情報34 新野直吉「蝦夷とは何者か~阿弖流為の実像を探る~」

アテルイの名は『続日本紀』で「阿弖流為」、『日本紀略』等では「阿弖利為」と表記され、「流」と「利」が別字である。新野氏はまずこの問題について「夷語というものの聴き取りと漢字を音標文字として表記することについて、国史の史料になった記録や文書を作成した吏僚によってある種の幅のあったことは、...類例のあるところである」との自身の見解を示しながら、「しかしこれも一解で、...大墓や盤具の訓みとともに別見もあり得よう」と最初に述べる。阿弖流為研究の進展を意識されてのことであろう。
【1】、アテルイたちの生活基盤は農業にあった、それも相当の熟度に達していたと考える。【2】、一千五百の蝦夷軍が六千の征討軍を狭い北上川東岸に誘い込んで大敗させただけだとの説もあるが、それでは過小評価になる。彼の兵力基盤はそう狭少ではあるまい。【3】、アテルイとモレが「面縛待命」の状態にあったと説く学者もいるが、史料にはそこまでは書いていない。だから将軍は和睦扱いをしていたと見ることも不当ではない。一部の論の如く京進なら「降」と記される俘は在京使役か改めての移配かであろう。など、最近の研究を検討したうえでの見解も述べられている。
また、胆江地方の「アテルイの里」宣言、関西胆江同郷会による阿弖流為と母禮の碑建立、「アテルイを顕彰する会」の存在と「アテルイ通信」なども紹介している。【『歴史読本』1996年4月号】