情報73 角川書店『岩手県姓氏歴史人物大辞典』(1998.5)

「阿弖流為あてるい(?~八〇二)奈良末期から平安初期のエミシの首長。阿弖利為とも書く。延暦年間の一連のエミシ征討戦争で、胆沢のエミシの中心として最も頑強に抵抗した。延暦七年末に第一回征討が開始され、翌年四,〇〇〇余人の軍勢が北上川の渡河作戦を強行した際、一,五〇〇余人のエミシを縦横に指揮して奇襲を行い、征討軍の大半を戦闘不能にするという勝利を収めた(続日本紀)。しかし、その後の度重なる征討に抗しきれず、延暦二一年に盤具公母礼と共に配下のエミシ五,〇〇〇余人を率いて胆沢城建設に当たっていた坂上田村麻呂に降伏、平安京に上る。田村麻呂は阿弖流為らの助命を主張したが、政府はこれを容れず、河内国(大阪府)杜山で処刑された(続日本紀)。その本拠地については、大墓公たものきみ を大萬公の誤記として江刺市太田大万館にもとめ、あるいはアテルイの名を水沢市内の安土呂井に関連させる説などがある。」
1、このなかで、「配下のエミシ五,〇〇〇余人」とあるが、その人数については「五百余人」の誤り。
2、処刑地については「杜」山のほか、「椙」山説、「植」山説がある。
3、後半部分のアテルイらの降伏等について記しているのは『続日本紀』ではなく、『類聚国史』と『日本紀略』である。
4、「墓」を「萬」とする「大萬公」誤記説は、高橋富雄氏が20年ぐらい前から提唱(例えば、『岩手百科辞典』1978年、岩手放送)しているが、それを支持する研究者は今までのところ見当らない。高橋氏はエミシ研究の画期をなす『蝦夷』(1963年、吉川弘文館) において、「大墓」はタモと読み、水沢市内にある地名「田茂」からするものではないかとしていた。以来、本辞典でも採用しているように、有力な説となっていた。同氏の『古代蝦夷を考える』(1991年、吉川弘文館) では、大墓公を「たいものきみ」と訓じておいたうえで、「大萬(オオマ)公」誤記説を繰り返している。誤記でなければ、「大墓」はタモでなく、タイモと訓むということだったのか。本辞典では、高橋氏は「岩手の風土」を執筆している。その中で、氏はアテルイの姓の「大墓公」は、「巨大古墳」(胆沢の角塚古墳を指す)に連なる王者の義であろうとし、オオハカノキミと訓じている。かつては、「大墓の意味は不明」(『岩手百科辞典』)とし、誤記説を唱えていたのであるが、このように、「墓」の意味を認めたうえでオオハカと訓んでいるということは、「大萬公」誤記説を完全に撤回されたということであろうか。
5、「安土呂井」の地名は、「跡呂井」として現在に残っている。