2013年9月26日

情報274 世界最速天文スパコン「アテルイ」

国立天文台水沢VLBI観測所(奥州市水沢区)に導入されたスーパーコンピューター(スパコン)が四月から本格的に運用を開始した。天文台本部(東京都三鷹市)から移転したもので、天文学専用のシステムとしては世界最速の処理能力を有する米クレイ社製の「XC30システム」。毎秒500兆回の計算が可能で、2014年秋には性能を倍増させて毎秒1000兆回に計算能力を高める計画。これにより、星の最期である超新星爆発や銀河の動きを再現する研究などで活躍が期待されるという。

その愛称は、「宇宙の謎に果敢に挑んでほしいとの願いを込め」(国立天文台小久保英一郎教授)、古代東北の蝦夷の英雄にちなみ「アテルイ」と名付けられた。ケースの表面にはアテルイの漢字表記「阿弖流為」をコンピューター回路に模してデザインされている。8月24日の同観測所開催「銀河フェスタ」で、施設特別公開の目玉として「アテルイがやってきた」と称して一般公開される予定。

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2013年9月26日

情報273 サントラ盤「アテルイ伝」

NHK BS時代劇 大型時代劇 オリジナルサウンドトラック 火怨・北の英雄「アテルイ伝」が2月27日に発売された(定価2,500円)。音楽を担当した川井憲次氏は多くの映画音楽などを手がけ、その評価は高くファンも多い。わずか4回のシリーズでCDとなるのは珍しいことというが、それも氏の人気と曲の出来ばえゆえからか。

CDは「阿弖流為のテーマ」に始まり、「蝦夷への思い」、「阿弖流為の悲しみ」など、最後の「復活への希望」まで全33曲が収録されている。最初に情報を寄せていただいた会員からは、「オープニングの雄大な風景に見事に調和して、迫力ある壮大なテーマ音楽でした。おおらかでスケールの大きさを感じさせる映像と共に、アテルイの心情を見事に表現されていると思いました」との感想もいただいている。Vocal(おおたか静流)の入った曲が強く印象に残るが、静かにCDを聴き、「アテルイ伝」の物語の余韻を楽しめる作品となっている。

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2013年9月26日

情報272 「三春春祭り」の時代行列にアテルイとモレ

本年5月5日、樹齢推定千年超の滝桜(国の天然記念物)で有名な福島県田村郡三春町で三春春祭りが開催され、祭りのメインとなる時代行列に坂上田村麻呂と並んで阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)が初めて出演した。

田村郡三春町には坂上田村麻呂の生誕伝説があり、数年前からは京都清水寺での阿弖流為・母禮の法要に毎回多数の町民が参列するようになっている。その前には奥州市を訪れるなど、当会を含む関係者との交流が毎年深められており、今回は三春町から正式の要請を受け、当会会員でもある二人が出演することになった。アテルイ役には安彦公一氏(胆江日日新聞社取締役主筆)、モレ役には関口善之介氏(水沢信用金庫胆沢支店長)が扮した。アテルイの衣裳は『アテルイ伝』で大沢たかおが身に着けたものと似るデザインで斬新なものであった。奥州市からは当会会員関係者を中心に約20人のツアーが組まれた。

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2013年9月26日

情報271 BS歴史館「不屈の英雄 アテルイ」

1月31日の午後8時から9時まで、NHKのBS歴史館で「不屈の英雄アテルイ~古代東北の底力~」が放送された。出演は渡辺真理の司会で、東北学院大学の熊谷公男教授、「アテルイ伝」原作者の高橋克彦氏、俳優の苅谷俊介氏で、佐々木蔵之介が語りを担当している。  番組紹介には、「1200年前、平安京を築いた桓武天皇が、どうしても打ち負かせなかった不屈のリーダーが東北にいた。その名はアテルイ!朝廷は20年にわたって大軍勢を送りこんだが、勝利をあげることはできなかった。アテルイたちが強かったのはなぜか?最新の発掘や研究から浮かび上がったのは、東北の自然の中で培った驚きの戦闘能力と、広大な交易ネットワークを操る知恵。そのリーダー、アテルイの実像に迫る!」とある。

番組では、各所に「アテルイ伝」の映像を流しながら、新野直吉秋田大学名誉教授をはじめ多くの東北古代史の研究者も登場し、様々な角度からアテルイと蝦夷の実像に迫っている。

まずアテルイ軍が強かった理由について、新野氏は、朝廷軍はそもそも徴兵された農民兵が主体だったことと、蝦夷が農耕に加え狩猟採集の暮らしをしていたことから日々に戦闘能力が磨かれていたことをあげる。熊谷教授は具体的に①弓(縄文以来の狩猟)、②馬(名馬の産地、弓との結合)、③稲作(長期の戦いを支えた)の三つをあげた。

アテルイの実像については、岩手大学の樋口知志教授が、「日上乃湊」の存在等からアテルイをある時期まで朝廷側にいて「貿易の現地管理者」の役割をしていたのではないかとし、「交易を担う人物」「ダイナミックな交易の中の経済人」という新たな人物像を描いてみせた。

アテルイの降伏については、新野氏が坂上田村麻呂を信頼しての「和睦」説を、今泉隆雄氏(東北歴史博物館館長)は蝦夷勢力の「内部崩壊」説を、高橋克彦氏は「アテルイは20年間無敗だった」として「偽装降伏」説を主張した。最後に熊谷教授は、「アテルイは東北の自立を守るために戦った。アテルイは地域の自立を考える原点だ」と語った。

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2013年9月26日

情報270 斉東野人著 『阿弖流為別伝 残照はるかに』

本書については、『図書新聞』3103号(2013年3月23日)に、「中央対エミシの三八戦争を描く」として、堀江朋子氏(作家)の書評が掲載されている。
「三十八年戦争と呼ばれる東北騒乱を、胆沢(現水沢付近)の族長阿弖流為を中心に描いた七五七ページにわたる大著で、史実を踏まえて、史実の裏側にあったであろう様々な事象を、精密な筆致で描いている。文献資料に記載されている史実を点とすれば、点と点を結ぶ線の部分(時空)を物語として描いているわけだが、このフィクションの部分で著者の筆が冴える。...中略...知られていない部分の多い中央対エミシの争いを、説得力ある物語として伝えてくれた著者のストーリーテラーとしての才能に注目した。」との評である。

胆沢に生まれ育った阿弖流為と母礼と阿奴志己の三人は幼友達で、阿奴志己は胆沢一の豪族・伊佐西古の息子、母礼も数か村を束ねる豪族の子、阿弖流為だけが山夷の村長の子というユニークな設定。阿奴志己、伊佐西古の名はいずれも実在した人物の名前であり、空海の登場なども物語への興味を湧かせる。

宝亀元年(770年)、「同族を率いて必ず城柵を侵さむ」と宣言し、徒族を率いて朝廷側から離反した蝦夷の宇漢迷公宇屈波宇の事件が史実としてある。そのなかに少年期の阿弖流為と母礼、阿奴志己、胆沢の蝦夷が深く関わっていくところから物語が始まる(第一章)。宝亀五年(774年)、海道の蝦夷が桃生城を襲撃した。宇屈波宇の軍と青年となった阿弖流為、母礼、阿奴志己が指揮する胆沢の蝦夷軍の共同作戦によるものだった(第二章)。宝亀十一年(780年)、呰麻呂が伊治城で反乱を起こし按察使参議の紀広純を殺した。阿弖流為はその頃すでに連合蝦夷軍の総大将に祭り上げられていた(第三章)。都では桓武天皇が即位し、大伴家持が鎮守府将軍に任命される(第四章)。阿弖流為らは都を見に上った。蝦夷の族長たちの微妙な意見の違いも出てくる(第五章)。延暦八年(789年)、ついに全面対決の時を迎える。有名な巣伏の戦いであるが、著者はここで知られていない作戦を導入する。日高見川の東側での戦いでは挟み撃ちにして川に追い込んだことは記録にあるが、西側を北上した朝廷軍も日高見川を東岸に徒歩で渡河させるように仕向け、上流に丸太で組んでいた堰を決壊させて多くの兵を一緒に押し流したのである。小説とはいえ、日高見川(北上川)の水量等からしてこの作戦はあまりに現実離れしているのではと首をひねった(第六章)。勝利したにかかわらず、蝦夷社会に亀裂が走る。阿奴志己は戦線離脱した。朝廷軍との二度目の戦いに蝦夷軍は大きな痛手を受けた(第七章)。胆沢は国府軍に支配され、坂上田村麻呂は征夷大将軍に任命された(第八章)。胆沢城の造営に着手した田村麻呂は、阿弖流為と直接話し合うため自ら蝦夷軍に捕まり、阿弖流為に「陸奥国王」への就任を提案する。阿弖流為と母礼は停戦を決め、交渉のため田村麻呂に伴われて都に向かった。桓武大王は阿弖流為に大墓公、母礼に盤具公の氏と姓を許す(第九章)。阿弖流為と母礼は清水の田村邸にいたが、都の人々は阿弖流為を悪路王と呼んだりしていた。内裏の広間で二人の処遇について議論がかわされ、桓武が意見を預かるかたちで閉会したが、桓武は必死に説得する田村麻呂に「殺せ!首を刎ねよ!」と告げる。田村麻呂は逃がすことを画策するが二人は死を覚悟する(第十章)。桓武の対応がちぐはぐなのはどうしてか。また、田村麻呂があまりに善意の人として描かれているという、堀江さんの評に同感せざるをえない。〔海象社、本体3,200円、2013年1月刊〕

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2013年9月26日

情報269 「アテルイ伝」を百倍楽しむ

NHK盛岡放送局は、同局制作の岩手県内向けニュース情報番組「おばんですいわて」(平日の夕方放送)で、「アテルイ伝を百倍楽しむ!」を1月7日、8日、9日に3回シリーズで放送した。「アテルイ伝」がBSプレミアムで1月11日より放映されることから、その番組紹介をかねてアテルイの人物像に迫る企画。

村上由利子アナウンサーが案内役をつとめ、第1回は「アテルイ登場の舞台」で、アテルイの集落があったと考えられる奥州市の跡呂井地区の住民のインタビューなどが放送された。第2回「こうしてアテルイは英雄になった」では、当会の副会長でもある岩手大学教授の伊藤博幸氏が延暦八年の巣伏の戦いを立体模型で再現・説明。第3回「アテルイ最後の選択」では、アテルイが降伏を決意した理由を原作者である高橋克彦氏が「選択肢がないまま育った子供たちの未来のため」に決断したのだと語る。そして、「辛い生活の中で生きる被災地の人々が毅然として立ち向かおうとしている心、手をとり合い助け合っている気持ち、それはアテルイが朝廷軍と戦っていたときの蝦夷たちの結束とプライドと通じるものがある。」と結んでいた。

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2013年9月26日

情報268 月刊『歴史街道』にアテルイ特集

本年2月号の第二特集に「東北の英雄アテルイ」が組まれている。最初に、「アテルイの日」制定記念アテルイ史跡写真コンテストで最高賞のアテルイ賞に輝いた及川庄一郎氏撮影の巣伏古戦場跡の写真(見開き2ページ)を背景に、「一二〇〇年前、朝廷軍に挑んだ男がいた!東北の英雄・アテルイ、何のために戦ったのか」の特集見出しがあり、アテルイとその戦いについての簡略な紹介がある。次に作家の高橋克彦氏が「蝦夷の誇りと将来のために...伝説の男が語りかけるもの」の題で、アテルイは何のために立ち上がったのか、そしてアテルイが日本人に語りかけるものは何かを、同じく作家の松田十刻氏が「巣伏の圧勝、田村麻呂との激闘...史料に見る実像とは」と題してアテルイの実像を探っている。ほかに、「NHKドラマ「火怨・北の英雄アテルイ伝」に見る族旗、騎射、巫女...、古代東北に生きた蝦夷たちの世界」として、「アテルイ伝」が描いたものをスチール写真とともに紹介している。【PHP研究所、H25年1月5日発行、630円】

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2013年9月26日

情報267 及川洵著 『蝦夷(えみし)アテルイ』

著者はアテルイを顕彰する会の会長で、本書は『アテルイ研究入門』(2002)、長編小説『阿弖流為』(2009)、『阿弖流為と田村麻呂伝説』(2011)に続く四冊目の著作になる。書きためたノートを見直し、出てきた疑問を史料や文献に当って解明し、まとめたものが本書という。その綿密な記述は、アテルイに関係する全般的な内容におよんでいて、著者の半世紀に及ぶ研究の集大成といってよいものである。
第一章は「アテルイの名と生誕地」について、第二章、第三章は「律令国家の北進」「宝亀七年の戦い」で、アテルイが登場してくるまでの朝廷による蝦夷征討の歴史的経過を記述、第四章の「延暦八年の戦い」から、第五章「延暦十三年の戦い」、第六章「延暦二十年の戦い」、第七章「巨星落つ」まではアテルイの戦いから降伏、処刑までの記述で本書の中心部分となっている。第八章は伝説について、第九章は戦後のアテルイ関係著作を追うなかでのアテルイ復権の動きを紹介している。

これまでアテルイを主題にして、このように全般にわたって記述された著作はほとんどなかったといってよい。今後、東北古代史を専門とする研究者が「アテルイ」についての著作を出版する企画が二、三予定されていると聞き及ぶが、当会の会長である著者がその誰よりも早く出版に到ったのである。本書は文庫版で記述も読みやすく、定価も求めやすくなっており、まずは広く読まれることを期待したい。以下、史料が少なく解明しにくいことが多いなかで、今後の争点となりそうなところを、いくつか紹介もかね見ていきたい。

まず延暦八年の戦いでは、【1】陸路からの征討と並行して海路での海岸地域の征討も行われたとする樋口知志氏(岩手大学教授)の有力な新説に歩調を合わせながら、征東大将軍の報告の中で使用された「海浦の窟宅」という語句について、「海沿いの洞窟住居」と訳したうえで、「誇張された表現であろう。筆者らの気仙地方遺跡分布調査で海岸に洞窟住居はない」と指摘する。海路の征討を推察させるに顕著な「海浦の窟宅」という語句をどのように理解するのかは重要で、まだ新説について議論の余地があるように思える。
【2】著者は「巣伏村」「日上之湊」などをはじめ巣伏の戦いの関係地について、その推定地を具体的にあげて戦いの実相をよりリアルに描きだしている。その中で、朝廷軍の北上川渡河の上陸地点として「赤生津(奥州市前沢区生母)附近」をあげて、その理由に「赤生津の人々は征討軍と交戦したという伝説がある。身を隠したという大きい石もある」という。だが、この「伝説」は、「モレの屋敷跡」などという「伝承」と同じく最近になってまとめて湧き出てきたものであり、安易に採用してよいのかという疑問が残る。

延暦十三年の戦いでは、まず「アテルイ軍は敗れ、征討軍の大勝利」になったと評価している。そのうえで、「勝った朝廷軍がなぜそのまま胆沢に駐留し、胆沢城を築かなかったのか」、さらに「勝利した朝廷軍の中から逃亡兵が出ている」ことの疑問をあげ、考えられるのは「伝染病」で、それに恐れをなして逃亡者が出たことから、軍士を駐留させ、城柵を築造することかができなかったと、著者は独自の推定をしている。

延暦二十年の戦いの章では、【1】アテルイとモレの二人が賜姓された時期を降伏した後だとする。すなわち田村麻呂が二人に「公」の姓を与えることで降伏を説得し、二人がそれを受け入れた結果だとするのである。アテルイとモレが「公姓」を受けることができる時期について、著者は宝亀七年(776)に胆沢が攻撃されてからの後は考えにくく、また、「これより以前は、アテルイは若輩であり、入朝しての調貢は考えられない」という。これまででは賜姓は降伏前という見方が多いように思うが、著者の指摘により、さらに踏み込んだ検討が必要になった。
【2】アテルイのウジ名である「大墓」については、万葉仮名で「た」「も」と読み、現奥州市水沢区羽田町(古くは江刺郡)の田茂山の田茂であるとし、その地名は『葛西真記録』に見えるように鎌倉時代より前に存在していたことを強調している。もとより、それでアテルイの時代の地名ということにはならないが、『奥羽観蹟聞老志』巻之九は「気仙郡」の「田茂山館」について「在田茂山村小沢右京者居之」と記しており、葛西家臣の「小沢右馬丞 田茂山村」(『葛西真記録』)との関係が気にかかる。機会があれば『葛西真記録』の原文を見てみたい。
【3】また、「母禮」については、「モレ」、「モライ」、「モタイ」の読みがあり、「モタイ」であれば「母体郷」(奥州市前前沢区生母)があったとし、高橋富雄氏の「盤具」⇒「磐貝」⇒イワイという考え方を「磐井郡母体」ではっきり地名と結びつくと肯定的に紹介している。

巨星落つの章では、「アテルイとモレは、田村麻呂を信じて京へ同行した。...そして突然逮捕された」とし、処刑の決定は桓武天皇の意向だとする。処刑地は河内国の植山と推定し、現大阪府枚方市宇山町だとしている。その理由として、「伝・アテルイとモレの首塚」伝説は河内国の中で宇山村以外にないことに着目すべきだとし、なぜ交野の「禁野地に近い狩猟地」で処刑したのかというと、「二人は蝦夷で獣である。狩猟地では多数の動物を殺し、血を流している。獣に祟りはない。桓武天皇がこの場所を選んだのは、そのような理由だったはずである」という。

だが、大阪大学の馬場隆弘氏は、『河内国禁野交野供御所定文』の解読から天皇の狩猟地である禁野の四至を明確にし、少なくとも天の川以北の枚方市域(東部の山間部を除く)がおよその範囲であり、宇山は禁野の中心やや西寄りに位置していると指摘している。禁野の「近く」ではなく、宇山は禁野の内にあった。また同史料から、禁野では鷹の餌を獲るための狩りと鷹を使っての狩り以外の殺生を禁じることが最も重視されていたことを示し、朝廷が自ら禁を犯し、あえて禁野を穢すような指示を出すはずがないと断じている(「蝦夷の首長アテルイと枚方市」『史敏』3号、2006年4月)。

本書はアテルイ研究の現在の地平を示す画期となるものであり、これからのさらなる研究の進展を促すに意義ある一冊である。 [2013年6月刊、文芸社、740円+税]

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2013年9月26日

情報266 『北の英雄アテルイ伝』

NHK制作の『火怨・北の英雄アテルイ伝』がBSプレミアムで本年1月11日から2月1日までの毎週金曜日に4回シリーズで放送された。総合テレビでは3月23日と30日に、大型時代劇として前編「蝦夷と呼ばれた人々」、後編「最後の戦い」に編集されて全国に放送された。これまでアテルイを主役とするアニメ映画やミュージカルはあったが、テレビ時代劇として取り上げられ全国に放送されたのは初めてのことである。出演者もアテルイ役の大沢たかお、モレ役の北村一輝をはじめ存在感のある俳優陣が並び、重厚で見ごたえのある作品に仕上がった。

原作は高橋克彦の『火怨』であるが、東北古代史の研究者が時代考証等に参画しており、内容的にも蝦夷の社会、蝦夷のアイデンティーなどについて、発想の起点をしっかりと保持した演出になった。ストーリーとしては原作とは違った展開があり、そのなかで馬と鉄を駆使して朝廷軍と対決していった展開には精神的側面からの描きかたに留まらず、当時の蝦夷社会を別の側面からも意欲的に描いていくものであった。

BSプレミアムでの第一話は「蝦夷(えみし)と呼ばれた人々」、第二話が「族長の決意」、第三話が「悲しき宿命」、第四話が「最後の願い」。6月に発売されたDVD(税抜7,600円)は、総合テレビで放送されたもので、大沢たかおのインタビューなどが特典映像として付いている。

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