2016年8月22日

情報285 アテルイのイメージ肖像

岩手県の水沢地方振興局(現県南広域振興局)の委託を受けて延暦八年の会(佐藤秀昭会長)が作成(2000年3月)した「アテルイのイメージ肖像」(現在は当会が管理)が、昨年7月の歌舞伎NEXT阿弖流為における公演時筋書(プログラム)の冊子に掲載されたのをはじめ、様々な方面からも「肖像」の使用希望と画像の提供依頼が来るようになっている。
これまでは、アテルイというと鹿島神宮の悪路王首像の写真が使われることがほとんどであったが、ここにきて変化の兆しが見える。以下に紹介する。

平成27年6月 松竹(株)新橋演舞場宣伝部より、画像提供他の依頼
『歌舞伎NEXT阿弖流為〔公演時筋書〕』(H27.7.5)
平成27年8月 福岡市の大村紀征氏より、画像提供他の依頼
『月刊秘伝』10月号(H27.9)「真説"戦う日本刀"(第2回)」
平成28年3月 テレビ朝日「クイズプレゼンバラエティQさま!!」番組担当者より、画像提供の依頼
「学力王NO.1決定戦3時間スペシャル」(4月11日放送)
平成28年4月 (株)ベストセラーズ『歴史人』編集部より、画像提供の依頼
『歴史人』NO.67(H28.6)星亮一「東北の英雄たちの果てしなき「反骨」と「矜持」」
平成28年4月 奥州市の胆江日日新聞社より、画像提供の依頼
シネマ歌舞伎アテルイ先行上映会、トークライブ(H28.5.15)
平成28年6月 奥州市水沢の跡呂井町内会より、画像提供の依頼
国体競技〔弓道〕応援ののぼり旗作成に使用(H28.10予定)
平成28年7月 岩手県警水沢警察署より、画像提供の依頼
使用内容は現段階で不明

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2016年8月22日

情報284 BSプレミアム「英雄たちの選択」

「英雄たちの選択」は、2013年5月からNHKのBSプレミアムで毎週木曜日に放送されているもので、歴史に名を残した人物が人生の選択に迫られた際に抱えたであろう葛藤に着目した歴史エンターティメント番組。
5月26日の放送が、「衝突!その時 男は何を見た 征夷大将軍・坂上田村麻呂」のタイトルで、アテルイの降伏をめぐる田村麻呂の選択がテーマとなっていた。

平安遷都を行った桓武天皇の時、遷都と並ぶ国家プロジェクトが東北の蝦夷(えみし)の制圧だった。
大きな期待を背負い戦った坂上田村麻呂は、蝦夷のリーダー・アテルイを降伏させることに成功する。
しかし田村麻呂はアテルイから助命を要請される。
朝廷の大反発が予想されるなか命を救う行動にでるか、それとも処刑やむなしと突き放すのか、田村麻呂の苦悩に迫るという興味深い内容。

司会は歴史家の磯田道史(国際日本文化研究センター准教授)とNHKアナウンサーの渡邊佐和子、出演はレギュラーコメンテーターの宮崎哲弥(評論家)にゲストコメンテーターの赤坂憲雄(民俗学者・学習院大学教授)、里中真智子(漫画家)、鈴木拓也(歴史学者・近畿大学教授)の各氏。

「延暦21年4月、アテルイは副将モレとともに胆沢城に姿を現した。自らを後ろ手に縛り降伏を申し出てきたのである。田村麻呂そして朝廷の悲願が達成された瞬間だった。田村麻呂は二人を伴い平安京に凱旋する。ところがその時、田村麻呂はアテルイから思いもかけない言葉をかけられる。「命を救ってほしい。そのかわり残る仲間たちを説得しよう」。それは朝廷を恐怖に陥れた敵将の言葉としては、にわかに信じがたいものだった。」

「アテルイの申し出をどう受け止めるべきか、田村麻呂の心の内に分け入ってみよう。アテルイの言葉は確かにまたとない申し出だが、ここは冷静に考えてみるべきだ。なかなか朝廷に屈しなかったアテルイを無条件に信じていいものだろうか。望みをかなえたところで裏切る可能性は十分にある。蝦夷たちの怒りはまだ完全に収まったとは言えない。とはいえアテルイは蝦夷たちを率いた族長、そのアテルイを処刑すればすでに服属した蝦夷たちが怒りの声をあげる恐れもある。アテルイを生かし交渉役として東北に帰せば未だ小競り合いを続ける蝦夷たちを懐柔する有効な手段であることも確かだ。アテルイは自らの命を差し出し降伏してきた、その覚悟は誠実の一言に尽きる。ここはアテルイの申し出に賭けてみるべきか。」

「実はアテルイにまつわる興味深い事実がある。それは朝廷側の歴史書に登場するアテルイの名前には「大墓公(おおはかのきみ)」と書かれているのである。」

【熊谷公男(東北学院大学教授)】「アテルイの本名は「大墓公阿弖利為(おおはかのきみあてりい)」といいます。「公(きみ)」というのは姓(かばね)というもので、これは天皇から授かるものです。だからアテルイの一族であってもある時期には中央政府側に服属していた。うまく説得できれば、また中央政府側につくことになるかもしれない、というのは考えるわけです」
【渡邊】「みなさんが田村麻呂の立場だったら、どちらを選択されるでしょうか。」

【宮崎】「私は申し出を信じます。彼は武人であり官吏ですから、朝廷側の財政状況も、遷都と度重なる侵攻によって苦しくなっていた台所事情も知っていた。アテルイは朝廷との戦いで部族をまとめてきた。そういうことを評価して、帰属していない蝦夷たちを服属させることができると。ここは信用してアテルイにかけてみようと、これは合理的な答えであると思います。」
【鈴木】「私もアテルイを信じる。古代の降伏は相手に対して自分の身柄を生かすも殺すもあなたの自由です、そういう態度を表明して初めて降伏が成立する。アテルイは処刑を覚悟で降伏してきている。その言葉は信ずるに足りる重いものだ。」
【赤坂】「アテルイを信じるというよりは、それこそが田村麻呂の心の声だったと思う。戦争を収めて蝦夷の部族連合みたいなのを解体して、むしろもっと平和な暮らしの中に戻っていくためにアテルイとモレが彼らを説得する、それはむしろ田村麻呂も望んでいた「声」だったのではないか。」
【里中】「信じたいと思います。おそらく田村麻呂とアテルイとのあいだには信頼関係があったと思う。だから、当然信じます。ですが田村麻呂は想像を絶するような心境だったと思う。せっかく国が莫大なお金をかけて、犠牲を払ってやっと降伏してきた、それを信じて放すとはなにごとだと、坂上田村麻呂は敵と通じて国を裏切る算段があるのではないかと、変なふうに勘ぐられないか。そのように利用されないか。そういう危惧がある。」
【宮崎】「最も政治的に利用されやすい。故郷に帰したあとに、もしアテルイが再び反乱を起こしたら、田村麻呂の政治的命とりになる。この人はエリート街道を実力で昇ってきた人です。そういう人が、あえて逸脱的なことをやるというのは、大変な葛藤があったと考えられます。」
【磯田】「アテルイを信じるのはかなりむずかしい。このとき桓武天皇の政権というのは、目に見える勝ちを欲している。都に降伏したアテルイを連れてきて、衆人環視のもとに公開処刑する、これほど目に焼き付けられる勝利はないわけです。それを田村麻呂がアテルイを信じて故郷に戻すというのは相当にむずかしい選択にならざるをえないだろうという想像はつく。」

田村麻呂は決断を下し、アテルイの助命を嘆願するが、公家たちは驚愕、猛反発し、アテルイとモレは処刑された。みずからの命を差し出し散ったアテルイ、その無念の死を田村麻呂はどんな思いで受け止めただろうか。

【宮崎】「田村麻呂は優れた武人であると同時に優秀な官僚だ。自分の主張が受け入れられないということは分かっていただろう。それでも生かしておきたいという判断をした。切りすててしまうのはあまりにも惜しいという、戦士の誉れ、そういうものが彼の中にあった。それが官僚としての答えを超えさせるような主張につながったというふうに想像します。」
【赤坂】「坂上田村麻呂という武将が東北において伝説になりえたのは、田村麻呂のこの逡巡した姿だったかもしれないと思いたい。朝廷の貴族たちにはまったく理解できない蝦夷に対する理解や同情というようなものを持っていた人だ。だからアテルイやモレに対する尊敬がゆえに逡巡したという、こういう場面というのはものすごく重要だと思う。」
【鈴木】「アテルイの処刑は、田村麻呂の助命嘆願に()(ぎょう)が反対しその結果実施となっていますが、これは桓武天皇の本人の意向と考えて間違いない。しかし田村麻呂の意見は孤立した意見だったのではないことがわかってきた。田村麻呂には共感者がいる。公卿たちの発言を『日本紀略』が引用するさいに「(しか)るに公卿(くぎょう)執論(しつろん)して」とあって、「執」の字を使っている。この記事を書いた人は、公卿は頭が固い、固定観念にとらわれている...とみている。言い換えれば田村麻呂の意見のほうが正しいと...。」
【里中】「私はずっとこのくだりは不思議でした。本当にアテルイがそう言ったのか。むしろ田村麻呂が仕掛けたのではないか。アテルイは命をかけてみずから降伏したのに、今さら生かしてほしいとか言うはずがない。これは想像だが、田村麻呂がアテルイに相談し、おまえとモレを故郷に帰すから、そのかわり故郷をおさえてくれないかと。それをアテルイからの申し出ということによって説得力を増そうとしたのではないか。」
【磯田】「私はブラック田村麻呂というのも想像してしまう。全部、はかりごとだったかもしれない。アテルイが「命を助けてくれ」と、あれだけの英雄が言うわけがないと私も思う。アテルイのカリスマ性を破壊できる、命乞いをしている情けない男にできる。そのあと自分が助命嘆願したら、アテルイの元仲間たちにも自分は頼れる将軍ということにもなる。うまくいったらアテルイとモレを自分の支配に使える。うまくいかなくても桓武天皇がこれを処刑して、おまえよくやったと手柄になる。どこにも損はない。これは武略として最善手だ。」
【宮崎】「田村麻呂は桓武の意向に反することを言いながら、桓武の不興を買うこともなく官途を昇りつめていく。そうすると磯田説というのも、そういうことも、あるかもな、と思う。」
【磯田】「私はこういうことを思いつくのはイヤだった。人物造形からすると、田村麻呂いい人で終わりたかった。でも、やったかもしれない。主人公はいい人だということで終わらせたいのですがね。基本的には。」

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2016年8月22日

情報283 「Qさま!!」の問題にアテルイ

テレビ朝日の人気番組「クイズブレゼンバラエティQさま!!」の問題にアテルイが取り上げられた。
4月11日放送の「学力王NO.1決定戦3時間スペシャル」で、各界の学者・博士・先生が選んだ世の中を変えたスゴイ指導者30人から全問を出題、上位3人が決勝ラウンドに残る予選第18問に、日本で活躍した「ある英雄」は誰かとして問題が出された。
ちなみに、ここまで勝ち抜いてきた「最強のインテリ」は、元祖インテリ芸能人・辰巳琢郎(京大卒)、「スゴイ本」の学力王・三浦奈保子(東大卒)、2度の学力女王・天明麻衣子(東大卒)、2度の学力王・やくみつる(早大卒)、東大を4回卒業した吉田たかよし、の5人。

この英雄を選んだのは、この英雄を主人公に小説を書いたという博物学者の荒俣宏。
「僕が小説を書こうとした理由は、水戸黄門のことを聞いたから。実は水戸黄門は、秘密の使者をもって何年かに一回、ある首の模型を清め、悪くなったところを補修している。東北が平穏になるようにするには犠牲になった○○の首を鎮魂しなくてはならない...」
というようなことを話し、次のように出題される。
水戸黄門は、[1]数年に一度、英雄の首の模型を清め補修 ※諸説あり
水戸黄門は、[2]東北の平和を祈念し英雄を鎮魂していた ※諸説あり
このスゴイ英雄は誰?
そして、一枚目のパネルは、『清水寺縁起絵巻』の一部写真に「10年以上朝廷軍の進撃を阻む」と出るが、回答者なし。
二枚目のパネルは「巣伏古戦場」と彫られた石碑とよくわからない川らしき写真で「岩手県にある戦場跡地」と出て、ここで天明麻衣子が正解のアテルイと答えた。
本人いわく「ちょっと賭けでした。カタカナで東北に昔いた、蝦夷(えみし)の似たような名前の人がいっぱいいたような気がしたが、アテルイが一番有名だなと思ったので...」。

三枚目のパネルは、「アテルイのイメージ肖像」(当会提供)と鹿島神宮の悪路王首像の写真(「本人とされる首像」との説明)で、「古くから東北地方に住んでいた人々(蝦夷(えみし))のリーダー。奈良・平安初期、朝廷軍を2度倒し郷土を守った英雄」との説明。
四枚目のパネルは、「802年蝦夷兵とともに降伏」との説明文が入った降伏の場面が描かれた絵と坂上田村麻呂の肖像画の写真に、「最後は坂上田村麻呂の遠征軍に降伏。現在の大阪・枚方市付近で処刑された」との説明だった。
そして最後に、世の中を変えたスゴイ指導者、ファイルナンバーはNO.10「東北の英雄アテルイ」と、再び「アテルイのイメージ肖像」とともに紹介された。

続いて、アテルイの慰霊碑がアテルイとかかわりの深い人物が建てたある建造物の境内にあると前置きし、第19問の地理の問題として「パラパラ建造物」この建物は何?と出題。
12枚に分割された写真が次々にめくられていき、緑の木々の背景から5枚目の大きな屋根が見えたところで三浦奈保子が正解の清水寺と答えた。
本人いわく、「私、関西に住んでいて清水寺に行ったりしたんで、朝廷軍の指揮をとっていた坂上田村麻呂が造ったというのを知ったんです」。

最後に、「アテルイを降伏させた朝廷軍の指揮官、坂上田村麻呂が建てた清水寺で慰霊した」と説明があって、アテルイに関する問題は終了した。
 

解説

アテルイを選んだ荒俣宏氏は、幻想文学、博物学、風水など多岐にわたるジャンルで活躍していて多数の著作がある。
荒俣氏が最初に話した「ある首の模型」とは、茨城県城里町高久の鹿島神社に伝わる「悪路王頭形(悪路王面形彫刻)」のこと。
水戸黄門(水戸藩二代藩主徳川光圀)は元禄六年(1693年)に傷んだ頭形を修理させ、文政八年(1825年)には八代藩主徳川斎脩も修理させたとの記録が残っている。
ただ、修理の記録はこの二回である。

また水戸黄門が「東北の平和を祈念し英雄アテルイを鎮魂していた」というが、そのような事実は確認できない。
徳川光圀は『大日本史』を編纂させ、古代の史蹟等にも強い関心を寄せているが、アテルイに対する特別な認識を示すものなどはどこにも見えない。
水戸藩主が「悪路王頭形」の修理をさせたことなどの意味は、坂上田村麻呂が「蝦夷征伐」をして朝廷の威光を高めたことから、その歴史的証拠物として、征伐された蝦夷の象徴としての悪路王の頭形に存在価値を認めたからであった。

荒俣宏氏がアテルイを主人公に書いた小説とは、『帝都幻談』下(2007年)のことであろう。
内容は、「嘉永六年、黒船という外国の妖怪の侵寇に呼応するかのごとく、日本の各地で目覚めた先住の妖怪が大挙して江戸に攻め寄せつつあったが、これらの事態に乗じてすべての妖怪どもの怨念を凝縮して戦を仕掛けてきた「鬼」と対決する勇者の物語」であるとしている。
このなかで、アテルイは「蝦夷の怨霊アテルイ」、「怨霊アテルイの首」として登場するのである。
ただし、これが小説の主人公といえるかどうかは疑問。

「水戸領内の神社に、古くより「悪路王」の生首と称される社宝が伝えられていた。 もちろん、本物の生首ではなく、カラクリ細工の人形である。 だが、数すくない古老の証言によれば、じつは細工物は飾りに過ぎず、ほんとうの干し生首が神社の地下祠に祀られているのだと噂されていた。 この生首、水戸領内では、悪路王あるいは阿黒王と呼ばれている。 その正体は、坂上田村麻呂に敗れた蝦夷最強の猛者であったアテルイだと噂されている。 アテルイは、今もなお、大和朝廷を呪っているという。 なぜならこの蝦夷人は、田村麻呂にともなわれて京にのぼり和睦の評議に臨んだが、京で捕らえられ、だまし討ちも同然のかたちで首をはねられたからであった」。

このように「怨霊アテルイ」となる背景とアテルイの生首の存在を語り、怨霊アテルイの甦りを最大の山場として戦いの決着に進むのである。.........
〔文責:朝〕

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2016年8月22日

情報282 シネマ歌舞伎「阿弖流為」全国上映

昨年7月に新橋演舞場で上演された歌舞伎NEXT『阿弖流為』が、シネマ歌舞伎第24弾作品「歌舞伎NEXT阿弖流為」として、北海道から鹿児島まで全国57の映画館で一斉公開(6月25日)された。

主役の市川染五郎さんはJR東日本の『大人の休日倶楽部』6月号の表紙を飾って、アテルイについて熱く語っている。
「昨年、『阿弖流為』という新作歌舞伎を上演しました。今では北の民・蝦夷の英雄として広く知られるアテルイですが、僕が目を付けたころは「誰?」という存在でした。初めて知ったのは、少年時代に読んだ学習漫画の短いくだり。征夷大将軍の坂上田村麻呂がアテルイの処刑を知り、敵将であるにもかかわらず涙したという逸話に、二人の間には敵同士以上の何かがあったに違いない。そう想像した途端、二人が両花道で向かい合う姿が浮かびました。これは面白い歌舞伎になる!と。そうやって温めていたネタは、平成14年、「劇団☆新感線」とのコラボレーション企画『アテルイ』で実現。それから13年後、歌舞伎として『阿弖流為』を上演することができました。歌舞伎作品とするにあたり、昨年、再び岩手を訪ねました。厳美渓、達谷窟毘沙門堂...。前と同じ所を巡ったはずですが、感じたことが違いました。厳美渓の流れが、そのまま一幅の絵になりそうな"青"であることに気付いたのです。そして遠くに広がる森と空。それを目にしたとき、アテルイの「この森を守るため、この里を守るために戦うのだ」というせりふが、心底実感できました。北上川を挟んで向き合う朝廷軍と蝦夷。やつらの侵略を許すことは、この美しい自然が汚されること。それは絶対に許せない。だからアテルイたちは、全てを懸けて戦ったのだと、あの光景が教えてくれました」。このほか染五郎さんは、『AERA(アエラ)』など50冊を超える雑誌への登場、ラジオ、テレビなどメディアへの数多くの出演など、驚くばかりの力の入れ方を見せている。
このシネマ歌舞伎「阿弖流為」、どれくらいの人が観ることになるのだろうか。

5月15日、岩手県奥州市では胆江日日新聞創刊70周年記念事業として、地元先行上映会を市文化会館大ホールで開催、来場者1400人余りを感動と興奮で包み込んだ。
染五郎さんのトークライブも行われた。アテルイ第三のブームが到来しつつあるように思える。

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2016年8月22日

第68号(2016年8月22日)12P

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