情報233 「アテルイ・モレ顕彰の地」の説明板

 平成21年8月24日、奥州市の協力により、水沢羽田町羽黒山山頂の阿弖流為・母禮慰霊碑の付近に「アテルイ・モレ顕彰の地」の説明版が設置された。[アテルイ・モレ顕彰の地] 朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄、毛人、蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。この羽黒山は、『続日本紀』延暦八年六月条の「四百人ばかりありて、東山より出て官軍の後を絶てり」の東山に比定できることから、私たちはアテルイ・モレを始めとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛に深く心を打たれ、ここに慰霊碑を建立しました。今後、この地を「顕彰の地」として、永く語り継ぎたいと考えています。平成二十一(二〇〇九)年九月十七日 アテルイ・モレを慰霊する会 及川 洵 撰文