第60号(2011年8月28日) 10P


朝倉授(梅草一郎)「「大墓家」銘墨書土器と「大墓公」」

はじめに

 アテルイのウジ名である「大墓」をどう訓(よ)むべきなのか、「たも」「おおはか」「だいぼ」など、さまざまな訓み方がされていて定まっていない。この「大墓」は地名に関わるウジ名であり、アテルイの本拠地に直結することから、それをどう訓むかはアテルイの実像に迫るうえでも非常に重要なことになる。筆者は、梅草一郎の筆名で平成17年8月の本会報に掲載した「阿弖流為、そして大墓公阿弖利為(中)」(『アテルイ通信』第46号)で、「大墓」を"おおはか"と訓むべきことを支持し、その補強を試みたが、この問題に関して現在まで大きな進展はなく、訓(よ)みが定まるまではさらなる研究の積み重ねと時間が必要とされているようである。
 最近、「大墓」を"おおはか"と訓むべきことを、あらためて主張できそうな出土文字資料の存在を確認できたので、ここに紹介し、「大墓=おおはか」説の補強を再度試みる機会としたい。

1.「大墓家」と墨書された土器の出土

 茨城県東茨城郡茨城町(いばらきまち)の綱山(つなやま)遺跡発掘調査(調査期間1999年4月1日~2000年9月30日)において、アテルイのウジ名である「大墓」という文字を含む「大墓家」と墨で書かれた土器が1点出土している。これに関連する調査の詳細は、茨城県教育文化財団調査報告第243集『綱山遺跡』上巻(2005年3月発行、以下『調査報告』と略す)に報告されている。
 それによると、綱山遺跡は弥生時代後期後半から古墳時代及び奈良・平安時代を主体とした複合遺跡であり、その奈良・平安時代の住居跡から、「矢川部志得」「向家」などと墨書された土器とともに「大墓家」と墨書された土器が出土したのである。 
 その住居跡は、調査区(16,049㎡)中央部の台地上に位置する一辺4.8mの方形の竪穴住居跡(第29号住居跡)で、土師器片323点、須恵器片97点、土製品6点、鉄製品6点が出土している。いずれも廃絶時に廃棄されたものと考えられており、その時期は出土土器から9世紀前葉と考えられている(『調査報告』)。
 「大墓家」と墨書された土器は、同住居北壁中央部に付設された竈(かまど)近くの壁際床面から出土した土師器(はじき)の高台付(こうだいつき)杯(つき)で、底径9.3cmの底部外面に「大墓家」の3文字が縦にはっきりと書かれている。

2.「大墓家」の「家」

 この墨書土器は「9世紀前葉」ということからアテルイの時代と重なるものであり、「大墓家」が一般に言う「○○家(け)」というように、アテルイの家系に繋がる「大墓(おおはかの)公家(きみけ)」を意味しているのであれば一大発見となり、興味も尽きないのであるが、はたしてどうであろうか。
 墨書土器そのものは6世紀から9世紀に多く見られ、発掘調査により古代の官庁跡や集落跡などから数多く出土している。明治大学古代学研究所のホームページに公開されている「墨書・刻書土器データベース」にはその内の約108,500点が現在までに集成されている。それを見ると、墨書された文字等は多種多様で、判別できないものや記号、漢字の一字が多く、大半が意味不明であるが、その中に施設名、職名、地名、人名など明確に分かるものが含まれている。
 古代学研究所のデータベースには、「大墓家」と墨書された土器は1点も登録されていないが、「□家」「□□家」「□□□家」のように複数字の最後に家の字がつく字句の墨書土器が430点余見出せる。少なくはない点数であり、古代における「家」の意味を考えることができる。その中で意味が明確なものに、「郡家(ぐうけ)」「駅(うまや)家」「厨(くりや)家」「烽(とぶひ)家」などがある。この「家」については施設の意味とされ、「郡家」は郡の役所、「厨」は官衙の給食機関で「厨家」はその施設、「駅家」は五畿七道の駅路沿いに配置された駅施設とされる。「烽家」は烽火台などを備えたと考えられる軍事通信施設とされる(『烽[とぶひ]の道』)。いずれも古代律令制度下の公的施設であり、その性格の違いにより「□家」と呼ばれていたのである。
 「□家」の一文字のうちには方角を示す文字がある。「東家」「西家」「南家」「北家」などで、これらは複数の建物から構成される施設内において、それぞれの建物を基準となる建物等からの位置関係を示す文字を用いて記したと考えられている。「上家」「下家」、「左家」「右家」、「前家」「後家」なども同様の考え方によるものかもしれないが、「上家」「下家」は郷名にもある。「大家」「中家」「小家」など大きさを示すものもあるが、「大家」「中家」は郷名、「大家」「小家」はウジ名にあり、それを記した可能性もある。
 他の一文字には、本、祝、新、屋、稲、午、林、沼、仲、原、堤、井、山、息、得、門、子、失、士、継、万、御、楽、路、尾、加、柴、嶋、明、椅、罡、主、栃、田、倉、遠、高、野、三、青、角、倭、橋、栗、越、都、椋、桐、札、美、縄、米、伴、教、などの字が見られる。複数字のものが一字に省略されていることがあるが、これらのすべてについて、一文字からどのような施設であるかを明らかにするのはむずかしい。「高家」は郷名にもある。
 「□□家」の二文字には、信太、矢作、山邊、子驛、子田、中村、守前、後家、雄幡、羽元、入野、三田、真後、上総、下総、美濃、出雲、上新、足黑、大倉、山口、并大、麻呂、古後、後田、小黒、河嶋、右川、荒田、竹寸、東在、松下、松上、神主、縣大、中臣、文西、山知、田司、上乃、大西、井門、中津、冨官、玉井、秋戸、麻績、五十、喜尼、などがある。「□□□家」の三文字では、日下西、吉原仲、忍原後、子朝日、赤背山、土刀自、布施井、五十戸、高化乃、などがある。国名、郷名など地名が多く、人名、職名なども見られる。平城宮朱雀門付近から出土した墨書土器の「五十家」「五十戸(さと)家」は、「里家」の意で里長が行政実務を執った施設と推定されている(岸俊男「大和の古道」)。
 「家」については「郡家」を「コホリノミヤケ」と訓む古訓があり、「ヤケ」の訓みがある。先にあげた「大家」などの地名も「於(お)保(ほ)夜計(やけ)」の訓注があり、「家」は「ヤケ」と訓まれている。「家」はイエの訓漢字であったが、ほかにヤケ・ヤカを表記する漢字としても用いられていたのである(ヤケとヤカは母音交替形で、酒(サケ-サカ)と同じ)。
 日本語の「イヘ」と「ヤケ(ヤカ)」は別系統の語で、意味する内容も異なっていた。「ヤカ」は個々の建造物を意味するヤ(屋)と場所を示すカ(処)とからなる言葉で、「ヤ」のある一区画を指す語と推定されている(『岩波古語辞典』)。また、古代の役所の呼称に省家・職家・寮家・司家など「○家」という語が用いられたが、この「家」はいわゆる家族集団とは切り離された何らかの機能をもった施設・機関の意に用いられていた。このようなことから吉田孝氏は、「ヤケ」を「ヤやクラを含む一区画の施設を意味する語であり、しかも何らかの機能を含めた観念」であると推定している(「ヤケについての基礎的考察」)。
 先にあげた墨書土器「□家」「□□家」「□□□家」から、地名とウジ名の可能性があるものを除いたとしても、残りのすべてを公的施設もしくはその一部施設の呼称としてそれぞれに解明するのは筆者の力からは困難であるが、この墨書土器に記された「家」字が家屋とか、家族集団というようなことでの「イヘ」ではなく、「ヤケ」の意味であることは間違いないであろう。藤原不比等の4人の息子が興した藤原四家(南家、北家、式家、京家)がよく知られているが、奈良時代において公的な「家(いえ)」は家令職員令に規定された三位以上の貴族の家だけで、全国のあちこちで在地有力者が「○家(け)」と称することがあったわけではなかった。
 「大墓家」の「家」は「ヤケ」と訓(よ)んでその意であり、したがって「大墓公家」を意味するものではなく、アテルイと関係づけることはできない。

3.「大墓家」の「大墓」

 墨書土器をめぐる研究の蓄積から、「官衙関連遺跡出土の墨書土器の文字はその土器の保管・占有などを示し、集落遺跡出土の墨書土器はその集落に居住する集団の標識的な文字を記し、何らかの祭祀に用いられた」(小林昌二・相沢央『新潟県内出土墨書土器の基礎的考察』)とする大きく二つに分けたうえでの考察がある。
 茨城町は茨城県の中央部、水戸市の南側に位置している。律令制下の奈良・平安時代の町域は、那賀郡八部郷、茨城郡島田郷・安侯郷・白川郷及び鹿島郡宮前郷に属していて、綱山遺跡が所在する大戸地区(現・桜の郷を含む)は那賀郡八部郷に比定されている。この時期は100ヶ所を超える遺跡が町内全域で確認されており、その代表的遺跡である奥谷(おくや)遺跡からは官衙などの庁舎・宿直所・部屋などを意味する「曹カ司」の墨書土器が出土していることなどから、同遺跡が官衙的あるいは公共的な施設を含んだ集落であったことが分かっている。綱山遺跡と同遺跡に隣接する宮後遺跡・大塚遺跡は墨書土器の出土量も多く、奥谷遺跡と同様に円面硯や灰釉陶器が出土、さらに巡方などが出土している。このことから、宮後遺跡・大塚遺跡・綱山遺跡に同じく隣接する石原遺跡を含む一帯が官衙的な施設を内包する遺跡群であったと想定されている。(『調査報告』)
 また、綱山遺跡で出土した墨書土器の「向家」は、郡家の館(宿泊施設)を構成する基本的建物である「向屋」に直結することが考えられ、綱山遺跡が官衙に関連する施設を含む遺跡であることが分かる。先に紹介した考察からすれば、「大墓家」の墨書土器は「大墓」に関係する公的施設が保管・占有する土器であったと考えることができる。
 次に、それでは「大墓」とはいかなる施設だと考えられるだろうか。まず考えるべきは字句どおりの「大墓」とは何かということになる。武内宿禰の墓とも云われる奈良県御所市室の宮山古墳は室(むろの)大墓(おおばか)と呼ばれている。同県桜井市の茅原(ちはら)大墓(おおはか)古墳、同県五條市の大墓(おおはか)古墳などは、「大墓」がそのまま古墳の名称として残されている。これらの古墳がいつの頃から「大墓」と呼ばれるようになったのか分からないが、古墳を大墓と呼ぶことがある実例である。中世以降に造られた大きな墓(墓石、墓地)を「大墓」と呼んで地名となることもあったが、古代において古墳以外に「大墓」と呼ぶことができる対象は存在しなかったであろう。
 茨城町は中央部を涸沼川、涸沼前川が東に流れ、町の東端に位置する全国30位の広さをもつ湖、涸沼に注いでいる。この流域は水運を利用した他地域との交流などが盛んであった。涸沼前川の下流に位置する奥谷遺跡からは古墳時代前期の豪族居館跡や住居跡が確認され、近くには四世紀末から五世紀初頭頃に比定されている宝塚古墳(前方後方墳)があり、在地有力者層の存在が想定されている。そして茨城町の町域には宝塚古墳に後続する古墳時代中期から後期にかけての古墳が61基確認できるという。茨城県は全国的にみても古墳が多い方の県になるが、茨城町の古墳数は県北・県央地域では最多となる。この茨城町域に多数残されている古墳を古代の「大墓」と関係づけて考えることは十分にできよう。
 「薄葬の詔」(646年)により、天皇と一部貴族以外の墳丘造営は禁止され、位階身分に応じて墳墓・石室の規模等が規定されるなど埋葬方法が縮小簡素化されていった。しかし、律令制下において陵墓(天皇、皇后、皇太子らの墓)は国家により管理されていた。治部省の諸陵司(諸陵寮)がそれにあたり、荷前(のさき)の幣(へい)と呼ばれる国家の祭祀を行い、山陵に置かれた陵戸(墓守)を監督した。ほかに陵墓側近の原野の焼除、毎年2月10日の巡検、損壊した垣溝の修理などが行なわれていた(『延喜式』)。
 古墳時代において各地に前方後円墳をはじめ古墳が数多く築造されたが、当然、各地の有力豪族の墳墓においても、なんらかの祭祀と管理が行われたものと考えられる。その多くはやがて廃れていったであろうが、地域によっては放置することなく管理を公の仕事として引き継いだところもあったのではないだろうか。これまでにその存在は確認されていないが、「大墓の家(やけ)」の墨書土器は、大墓(=古墳)を管理する地域レベルでの公的職務とその施設の存在を示すものではないかと考えられる。

4.「大墓公」の訓み
(1) 「夷地」の和語地名

 アテルイのウジ名である「大墓公」の訓みについて、「大」は接頭語の「オホ」で、「数・量・質の大きく、すぐれていること」(『岩波古語辞典』)を意味し、「墓」は遺体・遺骨を葬った所で、古代武蔵国の荒墓郷に「安良波(あらは)加(か)」(『倭名類聚抄』)の訓があるように「ハカ」と訓むと考えられる。高い盛土をさす「ツカ(塚)」とは区別され、一番自然な訓みかたである。
 しかし、蝦夷とアテルイへの関心が徐々に高まるなかで、高橋富雄氏が自著の『蝦夷』(1963年)で田茂山(たもやま)(現奥州市水沢羽田町の一部、旧田茂山村)の地名に焦点をあて、「大墓」を「タモ」と訓むことを提唱するや、その斬新な視点から新説への支持は一気に拡がったのであった。さらに大墓=タモ説を後押しした考え方は、「夷地」の地名は夷語であるから「大墓」は夷語の当て字であり、和語として意味のある訓みではありえないというものであった(今泉隆雄『三人の蝦夷』)。
 「賊の奥区」とされた胆沢は「夷地」ではあったかもしれないが、五世紀後半に前方後円墳(角塚古墳)が胆沢川扇状地に造営されたように、ヤマト王権の政治的秩序に組み入れられた最北の地域であった。ヤマトとの様々な交流の時代がアテルイの時代のはるか以前に先行してあったのである。和人が一歩も踏み入れたことがない「夷地」に和語地名が生まれることはないにしても、この古墳の呼び名をはじめ、他にいくつかの和語地名が生まれることがあって不思議ではない。延暦八年の胆沢侵攻に朝廷軍は胆沢の入口にあたる衣川に軍営を置いたことが『続日本紀』に記されている。この「衣川」の地名はある頃から「コロモガワ」と読まれるようになり現在に至るが、夷語地名の当て字であれば当時は「エ・カワ」と呼ばれていたことになる。しかし「衣川」の川名、地名は、蝦夷圏への進出に積極的であった毛(け)野(の)氏の本拠地である下野国(旧毛野国)に「河内郡衣川」「下野国驛家衣川」があり、「衣川」(明治以降は鬼怒(きぬ)川(がわ)の表記)が流れていた。この「衣川」は毛野国の毛野川からきており、キヌガワの訓みである。少なくとも延暦期の当時は「衣川営」の「衣川」は和語地名のキヌガワと呼ばれていたと考えられ、かつて毛野氏がこの地に進出したことがあったことから名づけられ、そのまま呼ばれ継がれた川の名であり地名であったと考えられる(「阿弖流為、そして大墓公阿弖利為(中)」参照)。胆沢においてはすべての地名が夷語であるとはかぎらない。

(2) アテルイの時代の「大墓」地名

 『日本書紀』『続日本紀』に、「墓」や「陵」の字が使用された記事は多くあっても、「大墓」の字句が出てくることはなかった。『日本後紀』(『日本紀略』『類聚国史』)にアテルイのウジ名として「大墓」が見えるだけであった。この「大墓」がそのまま和語として意味をもつものであるとしても、アテルイの時代に意味のある語として本当に成立していたかどうかは不明であった。
 825年9月、空海が益田池(現在の奈良県橿原市の低地に作られた灌漑用の巨大ため池)の築造を記念して撰文した碑文(『性霊集』所収『大和州益田池碑銘並序』)に「大墓」の字句が記載されている。すなわち池の位置等にふれて「左龍寺右鳥陵大墓南聳畝傍北峙米眼精舎鎮其艮武遮荒壟押其坤」(龍寺ヲ左ニシ、鳥陵ヲ右ニス。大墓南ニ聳(そび)ヘ、畝傍(うねび)北ニ峙(そばた)ツ。米(く)眼(め)ノ精舎(しょうじゃ)其ノ艮(うしとら)ヲ鎮メ、武遮ノ荒壟(あらつか)其ノ坤(ひつじさる)ヲ押フ。)と記しているのである。「龍寺」は龍蓋寺、「鳥陵」は身狭桃花鳥坂上陵(宣化天皇陵)、「米眼精舎」は奥山久米寺跡と考えられ、「武遮荒壟」は不明、「畝傍」は畝傍山である。この畝傍山に対する南の「大墓」は、益田池の西南に接する全長318m、高さ21mの巨大な前方後円墳である見瀬丸山古墳と見るのが妥当であろう。
 また、『日本三代實録』の深草山陵(仁明天皇陵)の四至改定の記事(貞観8年(866)12月22日条)に「東は大墓に至るまで、南は純子内親王家の北垣に至るまで、西は貞観寺の東垣に至るまで、北は谷に至るまで」とあり、「大墓」の地名がでている。現在の地名に当てはめると東限は深山古墓(平安時代の貴族墓)付近と推測され、その発掘調査では多数の円筒埴輪が出土していることから、その埴輪を持っていた古墳が「大墓」と呼ばれていたのではないかと考えられている(山田邦和「平安時代の葬送の地・深草」)。
 アテルイ死後23年後と64年後の史料であるが、いずれも古墳に関係するものであることから、さらに古い時代から成立していた呼び名であったとみてよいであろう。古墳時代に多く築造された古墳は、時の経過とともに破壊されることも珍しくなくなり(荒墓(陵)地名の発祥)、国家が管理していた陵墓でさえ被葬者が誰であったか不明となるなど本来の名称の記憶も途切れていった。それでも墓であることが記憶されている古墳は大墓の別称で呼ばれることがあったが、その記憶も途切れては大塚となり、さらには単なる形状から丸山、船山などと呼ばれ、そのまま現在の古墳名ともなっていった。
 「大墓」の名称では、1971年に発見された百済の武寧王陵の王の墓誌石に525年8月12日に「大墓」に埋葬したこと、王妃の墓誌石に529年2月12日に「大墓」に移し合葬したことが記されている。百済第25代の武寧王(斯麻王)は九州筑紫の加唐島生まれで、木棺材には日本の高野槇を使うなど日本と特異な関わりがあるが、王陵を「大墓」の用語で墓誌石に記している。このような用例が古墳時代後期の日本に伝わっていたかは不明だが、古代の「大墓」呼称には中世以降の「大墓」呼称とは違う単なる規模等を超えた尊厳が観念されていたと思われる。
 アテルイの時代の「大墓」とは、特定の古墳の名称であったり、古墳に関係する地名であったり、古墳を管理する職名を指したりした。「大墓」は古墳の実際の名称の記憶が途絶えた早い段階における呼称のひとつとなっていた。そしてそれは決して軽い意味合いでの呼び名ではなかった。「大墓」は明確な意味と重みをもった用語として成立していたと考えられるのである。
 このような用語である「大墓」を、同時代にそのまま当て字の「大」「墓」としてあえて使うということが考えられようか。

(3) 当て字としての「墓」

 当て字として使用可能な「た」の万葉仮名には、侈、多、太、大、他、陁、柂、哆、駄、党、田、手がある。多く使用されたのは、多、田、太、手であった。「大」は『正倉院文書』、『日本書紀』、『常陸風土記』に使用例が見られる。
同じく「も」の万葉仮名には、毛、母、茂、望、文、聞、忘、蒙、畝、問、門、勿、木、暮、謀、慕、謨、模、梅、悶、墓、莽、物、裳、藻、哭、喪、裙、の28字がある。〔「主要万葉仮名一覧表」『時代別国語大辞典上代編』巻末所収〕
 このうち「墓」字は、『古事記』、『万葉集』、『風土記』、『続日本紀』などには見えず、『日本書紀』にだけ使用例が見られる。『日本書紀』〔岩波書店 日本古典文学大系〕における万葉仮名「も」の使用例は下表のとおりである。

 
歌謡3941242012138421110166
訓注1004210011000120
4941282213138531111186

 「墓」字は歌謡にわずか一例があるにすぎない。神功皇后攝政十三年二月十七日条の記事中にある武内宿禰の答歌に唯一使用されているだけなのである。この歌は『古事記』(仲哀記)にもあるが、そこでは「母」の字が使われている。この時代は3世紀か4世紀かという頃にあたる。はたして、どのような教養をもってこのような「墓」字を8世紀後半の蝦夷のウジ名の当て字に引っ張りだして使うものだろうか。

5.胆沢公と大墓公

 延暦8年の胆沢の戦いから2年を過ぎ、斯波(しわ)(志波)村の夷胆沢公阿(あ)奴(ぬ)志(し)己(こ)らが陸奥国府に遣使し、帰順の意を明らかにしている(延暦11年1月)。アヌシコは「胆沢」の地名をウジ名としており、もともとは胆沢の地を本拠地にしていたのが、何らかの事情で一族とともに斯波(志波)村に移り住んでいたのであろう。
 この同時代に、広域地名である「胆沢」をウジ名にしていた胆沢公アヌシコと、「胆沢の賊首」とされ「大墓」をウジ名とするアテルイとは、どのような関係にあったのだろうか。
 この時代の胆沢の盟主は紛れもなくアテルイであったが、アヌシコは胆沢公であるにもかかわらず斯波(志波)に居た。好んで本拠地を離れるわけはなく、実質的に胆沢から追われたものと推測される。それでもアヌシコらは延暦8年の合戦時にはまだエミシ側に立っていたとみられ、「子波」(志波)は朝廷軍の最終的な攻略目標になっていた。合戦後、仲介者もなくアヌシコらがいち早く国府に擦り寄ったのであるが、その理由のひとつには胆沢を去る原因となったアテルイへの対抗意識が強くあったことが考えられる。アヌシコの名前が斯波(志波)のエミシを代表するかたちで出てくるのは、斯波(志波)のエミシがみずから積極的に動いたというより、実際には「客分」であるアヌシコに強く促せられた事情を反映したものと考えられるのである。しかし国府はアヌシコらを信用せず、そのすぐ後に帰順の意を示した爾(に)散南公阿波蘇(さなんのきみあわそ)、宇漢米公隠賀(うかめのきみおんが)らには入朝を認め爵位等を与えたが、アヌシコが爵位等を与えられることはなかった。
 延暦8年の胆沢の戦いが始まる十数年前(775~778年)には、志波村のエミシは出羽国に「叛逆」して激しい衝突を繰り返していた。アヌシコはこの頃にはすでに志波村に移っていて、ともに戦うなかで信頼を厚くし村に受け入れられていったのであろう。それだから「客分」であるにかかわらず陸奥国府との接触を主導できたのであり、逆に陸奥国府からは警戒され遠ざけられたのである。
アテルイの時代の胆沢の最大集落は北上川の西側(杉の堂・熊之堂遺跡群)にあった。胆沢地方の古代集落跡の数は七世紀代から増加、その拠点的集落はまず古代胆沢の北部に北上川支流の胆沢川を挟んで形成された。次には胆沢中部と東部に新たな集落の形成が見られるようになる。そして八世紀中葉には、胆沢中部の低位段丘と胆沢東部の北上川右岸低位段丘周辺部に拠点的大集落が形成され、九世紀代まで続く(伊藤博幸「水沢地方における7・8世紀蝦夷社会の動向」)。胆沢の中心地が胆沢川下流域から東南に移動し、北上川西岸に移ったのである。
 胆沢川下流の左岸には、拠点的集落に対応する終末期古墳(西根古墳群)が広く造営されており、律令国家との交流を示す和同開珎などが出土している。この胆沢に最初に形成された拠点的集落を治めていた族長こそが、史料には記録されていないが、胆沢地方で最初に君(きみ)(公)の姓(かばね)を賜与されたと考えられる。そのウジ名は胆沢川を挟む胆沢の地を本拠地とすることから「胆沢(いさわの)君(きみ)(公)」が妥当とされたと推測できるが、当時の「胆沢」の地名はまだ胆沢川扇状地北部の狭い地域を指す地名であった。
 その後、新たな勢力が北上川本流に接する地域に定着して力を増していった。北上川(日高見川)を代表する川湊であった「日上乃(ひかみの)湊(みなと)」を河川交通の拠点に東西交易と南北交易を統制、農業においても「水陸(すいりく)万(ばん)頃(けい)」と表現されたように水田と陸田が広く開田され、胆沢は大きな力と広がりをもってより高度な政治的社会を形成していった。この過程で新興勢力の首長が律令国家との関係を深め、「大墓公」の姓を与えられたのであった。
 アテルイの時代の胆沢は、すでに胆沢川を挟む限られた地域を指す地名ではなく、胆沢川扇状地と北上川の東をカバーする広域地名となっていた。ウジ名は本来ならば大胆沢の公とも呼ばれるべきであったが、衰退しながらも存続していた胆沢公との関係から、広域胆沢のランドマークたる「大墓」(角塚古墳)の大墓名(古墳の周辺地名としての「大墓」を含む)をその権威の継承を含めてウジ名にしたと考えられる。〔終わり〕