現在314件のアテルイ情報を掲載しております。

 奥州市の駒形神社は、駒ケ岳山頂の駒形神社奥宮の老朽化が進んだことから、前社殿を解体し、新社殿の造営工事を行った(8月1日竣工)記録を記念冊子とした。山下明宮司代務者は、冒頭の「式辞」でアテルイについて次のようにふれている。「千二百年ほど前の坂上田村麻呂の北勢の成果は、胆沢城を築き、蝦夷の指導者アテルイに無血の降伏をさせたことでしょう。田村麻呂はアテルイに東北経営の力となるよう京に帰還した際訴えましたが、公家らに認められずアテルイは処刑されたのでした。また、田村麻呂は、東北が平定できたのは駒形大神様のご神徳によるものと、神階の昇格を何度も上奏しておりました。その結果、延暦二十一年(西暦802年)神階を得、仁寿元年(西暦851年)に正五位下、貞観四年(西暦862年)に従四位下に進み、東北地方で最高位の神階に昇格したのです(『文徳天皇実録』)。みちのくの平穏を見守ってきた駒形神社の神階の昇格はせめてものその地で生きてきたアテルイの慰霊になったのではと思います。」〔陸中一宮駒形神社、2010年9月発行、非売品〕

ページの上に戻る

 八世紀中頃の黄金発見に伴う中央政界の権力抗争と蝦夷たちの戦いを描く歴史巨編で、第一弾【立志篇】(1995年12月)に始まり【大望篇】【天命篇】【風雲篇】と続いたシリーズ第五弾の完結篇。陸奥の黄金を求めて牙を剥く朝廷に対し、多賀城に仕えながらも蝦夷の楽土の建設を願う伊治鮮麻呂がついに起ち上がり、若き阿弖流為も登場する。このシリーズの次の展開は、『火怨~北の耀星アテルイ』に連なる。
 伊治城を預かる鮮麻呂は、蝦夷に対する理不尽な討伐が避けられない事態になるなかで、陸奥守で按察使の紀広純と道嶋大楯が伊治の城に来るという好機に反逆を決意する。そして、すべての蝦夷をひとつにまとめるために、胆沢を治める阿久斗と息子の阿弖流為に援軍を求める。阿弖流為は「わずか十やそこらのとき田村麻呂に馬の駆け競べを挑んだほどの怖い物知らず」であり、すでに「蝦夷一の強者」との評判で、胆沢中に勇名が響き渡っていた。決起の日、阿弖流為と副将の母礼が150の胆沢の兵を率いて伊治城外で果敢な戦いを繰り広げる。目的を達した鮮麻呂は最後に、「人とは...次の時代に繋がる橋を渡すために生まれてきたのだ。それを自分は果たした。自分が架けた橋を阿弖流為たちが渡って行くだろう。その先の大地は阿弖流為たちが切り拓く。たとえ自分がこの目で見られぬとて、それでいい。爽やかに吹き抜けてこそ...風である」との境地に。〔PHP研究所、2010年9月発行、1,890円〕

ページの上に戻る

 前東北歴史博物館館長の編者が、東北古代城柵と官衙遺跡についての現段階の成果をとりまとめたガイドブックで、第1章古代城柵の沿革、第2章陸奥国の城柵と官衙遺跡、第3章出羽国の城柵と官衙遺跡、からなっている。第1章(2)奈良・平安時代の城柵で、伊藤博幸氏(奥州市埋蔵文化財調査センター所長)が「5蝦夷の反乱」を執筆し、アテルイ登場前の蝦夷反乱から「胆沢の合戦」「田村麻呂の登場」「阿弖流為の降伏」について見事なまでに簡潔に記述している。「胆沢の合戦の蝦夷側の勝利は、七八九年の巣伏村の戦いである。大墓公阿弖流為らのゲリラ作戦が功を奏し、紀古佐美将軍率いる政府軍を完膚なきまでに破ったことである。」〔高志書院、2010年9月発行、2,625円〕

ページの上に戻る

 著者は歴史作家で、大胆な推理で数多くの著作がある。著者は、蝦夷征討の第一の目的は律令制度を広め、領土を拡大することにあったとしつつも、その裏側には「蝦夷とも関係をもっていた」大伴氏に「東」を討たせることにより、両者の力を徐々に削いでいった藤原氏の策謀があったとする。そのうえで、「阿弖流為の恭順を引き出したのは坂上田村麻呂であったが、この人物は蘇我氏の懐刀・東漢氏と同族であり、やはり藤原氏にとっては油断ならない氏族であったろう。けれども、藤原氏がほぼ朝堂を支配した平安時代、かつての「親蘇我系豪族」「親東国政権の末裔」たちは、生き残りのために人並み以上に手柄をあげねばならぬ宿業を負っていく。坂上田村麻呂の鬼神のような活躍は、反藤原派豪族の苦悩の裏返しであり、彼らの葛藤、その無念の思いはわれわれの胸を打つ。その一方で、坂上田村麻呂は「せめて、蝦夷の恭順を引き出し、両者が共存する道を探りたい」と願ったにちがいない。そして阿弖流為は、坂上田村麻呂が、かつての「親東国政権の末裔」だからこそ、説得に応じたのだろう。けれども都で阿弖流為を待っていたのは、藤原政権の非情な仕打ちであった。」と推理している。また、著者がもし東北歴史博物館の館長になったら、次の日からホームベージを書き換えるという。「東北人にとっての本当の「戦後」とは、阿弖流為が都で処刑されたあとを指すのであります。つまり、博物館の名称を「阿弖流為顕彰館」にあらためましたのは、東北人の矜持であります。憤怒であります。都人、都の貴族に対する、いまだに消えぬ怨念なのです。...」 〔ポブラ社、2010年5月発行、1,470円〕

ページの上に戻る

 全35ページの内、大部分の26ページが「マンガ古代の英雄対決」(細雪純、シナリオ北島ヒロ)で、坂上田村麻呂とアテルイの「対決」を描いている。田村麻呂が副将軍となった第二次征討における場面を中心に、田村麻呂とアテルイのそれぞれの立場からする思いをかけた「対決」が繰り広げられる。史実では朝廷軍の圧勝に終ったとみられるのだが、その戦いには触れず、田村麻呂の説得とアテルイの主張のやり取りがなかなかの内容となっている。田村麻呂は戦いの勝利を前提に、「小岩が立ちはだかったところで大河の流れは止められぬ...」、「勝手は承知だ」、「故郷の地を荒らされた怒りがわからぬではない」とまで踏み込み、「だが、このままでは蝦夷の最後の一人まで滅ぼし尽くさねばならぬ」、「生きるべき者をその背に乗せ、破滅に向かい走り続けるというのならば...おまえをここで斬り捨てでも止めてみせる...」と語る。数年後、胆沢を占拠されたアテルイは降伏の道を選ぶ。〔朝日新聞出版、2010年12月発行、490円〕

ページの上に戻る

 劇団わらび座は来年(平成23年)4月から創立60周年を記念してミュージカル「北の燿星アテルイ」を10年ぶりで再上演する。来年は平泉の世界遺産登録再挑戦の年であり、朝廷と蝦夷の戦い、いわゆる宝亀五年(774)の海道の蝦夷による桃生城襲撃に始まるとする「三十八年戦争」が終焉して1200年の記念年にもあたることから、「アテルイ」の再演を通じて、みちのくの力とロマンを全国に発信する。5月14日、岩手県や関係団体は全県実行委員会(高橋克彦会長)を立ち上げた。発足会は盛岡市内のホテルで開かれ約30人が参加し、わらび座劇団員によるアテルイのテーマソング「日高見、わがまほろば」の披露、意見交換などが行われた。会長に就任した高橋克彦氏は「大地に根を張り、力強く生きてきた東北人の姿を全国の人たちに伝え、新たな東北の創世につながることを願う。今一番の願いは、再演する「アテルイ」を若い世代に見てもらうこと」と挨拶した。ミュージカル「アテルイ」は盛岡市の作家高橋克彦氏の『火怨』が原作で、朝廷の侵攻に立ち上がった蝦夷の若きリーダー、アテルイの物語。アテルイ没後1200年を控えた2001年(平成13)8月から3年にわたり全国各地で上演され、大きな反響を得た。再上演される「アテルイ」は、坂上田村麻呂の人物像を再構築し、アテルイに感化され変わっていく姿をより深く描くという。また、人間としての生き方を真正面からぶつけるアテルイの姿は「蝦夷の誇り」を超え、「人間の誇り」を現代社会に問いかけるものになるという。今回は若手を中心にキャストを一新し、新曲も登場する。アテルイ役には、初演でアテルイの片腕ヒラテ役を演じた戎本みろ(40)が務める。戎本さんは「以前の公演で、岩手の皆さんに熱く迎え入れられたことがずっと忘れられなかった。このほとばしる思いを原動力に、アテルイ役に臨みたい。ミュージカルアテルイを輝きにあふれた、燃えるような公演にし、みちのくの魂を全国に発信していきたい」と話している。来年1月から稽古をスタートし、4月10日の秋田県仙北市のわらび劇場での公演を皮切りに全国上演される。岩手県内では5月中旬から各市町村や学校で公演する予定。

ページの上に戻る

 不撓不屈!!歴史アドベンチャーシリーズ第4弾!伝説の猛者「アテルイ」を追いつめた真実とは?とあり、表紙カバーには悪路王首像の写真。裏には「失踪していた諒司に助けを請われ、甲斐は岩手・水沢へ向かった。無事の再会を喜ぶ間もなく、甲斐たちは敵の手に落ちた「出賀茂神社社伝」奪還計画を練る。一方、蝦夷の指導者・アテルイの降伏に疑念を抱いた甲斐は、信じがたい歴史的捏造と自らに関わる衝撃的な共通点に気づいた。傷ついた甲斐を救うのは...」とある。その疑念とは、(1)アテルイたちは本当に降伏したのか?(2)何故アテルイとモレは田村麻呂に従って京まで行ったのか?田村麻呂はどうして降伏した彼らの首をその場で刎ねなかったのか?(3)田村麻呂はアテルイたちを京に連行したら、彼らの運命がどうなるかということを分からなかったのか?というもの。講談社ノベルズ。2009年7月発行。945円。

ページの上に戻る

【第19回アテルイ杯中学サッカー大会】平成21年10月10~11日、奥州市のふれあいの丘公園を会場に開催された。一関選抜、花巻選抜、和賀地区選抜、FCみやぎ、など8チームが参加し、胆江3年選抜チームが3位トーナメントで宮城県の多賀城FCチームを決勝で破った。
【第2回アテルイ杯少年サッカー選抜大会】平成21年11月7~8日、奥州市のふれあいの丘公園を会場に開催された。小学校6年では5チームが参加し、北上地区選抜が3勝1分で優勝。5年生も5チームが参加し、花巻市選抜U11が4勝で優勝した。奥州トレセンは6年で4位、5年で3位だった。
【ラクビー第26回東北クラブ選手権大会】平成21年11月22日、大会の決勝が秋田市八橋陸上競技場で行われ、岩手県代表の奥州アテルイR・F・C(高野栄仁監督)が青森県代表の青南クラブを50対10で下し、昨年の準優勝から今年の初優勝に輝いた。
【第10回アテルイの心と輝き陶芸展】平成21年11月27~29日、奥州市水沢羽田町の社会福祉法人愛護会の千養寺焼陶芸館が主催し、同区のめんこい美術館で開催された。同会が運営する保育園の園児や知的障害者更生施設の利用者、一般市民らが陶芸教室で制作した花瓶、茶碗、皿など400点余の作品が展示された。いずれも東北最大級とされる四連窯で焼き上げられたもの。
【第8回アテルイ杯囲碁大会】平成21年12月23日、奥州市胆沢区のアタゴ囲碁センターで開催され、A級では安倍雅章7段が、B級では佐藤悠太初段が優勝した。
【水沢競馬アテルイ杯】平成22年1月10日のメーンレースが奥州市職員奥馬の会会長杯のアテルイ賞。C1クラスの1600m戦で、9頭が出走した。
【少年相撲「アテルイ部屋」が慰問】平成22年3月13日、奥州市水沢の市立常盤小学校児童を中心とした少年相撲のアテルイ部屋が同区の特別養護老人ホーム福寿荘を訪れ入所者を喜ばせた。毎年この時期に行っている恒例行事で、園児から小学6年生までの11人が基本稽古や土俵入り、年齢別の取り組みを元気いっぱいに披露した。

ページの上に戻る

 胆江日日新聞の安彦公一編集長の連載コラム『穏やかな時間』(平成22年2月26日付)は、「ライバルについて」をテーマとし、そのなかで自身がNHKの番組ロケでアテルイ役を演じた体験を交えながら書いている。その部分を抜粋して紹介する。はや20年ほども昔になる。NHK総合テレビの番組に「ライバル日本史」というのがあって、「アテルイ」と「坂上田村麻呂」を取り上げた。そのロケ隊が胆沢城跡にやってきた。その日は大雪だった。「地元にアテルイ役はいないか」ということになって、白羽の矢が立った。どうせ、体が大きく、ヒゲ面がその安易な選択の理由だったのだろう。が、そのロケの内容も聞かずに、出ることにしたのが間違いだった。テレビでは、大雪の中、胆沢城跡でアテルイ降伏のシーンを撮りたい、という。が、アテルイが胆沢城の坂上田村麻呂を訪ねて降伏したのは、夏のことだ。しかも、当時は「ワラジ」をはいているはずもないのに、「当時の沓がないので、ワラジにしましょう」とワラジで雪の中を歩くはめになった。当然のことながら、ワラジに防水、防寒機能などのぞむべくもない。足を雪に入れた瞬間、足が凍りついたかと思った。その上、ひざまづいて、雪の中に頭を突っ込まなければならない。それだけでもいいかげん頭にきていたのに、かのNHKの看板アナウンサー三宅さんが、何度もとちって、テイク6までいった。そのつど、雪の中を歩き、ひざまづき、雪に頭をつけるのを繰り返した。
 史実に遠いことを演じさせられている不満と、寒さで散々だったが、せめてもの救いが、衣装の女性の言葉だった。「この毛皮は、『炎立つ』のとき、里見さんが着けたんですよ」。里見浩太朗といえば、いまでは「水戸黄門」を演じている時代劇の大スターだ。で、周囲には今回の出演をこう言うことにした。「NHK主演俳優」。せりふも共演者もなかったが、アテルイ役を演じたことは間違いない。一方のライバル役、田村麻呂はどこにもいない。誰か、雪の中に立っていてくれるだけでも、こちらは迫真の演技ができたのに...。こんなことを言ってはなんだが、アテルイと田村麻呂は、そもそもライバルでもなんでもない。「敵」である。たまたま田村麻呂は、アテルイを評価し、胆沢の統治に用いようと助命を嘆願したし、おそらくは「友情」に近い感情も芽生えてはいたのだろう。が、二人の関係は肉食獣と馬と同じだ。アテルイの戦いは、仲間の離反との戦いでもあった。最終的には、統率力が問われた。アテルイにとってのライバルはむしろ、エミシの中にこそいた。(以下、略)

ページの上に戻る

 地元の胆江日日新聞は、毎年十二月にその年に亡くなられ地域に貢献された方々について、その功績をたたえ、紙面「追悼碑」として特集している。当会の初代会長の故藤波隆夫氏(84歳)については「関西との絆づくり」の見出しで掲載されている。以下、全文を紹介する。
 ほとんどの人が「アテルイ」の存在を知らなかったころ、史書にある「河内国植山(杜山)」の処刑地特定に向けて現地に足を運んだ。四半世紀以上も前になる。河内一宮・片埜神社がある大阪府枚方市の一帯だ。枚方市教育委員会は、アテルイといっても返事もしてくれない。周囲に聞いても誰も知らない。「アテルイの塚」が建てられた現在の状況とは大違いだ。同じころ、大阪でもアテルイ顕彰に熱心な人たちがいた。故高橋敏男さんを中心とする「関西同郷会」のメンバーだ。大阪・枚方が熱心でないことを知ると、ただちに京都・清水寺に話を持ちかけた。藤波さんとともに、京に上った。同郷会との間で建立場所の選定なども話し合った。「観光客の邪魔にならないよう、あの境内の奥の方でもいいのではないか」藤波さんが遠慮がちに言った。こちらもうなずいた。ところが、清水寺が「どこでもよろしいですよ」と言った。「どこでもいい」といわれて言葉の真意をはかりかねていたら、「さすがに、開山堂の前(入場口近く)だけは、勘弁してもらいます」と言って清水の大西真興執事長が笑った。それが現在の清水の舞台の真下に決まって驚いた。「黒石寺の執事長」と声をかけたら「大西さんみたいに言うな。おれは掃除専門の寺男だ」と言った。今日のアテルイ顕彰は、藤波さんが掘ったその基礎の上にある。「いまどきは、新しくつくるのは何ほどのこともない。だけど、長く守るというのが難しいんだ」。長く病気療養していたが、境内のせみ時雨を待たずに不帰の客になった。まさに、古きを守るために尽くした人生だった。水沢黒石町=平成21年5月28日没

ページの上に戻る

【清水寺<阿弖流為・母禮之碑>法要】平成21年11月14日、関西アテルイ・モレの会(松坂定徳会長)の主催により法要と直会が行われた。地元奥州市からは「アテルイ京都・清水法要の旅」のツアーが組まれ、当会の及川洵会長をはじめ、幹事他会員、関係者等が参加した。
【講演会「阿弖流為と母禮」】平成21年11月3日、奥州市前沢区の母禮をたたえる会主催による文化の日記念講演会が前沢ふれあいセンターで開催され、当会の及川洵会長が「阿弖流為と母禮」と題して、遺跡などの発掘成果などを交えながらアテルイとモレについて話した。
【長編アニメ「アテルイ」上映会】平成22年3月7日、奥州市埋蔵文化財調査センター主催により、同センター研修室において「まいぶん映画上映会」として開催された。フィルマズ・アテルイが協力した。

ページの上に戻る

 平成22年3月9日に実施された岩手県の公立高校入試問題文中にアテルイに関する記述がある。社会の問題で、「次の資料は、中学生が「岩手と中央の歴史上のかかわり」というテーマで調べて作成したものです。これを見て、下の問いに答えなさい。」というもの。資料は、「桓武天皇の政治」という項目で、「現在の奥州市を中心とする蝦夷の長であるアテルイが、東北地方に支配を広げようとする(1)朝廷から征夷大将軍に任命された坂上田村麻呂の軍と戦った。」とあり、この下線部(1)について、次のア~エのうち、この時期の朝廷が政治を立て直すために行ったことはどれですか。という問いになっている。ア、全国の戸籍をはじめてつくった。イ、国ごとに国分寺や国分尼寺を建てた。ハ、現在の京都に新しい都をつくった。ニ、能力や功績によって12段階の地位を定めた。さて正解はどれ。また、2月21日に実施された一関工業高等専門学校の入試問題にもアテルイが取り上げられている。「朝廷による支配の拡大に対して、東北地方の蝦夷たちがアテルイ(阿弖流為)を中心に激しく抵抗し、戦乱が拡大した。これに対処するため、朝廷は坂上田村麻呂をに起用して蝦夷の平定を命じた。そののち田村麻呂は胆沢城を築いてアテルイらを降伏させた。」とあり、空欄にあてはまるものを選ぶもの。

ページの上に戻る

 水沢佐倉河地区振興会などの主催による「鎮守府胆沢城にかかわった人々」をテーマとする歴史講座が、平成21年7月2日より奥州市埋蔵文化財調査センター研修室を会場に始まった。初回は同調査センターの伊藤博幸所長が「アテルイが戦った将軍たち」をテーマに講義。「朝廷の征夷なくしてアテルイというカリスマ的指導者は現れなかった」と強調した。

ページの上に戻る

 奥州市水沢羽田町の伊藤流行山鹿踊りは、平成16年の清水寺のアテルイ法要に参加し奉納するなど積極的な活動を続けている。今年の阿弖流為・母禮の慰霊祭においても奉納の鹿踊りを披露したが、なかなか聞き取りにくい口上の内容が文書で配布されたので紹介する。

アテルイの 御魂を迎えむ 羽黒山 月日を今は 日高見ぞ見ゆ後の世を 祈りをかけし
アテルイの 生々流転 誇りひとすじ はろばろと この世のちの世 アテルイの 深き誓いの いのち生きをり
アテルイの 誠の道よ 後の世へ 人は情けの 徳に花咲く アテルイの 御霊安らぎ くもりなき 風ぞ吹きぬる 羽黒山かな 

ページの上に戻る

 平成21年9月15日、母禮をたたえる会(菊地榮治会長)主催により、奥州市前沢区生母の耕雲院で会員ら34人が参列して営まれた。森住俊英住職の読経に続いて、同会が作った母禮の位牌の前で順に焼香。最後に前沢吟詠会の会員15人が詩吟「母禮賛歌」を奉納した。

ページの上に戻る

 9月17日、1935(昭和10)年度生まれの同級生組織「進友会」(佐々木勲会長、会員300人)は、水沢佐倉河の"巣伏古戦場跡公園"で恒例となっている清掃奉仕活動をするとともに、アテルイの鎮魂祭を行った。同会は、平成七年に還暦を記念し物見やぐらが立つ公園内に「巣伏古戦場跡碑」を建立。会員たちは毎年、アテルイの命日となる9月17日前後に碑周辺の清掃と鎮魂祭を行ってきた。同会幹事の青野弘さんは、「会員に限らず、市民の皆さんにも参加してもらえれば」と呼びかけている。

ページの上に戻る

 アテルイ・モレを慰霊する会(及川松右衛門会長)は平成21年9月10日、阿弖流為・母禮慰霊碑のある羽田町羽黒山の出羽神社近くに「アテルイ・モレ顕彰の地」の標柱を立てた。アテルイ、モレの顕彰活動を盛り上げようと市教育委員会の補助を受けて設置したもの。約15㌢角、長さ約160㌢の木製標柱で黒地に白い字で「アテルイ・モレ顕彰の地」と書かれている。及川会長は「慰霊碑を訪ねて来る人たちから『目印になるものを』との要望も多く受けていた。顕彰の機運がさらに高まるといい」(岩手日報)と話している。同会では、来年3月までに、羽田地区内に「アテルイ・モレの里」と記した標識を取り付けることも計画している。

ページの上に戻る

 平成21年8月24日、奥州市の協力により、水沢羽田町羽黒山山頂の阿弖流為・母禮慰霊碑の付近に「アテルイ・モレ顕彰の地」の説明版が設置された。[アテルイ・モレ顕彰の地] 朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄、毛人、蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。この羽黒山は、『続日本紀』延暦八年六月条の「四百人ばかりありて、東山より出て官軍の後を絶てり」の東山に比定できることから、私たちはアテルイ・モレを始めとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛に深く心を打たれ、ここに慰霊碑を建立しました。今後、この地を「顕彰の地」として、永く語り継ぎたいと考えています。平成二十一(二〇〇九)年九月十七日 アテルイ・モレを慰霊する会 及川 洵 撰文

ページの上に戻る

 平成21年9月12日、阿弖流為・母禮を慰霊する会(及川松右衛門会長)の主催で、当会が後援する<阿弖流為・母禮慰霊祭>の式典が、奥州市水沢羽田町の羽黒山山頂の阿弖流為・母禮慰霊碑前で行われた。2005年に慰霊碑を建立して今回が5回目の慰霊祭となることから、京都・清水寺の森貫主をはじめ、関西アテルイ・モレの会の会員、枚方市の伝アテルイ・モレの塚保存会の中野会長らも出席、約80人の参加となった。慰霊祭に先立ち、相原正明奥州市長が「日本の歴史にとっても非常に重要なアテルイ、モレの戦いと友情の物語の地であり、慰霊祭が5周年を迎えたことに敬意を表する。」とあいさつ。続いて前沢区の北天太鼓と地元羽田町の伊藤流行山鹿踊が奉納された。主催者を代表し及川会長は、市の協力で慰霊碑付近に設置された「アテルイ・モレ顕彰の地」の説明版を参列者に紹介、「4年前、阿弖流為・母禮の碑を皆さんの尽力により建立した。この慰霊碑を中心に、アテルイ、モレ顕彰の地として歴史公園の指定を目指したい。そして地元として永く顕彰していきたい。」とあいさつした。神事では笙などの演奏が響き渡る中、清水寺森貫主、奥州市関係者、各顕彰団体の代表者、県会議員、地元住民代表らが慰霊碑前に設けられた祭壇に玉ぐしを奉てんし、両雄に祈りをささげた。この日の午後2時からは、地元羽田町の会場で清水寺森貫主による慰霊祭記念法話が行われ、地元住民らで会場が埋め尽くされた。さらに午後4時からホテルに会場を移して直会が開かれ、約70人の参加者が歓談、交流を深めた。

ページの上に戻る

 新潟県在住のヘビーメタルバンド・クリスタルオワナイトは、平成21年3月18日、コンセプトアルバム『アテルイ』を発売した(モアイレコード)。15分を超える表題曲「アテルイ」を始め、「エミシ」「アラハバキ」など6曲を収録。バンドリーダーの佐藤現氏は、数年前に東北地方を旅した際、「おれの魂を伝えてくれ」という声を聞いたという。そして「その声の主はアテルイだったと確信した」という。アルバムに対する評価は、「演奏と歌が半端なく超ハイレベル」という絶賛の声と、「あまりに稚拙」「随所に意識の低さ」などの酷評がある。

ページの上に戻る

 合併して奥州市となっての歴史散策ガイドブック。最初に奥州市の歴史が三区分されて叙述される。「旧石器から蝦夷の時代」に続いて「アテルイ・安倍氏の時代」。まず年表でアテルイが登場する部分は、789年アテルイら、紀古佐美率いる征討軍を巣伏村で撃退。794年坂上田村麻呂らの征討軍10万人に北上川流域の蝦夷が討たれ、集落75ヵ所が焼かれる。801年坂上田村麻呂ら4万の軍が来攻。802年坂上田村麻呂、胆沢城(水沢)を築造。アテルイら降伏し、北上川流域の胆沢の蝦夷が服属。
 アテルイに関する叙述は、「789(延暦8)年、蝦夷は紀古佐美率いる5万余りの朝廷軍との戦いに、わずかな手勢で勝利を収めます。この巣伏の戦いで一躍勇名を馳せたのが、アテルイ(阿弖流為)です。アテルイの出自については、正確なことは分かりません。ただ、胆沢地域の蝦夷の指導者であったことは間違いありません。朝廷軍に脅かされる故郷を守るため、アテルイは盟友・モレ(母禮)らとともに強力な蝦夷集団を率い、巧みな戦術で数的不利を克服し、朝廷軍を退けたのです。巣伏の戦いの後、朝廷軍は790年、794年と胆沢に進攻。とくに、794年には、10万人の軍が投入され、蝦夷に対して朝廷が大攻勢に転じます。801年には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が4万の大軍を率いて岩手県域を転戦し、翌年には胆沢城(水沢)の築造に着手。長期に渡る戦禍によって疲弊する故郷を憂うアテルイは、モレら500余人と降伏し、田村麻呂はそれを受け容れます。田村麻呂はアテルイらを連れて京に上り助命を嘆願しますが、それも空しく、アテルイらは処刑されました。」790年の胆沢進攻?、「794年、801年と胆沢に進攻」か。

ページの上に戻る

(1)【アテルイ・グランドゴルフ大会】産業技術短期大学水沢校グランドを会場に成20年10月25日に開催された。水沢老人クラブ連合会の主催で12年前から続けられている大会。八地区からクラブ会員約270人が参加し、8ホール2ラウンドの合計打数で順位を争った。
(2)【第9回アテルイの心と輝き陶芸展】愛護会が運営する千養寺焼陶芸館の作品展。園児や市民らが陶芸教室で制作した花瓶、茶碗など約300点を展示。めんこい美術館で平成20年11月に開催された。
(3)【「アテルイ部屋」が県青少年育成貢献団体として表彰】水沢の少年相撲「アテルイ部屋」は平成3年に創設され、これまでに東北大会団体準優勝という好成績を残している。部員14人が毎週土曜日の午前に練習場の市立常盤小学校の土俵に集まり、千葉栄親方の指導のもと稽古を続けてきた。
(4)【アテルイカップ9人制職場対抗バレーボール大会】平成20年12月14日、奥州市江刺西体育館を会場に開催された。優勝は県南広域振興局B、準優勝は大井電気水沢製作所。
(5)【水沢競馬・第2回アテルイ賞】水沢商工会議所青年部杯として平成21年1月11日にレースが組まれました。入賞者には賞金と副賞として水沢産のひとめぼれ(米)が贈呈されました。

ページの上に戻る

 河北新報に連載中の異色の歴史小説。沙棗とは『吾妻鏡』に出てくる人の名で、この小説では近江の俘囚出身の男で義経の身近に仕えることになる。蝦夷や俘囚ということを物語の底流に据えており、アテルイの名も随所に出てくる。「宝亀七年。朝廷軍三千人が胆沢を攻めましたが、敗走しております。また、延暦八年に朝廷軍を率いる紀古佐美が大墓公阿弖流為の軍と戦い、敗走。以後、延暦二十年に阿弖流為公が坂上田村麻呂公に降伏なさるまでに、蝦夷軍は勝利し続けます。大軍勢に対し、どのように戦えば勝利することが出来るか、蝦夷軍はそれを熟知しておりました。実俊は、阿弖流為の<巣伏の戦い>の兵略を事細かに語り始めた。」(第101回)など。

ページの上に戻る

 第10回(20年10月12日)が「英雄阿弖流為の登場」。大軍を迎え撃つ蝦夷軍が伏兵で政府軍を返り討ちにした胆沢の戦い(789年)を分かりやすい図で示す。第11回(20年10月27日)が「征討軍撃退の代償 襲われた阿弖流為の村」。奥州市跡呂井地区にある岩手県最大級の古代集落跡「杉の堂・熊之堂遺跡群」で、奈良時代後半の竪穴住居約60棟が出土、そのほとんどが焼失し、しかも同じ場所で建て直してはまた燃やされるということを2、3回繰り返していた。戦争の爪痕。第12回(20年11月16日)が「「征夷」将軍の登場」。終戦は訪れなかった。坂上田村麻呂は三年かけ軍備増強と懐柔を進め、794年再び激突した。蝦夷側は75もの村落を焼き尽くされ、457人が戦死した。阿弖流為は瀬戸際に追い込まれた。第13回(20年11月30日)が「軍神田村麻呂の経済戦 阿弖流為屈服させた力」。近年の考古学研究から浮かぶのは武力より経済戦で阿弖流為に対した田村麻呂の意外な一面だという。当時の技術の粋を集めた寺院などを「見せつける」ことで屈服させるものだったと考えられるという。 

ページの上に戻る

 本書は律令国家として初めて征夷を行った和銅二(709)年から、いわゆる「38年戦争」を終わらせた弘仁二(811)年の征夷までを対象とし、律令国家と蝦夷プロローグ、Ⅰ奈良時代前半の征夷、Ⅱ光仁朝の征夷、Ⅲ桓武朝の征夷、Ⅳ征夷の終焉と九世紀の蝦夷社会、征夷の側面観エピローグ、で構成されている。アテルイが取り上げられるのは「Ⅲ桓武朝の征夷」の、2.延暦八年の征夷と阿弖流為の登場、3.延暦十三年の征夷と平安遷都、4.延暦二十年の征夷と阿弖流為の降伏。
 まず「北上盆地の蝦夷は、本来強力であった上に、阿弖流為というカリスマ性を持った族長が現れ、彼らの武力を総結集して国家に対抗した。本来部族集団ごとに活動していた彼らは、阿弖流為のもとに大同団結し、国家による圧倒的な武力侵攻に三度にわたって徹底抗戦したのである。」とする。次に延暦八年の戦いが詳述され、その中で征夷軍は動員計画の52,800人をかなり上回っていたとし、また征東副将軍多治比浜成が船団を率いて三陸海岸沿いを征討したと想定する樋口知志氏(岩手大学教授)の見解に従うべきとしている。アテルイの降伏では、田村麻呂の受け入れによりアテルイは大墓公という姓を与えられ、大墓は「タモ」と読み羽田町の田茂山に由来するという及川洵氏の見解を紹介している。アテルイの処刑地については、『日本紀略』は郡名を記していないので「植山」にせよ「椙山」にせよ交野郡内に求める確かな根拠がなく不明としておくしかないとする。枚方市牧野公園内の阿弖流為の首塚と称する塚状の高まりについては、古くさかのぼる伝承ではなく、また、この地で阿弖流為を処刑したり、葬ったりすることは考えがたいとする。著者は1965年仙台市生まれ。近畿大学准教授。吉川弘文館、2,625円。

ページの上に戻る

 古代へのアプローチFile07として「「まつろわぬ民」蝦夷とは何者だったのか?」が特集され、「アテルイと田村麻呂」の項目でアテルイがとりあげられている。掲載写真には、(1)「田村麻呂伝説に登場し、アテルイの化身ともいわれる蝦夷の首長・悪路王の木像の複製」、(2)「アテルイの率いる蝦夷軍が大和朝廷軍を打ち破った巣伏古戦場に再現された櫓」、(3)「国内最北の前方後円墳である角塚古墳。五世紀頃の築造とされ、大和の古墳を受容した蝦夷の墓ではないかとされる。」他の説明がある。 2008年12月23日発行、発行所 デアゴスティーニ、560円

ページの上に戻る

 古都・京都における歴史の出来事を再確認しながらその石碑・刻字の素晴らしさを書家の視点から解説する。清水寺の境内に建つ森清範書[北天の雄 阿弖流為 母禮 之碑]も収録されている。解説では碑の脇にある説明を紹介したうえで、「これらの経緯を読んで頂けると何故清水寺に阿弖流為、母礼の碑が建っているか、又何故清水寺貫主である森清範師が筆をとっておられるかがよくわかって頂けると思う。森清範師の書は楷書で全く迷いがなく、真面目で温厚なお人柄があふれた立派な書である。田村麻呂は最後まで阿弖流為、母礼の助命を願ったとのことであるが、この碑からも切々とその心情が伝わってくるような気がする。」と書いている。最後に「「弖」の字は「天」の異体字」としている。青山碧雲著、2008年7月15日発行、木耳社、1,500円+税

ページの上に戻る

 平成21年11月8日、京都の清水寺の<阿弖流為・母禮之碑>法要が関西在住の岩手県出身者など約80人が列席して営まれました。清水寺からは森清範貫主、大西真興執事長、森孝忍法務部長、加藤真吾学芸員、横山正幸顧問、故福岡精道師夫人の福岡惠美さんら11人。来賓として穀田恵二衆院議員、相原正明奥州市長、平澤政敏岩手県大阪事務所長、尭律子関西岩手県人会会長、元大阪府副知事吉沢健四国大学教授、村岡信明モスクワ・リスコフ芸術大学名誉教授、笠井義弘牧野歴史懇話会会長ら12人。主催の関西アテルイ・モレの会から松阪定徳新会長ほか30人。奥州市からは「アテルイ京都・北陸の旅ツアー」が組まれ、当会の及川洵会長ほか会員有志を含め25人が参加しました。
 当日の京都は朝から雨で、会場を碑前から大講堂内の円通殿に移して法要が行われ、森貫主ら僧侶が読経し、厳かな雰囲気のなかで参列者が焼香しました。法要後の直会で森貫主は「アテルイとモレ、そして田村麻呂を通じて京都と水沢の縁ができたことは非常にすばらしいこと」とあいさつ、当会の及川会長は「清水寺に慰霊碑を建立してから15回目の法要。こうして長く続けられてきたのも森寛主はじめ関西県人ら皆さんのおかげです」と感謝の言葉を述べました。

ページの上に戻る

 平成21年9月16日、奥州市前沢区生母の耕雲院で母禮をたたえる会(菊地榮治会長)の会員ら33人が参列して行われました。本堂では会が奉納した母禮の位牌に参列者が焼香、続いて前沢吟詠会の会員が漢詩「母禮賛歌」を吟じました。北天太鼓の演奏も奉納されました。たたえる会は平成14年に結成され、慰霊祭は今回で7回目となります。

ページの上に戻る

 平成21年9月14日、<アテルイ歴史の里まつり>が水沢神明町の神明社で開催され、アテルイ音頭の奉納、アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列などのイベントがにぎやかに繰り広げられました。主催は水沢の跡呂井町内会で、アテルイを地域名の由来とする同町の地域おこし事業。平成元年に始まり3年に一度開催しています。武者行列はアテルイ軍が延暦8年(789)に朝廷軍を巣伏の戦いで打ち破った歴史にちなんでいて、住民ら44人がアテルイやモレ、兵士にふんして隊列を組み、馬上のアテルイを先頭に約3キロのコースを練り歩きました。

ページの上に戻る

 平成21年9月13日午前11時から、奥州市水沢羽黒山の<阿弖流為母禮慰霊碑>前で、主催者の阿弖流為・母禮を慰霊する会や当会の会員などが参列して行われました。及川松右衛門会長は「平成17年に『阿弖流為母禮慰霊碑』を建立しましてから4回目の慰霊祭を迎えることとなりました。この間、皆様には両雄ならびに蝦夷の慰霊・顕彰事業に対し、何かとご協力を賜りましたことを感謝申し上げます。ご存知のとおり、両雄の慰霊碑は京都市清水寺、大阪府枚方市牧野公園、奥州市出羽神社神域に建立され、これにより3市の結びつきが一層親密となり、顕彰活動がさらに深まりましたことは大変喜ばしいことと存じます。この慰霊祭・顕彰活動は今後も続けてまいります。なにとぞご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。」とあいさつしました。次の(平成21年9月)の慰霊祭は5回目となることから、清水寺の森貫主をお迎えするなど盛大に開催される予定です。

ページの上に戻る

 陸奥按察使藤原朝狩と胆沢の村長の娘とのあいだに生れたカタミヒコを主人公に、少年時代の多賀城(第一部国府多賀城春秋)に始まり、名取(第二部海と川沿いの里)、胆沢(第三部日高見川の歌)と辿り、最後にアテルイの降伏に立ち会うまでの「蝦夷争乱」の時代を物語とした。第三部からアテルイが登場する。アテルイは、「父祖の地の日高見川の支流胆沢川沿いから多くの人々を率いて、日高見川沿いに居を作り、広い周辺の地を切り開いて、大きな村(熊の堂村)を作り上げた」とされ、アテルイの家は「今では縁組などを通じて川の東にも広い土地を持ち、胆沢全体の村長たちの間に隠然とした力」を持ち、当主のアテルイは「壮年を過ぎつつあるが、それだけ思慮に富む男」とされる。延暦八年の朝廷軍の胆沢侵攻に対し、アテルイは胆沢の村々をまとめて戦い、勝利するが、延暦13年の侵攻に対しては大敗、延暦20年の侵攻に対しては戦いを挑むことすらできず、翌年に降伏する。著者はこの降伏までに至る展開を、胆沢の村々の連合が裏切りや脱落などで内部から醜いまでに崩壊していく過程として叙述している。強大な古代国家との対決ということであっても、はたして胆沢の蝦夷の紐帯はこれほどもろいものだったのか。そうであったとすれば、確かに「悲話」ということになろう。本書は、著者が1988年に出版した『朔風の彼方』(自家製本)を全般にわたって手を加え、改題した。(2008.5、鳥影社、1700円)

ページの上に戻る

 平成20年6月1日、奥州市水沢佐倉河北田地内の水田で、田んぼをキャンパスに稲でアテルイの顔と中尊寺金色堂を描く「田んぼにアート事業」のスタートとなる田植えが行われた。美しい田園風景を持つ跡呂井地区の資源を生かした地域活性化策のひとつで、主催は市民有志などで組織する田んぼでアート実行委員会(森岡誠会長)。当日は地元の小中高生や住民のほか、市内各地から集まった農業者ら約120人が参加した。アテルイの顔はイラストレーターのTAGさんが図案化したもので、10アールの水田に絵と文字を表現するため三種類(紫黒米の朝紫、黄稲、ひとめぼれ)の稲の苗を植えた。絵は苗が成長するにしたがい徐々に見え始め、7月下旬から8月中旬に見ごろを迎えるといい、水田隣の公園(「巣伏古戦場跡」)内に建つ物見やぐらから楽しめるようになるとのこと。

ページの上に戻る

【水沢競馬・第1回アテルイ賞】
平成19年12月30日、水沢競馬場のメーンレースにB3クラスの特別戦として「第1回アテルイ賞」(1着賞金35万円)が組まれました。これまで水沢競馬場ではアテルイに関連した「阿久利黒杯」が開催されていますが、「アテルイ」を冠としたレースは初めて。水沢競馬の存続を願う当会会員も駆けつけ馬券購入、なんと二人の役員が「アテルイ賞」で万馬券をゲットしました。これ本当の話。
【アテルイが県大会へ】
11月18日、サントリーカップ第4回全国小学生タグラグビー選手権大会県南プロック予選が水沢総合体育館で行われ、アテルイブレーブスJrが優勝し、県大会への出場権を獲得しました。アテルイドリームJrは3位。
【第10回あてるいカップ東北選抜中学校バスケットボール交流会】
4月26日、27日、奥州市の三会場で開催され、岩手県、宮城県、山形県、秋田県から男女合わせて53チームが出場して熱戦を繰り広げました。
【新・奥州謙良節の歌詞にアテルイ】
奥州市誕生を祝う奥州謙良節を制作した小野寺寛さんが、歌詞を全面的に見直し「新・奥州謙良節」を仕上げました。2番の歌詞は「さてもハア偉人の里 蝦夷の郷にロマン刻む 英雄アテルイわが誇り 日本の夜明け告げる先人 文化の香り漂うまち 今日を生きる欣びを 永遠の幸福はぐくむ力に」

ページの上に戻る

 昨年(平成19年)3月、大阪府枚方市牧野公園内に<伝阿弖流為母禮之塚>を建立した伝阿弖流為母禮之塚建立実行委員会(中司実会長)は、継続事業として、郷土歴史教材『阿弖流為と田村麻呂』を発行、9月13日には「アテルイ・モレ祭」を開催し、活動に区切りをつけて解散した。そして新たに、「塚の維持管理を主たる目的とし、また、これらの歴史を正しく後世に伝えるとともに、アテルイ・モレを通じて各関係団体との交流を図る」ため、本年4月に「伝アテルイ・モレの塚保存会」(中野一雄会長)を発足させた。今後の事業としては、(1)塚の保存活動、(2)アテルイ・モレ・坂上田村麻呂に関する諸活動、(3)アテルイ・モレ祭の開催、(4)各関係団体との交流、をあげ、事務局を片埜神社内においている。会員募集中で年会費6,000円。 

ページの上に戻る

 田中聡氏(立命館大学・大阪樟蔭女子大学非常勤講師)執筆の第2章「マンガと歴史叙述」の最初が「1.学習マンガのなかの野蛮人~蝦夷の族長アテルイ~」。本書は2007年7月の刊行だが、初出は部落問題研究所機関誌『人権と部落問題』の連載コラム「差別と向き合うマンガたち」(2004年5月号)。「図1は髪を振り乱し、片肌脱ぎでごわごわの胸毛をみせたアテルイが、屋外で裸の部下たちを前に気勢を上げている。これに対して図2は、同じように朝廷への反抗を誓うシーンだが、平板張りの屋内で、角髪を結い衣服を整えたアテルイが蝦夷たちと座って話し合っている。荒々しく野蛮な蝦夷の王アテルイと、理知的で文明化された首長アテルイという、それぞれの印象は、前後を読むとさらにはっきりする。図1では非農耕民と朝廷の力比べとして描かれる戦いが、図2では朝廷の支配から逃れた農耕民が独立を守るための戦いとしてされているのだ。同じ人物を描きながら、こんな違いがどうして出るのだろうか。じつはこの二作品、図1は1967年、図2は1981年の作で、描かれた時期に14年の開きがある。この間に蝦夷についての研究上の大きな転換が起こったのだ。(中略)蝦夷の実態は同じ「日本人」に他ならない、とする理解が通説となった。こうした蝦夷観-民族観の変化が、マンガでのアテルイ像をも変えてしまったということだろう。基礎知識の少ない子どもが読んでも、アテルイが異民族なのか、「日本人」なのかはほとんど直感的に理解できる。マンガのもつこうした文化の差をとらえる力と、差別との関係を考える必要がありそうだ。」

ページの上に戻る

 1994年に吉川弘文館より刊行された新野直吉(現秋田大学名誉教授)著『田村麻呂と阿弖流為』が、2007年10月に同社の歴史文化セレクションとして復刊された。復刊にあたって加えられた「『田村麻呂と阿弖流為』の周辺を語る」では、「阿弖流為を主題に一書」を求められた時のことから執筆受諾の経過を、これまでのアテルイに関する叙述(『古代東北の開拓』『古代東北の覇者』『古代東北史の人々』『古代東北の兵乱』)を踏まえつつ、「さらに冷静に史料分析した著述の好機」として受け止めたと語っている。
 続いて、初版が刊行された年に京都清水寺に「アテルイ・モレの顕彰碑」を建立した関西胆江同郷会の高橋敏男会長との関わり、平成七年の延暦八年の会主催「アテルイライブラリー記念講演会」での講演、京都清水寺で書名と同題の講義をしたことなどが語られ、最後には、「そういえばちょうど、平成19年5月15日付『アテルイ通信』第51号には、枚方市牧野阪公園内に「伝阿弖流為母禮之塚」という清水寺貫主揮ごうの生駒石碑が建てられたことを報じていることも、ぜひ附記したい。」と記している。

ページの上に戻る

 産経新聞論説委員の石井英夫氏による連載「世はこともなし?」の第31回が「アテルイの血筋」。情報211と同じ筆者で、「恥ずかしながら、この秋『流域紀行北上川をあるく』の取材で岩手県の水沢へ旅をするまで、「アテルイ」のアの字も知らなかった。そしてみちのくを歩くと、アテルイ抜きでは夜も日も明けないほどのもてはやされぶりに驚いた。」で始まる。内容はアテルイやエミシ、アテルイ顕彰の経過などが簡潔に紹介されていて好意的だが、そのなかで「坂上田村麻呂展」のプログラムに、「胆江日日の佐々木隆男社長は「古代王朝の東北侵略に対して激しいレジスタンスを展開したアテルイ」と表現し、「(延暦22年は)いわばこの地方が『日本』という国に併合された年」と記している。「東北侵略」「日本併合」などという激しくナショナリスティックな文言がちりばめられている」ことに目を引かれたという。最後に「豪腕といわれ、壊し屋といわれる政治家・小沢氏の言動は、さて風雲児アテルイの血を継いだものかどうか」と問い、「泉下のアテルイに尋ねれば、「とんでもねえ。ちゃぶ台返しのプッツン政治家といっしょにしねでけらいや」と嘆息するのではないか」と結んでいる。

ページの上に戻る

 平成19年11月10日、京都の清水寺の<阿弖流為・母禮之碑>前で奥州市の関係者や関西在住の岩手県出身者など約70人が列席して営まれました。この日のために「アテルイ京都の旅ツアー」も組まれ、当会からは及川洵会長、佐藤秀昭副会長ほか幹事数名と会員有志が参加しました。当日は朝方曇り空だったものの、法要が始まる午前11時ごろには日が差し、晴れ上がりました。森清範貫主ら僧侶が碑を前に読経し、厳かな雰囲気のなかで参列者が焼香して供養し、アテルイとモレを偲びました。慰霊法要は、関西アテルイ・モレの会(小瀬川操一会長)の主催で毎年11月に行われています。また恒例となっている法要後の直会では、出席者全員の紹介のあと、アテルイを話題に大いに懇親を深めました。

ページの上に戻る

 水沢羽田地区振興会と羽田公民館主催による「2007 アテルイ・ロマン古道~東海道を歩く会~」が10月6日に開催され、多くの小中学生も参加して黒石町鶴城地区から羽黒山までの約9キロの区間を元気に歩き、アテルイの郷への思いを確かめあいました。東海道は古代朝廷が整備した主要道のひとつで、多賀城から志和城に至ったとされる古道です。その一部はアテルイやエミシたちが通った道でもあったでしょう。

ページの上に戻る

 平成19年10月26日付の第4回は「アテルイの血?反逆の傑物たち」。筆者の石井英夫氏は「ところでアテルイという男の名を聞いたことがおありであろうか。まつろわぬエミシの指導者で、北上川のほとりの胆江、いまの水沢(現奥州市水沢)が生んだ梟雄である。8世紀末、桓武天皇のころ北上川を舞台に政府軍を破って中央を悩ませた。時代が下がってこの水沢は、わずか1万6000石の小藩でありながら数多くの傑出した人物を輩出した。幕末の蘭学者・高野長英、明治・大正の政治家・後藤新平、昭和の宰相・斉藤実ら。町には「偉人通り」と呼ばれる一画もある。いまをときめく民主党代表の小沢一郎氏も水沢出身だ。かれらに共通するのは時流に反逆する性向といってもいい。この"時代の子"らの出現は、1200年前の梟雄アテルイの血とはたして無縁だろうか。」と冒頭に書く。
 次に、当会の幹事で胆江日日新聞編集長の安彦公一氏の「賊徒の頭目から民族の英雄へ、アテルイの評価が百八十度転換したのはこの地元でもここ10年ぐらいのことです。いまではすっかり地域おこしの象徴的人物ですが」という話などが紹介され、「子供のころ、アテルイは農民を苦しめる悪路王として教えられてきた。それが中央へのいわれなきコンプレックスにもなってきた、と水沢人は口ぐちにいう。歴史の闇に封印された人物だったのだ。」と結びに。

ページの上に戻る

 9月19日午後1時半から、映画上映ボランティアグループのフィルマズ・アテルイ主催により、奥州市埋蔵文化財調査センター研修室で開催されました。アニメは2002年のアテルイ没後1200年に合わせて制作されたもので、同グループは毎年の「アテルイの日」前後に会場を変えながら上映を続けている。

ページの上に戻る

 平成19年9月15日午前10時半から、奥州市水沢羽田町羽黒山の<阿弖流為母禮慰霊碑>前で、阿弖流為・母禮を慰霊する会や当会の会員など約40人が参列して行われた。出羽神社の古玉宮司が祝詞奏上、当会顧問の一力一夫河北新報社会長らが玉ぐしを奉げました。慰霊祭終了後には同区メイプル4Fの奥州寺子屋に会場を移して直会も行われ、参加者の交流を深めました。

ページの上に戻る

 九世紀初頭前後に蝦夷社会は画期を迎える。「三十八年戦争や城柵の設置・大改造など律令国家の積極政策と、その頓挫によるいわゆる民夷融和政策への変換や城柵の統合再編」が行われ、また「集落や墳墓・土器などでも大きな変化」が起きているというのである。本書は、この時期における蝦夷社会の実態に迫る以下の九編の論文からなる高志書院発行の奥羽史研究叢書(9)である。2007年1月発行、4,200円。
 第1章 蝦夷移配政策の変質とその意義 熊谷公男/東北学院大学教授
 第2章 蝦夷の入京越訴 鈴木拓也/近畿大学助教授
 第3章 蝦夷と「律令」 八木光則/盛岡市教育委員会
 第4章 九世紀の城柵 伊藤武士/秋田市教育委員会
 第5章 本州北縁地域の蝦夷集落と土器 宇部則保/八戸市教育委員会
 第6章 北方地域との交流とその展開 武廣亮平/道都大学社会福祉学部
 第7章 須恵器・鉄生産の展開 井出靖夫/日本学術振興会特別研究員
 第8章 出土文字資料からみた東西差・南北差 鐘江宏之/学習院大学助教授
 第9章 元慶の乱と蝦夷の社会 熊田亮介/秋田大学教授 
 このなかで、第1章と第2章のアテルイに関係する部分を紹介する。この二つの論文には、アテルイと胆沢の蝦夷についての重要な内容が含まれている。第1章の熊谷公男氏は、まずアテルイの名前を「長年にわたって頑強に抵抗してきた阿弖流為率いる山道の蝦夷」というかたちでとりあげている。次に、論議があるところのアテルイの降伏について、「延暦二十一年(802)に阿弖流為と母礼が「種類」五○○余人を率いて投降してくるが、このときも作法に則った帰降とみなされて受け入れられたのであろう。坂上田村麻呂に随って入京した二人は、田村麻呂の「此度任願返入、招其賊類」という助命嘆願にもかかわらず、公卿たちの「野生獣心、反覆无定、儻縁朝威獲此梟帥。縦依申請、放還奥地。所謂養虎遺患也」という反対にあって処刑される。鈴木拓也はこの二人も「『捷』として入京させられた可能性が高い」とみているが、かれらは自らの意思で帰降してきた蝦夷であるから、戦場で捕虜となって都に送られた蝦夷とは区別されていたはずで、むしろ投降してきた蝦夷の生殺与奪の権を実際に国家が掌握していたことを示す事例とみるべきであろう。ただしこのとき二人が処刑されたのは、彼らが「奥地之賊首」として長年にわたって政府軍を苦しめたためで、例外中の例外であった。」とする従うべき新たな見解を提示している。「国家は戦闘において捕虜とした蝦夷と自主的に投降してきた蝦夷の取り扱いを区別していた」ことが明らかにされ、これによりアテルイの降伏から処刑までの流れを整合的に解釈し得る明解な余地ができたといえる(例えば「並従」「捉斬」など)。ちなみに、『捷』とは「カチモノ=戦勝の証拠となる人や物」(熊谷)のこと。
 第2章の鈴木拓也氏は、冒頭で「宝亀五年から弘仁二年にかけて行われたいわゆる三十八年戦争は、蝦夷に対する継続的で大規模な軍事侵攻であり、蝦夷社会に壊滅的な影響を与えた。征夷そのものが蝦夷社会を破壊したのはむろんのこと、国家側に投降した俘囚の諸国移配は蝦夷の勢力を分断し、国家への抵抗の象徴的存在であった族長阿弖流為・母礼の処刑は、北上川中流域に形成されつつあった蝦夷諸集団の統合をも破壊したのである[熊谷1995]。」と述べる。蝦夷の移配については、「それが本格化するのは延暦十三年の征夷以後と考えられる[今泉1992、熊谷1995]。」という。直接の史料はないが、「延暦十七年以後、移配蝦夷の処遇に関する基本的な法令が継続して出されており、このころ移配蝦夷が急激に増加したことが窺えるからである。延暦十三年の征夷は、坂上田村麻呂らによって胆沢の蝦夷に対して初めて戦果を上げた征夷であり、それに伴って多数の蝦夷が諸国に移配されたと推定できる。続く延暦二十年の征夷も、阿弖流為・母礼を降伏に導いた征夷であるから、蝦夷の諸国移配を伴ったとみてよいであろう。」とする。この胆沢の蝦夷については、「実際には、胆沢の蝦夷は農耕民であった。狩猟・漁撈・牧畜も行っていたであろうが、農耕が彼らの生業に占める割合はかなり高かったとみられる。」とする。「延暦八年の征夷の後、征東将軍の紀古佐美は、「所謂胆沢者、水陸万頃、蝦虜存生」と述べているが、「水陸万頃」とは、六月九日の古佐美の奏に登場する「水陸之田」、つまり水田・陸田に相当する[今泉1992]。六月三日に征夷軍の惨敗を報告した古佐美は、六月九日に「雖蠢爾小寇、且逋天誅、而水陸之田、不得耕種。既失農時、不滅何待」と述べて、桓武天皇に征夷軍の撤退を進言する。"蝦夷は攻撃を逃れたけれども、水田・陸田ともに田植えができなかったので、放置しても滅ぶであろう"という論理である。国家の立場からすると、蝦夷は農耕を知らない野蛮人でなければならない。しかし右に掲げた例は、征東将軍が胆沢から撤退するという自分の判断を正当化するため、蝦夷を農耕民と認めている稀有な例である。」という。
 また、「いわゆる三十八年戦争も、主戦場は胆沢・志波と言われる北上川中流域であり、諸国に移配されたのも、主にこの地域の蝦夷であった」が、「陸奥の蝦夷は、征夷と移配によって既存の社会を破壊されながらも、なお国家への抵抗を続けたのであり、諸国に移配された者、現地に残った者の双方が、反乱・騒乱や越訴を繰り返していた」と、征夷終結後の新たな抵抗の姿を蝦夷の視点から述べている。

ページの上に戻る

 平成19年3月4日、アテルイとモレの終焉の地とされる大阪府枚方市に「伝阿弖流為母禮之塚」が建立され、地元枚方市民をはじめ、関西アテルイ・モレの会、岩手からも奥州市関係者や当会の及川会長他役員が出席して除幕式が行われた。完成した塚は、高さ143㎝、幅120㎝ほどの生駒石(御影石)製で、清水寺の森清範貫主が揮毫している。
 式典では、枚方市立第三中学校生徒によるブラスバンド演奏の後、塚建立実行委員会の中司実会長、笠井義弘副会長、中司宏枚方市長、岩井憲男奥州市助役、及川洵当会会長らが紅白のひもを引いて除幕。清水寺の森貫主が「1200年前の心が今日に生きていることを証明した鎮魂の碑だ」と縁の大切さを説く講話を行った。続く祝辞で中司枚方市長は「この碑は命を大切にする平和の象徴でもある。歴史の深さを大切にして地域の一体感を市民と一緒に築いていきたい」と挨拶、岩井助役は「アテルイの故郷の思いを今に伝えていただいたことに感謝している」と相原奥州市長のメッセージを代読した。塚はその場で、実行委員会から枚方市に寄贈され、関係者に対し枚方市と当会からの感謝状が贈呈された。会場を移しての竣工報告会と続いての懇親会では、「ああアテルイ」も合唱されるなど熱気に満ち、奥州と枚方、京都清水寺の絆を強める意義深い機会となった。塚建立実行委員会は、配布したあいさつ文で「将来この地が処刑地、終焉の地として学問的にも位置づけられるよう働きかけをする」と結んでいる。

ページの上に戻る

[1]【アテルイの生ソフトクリーム】みずさわ観光物産センター(Zプラザアテルイ)に、新製品として登場した。乳製品の加工販売を手がける吉田乳配が開発したもので、牛乳のおいしさを凝縮したこくのある味が売り。一個250円で、アテルイのキャラクターののぼりが目印。
[2]【第10回アテルイ・グラウンドゴルフ大会】水沢老人クラブ連合会主催の毎年の行事で、10月中旬に県立産業技術短期大学校グラウンドで開催され、約290人の会員が自慢の腕を競い合った。
[3]【第7回アテルイの心と輝き展】社会福祉法人愛護会の千養寺焼陶芸館で作った陶芸作品展で、めんこい美術館を会場に11月29日まで開かれた。金ヶ崎保育園、たんぽぽ保育園、東水沢保育園、第二東水沢保育園の園児とその保護者たちの作品など約三百点が並べられだ。 

ページの上に戻る

 特集が「岩手古寺巡礼・仏像が語る歴史の道」で、アテルイの名前が二ヵ所に出てくる。工藤雅樹氏(東北歴史博物館館長)は「奥六郡」にふれて、「陸奥国胆沢地方の蝦夷の首長・阿弖流為」の名前を出し、山本明氏は「黒石寺」の紹介で、「胆沢は、この地の蝦夷の首長・阿弖流為率いる蝦夷軍が朝廷軍に対し、最後の抵抗を示した地である」と記している。特集の内容そのものも興味深い。「トランベェール」はJR東日本発行で、新幹線各座席の前に常置されている(持ち帰り自由)

ページの上に戻る

 奥州市議会第二回定例会の一般質問(9月5~13日)で、佐藤建樹議員が市長に対し次の質問(要旨)を行った。以下、『おうしゅう市議会だより』第2号より。「平成十七年九月十七日、アテルイ・モレの慰霊碑が建立されました。羽黒山の歴史公園化について所感をお伺いします。文化遺産とは永遠に保存したいものを意味します。その時代の生き方が現れています。古の日高見の国は時を経て奥州市になりました。奥州市原点のシンボルとして羽黒山について、市長、教育委員長の見解をお伺いします。」この質問に対する市長の答弁(要旨)は、「羽黒山をエミシのシンボルとする気運が高まっているものと認識しています。市といたしましても、市民の運動と連携しながら新たに誕生した奥州市の歴史の象徴として、地域に位置づける所存であります。羽黒山この地域は、神社と民有地の有る事を考慮し当面は地元、地区や市民団体と共に、アテルイやエミシを象徴する地域として、ランドマーク的に環境の保全や活用の有り方を検討します。」というものでした。

ページの上に戻る

 奥州市水沢中心商店街の商業ビル・メイプルの4階に、郷土の書籍コーナーが新設された。そこにはアテルイ関係の希少本なども並んで販売されている。たとえば、平成元年発行の延暦八年の会編『アテルイとエミシ』(1300円)をはじめ、『アテルイ没後1200年記念事業報告書・阿弖流為復権』(2000円)、佐藤秀昭文『アテルイ』(1200円)、高橋克彦原作わらび座公演DVD『アテルイ』(2500円)など。

ページの上に戻る