現在306件のアテルイ情報を掲載しております。

 8月24日、水沢市羽田地区振興会主催により羽田町の羽黒山で開催され、軍事通信手段に使われた"のろし"の再現が行われた。高々と舞い上がったのろしは約6.5キロ離れた胆沢城造営千二百年記念"夢あかりコンサート"会場でも確認され、開幕を告げる合図ともなった。同地では、昨年にアテルイ関連遺跡として、延べ五百人以上が参加した市民発掘が行われており、今回のイベントはアテルイ没後千二百年協賛事業として位置付けられた。北上川を見下ろす高台には高さ5メートルの物見やぐらも設置された。

ページの上に戻る

 アテルイ没後1200年記念大会において、アテルイの里から未来へのメッセージとして水沢市立常盤小学校合唱団が出演、その合唱は大きな感動を呼んだ。

♪ときをこえ かけてゆけば そこは父なる大地と 馬と清水とヒタカミのいまに伝えた北上川
 今はむかしアテルイの ああアテルイ エミシのかしら 里を守らんと 燃えた人♪ 

 この歌は、常盤小学校の「施設活用授業研究会表現集会」(平成4年度)のために作られたものであるが、今も児童たちが歌い続け、第二校歌的に親しんでいる歌であるという。

ページの上に戻る

 平成14年9月16日、水沢市のZホールで開催された≪アテルイの里・姫神コンサート~天空を駆けるアテルイの想い≫で披露された。コンサートの構成は、第1章「去国府多賀城界一百二十里~道奥まほろば~」、第2章「蝦夷立つ~ふるさとの山河と人々を守れ~」で、第3章が「阿弖流為~胆沢蝦夷賛歌~」。シンセサイザーとバイオリンによる幻想的な調べが古代ロマンの世界に誘った。
「アテルイが没して1200年。その遥かな年数に想いをはせると共に、私がこの岩手の地から音楽を紡いでいることの、後ろ楯のようなものをアテルイからもらっているような気がします。岩手に根をはって生きる私の、アテルイに対する想いを少しでも皆様にお伝えすることが出来たなら、これに勝る喜びはございません。...」以上は、姫神/星吉昭さんのメッセージ。

ページの上に戻る

 シンガーソングライターあんべ光俊さんが、胆沢城造営・アテルイ没後1200年記念歌として作曲し、平成14年8月24日の夢あかりコンサートで発表した。歌詞は短歌形式で全国公募したところ、239人から960編の作品が寄せられ、この中の佳作9編から一曲に再構成した。11月21日にCDが全国発売される。
 いにしえの/えみしいさまし/アテルイのなごりの城を風青く吹く/我もまた/えみしの末か/
 みちのくにあふれたる血潮脈うつを聞く/エイオー エイエイエイエー ... ♪
 北天の空に流れるアテルイの生きてるリズム大地の響き/ ... ♪

ページの上に戻る

 平成14年11月24日に開催される第11回水沢市民祭で、創作劇「アテルイ外伝~1200年の時空を超え 未来への飛翔~」が上演される。小学生から高齢者まで約60人が参加、音響や照明、舞台装飾などの技術スタッフも一般市民が手掛ける初の試み。

ページの上に戻る

 岩手県演劇協会副会長の浅沼久さんが脚色演出を担当。アテルイの少年時代に焦点をあて、ミュージカルの要素も取り入れ全13場の一時間を超える舞台にした。出演者は公募で集まった幼稚園児から高齢者までの42人で、4月下旬から練習を重ね、平成14年7月26日に盛岡市で開かれたアニメ「アテルイ」上映前夜祭で公演した。

ページの上に戻る

【1】「夕霧物語」 アテルイを題材に衣川村の神楽継承四団体が創作した。アテルイや同村に伝わる霧山太郎、達谷窟に伝わる悪路王と坂上田村麻呂との人間愛を描いたストーリー。
【2】「アテルイ」 水沢市羽田町外浦地区のうぐいす沢神楽保存会(今野芳郎会長)が創作し、8月24日に開催された「羽黒山古代ののろしフェステバル」会場で初披露した。アテルイ誕生、朝廷軍の侵攻、巣伏の戦い、坂上田村麻呂への降伏の全四場面構成で、アテルイが外浦地区で誕生したという新解釈以外は史実どおりの内容。
【3】「アテルイの里」 水沢南小学校神楽クラブのアテルイを題材にした創作神楽。8月22日、水沢市の日高神社で開催された胆江神楽大会で披露された。

ページの上に戻る

 仙台を拠点に活動している俳優の米沢牛が、ひとり芝居「アテルイの首」2002年版を、広島公演を皮切りに全国七都市で上演。東北では山形県川西町(10月12日)、仙台市(10月16~18日)、盛岡市(10月22.23日)。10月14日には江刺市の藤原の郷でも特別公演した。三作目となる2002年版は、米沢牛が四役を演じ分け、蝦夷の首長アテルイをゆかりの人間に語らせることで描き出す。

ページの上に戻る

 平成14年8月5日から28日まで、「劇団☆新幹線」の中島かずき作、いのうえひでのり演出による「アテルイ」が新橋演舞場において上演された。アテルイには市川染五郎、坂上田村麻呂には堤慎一が扮したほか、水野美紀、渡辺いっけい、金久美子らも加わる豪華キャスト。派手な照明、ハードロックの大音響、絶え間なく続く立ち回り、繰り出されるギャグ、楽しくスピ―ド感あふれる展開に休憩を挟んでの約三時間も瞬く間であった。歴史に大胆な脚色を加えているが、その根底に流れるものをきっちりと掴んで内容を組み立てており、その意味でも素晴らしい作品と拍手できるものであった。
 なお、新橋演舞場での公演を前に市川染五郎、堤慎一さんら一行15人が、イメージづくりとスチール撮影のため水沢市の埋蔵文化財調査センターなどを訪れた(6月19日)。染五郎さんは「十数年前、新しい歌舞伎をやりたいと思い題材をさがしていたらアテルイに出会った」という。「悪路王像は刺激的...」と見入っていた。

ページの上に戻る

 平成14年8月5日、映画での物語も始まる水沢市において公開された。公開に先立ち、上映会前夜祭"アテルイ・フェスタ"が7月26日に盛岡市で開かれ、佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)による講演やトークショーなどが行われた。また7月29日には水沢市で、30日に盛岡市で完成試写会が行われた。県内各地での上映は、盛岡市、花巻市、北上市、一関市、玉山村、宮古市、衣川村、陸前高田市、江刺市、前沢町、葛巻町、岩手町、西根村、滝沢村、大船渡市、矢巾町、花泉町、紫波町、二戸市、安代町、軽米町、普代村、山形村、岩泉町、藤沢町、沢内村、川井村、松尾村、雫石町、大槌町と続いている。9月28日には東京で試写会が行われ、12月には千葉市と横浜市で、来年1月にはよみうりホールで上映される。大阪では10月8日に試写会が行われ、11月23日~12月6日に天王寺フェスティバルゲート7階のシネフェスタで上映される。

ページの上に戻る

 秋田県わらび劇場での一年間のロングランを終え、平成14年9月1日の水沢市文化会館での公演から全国巡演のスタートを切った。同ミュージカルは初演から約一年間で220回を公演、延べ入場者は七万人を超えた。
 水沢公演のカーテンコールでは、演出を手がけた中村哮夫氏が「今日は熱く燃え上がった。エミシの思いを全国に伝えたい。理不尽に力で攻め入られ、虐げられている人たちは現在も世界中にいる。立ち上がる魂の尊厳を発信していきたい。」と話し、アテルイを演じた安達和平さんは「蝦夷の心を伝えるため、全国を駆け巡ってきます」と挨拶した。また、この日には水沢市内の有志が集まって「アテルイを全国に発信する会」(発起人代表:後藤水沢市長)が結成され、「没後1200年を契機に、さらに全国の「郷土を愛する人たち」にアテルイを知ってもらいたい」とする発会決議文を採択し、全国巡回公演の成功を祈った。巡回公演はまず岩手県内に始まり、盛岡市、東山町、前沢町、玉山村、藤沢町、住田町、遠野市、大船渡市、種市町、宮古市、金ヶ崎町、二戸市、花巻市、一関市などで上演。11月には神奈川県厚木市、宮城県の小牛田町、白石市、仙台市、築館町、岩沼市、多賀城市、石巻市、福島県の棚倉町などでの上演と続く。2004年3月まで全国で約280ステージが予定され、最終公演を岩手県内で行う。

ページの上に戻る

 アテルイ没後1200年記念事業のメインをなす当会主催の ≪ 甦れ、アテルイ展 ≫ が閉幕した。平成14年9月13日から24日までは水沢市のメイプル4階ホールにおいて、9月28日から10月21日までは江刺市の歴史公園えさし藤原の郷において開催された。
 展示内容は、【序】として、開催宣言(次ぺージ)と"古代国家と蝦夷"のコーナー。
【Ⅰ.アテルイが起つ!】のコーナーは、延暦期における胆沢の戦いとアテルイの降伏・斬殺まで。ここでは、「水陸万頃の胆沢の図」として古代胆沢の1万分の1模型を製作、延暦八年の戦いを再現した。また、戦いに関連して蝦夷の武器武具も展示した。
【Ⅱ.アテルイの村々】のコーナーでは、江刺市で発掘された蝦夷の畠と墓、金ヶ崎町で発掘された蝦夷の墳墓群、水沢市で発掘されたアテルイ時代の蝦夷の村々を取り上げ、それぞれから出土した土器類を展示した。
【Ⅲ.わが名はアテルイ】のコーナーでは、阿弖流為の名前が登場する『続日本紀』(明暦三年版)を展示したほか、名前に関わる研究の現状をパネルにして紹介した。
【Ⅳ.われは悪路王にあらず】のコーナーでは、茨城県桂村の鹿島神社社宝「悪路王頭形」と鹿島神宮蔵「悪路王首像」を展示、中尊寺に伝わる「伝悪路王佩刀」の写真パネルなども展示した。
【Ⅴ.甦るアテルイ】のコーナーは、アテルイ復権年表をはじめ、清水寺建立のアテルイ碑、教科書に掲載されたアテルイなどの写真パネルを展示、関係出版物も多数展示した。アテルイの全身像も独自に製作し展示した。水沢会場の入場者は、3,862人にのぼった。

ページの上に戻る

 平成14年2月25日付け同紙文化面の 文化 に、「エミシの族長アテルイの史実伝える会を主宰」と紹介されている佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)の「古代東北、英雄の顔」が掲載された。佐藤氏は今年が古代東北の英雄アテルイの没後千二百年にあたることと、これまでの顕彰活動をアテルイの新しい肖像作成を中心に紹介しながら、最後に「ぜひとも後世に伝えたいのは、アテルイたちは都に攻め上ろうと思ったわけではなく、国家を牛耳ろうとしたわけでもないということだ。守勢一方で、豊かな地域と心豊かな仲間たちを守るため戦った。その精神こそ、次の世代に引き継いでいきたい。」と結んでいる。全国紙にアテルイに関する内容がこれだけ大きく取り上げられたのは初めてのことである。

ページの上に戻る

 新橋演舞場2002年8月公演に、中島かずき作、いのうえひでのり演出による新作「アテルイ」の上演が決定した。主催製作は松竹株式会社。8月5日(月)が初日で8月28日まで。アテルイには市川染五郎、坂上田村麻呂には堤慎一が扮するほか、舞台初出演の水野美紀が2人の男の運命に関わる謎の女を演じるとのこと。さらに渡辺いっけいや金久美子らの客演俳優陣も加わる豪華キャスト。
「平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂による「蝦夷征伐」の世界を題材に...、蝦夷(えみし)の長アテルイと田村麻呂の闘いという歴史上の出来事から大きく想をふくらませ、二人の男の交情と宿命的な闘いの物語をスピ―ド感ふあふれるエンターテイメントとして舞台上に繰り広げます。」との作品紹介。
 新橋演舞場のホームページに掲載された出演者のコメントは。【市川染五郎】10年近く前から興味を持っていた人物「アテルイ」を<いのうえ歌舞伎>で演じることができて、最高に興奮しています。お能や歌舞伎では"鬼"としか書かれていない「アテルイ」に血を通わせ、歴史上のどの人物よりも注目され、愛される魅力的でミステリアスな"人間"を目指しています。【水野美紀】『火怨』という小説を読んで「アテルイ」という人の生きざまに心がふるえました。その人と出逢えるのです。憧れていた方々の舞台に参加できるのです。いいんでしょうか?実は、私初舞台なんですけど...。"御観劇料(税込)"は、1等席10,500円から、3階B席3,150円まで。

ページの上に戻る

 サブタイトルは、「日本書紀」の語る蝦夷。蝦夷の綾糟が服属した問題などの徹底的な検討から、独自な征夷の歴史解釈を試みていて興味深い。第八章が、「アテルイと田村麻呂」で、アテルイの坂上田村麻呂への投降の意味が探究されている。以下、アテルイに直接言及した部分の一部を紹介する。
「わたしには、政府が、伊治城を築き、武力による制圧の路線をとりはじめて以降、王化を慕っての蝦夷の帰服ということはもはや存在しなくなっているように見えるのである。後の延暦二十一年(八0二)の、胆沢の蝦夷を代表する阿弖流為らの投降にしても、決してみずからの土地の独立を守る戦いが誤りだったと考えたためではなく、土地の同胞たちを飢え死にさせないための最終的な選択として、やむなく国家への帰服を選んだものに見えるのである。そのような帰服の場合、たとえ自身は一陣の夢と散ったにしても、同胞たちの間には、みずからへの誇りと、独立の気概が、どこかに、いつまでも残るものなのである。」
「この投降には、田村麻呂の方からのさそいかけもあったことであろう。しかし、もはや対等の戦いができなくなっていることは事実であったろうし、たとえ田夷というよりは山夷というべき生活をしていたとしても、うち続く戦乱のために生活の疲弊にはおびただしいものがあったであろう。意欲の点でも、この延暦二十年までくれば、終息することなく数年ごとに征軍を送ってくる敵に対して、果てしなく戦いを続ける気力は、もはや相当に乏しくなってきていたことだろう。そして、...田村麻呂をはじめとした陸奥国の為政者が、夷俘の誇りを尊重し、その生活の維持の配慮をしてくれるものであれば、あえて戦う必要はもはやないと思えてくるであろう。こうしてアテルイらは降伏してくるのである。」

ページの上に戻る

 8月8日、秋田県田沢湖町のわらび劇場で始まった。わらび座創立50周年を記念しての上演。当日は水沢市から100人の観劇ツアーが訪れるなど約700人の観客で劇場が埋め尽された。今後一年間、わらび劇場で上演した後、来年9月から岩手、宮城で公演、平成15年4月から全国公演となる。初演に先立つシンポジウム「アテルイと現代」は、作家の高橋克彦氏、岩手県の増田知事、河北新報社の一力一夫会長の3人がパネリストとなり、赤坂憲雄東北芸術工科大学教授の進行で行われた。

ページの上に戻る

 茨城大学名誉教授で土壌動物の研究を続ける田村浩志さんが、胆沢町内の焼石岳のブナ林で新種のトビムシ3種を発見、同大学の研究報告誌『自然誌』に論文を発表した。頭部に5本の剛毛が生えているムラサキトビムシ属の「アテルイムラサキトビムシ」は、その身体形状が他のものと際立って違っていて非常にいかつい姿をしているのが特徴。この地方の英雄・アテルイにちなみ名付けたという。

ページの上に戻る

 東北芸術工科大学東北文化研究センターの発行(1999年10月創刊)。本号の特集は南北論の視座で、責任編集者赤坂憲雄氏の工藤雅樹福島大学教授へのインタビュー「蝦夷の古代史」が掲載されている。工藤氏の古代蝦夷の社会は部族制社会、英雄時代でもあるという説に関連して、赤坂氏は「ピエール・クラストルというフランスの人類学者が『国家に抗する社会』という本の中で、富が蓄積され権力が生まれ、やがて族長が王に転化して国家ができるというマルクス主義的な歴史発展説に対して、部族社会の族長と国家を支配する王との間には大きな裂け目があると論じています。むしろ部族制社会のある段階には、国家や王という異質な権力を生むことに抵抗する社会の状態が見られるといいます。工藤さんは時に、古代蝦夷の社会を「国家を作ることを挫折させられた」という表現を使われていますが、それはひょっとしたら国家や王という権力を拒んだ社会なのかもしれませんね。」

ページの上に戻る

 6月11日、同映画製作を支援する水沢地区推進委員会(会長:新田清二水沢商工会議所会頭)が行政、市民団体など38団体の参加により発足した。6月29日には、盛岡市において同映画製作上映運動推進県民の会(代表委員:水沢市長、岩手日報社社長、県商工会連合会会長、県PTA連合会会長、県商工会議所連合会会長、JA県五連会長)が発足した。名誉会長は増田岩手県知事。アニメ「アテルイ」は、シネマとうほくなど民間三社が製作する35㍉カラー作品(80分)で来年6月の完成を目指している。製作費約一億円のうち6500万円の支援を目標に協賛金の募集や鑑賞券を兼ねた製作協力券(一枚千円)3万枚の販売に全県規模の運動を繰り広げていく。映画は、岩手県内全市町村、さらに全国での自主上映も計画されている。

ページの上に戻る

 『月神の統べる森で』『地の掟 月のまなざし』に続くシリーズ第3弾。縄文のムラ(オサの名前がアテルイ)とそれを征服しようとする弥生のクニ、神話的構想で描かれたファンタジー作品であるが、物語はついに戦いに突入した。児童文学のジヤンルに入っているが、大人が読んでも興味深く、想像力豊かな世界に引き込まれる。つぎが最終巻だという。

ページの上に戻る

 アテルイの里観光協議会は、三種類の胆江地区観光ガイドを発行した。高齢者・女性向けの「アテルイの里」、小中学生向けの「遠足ガイドブック」、一般旅行者向けの「古代東北日高見国へ」で、それぞれのガイドで"古代東北の英雄・アテルイ"を紹介している。なかでも一般旅行者向けのガイドは、「東の夷の中に、日高見国あり。土地沃壌えて曂し。撃ちて取りつべし。」の『日本書紀』からの引用に説明が始まり、次ページには高橋克彦氏の「アテルイの怒り」と題する文が載っている。
「アテルイはただ襲い来る朝廷軍に対して歯向かったのではない。差別する人間の心に向けて剣を突き付けたのだ。だからこそ勝たねばならない。勝てぬまでも、その訴えはきちんと伝えなければならない。...アテルイは決して過去の英雄ではない。私たち東北に生きる者たちの心の中に今もある根本的な問題だ。我々は今もアテルイとおなじところに立たされている。」...心に響く。

ページの上に戻る

【1】 競走馬アテルイ http://www.rnac.ne.jp/^eclipsc/race1998/race0405.htm
1998年4月5日、第1回水沢競馬2日目に出走したアテルイ(アラブ系牝4才)。同年9月には、はるか佐賀県の第12回佐賀競馬に。12月の第17回佐賀競馬2日目の第2レースでは5着という成績。その後は消息不明。いま何処に...。
【2】 ひのきみ通信第6号 http://member.nifty.ne.jp/hinokimi/html/97/006.htm 
 千葉県の教員関係団体の発行物か?。1997年11月に自民党が提出した「適正な教科書検定を求める意見書案」を採択した千葉県議会を批判、歴史教科書問題をとりあげている。その中で、意見書に賛成する船橋の中学校教師のアピールを紹介している。「現在使っている教科書は恐ろしいことに韓国で使っても受け入れられるもの。教科書通り教えれば...古代では坂上田村麻呂ではなく、反乱者のアテルイを英雄視し、朝鮮出兵の豊臣秀吉は侵略者で、抵抗者のイ・スンマンを英雄視する。...こんな教科書は使いたくない。ぜひ直してほしい。」というもの。4、5年前のアピールではあるが、こんな先生はいまもいるのであろう。
【3】 ゲストブック:tsunekiyo より http://members.tripod.co.jp/bin/gb?member-name=tsunekiyo
 アテルイに関して  蝦夷(えみし)の族長として、大和朝廷と戦った人物。大和朝廷側の総大将は、征夷大将軍「坂上田村麻呂」である。西暦800年頃、長い戦いが繰り広げられ、田村麻呂もかなり苦戦した。そこで、和平交渉を結ぶことになり、蝦夷側の族長アテルイともう1名が代表として京の都に同行した。しかし、京の都ではその気はなく、だまし討ちのような形で、加茂の河原において斬首された。ところが、朝廷側は「たたり」を恐れその2名の魂を鎮めるため、清水寺に鎮魂碑を建立したという。そして、毎年天皇がその碑を詣でているらしい。...
 From:がじ  Date:Sun May 21 09:41:10 2000
【4】 達曽(たっそ)拓也の国会便りV2/7月第4週号  http://www.sphere.ad.jp/tasso/000718.htm
 「火怨」は、朝廷軍による蝦夷征伐に立ち向かったアテルイの戦いを描いたものです。私は今回の総選挙、特に岩手県における選挙戦を「西暦2000年のアテルイの戦い」と呼んだところ、マスコミにも大いに取り上げられました。朝廷が派遣する大軍を次々にうち負かし、蝦夷の独立、そして何より蝦夷の心を守り抜いたアテルイとその同志たち。「改革の政治」の理想と、その理想にかける岩手県民の心を守り抜こうとする、自由党岩手県連の戦いに重なるものでありました。アテルイは我々にとって「神」であります。NHK大河ドラマ「炎立つ」の最終回、藤原泰衡=経清が死を迎えようとするとき、安倍貞任、宗任らの霊がやってきて口々に「アテルイのもとへ行こう!」と言う泣けるシーンがありますが、みちのくに生まれた、あるいはみちのくに生きる我々にとって、「正しく生き、正しく死ねばアテルイのもとに行ける」。そのアテルイを活き活きと描ききった「火怨」は、我々にとってまさにバイブルであると言えましょう。また、そんな本が全国的にベストセラーになっているということは、日本全体がアテルイを求めているということではないでしょうか。
【5】 川村カ子トアイヌ記念館で学んだ【アイヌモシリ年表】http://www.jade.dti.ne.jp/^mount/ainu.moshiri.html
 600年ユカラ(叙事詩)形成される。788年延暦7年 桓武、五万の大軍を派遣するも、東北アイヌに敗北する
 (岩手県水沢市)。803年延暦22年 アテルイ父子、京都の帰りに大阪で虐殺される。1443年和人によるアイヌ・モシリへの移住始まる。
【6】 秋田市「土崎港曳山まつり」に阿弖流為 http://ishii.gadget.ne.jp/Maturi/h11pic/h1107.htm
 毎年7月20、21日に行われる土崎神明社祭の曳山まつりは、重要無形民俗文化財に指定されている。各町から、歴史上の事象に題材をとった人形を配した多数の曳き山車が出る。平成11年の祭りには25台が出ていて、統前加賀町の山車は「北上に夷将阿弖流為颯の猛攻」。解説には、「延暦八(789)年、桓武天皇は大規模な蝦夷征討計画を開始した。紀古佐美を征討将軍とする朝廷軍が北上川を渡ろうとした時、胆沢の族長・阿弖流為に率いられた蝦夷軍が奇襲攻撃をかけ、千人以上を溺死させたという。朝廷軍の大敗北であった。...」 山車の写真を見ると、アテルイの人形は上半身裸の半ズボン姿で、髭をはやし髪はぼうぼうで胸まで垂れ、白馬に乗った紀古佐美とは対照的である。これでは「悪役(鬼)?」かと思ったが、他の町の山車を見ると本能寺の変の「蘭丸」など、ほとんどの主役が阿弖流為の人形とほぼ同じ作りであった。どのような理由か?
【7】 日本人物総覧 http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gi11496/00/0a-004.html
 ※(悪路王首像の写真) アテルイ [あてるい] ≪8世紀後半頃~802≫【別 称】 大墓阿弖利為(おおつかのあてりえ。『続日本紀』)。【肩書き・職業】 蝦夷の長。【出自・系譜関係】 奥州胆沢地方(現・岩手県)を拠点とする。系譜関係不明。【履歴・事績】 大化改新以来、奥州支配を推進する大和朝廷側に反発する先住民とみられる。延暦七(788)年、奥州へ赴任していた征夷大使兼将軍・紀古佐美(きのこさみ)ら5万2千の兵を迎え討つ為、同胞・盤具公母礼(いわれのきみもれ)ら荒吐一族と共に北上川流域でこれを敗退せしめる。これに対し、紀ら征夷軍は新たに4千人を奇襲兵として胆沢に派遣したが、これも死傷者を3千人以上も出した上、無残に全滅させられている。...
【8】 BEAUTY RIDING 南部馬:古代編   http://www.hi-net.ne.jp/tjouba/btr3-1.htm
 紀古佐美に始まり坂上田村麻呂らに及ぶ再三の蝦夷征伐は、単に「まつろわぬ夷狄」を鎮圧し領地を拡大することだけが目的ではなく、南部駒の略奪は重要な任務であった。当時西国の馬は貧弱で、乗用ならともかく挽用としてはほとんど役に立たなかった。貴族の乗り物として、平安時代に至ってなお牛車しかなかったのもそのためだ。...延暦8年、紀古佐美を大将に胆沢地方(岩手県中部)の討伐に向かった総勢4000人の部隊は、戦死25人、水死1036人、行方不明1600人余と全滅に近い惨敗を喫した。この戦は、蝦夷軍を追って北上川で立ち往生していた討伐軍に対し、折りからの大雨で水かさの増した川を蝦夷軍が渡河して反撃に出たものだ。騎馬隊が川を泳いで渡るなど想像だにしなかった討伐軍は、戦わずしてパニックに陥り敗走を余儀なくされた。この戦いに限らず、野山を風のように駆け巡る蝦夷軍の騎馬隊は、常に討伐軍を攪乱し奇襲した。そこで、力で蝦夷を討つことの難しさを悟った大和朝廷は、懐柔策に切り替える。...
【9】 蝦夷によって継承された鉄器文化 http://202.211.8.173/SATOK/data/sigaku.html
 蕨手刀は、5世紀末に既に製造されている。789年の紀古佐美軍と戦った阿弖流為が使っていた。...鉄を造るための材料...磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄の4種類。破砕を必要としない「餅鉄」。粒状の磁鉄鉱。岩手は以上の4種が豊富に存在していた。...東磐井郡の蕨手刀は、餅鉄を使用した形跡が大。和賀郡のは砂鉄。...阿弖流為の製鉄と蕨手刀つくりについて。●石井昌国氏:蕨手刀は奈良時代後期を中心にして、奈良時代前期から平安時代初期にわたって、短期間につくられたもの。特に胆沢と和賀が拠点。現在鹿児島や徳島まで180刀発見されているが、岩手が57刀。阿弖流為のはいとうは66cmぐらいあった、という。
【10】 みちのくの鬼は、エンジニアであった!?  Http://202.211.8.173/SATOK/pr/ezo/ezo.html
 人の倫を信じ平安京へ旅立った蝦夷(エミシ)の雄アテルイも、幻想を感じた詩人だったのではないだろうか。アテルイ、大墓公阿弖流為は、774年から38年間続いた蝦夷征討戦争で、前沢・衣川付近でひと頃は約10万の田村麻呂率いる朝廷軍の侵入を抑えた。それ以前にも、紀古佐美率いる約5万朝廷軍をわずか千数百の兵で打ち破り、遁走を余儀なくした。そんな日本を二分した日高見(北上)の戦場が、この地、一関から始まっていた。...雲霞のような大軍が、水陸万頃の地、胆沢平野へとなだれこんできた。しかし胆沢の巨星、アテルイはひるまなかった。5cm鉄鏃矢の強弓をひき、チームワークのよいゲリラ戦で、大軍を翻弄した。鬼のアテルイ達は、日本刀の原型になった蕨手刀の量産技術をもっていた。平和な地になぜこのような武具等の製造プラントが存在したのであろう。憶測では、朝廷とも交易していた渤海と独自に交易し、技術立国しており、採鉱、燃料調達、製鉄、出羽や津軽を通じた物流、また抜群の人的管理技術が存在していたと思う。
【11】 金田一温泉郷 http://www.shokokai.com/iwateken/news/no147/p7.html
「江戸時代には南部藩指定の湯治場であり「侍の湯」とも呼ばれていた金田一温泉(二戸市)は、さらに溯れば千年以上の歴史を持ち、蝦夷の首長アテルイが湯浴みしたのに始まるといわれています。」二戸は、弘仁2年の文屋綿麻呂による閉伊・爾薩平征討時の蝦夷首領伊加古の本拠地であろうといわれる(『角川日本地名大辞典』)。二戸市仁左平地内には伊加古塚と呼ばれる古い塚もある。どうせなら、「アテルイ」というより、「蝦夷の首長イカコが湯浴みしたのに始まる」としたほうがいいのでは...。
【12】 米澤牛一人芝居『アテルイの首』2000改訂版 http://www2u.biglobe.ne.jp/^set/gekihyou/76605224609375.html 
 『アテルイの首』は今回で三度目。同じ物語を、同じ役者が演じてこれほど変化するものかと、つくづく感じる作品である。三作見てきて、今回が一番、芝居として良くまとまり、かつエネルギッシュで、構造的にも複層的で豊かな芝居であったと思う。...なんと言っても前二作と大きく変り、この芝居自体の方向性さえ変えたのが、ラストの展開である。...今回は、エゾの麻呂が辛くも悪露を切り倒し、真のアテルイを探して旅に出る、それを見送るイタコのババが、「エゾの麻呂よ何処まで行ったんだ...。何処までも走って行けよ。お前のアテルイ様は見つかったか?」と語りかける。また、史実上でアテルイとされ降伏し、京都で首を切られた男の首を鞄から取り出し語りかけるシーンも良かった。「お前がこんなになって、エゾとヤマトを結びつけたが、そのかわり、エゾもヤマトも何かを失ったな?」この一言で前二作と今回の『アテルイの首』は全く別物になったように思う。否、前二回で語れなかった部分が、まとまりこなれてくることで、やっと表面に出てきたと言うべきか。...[2000年9月26日23時34分33秒]
【13】 アテルイ・ドット・コム  http://www.aterui.com/aterui.html
スタッフの平均年齢が弱冠25歳というベンチャー企業。インターネット事業のトータルプロデュース等を事業とする。水沢市に事務所を置き、設立から1周年を迎えた本年4月には株式会社となった。その会社名の由来をホームページに記載している。アテルイの生涯に関する概要を載せた後に、「私は、自分が暮らすこの地を誇りに思います。もっと若いころは、自分が田舎者であることに強烈なコンプレックスを感じていました。しかし、今は違います。インターネットとの衝撃的な出会いから数年...社会は間違いなくネット化の道を歩んでおり、この素晴らしいツールを使えば、この地で暮らしながらでも、世界を相手に対等に渡り合えると確信しております。そんな思いから、『アテルイ』の名前とネット時代の象徴である『ドットコム』を融合させて『アテルイ・ドット・コム』という会社名になったのです。」若い人たちが、素晴らしい気概をもって新しい事業を立ち上げ、会社名には「アテルイ」の名前を使用するということ、ようやくアテルイが次代に受け入れられつつあり、その芽が見え始めたと言っていいのかもしれない。

ページの上に戻る

 平成13年4月18日付『岩手日報』が、えみし学会会長柴田弘武さん(千葉県在住)の「脱中央の歴史教育を」という提言を大きく取り上げた。えみし学会は設立されて今年で十年、事務局は盛岡市にあり、毎年、岩手県内の各地で文化ゼミナールを開催している。...朝廷派遣軍にゲリラ戦で挑んだ阿弖流為を顕彰する動きが活発化している。ということについて、柴田さんは―――
「蝦夷や阿弖流為のことを堂々と顕彰できる時代がきたということは岩手にとって何よりも喜ばしいことだと思う。征服者の側からではなく、もともとその土地に暮していた側から見た歴史に県民が目を開く好機だ。中央からみれば征伐したとなるが、岩手の側からみれば阿弖流為は侵略者に対して郷土防衛のために戦ったというまったく違う歴史になるわけです。ちょうど、来年は没後千二百年。意識のうえで、自立回復元年と位置づけたい。」巣伏古戦場の石碑=江刺市愛宕の写真も大きく掲載されている。

ページの上に戻る

 岩手県が東京の銀座に開設した〔いわて銀河プラザ〕では、毎月いわて学講座が開催されている。平成13年3月11日には、「闇に封じ込まれた真実~悲劇の英雄アテルイ~」と題して、延暦八年の会会長の佐藤秀昭氏が講話をした。岩手県東京事務所の佐藤観光課長は、「賢治、啄木ならともかくアテルイは知名度不足だろうと内心はらはらしたが、定員を上回る聴講があった」とコメントしている。

ページの上に戻る

 アテルイ、蝦夷(えみし)を通じて縄文文化を見直そう、との呼びかけで動き出した。2月20日の勉強会には約50人が参加し、えみし学会の柴田弘武会長を講師に蝦夷の歴史等について学んだ。研究会を呼びかけた一人の宮古市出身の弁護士、西垣内堅佑さんは「アテルイ、蝦夷の歴史、縄文に対する人々の関心はかなり高い。来年はアテルイ没後千二百年でもあり、首都圏から岩手にエールを送りたい」と語っている。第2回研究会は、太田龍氏を講師に「縄文の正しいとらえ方」を主題として3月に開催された。資料の講演要旨の中には、「アテルイが日本原住民の指導者、という説(八切止夫)の誤謬。」とある。また、第2回研究会の案内文には、太田氏の講演趣旨の一部が紹介されており、「アテルイ・モレは、縄文系日本原住民どころではなかった、韃靼人系日本侵略の首魁。国難第二波は同韃靼人系の元寇襲来である。」としている。【平成13年2月28日付『岩手日報』夕刊より】

ページの上に戻る

 アテルイの肖像をモチーフとしたイメージキャラクターの入選作品が決定した。応募者95人、応募作品161点の中から選定された。製作者は愛知県立芸術大学4年生の小谷圭史さん。アテルイという英雄にふさわしい威厳と風格、力強さを出すため、四角の中に、アテルイの顔の目、口、髭の特徴的な部分を生かしてデザインした、とのこと。選考理由は、【1】「アテルイが見つめている」という意味付けができる。【2】シンプルな中に強烈な力強さがあり、その斬新さがひときわ目立ち、印象的である。【3】デザインの力点を片方の目に集中しているため、いやおうなく人の目をひきつける。【4】印象的な目が、喜んでいるように、怒っているように、悲しそうに、楽しそうにも、見る者の心の状態に応じて投影し、アテルイの生涯や地域の歴史を象徴すると理解できる。【5】地域と人々の暮しを過去、未来にわたって見つめている印象を与え、「アテルイの里づくり」のイメージを象徴する。【6】本事業のほか、多様なキャンペーンで活用できる拡張性を備えている。というもの。応募作品のほとんどは、顔もしくは体全体を描いたものであったが、最も抽象化された異色ともいえる作品に決まった。アテルイの肖像との関係から考える時、イメージキャラクターといってもむずかしく、ベターな選択だったとも言える。
 なお、キャッチフレーズには、応募者209人、応募作品482点の中から、北九州市の江島昭雄さん(74歳)の作品『見なおそう古代 見つめよう次代』が選ばれた。選考理由は、【1】胆江地方の歴史と文化を見つめ直し、広域的な地域づくりを目指す「アテルイの里づくり」の事業目的を的確に表現している。【2】イメージキャラクター「アテルイが見つめている」とイメージ上の整合性をとることが出来る。というもの。

ページの上に戻る

 平成13年4月24日、水沢市役所において設立総会が開かれた。これまでの準備委員会から発展させたものである。構成団体は以下のとおりで、会長には後藤晨水沢市長、副会長には佐藤秀昭アテルイの里地域づくりネットワーク会長、小沢賢胆江青年懇話会会長が選出された。市民団体:アテルイを顕彰する会、延暦八年の会、アテルイの里地域づくりネットワーク、NPO北上川中流域エコミュージアム推進会議、アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会、アテルイ歴史の里振興会、胆江芸術文化振興協会、胆江青年懇話会、八幡地区明るいふるさとづくり推進協議会、水沢市羽田地区振興会(今後、この他にも広く民間団体等の参加を呼びかける)観光団体:アテルイの里観光振興協議会、アテルイの里温泉協議会商工団体:水沢商工会議所、江刺商工会議所、金ヶ崎町商工会、前沢町商工会、胆沢商工会、衣川商工会、広域商工業振興協議会農業団体:岩手ふるさと農業協同組合、江刺市農業協同組合、行政機関:水沢地方振興局、胆江地区広域行政組合、水沢市、江刺市、金ヶ崎町、前沢町、胆沢町、衣川村、行政機関等:水沢教育事務所、水沢市教育委員会、江刺市教育委員会、金ヶ崎町教育委員会、前沢町教育委員会、胆沢町教育委員会、衣川村教育委員会、水沢市文化振興財団。
平成13年度事業計画の第一は、開幕行事としてアテルイ特別記念講演会とアテルイのイメージキャラクター、キャッチフレーズ入選作品発表等を中心としたイベントの開催。第二に、全国へ情報発信する事業宣伝としてPRポスター等の作製、わらび座「アテルイ」公演と提携したアテルイビールのラベル作製等。第三に、プレ事業の開催として「アテルイ関連遺跡市民発掘事業」があげられている。この発掘事業は、「延暦八年巣伏の戦いの再現を主テーマに、史実に現れた「東山」の解明」を目指すというもので、水沢市の羽黒山を調査対象としている。すでに発掘に関係する諸団体の第1回準備会議がもたれており、当会、延暦八年の会、水沢市羽田地区振興会の主催、水沢市埋蔵文化財調査センター、出羽神社、羽田公民館の協力で9月21~25日の予定で発掘を実施することが確認されている。

ページの上に戻る

【1】「1200年目の真実~アテルイの素顔~」 (胆江日日新聞 平成12年1月1日)
 元旦号の特別紙面半分に掲載された。アテルイ没後千二百年記念に向けてさまざまなイベントや企画の準備が始められていることから、アテルイの実像に迫った。アテルイは国史に「夷」や「賊」として扱われているが、それは「異人種」や「盗賊」を意味していたのではないこと。アテルイの処刑は「正規の処刑ではない」こと。また、伝説の悪路王とアテルイの関係などについて取り上げている。   
【2】 佐島直三郎 「アテルイ巡礼【4】」 (胆江日日新聞 1月4日)
 15回の連載で、アテルイの墓所の問題などについてふれているが、それよりも強調されているのが、アテルイとともに降伏した「モレの内応」ということである。第4回、10回、12回、15回と四度も言及している。すなわち、延暦八年の戦いにおいて朝廷軍が「いとも簡単に北上川を渡った」ことから、「水際作戦、橋頭堡でたたくのが最上の作戦ではなかったかと思うのであるが、それがいとも、川の流れを凌いで渡ったということは、水際作戦がなかった、或いはモレが行動を起こしていない、恐らく朝廷側から誘われ内応したのではなかったかと観られるのである。」等というのである。アテルイの戦いを描いた長尾誠夫の「蝦夷大乱」(『時代小説』№22、1993年)は「モレの内応」をストーリーに含んでいたが、小説ならまだしも、郷土史家の新見解というには根拠も薄く、理解に苦しむところである。
【3】「いわて21世紀への遺産~古代・中世を歩く~」(岩手日報 1月4日)
 「遺跡は語る・旧石器~古墳時代」に続く「奈良~安土桃山時代」の第1回。悪路王首像の大きなカラー写真を掲載し、奈良時代概観として水沢市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸氏が「蝦夷研究の現状と課題」について説明している。悪路王首像の写真説明に、「極彩色。首像は左右に割れたものをかすがいで止める。頭頂部のまげも端部を欠損。首像そのものの分析調査が必要である。江戸時代の作」。
【4】 久慈吉野右衛門「田村麻呂 阿弖流為」(岩手日報 1月17日)
 岩手日報の時評「日進」欄。久慈氏は岩手日報社会長。この欄では、1981年11月16日の「「西高東低」に思う」でもアテルイにふれている。
【5】 劇詞作家・可能あらた 「アテルイはなぜ戦ったか?」 (教育新聞 2月3日)
教育新聞 「円卓」 欄。延暦八年、「この時アテルイは一万数千人の村人を砦に匿い、千五百人の戦士とともに征東将軍・紀古佐美の率いる五万の朝廷軍と北上川を挟んで対峙し、その精鋭六千と戦った」。 一万数千人の村人を砦に匿った? 
【6】 後藤晨市長に聞く(岩手日報 2月6日)
 1月の水沢市長選に勝ち、3期目にあたってのインタビュー。「アテルイの志」で市勢発展を、の見出し。最後にリーダー論を聞かれて、「水沢にゆかりのアテルイは、時の政府からみれば反逆者でしょうが、私たちにとっては地域の幸福を第一に考え、住民を守った英雄です。私も行政のトップとしてアテルイのような高い志を持ち、市政のかじ取りにあたりたいと考えています。」
【7】「作家高橋克彦 故郷東北への誇り回復」 (日本経済新聞 3月19日)
 「創る アングル」の欄で紹介された。『火怨』で吉川英治文学賞を受賞し、多くの新聞にとりあげられたが、同新聞は『火怨』を「東北を舞台に、先住民・蝦夷(えみし)の若きリーダー、阿弖流為(アテルイ)が朝廷軍を迎え撃つ戦いを描いた長編。東北各地に残る伝承を拾い、歴史上、反逆者とされてきた阿弖流為に、誇りに満ちた武将という新しい像を与えた。」と評価し、「東北にとって、阿弖流為は精神的なよりどころに成りうる人物。いつか思いのたけを書いてみたかった」という克彦氏の言葉を紹介している。
【8】「新たな顔を得たアテルイ」(岩手日報夕刊 4月1日)
 「ニュース最前線」として水沢支局の神田由紀記者が大きくとりあげた。アテルイの肖像発表についてはどの新聞も記事としているが、肖像の基となった悪路王首像と黒石寺薬師如来坐像の写真を示して詳しく解説、さらに新野直吉秋田県立博物館長の「まゆを上げ、まなじりを決して戦いに赴くようだ。兵農分離のない時代、指導者は攻められたときは先頭に立って戦ったが、普段はもっとゆったりした顔だろう」とのコメント、作家高橋克彦氏の「抱くイメージはリーダーとしてのりりしさ。肖像は優しくて力持ちという印象で厳しい一面が伝わりにくい。大人より子どもがアテルイを理解し、あこがれるようであってほしいので、もう少し少年ぽくてもいいのでは。」という意見も紹介している。神田記者は、「新しい肖像は「蝦夷が鬼や獣などでない」ことをはっきり伝えている。ただ、時間的な制約があったにしろ、もう少し歴史的視点からじっくり議論したかった。」
【9】「河北春秋」欄 (河北新報 5月2日)
吉川英治文学賞を受賞した『火怨』にたいする井上ひさし氏の「人間の誇りは理不尽さに立ち向かうことという主題が全編を貫く。壮大な叙事詩の誕生だ。」という激賞する言葉を紹介した後、次のように続ける。「▼ただ、残念なのは英雄叙事詩の主人公には「顔」がないことだ。これまでは伝説上の人物悪路王の首像(茨城県・鹿島神宮所蔵)を阿弖流為の顔としてきたが、同一人物かどうかは定かではない。英雄がどんな面構えだったか、自由な想像が許されよう。▼岩手県水沢地方振興局がコンピュータグラフィックス技術で画像化した阿弖流為の顔は、ヒゲ面ながら穏やかだ(本紙三月二十五日付とうほく面)。仏像の顔を合わせたのだという。憤怒をためた悪路王首像は捨て難いが、悪相の気を消し去り英雄の雰囲気が漂う結構な出来栄えだ▼こうした熱心さは、東北人としての阿弖流為に対する誇りと尊敬の念から発するものだろう。」
【10】 書評欄「こどもの本 中学生向け」(読売新聞 5月4日)
 評者の永井悦重氏が、歴史ファンタジー『日高見戦記』の書評で、この作品が意識したと考えられる本として、次のように書いている。「ここ数年、中学生に読み継がれている本の中に、萩原規子の「勾玉」三部作(徳間書店)がある。日本の古代史に取材したファンタジーで、歴史小説ではないが、作者の歴史観は当然作品に反映されている。三部作完結編の「薄紅天女」に登場する坂上田村麻呂やアテルイの描き方については、出版当時から批判的意見もあるのだが、もっと本格的な論争が望まれるところである。」主人公は、武蔵国足立郡郡司の息子と蝦夷の巫女チキサニの間に生まれた阿高。アテルイについては人物紹介に、「倭人に抵抗する蝦夷の首領の一人。阿高をチキサニの生まれ変わりとして連れてくる。そして、チキサニとして、倭人と戦うことを強要する」とある。
【11】「天頂儀」欄(岩手日日新聞 7月4日)
 阿弖流為に関する国史の史料からは本当の人物像までうかがい知ることはできない。としたうえで次のように続ける。「▼肖像になると、なおさら。これまでは、鹿島神宮(茨城)所蔵の「悪路王首像」のいかめしい顔つきが、ややもすると、阿弖流為の顔と信じられてきた。しかし、今春、水沢地方振興局と地元の歴史研究グループらによって作製された肖像は、この首像と、胆沢の地に残る最も古い仏像である黒石寺の薬師如来坐像を"融合"させた▼この坐像は、阿弖流為が死んでから、六十年後に作製されたといわれ、「蝦夷の面影を残す」という薬師如来としてはまれな表情。ひげを蓄えた新しい肖像は、威風堂々とした感じを受ける。古代の英雄がよみがえり、その顔を見たら、何と言うだろう。「似て る」か、「違うぞ」か。夢はまた広がった。」
【12】「洛中のエミシたち・上」(胆江日日新聞 7月20日)
 胆江日々新聞社が企画したアテルイと田村麻呂に出会う京都ツアーの同行取材報告。片埜神社隣の牧野公園には「アテルイとモレの首を納めたと伝えられる首塚」がある。「...小さな石碑だ。身長も高く筋骨隆々だったと思われるアテルイらには似つかわしくない、小さくかわいらしささえ感じる」との感想。
 宇山東公園の近くは「アテルイとモレ斬首の地と伝えられる」が、「すでに住居が立ち並び調査は不可能という。」とのこと。
【13】 坂野勝雄「寄稿 逆説の歴(郷土)史2 アテルイ」(胆江日日新聞 7月24日)
 大墓公についての考察。大墓公をどう読むべきかということで、「胆沢町南都田字塚田にある『大墓(おおつか)前方後円墳』を比定とみて考えてはどうだろう」という。角塚古墳のこと。また、「墳墓が立派であればあるほど...盗掘防止策として大墓公(墓守)を置いたと考えられる。大墓公は国家的支配機構に属し、アテルイの家柄ではかなり以前から代々「大墓公姓」を継承されていたのではなかろうか。」という。墓守?。
【14】「9月9日あてるい祭」(胆江日日新聞 8月30日)
いわて生協水沢支部が、「いわて生協あてるい祭」を水沢市武道館で開くとの案内記事。「あてるい」に特段の関係なし。
【15】 県高校総合文化祭開会式・史劇で郷土をアピール(胆江日日新聞 9月30日)
水沢市を主会場に開催され、市文化会館では岩谷堂高校演劇部員が胆江地方の歴史を演劇に仕立て、三つの時代の歴史上の人物をとりあげて発表した。最初に演じたのが「東北地方の民が"えみし"と呼ばれた時代に生きた英雄アテルイ」。
【16】「北上で鬼学講座」(岩手日日新聞 9月25日)
 北上市立「鬼の館」では毎年「鬼学講座」を開設していて、24日には福島県立博物館の高橋富雄館長が「文献から見た日高見の国」をテーマに講演を行った。「十月の次回講座では、アテルイの城跡がある福島県などを訪ねる移動研修が予定されている。」とのこと。福島県になぜアテルイの城跡があるのか?。
【17】 すもうクラブ「アテルイ部屋」(胆江日日新聞 10月9日)
 第26回水沢市スポーツまつりが8日に開催され、市営相撲場で開かれたチビッコ相撲大会には市内の常盤、真城小学校から約20人が参加した。常盤小学校の相撲クラブの名前が「アテルイ部屋」。
【18】「水沢・あてるい委員会が寄附」(胆江日日新聞 8月9日)
 水沢市社会福祉協議会に、福祉まつりでのフリーマーケットの売上金20,060円と水沢局管内で回収した書き損じはがきから交換した2,685枚の未使用はがきを寄附した。「あてるい委員会」は水沢市内の各郵便局長で組織されている。
【19】「時針」欄(胆江日日新聞 11月27日)
 「...▼過日、北上湖畔の「道の駅」に出かけ、店内で川を背景に立っているアテルイ像にお目にかかった。白木彫りのその全身像は1㍍はあろうか。右手に弓を携え、左の肩に袋を担ぎ、その姿はふと、因幡(いなば)の白兎を助けた大国主命を連想させた。なかなかの美男子である▼一見、優しく映るアテルイ像は、蝦夷(えみし)の長。まなじりを上げ、その眼には哀愁をたたえている。それは蝦夷の民たちを思う憂いでもあろう▼アテルイの実像はない、と聞く。従って作品を手掛ける人たちはそれぞれの感性をアテルイに打ち込み、趣を異にしてかえっておもしろいかもしれない。この穏やかなアテルイを作者はどんなイメージを膨らませて彫り上げたのだろう。頭髪をきっちりと結い上げ、その髪の毛、垂らしたひげの一本一本を糸のごとく丹念に彫り、まさに「ひたむきさ」を地で行き、「ばか」になりきっている。その心意気が伝わってきた...」

ページの上に戻る

昨年『GOTTA(ガッタ)』に連載され、第1部が終了した高橋克彦原作・原哲夫漫画の「阿弖流為Ⅱ世」が早くも単行本になって発売された。ただし、奥付には全1巻とあり、第2部はなさそうである。第1部もストーリー自体充分に展開しつくしたとはいえないまま終わっており、残念な結果となった。

ページの上に戻る

延暦八年の会会長で当会副会長の佐藤秀昭氏と水沢市埋蔵文化財調査センター副所長で当会幹事の伊藤博幸氏による対談「恩讐を越えてアテルイと田村麻呂」、それに「阿弖流為の郷・探訪」が特集されている。対談では、胆沢の戦いやアテルイの降伏などについて興味深い内容が語られている。探訪では、古代国家とエミシ社会、律令国家にエミシ反乱、大勝利した巣伏の戦い、胆沢城造営エミシ帰順という内容が多くの写真とともに読みやすく工夫されている。『ダ・ダ・スコ』は北上市を本拠とする岩手県南半部のタウン情報誌。420円。

ページの上に戻る

アテルイ没後1200年記念事業準備委員会は、全国に発信する本格的な事業の展開に向け「アテルイの肖像」をモチーフとしたイメージキャラクターを募集した。採用作品はポスターやチラシなどで使用されるほか、賞金として25万円が贈られる。応募者は県内だけでなく、北海道、首都圏、中国地方、応募者の年代も職業もさまざま。2月20日の締切りまでに95人から161点が集まる予想以上の反響があった。作品の内容も、かわいいマンガ調、劇画調、CGを駆使した立体画などさまざまなタイプのキャラクターがそろった。いずれの作品も水準が高く、むずかしい選考になりそうだが、3月下旬に入選作品が決まる。
 また、同時に募集した記念事業の周知をはかるキャッチフレーズ(入選1点5万円、佳作5点1万円)には、209人から482点の応募があった。これも3月下旬に決定し、発表される。なお、これに先立ち水沢地方振興局は同振興局だより「アテルイの里」第5号(特集:アテルイ没後1200年記念事業)を胆江地域全世帯に配布し、事業の説明とキャッチフレーズ等の募集についての告知をおこなった。

ページの上に戻る

蝦夷社会はどのような社会だったのかということを主題としている。第4章4の「阿弖流為と胆沢の蝦夷」では、政府軍と蝦夷側との武力対決の経過にふれたうえで、「胆沢の蝦夷社会」について言及している。以下、抜粋して紹介する。
「胆沢の蝦夷社会はたび重なる数万規模の政府軍を相手に、その攻撃を一歩も退くことがなく戦う実力を具えていた。そして阿弖流為や母礼の指導力は、単一の、あるいはごく少数の集落を超えた広い範囲に及んでいたのである。このようなまとまりを生み出した背後には、七世紀の後半以来展開してきた、安定した農耕生活があったことは容易に推測できるであろう。」
「しかしながら胆沢の蝦夷勢力は政府側との関係も含めて、決して孤立した存在ではなかった。そのことを端的に物語るものが阿弖流為も母礼もそれぞれ大墓公、磐具公というカバネを有していることである。先にも述べたように、公というカバネは政府側がそれぞれの地域の蝦夷の族長に与えたものである。...阿弖流為や母礼もある時期には大墓公、磐具公というカバネを与えられるほどに、政府側と良好な関係にあった時期もあったのだが、胆沢地方の蝦夷に反政府的な面が強く出てきたときにそのカバネが剥奪されたのであろう。...そして阿弖流為や母礼が政府側に降り、その処置が未定の段階で大墓公、磐具公というカバネが復活したのであろう。」

ページの上に戻る

昨年10月に設立されたアテルイ没後1200年記念 古代から新発見「アテルイの里」づくり事業準備委員会(会長・村田行夫水沢市助役)は、没後1200年記念に向けた気運づくりとしてアテルイをより知ってもらうための講座を設置し、胆江管内で10人以上の集まりであれば要請に応じどこへでも無料で講師を派遣するというユニークな事業を実施した(3月まで)。
 平成12年11月17日の初回は、胆沢町愛宕公民館高齢者大学の35人が受講した。講師は延暦八年の会に委託しており、現在までさまざまな集まりに28回(水沢市12、江刺市7、胆沢町5、金ヶ崎町3、衣川村1)の講座を出前している。なお、出前講座の参加者に配布する資料として、A4判8ページのリーフレット「古代からの新発見 アテルイの里」も作製された。アテルイの登場と最期に関する史料のほか、アテルイの時代、古代胆江のリーダーたち、アテルイの里の伝説について、それに歴史マップと略年表がコンパクトに構成されている。

ページの上に戻る

秋田県田沢湖町に本拠を置く劇団わらび座の創立50周年記念作品として、高橋克彦著『火怨~北の耀星アテルイ』を原作とする「アテルイ」がミュージカルとして舞台化されることになった。脚本はNHKの大河ドラマ「天と地と」をはじめ多数の有名作品を手がけている杉山義法氏、演出は中村哮夫氏。
「ミュージカル・北の耀星アテルイ」は、本年(平成13年)8月8日から来年1月2日までたざわこ芸術村のわらび劇場で公演の後、アテルイ没後千二百年にあたる平成14年の記念事業に合わせて水沢市で全国公演のスタートを切る予定になっている。すでに前売り券も発売されている。一般が2,500円(当日3,000円)、小・中学生が1,700円(当日2,000円)。
たざわこ芸術村には年間30万人が訪れているという。アテルイ没後千二百年記念事業準備委員会では、たざわこ芸術村で作っている地ビールにアテルイのラベルを作製、アテルイ・ビールとして販売、宣伝してもらうことも計画している。アテルイを全国に発信する準備は着実に進んでいる。アテルイを顕彰する会がどのような事業を行うのか、注目されることになろう。

ページの上に戻る

第37回(1999年度)の野間児童文芸賞を受賞した『月神の統べる森で』に続く連作第2弾。縄文のムラを征服しようとする新来の弥生のクニ、そこに起る憎悪と争い、理解と友情の芽生えを描く長編古代ファンタジー。それぞれの社会の命運をにぎる二人の少年を主人公としているものの、縄文のムラの若き長であるアテルイが物語の最重要人物として始めから最後まで登場している。「日本人の文化的基層であると信じている縄文という文明に、みなさんの学究心を引き寄せたいという思い」が、この物語を書き始めた作者の動機という。

ページの上に戻る

平成12年11月21日、水沢市の羽田振興会により開催された。同会は平成七年より「地域の英雄アテルイの郷」づくりに取り組み、講演会等を行ってきた。本年はそれをさらに一歩進めるものとして「訪ね知る会」が企画された。当日は、アテルイ軍の本陣があったのでは...、とも考えられている羽黒山頂上から周辺を踏査、その後会場を羽田公民館に移して水沢市埋蔵文化財調査センター伊藤博幸副所長、当会及川洵副会長のアテルイに関する講話を聴講した。同会は、【1】「アテルイの郷」についての看板と広告塔の設置、【2】羽黒山の発掘調査を当面の目標としている。

ページの上に戻る

平成12年11月18日、清水寺境内にあるアテルイの顕彰碑前で行われた。北天会(関西アテルイ顕彰会、高橋敏男会長)が主催したもので、関西岩手県人会、京都岩手県人会のほか一般参詣者ら約五十人が参列した。今回の法要は、碑建立七年目と清水寺の本尊開帳の年とも重なることから開帳記念として行われた。森清範貫主ら二人の僧侶が読経するなか、参列者が焼香し、古代の英雄を慰霊した。【11月19日付『岩手日報』より】 

ページの上に戻る

アテルイに関連しては、日本最北の前方後円墳である角塚古墳等にふれて、「後にこの地に政府軍をもっとも悩ませた阿弖流為らに率いられた蝦夷勢力が出現し、また胆沢城が造営されるのもこの点と関係するのであろう」と述べている。アテルイの名前に関しては、「大墓君阿弖利為」「大墓公」と二通りの読みをしている。また、「公」の姓を有していることからすると、「一時は政府側に属していたことがあるのであろう。」「政府側との接触によって公という姓を与えられ、地域の族長としての地位を公認され、保証されていたこともあったのである。」としている。著者によると、蝦夷社会は部族制社会の最終段階としての部族同盟の域に達しようとしていた。「古代国家が決定的に成立する以前に、共同体成員の先頭に立って戦う英雄の姿は、...胆沢地方の蝦夷を率いて坂上田村麻呂と対決した阿弖流為や母礼...などに見ることができる。彼らもまた部族成員の先頭に立って行動する存在であり、英雄時代の英雄であった。」「もし部族同盟段階から更に一歩を進めることができれば、蝦夷社会にも古代国家が誕生し、...そうなれば阿弖流為のような軍事首長の後継者は国王に転化していたであろう。」という。  

ページの上に戻る

平成12年8月28日、「縄文戦士 アテルイ・モレ1198年祭」にちなんだ慰霊祭が大阪府枚方市にある片埜神社わきの牧野公園で行われた。東京にある縄文アテルイ・モレの会(西垣内堅佑代表)が毎年開催しているもので、今回で6回目となる。牧野公園内には「首塚」と伝承されている場所があり、アテルイとモレの墓ではないかとも推測されている。当日は、東京から参加した会員や関西岩手県人会の会員ら二十人が出席し、神事でアテルイとモレを慰霊した。 【 8月29日付「岩手日報」記事より 】

ページの上に戻る

平成12年8月15日、江刺市南町の多聞寺で開かれた。アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会(岩崎景助会長)が主催したもので、今年で6回目となる。追悼の辞、「開祭の詩」朗読、献灯・献杯、祝詞奉上・玉串奉奠のあと、鹿踊りが奉納され、最後に「閉祭の詩」朗読をもって閉会した。

ページの上に戻る

アテルイの肖像が入った鋳物のペン立てが製作された(左側)。水沢市の㈱岩手鋳機工業が水沢地方振興局にアテルイの肖像の使用許可を求め、快諾を受けて完成した。ペン立ては、縦8cm、横9.5cm、厚さ4cmで、ペンを立てる部分が傾斜し、短くなった鉛筆も立てられるよう工夫されている。一個1,350円(税別)とのこと。

ページの上に戻る

特集「未知の国みちのく、伝説と秘湯の旅」のなかで、「みちのくの聖地、英雄伝説にひたる」として、出羽三山とアテルイが取り上げられた。「十万の朝廷軍と戦っても守ろうとした蝦夷の英雄阿弖流為の心とは...」と題したページ(カラー6頁)では、東和町の丹内山神社に鎮座する巨石を「蝦夷たちの神、アラハバキ神のご神体」として大きく紹介、次に悪路王首像と巣伏の戦いの跡地の写真を入れて戦いの経過等を説明、最後に達谷窟毘沙門堂の写真とともに悪路王伝説にふれている。また、高橋克彦氏が語る「阿弖流為の時代、東北は最も輝いていた」も、2ページにわたって掲載されている。

ページの上に戻る

「蝦夷の長、アテルイ。朝廷軍の将、坂上田村麻呂。古代東北を駆け抜けた両雄の新しい物語。新田次郎文学賞作家が放つ書き下ろし歴史巨編。」という触れこみ。イサワの村長の息子で村を捨て大和に走ったアザマロがアテルイの父、桃生城を襲ったウクツハウはアテルイが生まれ育ったトイメム村の村長の息子で母の弟、そしてモレはイワイ村の大巫女で女村長という意外な人物設定。
 アテルイが14歳の時、村が大和の軍勢の焼き討ちにあう。アテルイは桃生城に連行され俘囚としての生活を強いられるが、やがては反乱を起こしイサワの長になる父アザマロと合流。蝦夷の国の建国を目指したアザマロの死後、イサワの長として大和の軍と戦うというストーリー。
 この小説のアテルイは、敵将を直接襲い威嚇して取り引きするのがかなり得意である。新田柵まで軍勢を進めた百済王俊哲の寝所を襲って喉元に刃を付きつけ、撤退の密約をさせ、延暦八年には多賀城に入った紀古佐美の寝所に女装して入りこみ小刀を喉仏に突きつけ取り引きをもちかける。最後には、桓武天皇から直接の許しを得るが、突然桓武を襲って羽交い締めにし、自ら首を切られることを選ぶ。

ページの上に戻る

第四章「彼らは、なぜその地で時の権力に反逆したのか」の最初の項、「蝦夷の首長の反乱と坂上田村麻呂の東北経営」にアテルイが取り上げられている。著者(明治学院大学教授)の説によると、「阿弖流為がすぐれた武将であったことは確かである、しかし、彼らは蝦夷対日本といった形の民族の対立で動いたのではなく、地方官の悪政に反抗して立ったのである」という。「ゆえに、善政にこころがければ、蝦夷はおのずと朝廷に従うことになった」と。また、延暦21年にアテルイは五百余人を率いて降伏したが、「このとき阿弖流為に従った兵士は、田村麻呂のはからいで帰農を許された。」という。著者は日本古代史を専攻と紹介にあり、著書も多数あるが、どのような史料と研究からそこまで言い切るのであろうか。

ページの上に戻る

6月4日、同局制作のテレビ番組「いわて大陸」の時間帯で放映された。第34回吉川英治文学賞の授賞式の模様から始まり、パーティ会場では渡部昇一氏から「いい意味で地方発信の素晴らしい小説」という評価があった。番組では『火怨』の中心場面を、河北新報掲載の挿絵を入れたドラマ構成にして紹介、さらに、戦いの舞台となった胆沢の現地から延暦八年の会の佐藤秀昭会長が解説した。受賞した高橋克彦氏は、「千年以上も前に一個の人間として、対等に、朝廷の強大な波に対峙した人がいたということを書きたかった」と語り、「アテルイは人間としての誇りを守るために戦ったのだ」とあらためて強調していた。

ページの上に戻る

平成12年5月17日の午後11時30分から12時まで、教育セミナー「歴史でみる日本」で放映された。副題は~朝廷の北方政策~。「攻め入る朝廷軍に対して果敢に戦った蝦夷の首長アテルイを中心に平安初期の朝廷による東北遠征を考える」というもの。東京都立大学の服藤早苗講師が多賀城政庁跡から伊治城跡、胆沢城跡、志和城跡と史蹟を実際に辿りながら、三十八年戦争の経緯を簡潔に説明。特に、延暦八年の巣伏の戦いに始まるアテルイと朝廷軍の攻防については、「アテルイの本拠地に建てられた物見櫓」「アテルイの根拠地と考えられている跡呂井の地」なども現地で紹介、研究成果を踏まえた解説が適切に加えられた番組となっていた。

ページの上に戻る

 月刊コミック誌『GOTTA(ガッタ)』(小学館発行)の平成12年8月号から、直木賞を受賞した高橋克彦氏の原作による『阿弖流為Ⅱ世』の連載がはじまった。作画は代表作『北斗の拳』などの熱筆で知られる原哲夫氏。ストーリーは千二百年の時を経て現代に蘇った阿弖流為が、人類を滅ぼそうとする破壊神の末裔たちと戦うというもの。第1話は、「時代は今を遡ること1200年余り― まだ大和に都がありし頃、陸の奥に蝦夷という自由の民がいた。ある時、その陸奥に"黄金の龍"見つかりて帝、これを欲せんと蝦夷を"鬼"と蔑み討伐を命ず。時同じくして、蝦夷に英雄豪傑が現れ頭領となりこれに抵抗。二十余年の長きにわたり朝廷の大軍を退けたが、坂上田村麻呂の軍勢の前についに凄絶なる投降の時来たれり。その誇り高き蝦夷の頭領の名は――阿弖流為――」と、格調の高い出だしでスタートした。
アテルイについては、中学の教科書などにも取り上げられるようになっているものの、全国的にはまだまだ知られていない。そのなかで、子供向け漫画の全国誌にアテルイが登場したことは、これからの若い人たちに広く知ってもらえるということであり、大きな意味がある。読者からの反響も大きく、アテルイについてのさまざまな質問がGOTTA編集部に届いているとのこと。10月号には緊急企画<阿弖流為Ⅱ世はこうして生まれた!>の第1回として「実在した東北の英雄アテルイ!」のコーナーが漫画とは別に3ページにわたって組まれた。「東北の生んだ最大にして最高の英雄、それが阿弖流為である。」に始まり、アテルイの戦いと降伏までを紹介、最後は「阿弖流為の英雄伝説は、今も東北地方に語り伝えられ、蝦夷の心を熱く燃やし続けているのだ。」で文章は終わる。まさに絶賛、アテルイこそニューヒーローである。はたして漫画「阿弖流為Ⅱ世」の影響はどのようなものであろうか。

ページの上に戻る

アテルイの生涯を描いた『火怨』が栄えある受賞に輝いた。同じくアテルイを描いた澤田ふじ子の長編歴史小説『陸奥甲冑記』が昭和57年に第三回吉川英治新人賞に選ばれて、以来18年、アテルイに対する関心と注目の度合いが大きく変化しつつあることを感じる。高橋氏は、「主人公の阿弖流為は東北では著名ながら、私のいだいている彼への共感がどこまで全国に通用するかと思っていた。私の作品だけでなく、蝦夷が認められたようでうれしい」と受賞の喜びを語っている。

ページの上に戻る

第二章< エミシの英雄時代 第二次抵抗 >に「勇将アテルイ」の戦いなどが取り上げられている。著者は「悪路王という名にされたアテルイの伝説に、庶民の無念さがにじみでていて心のひかれる思いがする」という。また、アテルイの本拠・水沢市から『化外』(教化、順化の外のもの。化外の民とは"まつろわぬ"者どもを意味する)という詩誌を発行(1973~)していた詩人仲間との交流のエピソードなども、ずいぶん前からアテルイの末裔をひそかに自負していた人達がいたことが知られて興味深い。

ページの上に戻る