向かった歴史だ。現代の東北でも、エミシの魂は地域の誇りにつながるはずだ」

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2013年1月 2日

情報68 対談、増田寛也・梅原猛 「夢の力学」

岩手県が発行している『IPANG』№4(1998年4月)に、増田岩手県知事と哲学者 ・梅原猛氏との対談が掲載され、アテルイにも触れている。
「梅原 最近、坂上田村麻呂に破れたアテルイの碑が京都の清水寺に建てられましたが、アテルイ側から歴史を見ると、いままで学校で教えられた歴史とは違った歴史が見えてくると思います。東北の文化というものは、大和の文化と土着の蝦夷の文化の総合。むしろ活力とか自然との交わりという点では、大和よりもはるかに深い知恵を持っていた。その知恵を学ぶべきです。朝廷に反抗した悪い奴だという史観だけではもう計れないと思います。増田 いま岩手でも歴史の解明が進んでいて、志波城や徳丹城、胆沢城でも調査が行なわれています。新しい史実が解明され、これまでの歴史観を覆す発見があるかもしれませんね。」

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2013年1月 2日

情報66 相原康二責任編集『大いなる夢の史跡』

地域在住の6人の研究者が最新の胆江地域の歴史・考古学の研究成果を分かりやすく、簡潔にまとめた。この中で、伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)は「蝦夷と政府の激突の時代」を以下のように記述している。
「蝦夷と政府の激突を物語る有名なものに宝亀十一年(780)の伊治公呰麻呂の乱と、延暦八年(789)の胆沢地方を舞台にした胆沢の合戦があります。とくに後者は、当地方の北上川東岸を主戦場に、阿弖流為・母礼らに率いられた蝦夷軍が五万の軍を向こうにして戦い、蝦夷側の大勝利に終わった合戦として私たちに記憶されています。これらの戦いは「蝦夷英雄時代」と呼ぶにふさわしいものがあります。しかし、政府も胆沢攻略に執念を燃やします。延暦十三年(794)には副将軍坂上田村麻呂を実戦部隊の総指揮官として、前回遠征の倍近い十万の大軍を投入してきました。「正史」は詳細を記していませんが、前回にも増した激戦だったようで、戦死者、捕虜、焼亡村落を含めて蝦夷側の被害は甚大でした。それは前回の戦いが北上川東岸中心であったのに対し、今回は西岸一帯も戦場となったためでしょう。水沢市の東郊、北上川右岸一帯に杉の堂、熊の堂遺跡群があります。調査は十数年前から行われていますが、ちょうど阿弖流為の時代に重なる奈良時代の終わり頃の竪穴住居跡に、ある共通した現象があることに最近気づきました。ほとんどの住居が焼失しているのです。さっそくデータをとってみました。遺跡群の範囲は約二万平方㍍、これまでの調査でこの時期の住居は約四十棟。そのうち八割が火災に遭っていました。焼失状況は強風に煽られた様子はなく、垂木や屋根材のカヤは自然に焼け落ちたものばかりです。遺跡群内は空閑地もあり、隣のムラとは区別され、類焼は考えられません。記録を残さなかったモノ言わぬ蝦夷たちのメッセージがここにあるのかもしれません。」【胆江日々新聞社刊 1800円】

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2013年1月 2日

情報65 京都・清水寺でアテルイ法要と植樹祭

平成10年3月7日、第四回目となるアテルイ、モレの法要が清水寺のアテルイ、モレ顕彰碑の前で行なわれた。森清範清水寺貫主、大西執事長ら四人の僧侶によって法要は営まれた。水沢からツアーとして参加した約30人を含め関係者約90人が出席した。今回は碑の傍らに水沢市の市花「シダレザクラ」を植える植樹祭も盛大に行なわれた。北天会(関西アテルイ顕彰会)の高橋敏男会長は、植樹の申し出を快諾していただいたばかりでなく、狭いということで石垣を積み場所を広げてくださった清水寺の配慮に心から感謝していると述べている。付近には、ベンチ三脚も置かれ、顕彰碑の環境はいっそう整えられた。

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2013年1月 2日

情報64 網野善彦『日本社会の歴史(上)』(岩波新書)

列島に展開した地域性豊かな社会と「国家」とのせめぎあいの歴史を、社会の側からとらえなおして叙述した通史という。 著者は本書の「はじめに」で次のように述べている。これまでの「日本史」は、日本列島に生活をしてきた人類を最初から日本人の祖先ととらえ...、そこから「日本」の歴史を説きおこすのが普通だったと思う。いわば「はじめに日本人ありき」とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、われわれ自信の自己認識を非常に不鮮明なものにしてきたと考えられる。事実に即してみれは、「日本」や「日本人」が問題になりうるのは...七世紀末以降のことである。それ以後、日本ははじめて歴史的な実在になる...。このような問題意識に立つ著者の、アテルイに関係する記述が以下である。
「七八八年(延暦七)、紀古佐美を征東将軍とし、東海・東山両道、あるいは坂東諸国から五万余の軍勢を動員し、東北との本格的な戦争が開始されるが、これを迎え討った東北人は、翌年、首長阿弖流為の巧妙な戦術によって、北上川で日本国の軍勢を包囲、大打撃を与えて撃退した。」
「七九四年...東北での戦争の勝報が伝えられた。東北の首長たちのあいだに、日本国の軍勢に徹底して坑戦するか、あるいは服従して日本国の国制のなかで地位を得る道を選ぶかをめぐって内部分裂がおこり、これに乗じて坂上田村麻呂は多くの東北人を斬殺し、胆沢の占領に成功したのである。」
「八〇一年(延暦二〇)には田村麻呂が再び四万の軍を率いて東北北部に攻め込み、翌年、胆沢城を築くと、さきの北上川の戦いの勝者阿弖流為は兵を率いて投降した。田村麻呂はこれを京都に連行して助命を主張したが、結局、阿弖流為は斬られ、東北人の中に日本国に対する深いうらみをのこすことになった。」

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2013年1月 2日

情報62 「跡呂井」の地名とアテルイ

読売新聞岩手県版(1997年10月18日付)のシリーズ「地名を歩く」に、水沢市の跡呂井(あとろい)が取り上げられた。「朝廷破った蝦夷の首長、1200年の時超え再評価」の見出しで、アテルイと直結する地名であること、アテルイとアテルイの再評価の過程なども紹介している。現在、行政上の地名は水沢市の神明町、花園町、杉ノ堂であるが、この地域は明治の初めに周辺の村と合併するまでは「跡呂井」村と呼ばれた。今も町内会と地区名は跡呂井を使っている。江戸時代の「安永風土記」(1773)には「安土呂井村」と記されているが、それ以前の記録はわからない。水沢市埋蔵文化調査センターの伊藤博幸氏は、「今だから、アテルイと関係があるといえるが、(朝廷に刃向かった)『賊軍』だったため、地名の由来を伝える伝承がどこかで途切れてしまったのではないか」と、跡呂井の地名の手掛かりが少ない理由を推測して語っている。跡呂井町内会長を務めた佐々木盛氏(当会副会長)は、子供のころ「アテルイごっこ」と称してチャンバラごっこをしたこと、父親らから「アテルイがこの地方にいて周辺は蝦夷集落だった」と教えられたことなどを語っている。

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2013年1月 2日

情報61 牛崎敏哉「宮沢賢治と〈アテルイ〉」

「宮沢賢治はアテルイをどうみていたのだろうか」をテーマとする。賢治の詩「原体剣舞連」には、アテルイが伝説化したことによる呼称ともいわれる「悪路王」が登場する。しかし、検討していくと、賢治作品の「悪路王」は史実のアテルイとオーバーラップできないことに気づかされ、むしろそれから遠ざかっているという。
岩手日報社発行の文芸誌『北の文学』第35号の入選作(文芸評論部門)

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2013年1月 2日

情報59 岩手日日新聞文化賞に‹延暦八年の会›

第15回岩手日々新聞文化賞に四団体が決まり、学術・研究部門には延暦八年の会が選ばれた。アテルイを軸に胆江地方の歴史、文化を研究し、地域おこしに取り組んできたことが評価された。アテルイに関する企画展、講演会の開催、ライブラリーの創設、郷土史読本の発刊などの実績がある。『岩手日日新聞』平成10年1月1日

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2013年1月 2日

情報58 佐藤正助『阿弖流為・母禮の実像とその時代』

東北の古代史に関する「六国史」の記事を順を追って紹介しながら、著者の視座からそれを読み解いた。国史の捏造部分を抉る試みという。著者は「巣伏の英雄阿弖流為を被征服者の立場から考えてみたいと常々思っていた」と前書し、書名にも阿弖流為の名前を入れているが、「阿弖流為・母禮の実像」究明に触れる部分はそれほど多くはない。阿弖流為に関しては、【1】「阿弖流為とは田茂山の跡呂井に住む人と言う呼称」である。【2】「阿弖流為は後代に至り次第に英雄に仕立て上げられた人物」である。【3】「阿弖流為とは出生死亡も確認されない謎の英雄」である。【4】「阿弖流為は決して大国を統一した首領とは思われないし、軍事教育を受けた武官でもなく、訓練した兵士を従えた専門的な軍人ではない。普通の土着の農民であったが、律令制の不条理さと無頼人上がりの政府役人の行動に憤りを感じ、決起しただけなのかも知れない。やがてその指導性と剛胆さが衆目の見るところとなり最高指導者に選ばれたのであろう」。【5】「大和政権の軍事力に対応して戦闘集団が自然発生し、それを統率する酋長として阿弖流為が生まれたものであろう」などというものである。

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2013年1月 2日

情報57 延暦八年の会編著『古代アテルイの里』

古代アテルイの時代を中心として関連する前後史をまとめた郷土(胆江地方)の歴史副読本。写真、イラストが多く使われていて親しみやすい。「奈良~アテルイの時代~」の項は、アテルイとその時代、胆沢の合戦【1】~【3】、アテルイ降伏、アテルイの斬刑をめぐる諸問題などの小項目がたてられていて詳しく、興味深い。水沢地方振興局の平成八年度地域活性化事業として刊行された。無料で配布しているので希望者は水沢地方振興局に申し込みのこと。残部僅少。

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2013年1月 2日

情報56 新野直吉 「阿弖流為、その風土性豊かな復活」

『岩手の歴史と風土-岩手史学研究80号記念特集-』(熊谷印刷出版部、平成9年3月発行) 所収。新野直吉氏は秋田大学の名誉教授で、前学長。
〔初めに〕は、平成六年十一月に京都清水寺に建立された阿弖流為と母礼の顕彰碑に触れ、「顕彰された阿弖流為と母礼は、一二00年の歴史の彼方から華麗に復活した。」と書き出す。そして、近代になってからの阿弖流為に対する関心について、大槻文彦博士が『復軒雑纂』(明治35年刊)で延暦八年紀の阿弖流為に注目したこと、吉田東伍『大日本地名辞書』が胆沢郡安土呂井の項で阿弖流為に言及したことを紹介している。
 〔一、胆江の自己主張〕では、現代の顕彰運動に関わる時期に阿弖流為を史上に位置づけたのは高橋富雄博士であると断言、昭和38年刊『蝦夷』(吉川弘文館)で「阿弖流為」という項題を設定して、「五万の組織された軍隊と、こうも鮮やかに渡り合う軍隊は、烏合の衆ではありえない。それじしん、高度に組織された統一体でなければならない。胆沢における一0年をこえる抵抗の組織者、それこそ、ここにいう大墓公阿弖流為であった。彼は、...」と論じたのがそれであるとする。
〔二、阿弖流為を知って〕では、氏自身が阿弖流為を知ったのは昭和34年段階であったが、著述で阿弖流為に触れたのは昭和44年刊の『律令古代の東北』(北望社)と同年刊の『古代東北の開拓』(塙書房)が最初であったこと、しかし実際に解釈的に阿弖流為に言及したのは昭和49年刊の『古代東北の覇者』(中央公論社)という新書が初めてであったと振り返る。そこでは、「田村麻呂と二族長」という項目を出し、「和睦の形で帰順した大墓公阿弖流為・盤具公母礼の両族長」という位置づけとともに、その背景や二人の心情などについてまで踏み込んで述べた。そして初めて「おおつかのきみあてるい」「いわくのきみもれ」とルビを付した、とするが、原本のルビは「おおつかのきみ」ではなく、「たいものきみ」となっている。
〔三、阿弖流為を見つめて〕では、次第に阿弖流為に対する関心を深めた氏が、昭和53年刊の『古代東北史の人々』(吉川弘文館)で、「死に就く阿弖流為」という項をたてて阿弖流為が死に臨む「こころ」にまで言及するに至ったと書く。またこの書では二人の姓名の訓みについての考え方も述べた。ここで、大墓公を「あるいはタイボ(モ)ノキミとでもいうのかもしれないが、...オオツカノと読んで置く」としている。関連して、例えば大墓公を「たものきみ」「たのものきみ」「おおものきみ」と訓む可能性に触れては、「古代蝦夷語というものの言語学的座標が明確になっていない以上、色々の仮説が生まれる可能性がある。私見が、仮に言えば「許容範囲」とでもいうべきものを緩やかに取っているのも、それによるのである。只古代蝦夷語を安易にアイヌ語と通わせ「アイヌ語地名」の如く扱うことには許容性を認めていない」と、氏の考え方をより明確に打ち出している。
〔四、復活への道のりの中で〕では、「阿弖流為は降伏したのではなく、「平和的調印」の申し入れをしたとか、逆に田村麻呂が和睦を申し出たが、結局、阿弖流為等は、だまされて処刑されてしまうという、いわば郷土愛的な発言もある。史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」(高橋崇『坂上田村麻呂』)という批判があったことにふれながら、『古代東北史』(昭和63年)で「阿弖流為の心」という項を設け、「乏しいながらも存在する史料条文の解釈で田村麻呂と阿弖流為の双方の諒解点を論定しよう」としたこと。『古代東北の兵乱』(平成元年)においても、『類聚国史』延暦21年4月15日条に関してさらに踏み込み、「阿弖流為の立場の田村麻呂将軍に対する座標の評価が単に愛郷的情緒に偏る発言と決めつけられるのは妥当ではないことを強調した」と、その部分を掲げて述べている。そして、このような研究とは別のところでアテルイの顕彰運動が徐々に進んでいたことを、碑の『建立記念誌』や「アテルイを顕彰する会」の第二回総会資料などから拾って、その展開経過を紹介している。
〔終りに〕では、阿弖流為「アイヌ民族」説や「百済人」説などの異聞を一蹴。また、アテルイやモレは狭域の領袖と過小評価し、率いた「種類五百余人」は敗残兵で村落からはじきだされた人々だ、などとするひどい論文が発表されていることも明らかにし、厳しく批判している。
 【本論文により、アテルイに関する研究の現段階における一定のまとめがはかられたとともに、今後のいっそうの研究に向けた諸課題も与えられたように思う。また、清水寺への碑建立に至るアテルイ顕彰運動の過程も紹介していただいた。「アテルイ通信」第20号の区切りにふさわしい内容を、<アテルイ情報>に取り上げることができた。新野先生に感謝。】

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2013年1月 2日

情報55 対談「阿弖流為にみる古代東北の気概」

河北新報社の企画による、同社会長一力一夫氏と作家高橋克彦氏の対談。平成9年4月18日付紙面に、大きく掲載された。一力氏はアテルイについて、「東北人の歴史の中で、具体的なイメージを持って登場した初めての人物」、「阿弖流為の精神というのは、西に対するこちらの主張です。だから脈々と生き続けさせなければいけない」と語る。対談の最後には「できれば水沢市に阿弖流為の銅像なんかも欲しいですね、せめて阿弖流為が藤原秀衡くらいに多くの人に知られてほしいと思いますね」(一力)。「阿弖流為は、僕らの中に取り戻していかなくてはいけない心だと思う。何かに立ち向かっていくという、僕らが失った心を彼らは持っていたんだなと思います」(高橋)と語っている。

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2013年1月 2日

情報54 高橋敏男『~大和政権と蝦夷の~確執 』

一昨年、清水寺に建立された〈阿弖流為母禮之碑〉を記念しての出版(平成8年12月)。編著者である北天会会長の高橋敏男氏は碑建立の主体となった関西胆江同郷会の会長。『続日本紀』など、六国史に記された東北に関わりのある部分を現代文にして年代順に抜き出し、注釈と解説を加えた内容。本を販売した利益金は碑の供養、保存、宣伝などの会の運営費に充当される。北天会(℡ 06-831-8110)千二百円。

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2013年1月 2日

情報53 『劇画日高見のアテルイ~展勝地の戦い~』

原作は北上市在住の会社員及川強志さん(34歳)。作画は花巻市在住のアマチュア漫画家星勇希さん。A5版187ページで、第一章「胆沢の勇者」、第二章「反逆者、呰麻呂」、第三章「展勝地の戦い」からなる創作。アテルイの幼少期から日高見の蝦夷の族長になるまでを描いている。 平成9年1月には、及川さんの所属する北上市の歴史同好会「東夷講」主催による発表展示会が、水沢市と盛岡市で開かれた。及川さんは、続編として「巣伏の戦い」、さらにアテルイが処刑されるまでの三作を考えているという。泉出版(℡ 0197-25-3478)、千円。

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2013年1月 2日

情報52 高橋克彦「火 怨~北の耀星アテルイ~」

『河北新報』創刊百年を記念したアテルイを主人公とする大河歴史小説で、本年(平成9年)の元日より朝刊に連載されている。作者の言葉「東北に生まれた最大の英雄アテルイをどのように描くか。「炎立つ」を書きながら私は、いつかは手掛けなければいけない人物として常に意識していた。坂上田村麻呂と堂々と対峙したアテルイこそ東北人にとってのすべての源である。ようやくその時期を迎えて緊張している。この一年、私はまたアテルイを通じて東北と向き合うこととなる。美しい魂をこの物語の中に完成させたい」(平成8年12月20日『河北新報』より)。蝦夷(えみし)の耀(かがや)く星、北の耀星(ようせい)、アテルイ。

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2013年1月 2日

情報51 ライバル日本史〈桓武天皇VSアテルイ〉が文庫本に

平成8年2月8日にNHKテレビで放送された「ライバル日本史」〈平安王朝、東北大戦争~桓武天皇とアテルイ~〉が、角川書店から文庫版の『ライバル日本史』第5巻「挑戦」に収められて発売された。その中で、番組のゲストであった高橋克彦氏は次のようにアテルイについて語っている。アテルイとはどのような人物だったのだろうか「...相当長い期間蝦夷を率いて戦っていますから、若い頃から頭角を表していたのではないかと思います。朝廷軍との戦いで、被害を最小限にくいとめながら軍を追いやったことを考えますと、蝦夷はある程度の軍事力をもっていた国家だったのではないかと想像できます。ですから、その代表であるアテルイは、小さな地域の首長というより、蝦夷を統一した英雄だったのではないでしょうか。彼はただの武将ではなく、平和なときにも政の中心にいて人を指導していて、力が強いだけでなく、人間的にも慕われていたのではないかと思います。...蝦夷と朝廷軍の戦いの記録を見ていますと、...力で戦うというより頭脳プレーです。これは僕の勝手なイメージなんですけれども、アテルイは非常に知性的な人間だったのではないかと思います。」
高橋克彦氏は最後にこう結んでいる。「明治維新以降、東北も中央集権のなかにたぶん入ってしまったのだと思いますが、少なくとも東北が独自性をもって中央に伍していた、その礎をつくったのはアテルイであったし、そのきっかけは桓武天皇との戦いから生まれたような気がします。」

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