情報208 熊田亮介・八木光則編『九世紀の蝦夷社会』

 九世紀初頭前後に蝦夷社会は画期を迎える。「三十八年戦争や城柵の設置・大改造など律令国家の積極政策と、その頓挫によるいわゆる民夷融和政策への変換や城柵の統合再編」が行われ、また「集落や墳墓・土器などでも大きな変化」が起きているというのである。本書は、この時期における蝦夷社会の実態に迫る以下の九編の論文からなる高志書院発行の奥羽史研究叢書(9)である。2007年1月発行、4,200円。
 第1章 蝦夷移配政策の変質とその意義 熊谷公男/東北学院大学教授
 第2章 蝦夷の入京越訴 鈴木拓也/近畿大学助教授
 第3章 蝦夷と「律令」 八木光則/盛岡市教育委員会
 第4章 九世紀の城柵 伊藤武士/秋田市教育委員会
 第5章 本州北縁地域の蝦夷集落と土器 宇部則保/八戸市教育委員会
 第6章 北方地域との交流とその展開 武廣亮平/道都大学社会福祉学部
 第7章 須恵器・鉄生産の展開 井出靖夫/日本学術振興会特別研究員
 第8章 出土文字資料からみた東西差・南北差 鐘江宏之/学習院大学助教授
 第9章 元慶の乱と蝦夷の社会 熊田亮介/秋田大学教授 
 このなかで、第1章と第2章のアテルイに関係する部分を紹介する。この二つの論文には、アテルイと胆沢の蝦夷についての重要な内容が含まれている。第1章の熊谷公男氏は、まずアテルイの名前を「長年にわたって頑強に抵抗してきた阿弖流為率いる山道の蝦夷」というかたちでとりあげている。次に、論議があるところのアテルイの降伏について、「延暦二十一年(802)に阿弖流為と母礼が「種類」五○○余人を率いて投降してくるが、このときも作法に則った帰降とみなされて受け入れられたのであろう。坂上田村麻呂に随って入京した二人は、田村麻呂の「此度任願返入、招其賊類」という助命嘆願にもかかわらず、公卿たちの「野生獣心、反覆无定、儻縁朝威獲此梟帥。縦依申請、放還奥地。所謂養虎遺患也」という反対にあって処刑される。鈴木拓也はこの二人も「『捷』として入京させられた可能性が高い」とみているが、かれらは自らの意思で帰降してきた蝦夷であるから、戦場で捕虜となって都に送られた蝦夷とは区別されていたはずで、むしろ投降してきた蝦夷の生殺与奪の権を実際に国家が掌握していたことを示す事例とみるべきであろう。ただしこのとき二人が処刑されたのは、彼らが「奥地之賊首」として長年にわたって政府軍を苦しめたためで、例外中の例外であった。」とする従うべき新たな見解を提示している。「国家は戦闘において捕虜とした蝦夷と自主的に投降してきた蝦夷の取り扱いを区別していた」ことが明らかにされ、これによりアテルイの降伏から処刑までの流れを整合的に解釈し得る明解な余地ができたといえる(例えば「並従」「捉斬」など)。ちなみに、『捷』とは「カチモノ=戦勝の証拠となる人や物」(熊谷)のこと。
 第2章の鈴木拓也氏は、冒頭で「宝亀五年から弘仁二年にかけて行われたいわゆる三十八年戦争は、蝦夷に対する継続的で大規模な軍事侵攻であり、蝦夷社会に壊滅的な影響を与えた。征夷そのものが蝦夷社会を破壊したのはむろんのこと、国家側に投降した俘囚の諸国移配は蝦夷の勢力を分断し、国家への抵抗の象徴的存在であった族長阿弖流為・母礼の処刑は、北上川中流域に形成されつつあった蝦夷諸集団の統合をも破壊したのである[熊谷1995]。」と述べる。蝦夷の移配については、「それが本格化するのは延暦十三年の征夷以後と考えられる[今泉1992、熊谷1995]。」という。直接の史料はないが、「延暦十七年以後、移配蝦夷の処遇に関する基本的な法令が継続して出されており、このころ移配蝦夷が急激に増加したことが窺えるからである。延暦十三年の征夷は、坂上田村麻呂らによって胆沢の蝦夷に対して初めて戦果を上げた征夷であり、それに伴って多数の蝦夷が諸国に移配されたと推定できる。続く延暦二十年の征夷も、阿弖流為・母礼を降伏に導いた征夷であるから、蝦夷の諸国移配を伴ったとみてよいであろう。」とする。この胆沢の蝦夷については、「実際には、胆沢の蝦夷は農耕民であった。狩猟・漁撈・牧畜も行っていたであろうが、農耕が彼らの生業に占める割合はかなり高かったとみられる。」とする。「延暦八年の征夷の後、征東将軍の紀古佐美は、「所謂胆沢者、水陸万頃、蝦虜存生」と述べているが、「水陸万頃」とは、六月九日の古佐美の奏に登場する「水陸之田」、つまり水田・陸田に相当する[今泉1992]。六月三日に征夷軍の惨敗を報告した古佐美は、六月九日に「雖蠢爾小寇、且逋天誅、而水陸之田、不得耕種。既失農時、不滅何待」と述べて、桓武天皇に征夷軍の撤退を進言する。"蝦夷は攻撃を逃れたけれども、水田・陸田ともに田植えができなかったので、放置しても滅ぶであろう"という論理である。国家の立場からすると、蝦夷は農耕を知らない野蛮人でなければならない。しかし右に掲げた例は、征東将軍が胆沢から撤退するという自分の判断を正当化するため、蝦夷を農耕民と認めている稀有な例である。」という。
 また、「いわゆる三十八年戦争も、主戦場は胆沢・志波と言われる北上川中流域であり、諸国に移配されたのも、主にこの地域の蝦夷であった」が、「陸奥の蝦夷は、征夷と移配によって既存の社会を破壊されながらも、なお国家への抵抗を続けたのであり、諸国に移配された者、現地に残った者の双方が、反乱・騒乱や越訴を繰り返していた」と、征夷終結後の新たな抵抗の姿を蝦夷の視点から述べている。