情報270 斉東野人著 『阿弖流為別伝 残照はるかに』

本書については、『図書新聞』3103号(2013年3月23日)に、「中央対エミシの三八戦争を描く」として、堀江朋子氏(作家)の書評が掲載されている。
「三十八年戦争と呼ばれる東北騒乱を、胆沢(現水沢付近)の族長阿弖流為を中心に描いた七五七ページにわたる大著で、史実を踏まえて、史実の裏側にあったであろう様々な事象を、精密な筆致で描いている。文献資料に記載されている史実を点とすれば、点と点を結ぶ線の部分(時空)を物語として描いているわけだが、このフィクションの部分で著者の筆が冴える。...中略...知られていない部分の多い中央対エミシの争いを、説得力ある物語として伝えてくれた著者のストーリーテラーとしての才能に注目した。」との評である。

胆沢に生まれ育った阿弖流為と母礼と阿奴志己の三人は幼友達で、阿奴志己は胆沢一の豪族・伊佐西古の息子、母礼も数か村を束ねる豪族の子、阿弖流為だけが山夷の村長の子というユニークな設定。阿奴志己、伊佐西古の名はいずれも実在した人物の名前であり、空海の登場なども物語への興味を湧かせる。

宝亀元年(770年)、「同族を率いて必ず城柵を侵さむ」と宣言し、徒族を率いて朝廷側から離反した蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇の事件が史実としてある。そのなかに少年期の阿弖流為と母礼、阿奴志己、胆沢の蝦夷が深く関わっていくところから物語が始まる(第一章)。宝亀五年(774年)、海道の蝦夷が桃生城を襲撃した。宇屈波宇の軍と青年となった阿弖流為、母礼、阿奴志己が指揮する胆沢の蝦夷軍の共同作戦によるものだった(第二章)。宝亀十一年(780年)、呰麻呂が伊治城で反乱を起こし按察使参議の紀広純を殺した。阿弖流為はその頃すでに連合蝦夷軍の総大将に祭り上げられていた(第三章)。都では桓武天皇が即位し、大伴家持が鎮守府将軍に任命される(第四章)。阿弖流為らは都を見に上った。蝦夷の族長たちの微妙な意見の違いも出てくる(第五章)。延暦八年(789年)、ついに全面対決の時を迎える。有名な巣伏の戦いであるが、著者はここで知られていない作戦を導入する。日高見川の東側での戦いでは挟み撃ちにして川に追い込んだことは記録にあるが、西側を北上した朝廷軍も日高見川を東岸に徒歩で渡河させるように仕向け、上流に丸太で組んでいた堰を決壊させて多くの兵を一緒に押し流したのである。小説とはいえ、日高見川(北上川)の水量等からしてこの作戦はあまりに現実離れしているのではと首をひねった(第六章)。勝利したにかかわらず、蝦夷社会に亀裂が走る。阿奴志己は戦線離脱した。朝廷軍との二度目の戦いに蝦夷軍は大きな痛手を受けた(第七章)。胆沢は国府軍に支配され、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命された(第八章)。胆沢城の造営に着手した田村麻呂は、阿弖流為と直接話し合うため自ら蝦夷軍に捕まり、阿弖流為に「陸奥国王」への就任を提案する。阿弖流為と母礼は停戦を決め、交渉のため田村麻呂に伴われて都に向かった。桓武大王は阿弖流為に大墓公、母礼に盤具公の氏と姓を許す(第九章)。阿弖流為と母礼は清水の田村邸にいたが、都の人々は阿弖流為を悪路王と呼んだりしていた。内裏の広間で二人の処遇について議論がかわされ、桓武が意見を預かるかたちで閉会したが、桓武は必死に説得する田村麻呂に「殺せ!首を刎ねよ!」と告げる。田村麻呂は逃がすことを画策するが二人は死を覚悟する(第十章)。桓武の対応がちぐはぐなのはどうしてか。また、田村麻呂があまりに善意の人として描かれているという、堀江さんの評に同感せざるをえない。〔海象社、本体3,200円、2013年1月刊〕