延暦八年朝廷軍の衣川軍営

衣川の丘陵衣川の丘陵

延暦八年(789)3月28日、多賀城を出発し胆沢に侵攻した朝廷軍は「河を渡り」「三処」に軍営を置いたことが『続日本紀』に記されている。
この「河」とは北上川支流の衣川であり、朝廷軍は川を渡ったこの丘陵一帯に約三万の兵士を駐留させ、一万二千四百余の輜重兵が玉造塞までの間を食糧運搬で往復していた。
この丘陵から北を望めば広大な胆沢扇状地が見渡すことができる。

衣川の営跡の標柱衣川の営跡の標柱

奥州市衣川区陣場のサンホテル衣川荘の小庭園に立っている。
標柱の正面に「衣川の営跡」、右横面に「伝 紀古佐美がアテルイを攻撃した東の基地」と刻まれている。
標柱の近くに立つ「陣場」の説明板には「延暦八年(七八九)紀古佐美の征夷にあたり衣川に三ケ所 の営が設けられたがその内の東端の営跡と伝えられる。...」とある。