情報267 及川洵著 『蝦夷(えみし)アテルイ』

著者はアテルイを顕彰する会の会長で、本書は『アテルイ研究入門』(2002)、長編小説『阿弖流為』(2009)、『阿弖流為と田村麻呂伝説』(2011)に続く四冊目の著作になる。書きためたノートを見直し、出てきた疑問を史料や文献に当って解明し、まとめたものが本書という。その綿密な記述は、アテルイに関係する全般的な内容におよんでいて、著者の半世紀に及ぶ研究の集大成といってよいものである。
第一章は「アテルイの名と生誕地」について、第二章、第三章は「律令国家の北進」「宝亀七年の戦い」で、アテルイが登場してくるまでの朝廷による蝦夷征討の歴史的経過を記述、第四章の「延暦八年の戦い」から、第五章「延暦十三年の戦い」、第六章「延暦二十年の戦い」、第七章「巨星落つ」まではアテルイの戦いから降伏、処刑までの記述で本書の中心部分となっている。第八章は伝説について、第九章は戦後のアテルイ関係著作を追うなかでのアテルイ復権の動きを紹介している。

これまでアテルイを主題にして、このように全般にわたって記述された著作はほとんどなかったといってよい。今後、東北古代史を専門とする研究者が「アテルイ」についての著作を出版する企画が二、三予定されていると聞き及ぶが、当会の会長である著者がその誰よりも早く出版に到ったのである。本書は文庫版で記述も読みやすく、定価も求めやすくなっており、まずは広く読まれることを期待したい。以下、史料が少なく解明しにくいことが多いなかで、今後の争点となりそうなところを、いくつか紹介もかね見ていきたい。

まず延暦八年の戦いでは、【1】陸路からの征討と並行して海路での海岸地域の征討も行われたとする樋口知志氏(岩手大学教授)の有力な新説に歩調を合わせながら、征東大将軍の報告の中で使用された「海浦の窟宅」という語句について、「海沿いの洞窟住居」と訳したうえで、「誇張された表現であろう。筆者らの気仙地方遺跡分布調査で海岸に洞窟住居はない」と指摘する。海路の征討を推察させるに顕著な「海浦の窟宅」という語句をどのように理解するのかは重要で、まだ新説について議論の余地があるように思える。
【2】著者は「巣伏村」「日上之湊」などをはじめ巣伏の戦いの関係地について、その推定地を具体的にあげて戦いの実相をよりリアルに描きだしている。その中で、朝廷軍の北上川渡河の上陸地点として「赤生津(奥州市前沢区生母)附近」をあげて、その理由に「赤生津の人々は征討軍と交戦したという伝説がある。身を隠したという大きい石もある」という。だが、この「伝説」は、「モレの屋敷跡」などという「伝承」と同じく最近になってまとめて湧き出てきたものであり、安易に採用してよいのかという疑問が残る。

延暦十三年の戦いでは、まず「アテルイ軍は敗れ、征討軍の大勝利」になったと評価している。そのうえで、「勝った朝廷軍がなぜそのまま胆沢に駐留し、胆沢城を築かなかったのか」、さらに「勝利した朝廷軍の中から逃亡兵が出ている」ことの疑問をあげ、考えられるのは「伝染病」で、それに恐れをなして逃亡者が出たことから、軍士を駐留させ、城柵を築造することかができなかったと、著者は独自の推定をしている。

延暦二十年の戦いの章では、【1】アテルイとモレの二人が賜姓された時期を降伏した後だとする。すなわち田村麻呂が二人に「公」の姓を与えることで降伏を説得し、二人がそれを受け入れた結果だとするのである。アテルイとモレが「公姓」を受けることができる時期について、著者は宝亀七年(776)に胆沢が攻撃されてからの後は考えにくく、また、「これより以前は、アテルイは若輩であり、入朝しての調貢は考えられない」という。これまででは賜姓は降伏前という見方が多いように思うが、著者の指摘により、さらに踏み込んだ検討が必要になった。
【2】アテルイのウジ名である「大墓」については、万葉仮名で「た」「も」と読み、現奥州市水沢区羽田町(古くは江刺郡)の田茂山の田茂であるとし、その地名は『葛西真記録』に見えるように鎌倉時代より前に存在していたことを強調している。もとより、それでアテルイの時代の地名ということにはならないが、『奥羽観蹟聞老志』巻之九は「気仙郡」の「田茂山館」について「在田茂山村小沢右京者居之」と記しており、葛西家臣の「小沢右馬丞 田茂山村」(『葛西真記録』)との関係が気にかかる。機会があれば『葛西真記録』の原文を見てみたい。
【3】また、「母禮」については、「モレ」、「モライ」、「モタイ」の読みがあり、「モタイ」であれば「母体郷」(奥州市前前沢区生母)があったとし、高橋富雄氏の「盤具」⇒「磐貝」⇒イワイという考え方を「磐井郡母体」ではっきり地名と結びつくと肯定的に紹介している。

巨星落つの章では、「アテルイとモレは、田村麻呂を信じて京へ同行した。...そして突然逮捕された」とし、処刑の決定は桓武天皇の意向だとする。処刑地は河内国の植山と推定し、現大阪府枚方市宇山町だとしている。その理由として、「伝・アテルイとモレの首塚」伝説は河内国の中で宇山村以外にないことに着目すべきだとし、なぜ交野の「禁野地に近い狩猟地」で処刑したのかというと、「二人は蝦夷で獣である。狩猟地では多数の動物を殺し、血を流している。獣に祟りはない。桓武天皇がこの場所を選んだのは、そのような理由だったはずである」という。

だが、大阪大学の馬場隆弘氏は、『河内国禁野交野供御所定文』の解読から天皇の狩猟地である禁野の四至を明確にし、少なくとも天の川以北の枚方市域(東部の山間部を除く)がおよその範囲であり、宇山は禁野の中心やや西寄りに位置していると指摘している。禁野の「近く」ではなく、宇山は禁野の内にあった。また同史料から、禁野では鷹の餌を獲るための狩りと鷹を使っての狩り以外の殺生を禁じることが最も重視されていたことを示し、朝廷が自ら禁を犯し、あえて禁野を穢すような指示を出すはずがないと断じている(「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』3号、2006年4月)。

本書はアテルイ研究の現在の地平を示す画期となるものであり、これからのさらなる研究の進展を促すに意義ある一冊である。 [2013年6月刊、文芸社、740円+税]