第29号(2000年3月31日) 12P

新野直吉(秋田県立博物館長)「延暦八年紀、二十一年紀の阿弖流為」

1.阿弖流為についての史料

みなさんご承知であると思いますけれども、実はこの阿弖流為という勇者に対する史料というものは、原文は漢文で書いてありますけど、ここに読み下し文にしてあるものしかありません。
初めのほうは「延暦八年紀」というふうに普通申しておりますけれど、この本は『続日本紀』という本であります。
次のほうは「延暦二十一年紀」と書いてありますが、この本は『日本後紀』という本であります。
このふたつの本の、このくだり以外に、現在伝わっています国史の史料には阿弖流為のことは出てまいりません。

本当は「延暦二十一年紀」のほうについても、原典である『日本後紀』にはもう少し詳しく出ていたのだろうと推察されます。
古代日本の国史に『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『文徳實録』、『日本三代実録』という本がありまして、それらをまとめて六国史というのでありますけども、『日本後紀』という本がもっとも散逸度が高くて、現在このへんの部分は本当に抄録としてしか残っていません。
その抄録というのは菅原道真が作った『類聚国史』という本で、それもまた散逸していて全部を見ることができませんけども、幸いにも今ここに拾い出したような部分については残っています。
また、六国史は膨大ですから全体を読むとなるとなかなか読みにくいので、今で言えばダイジェスト版として作ったものに『日本紀略』という本があります。
その中の一部分にこの阿弖流為に関することが引かれて残っている。
それで、原典の『日本後紀』にもこういうことが書いてあったのだなというのがわかるわけです。
いずれにしましても、いま私達が学問のうえで手にすることができる阿弖流為の史料は、日本文に読み下せばこれだけしかないわけです。

私は歴史学者として、この史料について読み取れる阿弖流為という人の姿、すなわち歴史上に実在した実像と考えられるようなことについて申し上げたいと思います。

2.延暦八年紀の阿弖流為

「六月甲戌(こうじゅつ)、征東将軍奏(そう)すらく「副将軍外従五位下(げじゅごいのげ)入間宿弥(すくね)広成、左中軍別将(べつしょう)従五位下池田朝臣(あそん)真枚(まひら)と前軍別将外従五位下安倍さ(さしま)(おみ)墨縄(すみなわ)等と()して、三軍(はかりごと)を同うし力を(あわ)せ河を渡りて賊を討たんとし、約期(やくき)(すで)(おわ)れり」

この人たちは都のほうから下されている蝦夷追討軍ですから、その立場からいって蝦夷たちが「賊」という位置付けになっているということは必然であります。
逆に蝦夷の側から言えば、この攻めて来る人たちは侵略者ということになります。
これは国で書いた国史であって蝦夷が書いた本ではないですから、そのことは充分にお分かりいただけると思います。
「三軍」というのは、前軍、中軍、後軍という三つの軍隊に分けていたからであります。
前軍であるもの、中軍であるもの、そういうものが力を併せて渡河戦を行なって、前後から「賊」を挟み撃ちにするというような作戦であった。
「河」は北上川です。
しかしその時期になりましたけども、連携がうまくいかなかったのかも知れませんが、「約期」、すなわち約束した時期が「すでに畢れり」ですから、終わってしまった、終わろうとしていた。

「是非に由りて中・後の軍各二千人を抽出し同じく共に(しの)ぎ渡る」

そういうわけでありますので、ここで中軍と後軍の各二千が河を凌いで渡った。

「賊の帥阿弖流為の居に至る(ころ)

この「賊」というのは、この土地に住んでいた人達ということであって「賊」でもなんでもない。
「帥」というのは、昔の言い方では「ひとのこのかみ」などと読ませていますけども、要するに統率者、指揮官、大将。
それで賊の「ひとのこのかみ」、賊の総帥である「夷阿弖流為」、「夷」というのは東の土地の住民であるという意味のことを言っている。
その「居に至る比」、「比」は「ころ」です。あるいは「ころあい」といってもよろしいです。

「賊徒三百許人(きょじん)有り迎逢(げいほう)して相戦ふ」

「許」は「ばかり」ですので、三百人ばかりが迎撃して戦った。「相戦ふ」ですから両軍が戦った。片っ方だけが戦って、片っ方が逃げたということではありません。

「官軍の勢い強く、賊衆引き()がる」

「官」というのは「おおやけ」という意味でありますので、おおやけの軍隊、その勢いが強くて「賊衆引き遁がる」、一応引いた。
これはあくまでも官軍の判断です。官軍は俺達の勢いが強かったので賊軍は逃げたと、こういう判断をしている。
しかしこれは経略である可能性も当然ある。現地軍の側から言えば、あまり争わないでこちらのほうに引き込めという作戦である可能性も当然ある。
しかし、残念ながら現地のほうで書いた史料は今日私達は見ることができませんので、どういうふうに阿弖流為たちが考えたかということは、歴史学的には証明することができません。

「官軍(かつ)戦い(かつ)焼きて巣伏(すぶせ)村に至り、(まさ)に前軍と(いきおい)を合せんとす」

「且つ戦い且つ焼きて」という漢文の語法は、戦いながら焼いていくというか、焼きながら戦って行くというか、一方では戦って一方では焼いていくということです。
そして巣伏村に来た。
「巣伏村」というところは、「すふし」というのですか、現在も地名が残っているということであります。
「勢」というのは、抽象的な勢いということではなくて、軍勢と考えたほうがよろしいでしょう。
前軍と中軍、後軍とに分かれていたはずですからね。
今までの話は中軍と後軍の軍隊から各々二千人づつ出して計四千人の兵隊で攻めたわけで、ここで約束どおり今度は前軍と軍勢を合わせようとした。

(しか)るに前軍は賊の為に(はば)まれ進み渡ることを得ず」

ここを見ると、経略らしいと僕が言っていることがお分かりになると思いますが、中軍と後軍とはやすやすと攻めて来れるようにしむけたけれども、前軍が来ることは防いだ。
したがって河の向こうで三軍が合体して阿弖流為たちの勢力をつぶそうとした作戦はここで失敗したわけです。
ですからこれから読み取ると、こういう作戦を阿弖流為は知っていたと考えることができます。

(ここ)に賊衆八百許人(きょにん)、更に来たりて(ふせ)ぎ戦ひ、其の力(はなは)だ強くて官軍(やや)退く」

まごまごしているところに、八百人ばかりが攻めてきた。今までの地元の兵力は三百人ばかりだった。
ところが八百人ばかりの勢力をどこかに隠しておいて、伏せておいてそれがここに出てきた。
「その力太だ強くて」、あるいは「強くして」、「し」を入れたほうが漢文的になりますね。
官軍がたじたじとして下がった。

「賊徒(はなは)()き、更に賊四百許人有りて、東山(とうざん)より出でて官軍の後を絶ちて、前後敵を受く」

すぐに直接に、一直線に衝いて出てきて、「更に賊四百許人有りて」ですから、今まで三百人と八百人ですから千百人ですか、それに四百人が出てきたわけですから総計千五百人ぐらいになりました。
「東山」は「ひがしやま」という固有名詞ではなくて東側の山ということでありましょう。
北上川に対して東側のほうにある山、ずっと下がっていけば束稲山のほうに連なっている丘陵地帯、大きくいえば北上山地の一部分ということになるのかも知れません。
東の山から出て来て官軍の後を絶った。
五万人ぐらいの軍隊を動員して、このなかから六千人の軍隊を使っているわけで、それを向かい撃ったのが千五百人の地元の軍隊。
この作戦はきわめて組織的にできていまして、これをあなどってわずかばかりいた敗残兵だなどと考えることはとてもできません。そして、「前後敵を受く」。
これは官軍の立場でいっています。前後両方に敵を受けた。
さっき官軍が強くて、賊が弱くて引き遁れたと彼等は理解していたけど、それが違っていたということがここで分かります。

「賊衆奮い撃ちて、官軍(しりぞ)()れて、別将丈部(はせつかべ)善理(よしまさ)進士(しんじ)高田道成、会津壮麻呂(おまろ)安宿戸(あすかべ)吉足(よしたる)、大伴五百継(いおつぐ)等並び戦死せり」

要するに、官軍が排除されて。
「別将」というのは別れた軍隊の指揮官というふうにもとれますが、たとえば将校の指揮官がいて、それに対して準士官とか上級下士官あたりの指揮官がいる、別将というのは特に決められた例えば大佐とか中佐とかいうような固定した階級を言っているわけではありません。
その別将丈部善理、あるいは音読みで「ぜんり」と読んでいる本をお持ちの人もいるかもしれません。
一応「よしまさ」とか、「よしまろ」とかと日本語では読めます。
丈部は氏、善理は名前、今日私どもが使っているような苗字とは別なものであります。まだ苗字は出てきません。
「進士」というのは一種の高等文官試験を受けて、それに合格をして役人の立場にあるもののことです。
会津壮麻呂というのはそういう肩書きがありませんので、会津地方の豪族の出身である上級下士官、曹長あたりか、あるいは軍曹かもしれないし准尉かもしれない。
それから安宿戸吉足も同じように、「あすかべ」は関東地方などにある地名ですのでそこの出身、ほかにもあるような地名ですから別のところかもしれません。
大伴五百継、これは大和の豪族の系譜を引く、直系であるかもしれないし、そうではなくて、もともとは大伴部の何々といわれていた大伴氏の家来の筋であった下級武官。
いずれにしても、この人達が実際に軍隊を動かして前線で戦う人々であります。
その上の征夷将軍とか、副将軍の入間広成とか、こんな連中はただ上のほうで号令をかけたり、命令を下していたりしているだけの人間で、実際の実戦をしているわけではありません。
こういう実働性をもっている前線指揮官が「並び戦死せり」。
これはみんな、地元の人々の武力の前に斬り殺されたことを意味しています。
あるいは弓で射られたかも知れません。

()べて賊の()るところ十四村、(たく)八百許(えん)を焼き(ほろ)ぼし、器械雑物(ざつぶつ)は別の如し」

「宅」は家、「烟」と「けむり」であらわしているのはひとつの煙がひとつのカマドから出ているという前提の計算の仕方で、ひとカマドというひとつの家。
だから今で言えば一戸とか、一軒とか言ったほうがはっきりします。
八百戸という家の数は大変な数です。
当時の制度では一郷は五十戸です。
郷のうえは郡で、郷が四つ以上の郡のことを下郡、八郷以上の郡は中郡といいます。
ですから、八百戸を五十戸で割っていけば十六郷になるので、四郷以上の下郡がふたつと、八郷以上の中郡がひとつというそれだけの規模になります。
飛騨の国は三郡十三郷の国ですから、焼かれた八百戸、十六郷だけでも飛騨の国より大きいわけです。
ところが、八百戸を焼かれたからといって阿弖流為がそのあとつぶれたわけではない、それからも戦っている。
焼かれた八百戸は彼の住んでいる領域の一部分です。
「器械雑物は別の如し」。
焼かれた家は八百戸ばかり、それと同時に失われたものは別表のようだというのだから、馬何匹とか、きっと細かくあったんでしょう。
けれどその史料は今日伝わっていません。
どのぐらい器械が壊されたのか、いろいろな農具もあったでしょうし、あるいは寝具とか、着物とか、食べ物とかいろいろなものがあったと思います。

「官軍の戦死は廿五人、矢に(あた)るもの二百四十五人、河に投じ溺死するもの一千三十六人。裸身にて(およ)ぎ来るもの一千二百五十七人」

戦死がたった二十五人では少ないじゃないかとお思いになるかもしれませんが、古代の戦争というのは今のように原爆を使って何十万人を殺したり、大砲を打ち合って沢山の人を殺すような戦争ではないので、二十五人という数は大変な、いわば激戦を表しています。
「矢に中るもの」、これはもう戦闘能力を失ったわけです。
「二百四十五人」というこの数は六千人の中ではたいした数ではないと今の私どもの認識では思うけれども、古代の戦争では本当に数十人ぐらいしか一戦闘あっても死傷しない。
ちょうど牛の角突きと同じで、少し衝かれて血が出て負けて逃げると、それ以上はあとは追わない。それだけのどかだったのでしょうね。
皆殺しにするなどという戦闘は、戦国時代になって鉄砲を使ったりするようになってから相当増えてきたんですけども、それでもいっぺんの戦争で何百人も、何千人も死ぬなんていうことはまず少ないです。
それから「河に投じ溺死するもの一千三十六人」。
ここが問題です。
どういう死に方をしたにせよ、戦争で死んだのですから。
これは古代史上の戦いでは大変な犠牲です。

「別将出雲諸上(もろがみ)、道嶋御楯(みたて)等余衆を引きて(かえ)り来れり」

「余衆」というのは敗残兵。
裸になって帰ってきたのですからもう戦うこともできない、武器も失っている、着物も持っていない。
あるいは傷ついていて戦意を失っている、烏合の衆ですね。
そうようなものを引きつれて帰ってきた。
征東将軍はこういう上奏文を政府に対して報告したわけです。

「是に於きて征東将軍に(ちょく)して曰く」

「勅」はいうまでもなく天皇の言葉で、この時代は桓武天皇です。
これに対して天皇の名において答えの命令が出た。  

比来(ひらい)の奏を省みて云へり」

あるいは「省みるに云へり」。
近頃よこした上奏文を省みて、おまえたちの奏を見て先に命令を出してあったはずだ。

「『胆沢之賊は()べて河東に集まる。先ず此の地を征し後に深く入るを謀れ』てへり」

そこでは、胆沢の賊はすべて北上川の東のほうにいる。
だからまずその地を征し、そこのところをまず叩いて、それからさらに川の上流、ここから入っていくなら稗貫郡とか紫波郡とかいうほうに行くのでしょう。
この段階にはまだなかったと思いますが、そちらのほうにあたります。
それから奥の方に入るようにしなさいというふうに言ってあった。と過去のことを言っています。

「然れば則ち軍監(ぐんけん)已上(いじょう)兵を率ゐては、其の形勢を張り、其の威容を厳にして、前後相続き、以て(せま)り伐つ可きなり」

この時代の制度は律令制ですので四等官、守、介、掾、目、という四等官の制度です。
「軍監」というのは将軍、副将軍につぐ三等官にあたります。
五万も動員しているわけですから軍監以上のもの、上級指揮官たちは兵を率いて攻めるときには威容を充分に整えて、形勢をちゃんと張って、「前後相続き」ですから、部隊は堂々と統制がとれて続いているかたちで、そして敵に迫って討つべきである。

(しか)るに軍は少なく将は卑しく、還つて敗績を致したり。是れ則ち其の道の副将等の計策の失する所也」

こういうふうにすべきであったのに、おまえたちが動員した軍隊はたった六千ではないか、しかもその六千の中で二千はうまく渡れないから実際戦ったのは四千しかいないわけですね。
四千だって大軍なのにとお思いになるでしょうが、政府のほうで考えれば五万の軍隊を持っているのになんで小出しにしたのだ、なんで威風堂々と二万や三万で行かなかったのだということを言っているわけです。
「将は卑しく」というのは、戦死した人たちをみればわかるように下級将校、上級の将校がだれもいない。
だからその指揮の仕方も低級であったということを高級官僚は言おうとしているのでしょう。
かえって「敗績」、負けて惨敗したではないか。これは即ち「その道の副将等」、副将軍とありませんので将軍ではありません。
そこに行った指揮官の副将、その人たちの計策の誤りだ、失策であると言ってここで譴責されたわけです。

「善理等が戦亡せる及び士衆の溺死せる者に至っては惻怛(そくたん)之情、(こころ)に切なるもの有り」

作戦の仕方が間違っていると天皇の名において叱られたわけですけれども、その下級指揮官たちが命を犠牲にして戦ったこと、それからその部下の兵隊たちが上官の作戦が悪いことによってたくさん溺死したというような無残な状態になったことについては、「惻怛之情」、かわいそうだ。
そういう気持ちが本当に朕の心中に切なるものがあるという哀悼の意を表したわけです。

これが延暦八年に、阿弖流為を中心にした現地軍に対して攻撃をかけてまんまと失敗した紀古佐美軍のほうからの報告と、それに対して政府が示した反応であります。

これからずっと延暦二十一年まで阿弖流為のことは出てまいりません。
この間、政府は延暦十三年に坂上田村麻呂を副将軍に投入して軍事行動を行っていますが、残念ながら細かい史料が残っていません。
坂上田村麻呂はその後征夷大将軍になって活躍することになります。

3.延暦二十一年紀の阿弖流為

「四月庚子、造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察(あぜち)使従三位坂上大宿弥(おおすくね)田村麻呂等言す」

「造陸奥国胆沢城使」の「使」というのは、この場合、使者とか使節という意味ではありません。
陸奥の国の胆沢城を造るために政府から特派された役人。
「陸奥出羽按察使」というのは、陸奥にも陸奥の守がいます、出羽にも出羽の守がいますが、その上の上級官僚、今ふうに言えば東北州知事にあたります。
「大宿弥」というのは、「宿弥」という姓をさらに権威あらしめるために、統べるかたちでだされているものであります。

「夷大墓公(おおつかのきみ)阿弖利為、盤具公母礼(いわとものきみもれ)等、種類五百余人を率ゐて降る」

「大墓公」、これを何と読むかはいろいろな読み方があるので、私も相当悩んでいるのですが、まさか「おおばかのきみ」とは読みたくない。
「たものきみ」と読むのではないかという説もあります。そうかもしれません。
私は大きな塚などを造っている、古墳などを持っている一族であるので「おおつかのきみ」というような姓をもらっていたのではないかと思っています。
次は母礼のほうですが、これも「いわぐのきみ」、いや、「ぐ」はおかしいから「いわとものきみ」、いやそれもくどいから「ばぐのきみ」とか、いろんなことは言っていますけど本当はなにも決め手はないのです。
仮名をふっているわけでもない。これは音表文字として使っているわけですので、なんと読むのが正しいか残念ながらはっきり断言申し上げられません。

ここで重要なことは母礼も阿弖流為も、ともに「公」という国が定めた蝦夷の豪族に与える姓を持っているということです。
彼が賊であるとか、それから罪人で捕虜であるとかという解釈をしている人がいますけれども、もしそういうような人であったなら、国が「何々の公」などという、蝦夷出身の豪族に認める公的な爵位を与えられているなんて考えられない。
坂上田村麻呂が将軍として、陸奥出羽按察使という最高の東北官僚として、しかも、この地方にいま新しく作っている城柵官衙である胆沢城を造る役人として正式に国家に報告している言い方なのですから。
間違いなくこの阿弖流為も母禮もここでは「公」という爵位を持っていた。その彼らが「種類」、自分達の一族。
「五百余人を率ゐて降る」と書いていますから、ここはやはり「降る」と書いてあるいじょうは、降伏したというほかないでしょう。
だけども、もしこれがまったくとるにたりない相手として、乱暴な賊だという位置付けを受けているのなら、姓がついた呼称では絶対政府に報告するはずはないと考えます。
だから延暦八年から延暦二十一年までの間にいろいろな東北政策が展開していって、現地で延暦八年においてあれだけの武力を発揮したこの人達に対して、政府はこの地方における彼らの統率権いうか、あるいはこの地方の正規な制度でいえば、国司の下にいるのは郡司で、郡司の下にいるのが里長なんですが、そういうようなものとは少し違う、なぜならここが夷地であるという位置付けを受けてますから普通の内国の郡や郷の制度とは少し違うけれども、この地方のまともな豪族としての立場を国が認めて、それに正規な蝦夷の族長としての姓を与えている状態でこれは記録されています。

これは四月の話。このへんではいろいろあったのでしょうけども、さっき言ったように今は伝わっていません。

「八月丁酉(ていゆう)、夷大墓公阿弖利為、盤具公母礼等を斬る」

これは主文であります。
この歴史の文書のその主文を言ったわけであります。
裁判でも「何々を死刑に処す」というような主文を先に言ってから理由を説明するのと同じです。

「此の二(りょ)は並びに奥地之賊首也。二虜を斬らんとする時、将軍等申して云はく「此の度は願に任せて返し入れ、其の賊類を招かん」と。而るに公卿執論して云はく「野生獣心、反覆(はんぷく)定まり()し。(いやしく)も、朝威に()って此の梟帥(きょうすい)を獲たるを、(ほしいまま)に申請に依って、奥地に(ゆる)し還すは、所謂虎を養ひて(わざわい)(のこ)すもの也」と」

将軍は田村麻呂です。
「野生獣心」は、野生獣心を持っている連中という表現で蝦夷のことを言っている。
「梟帥」は上の字も親玉、下の字も親玉、ようするに大将といってよろしいと思います。
公卿たちは、せっかく獲得したのを「奥地に放し還すは、所謂虎を養ひて患を遺すもの也」と、そういう屁理屈を言った。
これを書いた書記官も、「公卿執論して云う」と表現していますから、いろいろ文句をつけてこういうふうに言ったというのだと、この執論は正しい議論だというふうにはこれを書いた人間は思っていないわけです。

「即ち両虜(りょうりょ)を捉へて河内国植山に斬る」

あるいは「杜山」に斬る、「椙山」に斬るというふうに伝わっているのもあります。
みんな写本で伝わるので、木へんに何かを書く地名にはちがいないですが、「植」、「椙」、「杜」とかの漢字が伝わっています。

さて、最初で「賊の帥阿弖流為」と書かれてありますけども、普通の状態なら彼はなにも賊帥といわれる必要はない。
最初の延暦八年のときは紀古佐美が将軍ですけども、攻めて来なければ戦争はおこらないわけですから官軍も賊軍もないわけです。
攻めてきたために官軍と戦争した賊軍となり、賊帥という位置付けをされた。
実際の阿弖流為の実像とは何か、延暦八年の段階の彼の実像は、地方にひとつのはっきりした地盤をもった在地勢力の大将であるということになります。
兵農分離していませんから、戦争をしかけられたら軍人にもならなければならない。
そして、しかも戦ったらこんなに強かった。ということは大将の作戦だけはでなくて、そこで戦う兵隊も強くなければこれだけの官軍を破ることはできないわけですから、彼らもちゃんとした武力を持っていたということであります。

延暦二十一年紀には、「阿弖流為」ではなく「阿弖利為」と書いてあります。
『日本後記』の書き方では「流」ではなくて「利」と書いてある。
非常にむずかしいことを言う人は、字が違うから別人だろうという人がいる。
実際にはこれは蝦夷の言葉で言っている。
蝦夷は文字を使っていない、したがってあなたの名前はと言われて名刺を出すわけにはいかない。
字を書いてないですから口でこれはなんであると言う。
しかし、中央から下って来た従軍書記官がですね、「アテルイ」という言葉をアテルイ、アテリイ、なんだかぼそぼそと東北弁で言われたのを、「ル」と「リ」を明確に聞き分けられるかどうかは極めて疑問であります。
いや聞き分けられない。
だから『続日本紀』に出てくる延暦八年の段階の書記官は、「ル」にあたると聞こえたから、「流れる」という漢字を使って、「流」の音表文字にしたのですが、延暦二十一年の時の書記官は、「リ」に聞こえたので「利」という漢字を音表文字として使って、彼の固有名詞を表したという差だけであって同じ人であります。

さて、次に私が申し上げておきたいことは、「慮」というのはどういう意味かということです。
「虜」というのは捕虜の意味もありますけども、「虜」というのは中国の漢語の意味では野蛮人、「夷」というのと同じ意味でもあります。
それから、助命したというような解釈をしている人がありますけれども、これを見ると、将軍は「此の度は願に任せて返し入れ、其の賊類を招かん」と言っているだけであって、「助けてくれ」なんてとはここでは言っていない。だから始めから殺すというような予定がなかった。
帰りたいといっているのだから、願いにまかせて帰し入れましょう、そして、現地の人々の経営にあたらせましょう、現地の人たちが我々になびくように経営させましょうということを田村麻呂たちは言ったわけです。
ところが屁理屈を言った公卿たちがせっかく捕まえたのに、こんな大将を返してしまったら、戦争になったらまた大変だ、延暦八年の時みたいになるかもしれない、だったらいいチャンスだからここで斬ってしまえ、という話なのです。
だから初めてここで二人の夷を捉えた。
ここまでは彼等は拘束されていなかった。
あらためて捉えたわけですから、それまでは自由の身であった。
どうぞその点について、彼等が初めから捉まって罪人として京都に連れて行かれたのではないということを、この文章から認識していただきたいと思います。

律令の律の規定では斬罪という、刑法的な罪で斬られたということも捉えられたときには考えられますけども、もしも彼らが正規に罪人であった場合には、これも正規に律に規定がありまして、罪人を斬る場所は都の市でなければいけない。
都には東の市、西の市というふたつの市場があって、そのどちらかで罪人は斬罪しなければならないというのが法律の規定です。公開処刑するわけです。
ところがそういうことをしていない。
正規に罪人として都の市で斬るにあたらないというか、斬ることができない、だから河内の国という、都のある山城の国をはずれたところへ連れて行って斬った。
処刑したというように明確に言っている人がいますけど、ただ「斬った」と書いてあるだけで処刑したとは書いていません。

これだけのとぼしい史料で伝わっているところから読み取れる、彼らの最期はそうであります。
だからこそ爵位をつけたままの書き方をしていたのでしょうね。
罪人として連行されたわけではありませんでした。
自由な立場で将軍らに随行して行ったというか、共に行ったといいますか、そういうような状態であったというふうに読み取れます。