現在314件のアテルイ情報を掲載しております。

古代アテルイの時代を中心として関連する前後史をまとめた郷土(胆江地方)の歴史副読本。写真、イラストが多く使われていて親しみやすい。「奈良~アテルイの時代~」の項は、アテルイとその時代、胆沢の合戦【1】~【3】、アテルイ降伏、アテルイの斬刑をめぐる諸問題などの小項目がたてられていて詳しく、興味深い。水沢地方振興局の平成八年度地域活性化事業として刊行された。無料で配布しているので希望者は水沢地方振興局に申し込みのこと。残部僅少。

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『岩手の歴史と風土-岩手史学研究80号記念特集-』(熊谷印刷出版部、平成9年3月発行) 所収。新野直吉氏は秋田大学の名誉教授で、前学長。
〔初めに〕は、平成六年十一月に京都清水寺に建立された阿弖流為と母礼の顕彰碑に触れ、「顕彰された阿弖流為と母礼は、一二00年の歴史の彼方から華麗に復活した。」と書き出す。そして、近代になってからの阿弖流為に対する関心について、大槻文彦博士が『復軒雑纂』(明治35年刊)で延暦八年紀の阿弖流為に注目したこと、吉田東伍『大日本地名辞書』が胆沢郡安土呂井の項で阿弖流為に言及したことを紹介している。
 〔一、胆江の自己主張〕では、現代の顕彰運動に関わる時期に阿弖流為を史上に位置づけたのは高橋富雄博士であると断言、昭和38年刊『蝦夷』(吉川弘文館)で「阿弖流為」という項題を設定して、「五万の組織された軍隊と、こうも鮮やかに渡り合う軍隊は、烏合の衆ではありえない。それじしん、高度に組織された統一体でなければならない。胆沢における一0年をこえる抵抗の組織者、それこそ、ここにいう大墓公阿弖流為であった。彼は、...」と論じたのがそれであるとする。
〔二、阿弖流為を知って〕では、氏自身が阿弖流為を知ったのは昭和34年段階であったが、著述で阿弖流為に触れたのは昭和44年刊の『律令古代の東北』(北望社)と同年刊の『古代東北の開拓』(塙書房)が最初であったこと、しかし実際に解釈的に阿弖流為に言及したのは昭和49年刊の『古代東北の覇者』(中央公論社)という新書が初めてであったと振り返る。そこでは、「田村麻呂と二族長」という項目を出し、「和睦の形で帰順した大墓公阿弖流為・盤具公母礼の両族長」という位置づけとともに、その背景や二人の心情などについてまで踏み込んで述べた。そして初めて「おおつかのきみあてるい」「いわくのきみもれ」とルビを付した、とするが、原本のルビは「おおつかのきみ」ではなく、「たいものきみ」となっている。
〔三、阿弖流為を見つめて〕では、次第に阿弖流為に対する関心を深めた氏が、昭和53年刊の『古代東北史の人々』(吉川弘文館)で、「死に就く阿弖流為」という項をたてて阿弖流為が死に臨む「こころ」にまで言及するに至ったと書く。またこの書では二人の姓名の訓みについての考え方も述べた。ここで、大墓公を「あるいはタイボ(モ)ノキミとでもいうのかもしれないが、...オオツカノと読んで置く」としている。関連して、例えば大墓公を「たものきみ」「たのものきみ」「おおものきみ」と訓む可能性に触れては、「古代蝦夷語というものの言語学的座標が明確になっていない以上、色々の仮説が生まれる可能性がある。私見が、仮に言えば「許容範囲」とでもいうべきものを緩やかに取っているのも、それによるのである。只古代蝦夷語を安易にアイヌ語と通わせ「アイヌ語地名」の如く扱うことには許容性を認めていない」と、氏の考え方をより明確に打ち出している。
〔四、復活への道のりの中で〕では、「阿弖流為は降伏したのではなく、「平和的調印」の申し入れをしたとか、逆に田村麻呂が和睦を申し出たが、結局、阿弖流為等は、だまされて処刑されてしまうという、いわば郷土愛的な発言もある。史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」(高橋崇『坂上田村麻呂』)という批判があったことにふれながら、『古代東北史』(昭和63年)で「阿弖流為の心」という項を設け、「乏しいながらも存在する史料条文の解釈で田村麻呂と阿弖流為の双方の諒解点を論定しよう」としたこと。『古代東北の兵乱』(平成元年)においても、『類聚国史』延暦21年4月15日条に関してさらに踏み込み、「阿弖流為の立場の田村麻呂将軍に対する座標の評価が単に愛郷的情緒に偏る発言と決めつけられるのは妥当ではないことを強調した」と、その部分を掲げて述べている。そして、このような研究とは別のところでアテルイの顕彰運動が徐々に進んでいたことを、碑の『建立記念誌』や「アテルイを顕彰する会」の第二回総会資料などから拾って、その展開経過を紹介している。
〔終りに〕では、阿弖流為「アイヌ民族」説や「百済人」説などの異聞を一蹴。また、アテルイやモレは狭域の領袖と過小評価し、率いた「種類五百余人」は敗残兵で村落からはじきだされた人々だ、などとするひどい論文が発表されていることも明らかにし、厳しく批判している。
 【本論文により、アテルイに関する研究の現段階における一定のまとめがはかられたとともに、今後のいっそうの研究に向けた諸課題も与えられたように思う。また、清水寺への碑建立に至るアテルイ顕彰運動の過程も紹介していただいた。「アテルイ通信」第20号の区切りにふさわしい内容を、<アテルイ情報>に取り上げることができた。新野先生に感謝。】

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河北新報社の企画による、同社会長一力一夫氏と作家高橋克彦氏の対談。平成9年4月18日付紙面に、大きく掲載された。一力氏はアテルイについて、「東北人の歴史の中で、具体的なイメージを持って登場した初めての人物」、「阿弖流為の精神というのは、西に対するこちらの主張です。だから脈々と生き続けさせなければいけない」と語る。対談の最後には「できれば水沢市に阿弖流為の銅像なんかも欲しいですね、せめて阿弖流為が藤原秀衡くらいに多くの人に知られてほしいと思いますね」(一力)。「阿弖流為は、僕らの中に取り戻していかなくてはいけない心だと思う。何かに立ち向かっていくという、僕らが失った心を彼らは持っていたんだなと思います」(高橋)と語っている。

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一昨年、清水寺に建立された〈阿弖流為母禮之碑〉を記念しての出版(平成8年12月)。編著者である北天会会長の高橋敏男氏は碑建立の主体となった関西胆江同郷会の会長。『続日本紀』など、六国史に記された東北に関わりのある部分を現代文にして年代順に抜き出し、注釈と解説を加えた内容。本を販売した利益金は碑の供養、保存、宣伝などの会の運営費に充当される。北天会(℡ 06-831-8110)千二百円。

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原作は北上市在住の会社員及川強志さん(34歳)。作画は花巻市在住のアマチュア漫画家星勇希さん。A5版187ページで、第一章「胆沢の勇者」、第二章「反逆者、呰麻呂」、第三章「展勝地の戦い」からなる創作。アテルイの幼少期から日高見の蝦夷の族長になるまでを描いている。 平成9年1月には、及川さんの所属する北上市の歴史同好会「東夷講」主催による発表展示会が、水沢市と盛岡市で開かれた。及川さんは、続編として「巣伏の戦い」、さらにアテルイが処刑されるまでの三作を考えているという。泉出版(℡ 0197-25-3478)、千円。

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『河北新報』創刊百年を記念したアテルイを主人公とする大河歴史小説で、本年(平成9年)の元日より朝刊に連載されている。作者の言葉「東北に生まれた最大の英雄アテルイをどのように描くか。「炎立つ」を書きながら私は、いつかは手掛けなければいけない人物として常に意識していた。坂上田村麻呂と堂々と対峙したアテルイこそ東北人にとってのすべての源である。ようやくその時期を迎えて緊張している。この一年、私はまたアテルイを通じて東北と向き合うこととなる。美しい魂をこの物語の中に完成させたい」(平成8年12月20日『河北新報』より)。蝦夷(えみし)の耀(かがや)く星、北の耀星(ようせい)、アテルイ。

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平成8年2月8日にNHKテレビで放送された「ライバル日本史」〈平安王朝、東北大戦争~桓武天皇とアテルイ~〉が、角川書店から文庫版の『ライバル日本史』第5巻「挑戦」に収められて発売された。その中で、番組のゲストであった高橋克彦氏は次のようにアテルイについて語っている。アテルイとはどのような人物だったのだろうか「...相当長い期間蝦夷を率いて戦っていますから、若い頃から頭角を表していたのではないかと思います。朝廷軍との戦いで、被害を最小限にくいとめながら軍を追いやったことを考えますと、蝦夷はある程度の軍事力をもっていた国家だったのではないかと想像できます。ですから、その代表であるアテルイは、小さな地域の首長というより、蝦夷を統一した英雄だったのではないでしょうか。彼はただの武将ではなく、平和なときにも政の中心にいて人を指導していて、力が強いだけでなく、人間的にも慕われていたのではないかと思います。...蝦夷と朝廷軍の戦いの記録を見ていますと、...力で戦うというより頭脳プレーです。これは僕の勝手なイメージなんですけれども、アテルイは非常に知性的な人間だったのではないかと思います。」
高橋克彦氏は最後にこう結んでいる。「明治維新以降、東北も中央集権のなかにたぶん入ってしまったのだと思いますが、少なくとも東北が独自性をもって中央に伍していた、その礎をつくったのはアテルイであったし、そのきっかけは桓武天皇との戦いから生まれたような気がします。」

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「あてるい」で出ていた。全文を紹介する。「阿弖流為 ?-802 (延暦21) 阿弖利為とも書き、大墓公たものきみともいう。奈良後半期 -平安初期の蝦夷えみしの首長。789(延暦8) 胆沢いさわに侵攻した征夷軍を破る。802 配下を率いて盤具公母礼ばんぐのきみもれとともに坂上さかのうえ田村麻呂に降伏したが、河内で斬られた。」

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『別冊歴史読本』第76号(1996年11月発行)所収。「阿弖流為の反乱」に言及しているので紹介する。武光氏(明治学院大学助教授)は、「人びとが狩猟で生活して毛皮を着てくらすより、農耕に従事して布を着る道を選ぶのは、自然の流れだ」という認識をもとに、次のように書いている。
「阿弖流為が農耕をうけ入れなかったわけではない。かれは、土着の豪族の自立性の重視を求め、朝廷が送った地方官の横暴を非難したのである。阿弖流為の軍勢は強く、何度も朝廷の大軍を破った。そこで、東北遠征を命じられた坂上田村麻呂は、農業経営に力を入れ人心をつかむことに力を入れた。生産に従事しない阿弖流為の軍勢はしだいに民衆から孤立していくことになる。そのため、阿弖流為は兵糧不足で降伏した」。はたしてそうだろうか。

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古代国家と「エミス」との戦いをアテルイを主人公として描いた歴史小説。古代陸奥をめぐる道嶋一族と坂上一族の主導権争いが一方の軸として展開されている。生臭い謀略が渦巻き、それが逆にリアルでもある。そのひとつは、宝亀11年の「呰麻呂の乱」。牡鹿郡大領・道嶋大楯が陸奥介・大伴真綱と謀って按察使・紀広純を殺し、呰麻呂の反逆に見せ掛けることを企てたが失敗するのである。また、アテルイとの最後の戦いでは功名を争う道嶋御楯を夜襲の混乱に紛れて殺してしまう。田村麻呂は非情で残酷な人間として描かれている。「男であれ女であれ、老人であれ小児であれ、出遭った蝦夷は必ず殺せ」と命令し、アテルイについても、「彼奴らは、皇軍の下卒にも劣る辺境の蛮人に過ぎぬよ」と吐き捨てる。田村麻呂ファンにとっては読むに耐えられないかもしれない。

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『河北新報』創刊百周年記念企画。東北のこれまでの歴史を振り返り、「もし、その時、河北新報が存在したら...」という仮定に立って、特別編集された。
最初の紙面には、「阿弖流為朝廷軍撃破!」の大見出しがあり、阿弖流為の兵に挟撃され逃げまどう朝廷軍の絵が写真のように大きく載っている。「朝廷軍を迎撃、ゲリラ戦」「奥地に誘い込み伏兵配して挟撃」の記事。囲みには「教養に富み、体躯堂々」の見出しと写真入りで阿弖流為の人物紹介がある。そして、中央政府の侵略とエミシの抵抗という「これまでの経緯」が解説されている。
次の紙面には、「朝廷、再侵攻を下命」「勇将田村麻呂を起用、軍備立て直しを指示」の記事。「街録・胆沢侵攻に思う」では、"民の心は奪えぬ"という胆沢の阿弖流為の一兵、"二つの国を認めよ"という胆沢の村の女、他に秋田のエミシ、朝廷の一高官などの声を拾っている。論説「探れ、和平への道」では、「政府はこの無益な戦いを即刻停止し、速やかに東北から撤退すべきだ。」と主張する。平成8年11月14日付け『河北新報』の16面と17面に特集されている。

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『歴史と旅』臨時増刊(平成8年11月発行)の〈日本史ライバル総覧〉に4ページにわたって掲載されている。同誌の巻頭グラビア<ライバル激突!雌雄決す瞬間>にも、清水寺建立のアテルイ・モレの碑など6枚の写真と小文で2ページがさかれている。井上氏は作家。氏によるとアテルイは「俘囚(従属した蝦夷)」で、「栗原の俘囚長伊治公呰麻呂のような、屈辱の人生をたどり、反旗をひるがえしたはずだ」というのだが、いかがなものか。

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平成8年9月15日、水沢市の跡呂井町内会主催による「アテルイ歴史の里祭り」が開催され、<アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋行列>が地区内の約5㌔の道のりを堂々と練り歩いた。この祭りは平成三年、五年と開かれており、今回で三回目となる。この日は、「アテルイを偲ぶ日」祭日宣言、<阿弖流為王記念碑>拝礼、アテルイ音頭奉納なども行われた。

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《エミシの慰霊祭~ほくとう銀河・多賀城の集い~》は、平成8年8月10日午後6時から多賀城政庁跡で開催された。主催はエミシの慰霊祭多賀城実行委員会。共催として、江刺市のアテルイ・モレ等エミシを慰霊する会、多賀城市のファンタジア多賀城パート2、縄文人会議、仙台市の東北縄文文化研究会。当会も名前を連ねた。アラハバキ(荒脛巾)神社への関係者参拝の後に慰霊祭を開催、実行委員長挨拶、追悼の辞、開祭の詩朗読、献灯・献花・献杯、と続き、レクイエムとして 【1】 市民ミュージカル『炎の迷宮~アザマロの乱~』より「エミシの歌」、【2】 熊谷真弓さんの縄文土笛演奏、【3】 飯豊鬼剣舞が捧げられた。『炎の迷宮~アザマロの乱~』は、多賀城市市政施行25周年を記念して昨年11月23日、24日の両日に上演された市民手づくりのミュージカル。宝亀11年(780)、伊治城で按察使・紀朝臣広純を殺害し多賀城を焼き討ちした伊治公呰麻呂の反乱を題材としている。
《アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭》は、8月15日午後6時から江刺市体育文化会館で開催された。主催はアテルイ・モレ等エミシを慰霊する会を主体とする同実行委員会。当会も名前を連ねた。江刺市における慰霊祭は昨年に続き二回目。富沢会長の挨拶、江刺市長による追悼の辞、開祭の詩朗読、献灯・献杯、僧侶の読経のあと、約30人の参加者が焼香、最後に鹿踊りを奉納した。

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全国知事会発行『都道府県展望』453号(平成8年6月発行)の「列島縦横」に2ページにわたりアテルイの顕彰活動が紹介された。埋もれた歴史を発掘、再評価する動きが各地に芽生えている。それは単なる歴史の再発見にとどまらず、人々の心を揺り動かして新らしいタイプの地域づくりへと発展する可能性を秘めている。その典型的事例が岩手県の胆江地区で盛り上がっている「アテルイ(阿弖流為)の事績掘り起こしと再評価の運動」であるとの評価である。「アテルイを顕彰する会」の発足、清水寺境内への顕彰碑建立、巣伏の戦勝(延暦八年)にちなんで名付けた「延暦八年の会」によるアテルイ関係イベント等の開催、水沢市内のアテルイのシンボル像を据えた公園、アテルイ歴史公園(仮称)の整備計画と市民有志による物見やぐらを備えた砦の再現等が具体的運動としてとりあげられている。

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『岩手考古学』第8号(1996年3月発行)所収。「八世紀の胆沢の蝦夷」をアイヌ人と考え、アテルイをアイヌ語で解釈する研究者もいる現状から、「古代胆沢の蝦夷はアイヌ人なのか」ということについて論述する。まず、岩手県南地域の先住民は約八万年前にさかのぼることができるが、北海道の旧石器時代は二万一千年前以降であることから、「岩手の蝦夷の先住民を北方系のアイヌ人とするのは認めがたい」とする。次に、岩手県にナイなどのアイヌ祖語からと思われる地名がもたらされるのは一万三千年前の細石刃文化の南下の頃からであるが、以後、二言語(日本祖語とアイヌ祖語)併用時代が続き、岩手県南地域は縄文前期頃、県北以北においても縄文後期か晩期頃から次第に分離が進んでいったことが言語学者の研究と文化圏との関わりを検討するなかで推論できるとし、胆沢地方ではその後の弥生文化の波及、石包丁や水田の発見、五世紀末と推定される角塚古墳の築造などにみられるように、東北南半地域文化圏への組み入れが強いとする。そして、北海道系土器については多量に出土する土師器にくらべごく小量で、交易によるものと考えられ、地名や文化に影響を与えるほどのものではないこと、またアイヌ語で解釈している地名の中には日本祖語で解釈できるものもあり、歴史的背景などの十分な研究抜きの安易な地名解釈には疑問があるとする。以上などから、古代胆沢の蝦夷をアイヌの子孫と考える根拠はない、と結論している。

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 『通信』前号掲載◆情報39で、来年度の中学の新教科書にアテルイが登場することを紹介しましたが、現在使用中の中学の教科書にもすでにとりあげられていたことが確認されました。教育出版㈱発行の笹山晴生ほか監修『新版 中学社会 歴史』(平成4年2月29日文部省検定済)です。
「伊治呰麻呂の乱と豪族阿弖流為の抵抗」というタイトルがついた〈地域から歴史を考える〉という1ぺージの囲みの中で、789年に政府軍が蝦夷の豪族阿弖流為の本拠地を攻撃した様子を『続日本紀』の一部を要約して紹介しています。同社の来年度からの新教科書では、その前後に詳しい叙述が加わり、アテルイがより歴史的に取り上げられています。

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 岩手県社民党代表の沢藤礼次郎衆院議員は、東北地方独自の政策集団「みちのく社会党」の結成を呼びかけるという。その「宣言」(草案)の三つの柱のひとつは、「【3】県民と共に地方自治の立場に立ち、『われわれは坂上田村麻呂の末えいではなくアテルイ精神の承継者であることを誇りとする』というもの。」
【平成8年7月1日付『読売新聞』岩手県版】

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来年度から中学校で使われる歴史の教科書の最新版七冊のうち、三冊でアテルイを取り上げているという。平成8年7月1日付の読売新聞朝刊で知る。「ある教科書はアテルイについて欄外で『かつては朝廷に背いた悪人とされていたが、近年、地元民の利益を守ろうとした英雄として見直されるようになった』と記述。坂上田村麻呂が朝廷にアテルイの命ごいをしたと書いた本もある。」と紹介している。ようやくという感もあるが、アテルイの顕彰において画期的なことである。

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 筆者は水沢市埋蔵文化財調査センター所長。センター内に展示されている田村麻呂の肖像と悪路王の頭首像との無言の対話から、「処刑」されたことの二人の『よみ間違い』に思いを綴る。筆者には、田村麻呂の阿弖流為に対する「謝罪と嘆きの悲痛な声」「悔悟の叫び」が聞こえ、怒りと無念さを露わにした阿弖流為は「当時の蝦夷が受けた虐待、惨状など」を語りかけてくるという。【『岩手経済研究』1996年5月号】

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 宮城の団十郎を自称する歌手の吉川さんが作詞作曲し、歌いこんだエミシをテーマにしたアルバム。全7曲で、「北天無情」はアテルイに捧げる唄。歌詞の一部(2番)を紹介する。
 /北のまほろば/飛ぶは白鳥/祈れ祈れ/アテルイ祈れ/敵か味方か/田村麻呂/山に聞け河に聞け/天照る天下の行方。1枚1500円。申込は吉川さん方、電話0224(83)5030

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 アテルイと共に降伏し、斬首された「盤具公母礼」。その母礼の根拠地について、延暦八年の戦いと現地の地勢および伝承などから検討を行い、現在の胆沢町の大歩・小歩一帯をそうだとする新説を提唱する。
延暦八年における征夷軍は前中後の三軍編成であったが、その中で「左中軍」というのは中軍が進行方向に向かって左(西)方面に展開していたと解すべきで、それはその方面(大歩・小歩)に農業生産を主体とした蝦夷の大きな拠点があったからである。大歩・小歩は今はオオアゴ・コアゴといわれるが、これはオオアグ・コアグであったと思われ、この一帯は「アグ」と一つで呼ばれ、これが「イサワのアグ(胆沢の歩)」「イのアグ」となり「イアグ」「イハ(ワ)グ」に転訛して公の賜姓を付ける時、「盤具公」と表記された。という考察である。
高橋富雄氏の母体一体説について、「河東への渡河軍がまさに侵攻した通過点に母礼の勢力圏が存在したことになり、その時点で、少なくとも阿弖流為と共に、母礼の名前が出てきてもよさそうであるが、全く無いというのは納得し難いものがある」との指摘は頷ける。【『歴史研究』418号(新人物往来社1996年3月)】

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「陸奥国から平城京に黄金を運ぶ護送役となった若き蝦夷・丸子嶋足は兵衛府の官人として都に留まり、異例の出世を遂げる。やがて、彼は奈良朝を震撼させた政変・橘奈良麻呂の乱の渦中に自らの身を投じたのであった...。『炎立つ』の時代を遡ること三百年、迫り来る奥州動乱の兆しのなかで躍動する若き蝦夷たちの志を描く」歴史小説。丸子嶋足は牡鹿郡の出身で、のちの道嶋嶋足。伊治鮮麻呂(これはるのあざまろ)も重要人物として登場し、嶋足との交友を深めている。これにいずれ阿弖流為も登場してくるのであろう。【PHP研究所刊、1600円 】〔初出誌『小説歴史街道』1994年11月号~1995年10月号〕

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アテルイの名は『続日本紀』で「阿弖流為」、『日本紀略』等では「阿弖利為」と表記され、「流」と「利」が別字である。新野氏はまずこの問題について「夷語というものの聴き取りと漢字を音標文字として表記することについて、国史の史料になった記録や文書を作成した吏僚によってある種の幅のあったことは、...類例のあるところである」との自身の見解を示しながら、「しかしこれも一解で、...大墓や盤具の訓みとともに別見もあり得よう」と最初に述べる。阿弖流為研究の進展を意識されてのことであろう。
【1】、アテルイたちの生活基盤は農業にあった、それも相当の熟度に達していたと考える。【2】、一千五百の蝦夷軍が六千の征討軍を狭い北上川東岸に誘い込んで大敗させただけだとの説もあるが、それでは過小評価になる。彼の兵力基盤はそう狭少ではあるまい。【3】、アテルイとモレが「面縛待命」の状態にあったと説く学者もいるが、史料にはそこまでは書いていない。だから将軍は和睦扱いをしていたと見ることも不当ではない。一部の論の如く京進なら「降」と記される俘は在京使役か改めての移配かであろう。など、最近の研究を検討したうえでの見解も述べられている。
また、胆江地方の「アテルイの里」宣言、関西胆江同郷会による阿弖流為と母禮の碑建立、「アテルイを顕彰する会」の存在と「アテルイ通信」なども紹介している。【『歴史読本』1996年4月号】

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100人の中に、坂上田村麻呂とアテルイが入っている。田村麻呂については、左方郁子氏が執筆、アテルイとの戦いを中心に記述している(4ページ)。その中で、モレを公母礼(きみもれ)としているのは明らかな誤りであろう。アテルイについては、荒川法勝氏が「蝦夷の大酋長アテルイ」の題で執筆(2ページ)。荒川氏によると、アテルイは「蝦夷(えぞ)の日下将軍」であり、「北上川の中流域に、広大な独立国を結ぶ王であったと思う」というのである。

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三、大墓公阿弖流為では、〈阿弖流為研究〉のポイントともいうべき内容が各項目に整理されて述べられている。当会会報『アテルイ通信』に掲載した及川洵氏、伊藤博幸氏の研究についてもかなりの部分でふれている。例えば大墓公の姓について、及川氏は阿弖流為が帰降した後に賜姓されたと考えるのに対し、「私は彼が延暦八年以前にすでに国家に帰服して賜姓されていたが、賊となったので姓を剥奪され、さらに降伏したので本姓に戻されたと考える」とか、阿弖流為らの入京は裁判のためではなく、「戦果としての俘虜の京進として行なわれたと考えられる」など、今泉氏の見解が積極的に述べられている。
阿弖流為と母礼の姓についての訓は、「両人は夷であるからウジ名は夷語による地名で、また名も夷語によるものであろう。これらの表記は夷語の音を畿内の官人が漢字表記したものである。ウジ名は夷語であるからオオハカとかオオツカのように和語として意味を持つ訓読はさけた方がよく、万葉仮名としてまたは音読して大墓はタモ、盤具はバングと訓ずる」としている。 処刑地については、杜山・植山・椙山という文字の異同があるが、神英雄氏の「椙山」説を検討し、「杜山が誤りであることを認め」つつ、「一概に植山が誤りで椙山が正しいとはいえない」と、「今のところ」と断って両説を併記している。他。〈阿弖流為研究〉の必読論文である。【『日本古代国家の展開(上)』所収

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毎週一面に梅原猛氏(哲学者)の『地霊鎮魂 京都もののかたり』が掲載されている。その第65回「坂上田村麻呂と清水寺縁起」のなかで、わずかではあるがアテルイのことにもふれた文がある。
「...東征に赴く田村麻呂がここで延鎮と出会い、寺を建て仏を造り、戦勝を祈り、そして無事帰還すると、朝廷より先に清水寺に詣り、観音さまにお礼を言ったという話はよく解る。武将には信仰が必要である。信仰なくして人は勇猛果敢に戦うことが出来ない。田村麻呂は、蝦夷の族長・大墓公阿弖流為と食うか食われるかの激しい戦をした。現在、清水寺には阿弖流為の慰霊塔が建てられている。それは、長い間賊将とされて来た阿弖流為を見直そうとする歴史の動きに沿ったものであろうが、床しいことである。」

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水沢市埋蔵文化財調査センター主催の古代史講座「アテルイの時代を考える」は、4回にわたって開かれる。日程と内容は次の通り。平成7年11月26日「終末期古墳とエミシ - アテルイ前史」(高橋千晶学芸員)、12月17日 「古代エミシの社会」(佐々木千鶴子学芸調査員)、1月21日 「アテルイと東北大戦争」(池田明朗専門学芸員)、2月18日 「アテルイをめぐる2、3の謎」(伊藤博幸センター副所長)

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平成7年 11月11日(土)午前10時から碑の前で法要、11時から寺務所内洗心洞で清水寺森貫主の法話、12時から懇親会が行われた。碑を建立した関西胆江同郷会が清水寺などと協議し、除幕式が行われた11月6日の週の土曜日に毎年供養することにしたもの。約80人が参加した。

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平成7年8月1日、水沢市の進友会(佐々木勲会長)は還暦を迎えることを記念し、アテルイを顕彰する碑の建立などを内容とする寄贈目録を水沢市長に手渡した。碑は自然石で高さ、幅とも2㍍ほど、「巣伏の戦いの跡」の碑文を刻む。このほか碑の周辺には樹木を植え、小庭園を整備する。水沢市では、設置場所や時期を検討し、進友会の善意に応えるとしている。

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〔古代〕四、蝦夷社会論の中で、阿弖流為研究の現状をとりあげている。著者は水沢市埋蔵文化財調査センター副所長の伊藤博幸氏(当会幹事)。以下紹介する。
「蝦夷戦士首長の象徴が阿弖流(利)為である。従来の阿弖流為研究はひとえに対国家関係でのみ論じられてきた。そこには蝦夷の中の阿弖流為らの位置付けを見出すことができない。本格的阿弖流為研究は及川洵「アテルイをめぐる二、三の問題」(『岩手考古学』四、1992年)に始まるといえよう。及川は令制に基づかない阿弖流為らの処遇に関して考察を加えている。公姓の非剥奪(付与?)、市外での処刑、あるいは彼らの入京は事実かなど確かに検討すべきことが多い。高橋富雄「大墓公阿弖流為と盤具公母禮」(平安博物館研究部編 『角田文衛博士古希記念古代学叢論』同館、1983)は地名や表音文字の検討から原典復原を行い彼らの本拠地問題に及ぶが、神英雄「蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察」(日野博士還暦記念会編 『歴史と伝承』永田文昌堂、1988)の諸写本検討による批判もあり、『紀略』『逸史』誤記説は成立し難い。また神は阿弖流為斬殺地が河内国〈杜〉でなく〈椙〉が正しいことを指摘した。」

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宝亀五(774)年、ウクハウの決起により東北三十年戦争(アテルイの降伏まで)の幕が切っておとされた。アザマロもついに決起し、奥羽三関の逆封鎖を狙うが戦死する。アテルイは朝廷軍を二度にわたり撃破。坂上田村麻呂を征夷大将軍とする第三次の征討軍に備え、衣川に沿った三ヶ所に強固な関を築造、その間を長大な柵で結んだ。...アザマロの苦悩と戦い、朝廷軍を迎え撃つアテルイの戦い等を描く興味あふれる歴史小説。筑波書房刊(1995年6月)。 

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アテルイから安倍一族の宗任に至る歴史を現地取材を交えて探訪、エッセー風にまとめている。前半部の「奥州北上川決戦のあと」が、アテルイの時代をとりあげている。『東日流外三郡誌』への関心、アイヌ語による地名解釈などが盛り込まれ、枚方市交野公園の「首塚」についても取材している。著者は岩手県江刺市の出身で福岡市在住。岩手出版刊(1994年12月)。

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北海道平取町などに住むアイヌ民族の一行が、アテルイの供養と交流を目的に岩手県の松尾村と水沢市を訪れた。一行はアイヌ語学校長の山道康子さんを団長とする28人。山道さんはアイヌ文化の伝承者として知られる。平成7年4月29日に松尾村でカムイノミ(神への祈り)とチャルパノミ(先祖供養)などを行い、翌日の30日には水沢市の羽黒山・出羽神社で開催された「アテルイを偲ぶ観桜会」に参加した。出羽神社では、幹事の熊谷達雄氏他有志約30人が出迎えて、交流。境内の神楽殿で、アイヌの少女たちによる紙芝居や民族に伝わる歌と踊りなどが披露された。最後に、参加者も交えてアテルイを供養する神事が行なわれた。山道さんは、来年も訪れたいという。

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京都・清水寺境内に顕彰碑が建立されたのを記念して関西胆江同郷会(高橋敏男会長)が発刊、建立基金寄付者などに配られた。記念誌(B5判 71ぺージ)は、関係者の寄稿や祝文をはじめ、建立までの経過などが詳細にまとめられている。この記念誌は胆江日日新聞社にも届けられており、希望者には無料頒布するとのことである。

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平成7年2月5日、延暦八年の会(佐藤秀昭会長)と水沢地方振興局が主催し、当会も後援して開催された。水沢市立図書館内にコーナーが設置される「アテルイ・ライブラリー(202冊)」の贈呈式のあと、新野直吉秋田大学長が『阿弖流為と田村麻呂』と題して講演。アテルイをとりあげた自身の多くの著作から、アテルイの評価をより明確にしてきた過程を中心に話した。 なお、延暦八年の会は、『アテルイとエミシ関係文献目録』(文献数、1675)を作成したほか、地元におけるアテルイの復権と顕彰の記録(1982~1995.2)でもある『アテルイ・エミシ関連新聞記事集』12、また、『アテルイ・エミシ関係雑誌論集』12も編集作成した。『文献目録』については、一冊千円で頒布している。

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当会の会員でもある及川洵氏が『胆江日日新聞』に寄稿し、平成6年12月29日付の同紙に掲載された。及川氏は、「アテルイをアイヌ人の祖先であるとすれば、蝦夷=アイヌ人...になるが、...アテルイを研究し、遺跡を調査研究している者として疑問を感じざるをえない」とし、【1】アイヌ語地名の「ナイ」、「ベツ」の分布は、「盛岡以北に多く、胆沢地域はまばらである」こと、【2】北海道の後北式土器についても「水沢市内では石田遺跡から二片発見されているのみで、同時期の土師器の多量な出土にくらべ問題にならない」こと、【3】「縄文前期~中期(六千~四千年前)岩手県北から北海道渡島半島にかけて同筒下層、上層式土器群が展開したが、胆沢地域は大木式土器群が展開し、全く異なる文化圏を形成している」こと、などから、「後期旧石器時代(三万年前)以降、縄文早期の一時期を除き、他の縄文時代、弥生時代、古代に至るまで、北海道文化圏と胆沢文化圏が同一になったことはない」と、断じている。古代蝦夷(エミシ)がアイヌ民族であるか、どうかは、これまで多くの学者が研究し、論争を行なってきたものである。及川氏は、「思いつきやムードではなく、純粋に学問的に考えて頂きたい」と結んでいる。

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通信前号〈情報17〉で紹介した澤井アクさんの「アテルイの慰霊祭を岩手で」という呼び掛けに応え、盛岡市の会社社長熊谷達雄氏を代表世話人とする「語る会」が平成6年12月21日に北上市において開催された。10人余の参加があり、澤井アクさんが講話、慰霊祭については「アイヌの古式にのっとった方法で行うことで一致した」という。〔12月24日付『河北新報』記事より〕

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副題が古代東北と蝦夷。アイヌ語による地名説明などが全体にわたって展開されている。著者は大正十三造の筆名で『岩手の古地名物語』などを発表、そこで延暦八年における胆沢の戦いや、アテルイについて詳述した。また1977年から78年にかけて『岩手日報』に397回連載した「翔けろ蒼鷹」は、アテルイを主人公とする長編小説で、最も早い時期にアテルイを取り上げた作品として記憶に残る。『江釣子古墳群の謎』は三一書房発行。

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 北海道ウタリ協会理事の沢井アクさんが中心になって準備を進め、協力を呼び掛けている。慰霊祭ではアテルイの盟友モレ(母礼)、二戸周辺を拠点としたイカコ(伊加古)も弔う考えという。沢井さんによると、アイヌ語でアテルイは「光輝く人」、アクルイは「弓の名人」を意味するという。〔平成6年11月7日付『岩手日報』記事より〕

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古代東北の歴史をわかりやすくまとめた一冊。「えみしとは誰れのことか」「俘囚の怒り爆発」「アテルイの必策」「坂上田村麻呂が登場」「平地の城胆沢城」など十五項目に分け、記述されている。及川氏は岩手県文化財愛護協会理事長。水沢市埋蔵文化財調査センター監修、A4判、50ページ。

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平成6年10月8日から10日まで、蝦夷学会準備室(事務局・盛岡市)の主催により遠野市で開催された。一日目には郷土教育全国協議会会長柴田弘武氏の「近年の蝦夷論について考える」と題する基調報告、二日目には「えみしと鉄文化」などについて発表がなされた。〔10月4日付『岩手日報』夕刊記事より〕

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平成6年10月2日と3日の『胆江日日新聞』に発表。アテルイは『続日本紀』では「賊帥夷阿弖流為」として、『類聚国史』『日本紀略』には「夷大墓公阿弖利為」として登場する。氏は、「大墓公」をタモノキミなどと読んでいる説ついて根拠がないとし、「和名抄によれば、関東に荒墓郷があり、アラハカゴウと訓じているので、これと同じように、大墓もオオハカと訓むのが至当である」としている。また、「照井氏がアテルイから派生した」という説には賛同できると、宮城、岩手県内の地名などを掲げている。小岩氏は岩手県史執筆員で日本考古学協会会員。

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『週間ポスト』に連載中であるが、同紙平成6年9月9日号と16日号に「"蝦夷征伐"とアテルイ処刑の不思議」の項目が登場。そこで井沢氏は、【1】「アテルイの処刑は、桓武の決断と考えていい」、【2】怨霊におびえる桓武がアテルイを処刑できたのは「アテルイ(蝦夷)は怨霊化しないという確信があった」からで、「蝦夷たちは"人間以外"であると考えていた」からだと、断じている。

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地元新聞に連載した「三十八年戦争の始期」、「私のアテルイ像」のほか、「呰麻呂の乱」、「覚鱉城推定考」、「延暦八年胆沢の乱」、「アテルイ等の降と斬刑」などを収める400ページを超える労作。ひとり六国史と取り組み、現地調査も加えて6年の歳月をかけてまとめた。遠藤昭一氏は当会の会員。この平成6年8月に自費出版した。

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平成6年9月に岩手県各地(水沢市、釜石市、花巻市、盛岡市)でひとり芝居「アテルイ」を演じた愚安亭遊佐。なかでも水沢市の黒石寺境内を舞台とし、自然と一体となって演じたひとり芝居は感動的であった。本書の第2章にはそのシナリオ「アテルイ」を収録している。また、第三章に又重勝彦氏の「アテルイ紀行」がある。自然食通信社の発行(発売元新泉社)。

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 本号は〈怨霊残酷物語〉の特集で、表紙は悪路王の首像(「アテルイの面」と紹介されている)で飾られている。特集の中に、荒川法勝氏(作家)の「みちのくの悪路王の実態」が掲載されている。「悪路王とは、みちのくに住み、この世に怨みを残し、無残な最後を遂げた鬼神をいい、アテルイを指す!」と、氏は書く。

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 「私は、阿弖流為のことについても、もう少しく文学的表現をすれば、誰よりも早いときから誰よりも高く評価してきた」という著者は現秋田大学長で東北古代史の権威。副題に「古代国家と東北」とあり、田村麻呂と阿弖流為の二人を正面において、その背景であり基盤である律令時代の国家と東北の切り離しえない歴史を著述。田村麻呂と並ぶとはいえ阿弖流為を主題にしたのは、歴史書としては初めて。

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