情報83 阿部義平『蝦夷と倭人』(青木書店 1999年2月)

アテルイに触れた部分だけを抜き出して紹介します。
◆「岩手県胆沢町の角塚古墳は、北上川中流域の一扇状地に築かれた5世紀末期頃の前方後円墳である。...東北南部や北関東でもみられる帆立貝式の古墳で、それらの地域の大豪族層を後盾に、北上河谷に進出した首長層がおり、古墳のうちでは帆立貝式という格付けをされて、古墳築造や埴輪製作等のノウ・ハウを伴って開発拠点を定めたものであろう。...この地の後代の蝦夷の首長層として、大墓たも君と呼ばれる人がおり、それが古い大墓の存在を反映している可能性があり、対律令国家戦争の軍事指導者となっている点も面白い事実である。」
◆「この国力をかけた8世紀末の38年戦争といわれる大戦争は、按察使殺害に対する罰などとしてでなく、北方の北上川河谷中心に形成されていた古墳築造地帯の連合勢力を征服する明瞭な意図に統一されていったものである。蝦夷側の成長とそれに対する律令国家政策との基本的対立が読みとられなければならない。...延暦8年の北上川渡河作戦では、5万余の大軍が動員されながら戦闘では大敗した。そのときの蝦夷の軍事指導者は大墓君ママ阿弖利為あてるいであり、先にみた北上河谷の古墳築造階層の指導者となっていた。延暦20年に征夷大将軍の坂上田村麿は、大墓君ママ阿弖利為と磐具公母礼いわぐもれを降し、この賊首二人を都につれていったが、二人は斬首された。」