情報231 『おうしゅう歴史散策ガイドブック』

 合併して奥州市となっての歴史散策ガイドブック。最初に奥州市の歴史が三区分されて叙述される。「旧石器から蝦夷の時代」に続いて「アテルイ・安倍氏の時代」。まず年表でアテルイが登場する部分は、789年アテルイら、紀古佐美率いる征討軍を巣伏村で撃退。794年坂上田村麻呂らの征討軍10万人に北上川流域の蝦夷が討たれ、集落75ヵ所が焼かれる。801年坂上田村麻呂ら4万の軍が来攻。802年坂上田村麻呂、胆沢城(水沢)を築造。アテルイら降伏し、北上川流域の胆沢の蝦夷が服属。
 アテルイに関する叙述は、「789(延暦8)年、蝦夷は紀古佐美率いる5万余りの朝廷軍との戦いに、わずかな手勢で勝利を収めます。この巣伏の戦いで一躍勇名を馳せたのが、アテルイ(阿弖流為)です。アテルイの出自については、正確なことは分かりません。ただ、胆沢地域の蝦夷の指導者であったことは間違いありません。朝廷軍に脅かされる故郷を守るため、アテルイは盟友・モレ(母禮)らとともに強力な蝦夷集団を率い、巧みな戦術で数的不利を克服し、朝廷軍を退けたのです。巣伏の戦いの後、朝廷軍は790年、794年と胆沢に進攻。とくに、794年には、10万人の軍が投入され、蝦夷に対して朝廷が大攻勢に転じます。801年には、征夷大将軍・坂上田村麻呂が4万の大軍を率いて岩手県域を転戦し、翌年には胆沢城(水沢)の築造に着手。長期に渡る戦禍によって疲弊する故郷を憂うアテルイは、モレら500余人と降伏し、田村麻呂はそれを受け容れます。田村麻呂はアテルイらを連れて京に上り助命を嘆願しますが、それも空しく、アテルイらは処刑されました。」790年の胆沢進攻?、「794年、801年と胆沢に進攻」か。