現在314件のアテルイ情報を掲載しております。

特集「未知の国みちのく、伝説と秘湯の旅」のなかで、「みちのくの聖地、英雄伝説にひたる」として、出羽三山とアテルイが取り上げられた。「十万の朝廷軍と戦っても守ろうとした蝦夷の英雄阿弖流為の心とは...」と題したページ(カラー6頁)では、東和町の丹内山神社に鎮座する巨石を「蝦夷たちの神、アラハバキ神のご神体」として大きく紹介、次に悪路王首像と巣伏の戦いの跡地の写真を入れて戦いの経過等を説明、最後に達谷窟毘沙門堂の写真とともに悪路王伝説にふれている。また、高橋克彦氏が語る「阿弖流為の時代、東北は最も輝いていた」も、2ページにわたって掲載されている。

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「蝦夷の長、アテルイ。朝廷軍の将、坂上田村麻呂。古代東北を駆け抜けた両雄の新しい物語。新田次郎文学賞作家が放つ書き下ろし歴史巨編。」という触れこみ。イサワの村長の息子で村を捨て大和に走ったアザマロがアテルイの父、桃生城を襲ったウクツハウはアテルイが生まれ育ったトイメム村の村長の息子で母の弟、そしてモレはイワイ村の大巫女で女村長という意外な人物設定。
 アテルイが14歳の時、村が大和の軍勢の焼き討ちにあう。アテルイは桃生城に連行され俘囚としての生活を強いられるが、やがては反乱を起こしイサワの長になる父アザマロと合流。蝦夷の国の建国を目指したアザマロの死後、イサワの長として大和の軍と戦うというストーリー。
 この小説のアテルイは、敵将を直接襲い威嚇して取り引きするのがかなり得意である。新田柵まで軍勢を進めた百済王俊哲の寝所を襲って喉元に刃を付きつけ、撤退の密約をさせ、延暦八年には多賀城に入った紀古佐美の寝所に女装して入りこみ小刀を喉仏に突きつけ取り引きをもちかける。最後には、桓武天皇から直接の許しを得るが、突然桓武を襲って羽交い締めにし、自ら首を切られることを選ぶ。

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第四章「彼らは、なぜその地で時の権力に反逆したのか」の最初の項、「蝦夷の首長の反乱と坂上田村麻呂の東北経営」にアテルイが取り上げられている。著者(明治学院大学教授)の説によると、「阿弖流為がすぐれた武将であったことは確かである、しかし、彼らは蝦夷対日本といった形の民族の対立で動いたのではなく、地方官の悪政に反抗して立ったのである」という。「ゆえに、善政にこころがければ、蝦夷はおのずと朝廷に従うことになった」と。また、延暦21年にアテルイは五百余人を率いて降伏したが、「このとき阿弖流為に従った兵士は、田村麻呂のはからいで帰農を許された。」という。著者は日本古代史を専攻と紹介にあり、著書も多数あるが、どのような史料と研究からそこまで言い切るのであろうか。

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6月4日、同局制作のテレビ番組「いわて大陸」の時間帯で放映された。第34回吉川英治文学賞の授賞式の模様から始まり、パーティ会場では渡部昇一氏から「いい意味で地方発信の素晴らしい小説」という評価があった。番組では『火怨』の中心場面を、河北新報掲載の挿絵を入れたドラマ構成にして紹介、さらに、戦いの舞台となった胆沢の現地から延暦八年の会の佐藤秀昭会長が解説した。受賞した高橋克彦氏は、「千年以上も前に一個の人間として、対等に、朝廷の強大な波に対峙した人がいたということを書きたかった」と語り、「アテルイは人間としての誇りを守るために戦ったのだ」とあらためて強調していた。

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平成12年5月17日の午後11時30分から12時まで、教育セミナー「歴史でみる日本」で放映された。副題は~朝廷の北方政策~。「攻め入る朝廷軍に対して果敢に戦った蝦夷の首長アテルイを中心に平安初期の朝廷による東北遠征を考える」というもの。東京都立大学の服藤早苗講師が多賀城政庁跡から伊治城跡、胆沢城跡、志和城跡と史蹟を実際に辿りながら、三十八年戦争の経緯を簡潔に説明。特に、延暦八年の巣伏の戦いに始まるアテルイと朝廷軍の攻防については、「アテルイの本拠地に建てられた物見櫓」「アテルイの根拠地と考えられている跡呂井の地」なども現地で紹介、研究成果を踏まえた解説が適切に加えられた番組となっていた。

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 月刊コミック誌『GOTTA(ガッタ)』(小学館発行)の平成12年8月号から、直木賞を受賞した高橋克彦氏の原作による『阿弖流為Ⅱ世』の連載がはじまった。作画は代表作『北斗の拳』などの熱筆で知られる原哲夫氏。ストーリーは千二百年の時を経て現代に蘇った阿弖流為が、人類を滅ぼそうとする破壊神の末裔たちと戦うというもの。第1話は、「時代は今を遡ること1200年余り― まだ大和に都がありし頃、陸の奥に蝦夷という自由の民がいた。ある時、その陸奥に"黄金の龍"見つかりて帝、これを欲せんと蝦夷を"鬼"と蔑み討伐を命ず。時同じくして、蝦夷に英雄豪傑が現れ頭領となりこれに抵抗。二十余年の長きにわたり朝廷の大軍を退けたが、坂上田村麻呂の軍勢の前についに凄絶なる投降の時来たれり。その誇り高き蝦夷の頭領の名は――阿弖流為――」と、格調の高い出だしでスタートした。
アテルイについては、中学の教科書などにも取り上げられるようになっているものの、全国的にはまだまだ知られていない。そのなかで、子供向け漫画の全国誌にアテルイが登場したことは、これからの若い人たちに広く知ってもらえるということであり、大きな意味がある。読者からの反響も大きく、アテルイについてのさまざまな質問がGOTTA編集部に届いているとのこと。10月号には緊急企画<阿弖流為Ⅱ世はこうして生まれた!>の第1回として「実在した東北の英雄アテルイ!」のコーナーが漫画とは別に3ページにわたって組まれた。「東北の生んだ最大にして最高の英雄、それが阿弖流為である。」に始まり、アテルイの戦いと降伏までを紹介、最後は「阿弖流為の英雄伝説は、今も東北地方に語り伝えられ、蝦夷の心を熱く燃やし続けているのだ。」で文章は終わる。まさに絶賛、アテルイこそニューヒーローである。はたして漫画「阿弖流為Ⅱ世」の影響はどのようなものであろうか。

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アテルイの生涯を描いた『火怨』が栄えある受賞に輝いた。同じくアテルイを描いた澤田ふじ子の長編歴史小説『陸奥甲冑記』が昭和57年に第三回吉川英治新人賞に選ばれて、以来18年、アテルイに対する関心と注目の度合いが大きく変化しつつあることを感じる。高橋氏は、「主人公の阿弖流為は東北では著名ながら、私のいだいている彼への共感がどこまで全国に通用するかと思っていた。私の作品だけでなく、蝦夷が認められたようでうれしい」と受賞の喜びを語っている。

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第二章< エミシの英雄時代 第二次抵抗 >に「勇将アテルイ」の戦いなどが取り上げられている。著者は「悪路王という名にされたアテルイの伝説に、庶民の無念さがにじみでていて心のひかれる思いがする」という。また、アテルイの本拠・水沢市から『化外』(教化、順化の外のもの。化外の民とは"まつろわぬ"者どもを意味する)という詩誌を発行(1973~)していた詩人仲間との交流のエピソードなども、ずいぶん前からアテルイの末裔をひそかに自負していた人達がいたことが知られて興味深い。

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本書は「歴史小説と歴史入門の中間に位置するジャンルに挑戦」したものであるという。後半の「日高見五流 阿弖流為・外伝」「征旗を北に 紀朝臣古佐美・外伝」「怨霊の都 坂上田村麻呂・外伝」がアテルイに関わる内容になっている。著者は『日本紀略』などの記事を分析して歴史的推理を行う一方、ユニークな視点から自在に叙述を進めており、随所に興味深い内容がみられる。ただ、疑問となる部分もあり、以下、「今までの歴史家が誰一人として言及していなかった」(序文)という内容のひとつを取り上げておく。
 それは、『日本紀略』の「延暦二十一年四月十五日と七月十日の条、言うなれば阿弖流為と直接に関わりのある時に限って、田村麻呂の肩書から全ての官位が外されて<造陸奥国胆沢城使>だけになる」ことに着眼した分析である。これは単なる偶然ではなく何かの作為が働いていると見て、その理由を、アテルイを処断した「天皇の背信」を公にしないため、「助命の約束は造陸奥国胆沢城使の<口約>であって、朝廷の<公約>ではない、と言うための伏線を用意した」のではないか等というのである。『朝日新聞』の書評(4月8日)もこの推理を第一に取り上げて紹介している。しかし、著者は四月十五日条について、原本である『日本後紀』から抜粋された『日本紀略』の同記事だけを見て、『類聚国史』の同日条のほうは見ていないようである。それには、「造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢田村麻呂...(以下『紀略』の記事と同じ)」とあって、『紀略』の記事が田村麻呂の官位などを省略(下線部)して記載しただけであることがわかるのである。また、『紀略』に「大墓公阿弖利為」とあるのを、「阿弖流為の誤記と考えて間違いありません。」と簡単に断定しているのも、いかがかと思われる。

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ヤマトタケル、継体天皇、聖徳太子、推古天皇、天武天皇、長屋王と続き、最後に「悪路王」が取り上げられている。「アテルイこそ、まさに郷土の英雄だった。大和の侵略者を撃退した民族的指導者だった。だが、時が下るにつれて、坂上田村麻呂が神聖化されるのとまるで反比例するかのように、アテルイはとうとう盗賊や鬼という域にまで貶められてしまった。伝説の悪路王こそ、変形され歪曲されたアテルイの成れの果てということになる。」(文中より)
 これまで、アテルイが登場する歴史小説(『陸奥の対決』1976年)なども書いている著者は、「はじめて悪路王の看板を達谷窟で目にしたときは、言いしれぬ義憤を覚えたものである」と振り返り、だが、一昔まえと比べると事態は改善されていると、現況を次のように紹介している。
 「水沢市には、「アテルイを顕彰する会」がある。また、関係者の運動で、京都清水寺の境内に、アテルイの顕彰碑が建立された。清水寺が、坂上田村麻呂が開基した名刹だからである。悪路王という盗賊や、はては異形の鬼とまで貶められた郷土の英雄は、はるか時の流れを越えて、ようやく人権を回復されつつあるのだ。」

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昨年(平成11年)9月に発行された『常総の歴史』第23号に掲載されている。岡村氏は同8月発行『謎解き祭りの古代史を歩く』(彩流社)にも、「常陸の国・祭りの地勢図~蝦夷征伐に協力しながら「悪路王」を称える不思議~」との題で、茨城県鹿嶋市鹿島神宮所蔵の「悪路王首像」ではなく、同県東茨城郡桂村高久の鹿島神社に祀られているもうひとつの「悪路王首像」(写真)を紹介している。
 桂村は水戸市と栃木県宇都宮市を結ぶ国道123号線を北西に約20キロ進んだ途中にある。岡村氏によると桂村では「アテルイを神として崇めるだけでなく、「虫干し祭り」と称して毎年旧暦七月十日には祭礼まで催している。しかも地元民はアテルイのことを「悪路王様」と敬称し、決して粗末に扱ってはいないのだ。」という。この桂村の首像は、「悪路王頭形」(神社の案内板では「悪路王面形彫刻」)と呼ばれているもので、有名になった鹿島神宮の「悪路王首像」より以前にアテルイとの関係で知られていたのであるが、取り上げられることも少なく、その後は鹿島神宮の「首像」の陰に隠れてしまっていたのであった。悪路王の伝説にもとづいて作られた"首像"が、確かにふたつは現存しているのである。
この桂村の「頭形」を最初に取上げたのは、相沢史郎著『<ウラ>の文化』(1976)であったろう。相沢氏は同書の「東国に葬られたアテルイの首」という項で、「悪路王頭形」の写真とともに次のように紹介しているのである。「高久の鹿島神社縁起によると、延暦年間に田村麻呂が北征の折り、下野達谷窟 (平泉の南方にも、達谷窟と呼ばれる悪路王の住居がある)で悪路王を誅し、この地にその首を納めたとある。現在の首級の高さは50センチメートルほどで、最初はミイラだったといわれる」。
 その後に調査に訪れた三木日出夫氏も、「桂村郷土誌によると、延暦年間、坂上田村麻呂が北征の折、下野達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し、凱旋の途中、本社前の休塚に納めた。最初はミイラであったがこれを模型としたものといわれる。」と紹介している(1984.5『えみし』第5号「悪路王を追って」)。
この「頭形」については、水戸の徳川光圀が家来に命じて修理させた記録が残っている。「悪路王頭形久敗朽 今新彩飾 安坐常州高久村安塚之社中 元禄癸酉六年 源 光国」というものである。高久の鹿島神社の創建は天応一年(781)といい、かつては休塚(安塚)明神とも呼ばれていた。修理が行なわれたという元禄六年(1693)といえば、「首像」のほうが鹿島神宮に奉納された寛文四年(1664)から約30年後になるが、「頭形」はその時には「久敗朽」という状態であったというのであるから、もともとは「首像」より古いものと考えられよう。「頭形」はさらに132年後の文政8年(1825)にも八代藩主徳川斉脩によって修理が加えられるなど、手厚く庇護されてきたことが知られる。伝承では坂上田村麻呂に誅伐された悪路王であるが、その「頭形」は社宝となり、年に一度の祭礼の日には拝殿の前にお出ましになり、今も高久地区の人々の参拝を受けているのである。
 岡村氏は「首領として蝦夷の平和と秩序を守らんとして坂上田村麻呂と死闘を演じた。それであれば本来なら本拠地の東北地方でこそ高く評価されてよいはず。ところが実際はそうではなく、蝦夷征伐のための前線基地となった常陸国で評価され、悲劇の英雄としていまなお神格化されている。歴史の皮肉とはきさしくこのことではないか」と結んでいる。

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昨年11月に実施された調査の結果が『報告書』として発表された。この調査は、胆江地区(水沢市、江刺市、胆沢町、金ヶ崎町、前沢町、衣川村)の小学生、中学生、高校生各100人、20代、30代、40代、50代、60代、70歳以上から各100人、胆江地区外に居住する100人、合計1000人(男性500人、女性500人)を対象として行われ、666人から回答があった。以下、集計結果の部分を中心に紹介する。
 1.アテルイの知名度について
  「あなたはアテルイについて知っていますか。」という問いにたいする回答。
A.少しは知っている 281[42.2%] B.名前だけは知っている 259[38.9%]
C.かなり知っている 64[ 9.6%] D.名前も聞いたことがない 62 [9.3%]
  アテルイについて「知っている」とした人は、合計で90.7% にのぼり、高い知名度となっている。
 2.「悪路王首像」の認識について
  「あなたは「悪路王首像」の写真をだれの顔だと思っていましたか。」という問いにたいする回答。
   A.アテルイの顔 174[26.2%] B.見たことがない 147[22.1%]
   C.アテルイ=悪路王の顔132[19.8%] D.だれだかわからなかった119[17.9%]
   E.悪路王の顔 93[14.0%]
  だれの顔かを特定した人は全体の60%であったが、「悪路王の顔」と正しく認識していた人は最も少なかった。
3.「悪路王首像」の印象について
 「あなたはこの「悪路王首像」を見てどのような印象をもちましたか。」(いくつでも可)という問にたいする回答数とその回収数に対する割合。
A.強そうだ404[60.7%]B.こわい337[50.6%]C.悪い人にみえる302[45.3%]
   D.英雄にふさわしい顔だ120[18.0%]E.気持ちが悪い114[17.1%]
F.かっこわるい94[14.1%]G.やさしそうだ25[3.8%]H.好い人にみえる23[3.5%]
   I.かっこいい18[2.7%]
  上位のA.B.C (61~45%)、中位のD.E.F(18~14%)、下位のG.H.I(4%以下)に大きく分かれた。このくくりは男女とも同じで、その中での順位の異動が一部にみられるだけである。男性でみると第2位に「悪い人にみえる」がきて、「こわい」が第3位になる。プラス印象の項目では「英雄にふさわしい顔だ」の第4位が最高で、「やさしそうだ」「好い人にみえる」「かっこいい」は下位を占めた。マイナス印象の項目では「こわい」「悪い人にみえる」が上位に入り、「気持ちが悪い」「かっこわるい」が中位になっている。
4.シンボルマークについて
 「あなたは「アテルイの里」のシンボルマークとして別紙のマークをどう思いますか。」という問にたいする回答。
  A.どちらともいえない258[38.7%] B.ふさわしい186[27.9%]
  C.ふさわしくない163[24.5%]  D.その他59[8.9%]
 「どちらともいえない」に「その他」を加えると約半数を占め、「ふさわしい」と「ふさわしくない」の差も僅少であった。

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水沢地方振興局は、平成元年より胆江地区を郷土の雄アテルイの名前にちなんで「アテルイの里」と名づけ、そのキャッチフレーズのもとに地域の活性化対策を進めてきた。そして、そのシンボルマークとしては茨城県鹿島神宮の「悪路王首像」を図案化したものを使用してきたのであった。しかし、アテルイの名前が広く知られていくなかで、とりわけ女性や子どもたちには「悪路王首像」が怖く見え、不評であるという声が聞こえはじめている。また、この首像がアテルイの顔そのものだと誤って認識されるなどの問題も出てきていた。アテルイ没後千二百年という大きな節目となる年(2002年)が近づいており、全国に発信する記念事業の展開にシンボルマークは重要な役目を担うことになることから、ここで再検討の必要性に迫られたものである。
 アンケートは、胆江地区の小学生、中学生、高校生各百人の計三百人。胆江地区の20歳代、30歳代、40歳代、50歳代、60歳代、70歳以上の各百人、計六百人。胆江地区外の百人、以上合計千人を対象(無作為抽出)として調査票が送られ、郵送で回収される。アンケートの内容は、【1】アテルイについて知っていますか、【2】「悪路王首像」はだれの顔だと思っていましたか、【3】「悪路王首像」を見てどのような印象をもちましたか、【4】現在のシンボルマークをどう思いますか、の設問に3~9項目のうちから選択してチェック印を記入するもの。この結果は、報告書にまとめられ、延暦八年の会と水沢地方振興局主催による平成11年12月11日開催のシンポジウム「アテルイと悪路王伝説」の資料としても配付される予定とのこと。

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平成11年11月6日、北天会=関西アテルイ顕彰会(高橋敏男会長)主催によるアテルイ・モレの法要が京都・清水寺境内に建立(平成6年)された「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の前で営まれた。当日は、水沢市から駆けつけた後藤晟市長、花山雅夫市議会議長とともに関西在住の会員ら約40人が参列した。清水寺の森清範貫主は、今年六月に水沢市で開催された文化講演会で講演するなど、交流が深められており、アテルイ没後千二百年に向けて手を携えた記念事業が実現されることを期待したい。
 なお、来年3月3日から12月3日まで、三十三年に一度という清水寺の本尊が開帳される。

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水沢市の国立天文台(旧緯度観測所)百年を記念して全国から公募していた小惑星の名前が「Aterui」に決まった。通常、小惑星の命名は発見者に権利があり、発見した札幌市のアマチュア天文家渡辺和郎さんと円館金さんの承諾を得て国際小惑星センターに申請していたが、このほど正式に決定された。「Aterui」と名づけられた小惑星は、平成四年十月に北海道北見で二人が発見していた。小惑星のほとんどは、火星と木星の間(約三億km~五億km)にベルト状に分布している。大きくても直径一千km以下で、ほとんどは百km以下。発見されると、精密な位置観測を踏まえ一連の番号と固有の名前が与えられる。昨年六月までに八千九百八十九個の小惑星に登録番号がついているという。肉眼では見えないが、宇宙の彼方に小惑星「アテルイ」が輝く。

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製作に向けた準備が着々と進められている。計画を進めているのは、宮沢賢治作品の長編アニメも手掛けた㈱シネマとうほく(本社仙台市)。盛岡市出身の鳥居明夫社長は、「歴史を正しく伝えることは岩手の二十一世紀を担う子どもが地域に対して誇りを持つことにつながる。同時に二十一世紀は地方の時代。その『旗頭』としてアテルイの世界を岩手にとどまらず全国に発信したい」と、2001年夏の上映を目標にしている。製作費は約一億五千万円。このため同社が平成5年に宮沢賢治作品をアニメ化した「グスコーブドリの伝記」と同じく、広く協賛金を募るための全県的な製作実行委員会を年内にも組織し、県民運動として展開していく考えという。

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パソコンを使って鬼に関する伝説などさまざまな情報を見ることができる。北上市立「鬼の館」館長の門屋光昭・盛岡大学教授監修により、北上オフィスプラザが制作、CDには悪路王首像がデザインされている。悪路王はメインメニュー「鬼曼荼羅」(大人の世界)に収録されているほか、メインメニュー「鬼の原像」(鬼の伝説)の中にも悪路王伝説として収録され、「田村麻呂伝説と悪路王1」「田村麻呂伝説と悪路王2」「田村麻呂とアテルイ」「アテルイ終焉の地」の項目があって詳しい。その一部分をそのまま紹介する。「茨城県鹿嶋市の鹿島神宮には、田村麻呂が東北征伐に就く際に戦勝を祈願、無事任務を終えて感謝の念をこめて献納したといわれる「悪路王首像」があります。この像は、都で処刑されたアテルイや戦いで殺された蝦夷(えみし)の首長たちの象徴で、北をめざして飛んで来たともいわれています。鼻が高く、眉や目尻がつり上がり、技楽面の酔胡王に似た忿怒の容貌をしていて、伝説の鬼の強い怨念を感じさせます。悪路王という想像上の鬼ながら、髷を結うなど当時の蝦夷の姿をそのまま写したように実写的で、アテルイとしてのリアリティを感じさせる迫力満点の首像です。」

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平成9年1月から467回にわたって河北新報朝刊に連載され、単行本となることが待たれていたが、このほど講談社から上下2巻となって出版された。この小説は、下野新聞、苫小牧民報、長野日報、サンパウロ新聞、奈良新聞、東愛知新聞、千葉日報、大分合同新聞、岡山日々新聞、新潟日報の各紙に順次連載された。

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宮沢賢治の詩「原体剣舞連」の中にも登場する悪路王は、平泉の達谷窟、姫待滝に残る伝説からは「弱者に対してむごい悪者たちの王」であった。この悪路王については二つの像があることが知られている。ひとつは茨城県鹿島神宮にあり、今では悪路王の顔の原型のごとくに認識されているものである。もうひとつは、同じ茨城県であるが桂村の鹿島神宮にあるものである。三好氏は「鹿島神宮の悪路王像は蛮勇の表情だが、(桂村の)鹿島神宮のものは幽鬼の如くだ。子女をかどわかし、悪行を働く悪路王の顔は、右の二つの像に見られるのである。」と指摘している。
 悪路王の正体ということでは、【1】「悪路王は伝説上の存在であり、実在とは言えない」。【2】しかし、「朝廷に反逆し、将軍田村麻呂によって征伐された蝦夷の王アテルイは実際にいた。そのため、悪路王はしばしばアテルイに擬される」。【3】伝説その他で悪路王が顔を出している場所をみると「坂上田村麻呂の征夷の道」にあたっており、「悪路王はやはり田村麻呂によって攻撃されて討たれ、あるいは降伏した アテルイ、モライ、その伝説的な存在ということになりそうである。」とする。最後は、「●王化に従おうとしない荒ぶる民●礼儀を解せぬ野蛮な民の最後の王として、悪路王は伝説として、アテルイは史実として残ったのである。...そして坂上田村麻呂にかかわる両エミシの王のゆるぎない共通性は、延暦二十年に、その命運を絶たれるところだ。やはり悪路王はアテルイだったのである。」と結んでいる。平成11年9月に発行された『歴史と旅』増刊号に掲載されている。

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山川出版社の新版県史シリーズの一つとして『岩手県の歴史』が平成11年8月に発刊された。故森嘉兵衛氏執筆の旧版『岩手県の歴史』が刊行 (1972年)されて四半世紀以上の歳月が経つなかで、4人の新執筆者により全面的に書き下ろしされたものである。
 第1章から3章までの原始・古代は伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)が担当、第2章は「エミシの世界」のタイトルで、その3には「アテルイの世界」という独立した項目がたてられている。
岩手県内では隠れたベストセラーであったといわれる旧版では、原始・古代の「2、東夷の開拓」に、「産金事始」、「坂上田村麻呂」以下の項目が続くが、征夷戦の経過が記述され田村麻呂の評価には及んでいるものの、一方の蝦夷側の指導者であるアテルイの名前はどこにも出てこなかった。
 また、旧版では「陸奥における現地人と官軍との衝突」「志和・胆沢の現地人と戦闘」など、最初の方では「蝦夷」ではなく「現地人」と記述されていて、疑問を生じさせていた。しかし、「...坂上田村麻呂の大弾圧が開始されたのである。それは政府軍からは開拓と称されたが、原住民にとっては弾圧であった。」とする著者(旧版)の基本認識にくもりはなく、「現地人」と記述するところの意味は蔑称たる「蝦夷」の名を最初から使用することによって始めから支配(征伐)されて然るべき対象と観念されることを危惧したことからする慎重な使い分けではなかったかと推測される。その点、始めから「エミシの世界」に主体をおいて叙述する新版の著者の立場はあまりに明確であり、四半世紀とはいえ時代の大きな進展というものを感ずる。
さて、新版の「アテルイの世界」の項目は、東北大戦争/アテルイとモレ/坂上田村麻呂とアテルイ/の小項目で構成され、約8ページにわたっている。/東北大戦争/では、国家によるエミシ政策(エミシの入朝を基本とする)の段階的展開とそれによるエミシ社会との緊張、エミシの抵抗、反乱へと到る過程が簡潔にまとめられている。/アテルイとモレ/では、二人のフルネームを大墓公阿弖利為、盤具公母礼と紹介したうえで、まず岩手県が古代史に登場してくる過程として呰麻呂の反乱までを述べる。それから、いよいよアテルイが登場する胆沢の合戦に移るが、ここで著者は面白い仕掛けを試みている。敵将坂上田村麻呂の年齢、地位と対比する形でアテルイの地位、年齢等をあえて仮定しながら叙述するのである。アテルイの生年はもちろん不明なのであるが著者は田村麻呂とそれほど歳の差がないと仮定、例えば延暦5(786)年の胆沢遠征の準備が始まるころ、「アテルイはエミシ戦士首長に成長しており、三〇代前半頃か。」とする。この項は、延暦8年に遠征軍が衣川に布陣するまでとなっているが、著者はその場所を胆沢平野が一望できる「胆沢川扇状地の最南端、東西方向に馬の背状に延びる高位段丘の一首坂面」であると比定している。/坂上田村麻呂とアテルイ/では、史上有名な延暦八年における胆沢の合戦の戦闘経過とアテルイ軍の勝利、第2回胆沢遠征と遠征軍の勝利、第3回遠征と胆沢城造営、アテルイとモレの降伏と続く。最後は、田村麻呂が二人に対して丁重に応対したようであるにかかわらず、「河内国椙山(杜山)」で斬刑に処されたことを記し、「初老のアテルイであったか。」と結んでいる。
 なお、新版の口絵には「悪路王首像」のカラー写真が掲載されていて、次のような説明がなされている。
「茨城県鹿島神宮の縁起に、坂上田村麻呂が「奥州征伐」に際し神社に加護を祈り、願が叶ったため帰路、賊の酋長の首を奉納したとある。同神宮の木製首像は江戸時代の作。「賊帥アテルイ」とイメージが重なるが元来は別。」

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水沢市文化会館で開催される第8回水沢市民祭に、今年はアテルイをとりあげた創作ミュージカルが登場することになった。脚本・演出は盛岡市在住の加藤源広さん。劇団風紀委員会(盛岡市)の代表で、演出家、脚本家、演劇プロデューサーなどとして幅広く活躍している。「ストーリーは かつて都で位の高い貴族の娘だった百合姫の恋人となっていたアテルイ。姫を愛していた時の帝(みかど)は姫の取り戻しと、土地が豊かで黄金が眠る蝦夷の大地を手に入れるため大軍を進めると展開。征夷大将軍坂上田村麻呂とアテルイの間に生まれた友情、アテルイや蝦夷の人たちの心の豊かさなどを描く。」(胆江日々新聞より)主催者では、アテルイ、田村麻呂、モレ、桓武天皇など約百人の出演者を市民から公募し、九月十一日の初顔合わせから週二回程度、夜間を中心に約三十回のけい古を重ねて平成11年11月28日日の本番にのぞむという。

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胆江地域のトラベルガイド。タイムラビリンス(時間の迷宮)と銘打っているように、仮想の旅人が「アテルイの時代」「炎の時代」「偉人の時代」に分けて時代旅行をしながら歴史と文化を学び、観光地などを紹介する内容になっている。「アテルイの時代」が楽しく案内されている。左はその一部。

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平成11年8月27日、〈侵略に抗して戦った日高見大戦ほか戦没者慰霊祭~縄文戦士アテルイ・モレ1197年祭~〉が大阪府枚方市の牧野公園で開催されました。「縄文 アテルイ・モレの会」が主催するもので、毎年枚方市片埜神社の岡田宮司さんにお願いして行なわれ、今年で第五回目になります。当日は北天会(関西アテルイ顕彰会)の高橋敏男会長らも合流し、約30人が出席して執り行なわれました。開催場所の牧野公園は、三月に「蝦夷の首長アテルイらのゆかりについて」と題する看板が設置された宇山東公園のすぐ近くにあります。そして、かつては片埜神社の社域にあったという牧野公園には「首塚」と呼ばれるところがあり、アテルイとモレが埋葬された場所ではないかとも推定されています。

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アテルイに触れた部分だけを抜き出して紹介します。
◆「岩手県胆沢町の角塚古墳は、北上川中流域の一扇状地に築かれた5世紀末期頃の前方後円墳である。...東北南部や北関東でもみられる帆立貝式の古墳で、それらの地域の大豪族層を後盾に、北上河谷に進出した首長層がおり、古墳のうちでは帆立貝式という格付けをされて、古墳築造や埴輪製作等のノウ・ハウを伴って開発拠点を定めたものであろう。...この地の後代の蝦夷の首長層として、大墓たも君と呼ばれる人がおり、それが古い大墓の存在を反映している可能性があり、対律令国家戦争の軍事指導者となっている点も面白い事実である。」
◆「この国力をかけた8世紀末の38年戦争といわれる大戦争は、按察使殺害に対する罰などとしてでなく、北方の北上川河谷中心に形成されていた古墳築造地帯の連合勢力を征服する明瞭な意図に統一されていったものである。蝦夷側の成長とそれに対する律令国家政策との基本的対立が読みとられなければならない。...延暦8年の北上川渡河作戦では、5万余の大軍が動員されながら戦闘では大敗した。そのときの蝦夷の軍事指導者は大墓君ママ阿弖利為あてるいであり、先にみた北上河谷の古墳築造階層の指導者となっていた。延暦20年に征夷大将軍の坂上田村麿は、大墓君ママ阿弖利為と磐具公母礼いわぐもれを降し、この賊首二人を都につれていったが、二人は斬首された。」

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水沢市埋蔵文化財調査センター所報『鎮守府胆沢城』第33号(平成10年2月16日発行)は、一年をふり返っての同センターを訪れた見学者の声を紹介している。そのなかには、「阿弖流為は田村麻呂にだまされた日本一の馬鹿武将だという話を昔聞いたことがあるが、本当だろうか。」(静岡・会社員)など、アテルイにふれたものがある(これには一応、「本当ではないだろう」と答えておく)。ほかに気になる内容として、宮城県の大学生からの「阿弖流為は伊治公呰麻呂と同一人物ではないだろうか。」という「声」が載っていた。平成元年(1989)、延暦八年の会主催で巣伏の戦い千二百年記念「アテルイとエミシ展」を開催したときに、宮城県から来られた方から「阿弖流為は呰麻呂と同一人物だ、本にも書いてあった。」と、強く同意を求められたことがある。河北新報社の一力会長も、高橋克彦氏との対談のなかで「呰麻呂が名を変えて阿弖流為になったという説もある」(平成9年4月18日付『河北新報』掲載)と述べていられた。はたして、そのような説はどこからするものであろうか。
呰麻呂とは、陸奥国上治郡の大領であった伊治公呰麻呂のことである。宝亀11年(780)3月、呰麻呂は伊治城(宮城県栗原郡築館町城生野地区)で叛乱を起こし、入城していた陸奥守兼鎮守府将軍の紀朝臣広純と牡鹿郡大領の道嶋大楯を殺害したうえ、国府多賀城にまで攻めのぼり、大量の武器などを掠奪して炎上させた。「夷俘」と侮蔑されてきたことからの怒りが原因としてあった。朝廷はただちに征討軍を差し向けたが、抵抗が激しく失地回復には数年を要したのである。しかし、叛乱のリーダーである呰麻呂が討たれたという記録はなく、呰麻呂自身のその後については全くわからない。以降、朝廷軍との対決には「賊の奥区」とされた胆沢の阿弖流為が大きく登場してくるのである。このようなことが「呰麻呂=阿弖流為」説が出てくる背景となるものであろう。
おそらく、呰麻呂は胆沢の阿弖流為に合流したのではないかと考えられるが、それを検証することはできない。ただし、阿弖流為が呰麻呂でないことは、降伏後の記録に呰麻呂の名前が出て来ないことにも明らかであろう。降伏した阿弖流為を見れば、呰麻呂であるかどうかは一目瞭然であるはずなのだから。
もうひとつ、「呰麻呂=阿弖流為」説には、二十数年前に河北新報紙上に連載された「ものがたり古代東北」(『蝦夷 ~古代東北の英雄たち~』1978年10月発行)の、文字どおりの「ものがたり」が投影されているように思われる。この連載は、「自由な推理や仮説を交えて」構成された内容になっていた。呰麻呂と阿弖流為にかかわる部分は次のような記述になっている。「北へ逃げた呰麻呂は-。百八十里の道を一気に突っ走って、二日後の三月二十八日(宝亀十一年)には胆沢の地にたどり着く。...呰麻呂はひとまず跡呂井(水沢市跡呂井付近)に落ち着き、腹心の大鳥広目を直ちに胆沢公のもとへ遣わした。首尾を報告するためであるが、広目はその翌日、意外な返事を持ち帰る。なんと、盟友関係を結んだ胆沢公は、ちょうど呰麻呂が伊治城で事を起こしたころに亡くなっていたのである。...使いの広目と一緒に、盤具公母礼ら胆沢連合の主だった族長たちが呰麻呂を訪ねて来た。「この後は、伊治公殿を統領と仰ぐように」。これが胆沢公の遺言だったというのである。...胆沢公の子はまだ幼く、適当な後継者がいない。彼は、自分の死によって胆沢連合の統一が崩れるのを恐れたのだろう。...新しいスター呰麻呂を中心に結束を固めて欲しい。それが胆沢公の願いだったのだ。...呰麻呂はようやく決意を固める。翌朝、彼は近くに陣を構えている母礼を訪ねた。「統領の役、お引き受けいたす。ただし条件が一つ。胆沢公を名乗らぬことをお許しいただきとう存ずる」。呰麻呂は自ら大墓公阿弖流為と名乗り、再出発することになった」。このようにして、「呰麻呂が阿弖流為と名を変えて胆沢連合の統領」に納まったというのである。この「ものがたり」においては、「史実との錯誤を避けるため、正史の記述を併記し、仮説や創作部分はその旨を断るという手法」を採っている。そして、以上の部分に関しては、「多賀城焼き討ち後、呰麻呂が胆沢の地へ逃げたこと、胆沢公が死亡して呰麻呂が新統率者・阿弖流為に"変身"したことなどは、いずれも創作。」との断りがついている。「阿弖流為=呰麻呂」説は、ものがたり上の創作に発しているようだ。

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水沢の歴史と観光にふれる手引書としてあった『観光水沢』を全面改訂し、名称も『みずさわ浪漫』と変えて平成11年㋂に出版された。アテルイの名前は初版(1955年)から、改訂版(1964年)、以後最近の五版(1981年)まで主には「歴史」の部の「巣伏古戦場」の項に出ていましたが、今回の全面改訂版では「人物」の部にも初めてアテルイが単独でとりあげられました。以下、その全文を紹介します。なお、この項の執筆は当会の佐藤秀昭副会長が担当しました。
「アテルイ」この耳慣れない人物は、昭和62年10月17日、「北方の王者アテルイの会」が水沢で発足、平成元年11月17日から26日までの10日間、「延暦八年の会」が"巣伏の戦い1200年記念"の「アテルイとエミシ展」を開催した頃から、その名がこの地域で急速にクローズアップされてきた。やがてアテルイは、胆江地域おこしの象徴的な人物となってきたが、その人物像について実像を掌握することは困難である。陸奥のエミシ征伐に、大和朝廷の軍事力を最大に投入し、その王化に最も力を入れたのが桓武天皇であった。『続日本紀』延暦元年五月二十日の条に、「...陸奥国言。祈祷鹿嶋神。討撥凶賊...」とあって、昔から軍神として名高い常陸国一の宮(現在の茨城県鹿島町)に、まつろわぬ賊徒ときめつけたエミシ等の征討を祈っている。それから882年後、寛文4年(1664)に鹿嶋神社に納められた木彫首像がある。「悪路王首像」と名付けられたこの像のレプリカが、現在水沢市埋蔵文化財調査センターに展示されている。奉納した人物は、「奥州住水谷加兵衛尉 藤原満清」である。アテルイが歴史上に登場してくる875年後の年代であり、当然アテルイの顔など知り得るはずがなく、仮りに寛文年間まで何らかの根拠となるものが残されていたとしても、悪路王=アテルイとはならない。が、目下のところこの「悪路王首像」が、この地域のシンボライズされたアテルイの「代理」もしくは影武者でもあるかのような存在として、はためいているのである。どんな風貌、体躯のアテルイであったのかを、今は再現する手掛りすら無いのであるが、唯一アテルイという名の直接的な人物の存在を示すのが、三つの文献である。アテルイの名が初出されるのは、その記述が正確であるかどうかは別として、六国史の一つである『続日本紀』延暦八年(789)六月三日の条に、「...此至賊帥夷阿弖流為之居...」として初登場するのである。『続日本紀』は桓武天皇の側近といわれた藤原継縄、菅野真道らによって、延暦16年(797)に『日本書紀』を継いで、全40巻の完成をみたものとされている。次いで文献にアテルイの名が記されているのが、寛平4年(892)に編纂されたとする説の『類聚国史』である。これはもともと六国史といわれる『日本書記』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を種別、事項毎に分類し、編年体にしたものであり、菅原道真の編纂である。三つめの文献は、『日本紀略』である。この文献の成立年代や撰者は共に不祥であるが、アテルイやエミシに対する公卿たちの見方から、一方的ではあるが、アテルイの一面を彷彿させるものがある。この書にアテルイの名が出てくるのは、延暦21年(802)四月十五日の条からである。「...夷大墓公阿弖利為。盤具公母 禮等種類五百餘人降...」さらに七月十日には、「田村麿来。夷大墓公二人並従...」とあって、アテルイたちが田村麻呂の軍門に降って、田村麻呂に従って京へやって来たことが記されている。興味深いのはその後日、八月十三日の条である。意訳すれば、「アテルイとモレを斬った。この二人は奥地の賊の首領である。この二人を斬る時に、田村麻呂はこの二人を胆沢へ帰そうと云ったが、公卿たちが執拗に云うには、彼等は獣であるし、限りなくまた反抗してくることだろうから、この夷賊の大将をこのまま帰すことは、後日の禍根となる。だから斬った」というのである。この記述は、アテルイの容姿の問題などではなく、いかに当時の為政者にとって、アテルイの存在が脅威であったかということを物語っている。裏を反せば、時の朝廷は勿論のこと、田村麻呂にとってもアテルイがこの地域における軍政、民政の統括者として、偉大な存在感を有していたか、ということを認めたことにもなるのであろう。アテルイの出自については全く不明である。田村麻呂よりは若干年齢が多かったのではないかという推論もあり、とすると河内国(今の大阪の東部)で斬首されたのは、50歳前後であったのかもしれない。アテルイについての歴史書の記録は、おそらく『続日本紀』が最も古いものと思われるが、その初出では「賊帥夷阿弖流為」とあり、賊の大将、エミシのアテルイである。だが、『続日本紀』よりも編集は後であろう『日本紀略』や『類聚国史』の中のアテルイは、いずれも「夷大墓公阿弖利為」となっている。「夷」は付いているものの、「賊帥」が一転して「公」という姓を冠されている。これは降伏したと見る朝廷側の意によるものであろうか、知る由もないが、名についても「流」が「利」と記されている。その名の「流」と「利」について一つを取りあげてみても、朝廷から与えられた良字とする説や、夷語表記の漢字描写の差とする説などさまざまであり、アテルイの人物像については多くの謎が残されている。故に魅力的であるということができよう。ともあれ、六国史という大和朝廷の側の歴史書の中に名をとどめた「アテルイ」は、まぎれもなくこの地域の有能な統率者として、1200年前の古代の先人として、今、最も市民の熱い視線を浴びている人物であることに違いはないのである。〔水沢観光協会発行 千円〕

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宮城・秋田・岩手のタウン交流誌『すくらむぶる』第209号(1998.11~12)に「すくらむぶる偉人英雄伝 其の五 」として掲載されている。簡単に紹介すると、【1】七、八世紀にかけて蝦夷社会は急成長し安定した独自の社会を形成していた。【2】阿弖流為の村落では豊かな生産力を背景に戦士の専業化が進み、兵法もそれまでの蝦夷間抗争の経験から多くを学んで一定の発達をみせていた。【3】国家による蝦夷遠征問題に対して阿弖流為と母礼の村落は反国家の姿勢を明確にした。このような自立主義が抬頭するところに彼らの村落社会の真の成長が窺える。二人は各戦士団を代表する軍事首長でもあった。【4】蝦夷の命運を握って果敢に戦った阿弖流為と母礼、古代蝦夷の希望がひとえに二人が率いる蝦夷戦士に集約されたとき胆沢に英雄時代があった。【5】13年間の耐久戦の結果、
降伏することになったのはこれ以上戦い続けても蝦夷社会が破壊されるだけとの判断であろう。敗戦にもいろいろあり、むしろ敗戦の中から実を取る方法を選択したのである。

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岩手県東和町土沢のふるさと歴史資料館で、特別企画展「坂上田村麻呂展~エミシ・伝説・信仰~」が昨年(平成10年)11月3日から12月23日まで開催され、アテルイのコーナーも設置された。発行された企画展図録の「アテルイ伝説」のページには、悪路王首像等の写真とともに「東和町六本木のモレの墓」として左の写真(カラー)が掲載されている。ただし、ほかには何の説明もなく、どのような伝承に基づくものなのかもわからない。「モレの墓」があったとは初めて知ることであるが、発表された以上、現地に調査に行く必要があろうと考えている。

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平成10年11月15日、盛岡市の岩手県高校教育会館大ホールにおいて開催された。㈱解放出版社他の主催で、人権教育のための国連10年・世界人権宣言50周年を記念するシンポジウム。
「偏見に満ちた「蝦夷」観を科学的に問い直し、北天の英雄、阿弖流為(あてるい)・母禮(もれ)をはじめとする人物像、そして陸奥・出羽の按察使、陸奥守・鎮守府将軍を兼ねた坂上田村麻呂の実像に迫る」試みで、整理券、配布のパンフレットには清水寺に建立された〈阿弖流為・母禮の碑〉の大きな写真が使用されている。
当日は、パネラーの上田正昭氏(京都大学名誉教授)が「エミシの視点から歴史を読み直す」、森清範氏(清水寺貫主)が「坂上田村麻呂とアテルイ、モレ、そして清水寺」、新野直吉氏(秋田大学名誉教授)が「勇者アテルイを見つめて」と題して講演し、その後に意見交換が行なわれた。会場は満員であった。

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「征夷軍と阿弖流為」「田村麻呂と阿弖流為」の項目がたてられている。その中からひとつを紹介する。
新野氏は、アテルイとモレの二人のことを「二虜」と史籍に表記していることから、「初めから斬られても不思議のない捕虜だったのだと受け止める向きもあります。しかしそれは違うようです」と自説を述べている。
【1】.斬刑が相当の罪人なら陸奥の現地か、上洛しても都の東西市で処刑されたはずで、河内国で斬られたというのは正常な状態で斬られたのではない。【2】.田村麻呂は初めから捕えたり殺したりする気はなく、彼らに故郷で仲間の朝廷に帰一する気持の醸成に当たらせるべきだと主張していた。【3】.ところが公卿らの強引な説が通り、そこで初めて捕らえられ河内国で斬られた。それまでは二人は全く自由の身であった。というのである。 「「虜」の文字は罪人で捕虜になった者の意味ではなくて、「虜軍・虜将・虜酋・虜人」等という用法の、「昔時、北方民族に対する蔑称」などと辞典に書かれるような「蝦夷=えびす」の意味なのです。」と結んでいる。

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平成10年8月29日、四回目の慰霊祭が大阪府枚方市の片埜神社で開かれた。同神社境内には「首塚」があり、アテルイとモレが処刑され埋められた場所ではないかという説がある。東京在住のジャーナリスト、弁護士、北天会(関西アテルイ顕彰会)などで実行委員会を組織して毎年慰霊祭を続けているという。アテルイを筆頭とするエミシたちを追悼した。

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江刺市の梁川にはエミシ伝承として「大武(岳)丸伝説」が古くから語り伝えられ、「大岳」「武道坂」の関係する地名が残されている。蝦夷の首魁・悪路王は磐井郡の鬼死骸村で討たれ、その弟の大武丸と一子人首丸は栗原郡大武村に攻められたが逃れ、人首丸は大森山で、大武丸は野手崎(梁川)で討たれた。その最後の地を「大岳」と称した、という伝承である。梁川には、「大岳丸を顕彰する会」があるが、大岳丸顕彰碑建設実行委員会を結成して浄財を集め、碑を建立した。建立場所は梁川の武道坂、碑文は「伝古代エミシの将大武丸終焉の地」。碑は、高さ3.5㍍(台座を含めると4.5㍍)、幅3㍍、奥行2㍍の堂々たるもの。平成10年9月26日に除幕式が行なわれた。

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千坂峰責任編集『だまされるな東北人~『東日流外三郡誌』をめぐって~』(1998年7月発行、本の森) に収録されている。佐藤氏らが和田喜八郎氏を訪ねて見てきた「アテルイの首像」や、西暦802年にアテルイが五百余名を率いて降伏したときのうちの、「およそ三百五十ぐらいの兵士の名前を書いたもの」などについて話している。なお、本書では驚くべき事実も明らかにされている。すなわち、衣川村の「安倍一族の墓苑」に埋骨された和田氏から寄付された安倍頼時の「骨」と称するものが、鑑定を仰いだところ化石化した鯨の内耳の一部であることが判明したというのである。まさしく、だまされたのである。

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「阿弖流為あてるい(?~八〇二)奈良末期から平安初期のエミシの首長。阿弖利為とも書く。延暦年間の一連のエミシ征討戦争で、胆沢のエミシの中心として最も頑強に抵抗した。延暦七年末に第一回征討が開始され、翌年四,〇〇〇余人の軍勢が北上川の渡河作戦を強行した際、一,五〇〇余人のエミシを縦横に指揮して奇襲を行い、征討軍の大半を戦闘不能にするという勝利を収めた(続日本紀)。しかし、その後の度重なる征討に抗しきれず、延暦二一年に盤具公母礼と共に配下のエミシ五,〇〇〇余人を率いて胆沢城建設に当たっていた坂上田村麻呂に降伏、平安京に上る。田村麻呂は阿弖流為らの助命を主張したが、政府はこれを容れず、河内国(大阪府)杜山で処刑された(続日本紀)。その本拠地については、大墓公たものきみ を大萬公の誤記として江刺市太田大万館にもとめ、あるいはアテルイの名を水沢市内の安土呂井に関連させる説などがある。」
1、このなかで、「配下のエミシ五,〇〇〇余人」とあるが、その人数については「五百余人」の誤り。
2、処刑地については「杜」山のほか、「椙」山説、「植」山説がある。
3、後半部分のアテルイらの降伏等について記しているのは『続日本紀』ではなく、『類聚国史』と『日本紀略』である。
4、「墓」を「萬」とする「大萬公」誤記説は、高橋富雄氏が20年ぐらい前から提唱(例えば、『岩手百科辞典』1978年、岩手放送)しているが、それを支持する研究者は今までのところ見当らない。高橋氏はエミシ研究の画期をなす『蝦夷』(1963年、吉川弘文館) において、「大墓」はタモと読み、水沢市内にある地名「田茂」からするものではないかとしていた。以来、本辞典でも採用しているように、有力な説となっていた。同氏の『古代蝦夷を考える』(1991年、吉川弘文館) では、大墓公を「たいものきみ」と訓じておいたうえで、「大萬(オオマ)公」誤記説を繰り返している。誤記でなければ、「大墓」はタモでなく、タイモと訓むということだったのか。本辞典では、高橋氏は「岩手の風土」を執筆している。その中で、氏はアテルイの姓の「大墓公」は、「巨大古墳」(胆沢の角塚古墳を指す)に連なる王者の義であろうとし、オオハカノキミと訓じている。かつては、「大墓の意味は不明」(『岩手百科辞典』)とし、誤記説を唱えていたのであるが、このように、「墓」の意味を認めたうえでオオハカと訓んでいるということは、「大萬公」誤記説を完全に撤回されたということであろうか。
5、「安土呂井」の地名は、「跡呂井」として現在に残っている。

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仙台を拠点に活動している役者米沢牛(よねざわぎゅう)の一人芝居「アテルイの首」の公演が行なわれる。アテルイを題材に、その伝説の謎や、大和と融合していった蝦夷の葛藤、東北人のアイデンティティーを浮き彫りにする舞台という。平成10年7月8日からの仙台公演を皮切りに、宮城県迫町(15日)、大河原町(18日)、本吉町(24日)で行なわれる。問い合わせはヨネザワギュウ事務所〔℡ 022-272-2744〕

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平成10年6月19日、胆沢町愛宕公民館の成人大学が開講した。本年度のテーマは「アテルイ」。11月まで6回の予定で、アテルイが生きた時代やその背景、エミシ・田村麻呂伝説などの講義が行なわれる。第1回は、北上市立「鬼の館」主任学芸員の鈴木明美氏が「古代国家とエミシ」と題する講義を行なった。胆沢町だけでなく、水沢市、金ケ崎町からの参加者もあり、65人が受講した。

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袋町の石川タミ子さんが「アテルイ」と題して寄稿している。「数年前放映されたNHK大河ドラマ「炎立つ」でアテルイが登場し、古代の英雄に興味を持った。田村麻呂に討伐されたんだっけなという程度の知識しかない。まして清水寺が田村麻呂開基とは知らなんだ。そもそも、この胆江地方で独自の生活と文化を形成していた平和な地に、中央政府が蝦夷と蔑視し侵略してきたのだ。我が郷土の雄アテルイさんは、モレさん等と共にこの侵略を頑強に阻止したが、十数年に及ぶ激戦も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降った後京都に連行され、処刑された。田村麻呂は敵ながら両雄の武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが受け入れられなかった。平安建都一二00年祭に阿弖流為・母禮の顕碑が清水寺境内に建立されたので、いつか訪ねてみたいと思う。小学校の遠足で行った平泉の伊谷の窟も、チョッと歴史を知っただけで見方が違うもんだ。
アテルイは従来、朝廷に歯向かった賊徒として扱われていたが、郷土を朝廷の侵略から身をもって護った英雄として見直される様になり、中学校社会科歴史教科書にも載るそうだ。水沢の三偉人も素晴らしいが、古代東北の日高見国胆沢に思いをはせる時、アテルイという人物がガンバッテいた事を誇りに思う。こんな浅い知識でも歴史のロマンを充分感じるんだナ。」

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盛岡市在住の直木賞作家で、河北新報朝刊にエミシの英雄アテルイを主人公にした小説「火怨~北の耀星アテルイ~」を連載した高橋克彦氏が、同新聞掲載「直言東北へ7」(平成10年2月10日)で、東北の視点や歴史の書き換えということについて次のように話している。
「アテルイや奥州藤原一族を小説のテーマに選んだのは『東北人自身に東北の歴史を知ってもらいたい』と思ったからだ。歴史上、東北の人物が悪者になったり、土地が辺ぴとされたりするのは、東北独自の史観がないからだ。われわれは中央史観を押し付けられてきたのではないか。」「東北の歴史は史料や記録が少ない。例えば坂上田村麻呂が副将軍として遠征してきたときの、エミシとの戦闘の記録がない。朝廷側が勝ったとされているが、その数年後に田村麻呂が将軍として再び東北に赴いたということは、実は戦いに勝っていなかった、という仮説が成り立つ。『都合の悪い歴史は消してしまえ』と、アテルイの記録は時の権力者によって抹殺されてしまった可能性もある。」「東北の歴史を語ることは、他の地域とは違ったニュアンスを持つ。日本史には耶馬台国など多くのなぞが残されているが、それを解き明かしたところで地域の意識が変わることはない。東北の歴史をひもとくことは、東北の根底にあるコンプレックスを打ち破ることにつながる。エミシが東北に住む人々の総称だとすると、その歴史は東北に生きた人間が中央に立ち向かった歴史だ。現代の東北でも、エミシの魂は地域の誇りにつながるはずだ」

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岩手県が発行している『IPANG』№4(1998年4月)に、増田岩手県知事と哲学者 ・梅原猛氏との対談が掲載され、アテルイにも触れている。
「梅原 最近、坂上田村麻呂に破れたアテルイの碑が京都の清水寺に建てられましたが、アテルイ側から歴史を見ると、いままで学校で教えられた歴史とは違った歴史が見えてくると思います。東北の文化というものは、大和の文化と土着の蝦夷の文化の総合。むしろ活力とか自然との交わりという点では、大和よりもはるかに深い知恵を持っていた。その知恵を学ぶべきです。朝廷に反抗した悪い奴だという史観だけではもう計れないと思います。増田 いま岩手でも歴史の解明が進んでいて、志波城や徳丹城、胆沢城でも調査が行なわれています。新しい史実が解明され、これまでの歴史観を覆す発見があるかもしれませんね。」

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地域在住の6人の研究者が最新の胆江地域の歴史・考古学の研究成果を分かりやすく、簡潔にまとめた。この中で、伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)は「蝦夷と政府の激突の時代」を以下のように記述している。
「蝦夷と政府の激突を物語る有名なものに宝亀十一年(780)の伊治公呰麻呂の乱と、延暦八年(789)の胆沢地方を舞台にした胆沢の合戦があります。とくに後者は、当地方の北上川東岸を主戦場に、阿弖流為・母礼らに率いられた蝦夷軍が五万の軍を向こうにして戦い、蝦夷側の大勝利に終わった合戦として私たちに記憶されています。これらの戦いは「蝦夷英雄時代」と呼ぶにふさわしいものがあります。しかし、政府も胆沢攻略に執念を燃やします。延暦十三年(794)には副将軍坂上田村麻呂を実戦部隊の総指揮官として、前回遠征の倍近い十万の大軍を投入してきました。「正史」は詳細を記していませんが、前回にも増した激戦だったようで、戦死者、捕虜、焼亡村落を含めて蝦夷側の被害は甚大でした。それは前回の戦いが北上川東岸中心であったのに対し、今回は西岸一帯も戦場となったためでしょう。水沢市の東郊、北上川右岸一帯に杉の堂、熊の堂遺跡群があります。調査は十数年前から行われていますが、ちょうど阿弖流為の時代に重なる奈良時代の終わり頃の竪穴住居跡に、ある共通した現象があることに最近気づきました。ほとんどの住居が焼失しているのです。さっそくデータをとってみました。遺跡群の範囲は約二万平方㍍、これまでの調査でこの時期の住居は約四十棟。そのうち八割が火災に遭っていました。焼失状況は強風に煽られた様子はなく、垂木や屋根材のカヤは自然に焼け落ちたものばかりです。遺跡群内は空閑地もあり、隣のムラとは区別され、類焼は考えられません。記録を残さなかったモノ言わぬ蝦夷たちのメッセージがここにあるのかもしれません。」【胆江日々新聞社刊 1800円】

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平成10年3月7日、第四回目となるアテルイ、モレの法要が清水寺のアテルイ、モレ顕彰碑の前で行なわれた。森清範清水寺貫主、大西執事長ら四人の僧侶によって法要は営まれた。水沢からツアーとして参加した約30人を含め関係者約90人が出席した。今回は碑の傍らに水沢市の市花「シダレザクラ」を植える植樹祭も盛大に行なわれた。北天会(関西アテルイ顕彰会)の高橋敏男会長は、植樹の申し出を快諾していただいたばかりでなく、狭いということで石垣を積み場所を広げてくださった清水寺の配慮に心から感謝していると述べている。付近には、ベンチ三脚も置かれ、顕彰碑の環境はいっそう整えられた。

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列島に展開した地域性豊かな社会と「国家」とのせめぎあいの歴史を、社会の側からとらえなおして叙述した通史という。 著者は本書の「はじめに」で次のように述べている。これまでの「日本史」は、日本列島に生活をしてきた人類を最初から日本人の祖先ととらえ...、そこから「日本」の歴史を説きおこすのが普通だったと思う。いわば「はじめに日本人ありき」とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、われわれ自信の自己認識を非常に不鮮明なものにしてきたと考えられる。事実に即してみれは、「日本」や「日本人」が問題になりうるのは...七世紀末以降のことである。それ以後、日本ははじめて歴史的な実在になる...。このような問題意識に立つ著者の、アテルイに関係する記述が以下である。
「七八八年(延暦七)、紀古佐美を征東将軍とし、東海・東山両道、あるいは坂東諸国から五万余の軍勢を動員し、東北との本格的な戦争が開始されるが、これを迎え討った東北人は、翌年、首長阿弖流為の巧妙な戦術によって、北上川で日本国の軍勢を包囲、大打撃を与えて撃退した。」
「七九四年...東北での戦争の勝報が伝えられた。東北の首長たちのあいだに、日本国の軍勢に徹底して坑戦するか、あるいは服従して日本国の国制のなかで地位を得る道を選ぶかをめぐって内部分裂がおこり、これに乗じて坂上田村麻呂は多くの東北人を斬殺し、胆沢の占領に成功したのである。」
「八〇一年(延暦二〇)には田村麻呂が再び四万の軍を率いて東北北部に攻め込み、翌年、胆沢城を築くと、さきの北上川の戦いの勝者阿弖流為は兵を率いて投降した。田村麻呂はこれを京都に連行して助命を主張したが、結局、阿弖流為は斬られ、東北人の中に日本国に対する深いうらみをのこすことになった。」

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読売新聞岩手県版(1997年10月18日付)のシリーズ「地名を歩く」に、水沢市の跡呂井(あとろい)が取り上げられた。「朝廷破った蝦夷の首長、1200年の時超え再評価」の見出しで、アテルイと直結する地名であること、アテルイとアテルイの再評価の過程なども紹介している。現在、行政上の地名は水沢市の神明町、花園町、杉ノ堂であるが、この地域は明治の初めに周辺の村と合併するまでは「跡呂井」村と呼ばれた。今も町内会と地区名は跡呂井を使っている。江戸時代の「安永風土記」(1773)には「安土呂井村」と記されているが、それ以前の記録はわからない。水沢市埋蔵文化調査センターの伊藤博幸氏は、「今だから、アテルイと関係があるといえるが、(朝廷に刃向かった)『賊軍』だったため、地名の由来を伝える伝承がどこかで途切れてしまったのではないか」と、跡呂井の地名の手掛かりが少ない理由を推測して語っている。跡呂井町内会長を務めた佐々木盛氏(当会副会長)は、子供のころ「アテルイごっこ」と称してチャンバラごっこをしたこと、父親らから「アテルイがこの地方にいて周辺は蝦夷集落だった」と教えられたことなどを語っている。

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「宮沢賢治はアテルイをどうみていたのだろうか」をテーマとする。賢治の詩「原体剣舞連」には、アテルイが伝説化したことによる呼称ともいわれる「悪路王」が登場する。しかし、検討していくと、賢治作品の「悪路王」は史実のアテルイとオーバーラップできないことに気づかされ、むしろそれから遠ざかっているという。
岩手日報社発行の文芸誌『北の文学』第35号の入選作(文芸評論部門)

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第15回岩手日々新聞文化賞に四団体が決まり、学術・研究部門には延暦八年の会が選ばれた。アテルイを軸に胆江地方の歴史、文化を研究し、地域おこしに取り組んできたことが評価された。アテルイに関する企画展、講演会の開催、ライブラリーの創設、郷土史読本の発刊などの実績がある。『岩手日日新聞』平成10年1月1日

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東北の古代史に関する「六国史」の記事を順を追って紹介しながら、著者の視座からそれを読み解いた。国史の捏造部分を抉る試みという。著者は「巣伏の英雄阿弖流為を被征服者の立場から考えてみたいと常々思っていた」と前書し、書名にも阿弖流為の名前を入れているが、「阿弖流為・母禮の実像」究明に触れる部分はそれほど多くはない。阿弖流為に関しては、【1】「阿弖流為とは田茂山の跡呂井に住む人と言う呼称」である。【2】「阿弖流為は後代に至り次第に英雄に仕立て上げられた人物」である。【3】「阿弖流為とは出生死亡も確認されない謎の英雄」である。【4】「阿弖流為は決して大国を統一した首領とは思われないし、軍事教育を受けた武官でもなく、訓練した兵士を従えた専門的な軍人ではない。普通の土着の農民であったが、律令制の不条理さと無頼人上がりの政府役人の行動に憤りを感じ、決起しただけなのかも知れない。やがてその指導性と剛胆さが衆目の見るところとなり最高指導者に選ばれたのであろう」。【5】「大和政権の軍事力に対応して戦闘集団が自然発生し、それを統率する酋長として阿弖流為が生まれたものであろう」などというものである。

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