情報298 おおぎやなぎちか作『アテルイ』の感想文

第54回岩手読書感想文コンクール小学校の部高学年(5、6年)の優秀賞に盛岡本宮小学校5年菊池展拓君の「生き続ける「心」」[課題図書=アテルイ 坂上田村麻呂と交えたエミシの勇士]が選ばれた。
以下、『岩手日報』紙に掲載された紙面から紹介する。

ぼう頭で、ぼくは目をうたがった。父とは子を守り、子を愛する者だと思っていた。
しかし、どうだろう。アテルイの父であるカンガは子であるアテルイを、さけびののしりにくんでいる。
いくら母が死んだとはいえ、そこまでするものなのだろうか。アテルイの心の中に生まれた「そいつ」が何かのかぎをにぎっているのかもしれないと、ぼくは仮定した。

「そいつ」は色々な場面ですがたを見せた。
たとえば、つる丸と出会った場面。
晴れていた天気が黒雲に変わったとき、まるで「そいつ」のような不気味さを感じた。
またあるときは、父をにくもうぞと、「そいつ」の声が多賀城の板張りの一室で聞こえてきた。
そしてアザマロのしゅうげきを受けたイサ村で父であるカンガにさい会したときにもやはり「そいつ」は現れ、にくめとアテルイをあおり、苦つうをよみがえらせた。

「そいつ」はいつもアテルイの心が弱っているときをねらってすがたを見せているように感じた。
「そいつ」とは何なのだろうか。弱いのか、強いのか。

ふと、思い出したことがある。ぼくも「そいつ」に会ったことがあるような気がする。
たとえば、宿題をサボりたくなったとき、またあるときは、半紙と筆を相手に、ただ独りで向き合っているとき。
そして、妹と兄妹げんかをしたときにもやはり「そいつ」に会ったような気がする。
ぼくの心が折れたときだ。

アテルイの前に現れる「そいつ」と、ぼくが会ったかもしれない「そいつ」は、同じではないのかもしれないが、心が弱ったときにすがたを現すという点では、共通していると思う。
つまり「そいつ」とは、心の弱さのごん化なのかもしれない。
ごん化の意味を辞典で調べたとき、予想が確信に変わった。

アテルイはずっと、だれかと戦ってきた。父であるカンガであったり、朝てい軍やその大しょう坂上田村麻呂もアテルイのてきだった。
いや、そう思っていた。
しかし、アテルイは言った。
「それらはまことのてきではない」「おれのてきはずっと『そいつ』だったんだ」。

人はみな、心をもっている。強い心、弱い心、じゃ悪な心、やさしい心。
「そいつ」は、そんな心のすきをねらって息をひそめている。
アテルイは、「そいつ」に心を乗っとられかけたが、強い心で立ち向かった。
そしていつもだれかが助けてくれた。
アテルイは、しょけいされその命を終える最後まで自分の心を守り続けることができたのだとぼくは思う。

アテルイがもし生きていたら、ぼくは聞いてみたい。
どうすれば心を強く生きられるのか、「そいつ」に打ち勝てるのかを。
カンガはきっと「そいつ」に負けたのだ。ぼくも負けそうなときがある。
そんなときは本を開き、アテルイに会いに行こうと思う。

審査委員長は、優秀賞は英雄アテルイの内面の弱さを「そいつ」という独自の表現で書き、読み応えがありました。と講評している。