情報119 特集・昨年の新聞から(2000.1~2000.12)

【1】「1200年目の真実~アテルイの素顔~」 (胆江日日新聞 平成12年1月1日)
 元旦号の特別紙面半分に掲載された。アテルイ没後千二百年記念に向けてさまざまなイベントや企画の準備が始められていることから、アテルイの実像に迫った。アテルイは国史に「夷」や「賊」として扱われているが、それは「異人種」や「盗賊」を意味していたのではないこと。アテルイの処刑は「正規の処刑ではない」こと。また、伝説の悪路王とアテルイの関係などについて取り上げている。   
【2】 佐島直三郎 「アテルイ巡礼【4】」 (胆江日日新聞 1月4日)
 15回の連載で、アテルイの墓所の問題などについてふれているが、それよりも強調されているのが、アテルイとともに降伏した「モレの内応」ということである。第4回、10回、12回、15回と四度も言及している。すなわち、延暦八年の戦いにおいて朝廷軍が「いとも簡単に北上川を渡った」ことから、「水際作戦、橋頭堡でたたくのが最上の作戦ではなかったかと思うのであるが、それがいとも、川の流れを凌いで渡ったということは、水際作戦がなかった、或いはモレが行動を起こしていない、恐らく朝廷側から誘われ内応したのではなかったかと観られるのである。」等というのである。アテルイの戦いを描いた長尾誠夫の「蝦夷大乱」(『時代小説』№22、1993年)は「モレの内応」をストーリーに含んでいたが、小説ならまだしも、郷土史家の新見解というには根拠も薄く、理解に苦しむところである。
【3】「いわて21世紀への遺産~古代・中世を歩く~」(岩手日報 1月4日)
 「遺跡は語る・旧石器~古墳時代」に続く「奈良~安土桃山時代」の第1回。悪路王首像の大きなカラー写真を掲載し、奈良時代概観として水沢市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸氏が「蝦夷研究の現状と課題」について説明している。悪路王首像の写真説明に、「極彩色。首像は左右に割れたものをかすがいで止める。頭頂部のまげも端部を欠損。首像そのものの分析調査が必要である。江戸時代の作」。
【4】 久慈吉野右衛門「田村麻呂 阿弖流為」(岩手日報 1月17日)
 岩手日報の時評「日進」欄。久慈氏は岩手日報社会長。この欄では、1981年11月16日の「「西高東低」に思う」でもアテルイにふれている。
【5】 劇詞作家・可能あらた 「アテルイはなぜ戦ったか?」 (教育新聞 2月3日)
教育新聞 「円卓」 欄。延暦八年、「この時アテルイは一万数千人の村人を砦に匿い、千五百人の戦士とともに征東将軍・紀古佐美の率いる五万の朝廷軍と北上川を挟んで対峙し、その精鋭六千と戦った」。 一万数千人の村人を砦に匿った? 
【6】 後藤晨市長に聞く(岩手日報 2月6日)
 1月の水沢市長選に勝ち、3期目にあたってのインタビュー。「アテルイの志」で市勢発展を、の見出し。最後にリーダー論を聞かれて、「水沢にゆかりのアテルイは、時の政府からみれば反逆者でしょうが、私たちにとっては地域の幸福を第一に考え、住民を守った英雄です。私も行政のトップとしてアテルイのような高い志を持ち、市政のかじ取りにあたりたいと考えています。」
【7】「作家高橋克彦 故郷東北への誇り回復」 (日本経済新聞 3月19日)
 「創る アングル」の欄で紹介された。『火怨』で吉川英治文学賞を受賞し、多くの新聞にとりあげられたが、同新聞は『火怨』を「東北を舞台に、先住民・蝦夷(えみし)の若きリーダー、阿弖流為(アテルイ)が朝廷軍を迎え撃つ戦いを描いた長編。東北各地に残る伝承を拾い、歴史上、反逆者とされてきた阿弖流為に、誇りに満ちた武将という新しい像を与えた。」と評価し、「東北にとって、阿弖流為は精神的なよりどころに成りうる人物。いつか思いのたけを書いてみたかった」という克彦氏の言葉を紹介している。
【8】「新たな顔を得たアテルイ」(岩手日報夕刊 4月1日)
 「ニュース最前線」として水沢支局の神田由紀記者が大きくとりあげた。アテルイの肖像発表についてはどの新聞も記事としているが、肖像の基となった悪路王首像と黒石寺薬師如来坐像の写真を示して詳しく解説、さらに新野直吉秋田県立博物館長の「まゆを上げ、まなじりを決して戦いに赴くようだ。兵農分離のない時代、指導者は攻められたときは先頭に立って戦ったが、普段はもっとゆったりした顔だろう」とのコメント、作家高橋克彦氏の「抱くイメージはリーダーとしてのりりしさ。肖像は優しくて力持ちという印象で厳しい一面が伝わりにくい。大人より子どもがアテルイを理解し、あこがれるようであってほしいので、もう少し少年ぽくてもいいのでは。」という意見も紹介している。神田記者は、「新しい肖像は「蝦夷が鬼や獣などでない」ことをはっきり伝えている。ただ、時間的な制約があったにしろ、もう少し歴史的視点からじっくり議論したかった。」
【9】「河北春秋」欄 (河北新報 5月2日)
吉川英治文学賞を受賞した『火怨』にたいする井上ひさし氏の「人間の誇りは理不尽さに立ち向かうことという主題が全編を貫く。壮大な叙事詩の誕生だ。」という激賞する言葉を紹介した後、次のように続ける。「▼ただ、残念なのは英雄叙事詩の主人公には「顔」がないことだ。これまでは伝説上の人物悪路王の首像(茨城県・鹿島神宮所蔵)を阿弖流為の顔としてきたが、同一人物かどうかは定かではない。英雄がどんな面構えだったか、自由な想像が許されよう。▼岩手県水沢地方振興局がコンピュータグラフィックス技術で画像化した阿弖流為の顔は、ヒゲ面ながら穏やかだ(本紙三月二十五日付とうほく面)。仏像の顔を合わせたのだという。憤怒をためた悪路王首像は捨て難いが、悪相の気を消し去り英雄の雰囲気が漂う結構な出来栄えだ▼こうした熱心さは、東北人としての阿弖流為に対する誇りと尊敬の念から発するものだろう。」
【10】 書評欄「こどもの本 中学生向け」(読売新聞 5月4日)
 評者の永井悦重氏が、歴史ファンタジー『日高見戦記』の書評で、この作品が意識したと考えられる本として、次のように書いている。「ここ数年、中学生に読み継がれている本の中に、萩原規子の「勾玉」三部作(徳間書店)がある。日本の古代史に取材したファンタジーで、歴史小説ではないが、作者の歴史観は当然作品に反映されている。三部作完結編の「薄紅天女」に登場する坂上田村麻呂やアテルイの描き方については、出版当時から批判的意見もあるのだが、もっと本格的な論争が望まれるところである。」主人公は、武蔵国足立郡郡司の息子と蝦夷の巫女チキサニの間に生まれた阿高。アテルイについては人物紹介に、「倭人に抵抗する蝦夷の首領の一人。阿高をチキサニの生まれ変わりとして連れてくる。そして、チキサニとして、倭人と戦うことを強要する」とある。
【11】「天頂儀」欄(岩手日日新聞 7月4日)
 阿弖流為に関する国史の史料からは本当の人物像までうかがい知ることはできない。としたうえで次のように続ける。「▼肖像になると、なおさら。これまでは、鹿島神宮(茨城)所蔵の「悪路王首像」のいかめしい顔つきが、ややもすると、阿弖流為の顔と信じられてきた。しかし、今春、水沢地方振興局と地元の歴史研究グループらによって作製された肖像は、この首像と、胆沢の地に残る最も古い仏像である黒石寺の薬師如来坐像を"融合"させた▼この坐像は、阿弖流為が死んでから、六十年後に作製されたといわれ、「蝦夷の面影を残す」という薬師如来としてはまれな表情。ひげを蓄えた新しい肖像は、威風堂々とした感じを受ける。古代の英雄がよみがえり、その顔を見たら、何と言うだろう。「似て る」か、「違うぞ」か。夢はまた広がった。」
【12】「洛中のエミシたち・上」(胆江日日新聞 7月20日)
 胆江日々新聞社が企画したアテルイと田村麻呂に出会う京都ツアーの同行取材報告。片埜神社隣の牧野公園には「アテルイとモレの首を納めたと伝えられる首塚」がある。「...小さな石碑だ。身長も高く筋骨隆々だったと思われるアテルイらには似つかわしくない、小さくかわいらしささえ感じる」との感想。
 宇山東公園の近くは「アテルイとモレ斬首の地と伝えられる」が、「すでに住居が立ち並び調査は不可能という。」とのこと。
【13】 坂野勝雄「寄稿 逆説の歴(郷土)史2 アテルイ」(胆江日日新聞 7月24日)
 大墓公についての考察。大墓公をどう読むべきかということで、「胆沢町南都田字塚田にある『大墓(おおつか)前方後円墳』を比定とみて考えてはどうだろう」という。角塚古墳のこと。また、「墳墓が立派であればあるほど...盗掘防止策として大墓公(墓守)を置いたと考えられる。大墓公は国家的支配機構に属し、アテルイの家柄ではかなり以前から代々「大墓公姓」を継承されていたのではなかろうか。」という。墓守?。
【14】「9月9日あてるい祭」(胆江日日新聞 8月30日)
いわて生協水沢支部が、「いわて生協あてるい祭」を水沢市武道館で開くとの案内記事。「あてるい」に特段の関係なし。
【15】 県高校総合文化祭開会式・史劇で郷土をアピール(胆江日日新聞 9月30日)
水沢市を主会場に開催され、市文化会館では岩谷堂高校演劇部員が胆江地方の歴史を演劇に仕立て、三つの時代の歴史上の人物をとりあげて発表した。最初に演じたのが「東北地方の民が"えみし"と呼ばれた時代に生きた英雄アテルイ」。
【16】「北上で鬼学講座」(岩手日日新聞 9月25日)
 北上市立「鬼の館」では毎年「鬼学講座」を開設していて、24日には福島県立博物館の高橋富雄館長が「文献から見た日高見の国」をテーマに講演を行った。「十月の次回講座では、アテルイの城跡がある福島県などを訪ねる移動研修が予定されている。」とのこと。福島県になぜアテルイの城跡があるのか?。
【17】 すもうクラブ「アテルイ部屋」(胆江日日新聞 10月9日)
 第26回水沢市スポーツまつりが8日に開催され、市営相撲場で開かれたチビッコ相撲大会には市内の常盤、真城小学校から約20人が参加した。常盤小学校の相撲クラブの名前が「アテルイ部屋」。
【18】「水沢・あてるい委員会が寄附」(胆江日日新聞 8月9日)
 水沢市社会福祉協議会に、福祉まつりでのフリーマーケットの売上金20,060円と水沢局管内で回収した書き損じはがきから交換した2,685枚の未使用はがきを寄附した。「あてるい委員会」は水沢市内の各郵便局長で組織されている。
【19】「時針」欄(胆江日日新聞 11月27日)
 「...▼過日、北上湖畔の「道の駅」に出かけ、店内で川を背景に立っているアテルイ像にお目にかかった。白木彫りのその全身像は1㍍はあろうか。右手に弓を携え、左の肩に袋を担ぎ、その姿はふと、因幡(いなば)の白兎を助けた大国主命を連想させた。なかなかの美男子である▼一見、優しく映るアテルイ像は、蝦夷(えみし)の長。まなじりを上げ、その眼には哀愁をたたえている。それは蝦夷の民たちを思う憂いでもあろう▼アテルイの実像はない、と聞く。従って作品を手掛ける人たちはそれぞれの感性をアテルイに打ち込み、趣を異にしてかえっておもしろいかもしれない。この穏やかなアテルイを作者はどんなイメージを膨らませて彫り上げたのだろう。頭髪をきっちりと結い上げ、その髪の毛、垂らしたひげの一本一本を糸のごとく丹念に彫り、まさに「ひたむきさ」を地で行き、「ばか」になりきっている。その心意気が伝わってきた...」