2013年1月 5日

情報225 『書家の眼で見た 京都の書』

 古都・京都における歴史の出来事を再確認しながらその石碑・刻字の素晴らしさを書家の視点から解説する。清水寺の境内に建つ森清範書[北天の雄 阿弖流為 母禮 之碑]も収録されている。解説では碑の脇にある説明を紹介したうえで、「これらの経緯を読んで頂けると何故清水寺に阿弖流為、母礼の碑が建っているか、又何故清水寺貫主である森清範師が筆をとっておられるかがよくわかって頂けると思う。森清範師の書は楷書で全く迷いがなく、真面目で温厚なお人柄があふれた立派な書である。田村麻呂は最後まで阿弖流為、母礼の助命を願ったとのことであるが、この碑からも切々とその心情が伝わってくるような気がする。」と書いている。最後に「「弖」の字は「天」の異体字」としている。青山碧雲著、2008年7月15日発行、木耳社、1,500円+税

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2013年1月 5日

情報224 アテルイ・モレの碑法要

 平成21年11月8日、京都の清水寺の<阿弖流為・母禮之碑>法要が関西在住の岩手県出身者など約80人が列席して営まれました。清水寺からは森清範貫主、大西真興執事長、森孝忍法務部長、加藤真吾学芸員、横山正幸顧問、故福岡精道師夫人の福岡惠美さんら11人。来賓として穀田恵二衆院議員、相原正明奥州市長、平澤政敏岩手県大阪事務所長、尭律子関西岩手県人会会長、元大阪府副知事吉沢健四国大学教授、村岡信明モスクワ・リスコフ芸術大学名誉教授、笠井義弘牧野歴史懇話会会長ら12人。主催の関西アテルイ・モレの会から松阪定徳新会長ほか30人。奥州市からは「アテルイ京都・北陸の旅ツアー」が組まれ、当会の及川洵会長ほか会員有志を含め25人が参加しました。
 当日の京都は朝から雨で、会場を碑前から大講堂内の円通殿に移して法要が行われ、森貫主ら僧侶が読経し、厳かな雰囲気のなかで参列者が焼香しました。法要後の直会で森貫主は「アテルイとモレ、そして田村麻呂を通じて京都と水沢の縁ができたことは非常にすばらしいこと」とあいさつ、当会の及川会長は「清水寺に慰霊碑を建立してから15回目の法要。こうして長く続けられてきたのも森寛主はじめ関西県人ら皆さんのおかげです」と感謝の言葉を述べました。

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2013年1月 5日

情報223 母禮の慰霊祭

 平成21年9月16日、奥州市前沢区生母の耕雲院で母禮をたたえる会(菊地榮治会長)の会員ら33人が参列して行われました。本堂では会が奉納した母禮の位牌に参列者が焼香、続いて前沢吟詠会の会員が漢詩「母禮賛歌」を吟じました。北天太鼓の演奏も奉納されました。たたえる会は平成14年に結成され、慰霊祭は今回で7回目となります。

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2013年1月 5日

情報222 アテルイ凱旋武者行列

 平成21年9月14日、<アテルイ歴史の里まつり>が水沢区神明町の神明社で開催され、アテルイ音頭の奉納、アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列などのイベントがにぎやかに繰り広げられました。主催は水沢区の跡呂井町内会で、アテルイを地域名の由来とする同町の地域おこし事業。平成元年に始まり3年に一度開催しています。武者行列はアテルイ軍が延暦8年(789)に朝廷軍を巣伏の戦いで打ち破った歴史にちなんでいて、住民ら44人がアテルイやモレ、兵士にふんして隊列を組み、馬上のアテルイを先頭に約3キロのコースを練り歩きました。

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2013年1月 5日

情報221 阿弖流為・母禮 慰霊祭

 平成21年9月13日午前11時から、奥州市水沢区羽黒山の<阿弖流為母禮慰霊碑>前で、主催者の阿弖流為・母禮を慰霊する会や当会の会員などが参列して行われました。及川松右衛門会長は「平成17年に『阿弖流為母禮慰霊碑』を建立しましてから4回目の慰霊祭を迎えることとなりました。この間、皆様には両雄ならびに蝦夷の慰霊・顕彰事業に対し、何かとご協力を賜りましたことを感謝申し上げます。ご存知のとおり、両雄の慰霊碑は京都市清水寺、大阪府枚方市牧野公園、奥州市出羽神社神域に建立され、これにより3市の結びつきが一層親密となり、顕彰活動がさらに深まりましたことは大変喜ばしいことと存じます。この慰霊祭・顕彰活動は今後も続けてまいります。なにとぞご支援、ご協力を賜りますようお願い申し上げます。」とあいさつしました。次の(平成21年9月)の慰霊祭は5回目となることから、清水寺の森貫主をお迎えするなど盛大に開催される予定です。

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2013年1月 5日

情報220 安久澤連『北風の譜~陸奥蝦夷争乱悲話~』

 陸奥按察使藤原朝狩と胆沢の村長の娘とのあいだに生れたカタミヒコを主人公に、少年時代の多賀城(第一部国府多賀城春秋)に始まり、名取(第二部海と川沿いの里)、胆沢(第三部日高見川の歌)と辿り、最後にアテルイの降伏に立ち会うまでの「蝦夷争乱」の時代を物語とした。第三部からアテルイが登場する。アテルイは、「父祖の地の日高見川の支流胆沢川沿いから多くの人々を率いて、日高見川沿いに居を作り、広い周辺の地を切り開いて、大きな村(熊の堂村)を作り上げた」とされ、アテルイの家は「今では縁組などを通じて川の東にも広い土地を持ち、胆沢全体の村長たちの間に隠然とした力」を持ち、当主のアテルイは「壮年を過ぎつつあるが、それだけ思慮に富む男」とされる。延暦八年の朝廷軍の胆沢侵攻に対し、アテルイは胆沢の村々をまとめて戦い、勝利するが、延暦13年の侵攻に対しては大敗、延暦20年の侵攻に対しては戦いを挑むことすらできず、翌年に降伏する。著者はこの降伏までに至る展開を、胆沢の村々の連合が裏切りや脱落などで内部から醜いまでに崩壊していく過程として叙述している。強大な古代国家との対決ということであっても、はたして胆沢の蝦夷の紐帯はこれほどもろいものだったのか。そうであったとすれば、確かに「悲話」ということになろう。本書は、著者が1988年に出版した『朔風の彼方』(自家製本)を全般にわたって手を加え、改題した。(2008.5、鳥影社、1700円)

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2013年1月 5日

情報219 田んぼにアート(アテルイの顔)

 平成20年6月1日、奥州市水沢区佐倉河北田地内の水田で、田んぼをキャンパスに稲でアテルイの顔と中尊寺金色堂を描く「田んぼにアート事業」のスタートとなる田植えが行われた。美しい田園風景を持つ跡呂井地区の資源を生かした地域活性化策のひとつで、主催は市民有志などで組織する田んぼでアート実行委員会(森岡誠会長)。当日は地元の小中高生や住民のほか、市内各地から集まった農業者ら約120人が参加した。アテルイの顔はイラストレーターのTAGさんが図案化したもので、10アールの水田に絵と文字を表現するため三種類(紫黒米の朝紫、黄稲、ひとめぼれ)の稲の苗を植えた。絵は苗が成長するにしたがい徐々に見え始め、7月下旬から8月中旬に見ごろを迎えるといい、水田隣の公園(「巣伏古戦場跡」)内に建つ物見やぐらから楽しめるようになるとのこと。

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2013年1月 5日

情報218 その他

【水沢競馬・第1回アテルイ賞】
平成19年12月30日、水沢競馬場のメーンレースにB3クラスの特別戦として「第1回アテルイ賞」(1着賞金35万円)が組まれました。これまで水沢競馬場ではアテルイに関連した「阿久利黒杯」が開催されていますが、「アテルイ」を冠としたレースは初めて。水沢競馬の存続を願う当会会員も駆けつけ馬券購入、なんと二人の役員が「アテルイ賞」で万馬券をゲットしました。これ本当の話。
【アテルイが県大会へ】
11月18日、サントリーカップ第4回全国小学生タグラグビー選手権大会県南プロック予選が水沢総合体育館で行われ、アテルイブレーブスJrが優勝し、県大会への出場権を獲得しました。アテルイドリームJrは3位。
【第10回あてるいカップ東北選抜中学校バスケットボール交流会】
4月26日、27日、奥州市の三会場で開催され、岩手県、宮城県、山形県、秋田県から男女合わせて53チームが出場して熱戦を繰り広げました。
【新・奥州謙良節の歌詞にアテルイ】
奥州市誕生を祝う奥州謙良節を制作した小野寺寛さんが、歌詞を全面的に見直し「新・奥州謙良節」を仕上げました。2番の歌詞は「さてもハア偉人の里 蝦夷の郷にロマン刻む 英雄アテルイわが誇り 日本の夜明け告げる先人 文化の香り漂うまち 今日を生きる欣びを 永遠の幸福はぐくむ力に」

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2013年1月 5日

情報217 「伝アテルイ・モレの塚保存会」発足

 昨年(平成19年)3月、大阪府枚方市牧野公園内に<伝阿弖流為母禮之塚>を建立した伝阿弖流為母禮之塚建立実行委員会(中司実会長)は、継続事業として、郷土歴史教材『阿弖流為と田村麻呂』を発行、9月13日には「アテルイ・モレ祭」を開催し、活動に区切りをつけて解散した。そして新たに、「塚の維持管理を主たる目的とし、また、これらの歴史を正しく後世に伝えるとともに、アテルイ・モレを通じて各関係団体との交流を図る」ため、本年4月に「伝アテルイ・モレの塚保存会」(中野一雄会長)を発足させた。今後の事業としては、(1)塚の保存活動、(2)アテルイ・モレ・坂上田村麻呂に関する諸活動、(3)アテルイ・モレ祭の開催、(4)各関係団体との交流、をあげ、事務局を片埜神社内においている。会員募集中で年会費6,000円。 

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2013年1月 5日

情報216 臨川書店『差別と向き合うマンガたち』

 田中聡氏(立命館大学・大阪樟蔭女子大学非常勤講師)執筆の第2章「マンガと歴史叙述」の最初が「1.学習マンガのなかの野蛮人~蝦夷の族長アテルイ~」。本書は2007年7月の刊行だが、初出は部落問題研究所機関誌『人権と部落問題』の連載コラム「差別と向き合うマンガたち」(2004年5月号)。「図1は髪を振り乱し、片肌脱ぎでごわごわの胸毛をみせたアテルイが、屋外で裸の部下たちを前に気勢を上げている。これに対して図2は、同じように朝廷への反抗を誓うシーンだが、平板張りの屋内で、角髪を結い衣服を整えたアテルイが蝦夷たちと座って話し合っている。荒々しく野蛮な蝦夷の王アテルイと、理知的で文明化された首長アテルイという、それぞれの印象は、前後を読むとさらにはっきりする。図1では非農耕民と朝廷の力比べとして描かれる戦いが、図2では朝廷の支配から逃れた農耕民が独立を守るための戦いとしてされているのだ。同じ人物を描きながら、こんな違いがどうして出るのだろうか。じつはこの二作品、図1は1967年、図2は1981年の作で、描かれた時期に14年の開きがある。この間に蝦夷についての研究上の大きな転換が起こったのだ。(中略)蝦夷の実態は同じ「日本人」に他ならない、とする理解が通説となった。こうした蝦夷観-民族観の変化が、マンガでのアテルイ像をも変えてしまったということだろう。基礎知識の少ない子どもが読んでも、アテルイが異民族なのか、「日本人」なのかはほとんど直感的に理解できる。マンガのもつこうした文化の差をとらえる力と、差別との関係を考える必要がありそうだ。」

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2013年1月 5日

情報215 新野直吉「『田村麻呂と阿弖流為』の周辺を語る」

 1994年に吉川弘文館より刊行された新野直吉(現秋田大学名誉教授)著『田村麻呂と阿弖流為』が、2007年10月に同社の歴史文化セレクションとして復刊された。復刊にあたって加えられた「『田村麻呂と阿弖流為』の周辺を語る」では、「阿弖流為を主題に一書」を求められた時のことから執筆受諾の経過を、これまでのアテルイに関する叙述(『古代東北の開拓』『古代東北の覇者』『古代東北史の人々』『古代東北の兵乱』)を踏まえつつ、「さらに冷静に史料分析した著述の好機」として受け止めたと語っている。
 続いて、初版が刊行された年に京都清水寺に「アテルイ・モレの顕彰碑」を建立した関西胆江同郷会の高橋敏男会長との関わり、平成七年の延暦八年の会主催「アテルイライブラリー記念講演会」での講演、京都清水寺で書名と同題の講義をしたことなどが語られ、最後には、「そういえばちょうど、平成19年5月15日付『アテルイ通信』第51号には、枚方市牧野阪公園内に「伝阿弖流為母禮之塚」という清水寺貫主揮ごうの生駒石碑が建てられたことを報じていることも、ぜひ附記したい。」と記している。

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2013年1月 5日

情報214 『正論』1月号

 産経新聞論説委員の石井英夫氏による連載「世はこともなし?」の第31回が「アテルイの血筋」。情報211と同じ筆者で、「恥ずかしながら、この秋『流域紀行北上川をあるく』の取材で岩手県の水沢へ旅をするまで、「アテルイ」のアの字も知らなかった。そしてみちのくを歩くと、アテルイ抜きでは夜も日も明けないほどのもてはやされぶりに驚いた。」で始まる。内容はアテルイやエミシ、アテルイ顕彰の経過などが簡潔に紹介されていて好意的だが、そのなかで「坂上田村麻呂展」のプログラムに、「胆江日日の佐々木隆男社長は「古代王朝の東北侵略に対して激しいレジスタンスを展開したアテルイ」と表現し、「(延暦22年は)いわばこの地方が『日本』という国に併合された年」と記している。「東北侵略」「日本併合」などという激しくナショナリスティックな文言がちりばめられている」ことに目を引かれたという。最後に「豪腕といわれ、壊し屋といわれる政治家・小沢氏の言動は、さて風雲児アテルイの血を継いだものかどうか」と問い、「泉下のアテルイに尋ねれば、「とんでもねえ。ちゃぶ台返しのプッツン政治家といっしょにしねでけらいや」と嘆息するのではないか」と結んでいる。

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2013年1月 5日

情報213 アテルイ・モレ慰霊法要

 平成19年11月10日、京都の清水寺の<阿弖流為・母禮之碑>前で奥州市の関係者や関西在住の岩手県出身者など約70人が列席して営まれました。この日のために「アテルイ京都の旅ツアー」も組まれ、当会からは及川洵会長、佐藤秀昭副会長ほか幹事数名と会員有志が参加しました。当日は朝方曇り空だったものの、法要が始まる午前11時ごろには日が差し、晴れ上がりました。森清範貫主ら僧侶が碑を前に読経し、厳かな雰囲気のなかで参列者が焼香して供養し、アテルイとモレを偲びました。慰霊法要は、関西アテルイ・モレの会(小瀬川操一会長)の主催で毎年11月に行われています。また恒例となっている法要後の直会では、出席者全員の紹介のあと、アテルイを話題に大いに懇親を深めました。

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2013年1月 5日

情報212 「アテルイ・ロマン古道」を歩く

 水沢区羽田地区振興会と羽田公民館主催による「2007 アテルイ・ロマン古道~東海道を歩く会~」が10月6日に開催され、多くの小中学生も参加して黒石町鶴城地区から羽黒山までの約9キロの区間を元気に歩き、アテルイの郷への思いを確かめあいました。東海道は古代朝廷が整備した主要道のひとつで、多賀城から志和城に至ったとされる古道です。その一部はアテルイやエミシたちが通った道でもあったでしょう。

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2013年1月 5日

情報211 産経新聞「流域紀行北上川を歩く【4】」

 平成19年10月26日付の第4回は「アテルイの血?反逆の傑物たち」。筆者の石井英夫氏は「ところでアテルイという男の名を聞いたことがおありであろうか。まつろわぬエミシの指導者で、北上川のほとりの胆江、いまの水沢(現奥州市水沢区)が生んだ梟雄である。8世紀末、桓武天皇のころ北上川を舞台に政府軍を破って中央を悩ませた。時代が下がってこの水沢は、わずか1万6000石の小藩でありながら数多くの傑出した人物を輩出した。幕末の蘭学者・高野長英、明治・大正の政治家・後藤新平、昭和の宰相・斉藤実ら。町には「偉人通り」と呼ばれる一画もある。いまをときめく民主党代表の小沢一郎氏も水沢出身だ。かれらに共通するのは時流に反逆する性向といってもいい。この"時代の子"らの出現は、1200年前の梟雄アテルイの血とはたして無縁だろうか。」と冒頭に書く。
 次に、当会の幹事で胆江日日新聞編集長の安彦公一氏の「賊徒の頭目から民族の英雄へ、アテルイの評価が百八十度転換したのはこの地元でもここ10年ぐらいのことです。いまではすっかり地域おこしの象徴的人物ですが」という話などが紹介され、「子供のころ、アテルイは農民を苦しめる悪路王として教えられてきた。それが中央へのいわれなきコンプレックスにもなってきた、と水沢人は口ぐちにいう。歴史の闇に封印された人物だったのだ。」と結びに。

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2013年1月 5日

情報210 長編アニメ「アテルイ」の上映会

 9月19日午後1時半から、映画上映ボランティアグループのフィルマズ・アテルイ主催により、奥州市埋蔵文化財調査センター研修室で開催されました。アニメは2002年のアテルイ没後1200年に合わせて制作されたもので、同グループは毎年の「アテルイの日」前後に会場を変えながら上映を続けている。

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2013年1月 5日

情報209 阿弖流為・母禮慰霊祭

 平成19年9月15日午前10時半から、奥州市水沢区羽田町羽黒山の<阿弖流為母禮慰霊碑>前で、阿弖流為・母禮を慰霊する会や当会の会員など約40人が参列して行われた。出羽神社の古玉宮司が祝詞奏上、当会顧問の一力一夫河北新報社会長らが玉ぐしを奉げました。慰霊祭終了後には同区メイプル4Fの奥州寺子屋に会場を移して直会も行われ、参加者の交流を深めました。

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2013年1月 5日

情報208 熊田亮介・八木光則編『九世紀の蝦夷社会』

 九世紀初頭前後に蝦夷社会は画期を迎える。「三十八年戦争や城柵の設置・大改造など律令国家の積極政策と、その頓挫によるいわゆる民夷融和政策への変換や城柵の統合再編」が行われ、また「集落や墳墓・土器などでも大きな変化」が起きているというのである。本書は、この時期における蝦夷社会の実態に迫る以下の九編の論文からなる高志書院発行の奥羽史研究叢書(9)である。2007年1月発行、4,200円。
 第1章 蝦夷移配政策の変質とその意義 熊谷公男/東北学院大学教授
 第2章 蝦夷の入京越訴 鈴木拓也/近畿大学助教授
 第3章 蝦夷と「律令」 八木光則/盛岡市教育委員会
 第4章 九世紀の城柵 伊藤武士/秋田市教育委員会
 第5章 本州北縁地域の蝦夷集落と土器 宇部則保/八戸市教育委員会
 第6章 北方地域との交流とその展開 武廣亮平/道都大学社会福祉学部
 第7章 須恵器・鉄生産の展開 井出靖夫/日本学術振興会特別研究員
 第8章 出土文字資料からみた東西差・南北差 鐘江宏之/学習院大学助教授
 第9章 元慶の乱と蝦夷の社会 熊田亮介/秋田大学教授 
 このなかで、第1章と第2章のアテルイに関係する部分を紹介する。この二つの論文には、アテルイと胆沢の蝦夷についての重要な内容が含まれている。第1章の熊谷公男氏は、まずアテルイの名前を「長年にわたって頑強に抵抗してきた阿弖流為率いる山道の蝦夷」というかたちでとりあげている。次に、論議があるところのアテルイの降伏について、「延暦二十一年(802)に阿弖流為と母礼が「種類」五○○余人を率いて投降してくるが、このときも作法に則った帰降とみなされて受け入れられたのであろう。坂上田村麻呂に随って入京した二人は、田村麻呂の「此度任願返入、招其賊類」という助命嘆願にもかかわらず、公卿たちの「野生獣心、反覆无定、儻縁朝威獲此梟帥。縦依申請、放還奥地。所謂養虎遺患也」という反対にあって処刑される。鈴木拓也はこの二人も「『捷』として入京させられた可能性が高い」とみているが、かれらは自らの意思で帰降してきた蝦夷であるから、戦場で捕虜となって都に送られた蝦夷とは区別されていたはずで、むしろ投降してきた蝦夷の生殺与奪の権を実際に国家が掌握していたことを示す事例とみるべきであろう。ただしこのとき二人が処刑されたのは、彼らが「奥地之賊首」として長年にわたって政府軍を苦しめたためで、例外中の例外であった。」とする従うべき新たな見解を提示している。「国家は戦闘において捕虜とした蝦夷と自主的に投降してきた蝦夷の取り扱いを区別していた」ことが明らかにされ、これによりアテルイの降伏から処刑までの流れを整合的に解釈し得る明解な余地ができたといえる(例えば「並従」「捉斬」など)。ちなみに、『捷』とは「カチモノ=戦勝の証拠となる人や物」(熊谷)のこと。
 第2章の鈴木拓也氏は、冒頭で「宝亀五年から弘仁二年にかけて行われたいわゆる三十八年戦争は、蝦夷に対する継続的で大規模な軍事侵攻であり、蝦夷社会に壊滅的な影響を与えた。征夷そのものが蝦夷社会を破壊したのはむろんのこと、国家側に投降した俘囚の諸国移配は蝦夷の勢力を分断し、国家への抵抗の象徴的存在であった族長阿弖流為・母礼の処刑は、北上川中流域に形成されつつあった蝦夷諸集団の統合をも破壊したのである[熊谷1995]。」と述べる。蝦夷の移配については、「それが本格化するのは延暦十三年の征夷以後と考えられる[今泉1992、熊谷1995]。」という。直接の史料はないが、「延暦十七年以後、移配蝦夷の処遇に関する基本的な法令が継続して出されており、このころ移配蝦夷が急激に増加したことが窺えるからである。延暦十三年の征夷は、坂上田村麻呂らによって胆沢の蝦夷に対して初めて戦果を上げた征夷であり、それに伴って多数の蝦夷が諸国に移配されたと推定できる。続く延暦二十年の征夷も、阿弖流為・母礼を降伏に導いた征夷であるから、蝦夷の諸国移配を伴ったとみてよいであろう。」とする。この胆沢の蝦夷については、「実際には、胆沢の蝦夷は農耕民であった。狩猟・漁撈・牧畜も行っていたであろうが、農耕が彼らの生業に占める割合はかなり高かったとみられる。」とする。「延暦八年の征夷の後、征東将軍の紀古佐美は、「所謂胆沢者、水陸万頃、蝦虜存生」と述べているが、「水陸万頃」とは、六月九日の古佐美の奏に登場する「水陸之田」、つまり水田・陸田に相当する[今泉1992]。六月三日に征夷軍の惨敗を報告した古佐美は、六月九日に「雖蠢爾小寇、且逋天誅、而水陸之田、不得耕種。既失農時、不滅何待」と述べて、桓武天皇に征夷軍の撤退を進言する。"蝦夷は攻撃を逃れたけれども、水田・陸田ともに田植えができなかったので、放置しても滅ぶであろう"という論理である。国家の立場からすると、蝦夷は農耕を知らない野蛮人でなければならない。しかし右に掲げた例は、征東将軍が胆沢から撤退するという自分の判断を正当化するため、蝦夷を農耕民と認めている稀有な例である。」という。
 また、「いわゆる三十八年戦争も、主戦場は胆沢・志波と言われる北上川中流域であり、諸国に移配されたのも、主にこの地域の蝦夷であった」が、「陸奥の蝦夷は、征夷と移配によって既存の社会を破壊されながらも、なお国家への抵抗を続けたのであり、諸国に移配された者、現地に残った者の双方が、反乱・騒乱や越訴を繰り返していた」と、征夷終結後の新たな抵抗の姿を蝦夷の視点から述べている。

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2013年1月 5日

情報 伝 阿弖流為母禮之塚~枚方市牧野阪公園内に建立~

 平成19年3月4日、アテルイとモレの終焉の地とされる大阪府枚方市に「伝阿弖流為母禮之塚」が建立され、地元枚方市民をはじめ、関西アテルイ・モレの会、岩手からも奥州市関係者や当会の及川会長他役員が出席して除幕式が行われた。完成した塚は、高さ143㎝、幅120㎝ほどの生駒石(御影石)製で、清水寺の森清範貫主が揮毫している。
 式典では、枚方市立第三中学校生徒によるブラスバンド演奏の後、塚建立実行委員会の中司実会長、笠井義弘副会長、中司宏枚方市長、岩井憲男奥州市助役、及川洵当会会長らが紅白のひもを引いて除幕。清水寺の森貫主が「1200年前の心が今日に生きていることを証明した鎮魂の碑だ」と縁の大切さを説く講話を行った。続く祝辞で中司枚方市長は「この碑は命を大切にする平和の象徴でもある。歴史の深さを大切にして地域の一体感を市民と一緒に築いていきたい」と挨拶、岩井助役は「アテルイの故郷の思いを今に伝えていただいたことに感謝している」と相原奥州市長のメッセージを代読した。塚はその場で、実行委員会から枚方市に寄贈され、関係者に対し枚方市と当会からの感謝状が贈呈された。会場を移しての竣工報告会と続いての懇親会では、「ああアテルイ」も合唱されるなど熱気に満ち、奥州と枚方、京都清水寺の絆を強める意義深い機会となった。塚建立実行委員会は、配布したあいさつ文で「将来この地が処刑地、終焉の地として学問的にも位置づけられるよう働きかけをする」と結んでいる。

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2013年1月 5日

情報207 その他

[1]【アテルイの生ソフトクリーム】みずさわ観光物産センター(Zプラザアテルイ)に、新製品として登場した。乳製品の加工販売を手がける吉田乳配が開発したもので、牛乳のおいしさを凝縮したこくのある味が売り。一個250円で、アテルイのキャラクターののぼりが目印。
[2]【第10回アテルイ・グラウンドゴルフ大会】水沢区老人クラブ連合会主催の毎年の行事で、10月中旬に県立産業技術短期大学校グラウンドで開催され、約290人の会員が自慢の腕を競い合った。
[3]【第7回アテルイの心と輝き展】社会福祉法人愛護会の千養寺焼陶芸館で作った陶芸作品展で、めんこい美術館を会場に11月29日まで開かれた。金ヶ崎保育園、たんぽぽ保育園、東水沢保育園、第二東水沢保育園の園児とその保護者たちの作品など約三百点が並べられだ。 

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2013年1月 5日

情報206 『トランベェール』2006年10月号

 特集が「岩手古寺巡礼・仏像が語る歴史の道」で、アテルイの名前が二ヵ所に出てくる。工藤雅樹氏(東北歴史博物館館長)は「奥六郡」にふれて、「陸奥国胆沢地方の蝦夷の首長・阿弖流為」の名前を出し、山本明氏は「黒石寺」の紹介で、「胆沢は、この地の蝦夷の首長・阿弖流為率いる蝦夷軍が朝廷軍に対し、最後の抵抗を示した地である」と記している。特集の内容そのものも興味深い。「トランベェール」はJR東日本発行で、新幹線各座席の前に常置されている(持ち帰り自由)

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2013年1月 5日

情報205 市議会一般質問・羽黒山の歴史公園化について

 奥州市議会第二回定例会の一般質問(9月5~13日)で、佐藤建樹議員が市長に対し次の質問(要旨)を行った。以下、『おうしゅう市議会だより』第2号より。「平成十七年九月十七日、アテルイ・モレの慰霊碑が建立されました。羽黒山の歴史公園化について所感をお伺いします。文化遺産とは永遠に保存したいものを意味します。その時代の生き方が現れています。古の日高見の国は時を経て奥州市になりました。奥州市原点のシンボルとして羽黒山について、市長、教育委員長の見解をお伺いします。」この質問に対する市長の答弁(要旨)は、「羽黒山をエミシのシンボルとする気運が高まっているものと認識しています。市といたしましても、市民の運動と連携しながら新たに誕生した奥州市の歴史の象徴として、地域に位置づける所存であります。羽黒山この地域は、神社と民有地の有る事を考慮し当面は地元、地区や市民団体と共に、アテルイやエミシを象徴する地域として、ランドマーク的に環境の保全や活用の有り方を検討します。」というものでした。

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2013年1月 5日

情報204 郷土の書籍コーナーにアテルイ関係本

 奥州市水沢区中心商店街の商業ビル・メイプルの4階に、郷土の書籍コーナーが新設された。そこにはアテルイ関係の希少本なども並んで販売されている。たとえば、平成元年発行の延暦八年の会編『アテルイとエミシ』(1300円)をはじめ、『アテルイ没後1200年記念事業報告書・阿弖流為復権』(2000円)、佐藤秀昭文『アテルイ』(1200円)、高橋克彦原作わらび座公演DVD『アテルイ』(2500円)など。

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2013年1月 5日

情報203 清水寺<アテルイ・モレの碑>法要

 平成18年11月11日(土)午前11時から、雨天のため会場を屋内に移して法要が行われ、終了後に寺務所内「洗心洞」において懇親会が開かれた。参加者は、森清範貫主、大西眞興執事長をはじめとする清水寺関係者、奥州市出身の穀田恵二衆議院議員、「伝阿弖流為母禮之塚」の建立を進めている枚方市牧野歴史懇話会の笠井義弘会長、同西川毅副会長、清水寺の碑建立に尽力した故福岡精道師夫人の姿も見られた。主催した関西アテルイ・モレの会は、小瀬川操一会長、柏山喬副会長、松坂定徳事務局長他30人。奥州市からは岩井憲男奥州市助役、水沢観光協会佐々木隆男会長、水沢商工会議所後藤新吉専務理事ほか21人が参加した。このうち当会からは、及川洵会長、佐藤秀昭(延暦八年の会会長、NPO法人奥州おもしろ学理事長)、伊藤博幸(奥州市埋蔵文化財調査センター所長)両副会長ら役員・会員を含め9人が参加し、交流を深めた。碑の法要は毎年11月の第二土曜日に行われている。

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2013年1月 5日

情報202 岡田茂弘・青木和夫編『多賀城と古代東北』

 吉川弘文館の<古代を考える>シリーズ全26冊の最新冊で、アテルイら蝦夷の時代を中心とした古代東北史研究の現状と問題点を提示している。2006年9月発行、本体定価3000円。内容は次のとおり。 
 一新しい古代東北史像を求めて―総論― 青木和夫、岡田茂弘、二多賀城前史 須藤隆(東北大学教授)、三城柵の設置 岡田茂弘(国立歴史民俗博物館名誉教授)、四多賀城発掘 進藤秋輝(宮城県考古学会会長)、五掘り出された文字は語る 平川南(国立歴史民俗博物館館長)、六天平産金と国分寺 桑原滋郎(多賀城市文化財保護委員会会長)、七東北の社会と律令制 笹山晴生(東京大学名誉教授)、八 東北の動乱 伊藤博幸(奥州市埋蔵文化財調査センター館長)、九俘囚長と藤原氏 新野直吉(秋田大学名誉教授)
 アテルイに関係する部分の記述を以下に紹介する。岡田茂弘氏は、アテルイの名前が出てくる『日本紀略』延暦21年の記事を取り上げ、その公姓である「大墓公」に「おおばかのきみ」と訓じている。平川南氏は、「延暦期の征討」を取り上げ、「延暦七年三月には、陸奥国内に命じて、軍粮三千五百余斛を多賀城に運び込ませ、さらに広く東海・東山・坂東諸国から歩騎五万二千八百余人を徴発し、翌年三月までに多賀城に集合させることにした。この時の戦いは蝦夷側が総帥阿弖流為の指揮のもと、政府軍に大きな打撃を与えた。政府は敗北と断定し、責任者を処分した。しかし、実態は紀古佐美の報告に「いわゆる胆沢は、水陸万頃にして蝦虜生を存す。大兵一挙して、忽ち荒墟と為る。余燼縦い息むとも危きこと朝露の如し」とあるように、政府軍の被害に対しての責任回避の面を無視できないが、長期の戦乱によって蝦夷側の被害も甚大であったろう。また報告の中の「軍入りしより以来春夏を経渉して、征軍輜重(軍需品の運搬)並びに是れ疲弊せり」という部分には、政府軍の疲れがよく表現されている。」と記述している。 
 笹山晴生氏は、「八世紀末の戦乱」を取り上げ、「桓武朝の征夷は、要した年月といい、その規模といい、前後に例をみないもので、桓武天皇が長岡・平安両京の造営とともに、国家の威信をかけて行った事業であった。五万数千人の兵を動員して行われた延暦八年(七八九)の征夷は、阿弖流為の率いる蝦夷の軍との戦いで死者1061人という大敗を喫して失敗した。その後政府は、大量の軍粮の貯備や武具の充実をはかった上で、同十三年、十万余の軍兵をもって再征し、副将軍坂上田村麻呂の活躍で、ようやく胆沢の地の平定に成功した。この上に立って、同二十年には坂上田村麻呂が征夷大将軍として陸奥に赴き、翌年胆沢城を築城、阿弖流為は田村麻呂のもとに投降した。同二十二年、田村麻呂はさらに北進して今の岩手県盛岡市の地に志波城を築き、北上川中流域の支配の安定がはかられた。」と記述している。
 伊藤博幸氏は、古代東北の動乱を宝亀・延暦・弘仁の三期に分け、アテルイが登場する時期を「延暦期の大戦争」として、史料により詳細に検証を加えている。アテルイに関係する部分は、胆沢遠征の準備始まる~第一回延暦の遠征~胆沢の合戦~古佐美軍兵を解く~第二回胆沢遠征への対応~第二回延暦の遠征~田村麻呂の施策~第三回遠征と胆沢城造営~阿弖流為の降伏、の小項目で経過を追って記述されている。この中で、延暦八年の胆沢合戦について、「蝦夷は河東に集結しているという逆の情報操作を行ったらしく、政府軍はこれをもとに、渡河作戦を練ったと考えられる」が、この「陽動作戦は蝦夷にとって賭けであった」と、次のように推定している。「考古学的にみると、河西一帯の胆沢扇状地は八世紀蝦夷の一般集落と農業生産地帯である。水沢段丘上一面にはこの時期の集落が大・小の遺跡となって分布しており、対岸の北上山地にこのような集落は認められていない(伊藤博幸「胆沢城と古代村落」『日本歴史』第215号)。もし、この河西を戦場にすれば軍勢や戦法からみても政府軍とでは勝算はないに等しく、仮に対等に交戦しても、その代償に人家と耕作地が破壊されては、蝦夷自身の存立基盤そのものが失せてしまう。蝦夷の長老たちはこのように分析したであろう。この指示を受けて、蝦夷の戦闘集団は前述の情報を流布する作戦を立て、河東に主力があると思わせた。」また、アテルイの降伏については、「胆沢の地の消耗は大きく、これ以上戦っても犠牲が増大するだけというのが、蝦夷側の判断だったと推定される。政府としても、政治的課題が山積しているいま、いつまでも蝦夷の全部を敵にして戦うわけにはいかず、現地との妥協策を練る必要があった。そして蝦夷の主戦力である武装集団を解体すれば、抵抗は緩和ないし消散し得るとの判断から、阿弖流為らの懐柔策に乗りだしたのである。これ以上の推定は危険だが、田村麻呂は彼らに帰降を進め、それが奏功して先の結果となったのである。」としている。

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2013年1月 5日

情報201 論文「蝦夷の首長アテルイと枚方市」

 『史敏』(大阪大学大学院文学研究科日本史研究室)2006春号(通巻3号)に掲載されている馬部隆弘氏(大阪大学大学院生)の論文。副題には「官民一体となった史蹟の捏造」とある。枚方市牧野阪の牧野公園内に存在するアテルイの「首塚」とされるものについて、「そのような伝承があった形跡は全く認められない」とし、なぜこのような「突飛な説が定着」しつつあるのかの分析を興味深い資料の紹介とともに進めている。馬部氏はまず、「明治以降アテルイ処刑地を宇山とする説がある一方で、地元では一切その伝承がなく、反面一九八○年前後になってアテルイの「首塚」と称されるものが、宇山(近世宇山村)内ではなく隣接する牧野阪(近世坂村)に突如として生まれた」ことから、これは「現代に創造された史蹟由緒といってよい」とする。そして、その経緯を示すものとして、枚方市の市史編纂室担当者であった田宮久史氏による1990.5.25付けのメモ「アテルイの墓についての考え方」(枚方市立中央図書館市史資料室架蔵コピー)を【史料】として紹介している。初めて知るものであり、特に「三、アテルイの墓とされた経過」の部分をそのまま紹介する。

[1] 10年程前、牧野地区の女性が市史編纂室に時々電話してきた。曰く、夢に時々長い白髪で白いあご髭の人が地中から半身を乗り出して何かを訴える。どんな人で何を言っているのかわからないが、昔この辺で何かありましたか。
[2] 田宮ほとんど冗談として対応。昔、エゾの酋長が斬られた話がありますから、そんな関係でしょうか。
[3] その女性、また後日曰く、きっとその酋長だと思う。恨みをもって未だに成仏できずに苦しんでいるに違いない。きちんとお祠りしてあげなさい。
[4] 田宮、貴女の夢や提案は市としてはどうしようもありません。
[5] 市は頼むに足らずと知った女性は、せめて犬の大小便から守るためにと、独自に柵を立て、綱をはり、何やら曰くあり気に飾りたてた。市はこの段階では一市民の酔狂と放置し、また他の市民もこの女性に同調する人はなかった。
[6] ところが、時の経過と共に木は繁茂し、柵は強化されるにつれて、一帯は妙に存在感をもち出し、一種聖域の雰囲気をただよわせるようになった。

 その後、取材に訪れた河北新報大阪支社の記者が田宮氏から女性の存在を知り、片埜神社の宮司を取材して、「アテルイの墓を発見したとばかり報道」、何らかのつながりを求める動きがにわかに高まった、というのでる。
 馬部氏はつぎに、「アテルイ処刑地は枚方市北部にはありえないこと、したがって牧野公園内の塚はアテルイの「首塚」ではない」ことを近年紹介された史料「河内国禁野交野供御所定文」の考察から断じている。交野郡北部は天皇の狩猟地である「禁野」であったが、その範囲は明確ではなかった。ところが前記史料は「禁野」の四至を記し、「天の川以北の枚方市域(東部の山間部を除く)がおよその範囲」として想定できた。そして、一般に「禁野」ではケガレに対して慎重な配慮がなされていたが、前記史料には「一、御野内にて穢駈鷹駈の外ハ曽不可殺生者也」という最も重視されるべき条目がある。すなわち、鷹の餌を獲るための狩り(穢駈)と鷹を使っての狩り(鷹駈)以外の殺生は禁じるというものである。こうなると、「禁野の中心やや西寄りに位置する宇山でのアテルイ処刑など毛頭考えられない」ことになる。「朝廷が自ら禁を犯し、あえて禁野を穢すことがあろうか」、加えて、桓武天皇は「交野での狩猟を最も好んだ天皇であり、また禁野が最も機能していた時代でもある。そこを穢すような指示を出すはずがない」というのである。
 最後に、枚方市議会における「首塚」に関する議論について平成5年と平成17年の議事録を引用して、市の答弁が中司宏現市長になって「記念碑建立実現に向けた支援を行う」と変わったことを指摘し、「公共機関が動けば嘘も真になる」と厳しく批判している。平成5年の教育委員会社会教育部長の答弁は次のような内容であった。「牧野公園のマウンド状の高まりが首塚とも呼ばれることをただ一つの根拠にして、ここを阿弖流為が埋葬された場所と特定するに至ったものであります。もちろん地元にはこれを裏付けるような伝承なり、伝説のたぐいは一切ありません。このような経過をたどってきたのが実情でありまして、枚方市としては歴史的根拠のない場所を確たる証拠もないのに、阿弖流為の墓にはできませんし、説明板なり顕彰碑を建設すべきではないと考えます」。
 馬部論文が例として取り上げている「首塚」に関する種々の記述を紹介しておく。

[1] 瀧波貞子『平安建都』(集英社1991)は、「首塚」の写真を掲載し、「伝アテルイの首塚、坂上田村麻呂の助命もむなしく殺されたアテルイ。付近に胴塚もあり、アテルイの怨霊を慰撫するために作られたと伝えられる。」と説明している。
[2] 枚方市史編纂委員会編の新版『郷土枚方の歴史』(1997)は、「首塚」のことに触れて「杜山・椙山・植山のなかで植山が正しいとする論拠はなく、まして、牧野公園内のマウンドを処刑地あるいは首塚とする歴史的根拠はまったくない」と記述している。
[3] 枚方市発行の『ひらかた昔ばなし《子ども編》』(2003)は、アテルイの首塚を実在の史蹟として紹介、枚方市教育委員会発行の社会科副読本『わたしたちのまち枚方』(2003)も、「アテルイの首塚」として写真入りで紹介している。
[4] 『中学社会 歴史 未来をみつめて』(教育出版、2005年3月30日検定済)に、「現在、大阪府枚方市には、『エゾ塚』とよばれる石碑があり、阿弖流為の墓とも伝えられています」との記述がある。

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2013年1月 5日

情報200 大石直正編『平泉・遠野・盛岡散歩』

 山川出版社の<散歩コース>シリーズ岩手県版で、平泉・遠野・盛岡の散歩コースと散歩事典。2006年7月初版発行、定価1500円(税別)。第Ⅰ部の散歩24コースの第11コース「北辺の古墳と城柵を訪ねる」がアテルイにふれることができる散歩コース。第Ⅱ部の事典の最初には、「阿弖流為 ?~802年」が紹介されている。「フルネームは大墓公阿弖流為。奈良時代後半から平安時代初頭ごろの胆沢地方の蝦夷族長のひとり。阿弖利為とも書く。789(延暦8)年、盤具公母礼とともに、胆沢の蝦夷を指揮して巣伏村(現、奥州市)付近を拠点に、征東大将軍紀古佐美率いる5万2800余人の政府軍に抵抗、北上川東に渡河した4000人を迎えてこれを破った。801(延暦20)年征夷大将軍坂上田村麻呂が4万人の軍を動員し、翌年に胆沢城を造営すると、母礼とともに500余人を率いて降伏した。田村麻呂は同年7月2人をつれて帰京し、胆沢の統治と蝦夷社会再建には2人が必要であることを説き、助命を進言したが、公卿らの反対にあい、両名は同年8月河内国椙(杜)山(現、大阪府枚方市付近)で斬られた。」執筆者は大石直正(東北学院大学名誉教授)、伊藤博幸(奥州市埋蔵文化財調査センター所長)、大島晃一(一関市博物館副館長)他

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2013年1月 5日

情報199 AKURO<悪路>

 TSミュージカルファンデーションのオリジナルミュージカル「AKURO<悪路>」(2006年文化庁芸術祭参加予定)が平成18年10月19日から29日までサンシャイン劇場で上演された。企画・演出・振付は日本で唯一の女性ミュージカル演出家で、第20回菊田一夫演劇賞を受賞している謝珠栄(しゃたまえ)。今回の新作では、アテルイが治めた蝦夷の地に、故郷をこよなく愛し故郷を守るために立ち上がる若者たちを息づかせた。キャストは坂元健児、吉野圭吾、彩輝なお、他。大和朝廷はなぜ蝦夷を討たなければならなかったのか。それは、民衆を「情報操作」するためにわかりやすい「悪役」が必要だったからではないか、という視点でこの物語は書かれている。また、企画意図には、「創られたヒーロー・アテルイ」、「権力の哀しい道化師・坂上田村麻呂・・・そして心から美しい故郷を愛した、歴史に名前の残らない本当のヒーローたち」とも紹介されている。
 実際のストーリーは、延暦21年にアテルイが降伏・斬首された2年後に始まる。平定した蝦夷を監督するため都から若き軍人・安倍高麿(坂元健児)が胆沢城に赴任し、敬愛する田村麻呂から蝦夷の隠れ里「鉄の谷」の探索を極秘に命ぜられる。任務遂行に勇む高麿は"謎の若者"(吉野圭吾)に導かれ目的の地にたどり着くが、そこで待ち受けていたのは大和による侵略で無惨なまでに虐げられ続けた蝦夷が語る衝撃的真実だった。蝦夷の男たちや大和に連れ去られた過去を持つ盲目の蝦夷の女アケシ(彩輝なお)らと交わるうち、高麿はこれまで信じて疑わなかった勧善懲悪の歴史と、真実のそれとには恐ろしいほどの隔たりがあることに気づく。ついに高麿は蝦夷と共に立ち上がるが、田村麻呂によって皆殺しにされてしまうのである。企画した謝珠栄は言う。「しかし、この物語の結末は決して悲劇ではない。私には、高麿とアケシの間に生まれた子供が、藤原清衡の祖父・安倍頼良につながっていくという夢もあり、二人の「架け橋」は見事に未来の新しい世界を作った」と。
 この舞台でアテルイ(吉野圭吾)は、都に連行され奴隷にされている蝦夷を救うために降伏するものの、欺かれ殺されたという設定だが、登場する"謎の若者"とは若かりし頃のアテルイであり、アテルイの思いを引き継ぐ霊のような存在。アテルイは生前、皆が共に手を取り合って生きていく世の中を夢見ていて、その夢を少しでも叶えてくれる存在と見込んだ高麿を"謎の若者"の姿で導いていくのである。劇団わらび座のミュージカル「北の耀星アテルイ」、劇団★新感線の市川染五郎主演「アテルイ」、に続く良質な舞台作品である。

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2013年1月 5日

情報198 枚方市に「伝 阿弖流為 母禮之塚」

 大阪府枚方市に「伝阿弖流為母禮之塚」建立実行委員会が設立され、18年度中に首塚の伝承がある同市牧野公園(元片埜神社境内)に建立されることになった。塚の規模は、石碑の高さ約2m、幅約1mで、銘板は高さ約0.7m、幅約1.2m。碑文の表は清水寺の森清範貫主に、裏面の歴史記述は関西外語大学瀬川芳則教授に書いていただく予定。費用は総額500万円で、本年12月末日まで寄付を募集する。
「伝 阿弖流為 母禮之塚」建立 趣意書
 奈良時代から平安時代にかけ、時の朝廷は東北平定を目指し幾度も朝廷軍を送り込みました。これに対し、蝦夷(えみし)軍は首領の阿弖流為と副将の母禮をリーダーに、郷土を守るため勇敢に戦い朝廷軍を敗走させました。しかし、戦いが長引き蝦夷の民は疲弊しました。加えて多勢に無勢、ついに坂上田村麻呂の軍門にくだり、二人は、延暦21年(802年)8月河内の国で処刑されました。阿弖流為 母禮を顕彰する碑は坂上田村麻呂ゆかりの京都・清水寺や出身地・水沢地区(岩手県奥州市)に建立されております。しかし、二人の終焉の地で首塚が伝承される牧野公園には現在、名もない石が置かれているだけです。建立を目指す「伝 阿弖流為 母禮之塚」はひと目見て、終焉の地であることが確認できる歴史伝承発掘のランドマークとなる石碑です。なにとぞこの主旨にご理解とご賛同を頂き、浄財をご寄付下さいますよう切にお願いいたします。平成18年9月吉日。「伝阿弖流為母禮之塚」建立実行委員会会長中司実。事務局:大阪府枚方市牧野阪2-21-15 河州一宮片埜神社内 TEL 072-857-7775

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2013年1月 5日

情報197 母禮の慰霊祭

 平成18年9月19日、奥州市前沢区生母の耕雲院において古代東北の英雄・母禮の慰霊祭が行われた。母禮をたたえる会(菊地栄治会長)が主催したもので、同会の会員や地元住民など約50人が参列し、読経が流れるなかで焼香した。式では前沢吟詠会が「母禮賛歌」を披露した。一行はその後、水沢区羽黒山の阿弖流為・母禮碑でも慰霊祭を行った。同会は、「母禮」の名を生母地区の旧地名である母体(もたい)に関係させてモライと訓み、慰霊祭も前日までの雨の影響で会場を移したが、同区生母字市ノ渡地内の「モライの居所とされる屋敷跡」で実地する予定だったという。また、今後は「伝母禮屋敷跡など、伝説に基づいたモライゆかりの場所に標識を立てる作業を進めていく」(菊地会長)という。

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2013年1月 5日

情報196 アニメ「アテルイ」上映会

 平成18年9月17日の<アテルイの日>を記念し、市内の映画上映ボランティアグループ「フィルマズ・アテルイ」(菊池千賀子代表)主催による、アニメ「アテルイ」の上映会が奥州市水沢区内メイプル地階の親子ライブラリーで開催された。同日午後2時からの一回上映で、大人16人、子供14人の参加があった。菊池代表は、「来年の<アテルイの日>にも上映したい」とのこと。

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2013年1月 5日

情報195 阿弖流為、母禮等の慰霊祭

 平成18年9月17日、奥州市水沢区羽田町羽黒山の<阿弖流為・母禮 慰霊碑>前において行われ、主催した阿弖流為・母禮を慰霊する会の会員や市民など約70人が参列した。出羽神社宮司による祝詞奏上、玉ぐし奉てんなどの神事が執り行われ、追悼の儀では相原市長が「新生奥州市が誕生し、初めての慰霊祭となる。アテルイ、モレの活躍は全国に知られている。郷土の先人の遺徳をしのぶとともに、その力をもって郷里の一層の発展に寄与したい」と述べた。式後には伊藤流行山鹿踊りが奉納された。慰霊する会ではこの日の慰霊祭に合わせ、うっそうと樹木が生い茂っていた周辺の間伐を実施し、政府軍が野営した衣川の地や胆沢城を一望できる環境も整えた。及川松右衛門会長は「市内を一望できる慰霊碑を中心にしたこの地を市の歴史公園に指定してほしいと運動を始めた。行政の力も借りながら、アテルイ、モレが愛した地を後世まで伝え残していきたい」と語った。午後には、水沢区内のホテルに会場を移し、慰霊祭に参列した京都・清水寺の森清範貫主の法話と直会が行われた。森貫主の法話には市内外から約100人の聴講者が足を運び、ユーモアあふれる説教に耳を傾けた。直会の最後に、わらび座ミュージカル「アテルイ」で歌われた「日高見わがまほろば」を全員で熱唱し、来年の慰霊祭での再会を確認しあった。

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2013年1月 5日

情報194 その他の情報

◆「子供の日」に野外映画会 平成17年5月5日、映画上映活動を展開するボランティア団体「フィルマズアテルイ」(菊池千賀子代表)が、初の活動として児童向けアニメなど3本の映画上映会を水沢市のみずさわ観光物産センター(Zプラザアテルイ)を会場に実施した。同団体の発足のきっかけは、中心市街地の活性化につなげようと平成15年6~11月の第二、第四土曜日に実施した長編アニメーション「アテルイ」の上映だった。同会は本年のこどもの日にも同会場でアニメの上映会を実施した。秋にはまたアニメ「アテルイ」を上映するという。
◆胆江神楽大会(胆江地方神楽振興協議会主催) 8月22日、水沢の日高神社神楽殿で開かれ、胆江各地から10団体約60人が出演。市立水沢南小学校神楽クラブは、アテルイと坂上田村麻呂の戦いを描いた創作神楽「アテルイの里」を舞い、会場から大きな拍手が上がった。
◆天空アテルイ体操の普及 平成14年にシンガー・ソングライターあんべ光俊さんが作曲した「天空アテルイ」に、水沢市の保険センターの職員が振り付けして創作した「健康運動天空アテルイ」の普及が進んでいる。同市では16年度から3ヵ年の普及推進を計画。2年目の17年度は11月末までに計272回にわたって実施、参加者数は10,352人に上った。講師を派遣する同市の「こっちゃ講座」、スポーツ大会、健康まつり、健康づくりリーダー研修会などで行われたほか、保険センターでの定例実技講習会、各公民館でも普及、定着に力が注がれている。一方で、看護学校が授業の一環として、養護学校では高等科の体育授業として導入した。財団法人日本公衆衛生協会はこのような活動を評価し、17年度の衛生教育奨励賞を贈った。
◆第7回あてるいカップ中学校バスケットボール交流大会 水沢市の市総合体育館を主会場に4月30日と5月1日の2日間の日程で開催され、岩手、宮城、秋田の3県から男女計42チームが参加した。
◆第4回羽田町 アテルイ 鋳とグルメまつり 10月16日、鋳物の町の秋の祭典として開催された。水沢の羽田町は北上川の東に位置し、延暦八年の「巣伏の戦い」の主戦場となったアテルイの勝利に関連深い地域。当日は「アテルイぼた餅」のサービスも行われた。
◆ストップ・ザ・交通事故「アテルイの里」作戦 平成17年5月18日に水沢警察署と県警本部が水沢暑管内主要幹線道路で展開した集中取り締り作戦。約3時間足らずで122件を摘発した。内訳は、無免許1件、速度違反31件、一時不停止20件、シートベルト不着用64件、携帯電話使用4件など。

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2013年1月 5日

情報193 アテルイを題材とした諸作品

◆平成17年7月、胆沢町小山の阿部充子さん(69)による張り絵「義経伝記とふるさとの民話・伝説」展が同町若柳の胆沢ダム学習館で開かれた。その作品の中に水沢の伝記「勇者アテルイ」があった。
◆平成17年11月30日まで、水沢市高屋敷の佐藤龍夫さん(67)が面・獅子頭の個展をめんこい美術館で開催した。佐藤さんはアテルイ没後1200年を記念し新旧2つの「アテルイ面」を制作しており、アテルイの顔をかたどった木彫りのループタイも展示された。
◆平成17年11月26日から前沢町古城地区の文化祭が古城公民館で始まり、同地区の岩淵時雄さんが趣味で作った能面50点が飾られた。そこには木目を生かしたアテルイとモレの面も並んだ。

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2013年1月 5日

情報192 アテルイをとりあげた講演

 平成17年5月19日、東北古代史を研究している宮野英夫氏(盛岡市在住)が盛岡市内で開催された「文化サロン」(主催:NPOいわてシニアネットなど)で「アテルイの謎に迫る」と題し講演した。
 平成17年6月4日、胆江6市町村合併期成同盟会主催の講演会「もっと胆江の歴史を知ろう」が行われ、岩手県文化財愛護協会会長で元岩手県立博物館長の金野静一氏が「新陸奥物語~アテルイと田村麻呂~」の演題で講演した。

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2013年1月 5日

情報191 高橋克彦氏が『小説現代』に「あくだま姫」

 物語は延暦21年に降伏したアテルイとモレが処刑されようとするところから始まる。それは劇団わらび座ミュージカル「アテルイ」の処刑シーンと重なる。舞台はそれから四年後の江刺の里。アテルイの姉の子として登場する珠姫(あくだま姫)を軸にストーリーが展開されるという。平成17年の5月号からスタートし、3ヶ月おきに6回の連載が予定されている。

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2013年1月 5日

情報190 衆院選小沢一郎氏インタビュー

 昨年9月の衆議院選挙を前に、立候補者の横顔が紹介された。報道各社の共同インタビューに、小沢氏はアテルイにもふれた。「古代アテルイにも親近感を持つという」(『河北新報』)「古里の偉人では第一にアテルイをあげる。「中央の権力の一方的な行使に対する地域の反乱。今だって同じだ」。」(『岩手日報』)「郷土の歴史的人物の中で一目を置くのはアテルイだ。「だって子孫だもの」と表情を緩ませる。「大和朝廷の統一は必然だったが、中央集権体制は、中央の物差しや都合で計る。それは今も同じだ」と、朝廷に立ち向かったアテルイと自分とを重ね合わせる。」(『胆江日日新聞』)

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2013年1月 5日

情報189 水沢の羽黒山からアテルイ時代の土師器

 阿弖流為・母禮慰霊碑建立実行委員会が発掘調査を進めていた羽黒堂古館跡で、アテルイが活躍した時代の八世紀後半(奈良-平安時代)とみられる土師器片が出土した。同破片は「へらみがき」という技法で仕上げられ、表面と裏面の両方が黒くいぶされた「内外黒」になっており年代判定の手がかりとなった。
 調査は慰霊碑建立に際しての予備調査として、日本考古学協会員である及川洵同実行委員会副会長を調査団長に8月から9月までの2ヶ月間実施された。当会の会長でもある及川洵氏は「アテルイの碑の基礎部分から同時代と思われる土師器が出たことに縁を感じる。01年の羽黒山市民発掘でも八世紀後半に近い土器片が出ているので、伝承だけでなく史料的にもアテルイ関連の地と裏付けられたのではないか」と語っている。

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2013年1月 5日

情報188 全国中学校文化祭で「アテルイ」

 平成17年8月21、22日の両日に横浜市で開かれた全国中学校文化祭において岩手県矢巾町矢次の矢巾北中(生徒431人)の3年生61人が県代表としてオリジナル群読劇「アテルイ」を上演した。わらび座のミュージカルを参考に生徒が中心になって創作したもので、上演時間は約40分。

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2013年1月 5日

情報187 ミュージカル専門誌04年ランキング

 劇団わらび座のミュージカル「北の耀星アテルイ」が、ミュージカル専門誌『月刊ミュージカル』の04年ミュージカルベストテンで10位にランクインした。同コンテストは東京を中心に全国上演されたミュージカルを対象にしており、「屋根の上のバイオリン弾き」(東宝)「南十字星」(劇団四季)「ウエストサイドストーリー」(フジテレビほか)など、著名作品がランクインした中、堂々10位に入った。
 同誌の中で、演劇評論家の岩波剛は「(日本人のオリジナルミュージカルを待望するものとして)アテルイは願望をかなえてくれた一作。舞踊、音楽、動きにそれ(ブロードウエィ打破への意欲)は脈動する収穫になった」と高く評価している。

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2013年1月 5日

情報186 大阪現代演劇祭で「アテルイ」

 およそ90劇団の応募から12団体が選出されて行われた大阪市主催の演劇祭(3月~6月)で、中島かずき作の「アテルイ」(第47回岸田戯曲賞受賞作品)がエレベーター企画によって上演された。平成17年4月28~30日の3日間の4回公演で、大阪港の巨大倉庫に設営された劇場が会場となった。同作は平成14年に新橋演舞場で市川染五郎がアテルイ、堤真一が坂上田村麻呂という豪華キャストで上演された<劇団☆新感線>の代表作。

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2013年1月 5日

情報185 『岩手日報』夕刊に『蝦夷』

 平成17年4月15日から「侵入・ヤマトの暗雲」(4回)、6月24日から「反乱・北の民の目覚め」(4回)、8月17日から「決戦・北上川燃ゆ」(4回)、9月28日から「征夷・夷をもって夷を制す」(4回)、平成18年1月14日から「血脈・まつろわぬ民の足跡」(4回)、2月20日から「もうひとつの日本」(6回)として長期にわたってとりあげた。「蝦夷」の題字の下には鹿島神宮蔵の「阿弖流為首像」の写真。
「決戦・北上川燃ゆ」では延暦八年の戦いの勝利からアテルイの投降までを新たな視点も加えて叙述。シリーズ最終回は、<延暦八年の会>の佐藤秀昭会長と安彦公一氏がアテルイへの思いを語っている。

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2013年1月 5日

情報184 『読売新聞』大阪版に「悪路王」

 平成17年3月28日の夕刊。連載「歴史のかたち」に、「悪路王の首像をみる」を特集した。鹿島神宮所蔵の「悪路王の首」を紹介しながら、「悪路王のモデルは蝦夷だったのだ。阿弖流為(アテルイ)という名の今の岩手・胆沢地方の族長だったと言われる。」と、延暦八年の巣伏の合戦など、アテルイについて詳しくとりあげた。当会副会長の佐藤秀昭氏(延暦八年の会会長)、同伊藤博幸氏(現水沢市埋蔵文化財調査センター所長)のコメントも載っている。

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2013年1月 5日

情報183 阿弖流為・母禮の慰霊

◆アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭
 平成17年8月15日に当会も共催団体となり行われた。午後2時から江刺市の各地区(田原・耕田寺=アテルイ、藤里・愛宕山広場=人首丸、米里・米里地区センター=人首丸、梁川・大岳丸顕彰碑前=大岳丸)においてそれぞれ慰霊を行った後、午後4時より本会場の<えさし藤原の郷>において慰霊祭が行われた。今回が11回目となった。
◆京都清水寺でアテルイ・モレの慰霊法要
 11月5日、関西アテルイ・モレの会(小瀬川操一会長)主催による、<古代の英雄アテルイ・モレの記念法要>が行われ、水沢市からの高橋光夫市長や川辺賢治水沢地方振興局長ら25人の慰霊訪問団を加え約70人が参列した。清水寺境内に建立された顕彰碑の前に祭壇が設けられ、穏やかな秋晴れの下、森清範貫主ら4人の僧侶が読経、参列者は焼香して碑に手を合わせた。顕彰碑は1994年に建立され、毎年この時期に供養法要が行われる。法要後の直会には大阪府枚方市の中司宏市長が駆けつけ、「アテルイ慰霊碑を首塚附近に建立することを考えている」との話題を提供した。

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2013年1月 5日

情報182 アテルイ河川歴史公園を推進する会

 アテルイに由緒ある「跡呂井」地区と巣伏の戦いの舞台となった「四丑」地区の住民95人が会員。平成14年度のキラリ輝くまちづくり推進事業をきっかけに活動を開始し、15年度からはアテルイの史跡の場所を紹介する看板と標柱の設置に取り組んだ。看板の文字は補助金で専門業者に依頼したものの、看板の柱や枠それに標柱はすべて手作り。材料のスギ、ヒバも地区の人からの提供、標柱の文字入れから設置まで会員が仕事の合間を見つけての作業ということで、三年がかりでこのほど完成した。案内板は水沢東バイパス沿いの四丑橋近くと物見櫓近くに設置され、「アテルイ生誕の地跡呂井」と刻まれた標柱は神明神社前に立てられた。

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2013年1月 5日

情報181 アテルイ歴史の里まつり

 平成17年9月11日、水沢市の跡呂井地区で「アテルイ歴史の里まつり」が行われた。神明社境内を会場に式典が行われ、「アテルイ王記念碑」に拝礼、婦人連が「アテルイ音頭」を奉納した。その後、アテルイが五万余の朝廷軍を打ち破った巣伏の戦いを再現した<アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列>が勝ち鬨をもって出発、約40人の行列が地区内を練り歩いた。跡呂井町内会などが主催するこのまつりは三年に一度開催され、今回で6回目となった。

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2013年1月 5日

情報180 阿弖流為・母禮の慰霊碑建立

 平成17年(2005)9月17日の「アテルイの日」、現奥州市水沢区羽田町の羽黒山頂出羽神社神域に<阿弖流為 母禮 慰霊碑>が建立され、午後1時半から<入魂並びに除幕式>が行われた。除幕式に先立ち、同神社境内では記念の郷土芸能発表会として北天太鼓(前沢町)、鶯沢神楽(羽田町)、伊藤流行山鹿踊(同)、鋳物太鼓(同)が協賛奉納された。式典にはアテルイとモレが処刑された地とされる大阪府枚方市からの関係者や関西アテルイ・モレの会会員ら約二百人が参列した。入魂の儀では枚方市にある首塚から採取した土や碑建立寄付者の芳名簿を碑の下に安置。及川会長、高橋光夫水沢市長、相原正明江刺市長、清水寺森貫主らが地元の子供たちと紅白の綱を引き除幕した。慰霊碑は高さ約3メートルの黒御影石製。清水寺の森清範貫主が「阿弖流為 母禮慰霊碑」と揮毫した。碑の脇には高さ1.2メートルの碑誌が立てられた。
 羽黒山は延暦八年(789)の「巣伏の戦い」でアテルイが朝廷軍を破った古戦場の一部と考えられている。参列者は地元で初めての慰霊碑に合掌し、郷土の英雄に思いをはせた。建立実行委員会の及川松右衛門会長は、「アテルイをはじめとする蝦夷と言われた人たちのレジスタンスは、自主独立の気運や戦争の愚かしさを伝えている。今後も顕彰活動を続けていきたい」と挨拶。森貫主は「郷土の英雄を回向する真摯な気持ちで揮毫した。地域を超えて交流し、古代文化を継承し発展させていきたい」と話した。
 アテルイとモレの慰霊碑は、京都の清水寺に建立されてすでに10年余が経過した。しかし地元の胆江地方には慰霊施設がないことから、「二人の魂を岩手に戻そう」と当会の及川洵会長をはじめとする有志によって「阿弖流為・母禮慰霊碑」建立実行委員会を結成。平成16年11月には枚方市の首塚から分霊し、清水寺で慰霊祭を開催。この間、建立のための募金活動を続けることにより五百万円を超える浄財が寄せられていた。今後は、この慰霊碑を中心に地元の慰霊祭も毎年行われることになり、アテルイの顕彰活動など各種の取組みもより活発に展開されていくことが期待されている。

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2013年1月 5日

情報179 最近の新聞記事から

◆水沢市ラグビーフットボール協会は、同協会傘下のクラブチーム4チームを統合し、新組織「阿弖流為R・F・C水沢」を結成させ、トップチーム「ATERUI・BRAVES・MIZUSAWA」、セカンドチームを「阿弖流為ドリーム水沢」、サードチームを「阿弖流為倶楽部」の名称にすることを決めた。東日本クラブ選手権県代表を目指す。【胆江日日新聞16.4.13】
◆水沢市健康づくり推進協議会は、16年度健康づくり関連事業実施計画を協議し、新規導入の健康運動の普及として市が独自に創作した健康体操「天空アテルイ体操」の普及などを確認した。【胆江日日新聞16.4.15】
◆第6回あてるいカップ中学校バスケットボール交流会は、5月29、30日に岩手、宮城、秋田、青森の4県から男女各24チーム、計48チームが出場して、水沢市と江刺市を会場に熱戦を繰り広げた。【胆江日日新聞16.5.29】
◆水沢市のYOSAKOIグループ「幻夢伝」は、札幌で行われるYOSAKOIソーラン祭り出場にあたり、水沢市駒形神社においてアテルイをテーマにした勇壮な創作舞踊を奉納した。【岩手日日新聞16.5.30】
◆第3回アテルイ杯カヌー・ゴムボート川下り大会が、NPO法人北上川中流域エコミュージアム推進会議の主催により、北上川を会場に8月8日に開催された。古代の英雄アテルイにちなんだ大会で、ゴムボート77艇、カヌー15艇が参加した。【岩手日日新聞16.8.10】
◆学習研究社編『週間日本川紀行』15号は「北上川」で、直木賞作家の熊谷達也さんが「阿弖流為(アテルイ)」を語っている。【河北新報16.8.16】

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2013年1月 5日

情報178 各地の慰霊祭

 平成16年8月15日、岩手県江刺市のえさし藤原の郷で<アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭>が行われた。アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会(岩崎景助会長)が主催、当会と延暦八年の会が共催するもので、今回で10回目。開祭の詩朗読、献灯、玉串奉奠などが行われ、相原江刺市長が追悼の辞を述べ、岩谷堂農林高校の生徒による鹿踊が奉納された。
 8月20日には、枚方市片埜神社において縄文アテルイ、モレの会(松永憲生代表)主催による<阿弖流為・母礼らの縄文慰霊祭>が行われた。こちらも今回が10回目の開催だが、今後は4年毎に実施するとのこと。
 9月12日午後2時からは、当会の会員でもある杜かじかさんの呼びかけで、アテルイの慰霊祭が枚方市の片埜神社で行われる。奉納費千円ほどお持ちくだされば嬉しいとのこと。なお、京都清水寺において毎年行われているアテルイ、モレを供養する法要は11月6日の午後3時から実施される。今年は<阿弖流為・母禮之碑>建立10周年にあたり、地元から鹿踊りの一行を派遣、奉納することなどが計画されている。当会も碑の建立者に名前を連ねており、多くの会員の参加が望まれる。

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2013年1月 5日

情報177 DVD「アテルイ」試写会

 秋田県田沢湖町を拠点とする劇団わらび座のミュージカル「北の燿星アテルイ」が、原作者の高橋克彦氏と㈱北斎企画によって録画収録され、約二時間のDVDに編集された。平成16年5月27日には、当会の呼びかけにより、DVDの完成試写会が水沢市文化会館Zホールで開かれ、高橋克彦氏のほか、わらび座の劇団員も駆けつけ、大画面に再現されたミュージカルに感動を新たにした。その後には、市内のホテルに会場を移して交流会を開き、DVDの感想やアテルイへの思いなどを語り合った。
 このミュージカルは、高橋克彦氏の『火怨』を原作とし、中村哮夫氏が演出したもので2002年8月から今年の3月まで全国で444公演し、各地で好評を博した。アテルイ没後1200年を記念しては、水沢市における上演を皮切りにし、全国公演にあたっては京都清水寺で成功祈願の奉納、最終公演は江刺市において行われている。高橋克彦氏は、県内の小中学校などに寄贈し、活用していきたい、と話している。

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2013年1月 5日

情報176 青森ねぶたに阿弖流為

 青森のねぶた祭りに「阿弖流為」のねぶたが登場した。千葉作龍作の「北の炎・阿弖流為」で、サンロード青森の製作。何年か前には「悪路王」のねぶたがあったと思うが、アテルイは初めての出陣。平成16年8月2日の『読売新聞』一面の「編集手帳」がそのことを取り上げている。全文を紹介する。
 青森市出身の版画家棟方志功が「世界一の火祭り」と評した青森ねぶた祭が今日から始まる。歴史や神話を題材にした人形型の大灯ろうに明かりをともし、市内を練り歩く。
◆太鼓や笛の勇壮な囃子に合わせ、何万人ものハネト(踊り手)がラッセラーと叫んで飛びはねる。浴衣とたすきのハネト衣装で踊っていた作家の中上健次さんに感想を聞いたのは二十年近く前のねぶた祭の夜だった。
◆「自由で単純で開放的で。これは縄文の祭りに違いない」。出身地の和歌山県新宮市の御燈祭に通い合うところがあるとも語っていた。今年は、その縄文文化を継承した東北の原住民である蝦夷の一首長、阿弖流為を描いたねぶたが登場する。
◆胆沢地方(現在の岩手県水沢市)を本拠地とした阿弖流為は、大和朝廷の北進に激しく抵抗したが、八0二年、征夷大将軍の坂上田村麻呂に降伏、処刑される。水沢市出身の衆院議員の小沢一郎さんは演説で時折この故事に触れ、「被支配者から見れば歴史は一変する」と説く。
◆阿弖流為は今も東北人の誇りなのだろう。ねぶたは、田村麻呂が蝦夷征伐の際に用いた戦術だったという説がある。今回は、この敵将にちなんだねぶたも運行される。東北人は懐が深い。
◆千二百年の時を超えて両雄相まみえ、漆黒の空を焦がす。縄文の鼓動が響いてきそうだ。

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2013年1月 5日

情報175 飛騨のスクナと東北のアテルイ

 岐阜県高山市で、「スクナとアテルイ」をテーマにしたイベントが開催された。飛騨の高山には『日本書紀』に記述がある両面宿儺(りょうめんすくな)が古代の英雄として伝えられており、共通する面をもつアテルイとともに取り上げたもの。平成15年9月25日から10月5日まで企画展、9月28日には「二人がもたらす新時代の光」をテーマにシンポジュウムが開催され、水沢市から延暦八年の会会長の佐藤秀昭氏がパネリストとして参加して意見交換をした。

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2013年1月 5日

情報174 人権啓発ポスターにアテルイの碑

 京都市交通局のポスター「市バス・地下鉄ぐるっと発見、人権ゆかりの地をめぐる」に、冬の清水寺の写真とともに、北天の雄阿弖流為・母禮の碑の写真が掲載され、(財)世界人権問題研究センター監修による京都人権啓発推進会議の「えみし」と「阿弖流為・母禮」に関する説明文。その最後は「...坂上田村麻呂は阿弖流為らの才能を高く評価しました。今、阿弖流為・母禮を顕彰する鎮魂の碑が、坂上田村麻呂が開基したと伝えられている清水寺境内に立っています。」

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2013年1月 5日

情報173 北海道新聞にアテルイ

 平成15年8月9日付の15面に、「英雄アテルイに脚光」と題して、アニメ映画アテルイが7月から道内各地で上映されていること、9月からはミュージカル「アテルイ」の道内公演も行われるとし、これまでほとんど顧みられることがなかったアテルイが注目されていることについて大きくその意義を取り上げた。また、翌日の日曜版の「みちを歩く」(1、2面)では、「大和朝廷と戦ったアテルイの地」として、"延暦八年の英雄伝説"を佐藤秀昭氏(延暦八年の会会長)の現地案内で写真を交えて詳しく紹介した。

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2013年1月 5日

情報172 アテルイ杯

[1]アテルイ杯争奪県南地方囲碁大会
 昨年12月に第3回大会が行われ74人が参加し熱戦を繰り広げた。今年も...。
[2]第5回アテルイ杯高校生サッカー大会
 8月10、11日に16チームが参加して水沢市で開催された。1位は遠野高、2位は東北朝鮮高級学校、3位はFCみやぎユースと新屋高。
[3]第2回プールフェスタ「球彩祭」阿弖流為カップ
 岩手県内のビリヤード愛好者による大会で、決勝トーナメントは12月1日。

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2013年1月 5日

情報169 アテルイSPC

 水沢市の不動産情報バンクは、不動産を小口の証券化し投資家から資金を調達する特定目的会社(SPC)を7月に設立した。資産流動化法に基づくもので、東北では初という。その社名は「アテルイ特定目的会社」。 

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2013年1月 5日

情報168 蝦夷の陸稲栽培

 江刺市教育委員会が発掘調査している同市愛宕の新川Ⅲ遺跡から、県内最古と見られる7世紀後半の畑跡が見つかり、7月20日に現地説明会が行われた。同遺跡は広瀬川東岸の休耕田にあり、調査面積950平方メートルのうち、畑跡は六区画分計約500平方メートルの広さ。7世紀後半、8世紀後半、9世紀初頭とみられる三つの地層の土壌分析の結果、各層からイネ科植物の葉に含まれるガラス質のプラントオパールが見つかり、陸稲栽培を長い間繰返していたことがわかった。調査を担当する同市埋蔵文化財調査員の及川洵氏(当会会長)は、「蝦夷はコメを作り生活し、アテルイもコメを食べていたことになる。蝦夷は貧しい生活をしていたとみられてきたが、そうでないことを証明することになる」と話している。

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2013年1月 5日

情報167 その他の講演、講義

[1]岩手大学拡充整備促進期成会公開科学講演会
 2月3日「北の将星アテルイ」伊藤満(漫画家)
 「仏像造形を通して見た蝦夷と仏教文化について」田中惠(岩手大学教授)
[2]アニメ「アテルイ」製作上映運動推進一関・西磐井の会主催講演会
 4月13日「大墓公アテルイと東北三十年戦争」伊藤満(漫画家)
[3]水沢市羽田地区高齢者学級「志村大学」歴史講座
 5月24日 「アテルイの郷にロマンを求めて」安彦公一(胆江新聞編集委員)
[4]江刺市えさし郷土文化館歴史講座
 5月26日「アテルイとその時代」及川洵(アテルイを顕彰する会会長)
[5]アニメ「アテルイ」製作上映運動推進北上の会主催講演会
 6月15日 「北の将星アテルイ」伊藤満(漫画家)
[6]千厩町十四年度町民大学「メオトピアカレッジ」第1回講座
 6月「アテルイの戦いと古代エミシの社会」女鹿潤哉(県立博物館学芸調査員)
[7]水沢市常盤公民館郷土史セミナー「アテルイを知ろう」
 7月2日、23日 「アテルイ(前編、後編)」佐藤秀昭(延暦八年の会代表)
[8]岩手県文化財愛護協会、県教育弘済会主催「文学歴史伝承講座」
 7月16日 「大墓公アテルイと田村麻呂」金野静一(元県立博物館長)
[9]第50回岩手県公民館大会(水沢市文化会館)記念講演
 8月1日 「アテルイ(阿弖流為)と現代」一力一夫(河北新報社社主)
[10]釜石市郷土資料館、釜石民話の会主催郷土学習会
 8月24日「アテルイ没後1200年」 金野静一(元県立博物館長)
[11]江刺市立岩谷堂公民館主催「郷土研究セミナー公開講座」
 9月11日 「大墓公アテルイと田村麻呂」金野静一(元県立博物館長)
[12]一関市厳美町本寺地区教育講演会
 9月11日「東北の古代・アテルイの時代」伊藤満(漫画家)
[13]岩手県、京都県人会主催アテルイ没後1200年記念講演会
 10月27日 「蝦夷と北天の雄」 三好京三(直木賞作家)

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2013年1月 5日

情報166 母禮シンポジウム

 平成14年11月10日、前沢町で開催された。モレを取り上げた初めてのシンポジウム。パネリストは一力一夫氏(河北新報社社主)、佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)、宮野英夫氏(えみし学会員)の三人で、直木賞作家の三好京三氏がコーディネーターを務め、「母禮」という名前をどう読むかなどについて取り上げた。シンポの前には、水沢民族舞踊サークル「たけのこ」による創作太鼓「母禮」が披露されたほか、母禮の似顔絵と三好京三作「母禮物語」読書感想文コンクールの入賞者表彰が行われた。

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2013年1月 5日

情報165 第10回歴史街道シンポジウム

 平成14年10月19日、奈良文化会館国際ホールにおいて、歴史街道推進協議会と奈良新聞社の主催で開催された。シンポのタイトルは「古代の東北と畿内~黄金ロードから、東北の強者アテルイまで~」で、アテルイが取り上げられている。第1部:ビデオ上映「古代東北・蝦夷の世界」(水沢市埋蔵文化財調査センター制作)、基調講演「知らざれる古代史~大和政権と東北との劇的関係」講師豊田有恒氏(作家)、第2部:パネルデスカッション パネリスト:豊田有恒氏(作家)井上満郎氏(京都産業大学教授)工藤雅樹氏(福島大学教授)浅川 肇氏(元禰宜/談山神社相談役)コーディネーター:中路正恒氏(京都造形芸術大学助教授)。10月18日付の奈良新聞は同シンポジウムを大きく取り上げ、アテルイを中心に紙面の三面を割いて詳しく紹介した。この企画は当日の司会を務めた杜かじかさんが奔走して実現させたもの。

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2013年1月 5日

情報164 連続公開講座アテルイ~「悪路王」からアテルイへ~

 花巻地区の「わらび座の『アテルイ』を鑑賞する会」が、アテルイ没後千二百年をミュージカルの鑑賞だけに終らせないためにと企画した。第1回(平成14年6月19日)[講師] 牛崎敏哉(宮沢賢治イーハトーブ館)「岩手とアテルイ」、第2回(7月21日)[講師] 瀬川司男(鑑賞する会会長)「アテルイと田村麻呂の史跡探訪」、第3回(8月17日)[講師] 相澤史郎(東海大学名誉教授、詩人)「悪路王伝説と田村麻呂伝説の起源」、第4回(9月23日)[講師] 山折哲雄(国際日本文化研究センター所長)「いま、なぜアテルイなのか」、第5回(10月19日)シンポジウム「私たちにとって、"東北"とは何か」[パネリスト] 斉藤彰吾(元北天塾副塾頭)門屋光昭(盛岡大学教授)、佐藤秀昭(延暦八年の会代表)。花巻市文化会館を会場として開催されたが、水沢市以外の場所でアテルイをテーマにした講座をこれだけ連続して開催したのは初めてのことであろう。

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2013年1月 5日

情報163 胆沢城造営1200年記念講演と連続講座

 記念講演会は8月11日に水沢市の佐倉河公民館で開かれ、前岩手大学教授の高橋崇氏が「坂上田村麻呂と胆沢城」と題して講演した。高橋氏はアテルイに関しても研究しており、水沢に来てふれないわけにはいかないだろうと、いくつかの問題点を紹介し、関心を呼んだ。水沢市埋蔵文化財調査センターを会場に開催された連続講座では、8月24日の第1回に新野直吉氏(前秋田大学長)が「私と東北古代史とアテルイ」と題して講義した。これまでの著書でアテルイを取り上げてきた内容を詳細に紹介し、最初にアテルイを取り上げた本を出版したときには「国賊だと非難された」ことなども振り返った。そのうえで、「現在アテルイがあるべき座標を得て認められるに至ったのは、岩手県民のアテルイ顕彰の機運が高まったからだ」とこれまでの運動の取組みを評価した。

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2013年1月 5日

情報162 シンポジウム「アテルイとエミシの時代」  

 平成14年9月14日の午前10時から午後4時まで、≪延暦八年の会≫主催により水沢市の商工会館大ホールにおいて開催され、約二百人が参加した。◇基調報告[1]今泉隆雄氏(東北大学教授)「律令国家とエミシ~エミシ支配の基本政策~」、[2]熊谷公男(東北学院大学教授)「古代蝦夷の生業と社会構造~蝦夷の戦闘能力を手がかりとして~」◇研究報告[1]武田佐知子氏(大阪外国語大学教授)「律令国家と蝦夷の衣服」、[2]樋口知志氏(岩手大学助教授)「延暦八年胆沢の合戦の再検討」、[3]伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)「水沢地方における7・8世紀蝦夷社会の構造」◇シンポジウム「アテルイとエミシの時代」(司会:今泉隆雄氏)

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2013年1月 5日

情報161 日高見国見聞記 http://www9.ocn.ne.jp/^aterui

 当会の会員でもある杜かじかさんが6月に開設した"アテルイふぁんサイト"。"アテルイを通じた関西と東北(岩手)の交流"を掲げる行動派だけに、アテルイ関連イベントには必ずといってよいほど参加していて情報も豊富。HPで彼女の思いや活動を知るのも楽しい。「1200年の恨みなどを乗り越えて、地域同士の新しい交流が生まれることが、アテルイの「心」に応えることではないだろうか。」とは、"かじかさんのつぶやき"。

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2013年1月 5日

情報160 アテルイ没後1200年記念事業実行委員会開設公式ホームページ

 インターネット情報検索HPヤフー・ジャパンが、9月16日に行われたアテルイ没後1200年記念グランドステージの様子を取り上げた新聞記事の紹介を17日午後2時から18日未明まで掲載した。そのため普段は2,000件程度のアクセスが、17日だけでなんと47万件余りに上ったという。同HPは実行委員会の委託を受けてNPO法人アテルイビレッジネットワークが作成、管理しているが、委託期間以降もアテルイHPとして有志による継続を検討したいとしている。同HPのアドレスは、http://www.aterui.jp/

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2013年1月 5日

情報159 その他の出版物

[1]木村倶子著『ひらかた昔ばなし六 田村麻呂と阿弖流為 熱い友情』 枚方市伝承文化保存懇話会事務局、枚方市市民生活部文化観光課発行の木村さんの手作り冊子。木村さんの文は手書きの挿絵と同じようにほのぼのとしていてやさしさにあふれている。裏表紙には「田村麻呂と阿弖流為・相手のよさを知り深い友情を育てよう」の文も記されている。この「ひらかた昔ばなし」は、枚方市の(人口40万6808人)『広報ひらかた』1036号(9月1日)にも掲載された。
[2]水沢市社会科副読本『アテルイの里』 水沢市教育委員会がアテルイ没後千二百年を記念して作製し、市内の小学生4年生以上と中学生全員に配布した。A4判、八ページで、アテルイの歴史をわかりやすく、コンパクトにまとめたもので、郷土理解を深める学習教材として活用される。
[3]胆江青年懇話会『創作シナリオ・北の耀星~アテルイ~』(2002.7) アテルイ没後千二百年記念として作成されたもので、京都市の有済小学校の児童が演じたアテルイをテーマにした創作人権劇の台本を若干手直しして発刊した。冊子は五百部作製され胆江管内の小学校、子供会育成会などに配布された。
金ヶ崎町立西小学校の6年生14人が創作劇に取組み、10月26日、同校の学習発表会で上演した。

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2013年1月 5日

情報158 単行本

[1]久慈力著『蝦夷・アテルイの戦い』(批評社2002.7) 前編が「エミシとは何か」、中編が「大和朝廷とは何か」で、後編が「アテルイの戦いとは何か」。その小見出しに、「アテルイは謀略によって拉致された」「桓武、田村麻呂、公家による騙し討ち」「百済亡命者の根拠地にアテルイは封殺された」と見えるように、田村麻呂の「善意」を信じないとし、「彼は国史の編纂者同様、老獪な渡来人である。」という認識に立つ。そして、「ヒタカミ大戦争はエミシ側の勝利」ということもできる、という。筆者は「むじくれ・天の邪鬼」を宣言。
[2]佐藤秀昭・文『アテルイ』(岩手日報社2002.7) 長編アニメ「アテルイ」のストーリーブック。映画を監修した佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)の文で、最初に歴史的背景を「アテルイが活躍したころ」として、わかりやすく説明している。A5判、百ページ、千二百円。
[3]中島かずき著『アテルイ』(論創社2002.8) 8月に新橋演舞場で上演された市川染五郎主演『アテルイ』の台本。「日の国若き時、其の東の夷に蝦夷あり。彼ら野に在りて、未だ王化に染はず。山を駆けること禽の如く、草を走ること獣の如し。かの長の名は阿弖流為。帝、これを悪路王と呼び、邪しき神姦しき鬼と怖れたり。」 この最初に掲げられた文章からして、的確な切り口からする展開の面白さを十分に予感させるし、実際にも期待を裏切らなかった。
[4]千葉周秋編著『エミシ・タムラマロ伝説』(自費出版2002.9) 前半にエミシと田村麻呂に関する東北各地の伝説302編、後半に岩手県内の寺社などに伝わるエミシ伝承を地域別にまとめた。A5判278P、2千円。

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2013年1月 5日

情報157 雑誌

[1]『週間 ビジュアル日本の歴史 奈良から平安へ5』(デアゴスティーニ2001.12) 第四章 呪われた桓武朝 のFOCUS で、「桓武天皇こだわりの蝦夷征討大作戦」を検証。第五章 中央政権への蝦夷の反抗 には「朝廷軍を手こずらせた謎の蝦夷総帥・阿弖流為」の見出しでアテルイについて詳しく紹介している。
[2]『週間 再現日本史 原始・奈良10』(講談社2002.3)ニュース・ファイル「『国家鎮護』と女帝」(目録752~793)の1ページ目には悪路王首像の大きな写真を背景に"大和政権の蝦夷侵攻と城柵"の図があり、「●アテルイ、勝つ!(延暦8年6月3日)北上川中流で、五万人余の政府軍にゲリラ戦を挑んだ蝦夷軍が、大勝した。写真は、首長・アテルイがモデルと伝わる悪路王の首像」との説明文がある。"歴史瓦版"の発見のコーナーでは、岩手発として「蝦夷・阿弖流為の砦か 巣伏の古戦場で遺構発掘」との見だしで昨秋実地した羽黒山市民発掘の成果を紹介している。  
[3]『ふうらい』(六花舎2002.4) "フィールドワークで岩手の謎に挑む"という季刊誌で、特集に「鬼(エミシ)紀行」を組んだ。表紙には悪路王首像の横顔のアップ写真。紀行そのⅠ「誇り高きエミシの魂は、永遠に生き続ける。」(文◎高橋政彦)は、アテルイを軸にした内容(8ページ)になっている。 
[4]『歴史読本』4月号(2002.4) 3分で読める歴史ドラマ≪れきどくショートショート専科≫に、読者の松平稲五郎さんが投稿した「古代みちのくの英雄」が掲載されている(2ページ)。「...それから半年ほど経った年の暮れ、襤褸のような衣を纏った坊主が、アテルイとモレの晒し首の前にきて額ずいた。...坊主は涙を流して謝っている。この坊主こそ誰あろう、かつての征夷大将軍坂上田村麻呂の成れの果てであった。」で、お終い。
[5]『トランヴェール』6月号(2002.6) JR東日本が発行している旅情報誌。「みちのく歴史紀行・その名は阿弖流為」の大特集が組まれた(18ページ)。アテルイの人物像などに触れているほか、水沢市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸副所長が延暦八年の戦いの想定図や、各地の遺跡の出土品から東北古代の社会について解説、後半は「アテルイの面影を旅する」と銘打ちアテルイに関係した歴史スポットをたどるモデルコースを紹介している。同誌はJR東日本管内を走る特急グリーン車内で無料配布されたほか、駅売店で三百円で販売された。
[6]『NEXT Stage 』Vol.31(2002.6) 季刊の"いわて就職情報誌"で、橋本祐子さんが「【アテルイブーム】現代の岩手に息づく蝦夷の英雄の物語」を書いている(2ページ)。
[7]『歴史街道』6月号(2002.6) 中津文彦氏の「東北の英雄・アテルイが「逆賊」にされた本当の理由」が載っている(7ページ)。アテルイは「朝廷への帰順を申し出、そのかわり徴税システムを守ってほしい、と訴えたかったのではないか。」とし、その訴えを一蹴した朝廷は、「黄金さえ手に入ればよかった。できるだけ多くを収奪できれば、陸奥国の安定などはどうでもよかったのだ。」とする。それが"本当の理由"?。
[8]『 Basic 』第56号(2002.7) 「アテルイ(阿弖流為)・1200年目のメッセージ。」として、記念事業の多彩な内容とアテルイ顕彰の取組み経過などを紹介(4ページ)している。同誌は一関市の㈱平野組が発行している"くらしと文化の地域情報誌"。
[9]『岩手経済研究』9月号(岩手経済研究所2002.7) 巻頭の"やまびこ"に、新田清二水沢商工会議所会頭が「アテルイと田村麻呂、歴史文化の中に新たな胎動」を寄稿している。アテルイ没後千二百年にふれ、「アテルイを通じたコミュニティとチャレンジを梃子として、地域の再生を果たしたい」という。
[10]『地域づくり』第158号(2002.8) 財団法人地域活性化センターが発行する"地域活性化のための情報誌"。そのトピックスに水沢市を取り上げ、同市社教課の佐久間氏が「没後千二百年でイベント目白押し、アテルイを英雄として評価」のタイトルで取組みの内容を紹介(1ページ)している。

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2013年1月 5日

情報156 池田文春「阿弖流為」

 平成14年7月1日発売のビジネスジャンプ増刊『ビージャンこん』№7(集英社)に掲載された58ページの長編漫画。歴史的には「呰麻呂の反乱」までで終っているが、ストーリーに工夫が見られ、今後の続編が期待される。池田氏は水沢市内に在住していて、『ビジネスジャンプ』に「BAR来夢来人」を連載しているプロの漫画家。

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2013年1月 5日

情報155 鋳物

[1]蕨手刀のペーパーナイフ 水沢鋳物工業協同組合が製作した。約10cmほどの長さで細く小さいが、刃の部分に"阿弖流為"と彫ってあるのがうれしい。六百円。
[2]鋳物風鈴 水沢市羽田町の及勘鋳造所が、アテルイ没後・胆沢城造営1200年を記念してアテルイと坂上田村麻呂の顔をかたどった鋳物風鈴を製作した。製品名は「福鈴アテルイと田村麻呂」。一個の大きさは高さ7㌢、幅5㌢、奥行き4㌢で、重さは約200㌘。下地が金色でできており、アテルイは黄緑、田村麻呂がやや青味がかっている。販売価格はセットで千五百円。どちらもユーモラスな表情だが、どういうわけか、田村麻呂が鉢巻をしているのがご愛嬌。

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2013年1月 5日

情報154 人形「アテルイ」

[1]和紙人形アテルイ 金ヶ崎町に"さわはん工房"を構える澤藤範次郎さんが製作した成島和紙を使った張り子。馬にまたがり、ヤリを構えるがどこか人間臭く親しみやすい。高さ14㌢、幅12㌢。澤藤さんは平成4年に兵を踏みつける大型のアテルイ人形を製作し、東北ふるさと物産展最高位の東北通算局長賞を受賞した。
[2]繭細工人形アテルイ 盛岡市の村田民芸工房の村田三樹二郎さんがアテルイ没後千二百年を記念して製作した。槍を持った木片の胴体に繭細工の愛きょうたっぷりの頭をのせた体長約10㌢のかわいい人形。
[3]樹脂製ミニ胸像型のアテルイと田村麻呂人形 水沢市駅通りのチャレンジショップ「あきんど考房21」に出店している"ペーパームーン"の福島研一さんが製作にとりかかり、試作品を完成させた。高さ12㌢、幅8㌢。両人形ともなかなかの出来あがり。価格は一個千円。福島さんはアテルイ手拭も製作した。 

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2013年1月 5日

情報153 水沢共通銘菓「アテルイ夢伝説」

 アテルイ没後千二百年にあたり水沢菓子組合が企画・共同開発した最中で、アテルイと田村麻呂の顔をキャクター化して最中の皮に使用している。組合に加盟する六店が製造、中の餡子は各店で工夫しそれぞれに異なっている。10個入り千円。

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2013年1月 5日

情報152 清水寺「阿弖流為・母禮の碑」供養

平成14年11月9日、関西アテルイ・モレの会(「関西アテルイ顕彰会」を改称、安倍満穂会長)主催により清水寺の「阿弖流為・母禮之碑」前で行われた。当会の及川洵会長ら水沢市からの一行42人を含め約90人が参加した。なお、水沢市からの一行は前日に枚方市の片埜神社を参拝、アテルイらの埋葬地のひとつに疑定されている神社隣の牧野公園の首塚を視察した。地元自治会の皆さんや枚方市職員、市会議員の出迎えと歓待を受けて大感激、今後の交流を約した。片埜神社からいただいた資料の「伝・アテルイとモレの首塚」には、現在の首塚が公園となる以前には神社神域の宮山と呼ばれる山の中(30メートルほど東の位置)にあったことが記されている。

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2013年1月 5日

情報151 モレの慰霊祭

 平成14年9月16日、今年5月に発足した「母禮をたたえる会」(千田明会長、会員231人)の主催により、前沢町母体地内で行われた。会員や地元住民、鈴木一司町長ら80人が出席し、前沢詩吟会がモレの功績を題材とした詩吟を披露、読経と焼香などが行われたほか、直木賞作家の三好京三氏も講話した。アテルイだけでなく、モレも顕彰していきたいという趣旨はいいのであるが、慰霊祭が行われた場所は「モレの屋敷跡と伝えられているところ」という。モレの本拠地は母体にあったのではないかという説はあるものの、「モレの屋敷跡」とは驚くばかりである。これまで、そんな言い伝えがあったとは聞いたこともなかったが、ぜひとも詳しいことを知りたいものである。

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2013年1月 4日

情報150 アテルイ・モレ没後1200年祭

「縄文アテルイ・モレの会」(松永憲生代表)主催による第8回目の日高見大戦戦没者慰霊祭で、平成14年8月23日に枚方市の片埜神社に隣接する牧野公園で行われた。会員、関西アテルイ・モレの会、枚方市の市民生活部長ら約50人が参加し、神事に加え、「川村アイヌ民族記念館」(旭川市)の川村シンリツ.エオリパック.アイヌ館長によるアイヌの先祖供養「イチャルパ」も行われた。

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2013年1月 4日

情報149 アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭

 平成14年8月15日、同慰霊祭実行委員会(岩崎景助会長)主催により江刺市の歴史公園えさし藤原の郷を会場に開催された。今年が8回目で、及川勉江刺市長ら約50人が出席、劇団わらび座俳優による「日高見わがまほろば」の独唱や地元高校生による鹿踊りが奉納された。当会名誉顧問の一力一夫氏(河北新報社社主)、及川洵会長らが出席した。

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2013年1月 4日

情報148 アテルイ没後1200年記念大会

 平成14年9月16日、アテルイ没後1200年記念事業実行委員会主催により水沢市文化会館で開催された。式典では、アテルイ顕彰活動者表彰が行われ、一力一夫氏(河北新報社社主)、三好京三氏(直木賞作家)、延暦八年の会(佐藤秀昭会長)に賞状が授与された。アトラクションでは、アニメ「アテルイ」のラッシュ上映、わらび座「アテルイ」ショートステージが行われた。会場にはアテルイ最期の地である枚方市の中司市長も姿を見せ、ステージに上がって水沢市長らと固い握手を交わした。

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2013年1月 4日

情報147 水沢市の中心商店街で「アテルイ古代まつり!」

 平成14年9月14日、「アテルイ没後千二百年」の黄色のノボリが林立する駅通り商店街で、「アテルイ古代まつり!」と銘打ったイベントが行われた。毎月開催している「駅通り楽市」の会場で、アテルイ没後1200年記念事業に合わせて企画したもの。古代米を使用したクルミ入り田楽、おこわの試食会などがその内容であった。

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2013年1月 4日

情報146 アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列

 平成14年9月14日、水沢市の跡呂井町内会などの主催による"アテルイ歴史の里まつり"が開催され、アテルイ軍が延暦八年の戦いで朝廷軍に大勝利し凱旋するシーンをイメージした武者行列が行われた。このまつりは三年に一度開催されていて今回が5回目となる。アテルイ役に扮して乗馬した後藤水沢市長を先頭に、蝦夷武者姿の住民ら総勢150人が跡呂井地区周辺6キロのコースを練り歩いた。なお、同地区婦人連40人による「アテルイ音頭」の踊りも東大通のアテルイ公園など6ヶ所で披露された。

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2013年1月 4日

情報145 古代ののろしフェステバル

 8月24日、水沢市羽田地区振興会主催により羽田町の羽黒山で開催され、軍事通信手段に使われた"のろし"の再現が行われた。高々と舞い上がったのろしは約6.5キロ離れた胆沢城造営千二百年記念"夢あかりコンサート"会場でも確認され、開幕を告げる合図ともなった。同地では、昨年にアテルイ関連遺跡として、延べ五百人以上が参加した市民発掘が行われており、今回のイベントはアテルイ没後千二百年協賛事業として位置付けられた。北上川を見下ろす高台には高さ5メートルの物見やぐらも設置された。

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2013年1月 4日

情報144 合唱歌「今はむかしアテルイの里」

 アテルイ没後1200年記念大会において、アテルイの里から未来へのメッセージとして水沢市立常盤小学校合唱団が出演、その合唱は大きな感動を呼んだ。

♪ときをこえ かけてゆけば そこは父なる大地と 馬と清水とヒタカミのいまに伝えた北上川
 今はむかしアテルイの ああアテルイ エミシのかしら 里を守らんと 燃えた人♪ 

 この歌は、常盤小学校の「施設活用授業研究会表現集会」(平成4年度)のために作られたものであるが、今も児童たちが歌い続け、第二校歌的に親しんでいる歌であるという。

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2013年1月 4日

情報143 姫神/星吉昭「アテルイのテーマ」

 平成14年9月16日、水沢市のZホールで開催された≪アテルイの里・姫神コンサート~天空を駆けるアテルイの想い≫で披露された。コンサートの構成は、第1章「去国府多賀城界一百二十里~道奥まほろば~」、第2章「蝦夷立つ~ふるさとの山河と人々を守れ~」で、第3章が「阿弖流為~胆沢蝦夷賛歌~」。シンセサイザーとバイオリンによる幻想的な調べが古代ロマンの世界に誘った。
「アテルイが没して1200年。その遥かな年数に想いをはせると共に、私がこの岩手の地から音楽を紡いでいることの、後ろ楯のようなものをアテルイからもらっているような気がします。岩手に根をはって生きる私の、アテルイに対する想いを少しでも皆様にお伝えすることが出来たなら、これに勝る喜びはございません。...」以上は、姫神/星吉昭さんのメッセージ。

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2013年1月 4日

情報142 あんべ光俊「天空アテルイ」

 シンガーソングライターあんべ光俊さんが、胆沢城造営・アテルイ没後1200年記念歌として作曲し、平成14年8月24日の夢あかりコンサートで発表した。歌詞は短歌形式で全国公募したところ、239人から960編の作品が寄せられ、この中の佳作9編から一曲に再構成した。11月21日にCDが全国発売される。
 いにしえの/えみしいさまし/アテルイのなごりの城を風青く吹く/我もまた/えみしの末か/
 みちのくにあふれたる血潮脈うつを聞く/エイオー エイエイエイエー ... ♪
 北天の空に流れるアテルイの生きてるリズム大地の響き/ ... ♪

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2013年1月 4日

情報141 水沢市民祭「アテルイ外伝」

 平成14年11月24日に開催される第11回水沢市民祭で、創作劇「アテルイ外伝~1200年の時空を超え 未来への飛翔~」が上演される。小学生から高齢者まで約60人が参加、音響や照明、舞台装飾などの技術スタッフも一般市民が手掛ける初の試み。

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2013年1月 4日

情報140 群読劇「アテルイ」

 岩手県演劇協会副会長の浅沼久さんが脚色演出を担当。アテルイの少年時代に焦点をあて、ミュージカルの要素も取り入れ全13場の一時間を超える舞台にした。出演者は公募で集まった幼稚園児から高齢者までの42人で、4月下旬から練習を重ね、平成14年7月26日に盛岡市で開かれたアニメ「アテルイ」上映前夜祭で公演した。

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2013年1月 4日

情報139 創作神楽

【1】「夕霧物語」 アテルイを題材に衣川村の神楽継承四団体が創作した。アテルイや同村に伝わる霧山太郎、達谷窟に伝わる悪路王と坂上田村麻呂との人間愛を描いたストーリー。
【2】「アテルイ」 水沢市羽田町外浦地区のうぐいす沢神楽保存会(今野芳郎会長)が創作し、8月24日に開催された「羽黒山古代ののろしフェステバル」会場で初披露した。アテルイ誕生、朝廷軍の侵攻、巣伏の戦い、坂上田村麻呂への降伏の全四場面構成で、アテルイが外浦地区で誕生したという新解釈以外は史実どおりの内容。
【3】「アテルイの里」 水沢南小学校神楽クラブのアテルイを題材にした創作神楽。8月22日、水沢市の日高神社で開催された胆江神楽大会で披露された。

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2013年1月 4日

情報138 米沢牛ひとり芝居「アテルイの首」

 仙台を拠点に活動している俳優の米沢牛が、ひとり芝居「アテルイの首」2002年版を、広島公演を皮切りに全国七都市で上演。東北では山形県川西町(10月12日)、仙台市(10月16~18日)、盛岡市(10月22.23日)。10月14日には江刺市の藤原の郷でも特別公演した。三作目となる2002年版は、米沢牛が四役を演じ分け、蝦夷の首長アテルイをゆかりの人間に語らせることで描き出す。

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2013年1月 4日

情報137 市川染五郎主演「アテルイ」

 平成14年8月5日から28日まで、「劇団☆新幹線」の中島かずき作、いのうえひでのり演出による「アテルイ」が新橋演舞場において上演された。アテルイには市川染五郎、坂上田村麻呂には堤慎一が扮したほか、水野美紀、渡辺いっけい、金久美子らも加わる豪華キャスト。派手な照明、ハードロックの大音響、絶え間なく続く立ち回り、繰り出されるギャグ、楽しくスピ―ド感あふれる展開に休憩を挟んでの約三時間も瞬く間であった。歴史に大胆な脚色を加えているが、その根底に流れるものをきっちりと掴んで内容を組み立てており、その意味でも素晴らしい作品と拍手できるものであった。
 なお、新橋演舞場での公演を前に市川染五郎、堤慎一さんら一行15人が、イメージづくりとスチール撮影のため水沢市の埋蔵文化財調査センターなどを訪れた(6月19日)。染五郎さんは「十数年前、新しい歌舞伎をやりたいと思い題材をさがしていたらアテルイに出会った」という。「悪路王像は刺激的...」と見入っていた。

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2013年1月 4日

情報136 長編アニメ映画「アテルイ」完成、上映始まる

 平成14年8月5日、映画での物語も始まる水沢市において公開された。公開に先立ち、上映会前夜祭"アテルイ・フェスタ"が7月26日に盛岡市で開かれ、佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)による講演やトークショーなどが行われた。また7月29日には水沢市で、30日に盛岡市で完成試写会が行われた。県内各地での上映は、盛岡市、花巻市、北上市、一関市、玉山村、宮古市、衣川村、陸前高田市、江刺市、前沢町、葛巻町、岩手町、西根村、滝沢村、大船渡市、矢巾町、花泉町、紫波町、二戸市、安代町、軽米町、普代村、山形村、岩泉町、藤沢町、沢内村、川井村、松尾村、雫石町、大槌町と続いている。9月28日には東京で試写会が行われ、12月には千葉市と横浜市で、来年1月にはよみうりホールで上映される。大阪では10月8日に試写会が行われ、11月23日~12月6日に天王寺フェスティバルゲート7階のシネフェスタで上映される。

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2013年1月 4日

情報135 わらび座ミュージカル「アテルイ~北の耀星」全国巡演スタート

 秋田県わらび劇場での一年間のロングランを終え、平成14年9月1日の水沢市文化会館での公演から全国巡演のスタートを切った。同ミュージカルは初演から約一年間で220回を公演、延べ入場者は七万人を超えた。
 水沢公演のカーテンコールでは、演出を手がけた中村哮夫氏が「今日は熱く燃え上がった。エミシの思いを全国に伝えたい。理不尽に力で攻め入られ、虐げられている人たちは現在も世界中にいる。立ち上がる魂の尊厳を発信していきたい。」と話し、アテルイを演じた安達和平さんは「蝦夷の心を伝えるため、全国を駆け巡ってきます」と挨拶した。また、この日には水沢市内の有志が集まって「アテルイを全国に発信する会」(発起人代表:後藤水沢市長)が結成され、「没後1200年を契機に、さらに全国の「郷土を愛する人たち」にアテルイを知ってもらいたい」とする発会決議文を採択し、全国巡回公演の成功を祈った。巡回公演はまず岩手県内に始まり、盛岡市、東山町、前沢町、玉山村、藤沢町、住田町、遠野市、大船渡市、種市町、宮古市、金ヶ崎町、二戸市、花巻市、一関市などで上演。11月には神奈川県厚木市、宮城県の小牛田町、白石市、仙台市、築館町、岩沼市、多賀城市、石巻市、福島県の棚倉町などでの上演と続く。2004年3月まで全国で約280ステージが予定され、最終公演を岩手県内で行う。

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2013年1月 4日

情報 アテルイ没後1200年記念事業"甦れ、アテルイ展"終る

 アテルイ没後1200年記念事業のメインをなす当会主催の ≪ 甦れ、アテルイ展 ≫ が閉幕した。平成14年9月13日から24日までは水沢市のメイプル4階ホールにおいて、9月28日から10月21日までは江刺市の歴史公園えさし藤原の郷において開催された。
 展示内容は、【序】として、開催宣言(次ぺージ)と"古代国家と蝦夷"のコーナー。
【Ⅰ.アテルイが起つ!】のコーナーは、延暦期における胆沢の戦いとアテルイの降伏・斬殺まで。ここでは、「水陸万頃の胆沢の図」として古代胆沢の1万分の1模型を製作、延暦八年の戦いを再現した。また、戦いに関連して蝦夷の武器武具も展示した。
【Ⅱ.アテルイの村々】のコーナーでは、江刺市で発掘された蝦夷の畠と墓、金ヶ崎町で発掘された蝦夷の墳墓群、水沢市で発掘されたアテルイ時代の蝦夷の村々を取り上げ、それぞれから出土した土器類を展示した。
【Ⅲ.わが名はアテルイ】のコーナーでは、阿弖流為の名前が登場する『続日本紀』(明暦三年版)を展示したほか、名前に関わる研究の現状をパネルにして紹介した。
【Ⅳ.われは悪路王にあらず】のコーナーでは、茨城県桂村の鹿島神社社宝「悪路王頭形」と鹿島神宮蔵「悪路王首像」を展示、中尊寺に伝わる「伝悪路王佩刀」の写真パネルなども展示した。
【Ⅴ.甦るアテルイ】のコーナーは、アテルイ復権年表をはじめ、清水寺建立のアテルイ碑、教科書に掲載されたアテルイなどの写真パネルを展示、関係出版物も多数展示した。アテルイの全身像も独自に製作し展示した。水沢会場の入場者は、3,862人にのぼった。

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2013年1月 4日

情報134 日本経済新聞でアテルイを紹介

 平成14年2月25日付け同紙文化面の 文化 に、「エミシの族長アテルイの史実伝える会を主宰」と紹介されている佐藤秀昭氏(延暦八年の会代表)の「古代東北、英雄の顔」が掲載された。佐藤氏は今年が古代東北の英雄アテルイの没後千二百年にあたることと、これまでの顕彰活動をアテルイの新しい肖像作成を中心に紹介しながら、最後に「ぜひとも後世に伝えたいのは、アテルイたちは都に攻め上ろうと思ったわけではなく、国家を牛耳ろうとしたわけでもないということだ。守勢一方で、豊かな地域と心豊かな仲間たちを守るため戦った。その精神こそ、次の世代に引き継いでいきたい。」と結んでいる。全国紙にアテルイに関する内容がこれだけ大きく取り上げられたのは初めてのことである。

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2013年1月 4日

情報133 市川染五郎が「アテルイ」を主演

 新橋演舞場2002年8月公演に、中島かずき作、いのうえひでのり演出による新作「アテルイ」の上演が決定した。主催製作は松竹株式会社。8月5日(月)が初日で8月28日まで。アテルイには市川染五郎、坂上田村麻呂には堤慎一が扮するほか、舞台初出演の水野美紀が2人の男の運命に関わる謎の女を演じるとのこと。さらに渡辺いっけいや金久美子らの客演俳優陣も加わる豪華キャスト。
「平安時代初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂による「蝦夷征伐」の世界を題材に...、蝦夷(えみし)の長アテルイと田村麻呂の闘いという歴史上の出来事から大きく想をふくらませ、二人の男の交情と宿命的な闘いの物語をスピ―ド感ふあふれるエンターテイメントとして舞台上に繰り広げます。」との作品紹介。
 新橋演舞場のホームページに掲載された出演者のコメントは。【市川染五郎】10年近く前から興味を持っていた人物「アテルイ」を<いのうえ歌舞伎>で演じることができて、最高に興奮しています。お能や歌舞伎では"鬼"としか書かれていない「アテルイ」に血を通わせ、歴史上のどの人物よりも注目され、愛される魅力的でミステリアスな"人間"を目指しています。【水野美紀】『火怨』という小説を読んで「アテルイ」という人の生きざまに心がふるえました。その人と出逢えるのです。憧れていた方々の舞台に参加できるのです。いいんでしょうか?実は、私初舞台なんですけど...。"御観劇料(税込)"は、1等席10,500円から、3階B席3,150円まで。

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2013年1月 4日

情報132 中路正恒著『古代東北と王権』( 講談社現代新書 )

 サブタイトルは、「日本書紀」の語る蝦夷。蝦夷の綾糟が服属した問題などの徹底的な検討から、独自な征夷の歴史解釈を試みていて興味深い。第八章が、「アテルイと田村麻呂」で、アテルイの坂上田村麻呂への投降の意味が探究されている。以下、アテルイに直接言及した部分の一部を紹介する。
「わたしには、政府が、伊治城を築き、武力による制圧の路線をとりはじめて以降、王化を慕っての蝦夷の帰服ということはもはや存在しなくなっているように見えるのである。後の延暦二十一年(八0二)の、胆沢の蝦夷を代表する阿弖流為らの投降にしても、決してみずからの土地の独立を守る戦いが誤りだったと考えたためではなく、土地の同胞たちを飢え死にさせないための最終的な選択として、やむなく国家への帰服を選んだものに見えるのである。そのような帰服の場合、たとえ自身は一陣の夢と散ったにしても、同胞たちの間には、みずからへの誇りと、独立の気概が、どこかに、いつまでも残るものなのである。」
「この投降には、田村麻呂の方からのさそいかけもあったことであろう。しかし、もはや対等の戦いができなくなっていることは事実であったろうし、たとえ田夷というよりは山夷というべき生活をしていたとしても、うち続く戦乱のために生活の疲弊にはおびただしいものがあったであろう。意欲の点でも、この延暦二十年までくれば、終息することなく数年ごとに征軍を送ってくる敵に対して、果てしなく戦いを続ける気力は、もはや相当に乏しくなってきていたことだろう。そして、...田村麻呂をはじめとした陸奥国の為政者が、夷俘の誇りを尊重し、その生活の維持の配慮をしてくれるものであれば、あえて戦う必要はもはやないと思えてくるであろう。こうしてアテルイらは降伏してくるのである。」

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2013年1月 4日

情報131 ミュージカル「アテルイ 北の耀星」始まる

 8月8日、秋田県田沢湖町のわらび劇場で始まった。わらび座創立50周年を記念しての上演。当日は水沢市から100人の観劇ツアーが訪れるなど約700人の観客で劇場が埋め尽された。今後一年間、わらび劇場で上演した後、来年9月から岩手、宮城で公演、平成15年4月から全国公演となる。初演に先立つシンポジウム「アテルイと現代」は、作家の高橋克彦氏、岩手県の増田知事、河北新報社の一力一夫会長の3人がパネリストとなり、赤坂憲雄東北芸術工科大学教授の進行で行われた。

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2013年1月 4日

情報130 新種のトビムシ発見、その名はアテルイ

 茨城大学名誉教授で土壌動物の研究を続ける田村浩志さんが、胆沢町内の焼石岳のブナ林で新種のトビムシ3種を発見、同大学の研究報告誌『自然誌』に論文を発表した。頭部に5本の剛毛が生えているムラサキトビムシ属の「アテルイムラサキトビムシ」は、その身体形状が他のものと際立って違っていて非常にいかつい姿をしているのが特徴。この地方の英雄・アテルイにちなみ名付けたという。

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2013年1月 4日

情報129 『東北学』4号(作品社)

 東北芸術工科大学東北文化研究センターの発行(1999年10月創刊)。本号の特集は南北論の視座で、責任編集者赤坂憲雄氏の工藤雅樹福島大学教授へのインタビュー「蝦夷の古代史」が掲載されている。工藤氏の古代蝦夷の社会は部族制社会、英雄時代でもあるという説に関連して、赤坂氏は「ピエール・クラストルというフランスの人類学者が『国家に抗する社会』という本の中で、富が蓄積され権力が生まれ、やがて族長が王に転化して国家ができるというマルクス主義的な歴史発展説に対して、部族社会の族長と国家を支配する王との間には大きな裂け目があると論じています。むしろ部族制社会のある段階には、国家や王という異質な権力を生むことに抵抗する社会の状態が見られるといいます。工藤さんは時に、古代蝦夷の社会を「国家を作ることを挫折させられた」という表現を使われていますが、それはひょっとしたら国家や王という権力を拒んだ社会なのかもしれませんね。」

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2013年1月 4日

情報127 アニメーション映画「アテルイ」(仮題)の製作

 6月11日、同映画製作を支援する水沢地区推進委員会(会長:新田清二水沢商工会議所会頭)が行政、市民団体など38団体の参加により発足した。6月29日には、盛岡市において同映画製作上映運動推進県民の会(代表委員:水沢市長、岩手日報社社長、県商工会連合会会長、県PTA連合会会長、県商工会議所連合会会長、JA県五連会長)が発足した。名誉会長は増田岩手県知事。アニメ「アテルイ」は、シネマとうほくなど民間三社が製作する35㍉カラー作品(80分)で来年6月の完成を目指している。製作費約一億円のうち6500万円の支援を目標に協賛金の募集や鑑賞券を兼ねた製作協力券(一枚千円)3万枚の販売に全県規模の運動を繰り広げていく。映画は、岩手県内全市町村、さらに全国での自主上映も計画されている。

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2013年1月 4日

情報126 たつみや章『天地のはざま』(講談社)

 『月神の統べる森で』『地の掟 月のまなざし』に続くシリーズ第3弾。縄文のムラ(オサの名前がアテルイ)とそれを征服しようとする弥生のクニ、神話的構想で描かれたファンタジー作品であるが、物語はついに戦いに突入した。児童文学のジヤンルに入っているが、大人が読んでも興味深く、想像力豊かな世界に引き込まれる。つぎが最終巻だという。

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2013年1月 4日

情報125 「アテルイの里」観光ガイド

 アテルイの里観光協議会は、三種類の胆江地区観光ガイドを発行した。高齢者・女性向けの「アテルイの里」、小中学生向けの「遠足ガイドブック」、一般旅行者向けの「古代東北日高見国へ」で、それぞれのガイドで"古代東北の英雄・アテルイ"を紹介している。なかでも一般旅行者向けのガイドは、「東の夷の中に、日高見国あり。土地沃壌えて曂し。撃ちて取りつべし。」の『日本書紀』からの引用に説明が始まり、次ページには高橋克彦氏の「アテルイの怒り」と題する文が載っている。
「アテルイはただ襲い来る朝廷軍に対して歯向かったのではない。差別する人間の心に向けて剣を突き付けたのだ。だからこそ勝たねばならない。勝てぬまでも、その訴えはきちんと伝えなければならない。...アテルイは決して過去の英雄ではない。私たち東北に生きる者たちの心の中に今もある根本的な問題だ。我々は今もアテルイとおなじところに立たされている。」...心に響く。

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2013年1月 4日

情報124 特集:インターネット・ホームページ(古いのも含む)から

【1】 競走馬アテルイ http://www.rnac.ne.jp/^eclipsc/race1998/race0405.htm
1998年4月5日、第1回水沢競馬2日目に出走したアテルイ(アラブ系牝4才)。同年9月には、はるか佐賀県の第12回佐賀競馬に。12月の第17回佐賀競馬2日目の第2レースでは5着という成績。その後は消息不明。いま何処に...。
【2】 ひのきみ通信第6号 http://member.nifty.ne.jp/hinokimi/html/97/006.htm 
 千葉県の教員関係団体の発行物か?。1997年11月に自民党が提出した「適正な教科書検定を求める意見書案」を採択した千葉県議会を批判、歴史教科書問題をとりあげている。その中で、意見書に賛成する船橋の中学校教師のアピールを紹介している。「現在使っている教科書は恐ろしいことに韓国で使っても受け入れられるもの。教科書通り教えれば...古代では坂上田村麻呂ではなく、反乱者のアテルイを英雄視し、朝鮮出兵の豊臣秀吉は侵略者で、抵抗者のイ・スンマンを英雄視する。...こんな教科書は使いたくない。ぜひ直してほしい。」というもの。4、5年前のアピールではあるが、こんな先生はいまもいるのであろう。
【3】 ゲストブック:tsunekiyo より http://members.tripod.co.jp/bin/gb?member-name=tsunekiyo
 アテルイに関して  蝦夷(えみし)の族長として、大和朝廷と戦った人物。大和朝廷側の総大将は、征夷大将軍「坂上田村麻呂」である。西暦800年頃、長い戦いが繰り広げられ、田村麻呂もかなり苦戦した。そこで、和平交渉を結ぶことになり、蝦夷側の族長アテルイともう1名が代表として京の都に同行した。しかし、京の都ではその気はなく、だまし討ちのような形で、加茂の河原において斬首された。ところが、朝廷側は「たたり」を恐れその2名の魂を鎮めるため、清水寺に鎮魂碑を建立したという。そして、毎年天皇がその碑を詣でているらしい。...
 From:がじ  Date:Sun May 21 09:41:10 2000
【4】 達曽(たっそ)拓也の国会便りV2/7月第4週号  http://www.sphere.ad.jp/tasso/000718.htm
 「火怨」は、朝廷軍による蝦夷征伐に立ち向かったアテルイの戦いを描いたものです。私は今回の総選挙、特に岩手県における選挙戦を「西暦2000年のアテルイの戦い」と呼んだところ、マスコミにも大いに取り上げられました。朝廷が派遣する大軍を次々にうち負かし、蝦夷の独立、そして何より蝦夷の心を守り抜いたアテルイとその同志たち。「改革の政治」の理想と、その理想にかける岩手県民の心を守り抜こうとする、自由党岩手県連の戦いに重なるものでありました。アテルイは我々にとって「神」であります。NHK大河ドラマ「炎立つ」の最終回、藤原泰衡=経清が死を迎えようとするとき、安倍貞任、宗任らの霊がやってきて口々に「アテルイのもとへ行こう!」と言う泣けるシーンがありますが、みちのくに生まれた、あるいはみちのくに生きる我々にとって、「正しく生き、正しく死ねばアテルイのもとに行ける」。そのアテルイを活き活きと描ききった「火怨」は、我々にとってまさにバイブルであると言えましょう。また、そんな本が全国的にベストセラーになっているということは、日本全体がアテルイを求めているということではないでしょうか。
【5】 川村カ子トアイヌ記念館で学んだ【アイヌモシリ年表】http://www.jade.dti.ne.jp/^mount/ainu.moshiri.html
 600年ユカラ(叙事詩)形成される。788年延暦7年 桓武、五万の大軍を派遣するも、東北アイヌに敗北する
 (岩手県水沢市)。803年延暦22年 アテルイ父子、京都の帰りに大阪で虐殺される。1443年和人によるアイヌ・モシリへの移住始まる。
【6】 秋田市「土崎港曳山まつり」に阿弖流為 http://ishii.gadget.ne.jp/Maturi/h11pic/h1107.htm
 毎年7月20、21日に行われる土崎神明社祭の曳山まつりは、重要無形民俗文化財に指定されている。各町から、歴史上の事象に題材をとった人形を配した多数の曳き山車が出る。平成11年の祭りには25台が出ていて、統前加賀町の山車は「北上に夷将阿弖流為颯の猛攻」。解説には、「延暦八(789)年、桓武天皇は大規模な蝦夷征討計画を開始した。紀古佐美を征討将軍とする朝廷軍が北上川を渡ろうとした時、胆沢の族長・阿弖流為に率いられた蝦夷軍が奇襲攻撃をかけ、千人以上を溺死させたという。朝廷軍の大敗北であった。...」 山車の写真を見ると、アテルイの人形は上半身裸の半ズボン姿で、髭をはやし髪はぼうぼうで胸まで垂れ、白馬に乗った紀古佐美とは対照的である。これでは「悪役(鬼)?」かと思ったが、他の町の山車を見ると本能寺の変の「蘭丸」など、ほとんどの主役が阿弖流為の人形とほぼ同じ作りであった。どのような理由か?
【7】 日本人物総覧 http://www.bekkoame.ne.jp/ro/gi11496/00/0a-004.html
 ※(悪路王首像の写真) アテルイ [あてるい] ≪8世紀後半頃~802≫【別 称】 大墓阿弖利為(おおつかのあてりえ。『続日本紀』)。【肩書き・職業】 蝦夷の長。【出自・系譜関係】 奥州胆沢地方(現・岩手県)を拠点とする。系譜関係不明。【履歴・事績】 大化改新以来、奥州支配を推進する大和朝廷側に反発する先住民とみられる。延暦七(788)年、奥州へ赴任していた征夷大使兼将軍・紀古佐美(きのこさみ)ら5万2千の兵を迎え討つ為、同胞・盤具公母礼(いわれのきみもれ)ら荒吐一族と共に北上川流域でこれを敗退せしめる。これに対し、紀ら征夷軍は新たに4千人を奇襲兵として胆沢に派遣したが、これも死傷者を3千人以上も出した上、無残に全滅させられている。...
【8】 BEAUTY RIDING 南部馬:古代編   http://www.hi-net.ne.jp/tjouba/btr3-1.htm
 紀古佐美に始まり坂上田村麻呂らに及ぶ再三の蝦夷征伐は、単に「まつろわぬ夷狄」を鎮圧し領地を拡大することだけが目的ではなく、南部駒の略奪は重要な任務であった。当時西国の馬は貧弱で、乗用ならともかく挽用としてはほとんど役に立たなかった。貴族の乗り物として、平安時代に至ってなお牛車しかなかったのもそのためだ。...延暦8年、紀古佐美を大将に胆沢地方(岩手県中部)の討伐に向かった総勢4000人の部隊は、戦死25人、水死1036人、行方不明1600人余と全滅に近い惨敗を喫した。この戦は、蝦夷軍を追って北上川で立ち往生していた討伐軍に対し、折りからの大雨で水かさの増した川を蝦夷軍が渡河して反撃に出たものだ。騎馬隊が川を泳いで渡るなど想像だにしなかった討伐軍は、戦わずしてパニックに陥り敗走を余儀なくされた。この戦いに限らず、野山を風のように駆け巡る蝦夷軍の騎馬隊は、常に討伐軍を攪乱し奇襲した。そこで、力で蝦夷を討つことの難しさを悟った大和朝廷は、懐柔策に切り替える。...
【9】 蝦夷によって継承された鉄器文化 http://202.211.8.173/SATOK/data/sigaku.html
 蕨手刀は、5世紀末に既に製造されている。789年の紀古佐美軍と戦った阿弖流為が使っていた。...鉄を造るための材料...磁鉄鉱、赤鉄鉱、褐鉄鉱、砂鉄の4種類。破砕を必要としない「餅鉄」。粒状の磁鉄鉱。岩手は以上の4種が豊富に存在していた。...東磐井郡の蕨手刀は、餅鉄を使用した形跡が大。和賀郡のは砂鉄。...阿弖流為の製鉄と蕨手刀つくりについて。●石井昌国氏:蕨手刀は奈良時代後期を中心にして、奈良時代前期から平安時代初期にわたって、短期間につくられたもの。特に胆沢と和賀が拠点。現在鹿児島や徳島まで180刀発見されているが、岩手が57刀。阿弖流為のはいとうは66cmぐらいあった、という。
【10】 みちのくの鬼は、エンジニアであった!?  Http://202.211.8.173/SATOK/pr/ezo/ezo.html
 人の倫を信じ平安京へ旅立った蝦夷(エミシ)の雄アテルイも、幻想を感じた詩人だったのではないだろうか。アテルイ、大墓公阿弖流為は、774年から38年間続いた蝦夷征討戦争で、前沢・衣川付近でひと頃は約10万の田村麻呂率いる朝廷軍の侵入を抑えた。それ以前にも、紀古佐美率いる約5万朝廷軍をわずか千数百の兵で打ち破り、遁走を余儀なくした。そんな日本を二分した日高見(北上)の戦場が、この地、一関から始まっていた。...雲霞のような大軍が、水陸万頃の地、胆沢平野へとなだれこんできた。しかし胆沢の巨星、アテルイはひるまなかった。5cm鉄鏃矢の強弓をひき、チームワークのよいゲリラ戦で、大軍を翻弄した。鬼のアテルイ達は、日本刀の原型になった蕨手刀の量産技術をもっていた。平和な地になぜこのような武具等の製造プラントが存在したのであろう。憶測では、朝廷とも交易していた渤海と独自に交易し、技術立国しており、採鉱、燃料調達、製鉄、出羽や津軽を通じた物流、また抜群の人的管理技術が存在していたと思う。
【11】 金田一温泉郷 http://www.shokokai.com/iwateken/news/no147/p7.html
「江戸時代には南部藩指定の湯治場であり「侍の湯」とも呼ばれていた金田一温泉(二戸市)は、さらに溯れば千年以上の歴史を持ち、蝦夷の首長アテルイが湯浴みしたのに始まるといわれています。」二戸は、弘仁2年の文屋綿麻呂による閉伊・爾薩平征討時の蝦夷首領伊加古の本拠地であろうといわれる(『角川日本地名大辞典』)。二戸市仁左平地内には伊加古塚と呼ばれる古い塚もある。どうせなら、「アテルイ」というより、「蝦夷の首長イカコが湯浴みしたのに始まる」としたほうがいいのでは...。
【12】 米澤牛一人芝居『アテルイの首』2000改訂版 http://www2u.biglobe.ne.jp/^set/gekihyou/76605224609375.html 
 『アテルイの首』は今回で三度目。同じ物語を、同じ役者が演じてこれほど変化するものかと、つくづく感じる作品である。三作見てきて、今回が一番、芝居として良くまとまり、かつエネルギッシュで、構造的にも複層的で豊かな芝居であったと思う。...なんと言っても前二作と大きく変り、この芝居自体の方向性さえ変えたのが、ラストの展開である。...今回は、エゾの麻呂が辛くも悪露を切り倒し、真のアテルイを探して旅に出る、それを見送るイタコのババが、「エゾの麻呂よ何処まで行ったんだ...。何処までも走って行けよ。お前のアテルイ様は見つかったか?」と語りかける。また、史実上でアテルイとされ降伏し、京都で首を切られた男の首を鞄から取り出し語りかけるシーンも良かった。「お前がこんなになって、エゾとヤマトを結びつけたが、そのかわり、エゾもヤマトも何かを失ったな?」この一言で前二作と今回の『アテルイの首』は全く別物になったように思う。否、前二回で語れなかった部分が、まとまりこなれてくることで、やっと表面に出てきたと言うべきか。...[2000年9月26日23時34分33秒]
【13】 アテルイ・ドット・コム  http://www.aterui.com/aterui.html
スタッフの平均年齢が弱冠25歳というベンチャー企業。インターネット事業のトータルプロデュース等を事業とする。水沢市に事務所を置き、設立から1周年を迎えた本年4月には株式会社となった。その会社名の由来をホームページに記載している。アテルイの生涯に関する概要を載せた後に、「私は、自分が暮らすこの地を誇りに思います。もっと若いころは、自分が田舎者であることに強烈なコンプレックスを感じていました。しかし、今は違います。インターネットとの衝撃的な出会いから数年...社会は間違いなくネット化の道を歩んでおり、この素晴らしいツールを使えば、この地で暮らしながらでも、世界を相手に対等に渡り合えると確信しております。そんな思いから、『アテルイ』の名前とネット時代の象徴である『ドットコム』を融合させて『アテルイ・ドット・コム』という会社名になったのです。」若い人たちが、素晴らしい気概をもって新しい事業を立ち上げ、会社名には「アテルイ」の名前を使用するということ、ようやくアテルイが次代に受け入れられつつあり、その芽が見え始めたと言っていいのかもしれない。

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2013年1月 4日

情報123 21世紀いわてへの提言【4】

 平成13年4月18日付『岩手日報』が、えみし学会会長柴田弘武さん(千葉県在住)の「脱中央の歴史教育を」という提言を大きく取り上げた。えみし学会は設立されて今年で十年、事務局は盛岡市にあり、毎年、岩手県内の各地で文化ゼミナールを開催している。...朝廷派遣軍にゲリラ戦で挑んだ阿弖流為を顕彰する動きが活発化している。ということについて、柴田さんは―――
「蝦夷や阿弖流為のことを堂々と顕彰できる時代がきたということは岩手にとって何よりも喜ばしいことだと思う。征服者の側からではなく、もともとその土地に暮していた側から見た歴史に県民が目を開く好機だ。中央からみれば征伐したとなるが、岩手の側からみれば阿弖流為は侵略者に対して郷土防衛のために戦ったというまったく違う歴史になるわけです。ちょうど、来年は没後千二百年。意識のうえで、自立回復元年と位置づけたい。」巣伏古戦場の石碑=江刺市愛宕の写真も大きく掲載されている。

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2013年1月 4日

情報122 いわて学講座でアテルイ

 岩手県が東京の銀座に開設した〔いわて銀河プラザ〕では、毎月いわて学講座が開催されている。平成13年3月11日には、「闇に封じ込まれた真実~悲劇の英雄アテルイ~」と題して、延暦八年の会会長の佐藤秀昭氏が講話をした。岩手県東京事務所の佐藤観光課長は、「賢治、啄木ならともかくアテルイは知名度不足だろうと内心はらはらしたが、定員を上回る聴講があった」とコメントしている。

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2013年1月 4日

情報121 東京に縄文研究会誕生

 アテルイ、蝦夷(えみし)を通じて縄文文化を見直そう、との呼びかけで動き出した。2月20日の勉強会には約50人が参加し、えみし学会の柴田弘武会長を講師に蝦夷の歴史等について学んだ。研究会を呼びかけた一人の宮古市出身の弁護士、西垣内堅佑さんは「アテルイ、蝦夷の歴史、縄文に対する人々の関心はかなり高い。来年はアテルイ没後千二百年でもあり、首都圏から岩手にエールを送りたい」と語っている。第2回研究会は、太田龍氏を講師に「縄文の正しいとらえ方」を主題として3月に開催された。資料の講演要旨の中には、「アテルイが日本原住民の指導者、という説(八切止夫)の誤謬。」とある。また、第2回研究会の案内文には、太田氏の講演趣旨の一部が紹介されており、「アテルイ・モレは、縄文系日本原住民どころではなかった、韃靼人系日本侵略の首魁。国難第二波は同韃靼人系の元寇襲来である。」としている。【平成13年2月28日付『岩手日報』夕刊より】

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2013年1月 4日

情報120 アテルイのイメージキャラクター決定

 アテルイの肖像をモチーフとしたイメージキャラクターの入選作品が決定した。応募者95人、応募作品161点の中から選定された。製作者は愛知県立芸術大学4年生の小谷圭史さん。アテルイという英雄にふさわしい威厳と風格、力強さを出すため、四角の中に、アテルイの顔の目、口、髭の特徴的な部分を生かしてデザインした、とのこと。選考理由は、【1】「アテルイが見つめている」という意味付けができる。【2】シンプルな中に強烈な力強さがあり、その斬新さがひときわ目立ち、印象的である。【3】デザインの力点を片方の目に集中しているため、いやおうなく人の目をひきつける。【4】印象的な目が、喜んでいるように、怒っているように、悲しそうに、楽しそうにも、見る者の心の状態に応じて投影し、アテルイの生涯や地域の歴史を象徴すると理解できる。【5】地域と人々の暮しを過去、未来にわたって見つめている印象を与え、「アテルイの里づくり」のイメージを象徴する。【6】本事業のほか、多様なキャンペーンで活用できる拡張性を備えている。というもの。応募作品のほとんどは、顔もしくは体全体を描いたものであったが、最も抽象化された異色ともいえる作品に決まった。アテルイの肖像との関係から考える時、イメージキャラクターといってもむずかしく、ベターな選択だったとも言える。
 なお、キャッチフレーズには、応募者209人、応募作品482点の中から、北九州市の江島昭雄さん(74歳)の作品『見なおそう古代 見つめよう次代』が選ばれた。選考理由は、【1】胆江地方の歴史と文化を見つめ直し、広域的な地域づくりを目指す「アテルイの里づくり」の事業目的を的確に表現している。【2】イメージキャラクター「アテルイが見つめている」とイメージ上の整合性をとることが出来る。というもの。

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2013年1月 4日

情報 アテルイ没後1200年記念事業実行委員会設立

 平成13年4月24日、水沢市役所において設立総会が開かれた。これまでの準備委員会から発展させたものである。構成団体は以下のとおりで、会長には後藤晨水沢市長、副会長には佐藤秀昭アテルイの里地域づくりネットワーク会長、小沢賢胆江青年懇話会会長が選出された。市民団体:アテルイを顕彰する会、延暦八年の会、アテルイの里地域づくりネットワーク、NPO北上川中流域エコミュージアム推進会議、アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会、アテルイ歴史の里振興会、胆江芸術文化振興協会、胆江青年懇話会、八幡地区明るいふるさとづくり推進協議会、水沢市羽田地区振興会(今後、この他にも広く民間団体等の参加を呼びかける)観光団体:アテルイの里観光振興協議会、アテルイの里温泉協議会商工団体:水沢商工会議所、江刺商工会議所、金ヶ崎町商工会、前沢町商工会、胆沢商工会、衣川商工会、広域商工業振興協議会農業団体:岩手ふるさと農業協同組合、江刺市農業協同組合、行政機関:水沢地方振興局、胆江地区広域行政組合、水沢市、江刺市、金ヶ崎町、前沢町、胆沢町、衣川村、行政機関等:水沢教育事務所、水沢市教育委員会、江刺市教育委員会、金ヶ崎町教育委員会、前沢町教育委員会、胆沢町教育委員会、衣川村教育委員会、水沢市文化振興財団。
平成13年度事業計画の第一は、開幕行事としてアテルイ特別記念講演会とアテルイのイメージキャラクター、キャッチフレーズ入選作品発表等を中心としたイベントの開催。第二に、全国へ情報発信する事業宣伝としてPRポスター等の作製、わらび座「アテルイ」公演と提携したアテルイビールのラベル作製等。第三に、プレ事業の開催として「アテルイ関連遺跡市民発掘事業」があげられている。この発掘事業は、「延暦八年巣伏の戦いの再現を主テーマに、史実に現れた「東山」の解明」を目指すというもので、水沢市の羽黒山を調査対象としている。すでに発掘に関係する諸団体の第1回準備会議がもたれており、当会、延暦八年の会、水沢市羽田地区振興会の主催、水沢市埋蔵文化財調査センター、出羽神社、羽田公民館の協力で9月21~25日の予定で発掘を実施することが確認されている。

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2013年1月 4日

情報119 特集・昨年の新聞から(2000.1~2000.12)

【1】「1200年目の真実~アテルイの素顔~」 (胆江日日新聞 平成12年1月1日)
 元旦号の特別紙面半分に掲載された。アテルイ没後千二百年記念に向けてさまざまなイベントや企画の準備が始められていることから、アテルイの実像に迫った。アテルイは国史に「夷」や「賊」として扱われているが、それは「異人種」や「盗賊」を意味していたのではないこと。アテルイの処刑は「正規の処刑ではない」こと。また、伝説の悪路王とアテルイの関係などについて取り上げている。   
【2】 佐島直三郎 「アテルイ巡礼【4】」 (胆江日日新聞 1月4日)
 15回の連載で、アテルイの墓所の問題などについてふれているが、それよりも強調されているのが、アテルイとともに降伏した「モレの内応」ということである。第4回、10回、12回、15回と四度も言及している。すなわち、延暦八年の戦いにおいて朝廷軍が「いとも簡単に北上川を渡った」ことから、「水際作戦、橋頭堡でたたくのが最上の作戦ではなかったかと思うのであるが、それがいとも、川の流れを凌いで渡ったということは、水際作戦がなかった、或いはモレが行動を起こしていない、恐らく朝廷側から誘われ内応したのではなかったかと観られるのである。」等というのである。アテルイの戦いを描いた長尾誠夫の「蝦夷大乱」(『時代小説』№22、1993年)は「モレの内応」をストーリーに含んでいたが、小説ならまだしも、郷土史家の新見解というには根拠も薄く、理解に苦しむところである。
【3】「いわて21世紀への遺産~古代・中世を歩く~」(岩手日報 1月4日)
 「遺跡は語る・旧石器~古墳時代」に続く「奈良~安土桃山時代」の第1回。悪路王首像の大きなカラー写真を掲載し、奈良時代概観として水沢市埋蔵文化財調査センターの伊藤博幸氏が「蝦夷研究の現状と課題」について説明している。悪路王首像の写真説明に、「極彩色。首像は左右に割れたものをかすがいで止める。頭頂部のまげも端部を欠損。首像そのものの分析調査が必要である。江戸時代の作」。
【4】 久慈吉野右衛門「田村麻呂 阿弖流為」(岩手日報 1月17日)
 岩手日報の時評「日進」欄。久慈氏は岩手日報社会長。この欄では、1981年11月16日の「「西高東低」に思う」でもアテルイにふれている。
【5】 劇詞作家・可能あらた 「アテルイはなぜ戦ったか?」 (教育新聞 2月3日)
教育新聞 「円卓」 欄。延暦八年、「この時アテルイは一万数千人の村人を砦に匿い、千五百人の戦士とともに征東将軍・紀古佐美の率いる五万の朝廷軍と北上川を挟んで対峙し、その精鋭六千と戦った」。 一万数千人の村人を砦に匿った? 
【6】 後藤晨市長に聞く(岩手日報 2月6日)
 1月の水沢市長選に勝ち、3期目にあたってのインタビュー。「アテルイの志」で市勢発展を、の見出し。最後にリーダー論を聞かれて、「水沢にゆかりのアテルイは、時の政府からみれば反逆者でしょうが、私たちにとっては地域の幸福を第一に考え、住民を守った英雄です。私も行政のトップとしてアテルイのような高い志を持ち、市政のかじ取りにあたりたいと考えています。」
【7】「作家高橋克彦 故郷東北への誇り回復」 (日本経済新聞 3月19日)
 「創る アングル」の欄で紹介された。『火怨』で吉川英治文学賞を受賞し、多くの新聞にとりあげられたが、同新聞は『火怨』を「東北を舞台に、先住民・蝦夷(えみし)の若きリーダー、阿弖流為(アテルイ)が朝廷軍を迎え撃つ戦いを描いた長編。東北各地に残る伝承を拾い、歴史上、反逆者とされてきた阿弖流為に、誇りに満ちた武将という新しい像を与えた。」と評価し、「東北にとって、阿弖流為は精神的なよりどころに成りうる人物。いつか思いのたけを書いてみたかった」という克彦氏の言葉を紹介している。
【8】「新たな顔を得たアテルイ」(岩手日報夕刊 4月1日)
 「ニュース最前線」として水沢支局の神田由紀記者が大きくとりあげた。アテルイの肖像発表についてはどの新聞も記事としているが、肖像の基となった悪路王首像と黒石寺薬師如来坐像の写真を示して詳しく解説、さらに新野直吉秋田県立博物館長の「まゆを上げ、まなじりを決して戦いに赴くようだ。兵農分離のない時代、指導者は攻められたときは先頭に立って戦ったが、普段はもっとゆったりした顔だろう」とのコメント、作家高橋克彦氏の「抱くイメージはリーダーとしてのりりしさ。肖像は優しくて力持ちという印象で厳しい一面が伝わりにくい。大人より子どもがアテルイを理解し、あこがれるようであってほしいので、もう少し少年ぽくてもいいのでは。」という意見も紹介している。神田記者は、「新しい肖像は「蝦夷が鬼や獣などでない」ことをはっきり伝えている。ただ、時間的な制約があったにしろ、もう少し歴史的視点からじっくり議論したかった。」
【9】「河北春秋」欄 (河北新報 5月2日)
吉川英治文学賞を受賞した『火怨』にたいする井上ひさし氏の「人間の誇りは理不尽さに立ち向かうことという主題が全編を貫く。壮大な叙事詩の誕生だ。」という激賞する言葉を紹介した後、次のように続ける。「▼ただ、残念なのは英雄叙事詩の主人公には「顔」がないことだ。これまでは伝説上の人物悪路王の首像(茨城県・鹿島神宮所蔵)を阿弖流為の顔としてきたが、同一人物かどうかは定かではない。英雄がどんな面構えだったか、自由な想像が許されよう。▼岩手県水沢地方振興局がコンピュータグラフィックス技術で画像化した阿弖流為の顔は、ヒゲ面ながら穏やかだ(本紙三月二十五日付とうほく面)。仏像の顔を合わせたのだという。憤怒をためた悪路王首像は捨て難いが、悪相の気を消し去り英雄の雰囲気が漂う結構な出来栄えだ▼こうした熱心さは、東北人としての阿弖流為に対する誇りと尊敬の念から発するものだろう。」
【10】 書評欄「こどもの本 中学生向け」(読売新聞 5月4日)
 評者の永井悦重氏が、歴史ファンタジー『日高見戦記』の書評で、この作品が意識したと考えられる本として、次のように書いている。「ここ数年、中学生に読み継がれている本の中に、萩原規子の「勾玉」三部作(徳間書店)がある。日本の古代史に取材したファンタジーで、歴史小説ではないが、作者の歴史観は当然作品に反映されている。三部作完結編の「薄紅天女」に登場する坂上田村麻呂やアテルイの描き方については、出版当時から批判的意見もあるのだが、もっと本格的な論争が望まれるところである。」主人公は、武蔵国足立郡郡司の息子と蝦夷の巫女チキサニの間に生まれた阿高。アテルイについては人物紹介に、「倭人に抵抗する蝦夷の首領の一人。阿高をチキサニの生まれ変わりとして連れてくる。そして、チキサニとして、倭人と戦うことを強要する」とある。
【11】「天頂儀」欄(岩手日日新聞 7月4日)
 阿弖流為に関する国史の史料からは本当の人物像までうかがい知ることはできない。としたうえで次のように続ける。「▼肖像になると、なおさら。これまでは、鹿島神宮(茨城)所蔵の「悪路王首像」のいかめしい顔つきが、ややもすると、阿弖流為の顔と信じられてきた。しかし、今春、水沢地方振興局と地元の歴史研究グループらによって作製された肖像は、この首像と、胆沢の地に残る最も古い仏像である黒石寺の薬師如来坐像を"融合"させた▼この坐像は、阿弖流為が死んでから、六十年後に作製されたといわれ、「蝦夷の面影を残す」という薬師如来としてはまれな表情。ひげを蓄えた新しい肖像は、威風堂々とした感じを受ける。古代の英雄がよみがえり、その顔を見たら、何と言うだろう。「似て る」か、「違うぞ」か。夢はまた広がった。」
【12】「洛中のエミシたち・上」(胆江日日新聞 7月20日)
 胆江日々新聞社が企画したアテルイと田村麻呂に出会う京都ツアーの同行取材報告。片埜神社隣の牧野公園には「アテルイとモレの首を納めたと伝えられる首塚」がある。「...小さな石碑だ。身長も高く筋骨隆々だったと思われるアテルイらには似つかわしくない、小さくかわいらしささえ感じる」との感想。
 宇山東公園の近くは「アテルイとモレ斬首の地と伝えられる」が、「すでに住居が立ち並び調査は不可能という。」とのこと。
【13】 坂野勝雄「寄稿 逆説の歴(郷土)史2 アテルイ」(胆江日日新聞 7月24日)
 大墓公についての考察。大墓公をどう読むべきかということで、「胆沢町南都田字塚田にある『大墓(おおつか)前方後円墳』を比定とみて考えてはどうだろう」という。角塚古墳のこと。また、「墳墓が立派であればあるほど...盗掘防止策として大墓公(墓守)を置いたと考えられる。大墓公は国家的支配機構に属し、アテルイの家柄ではかなり以前から代々「大墓公姓」を継承されていたのではなかろうか。」という。墓守?。
【14】「9月9日あてるい祭」(胆江日日新聞 8月30日)
いわて生協水沢支部が、「いわて生協あてるい祭」を水沢市武道館で開くとの案内記事。「あてるい」に特段の関係なし。
【15】 県高校総合文化祭開会式・史劇で郷土をアピール(胆江日日新聞 9月30日)
水沢市を主会場に開催され、市文化会館では岩谷堂高校演劇部員が胆江地方の歴史を演劇に仕立て、三つの時代の歴史上の人物をとりあげて発表した。最初に演じたのが「東北地方の民が"えみし"と呼ばれた時代に生きた英雄アテルイ」。
【16】「北上で鬼学講座」(岩手日日新聞 9月25日)
 北上市立「鬼の館」では毎年「鬼学講座」を開設していて、24日には福島県立博物館の高橋富雄館長が「文献から見た日高見の国」をテーマに講演を行った。「十月の次回講座では、アテルイの城跡がある福島県などを訪ねる移動研修が予定されている。」とのこと。福島県になぜアテルイの城跡があるのか?。
【17】 すもうクラブ「アテルイ部屋」(胆江日日新聞 10月9日)
 第26回水沢市スポーツまつりが8日に開催され、市営相撲場で開かれたチビッコ相撲大会には市内の常盤、真城小学校から約20人が参加した。常盤小学校の相撲クラブの名前が「アテルイ部屋」。
【18】「水沢・あてるい委員会が寄附」(胆江日日新聞 8月9日)
 水沢市社会福祉協議会に、福祉まつりでのフリーマーケットの売上金20,060円と水沢局管内で回収した書き損じはがきから交換した2,685枚の未使用はがきを寄附した。「あてるい委員会」は水沢市内の各郵便局長で組織されている。
【19】「時針」欄(胆江日日新聞 11月27日)
 「...▼過日、北上湖畔の「道の駅」に出かけ、店内で川を背景に立っているアテルイ像にお目にかかった。白木彫りのその全身像は1㍍はあろうか。右手に弓を携え、左の肩に袋を担ぎ、その姿はふと、因幡(いなば)の白兎を助けた大国主命を連想させた。なかなかの美男子である▼一見、優しく映るアテルイ像は、蝦夷(えみし)の長。まなじりを上げ、その眼には哀愁をたたえている。それは蝦夷の民たちを思う憂いでもあろう▼アテルイの実像はない、と聞く。従って作品を手掛ける人たちはそれぞれの感性をアテルイに打ち込み、趣を異にしてかえっておもしろいかもしれない。この穏やかなアテルイを作者はどんなイメージを膨らませて彫り上げたのだろう。頭髪をきっちりと結い上げ、その髪の毛、垂らしたひげの一本一本を糸のごとく丹念に彫り、まさに「ひたむきさ」を地で行き、「ばか」になりきっている。その心意気が伝わってきた...」

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2013年1月 4日

情報118 漫画『 阿弖流為Ⅱ世 』(小学館)単行本になる

昨年『GOTTA(ガッタ)』に連載され、第1部が終了した高橋克彦原作・原哲夫漫画の「阿弖流為Ⅱ世」が早くも単行本になって発売された。ただし、奥付には全1巻とあり、第2部はなさそうである。第1部もストーリー自体充分に展開しつくしたとはいえないまま終わっており、残念な結果となった。

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2013年1月 4日

情報117 タウン情報誌『 ダ・ダ・スコ 』第54号にアテルイ特集

延暦八年の会会長で当会副会長の佐藤秀昭氏と水沢市埋蔵文化財調査センター副所長で当会幹事の伊藤博幸氏による対談「恩讐を越えてアテルイと田村麻呂」、それに「阿弖流為の郷・探訪」が特集されている。対談では、胆沢の戦いやアテルイの降伏などについて興味深い内容が語られている。探訪では、古代国家とエミシ社会、律令国家にエミシ反乱、大勝利した巣伏の戦い、胆沢城造営エミシ帰順という内容が多くの写真とともに読みやすく工夫されている。『ダ・ダ・スコ』は北上市を本拠とする岩手県南半部のタウン情報誌。420円。

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2013年1月 4日

情報116 アテルイのイメージキャラクター募集

アテルイ没後1200年記念事業準備委員会は、全国に発信する本格的な事業の展開に向け「アテルイの肖像」をモチーフとしたイメージキャラクターを募集した。採用作品はポスターやチラシなどで使用されるほか、賞金として25万円が贈られる。応募者は県内だけでなく、北海道、首都圏、中国地方、応募者の年代も職業もさまざま。2月20日の締切りまでに95人から161点が集まる予想以上の反響があった。作品の内容も、かわいいマンガ調、劇画調、CGを駆使した立体画などさまざまなタイプのキャラクターがそろった。いずれの作品も水準が高く、むずかしい選考になりそうだが、3月下旬に入選作品が決まる。
 また、同時に募集した記念事業の周知をはかるキャッチフレーズ(入選1点5万円、佳作5点1万円)には、209人から482点の応募があった。これも3月下旬に決定し、発表される。なお、これに先立ち水沢地方振興局は同振興局だより「アテルイの里」第5号(特集:アテルイ没後1200年記念事業)を胆江地域全世帯に配布し、事業の説明とキャッチフレーズ等の募集についての告知をおこなった。

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2013年1月 4日

情報115 工藤雅樹著『古代蝦夷の英雄時代』(新日本新書)

蝦夷社会はどのような社会だったのかということを主題としている。第4章4の「阿弖流為と胆沢の蝦夷」では、政府軍と蝦夷側との武力対決の経過にふれたうえで、「胆沢の蝦夷社会」について言及している。以下、抜粋して紹介する。
「胆沢の蝦夷社会はたび重なる数万規模の政府軍を相手に、その攻撃を一歩も退くことがなく戦う実力を具えていた。そして阿弖流為や母礼の指導力は、単一の、あるいはごく少数の集落を超えた広い範囲に及んでいたのである。このようなまとまりを生み出した背後には、七世紀の後半以来展開してきた、安定した農耕生活があったことは容易に推測できるであろう。」
「しかしながら胆沢の蝦夷勢力は政府側との関係も含めて、決して孤立した存在ではなかった。そのことを端的に物語るものが阿弖流為も母礼もそれぞれ大墓公、磐具公というカバネを有していることである。先にも述べたように、公というカバネは政府側がそれぞれの地域の蝦夷の族長に与えたものである。...阿弖流為や母礼もある時期には大墓公、磐具公というカバネを与えられるほどに、政府側と良好な関係にあった時期もあったのだが、胆沢地方の蝦夷に反政府的な面が強く出てきたときにそのカバネが剥奪されたのであろう。...そして阿弖流為や母礼が政府側に降り、その処置が未定の段階で大墓公、磐具公というカバネが復活したのであろう。」

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2013年1月 4日

情報114 アテルイ出前講座

昨年10月に設立されたアテルイ没後1200年記念 古代から新発見「アテルイの里」づくり事業準備委員会(会長・村田行夫水沢市助役)は、没後1200年記念に向けた気運づくりとしてアテルイをより知ってもらうための講座を設置し、胆江管内で10人以上の集まりであれば要請に応じどこへでも無料で講師を派遣するというユニークな事業を実施した(3月まで)。
 平成12年11月17日の初回は、胆沢町愛宕公民館高齢者大学の35人が受講した。講師は延暦八年の会に委託しており、現在までさまざまな集まりに28回(水沢市12、江刺市7、胆沢町5、金ヶ崎町3、衣川村1)の講座を出前している。なお、出前講座の参加者に配布する資料として、A4判8ページのリーフレット「古代からの新発見 アテルイの里」も作製された。アテルイの登場と最期に関する史料のほか、アテルイの時代、古代胆江のリーダーたち、アテルイの里の伝説について、それに歴史マップと略年表がコンパクトに構成されている。

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2013年1月 4日

情報 劇団わらび座アテルイを舞台化

秋田県田沢湖町に本拠を置く劇団わらび座の創立50周年記念作品として、高橋克彦著『火怨~北の耀星アテルイ』を原作とする「アテルイ」がミュージカルとして舞台化されることになった。脚本はNHKの大河ドラマ「天と地と」をはじめ多数の有名作品を手がけている杉山義法氏、演出は中村哮夫氏。
「ミュージカル・北の耀星アテルイ」は、本年(平成13年)8月8日から来年1月2日までたざわこ芸術村のわらび劇場で公演の後、アテルイ没後千二百年にあたる平成14年の記念事業に合わせて水沢市で全国公演のスタートを切る予定になっている。すでに前売り券も発売されている。一般が2,500円(当日3,000円)、小・中学生が1,700円(当日2,000円)。
たざわこ芸術村には年間30万人が訪れているという。アテルイ没後千二百年記念事業準備委員会では、たざわこ芸術村で作っている地ビールにアテルイのラベルを作製、アテルイ・ビールとして販売、宣伝してもらうことも計画している。アテルイを全国に発信する準備は着実に進んでいる。アテルイを顕彰する会がどのような事業を行うのか、注目されることになろう。

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2013年1月 4日

情報113 たつみや章『地の掟 月のまなざし』(講談社)

第37回(1999年度)の野間児童文芸賞を受賞した『月神の統べる森で』に続く連作第2弾。縄文のムラを征服しようとする新来の弥生のクニ、そこに起る憎悪と争い、理解と友情の芽生えを描く長編古代ファンタジー。それぞれの社会の命運をにぎる二人の少年を主人公としているものの、縄文のムラの若き長であるアテルイが物語の最重要人物として始めから最後まで登場している。「日本人の文化的基層であると信じている縄文という文明に、みなさんの学究心を引き寄せたいという思い」が、この物語を書き始めた作者の動機という。

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2013年1月 4日

情報112 羽黒山アテルイの郷を訪ね地域の英雄アテルイを知る会

平成12年11月21日、水沢市の羽田振興会により開催された。同会は平成七年より「地域の英雄アテルイの郷」づくりに取り組み、講演会等を行ってきた。本年はそれをさらに一歩進めるものとして「訪ね知る会」が企画された。当日は、アテルイ軍の本陣があったのでは...、とも考えられている羽黒山頂上から周辺を踏査、その後会場を羽田公民館に移して水沢市埋蔵文化財調査センター伊藤博幸副所長、当会及川洵副会長のアテルイに関する講話を聴講した。同会は、【1】「アテルイの郷」についての看板と広告塔の設置、【2】羽黒山の発掘調査を当面の目標としている。

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2013年1月 4日

情報111 京都清水寺でアテルイとモレの法要

平成12年11月18日、清水寺境内にあるアテルイの顕彰碑前で行われた。北天会(関西アテルイ顕彰会、高橋敏男会長)が主催したもので、関西岩手県人会、京都岩手県人会のほか一般参詣者ら約五十人が参列した。今回の法要は、碑建立七年目と清水寺の本尊開帳の年とも重なることから開帳記念として行われた。森清範貫主ら二人の僧侶が読経するなか、参列者が焼香し、古代の英雄を慰霊した。【11月19日付『岩手日報』より】 

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2013年1月 4日

情報110 工藤雅樹著『古代蝦夷』(吉川弘文館)

アテルイに関連しては、日本最北の前方後円墳である角塚古墳等にふれて、「後にこの地に政府軍をもっとも悩ませた阿弖流為らに率いられた蝦夷勢力が出現し、また胆沢城が造営されるのもこの点と関係するのであろう」と述べている。アテルイの名前に関しては、「大墓君阿弖利為」「大墓公」と二通りの読みをしている。また、「公」の姓を有していることからすると、「一時は政府側に属していたことがあるのであろう。」「政府側との接触によって公という姓を与えられ、地域の族長としての地位を公認され、保証されていたこともあったのである。」としている。著者によると、蝦夷社会は部族制社会の最終段階としての部族同盟の域に達しようとしていた。「古代国家が決定的に成立する以前に、共同体成員の先頭に立って戦う英雄の姿は、...胆沢地方の蝦夷を率いて坂上田村麻呂と対決した阿弖流為や母礼...などに見ることができる。彼らもまた部族成員の先頭に立って行動する存在であり、英雄時代の英雄であった。」「もし部族同盟段階から更に一歩を進めることができれば、蝦夷社会にも古代国家が誕生し、...そうなれば阿弖流為のような軍事首長の後継者は国王に転化していたであろう。」という。  

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2013年1月 4日

情報109 日高見大戦ほか戦没者慰霊祭

平成12年8月28日、「縄文戦士 アテルイ・モレ1198年祭」にちなんだ慰霊祭が大阪府枚方市にある片埜神社わきの牧野公園で行われた。東京にある縄文アテルイ・モレの会(西垣内堅佑代表)が毎年開催しているもので、今回で6回目となる。牧野公園内には「首塚」と伝承されている場所があり、アテルイとモレの墓ではないかとも推測されている。当日は、東京から参加した会員や関西岩手県人会の会員ら二十人が出席し、神事でアテルイとモレを慰霊した。 【 8月29日付「岩手日報」記事より 】

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2013年1月 4日

情報108 アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭

平成12年8月15日、江刺市南町の多聞寺で開かれた。アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会(岩崎景助会長)が主催したもので、今年で6回目となる。追悼の辞、「開祭の詩」朗読、献灯・献杯、祝詞奉上・玉串奉奠のあと、鹿踊りが奉納され、最後に「閉祭の詩」朗読をもって閉会した。

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2013年1月 4日

情報107 アテルイの肖像入りペン立て

アテルイの肖像が入った鋳物のペン立てが製作された(左側)。水沢市の㈱岩手鋳機工業が水沢地方振興局にアテルイの肖像の使用許可を求め、快諾を受けて完成した。ペン立ては、縦8cm、横9.5cm、厚さ4cmで、ペンを立てる部分が傾斜し、短くなった鉛筆も立てられるよう工夫されている。一個1,350円(税別)とのこと。

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2013年1月 4日

情報106 月刊『男の隠れ家』平成12年9月号にアテルイ

特集「未知の国みちのく、伝説と秘湯の旅」のなかで、「みちのくの聖地、英雄伝説にひたる」として、出羽三山とアテルイが取り上げられた。「十万の朝廷軍と戦っても守ろうとした蝦夷の英雄阿弖流為の心とは...」と題したページ(カラー6頁)では、東和町の丹内山神社に鎮座する巨石を「蝦夷たちの神、アラハバキ神のご神体」として大きく紹介、次に悪路王首像と巣伏の戦いの跡地の写真を入れて戦いの経過等を説明、最後に達谷窟毘沙門堂の写真とともに悪路王伝説にふれている。また、高橋克彦氏が語る「阿弖流為の時代、東北は最も輝いていた」も、2ページにわたって掲載されている。

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2013年1月 4日

情報105 熊谷達也著『まほろばの疾風』(集英社)

「蝦夷の長、アテルイ。朝廷軍の将、坂上田村麻呂。古代東北を駆け抜けた両雄の新しい物語。新田次郎文学賞作家が放つ書き下ろし歴史巨編。」という触れこみ。イサワの村長の息子で村を捨て大和に走ったアザマロがアテルイの父、桃生城を襲ったウクツハウはアテルイが生まれ育ったトイメム村の村長の息子で母の弟、そしてモレはイワイ村の大巫女で女村長という意外な人物設定。
 アテルイが14歳の時、村が大和の軍勢の焼き討ちにあう。アテルイは桃生城に連行され俘囚としての生活を強いられるが、やがては反乱を起こしイサワの長になる父アザマロと合流。蝦夷の国の建国を目指したアザマロの死後、イサワの長として大和の軍と戦うというストーリー。
 この小説のアテルイは、敵将を直接襲い威嚇して取り引きするのがかなり得意である。新田柵まで軍勢を進めた百済王俊哲の寝所を襲って喉元に刃を付きつけ、撤退の密約をさせ、延暦八年には多賀城に入った紀古佐美の寝所に女装して入りこみ小刀を喉仏に突きつけ取り引きをもちかける。最後には、桓武天皇から直接の許しを得るが、突然桓武を襲って羽交い締めにし、自ら首を切られることを選ぶ。

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2013年1月 4日

情報104 武光誠著『日本地図から歴史を読む方法➁』(河出書房新社)

第四章「彼らは、なぜその地で時の権力に反逆したのか」の最初の項、「蝦夷の首長の反乱と坂上田村麻呂の東北経営」にアテルイが取り上げられている。著者(明治学院大学教授)の説によると、「阿弖流為がすぐれた武将であったことは確かである、しかし、彼らは蝦夷対日本といった形の民族の対立で動いたのではなく、地方官の悪政に反抗して立ったのである」という。「ゆえに、善政にこころがければ、蝦夷はおのずと朝廷に従うことになった」と。また、延暦21年にアテルイは五百余人を率いて降伏したが、「このとき阿弖流為に従った兵士は、田村麻呂のはからいで帰農を許された。」という。著者は日本古代史を専攻と紹介にあり、著書も多数あるが、どのような史料と研究からそこまで言い切るのであろうか。

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2013年1月 4日

情報103 IBC岩手放送『火怨~高橋克彦の世界~』

6月4日、同局制作のテレビ番組「いわて大陸」の時間帯で放映された。第34回吉川英治文学賞の授賞式の模様から始まり、パーティ会場では渡部昇一氏から「いい意味で地方発信の素晴らしい小説」という評価があった。番組では『火怨』の中心場面を、河北新報掲載の挿絵を入れたドラマ構成にして紹介、さらに、戦いの舞台となった胆沢の現地から延暦八年の会の佐藤秀昭会長が解説した。受賞した高橋克彦氏は、「千年以上も前に一個の人間として、対等に、朝廷の強大な波に対峙した人がいたということを書きたかった」と語り、「アテルイは人間としての誇りを守るために戦ったのだ」とあらためて強調していた。

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2013年1月 4日

情報102 NHK教育テレビ『蝦夷の首長・アテルイ』

平成12年5月17日の午後11時30分から12時まで、教育セミナー「歴史でみる日本」で放映された。副題は~朝廷の北方政策~。「攻め入る朝廷軍に対して果敢に戦った蝦夷の首長アテルイを中心に平安初期の朝廷による東北遠征を考える」というもの。東京都立大学の服藤早苗講師が多賀城政庁跡から伊治城跡、胆沢城跡、志和城跡と史蹟を実際に辿りながら、三十八年戦争の経緯を簡潔に説明。特に、延暦八年の巣伏の戦いに始まるアテルイと朝廷軍の攻防については、「アテルイの本拠地に建てられた物見櫓」「アテルイの根拠地と考えられている跡呂井の地」なども現地で紹介、研究成果を踏まえた解説が適切に加えられた番組となっていた。

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2013年1月 4日

情報 月刊コミック誌に超伝奇SF『阿弖流為Ⅱ世』

 月刊コミック誌『GOTTA(ガッタ)』(小学館発行)の平成12年8月号から、直木賞を受賞した高橋克彦氏の原作による『阿弖流為Ⅱ世』の連載がはじまった。作画は代表作『北斗の拳』などの熱筆で知られる原哲夫氏。ストーリーは千二百年の時を経て現代に蘇った阿弖流為が、人類を滅ぼそうとする破壊神の末裔たちと戦うというもの。第1話は、「時代は今を遡ること1200年余り― まだ大和に都がありし頃、陸の奥に蝦夷という自由の民がいた。ある時、その陸奥に"黄金の龍"見つかりて帝、これを欲せんと蝦夷を"鬼"と蔑み討伐を命ず。時同じくして、蝦夷に英雄豪傑が現れ頭領となりこれに抵抗。二十余年の長きにわたり朝廷の大軍を退けたが、坂上田村麻呂の軍勢の前についに凄絶なる投降の時来たれり。その誇り高き蝦夷の頭領の名は――阿弖流為――」と、格調の高い出だしでスタートした。
アテルイについては、中学の教科書などにも取り上げられるようになっているものの、全国的にはまだまだ知られていない。そのなかで、子供向け漫画の全国誌にアテルイが登場したことは、これからの若い人たちに広く知ってもらえるということであり、大きな意味がある。読者からの反響も大きく、アテルイについてのさまざまな質問がGOTTA編集部に届いているとのこと。10月号には緊急企画<阿弖流為Ⅱ世はこうして生まれた!>の第1回として「実在した東北の英雄アテルイ!」のコーナーが漫画とは別に3ページにわたって組まれた。「東北の生んだ最大にして最高の英雄、それが阿弖流為である。」に始まり、アテルイの戦いと降伏までを紹介、最後は「阿弖流為の英雄伝説は、今も東北地方に語り伝えられ、蝦夷の心を熱く燃やし続けているのだ。」で文章は終わる。まさに絶賛、アテルイこそニューヒーローである。はたして漫画「阿弖流為Ⅱ世」の影響はどのようなものであろうか。

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2013年1月 4日

情報101 高橋克彦著『火怨』に第34回吉川英治文学賞

アテルイの生涯を描いた『火怨』が栄えある受賞に輝いた。同じくアテルイを描いた澤田ふじ子の長編歴史小説『陸奥甲冑記』が昭和57年に第三回吉川英治新人賞に選ばれて、以来18年、アテルイに対する関心と注目の度合いが大きく変化しつつあることを感じる。高橋氏は、「主人公の阿弖流為は東北では著名ながら、私のいだいている彼への共感がどこまで全国に通用するかと思っていた。私の作品だけでなく、蝦夷が認められたようでうれしい」と受賞の喜びを語っている。

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2013年1月 4日

情報100 安達徹著『東北人の原像~私の蝦夷について~』(一粒社)

第二章< エミシの英雄時代 第二次抵抗 >に「勇将アテルイ」の戦いなどが取り上げられている。著者は「悪路王という名にされたアテルイの伝説に、庶民の無念さがにじみでていて心のひかれる思いがする」という。また、アテルイの本拠・水沢市から『化外』(教化、順化の外のもの。化外の民とは"まつろわぬ"者どもを意味する)という詩誌を発行(1973~)していた詩人仲間との交流のエピソードなども、ずいぶん前からアテルイの末裔をひそかに自負していた人達がいたことが知られて興味深い。

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2013年1月 4日

情報98 宮野英夫著『えみし風聞 ~史書の余白から 』(熊谷印刷)

本書は「歴史小説と歴史入門の中間に位置するジャンルに挑戦」したものであるという。後半の「日高見五流 阿弖流為・外伝」「征旗を北に 紀朝臣古佐美・外伝」「怨霊の都 坂上田村麻呂・外伝」がアテルイに関わる内容になっている。著者は『日本紀略』などの記事を分析して歴史的推理を行う一方、ユニークな視点から自在に叙述を進めており、随所に興味深い内容がみられる。ただ、疑問となる部分もあり、以下、「今までの歴史家が誰一人として言及していなかった」(序文)という内容のひとつを取り上げておく。
 それは、『日本紀略』の「延暦二十一年四月十五日と七月十日の条、言うなれば阿弖流為と直接に関わりのある時に限って、田村麻呂の肩書から全ての官位が外されて<造陸奥国胆沢城使>だけになる」ことに着眼した分析である。これは単なる偶然ではなく何かの作為が働いていると見て、その理由を、アテルイを処断した「天皇の背信」を公にしないため、「助命の約束は造陸奥国胆沢城使の<口約>であって、朝廷の<公約>ではない、と言うための伏線を用意した」のではないか等というのである。『朝日新聞』の書評(4月8日)もこの推理を第一に取り上げて紹介している。しかし、著者は四月十五日条について、原本である『日本後紀』から抜粋された『日本紀略』の同記事だけを見て、『類聚国史』の同日条のほうは見ていないようである。それには、「造陸奥国胆沢城使陸奥出羽按察使従三位坂上大宿祢田村麻呂...(以下『紀略』の記事と同じ)」とあって、『紀略』の記事が田村麻呂の官位などを省略(下線部)して記載しただけであることがわかるのである。また、『紀略』に「大墓公阿弖利為」とあるのを、「阿弖流為の誤記と考えて間違いありません。」と簡単に断定しているのも、いかがかと思われる。

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2013年1月 4日

情報97 豊田有恒著『古代英雄七人の謎』(東京書籍)

ヤマトタケル、継体天皇、聖徳太子、推古天皇、天武天皇、長屋王と続き、最後に「悪路王」が取り上げられている。「アテルイこそ、まさに郷土の英雄だった。大和の侵略者を撃退した民族的指導者だった。だが、時が下るにつれて、坂上田村麻呂が神聖化されるのとまるで反比例するかのように、アテルイはとうとう盗賊や鬼という域にまで貶められてしまった。伝説の悪路王こそ、変形され歪曲されたアテルイの成れの果てということになる。」(文中より)
 これまで、アテルイが登場する歴史小説(『陸奥の対決』1976年)なども書いている著者は、「はじめて悪路王の看板を達谷窟で目にしたときは、言いしれぬ義憤を覚えたものである」と振り返り、だが、一昔まえと比べると事態は改善されていると、現況を次のように紹介している。
 「水沢市には、「アテルイを顕彰する会」がある。また、関係者の運動で、京都清水寺の境内に、アテルイの顕彰碑が建立された。清水寺が、坂上田村麻呂が開基した名刹だからである。悪路王という盗賊や、はては異形の鬼とまで貶められた郷土の英雄は、はるか時の流れを越えて、ようやく人権を回復されつつあるのだ。」

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2013年1月 4日

情報96 岡村 青「悪路王とは何者~蝦夷王国と神格化した悪路王~」

昨年(平成11年)9月に発行された『常総の歴史』第23号に掲載されている。岡村氏は同8月発行『謎解き祭りの古代史を歩く』(彩流社)にも、「常陸の国・祭りの地勢図~蝦夷征伐に協力しながら「悪路王」を称える不思議~」との題で、茨城県鹿嶋市鹿島神宮所蔵の「悪路王首像」ではなく、同県東茨城郡桂村高久の鹿島神社に祀られているもうひとつの「悪路王首像」(写真)を紹介している。
 桂村は水戸市と栃木県宇都宮市を結ぶ国道123号線を北西に約20キロ進んだ途中にある。岡村氏によると桂村では「アテルイを神として崇めるだけでなく、「虫干し祭り」と称して毎年旧暦七月十日には祭礼まで催している。しかも地元民はアテルイのことを「悪路王様」と敬称し、決して粗末に扱ってはいないのだ。」という。この桂村の首像は、「悪路王頭形」(神社の案内板では「悪路王面形彫刻」)と呼ばれているもので、有名になった鹿島神宮の「悪路王首像」より以前にアテルイとの関係で知られていたのであるが、取り上げられることも少なく、その後は鹿島神宮の「首像」の陰に隠れてしまっていたのであった。悪路王の伝説にもとづいて作られた"首像"が、確かにふたつは現存しているのである。
この桂村の「頭形」を最初に取上げたのは、相沢史郎著『<ウラ>の文化』(1976)であったろう。相沢氏は同書の「東国に葬られたアテルイの首」という項で、「悪路王頭形」の写真とともに次のように紹介しているのである。「高久の鹿島神社縁起によると、延暦年間に田村麻呂が北征の折り、下野達谷窟 (平泉の南方にも、達谷窟と呼ばれる悪路王の住居がある)で悪路王を誅し、この地にその首を納めたとある。現在の首級の高さは50センチメートルほどで、最初はミイラだったといわれる」。
 その後に調査に訪れた三木日出夫氏も、「桂村郷土誌によると、延暦年間、坂上田村麻呂が北征の折、下野達谷窟で賊将高丸(悪路王)を誅し、凱旋の途中、本社前の休塚に納めた。最初はミイラであったがこれを模型としたものといわれる。」と紹介している(1984.5『えみし』第5号「悪路王を追って」)。
この「頭形」については、水戸の徳川光圀が家来に命じて修理させた記録が残っている。「悪路王頭形久敗朽 今新彩飾 安坐常州高久村安塚之社中 元禄癸酉六年 源 光国」というものである。高久の鹿島神社の創建は天応一年(781)といい、かつては休塚(安塚)明神とも呼ばれていた。修理が行なわれたという元禄六年(1693)といえば、「首像」のほうが鹿島神宮に奉納された寛文四年(1664)から約30年後になるが、「頭形」はその時には「久敗朽」という状態であったというのであるから、もともとは「首像」より古いものと考えられよう。「頭形」はさらに132年後の文政8年(1825)にも八代藩主徳川斉脩によって修理が加えられるなど、手厚く庇護されてきたことが知られる。伝承では坂上田村麻呂に誅伐された悪路王であるが、その「頭形」は社宝となり、年に一度の祭礼の日には拝殿の前にお出ましになり、今も高久地区の人々の参拝を受けているのである。
 岡村氏は「首領として蝦夷の平和と秩序を守らんとして坂上田村麻呂と死闘を演じた。それであれば本来なら本拠地の東北地方でこそ高く評価されてよいはず。ところが実際はそうではなく、蝦夷征伐のための前線基地となった常陸国で評価され、悲劇の英雄としていまなお神格化されている。歴史の皮肉とはきさしくこのことではないか」と結んでいる。

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2013年1月 4日

情報95 『「アテルイの里」シンボルマーク・アンケート調査報告書』

昨年11月に実施された調査の結果が『報告書』として発表された。この調査は、胆江地区(水沢市、江刺市、胆沢町、金ヶ崎町、前沢町、衣川村)の小学生、中学生、高校生各100人、20代、30代、40代、50代、60代、70歳以上から各100人、胆江地区外に居住する100人、合計1000人(男性500人、女性500人)を対象として行われ、666人から回答があった。以下、集計結果の部分を中心に紹介する。
 1.アテルイの知名度について
  「あなたはアテルイについて知っていますか。」という問いにたいする回答。
A.少しは知っている 281[42.2%] B.名前だけは知っている 259[38.9%]
C.かなり知っている 64[ 9.6%] D.名前も聞いたことがない 62 [9.3%]
  アテルイについて「知っている」とした人は、合計で90.7% にのぼり、高い知名度となっている。
 2.「悪路王首像」の認識について
  「あなたは「悪路王首像」の写真をだれの顔だと思っていましたか。」という問いにたいする回答。
   A.アテルイの顔 174[26.2%] B.見たことがない 147[22.1%]
   C.アテルイ=悪路王の顔132[19.8%] D.だれだかわからなかった119[17.9%]
   E.悪路王の顔 93[14.0%]
  だれの顔かを特定した人は全体の60%であったが、「悪路王の顔」と正しく認識していた人は最も少なかった。
3.「悪路王首像」の印象について
 「あなたはこの「悪路王首像」を見てどのような印象をもちましたか。」(いくつでも可)という問にたいする回答数とその回収数に対する割合。
A.強そうだ404[60.7%]B.こわい337[50.6%]C.悪い人にみえる302[45.3%]
   D.英雄にふさわしい顔だ120[18.0%]E.気持ちが悪い114[17.1%]
F.かっこわるい94[14.1%]G.やさしそうだ25[3.8%]H.好い人にみえる23[3.5%]
   I.かっこいい18[2.7%]
  上位のA.B.C (61~45%)、中位のD.E.F(18~14%)、下位のG.H.I(4%以下)に大きく分かれた。このくくりは男女とも同じで、その中での順位の異動が一部にみられるだけである。男性でみると第2位に「悪い人にみえる」がきて、「こわい」が第3位になる。プラス印象の項目では「英雄にふさわしい顔だ」の第4位が最高で、「やさしそうだ」「好い人にみえる」「かっこいい」は下位を占めた。マイナス印象の項目では「こわい」「悪い人にみえる」が上位に入り、「気持ちが悪い」「かっこわるい」が中位になっている。
4.シンボルマークについて
 「あなたは「アテルイの里」のシンボルマークとして別紙のマークをどう思いますか。」という問にたいする回答。
  A.どちらともいえない258[38.7%] B.ふさわしい186[27.9%]
  C.ふさわしくない163[24.5%]  D.その他59[8.9%]
 「どちらともいえない」に「その他」を加えると約半数を占め、「ふさわしい」と「ふさわしくない」の差も僅少であった。

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2013年1月 4日

情報94 「アテルイの里」のシンボルマークに関するアンケート調査

水沢地方振興局は、平成元年より胆江地区を郷土の雄アテルイの名前にちなんで「アテルイの里」と名づけ、そのキャッチフレーズのもとに地域の活性化対策を進めてきた。そして、そのシンボルマークとしては茨城県鹿島神宮の「悪路王首像」を図案化したものを使用してきたのであった。しかし、アテルイの名前が広く知られていくなかで、とりわけ女性や子どもたちには「悪路王首像」が怖く見え、不評であるという声が聞こえはじめている。また、この首像がアテルイの顔そのものだと誤って認識されるなどの問題も出てきていた。アテルイ没後千二百年という大きな節目となる年(2002年)が近づいており、全国に発信する記念事業の展開にシンボルマークは重要な役目を担うことになることから、ここで再検討の必要性に迫られたものである。
 アンケートは、胆江地区の小学生、中学生、高校生各百人の計三百人。胆江地区の20歳代、30歳代、40歳代、50歳代、60歳代、70歳以上の各百人、計六百人。胆江地区外の百人、以上合計千人を対象(無作為抽出)として調査票が送られ、郵送で回収される。アンケートの内容は、【1】アテルイについて知っていますか、【2】「悪路王首像」はだれの顔だと思っていましたか、【3】「悪路王首像」を見てどのような印象をもちましたか、【4】現在のシンボルマークをどう思いますか、の設問に3~9項目のうちから選択してチェック印を記入するもの。この結果は、報告書にまとめられ、延暦八年の会と水沢地方振興局主催による平成11年12月11日開催のシンポジウム「アテルイと悪路王伝説」の資料としても配付される予定とのこと。

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2013年1月 4日

情報93 清水寺でアテルイとモレの法要

平成11年11月6日、北天会=関西アテルイ顕彰会(高橋敏男会長)主催によるアテルイ・モレの法要が京都・清水寺境内に建立(平成6年)された「北天の雄 阿弖流為 母禮之碑」の前で営まれた。当日は、水沢市から駆けつけた後藤晟市長、花山雅夫市議会議長とともに関西在住の会員ら約40人が参列した。清水寺の森清範貫主は、今年六月に水沢市で開催された文化講演会で講演するなど、交流が深められており、アテルイ没後千二百年に向けて手を携えた記念事業が実現されることを期待したい。
 なお、来年3月3日から12月3日まで、三十三年に一度という清水寺の本尊が開帳される。

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2013年1月 4日

情報92 小惑星に「Aterui(アテルイ)」の名前

水沢市の国立天文台(旧緯度観測所)百年を記念して全国から公募していた小惑星の名前が「Aterui」に決まった。通常、小惑星の命名は発見者に権利があり、発見した札幌市のアマチュア天文家渡辺和郎さんと円館金さんの承諾を得て国際小惑星センターに申請していたが、このほど正式に決定された。「Aterui」と名づけられた小惑星は、平成四年十月に北海道北見で二人が発見していた。小惑星のほとんどは、火星と木星の間(約三億km~五億km)にベルト状に分布している。大きくても直径一千km以下で、ほとんどは百km以下。発見されると、精密な位置観測を踏まえ一連の番号と固有の名前が与えられる。昨年六月までに八千九百八十九個の小惑星に登録番号がついているという。肉眼では見えないが、宇宙の彼方に小惑星「アテルイ」が輝く。

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2013年1月 4日

情報91 長編アニメ映画『蝦夷(えみし)の勇者~アテルイ~』(仮題)

製作に向けた準備が着々と進められている。計画を進めているのは、宮沢賢治作品の長編アニメも手掛けた㈱シネマとうほく(本社仙台市)。盛岡市出身の鳥居明夫社長は、「歴史を正しく伝えることは岩手の二十一世紀を担う子どもが地域に対して誇りを持つことにつながる。同時に二十一世紀は地方の時代。その『旗頭』としてアテルイの世界を岩手にとどまらず全国に発信したい」と、2001年夏の上映を目標にしている。製作費は約一億五千万円。このため同社が平成5年に宮沢賢治作品をアニメ化した「グスコーブドリの伝記」と同じく、広く協賛金を募るための全県的な製作実行委員会を年内にも組織し、県民運動として展開していく考えという。

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2013年1月 4日

情報90 CD-ROMマルチメディア『 鬼百科 』に悪路王

パソコンを使って鬼に関する伝説などさまざまな情報を見ることができる。北上市立「鬼の館」館長の門屋光昭・盛岡大学教授監修により、北上オフィスプラザが制作、CDには悪路王首像がデザインされている。悪路王はメインメニュー「鬼曼荼羅」(大人の世界)に収録されているほか、メインメニュー「鬼の原像」(鬼の伝説)の中にも悪路王伝説として収録され、「田村麻呂伝説と悪路王1」「田村麻呂伝説と悪路王2」「田村麻呂とアテルイ」「アテルイ終焉の地」の項目があって詳しい。その一部分をそのまま紹介する。「茨城県鹿嶋市の鹿島神宮には、田村麻呂が東北征伐に就く際に戦勝を祈願、無事任務を終えて感謝の念をこめて献納したといわれる「悪路王首像」があります。この像は、都で処刑されたアテルイや戦いで殺された蝦夷(えみし)の首長たちの象徴で、北をめざして飛んで来たともいわれています。鼻が高く、眉や目尻がつり上がり、技楽面の酔胡王に似た忿怒の容貌をしていて、伝説の鬼の強い怨念を感じさせます。悪路王という想像上の鬼ながら、髷を結うなど当時の蝦夷の姿をそのまま写したように実写的で、アテルイとしてのリアリティを感じさせる迫力満点の首像です。」

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2013年1月 4日

情報89 高橋克彦著『火怨~北の耀星アテルイ~』

平成9年1月から467回にわたって河北新報朝刊に連載され、単行本となることが待たれていたが、このほど講談社から上下2巻となって出版された。この小説は、下野新聞、苫小牧民報、長野日報、サンパウロ新聞、奈良新聞、東愛知新聞、千葉日報、大分合同新聞、岡山日々新聞、新潟日報の各紙に順次連載された。

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2013年1月 4日

情報88 三好京三「みちのくの鬼神 悪路王の正体」

宮沢賢治の詩「原体剣舞連」の中にも登場する悪路王は、平泉の達谷窟、姫待滝に残る伝説からは「弱者に対してむごい悪者たちの王」であった。この悪路王については二つの像があることが知られている。ひとつは茨城県鹿島神宮にあり、今では悪路王の顔の原型のごとくに認識されているものである。もうひとつは、同じ茨城県であるが桂村の鹿島神宮にあるものである。三好氏は「鹿島神宮の悪路王像は蛮勇の表情だが、(桂村の)鹿島神宮のものは幽鬼の如くだ。子女をかどわかし、悪行を働く悪路王の顔は、右の二つの像に見られるのである。」と指摘している。
 悪路王の正体ということでは、【1】「悪路王は伝説上の存在であり、実在とは言えない」。【2】しかし、「朝廷に反逆し、将軍田村麻呂によって征伐された蝦夷の王アテルイは実際にいた。そのため、悪路王はしばしばアテルイに擬される」。【3】伝説その他で悪路王が顔を出している場所をみると「坂上田村麻呂の征夷の道」にあたっており、「悪路王はやはり田村麻呂によって攻撃されて討たれ、あるいは降伏した アテルイ、モライ、その伝説的な存在ということになりそうである。」とする。最後は、「●王化に従おうとしない荒ぶる民●礼儀を解せぬ野蛮な民の最後の王として、悪路王は伝説として、アテルイは史実として残ったのである。...そして坂上田村麻呂にかかわる両エミシの王のゆるぎない共通性は、延暦二十年に、その命運を絶たれるところだ。やはり悪路王はアテルイだったのである。」と結んでいる。平成11年9月に発行された『歴史と旅』増刊号に掲載されている。

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2013年1月 4日

情報87 新版『岩手県の歴史』に「アテルイの世界」

山川出版社の新版県史シリーズの一つとして『岩手県の歴史』が平成11年8月に発刊された。故森嘉兵衛氏執筆の旧版『岩手県の歴史』が刊行 (1972年)されて四半世紀以上の歳月が経つなかで、4人の新執筆者により全面的に書き下ろしされたものである。
 第1章から3章までの原始・古代は伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)が担当、第2章は「エミシの世界」のタイトルで、その3には「アテルイの世界」という独立した項目がたてられている。
岩手県内では隠れたベストセラーであったといわれる旧版では、原始・古代の「2、東夷の開拓」に、「産金事始」、「坂上田村麻呂」以下の項目が続くが、征夷戦の経過が記述され田村麻呂の評価には及んでいるものの、一方の蝦夷側の指導者であるアテルイの名前はどこにも出てこなかった。
 また、旧版では「陸奥における現地人と官軍との衝突」「志和・胆沢の現地人と戦闘」など、最初の方では「蝦夷」ではなく「現地人」と記述されていて、疑問を生じさせていた。しかし、「...坂上田村麻呂の大弾圧が開始されたのである。それは政府軍からは開拓と称されたが、原住民にとっては弾圧であった。」とする著者(旧版)の基本認識にくもりはなく、「現地人」と記述するところの意味は蔑称たる「蝦夷」の名を最初から使用することによって始めから支配(征伐)されて然るべき対象と観念されることを危惧したことからする慎重な使い分けではなかったかと推測される。その点、始めから「エミシの世界」に主体をおいて叙述する新版の著者の立場はあまりに明確であり、四半世紀とはいえ時代の大きな進展というものを感ずる。
さて、新版の「アテルイの世界」の項目は、東北大戦争/アテルイとモレ/坂上田村麻呂とアテルイ/の小項目で構成され、約8ページにわたっている。/東北大戦争/では、国家によるエミシ政策(エミシの入朝を基本とする)の段階的展開とそれによるエミシ社会との緊張、エミシの抵抗、反乱へと到る過程が簡潔にまとめられている。/アテルイとモレ/では、二人のフルネームを大墓公阿弖利為、盤具公母礼と紹介したうえで、まず岩手県が古代史に登場してくる過程として呰麻呂の反乱までを述べる。それから、いよいよアテルイが登場する胆沢の合戦に移るが、ここで著者は面白い仕掛けを試みている。敵将坂上田村麻呂の年齢、地位と対比する形でアテルイの地位、年齢等をあえて仮定しながら叙述するのである。アテルイの生年はもちろん不明なのであるが著者は田村麻呂とそれほど歳の差がないと仮定、例えば延暦5(786)年の胆沢遠征の準備が始まるころ、「アテルイはエミシ戦士首長に成長しており、三〇代前半頃か。」とする。この項は、延暦8年に遠征軍が衣川に布陣するまでとなっているが、著者はその場所を胆沢平野が一望できる「胆沢川扇状地の最南端、東西方向に馬の背状に延びる高位段丘の一首坂面」であると比定している。/坂上田村麻呂とアテルイ/では、史上有名な延暦八年における胆沢の合戦の戦闘経過とアテルイ軍の勝利、第2回胆沢遠征と遠征軍の勝利、第3回遠征と胆沢城造営、アテルイとモレの降伏と続く。最後は、田村麻呂が二人に対して丁重に応対したようであるにかかわらず、「河内国椙山(杜山)」で斬刑に処されたことを記し、「初老のアテルイであったか。」と結んでいる。
 なお、新版の口絵には「悪路王首像」のカラー写真が掲載されていて、次のような説明がなされている。
「茨城県鹿島神宮の縁起に、坂上田村麻呂が「奥州征伐」に際し神社に加護を祈り、願が叶ったため帰路、賊の酋長の首を奉納したとある。同神宮の木製首像は江戸時代の作。「賊帥アテルイ」とイメージが重なるが元来は別。」

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2013年1月 4日

情報86 市民ミュージカル『北天の風・戯作アテルイ伝』

水沢市文化会館で開催される第8回水沢市民祭に、今年はアテルイをとりあげた創作ミュージカルが登場することになった。脚本・演出は盛岡市在住の加藤源広さん。劇団風紀委員会(盛岡市)の代表で、演出家、脚本家、演劇プロデューサーなどとして幅広く活躍している。「ストーリーは かつて都で位の高い貴族の娘だった百合姫の恋人となっていたアテルイ。姫を愛していた時の帝(みかど)は姫の取り戻しと、土地が豊かで黄金が眠る蝦夷の大地を手に入れるため大軍を進めると展開。征夷大将軍坂上田村麻呂とアテルイの間に生まれた友情、アテルイや蝦夷の人たちの心の豊かさなどを描く。」(胆江日々新聞より)主催者では、アテルイ、田村麻呂、モレ、桓武天皇など約百人の出演者を市民から公募し、九月十一日の初顔合わせから週二回程度、夜間を中心に約三十回のけい古を重ねて平成11年11月28日日の本番にのぞむという。

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2013年1月 4日

情報85 水沢地方振興局発行『アテルイの里タイムラビリンス』

胆江地域のトラベルガイド。タイムラビリンス(時間の迷宮)と銘打っているように、仮想の旅人が「アテルイの時代」「炎の時代」「偉人の時代」に分けて時代旅行をしながら歴史と文化を学び、観光地などを紹介する内容になっている。「アテルイの時代」が楽しく案内されている。左はその一部。

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2013年1月 4日

情報84 日高見大戦ほか戦没者慰霊祭が開催される

平成11年8月27日、〈侵略に抗して戦った日高見大戦ほか戦没者慰霊祭~縄文戦士アテルイ・モレ1197年祭~〉が大阪府枚方市の牧野公園で開催されました。「縄文 アテルイ・モレの会」が主催するもので、毎年枚方市片埜神社の岡田宮司さんにお願いして行なわれ、今年で第五回目になります。当日は北天会(関西アテルイ顕彰会)の高橋敏男会長らも合流し、約30人が出席して執り行なわれました。開催場所の牧野公園は、三月に「蝦夷の首長アテルイらのゆかりについて」と題する看板が設置された宇山東公園のすぐ近くにあります。そして、かつては片埜神社の社域にあったという牧野公園には「首塚」と呼ばれるところがあり、アテルイとモレが埋葬された場所ではないかとも推定されています。

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2013年1月 4日

情報83 阿部義平『蝦夷と倭人』(青木書店 1999年2月)

アテルイに触れた部分だけを抜き出して紹介します。
◆「岩手県胆沢町の角塚古墳は、北上川中流域の一扇状地に築かれた5世紀末期頃の前方後円墳である。...東北南部や北関東でもみられる帆立貝式の古墳で、それらの地域の大豪族層を後盾に、北上河谷に進出した首長層がおり、古墳のうちでは帆立貝式という格付けをされて、古墳築造や埴輪製作等のノウ・ハウを伴って開発拠点を定めたものであろう。...この地の後代の蝦夷の首長層として、大墓たも君と呼ばれる人がおり、それが古い大墓の存在を反映している可能性があり、対律令国家戦争の軍事指導者となっている点も面白い事実である。」
◆「この国力をかけた8世紀末の38年戦争といわれる大戦争は、按察使殺害に対する罰などとしてでなく、北方の北上川河谷中心に形成されていた古墳築造地帯の連合勢力を征服する明瞭な意図に統一されていったものである。蝦夷側の成長とそれに対する律令国家政策との基本的対立が読みとられなければならない。...延暦8年の北上川渡河作戦では、5万余の大軍が動員されながら戦闘では大敗した。そのときの蝦夷の軍事指導者は大墓君ママ阿弖利為あてるいであり、先にみた北上河谷の古墳築造階層の指導者となっていた。延暦20年に征夷大将軍の坂上田村麿は、大墓君ママ阿弖利為と磐具公母礼いわぐもれを降し、この賊首二人を都につれていったが、二人は斬首された。」

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2013年1月 4日

情報82 呰麻呂と阿弖流為は同一人物か?

水沢市埋蔵文化財調査センター所報『鎮守府胆沢城』第33号(平成10年2月16日発行)は、一年をふり返っての同センターを訪れた見学者の声を紹介している。そのなかには、「阿弖流為は田村麻呂にだまされた日本一の馬鹿武将だという話を昔聞いたことがあるが、本当だろうか。」(静岡・会社員)など、アテルイにふれたものがある(これには一応、「本当ではないだろう」と答えておく)。ほかに気になる内容として、宮城県の大学生からの「阿弖流為は伊治公呰麻呂と同一人物ではないだろうか。」という「声」が載っていた。平成元年(1989)、延暦八年の会主催で巣伏の戦い千二百年記念「アテルイとエミシ展」を開催したときに、宮城県から来られた方から「阿弖流為は呰麻呂と同一人物だ、本にも書いてあった。」と、強く同意を求められたことがある。河北新報社の一力会長も、高橋克彦氏との対談のなかで「呰麻呂が名を変えて阿弖流為になったという説もある」(平成9年4月18日付『河北新報』掲載)と述べていられた。はたして、そのような説はどこからするものであろうか。
呰麻呂とは、陸奥国上治郡の大領であった伊治公呰麻呂のことである。宝亀11年(780)3月、呰麻呂は伊治城(宮城県栗原郡築館町城生野地区)で叛乱を起こし、入城していた陸奥守兼鎮守府将軍の紀朝臣広純と牡鹿郡大領の道嶋大楯を殺害したうえ、国府多賀城にまで攻めのぼり、大量の武器などを掠奪して炎上させた。「夷俘」と侮蔑されてきたことからの怒りが原因としてあった。朝廷はただちに征討軍を差し向けたが、抵抗が激しく失地回復には数年を要したのである。しかし、叛乱のリーダーである呰麻呂が討たれたという記録はなく、呰麻呂自身のその後については全くわからない。以降、朝廷軍との対決には「賊の奥区」とされた胆沢の阿弖流為が大きく登場してくるのである。このようなことが「呰麻呂=阿弖流為」説が出てくる背景となるものであろう。
おそらく、呰麻呂は胆沢の阿弖流為に合流したのではないかと考えられるが、それを検証することはできない。ただし、阿弖流為が呰麻呂でないことは、降伏後の記録に呰麻呂の名前が出て来ないことにも明らかであろう。降伏した阿弖流為を見れば、呰麻呂であるかどうかは一目瞭然であるはずなのだから。
もうひとつ、「呰麻呂=阿弖流為」説には、二十数年前に河北新報紙上に連載された「ものがたり古代東北」(『蝦夷 ~古代東北の英雄たち~』1978年10月発行)の、文字どおりの「ものがたり」が投影されているように思われる。この連載は、「自由な推理や仮説を交えて」構成された内容になっていた。呰麻呂と阿弖流為にかかわる部分は次のような記述になっている。「北へ逃げた呰麻呂は-。百八十里の道を一気に突っ走って、二日後の三月二十八日(宝亀十一年)には胆沢の地にたどり着く。...呰麻呂はひとまず跡呂井(水沢市跡呂井付近)に落ち着き、腹心の大鳥広目を直ちに胆沢公のもとへ遣わした。首尾を報告するためであるが、広目はその翌日、意外な返事を持ち帰る。なんと、盟友関係を結んだ胆沢公は、ちょうど呰麻呂が伊治城で事を起こしたころに亡くなっていたのである。...使いの広目と一緒に、盤具公母礼ら胆沢連合の主だった族長たちが呰麻呂を訪ねて来た。「この後は、伊治公殿を統領と仰ぐように」。これが胆沢公の遺言だったというのである。...胆沢公の子はまだ幼く、適当な後継者がいない。彼は、自分の死によって胆沢連合の統一が崩れるのを恐れたのだろう。...新しいスター呰麻呂を中心に結束を固めて欲しい。それが胆沢公の願いだったのだ。...呰麻呂はようやく決意を固める。翌朝、彼は近くに陣を構えている母礼を訪ねた。「統領の役、お引き受けいたす。ただし条件が一つ。胆沢公を名乗らぬことをお許しいただきとう存ずる」。呰麻呂は自ら大墓公阿弖流為と名乗り、再出発することになった」。このようにして、「呰麻呂が阿弖流為と名を変えて胆沢連合の統領」に納まったというのである。この「ものがたり」においては、「史実との錯誤を避けるため、正史の記述を併記し、仮説や創作部分はその旨を断るという手法」を採っている。そして、以上の部分に関しては、「多賀城焼き討ち後、呰麻呂が胆沢の地へ逃げたこと、胆沢公が死亡して呰麻呂が新統率者・阿弖流為に"変身"したことなどは、いずれも創作。」との断りがついている。「阿弖流為=呰麻呂」説は、ものがたり上の創作に発しているようだ。

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2013年1月 4日

情報81 『~歴史と観光~みずさわ浪漫』にアテルイ

水沢の歴史と観光にふれる手引書としてあった『観光水沢』を全面改訂し、名称も『みずさわ浪漫』と変えて平成11年㋂に出版された。アテルイの名前は初版(1955年)から、改訂版(1964年)、以後最近の五版(1981年)まで主には「歴史」の部の「巣伏古戦場」の項に出ていましたが、今回の全面改訂版では「人物」の部にも初めてアテルイが単独でとりあげられました。以下、その全文を紹介します。なお、この項の執筆は当会の佐藤秀昭副会長が担当しました。
「アテルイ」この耳慣れない人物は、昭和62年10月17日、「北方の王者アテルイの会」が水沢で発足、平成元年11月17日から26日までの10日間、「延暦八年の会」が"巣伏の戦い1200年記念"の「アテルイとエミシ展」を開催した頃から、その名がこの地域で急速にクローズアップされてきた。やがてアテルイは、胆江地域おこしの象徴的な人物となってきたが、その人物像について実像を掌握することは困難である。陸奥のエミシ征伐に、大和朝廷の軍事力を最大に投入し、その王化に最も力を入れたのが桓武天皇であった。『続日本紀』延暦元年五月二十日の条に、「...陸奥国言。祈祷鹿嶋神。討撥凶賊...」とあって、昔から軍神として名高い常陸国一の宮(現在の茨城県鹿島町)に、まつろわぬ賊徒ときめつけたエミシ等の征討を祈っている。それから882年後、寛文4年(1664)に鹿嶋神社に納められた木彫首像がある。「悪路王首像」と名付けられたこの像のレプリカが、現在水沢市埋蔵文化財調査センターに展示されている。奉納した人物は、「奥州住水谷加兵衛尉 藤原満清」である。アテルイが歴史上に登場してくる875年後の年代であり、当然アテルイの顔など知り得るはずがなく、仮りに寛文年間まで何らかの根拠となるものが残されていたとしても、悪路王=アテルイとはならない。が、目下のところこの「悪路王首像」が、この地域のシンボライズされたアテルイの「代理」もしくは影武者でもあるかのような存在として、はためいているのである。どんな風貌、体躯のアテルイであったのかを、今は再現する手掛りすら無いのであるが、唯一アテルイという名の直接的な人物の存在を示すのが、三つの文献である。アテルイの名が初出されるのは、その記述が正確であるかどうかは別として、六国史の一つである『続日本紀』延暦八年(789)六月三日の条に、「...此至賊帥夷阿弖流為之居...」として初登場するのである。『続日本紀』は桓武天皇の側近といわれた藤原継縄、菅野真道らによって、延暦16年(797)に『日本書紀』を継いで、全40巻の完成をみたものとされている。次いで文献にアテルイの名が記されているのが、寛平4年(892)に編纂されたとする説の『類聚国史』である。これはもともと六国史といわれる『日本書記』『続日本紀』『日本後記』『続日本後記』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を種別、事項毎に分類し、編年体にしたものであり、菅原道真の編纂である。三つめの文献は、『日本紀略』である。この文献の成立年代や撰者は共に不祥であるが、アテルイやエミシに対する公卿たちの見方から、一方的ではあるが、アテルイの一面を彷彿させるものがある。この書にアテルイの名が出てくるのは、延暦21年(802)四月十五日の条からである。「...夷大墓公阿弖利為。盤具公母 禮等種類五百餘人降...」さらに七月十日には、「田村麿来。夷大墓公二人並従...」とあって、アテルイたちが田村麻呂の軍門に降って、田村麻呂に従って京へやって来たことが記されている。興味深いのはその後日、八月十三日の条である。意訳すれば、「アテルイとモレを斬った。この二人は奥地の賊の首領である。この二人を斬る時に、田村麻呂はこの二人を胆沢へ帰そうと云ったが、公卿たちが執拗に云うには、彼等は獣であるし、限りなくまた反抗してくることだろうから、この夷賊の大将をこのまま帰すことは、後日の禍根となる。だから斬った」というのである。この記述は、アテルイの容姿の問題などではなく、いかに当時の為政者にとって、アテルイの存在が脅威であったかということを物語っている。裏を反せば、時の朝廷は勿論のこと、田村麻呂にとってもアテルイがこの地域における軍政、民政の統括者として、偉大な存在感を有していたか、ということを認めたことにもなるのであろう。アテルイの出自については全く不明である。田村麻呂よりは若干年齢が多かったのではないかという推論もあり、とすると河内国(今の大阪の東部)で斬首されたのは、50歳前後であったのかもしれない。アテルイについての歴史書の記録は、おそらく『続日本紀』が最も古いものと思われるが、その初出では「賊帥夷阿弖流為」とあり、賊の大将、エミシのアテルイである。だが、『続日本紀』よりも編集は後であろう『日本紀略』や『類聚国史』の中のアテルイは、いずれも「夷大墓公阿弖利為」となっている。「夷」は付いているものの、「賊帥」が一転して「公」という姓を冠されている。これは降伏したと見る朝廷側の意によるものであろうか、知る由もないが、名についても「流」が「利」と記されている。その名の「流」と「利」について一つを取りあげてみても、朝廷から与えられた良字とする説や、夷語表記の漢字描写の差とする説などさまざまであり、アテルイの人物像については多くの謎が残されている。故に魅力的であるということができよう。ともあれ、六国史という大和朝廷の側の歴史書の中に名をとどめた「アテルイ」は、まぎれもなくこの地域の有能な統率者として、1200年前の古代の先人として、今、最も市民の熱い視線を浴びている人物であることに違いはないのである。〔水沢観光協会発行 千円〕

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2013年1月 4日

情報80 伊藤博幸「~蝦夷英雄時代~阿弖流為 」

宮城・秋田・岩手のタウン交流誌『すくらむぶる』第209号(1998.11~12)に「すくらむぶる偉人英雄伝 其の五 」として掲載されている。簡単に紹介すると、【1】七、八世紀にかけて蝦夷社会は急成長し安定した独自の社会を形成していた。【2】阿弖流為の村落では豊かな生産力を背景に戦士の専業化が進み、兵法もそれまでの蝦夷間抗争の経験から多くを学んで一定の発達をみせていた。【3】国家による蝦夷遠征問題に対して阿弖流為と母礼の村落は反国家の姿勢を明確にした。このような自立主義が抬頭するところに彼らの村落社会の真の成長が窺える。二人は各戦士団を代表する軍事首長でもあった。【4】蝦夷の命運を握って果敢に戦った阿弖流為と母礼、古代蝦夷の希望がひとえに二人が率いる蝦夷戦士に集約されたとき胆沢に英雄時代があった。【5】13年間の耐久戦の結果、
降伏することになったのはこれ以上戦い続けても蝦夷社会が破壊されるだけとの判断であろう。敗戦にもいろいろあり、むしろ敗戦の中から実を取る方法を選択したのである。

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2013年1月 4日

情報79 東和町に「モレの墓」?

岩手県東和町土沢のふるさと歴史資料館で、特別企画展「坂上田村麻呂展~エミシ・伝説・信仰~」が昨年(平成10年)11月3日から12月23日まで開催され、アテルイのコーナーも設置された。発行された企画展図録の「アテルイ伝説」のページには、悪路王首像等の写真とともに「東和町六本木のモレの墓」として左の写真(カラー)が掲載されている。ただし、ほかには何の説明もなく、どのような伝承に基づくものなのかもわからない。「モレの墓」があったとは初めて知ることであるが、発表された以上、現地に調査に行く必要があろうと考えている。

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2013年1月 4日

情報78 シンボジウム 古代東北日本の再発見

平成10年11月15日、盛岡市の岩手県高校教育会館大ホールにおいて開催された。㈱解放出版社他の主催で、人権教育のための国連10年・世界人権宣言50周年を記念するシンポジウム。
「偏見に満ちた「蝦夷」観を科学的に問い直し、北天の英雄、阿弖流為(あてるい)・母禮(もれ)をはじめとする人物像、そして陸奥・出羽の按察使、陸奥守・鎮守府将軍を兼ねた坂上田村麻呂の実像に迫る」試みで、整理券、配布のパンフレットには清水寺に建立された〈阿弖流為・母禮の碑〉の大きな写真が使用されている。
当日は、パネラーの上田正昭氏(京都大学名誉教授)が「エミシの視点から歴史を読み直す」、森清範氏(清水寺貫主)が「坂上田村麻呂とアテルイ、モレ、そして清水寺」、新野直吉氏(秋田大学名誉教授)が「勇者アテルイを見つめて」と題して講演し、その後に意見交換が行なわれた。会場は満員であった。

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2013年1月 4日

情報77 新野直吉著『ジュニア版古代東北史』(文献出版)

「征夷軍と阿弖流為」「田村麻呂と阿弖流為」の項目がたてられている。その中からひとつを紹介する。
新野氏は、アテルイとモレの二人のことを「二虜」と史籍に表記していることから、「初めから斬られても不思議のない捕虜だったのだと受け止める向きもあります。しかしそれは違うようです」と自説を述べている。
【1】.斬刑が相当の罪人なら陸奥の現地か、上洛しても都の東西市で処刑されたはずで、河内国で斬られたというのは正常な状態で斬られたのではない。【2】.田村麻呂は初めから捕えたり殺したりする気はなく、彼らに故郷で仲間の朝廷に帰一する気持の醸成に当たらせるべきだと主張していた。【3】.ところが公卿らの強引な説が通り、そこで初めて捕らえられ河内国で斬られた。それまでは二人は全く自由の身であった。というのである。 「「虜」の文字は罪人で捕虜になった者の意味ではなくて、「虜軍・虜将・虜酋・虜人」等という用法の、「昔時、北方民族に対する蔑称」などと辞典に書かれるような「蝦夷=えびす」の意味なのです。」と結んでいる。

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2013年1月 4日

情報76 日高見大戦ほか戦没者慰霊祭

平成10年8月29日、四回目の慰霊祭が大阪府枚方市の片埜神社で開かれた。同神社境内には「首塚」があり、アテルイとモレが処刑され埋められた場所ではないかという説がある。東京在住のジャーナリスト、弁護士、北天会(関西アテルイ顕彰会)などで実行委員会を組織して毎年慰霊祭を続けているという。アテルイを筆頭とするエミシたちを追悼した。

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2013年1月 2日

情報75 大武丸顕彰碑の建立

江刺市の梁川にはエミシ伝承として「大武(岳)丸伝説」が古くから語り伝えられ、「大岳」「武道坂」の関係する地名が残されている。蝦夷の首魁・悪路王は磐井郡の鬼死骸村で討たれ、その弟の大武丸と一子人首丸は栗原郡大武村に攻められたが逃れ、人首丸は大森山で、大武丸は野手崎(梁川)で討たれた。その最後の地を「大岳」と称した、という伝承である。梁川には、「大岳丸を顕彰する会」があるが、大岳丸顕彰碑建設実行委員会を結成して浄財を集め、碑を建立した。建立場所は梁川の武道坂、碑文は「伝古代エミシの将大武丸終焉の地」。碑は、高さ3.5㍍(台座を含めると4.5㍍)、幅3㍍、奥行2㍍の堂々たるもの。平成10年9月26日に除幕式が行なわれた。

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2013年1月 2日

情報74 佐藤秀昭・千坂げん峰 「延暦八年の「奇想天外な兵士」たち」

千坂峰責任編集『だまされるな東北人~『東日流外三郡誌』をめぐって~』(1998年7月発行、本の森) に収録されている。佐藤氏らが和田喜八郎氏を訪ねて見てきた「アテルイの首像」や、西暦802年にアテルイが五百余名を率いて降伏したときのうちの、「およそ三百五十ぐらいの兵士の名前を書いたもの」などについて話している。なお、本書では驚くべき事実も明らかにされている。すなわち、衣川村の「安倍一族の墓苑」に埋骨された和田氏から寄付された安倍頼時の「骨」と称するものが、鑑定を仰いだところ化石化した鯨の内耳の一部であることが判明したというのである。まさしく、だまされたのである。

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2013年1月 2日

情報73 角川書店『岩手県姓氏歴史人物大辞典』(1998.5)

「阿弖流為あてるい(?~八〇二)奈良末期から平安初期のエミシの首長。阿弖利為とも書く。延暦年間の一連のエミシ征討戦争で、胆沢のエミシの中心として最も頑強に抵抗した。延暦七年末に第一回征討が開始され、翌年四,〇〇〇余人の軍勢が北上川の渡河作戦を強行した際、一,五〇〇余人のエミシを縦横に指揮して奇襲を行い、征討軍の大半を戦闘不能にするという勝利を収めた(続日本紀)。しかし、その後の度重なる征討に抗しきれず、延暦二一年に盤具公母礼と共に配下のエミシ五,〇〇〇余人を率いて胆沢城建設に当たっていた坂上田村麻呂に降伏、平安京に上る。田村麻呂は阿弖流為らの助命を主張したが、政府はこれを容れず、河内国(大阪府)杜山で処刑された(続日本紀)。その本拠地については、大墓公たものきみ を大萬公の誤記として江刺市太田大万館にもとめ、あるいはアテルイの名を水沢市内の安土呂井に関連させる説などがある。」
1、このなかで、「配下のエミシ五,〇〇〇余人」とあるが、その人数については「五百余人」の誤り。
2、処刑地については「杜」山のほか、「椙」山説、「植」山説がある。
3、後半部分のアテルイらの降伏等について記しているのは『続日本紀』ではなく、『類聚国史』と『日本紀略』である。
4、「墓」を「萬」とする「大萬公」誤記説は、高橋富雄氏が20年ぐらい前から提唱(例えば、『岩手百科辞典』1978年、岩手放送)しているが、それを支持する研究者は今までのところ見当らない。高橋氏はエミシ研究の画期をなす『蝦夷』(1963年、吉川弘文館) において、「大墓」はタモと読み、水沢市内にある地名「田茂」からするものではないかとしていた。以来、本辞典でも採用しているように、有力な説となっていた。同氏の『古代蝦夷を考える』(1991年、吉川弘文館) では、大墓公を「たいものきみ」と訓じておいたうえで、「大萬(オオマ)公」誤記説を繰り返している。誤記でなければ、「大墓」はタモでなく、タイモと訓むということだったのか。本辞典では、高橋氏は「岩手の風土」を執筆している。その中で、氏はアテルイの姓の「大墓公」は、「巨大古墳」(胆沢の角塚古墳を指す)に連なる王者の義であろうとし、オオハカノキミと訓じている。かつては、「大墓の意味は不明」(『岩手百科辞典』)とし、誤記説を唱えていたのであるが、このように、「墓」の意味を認めたうえでオオハカと訓んでいるということは、「大萬公」誤記説を完全に撤回されたということであろうか。
5、「安土呂井」の地名は、「跡呂井」として現在に残っている。

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2013年1月 2日

情報72 アテルイを題材とした一人芝居

仙台を拠点に活動している役者米沢牛(よねざわぎゅう)の一人芝居「アテルイの首」の公演が行なわれる。アテルイを題材に、その伝説の謎や、大和と融合していった蝦夷の葛藤、東北人のアイデンティティーを浮き彫りにする舞台という。平成10年7月8日からの仙台公演を皮切りに、宮城県迫町(15日)、大河原町(18日)、本吉町(24日)で行なわれる。問い合わせはヨネザワギュウ事務所〔℡ 022-272-2744〕

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2013年1月 2日

情報71 アテルイをテーマに成人大学が開講

平成10年6月19日、胆沢町愛宕公民館の成人大学が開講した。本年度のテーマは「アテルイ」。11月まで6回の予定で、アテルイが生きた時代やその背景、エミシ・田村麻呂伝説などの講義が行なわれる。第1回は、北上市立「鬼の館」主任学芸員の鈴木明美氏が「古代国家とエミシ」と題する講義を行なった。胆沢町だけでなく、水沢市、金ケ崎町からの参加者もあり、65人が受講した。

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2013年1月 2日

情報70 水沢小学校PTA文集『やまなみ』№28より

袋町の石川タミ子さんが「アテルイ」と題して寄稿している。「数年前放映されたNHK大河ドラマ「炎立つ」でアテルイが登場し、古代の英雄に興味を持った。田村麻呂に討伐されたんだっけなという程度の知識しかない。まして清水寺が田村麻呂開基とは知らなんだ。そもそも、この胆江地方で独自の生活と文化を形成していた平和な地に、中央政府が蝦夷と蔑視し侵略してきたのだ。我が郷土の雄アテルイさんは、モレさん等と共にこの侵略を頑強に阻止したが、十数年に及ぶ激戦も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降った後京都に連行され、処刑された。田村麻呂は敵ながら両雄の武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが受け入れられなかった。平安建都一二00年祭に阿弖流為・母禮の顕碑が清水寺境内に建立されたので、いつか訪ねてみたいと思う。小学校の遠足で行った平泉の伊谷の窟も、チョッと歴史を知っただけで見方が違うもんだ。
アテルイは従来、朝廷に歯向かった賊徒として扱われていたが、郷土を朝廷の侵略から身をもって護った英雄として見直される様になり、中学校社会科歴史教科書にも載るそうだ。水沢の三偉人も素晴らしいが、古代東北の日高見国胆沢に思いをはせる時、アテルイという人物がガンバッテいた事を誇りに思う。こんな浅い知識でも歴史のロマンを充分感じるんだナ。」

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2013年1月 2日

情報69 高橋克彦氏へのインタビュー

盛岡市在住の直木賞作家で、河北新報朝刊にエミシの英雄アテルイを主人公にした小説「火怨~北の耀星アテルイ~」を連載した高橋克彦氏が、同新聞掲載「直言東北へ7」(平成10年2月10日)で、東北の視点や歴史の書き換えということについて次のように話している。
「アテルイや奥州藤原一族を小説のテーマに選んだのは『東北人自身に東北の歴史を知ってもらいたい』と思ったからだ。歴史上、東北の人物が悪者になったり、土地が辺ぴとされたりするのは、東北独自の史観がないからだ。われわれは中央史観を押し付けられてきたのではないか。」「東北の歴史は史料や記録が少ない。例えば坂上田村麻呂が副将軍として遠征してきたときの、エミシとの戦闘の記録がない。朝廷側が勝ったとされているが、その数年後に田村麻呂が将軍として再び東北に赴いたということは、実は戦いに勝っていなかった、という仮説が成り立つ。『都合の悪い歴史は消してしまえ』と、アテルイの記録は時の権力者によって抹殺されてしまった可能性もある。」「東北の歴史を語ることは、他の地域とは違ったニュアンスを持つ。日本史には耶馬台国など多くのなぞが残されているが、それを解き明かしたところで地域の意識が変わることはない。東北の歴史をひもとくことは、東北の根底にあるコンプレックスを打ち破ることにつながる。エミシが東北に住む人々の総称だとすると、その歴史は東北に生きた人間が中央に立ち向かった歴史だ。現代の東北でも、エミシの魂は地域の誇りにつながるはずだ」

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2013年1月 2日

情報68 対談、増田寛也・梅原猛 「夢の力学」

岩手県が発行している『IPANG』№4(1998年4月)に、増田岩手県知事と哲学者 ・梅原猛氏との対談が掲載され、アテルイにも触れている。
「梅原 最近、坂上田村麻呂に破れたアテルイの碑が京都の清水寺に建てられましたが、アテルイ側から歴史を見ると、いままで学校で教えられた歴史とは違った歴史が見えてくると思います。東北の文化というものは、大和の文化と土着の蝦夷の文化の総合。むしろ活力とか自然との交わりという点では、大和よりもはるかに深い知恵を持っていた。その知恵を学ぶべきです。朝廷に反抗した悪い奴だという史観だけではもう計れないと思います。増田 いま岩手でも歴史の解明が進んでいて、志波城や徳丹城、胆沢城でも調査が行なわれています。新しい史実が解明され、これまでの歴史観を覆す発見があるかもしれませんね。」

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2013年1月 2日

情報66 相原康二責任編集『大いなる夢の史跡』

地域在住の6人の研究者が最新の胆江地域の歴史・考古学の研究成果を分かりやすく、簡潔にまとめた。この中で、伊藤博幸氏(水沢市埋蔵文化財調査センター副所長)は「蝦夷と政府の激突の時代」を以下のように記述している。
「蝦夷と政府の激突を物語る有名なものに宝亀十一年(780)の伊治公呰麻呂の乱と、延暦八年(789)の胆沢地方を舞台にした胆沢の合戦があります。とくに後者は、当地方の北上川東岸を主戦場に、阿弖流為・母礼らに率いられた蝦夷軍が五万の軍を向こうにして戦い、蝦夷側の大勝利に終わった合戦として私たちに記憶されています。これらの戦いは「蝦夷英雄時代」と呼ぶにふさわしいものがあります。しかし、政府も胆沢攻略に執念を燃やします。延暦十三年(794)には副将軍坂上田村麻呂を実戦部隊の総指揮官として、前回遠征の倍近い十万の大軍を投入してきました。「正史」は詳細を記していませんが、前回にも増した激戦だったようで、戦死者、捕虜、焼亡村落を含めて蝦夷側の被害は甚大でした。それは前回の戦いが北上川東岸中心であったのに対し、今回は西岸一帯も戦場となったためでしょう。水沢市の東郊、北上川右岸一帯に杉の堂、熊の堂遺跡群があります。調査は十数年前から行われていますが、ちょうど阿弖流為の時代に重なる奈良時代の終わり頃の竪穴住居跡に、ある共通した現象があることに最近気づきました。ほとんどの住居が焼失しているのです。さっそくデータをとってみました。遺跡群の範囲は約二万平方㍍、これまでの調査でこの時期の住居は約四十棟。そのうち八割が火災に遭っていました。焼失状況は強風に煽られた様子はなく、垂木や屋根材のカヤは自然に焼け落ちたものばかりです。遺跡群内は空閑地もあり、隣のムラとは区別され、類焼は考えられません。記録を残さなかったモノ言わぬ蝦夷たちのメッセージがここにあるのかもしれません。」【胆江日々新聞社刊 1800円】

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2013年1月 2日

情報65 京都・清水寺でアテルイ法要と植樹祭

平成10年3月7日、第四回目となるアテルイ、モレの法要が清水寺のアテルイ、モレ顕彰碑の前で行なわれた。森清範清水寺貫主、大西執事長ら四人の僧侶によって法要は営まれた。水沢からツアーとして参加した約30人を含め関係者約90人が出席した。今回は碑の傍らに水沢市の市花「シダレザクラ」を植える植樹祭も盛大に行なわれた。北天会(関西アテルイ顕彰会)の高橋敏男会長は、植樹の申し出を快諾していただいたばかりでなく、狭いということで石垣を積み場所を広げてくださった清水寺の配慮に心から感謝していると述べている。付近には、ベンチ三脚も置かれ、顕彰碑の環境はいっそう整えられた。

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2013年1月 2日

情報64 網野善彦『日本社会の歴史(上)』(岩波新書)

列島に展開した地域性豊かな社会と「国家」とのせめぎあいの歴史を、社会の側からとらえなおして叙述した通史という。 著者は本書の「はじめに」で次のように述べている。これまでの「日本史」は、日本列島に生活をしてきた人類を最初から日本人の祖先ととらえ...、そこから「日本」の歴史を説きおこすのが普通だったと思う。いわば「はじめに日本人ありき」とでもいうべき思い込みがあり、それがわれわれ現代日本人の歴史像を大変にあいまいなものにし、われわれ自信の自己認識を非常に不鮮明なものにしてきたと考えられる。事実に即してみれは、「日本」や「日本人」が問題になりうるのは...七世紀末以降のことである。それ以後、日本ははじめて歴史的な実在になる...。このような問題意識に立つ著者の、アテルイに関係する記述が以下である。
「七八八年(延暦七)、紀古佐美を征東将軍とし、東海・東山両道、あるいは坂東諸国から五万余の軍勢を動員し、東北との本格的な戦争が開始されるが、これを迎え討った東北人は、翌年、首長阿弖流為の巧妙な戦術によって、北上川で日本国の軍勢を包囲、大打撃を与えて撃退した。」
「七九四年...東北での戦争の勝報が伝えられた。東北の首長たちのあいだに、日本国の軍勢に徹底して坑戦するか、あるいは服従して日本国の国制のなかで地位を得る道を選ぶかをめぐって内部分裂がおこり、これに乗じて坂上田村麻呂は多くの東北人を斬殺し、胆沢の占領に成功したのである。」
「八〇一年(延暦二〇)には田村麻呂が再び四万の軍を率いて東北北部に攻め込み、翌年、胆沢城を築くと、さきの北上川の戦いの勝者阿弖流為は兵を率いて投降した。田村麻呂はこれを京都に連行して助命を主張したが、結局、阿弖流為は斬られ、東北人の中に日本国に対する深いうらみをのこすことになった。」

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2013年1月 2日

情報62 「跡呂井」の地名とアテルイ

読売新聞岩手県版(1997年10月18日付)のシリーズ「地名を歩く」に、水沢市の跡呂井(あとろい)が取り上げられた。「朝廷破った蝦夷の首長、1200年の時超え再評価」の見出しで、アテルイと直結する地名であること、アテルイとアテルイの再評価の過程なども紹介している。現在、行政上の地名は水沢市の神明町、花園町、杉ノ堂であるが、この地域は明治の初めに周辺の村と合併するまでは「跡呂井」村と呼ばれた。今も町内会と地区名は跡呂井を使っている。江戸時代の「安永風土記」(1773)には「安土呂井村」と記されているが、それ以前の記録はわからない。水沢市埋蔵文化調査センターの伊藤博幸氏は、「今だから、アテルイと関係があるといえるが、(朝廷に刃向かった)『賊軍』だったため、地名の由来を伝える伝承がどこかで途切れてしまったのではないか」と、跡呂井の地名の手掛かりが少ない理由を推測して語っている。跡呂井町内会長を務めた佐々木盛氏(当会副会長)は、子供のころ「アテルイごっこ」と称してチャンバラごっこをしたこと、父親らから「アテルイがこの地方にいて周辺は蝦夷集落だった」と教えられたことなどを語っている。

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2013年1月 2日

情報61 牛崎敏哉「宮沢賢治と〈アテルイ〉」

「宮沢賢治はアテルイをどうみていたのだろうか」をテーマとする。賢治の詩「原体剣舞連」には、アテルイが伝説化したことによる呼称ともいわれる「悪路王」が登場する。しかし、検討していくと、賢治作品の「悪路王」は史実のアテルイとオーバーラップできないことに気づかされ、むしろそれから遠ざかっているという。
岩手日報社発行の文芸誌『北の文学』第35号の入選作(文芸評論部門)

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2013年1月 2日

情報59 岩手日日新聞文化賞に‹延暦八年の会›

第15回岩手日々新聞文化賞に四団体が決まり、学術・研究部門には延暦八年の会が選ばれた。アテルイを軸に胆江地方の歴史、文化を研究し、地域おこしに取り組んできたことが評価された。アテルイに関する企画展、講演会の開催、ライブラリーの創設、郷土史読本の発刊などの実績がある。『岩手日日新聞』平成10年1月1日

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2013年1月 2日

情報58 佐藤正助『阿弖流為・母禮の実像とその時代』

東北の古代史に関する「六国史」の記事を順を追って紹介しながら、著者の視座からそれを読み解いた。国史の捏造部分を抉る試みという。著者は「巣伏の英雄阿弖流為を被征服者の立場から考えてみたいと常々思っていた」と前書し、書名にも阿弖流為の名前を入れているが、「阿弖流為・母禮の実像」究明に触れる部分はそれほど多くはない。阿弖流為に関しては、【1】「阿弖流為とは田茂山の跡呂井に住む人と言う呼称」である。【2】「阿弖流為は後代に至り次第に英雄に仕立て上げられた人物」である。【3】「阿弖流為とは出生死亡も確認されない謎の英雄」である。【4】「阿弖流為は決して大国を統一した首領とは思われないし、軍事教育を受けた武官でもなく、訓練した兵士を従えた専門的な軍人ではない。普通の土着の農民であったが、律令制の不条理さと無頼人上がりの政府役人の行動に憤りを感じ、決起しただけなのかも知れない。やがてその指導性と剛胆さが衆目の見るところとなり最高指導者に選ばれたのであろう」。【5】「大和政権の軍事力に対応して戦闘集団が自然発生し、それを統率する酋長として阿弖流為が生まれたものであろう」などというものである。

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2013年1月 2日

情報57 延暦八年の会編著『古代アテルイの里』

古代アテルイの時代を中心として関連する前後史をまとめた郷土(胆江地方)の歴史副読本。写真、イラストが多く使われていて親しみやすい。「奈良~アテルイの時代~」の項は、アテルイとその時代、胆沢の合戦【1】~【3】、アテルイ降伏、アテルイの斬刑をめぐる諸問題などの小項目がたてられていて詳しく、興味深い。水沢地方振興局の平成八年度地域活性化事業として刊行された。無料で配布しているので希望者は水沢地方振興局に申し込みのこと。残部僅少。

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2013年1月 2日

情報56 新野直吉 「阿弖流為、その風土性豊かな復活」

『岩手の歴史と風土-岩手史学研究80号記念特集-』(熊谷印刷出版部、平成9年3月発行) 所収。新野直吉氏は秋田大学の名誉教授で、前学長。
〔初めに〕は、平成六年十一月に京都清水寺に建立された阿弖流為と母礼の顕彰碑に触れ、「顕彰された阿弖流為と母礼は、一二00年の歴史の彼方から華麗に復活した。」と書き出す。そして、近代になってからの阿弖流為に対する関心について、大槻文彦博士が『復軒雑纂』(明治35年刊)で延暦八年紀の阿弖流為に注目したこと、吉田東伍『大日本地名辞書』が胆沢郡安土呂井の項で阿弖流為に言及したことを紹介している。
 〔一、胆江の自己主張〕では、現代の顕彰運動に関わる時期に阿弖流為を史上に位置づけたのは高橋富雄博士であると断言、昭和38年刊『蝦夷』(吉川弘文館)で「阿弖流為」という項題を設定して、「五万の組織された軍隊と、こうも鮮やかに渡り合う軍隊は、烏合の衆ではありえない。それじしん、高度に組織された統一体でなければならない。胆沢における一0年をこえる抵抗の組織者、それこそ、ここにいう大墓公阿弖流為であった。彼は、...」と論じたのがそれであるとする。
〔二、阿弖流為を知って〕では、氏自身が阿弖流為を知ったのは昭和34年段階であったが、著述で阿弖流為に触れたのは昭和44年刊の『律令古代の東北』(北望社)と同年刊の『古代東北の開拓』(塙書房)が最初であったこと、しかし実際に解釈的に阿弖流為に言及したのは昭和49年刊の『古代東北の覇者』(中央公論社)という新書が初めてであったと振り返る。そこでは、「田村麻呂と二族長」という項目を出し、「和睦の形で帰順した大墓公阿弖流為・盤具公母礼の両族長」という位置づけとともに、その背景や二人の心情などについてまで踏み込んで述べた。そして初めて「おおつかのきみあてるい」「いわくのきみもれ」とルビを付した、とするが、原本のルビは「おおつかのきみ」ではなく、「たいものきみ」となっている。
〔三、阿弖流為を見つめて〕では、次第に阿弖流為に対する関心を深めた氏が、昭和53年刊の『古代東北史の人々』(吉川弘文館)で、「死に就く阿弖流為」という項をたてて阿弖流為が死に臨む「こころ」にまで言及するに至ったと書く。またこの書では二人の姓名の訓みについての考え方も述べた。ここで、大墓公を「あるいはタイボ(モ)ノキミとでもいうのかもしれないが、...オオツカノと読んで置く」としている。関連して、例えば大墓公を「たものきみ」「たのものきみ」「おおものきみ」と訓む可能性に触れては、「古代蝦夷語というものの言語学的座標が明確になっていない以上、色々の仮説が生まれる可能性がある。私見が、仮に言えば「許容範囲」とでもいうべきものを緩やかに取っているのも、それによるのである。只古代蝦夷語を安易にアイヌ語と通わせ「アイヌ語地名」の如く扱うことには許容性を認めていない」と、氏の考え方をより明確に打ち出している。
〔四、復活への道のりの中で〕では、「阿弖流為は降伏したのではなく、「平和的調印」の申し入れをしたとか、逆に田村麻呂が和睦を申し出たが、結局、阿弖流為等は、だまされて処刑されてしまうという、いわば郷土愛的な発言もある。史料的裏付けの乏しい解釈には慎重でありたいと願う」(高橋崇『坂上田村麻呂』)という批判があったことにふれながら、『古代東北史』(昭和63年)で「阿弖流為の心」という項を設け、「乏しいながらも存在する史料条文の解釈で田村麻呂と阿弖流為の双方の諒解点を論定しよう」としたこと。『古代東北の兵乱』(平成元年)においても、『類聚国史』延暦21年4月15日条に関してさらに踏み込み、「阿弖流為の立場の田村麻呂将軍に対する座標の評価が単に愛郷的情緒に偏る発言と決めつけられるのは妥当ではないことを強調した」と、その部分を掲げて述べている。そして、このような研究とは別のところでアテルイの顕彰運動が徐々に進んでいたことを、碑の『建立記念誌』や「アテルイを顕彰する会」の第二回総会資料などから拾って、その展開経過を紹介している。
〔終りに〕では、阿弖流為「アイヌ民族」説や「百済人」説などの異聞を一蹴。また、アテルイやモレは狭域の領袖と過小評価し、率いた「種類五百余人」は敗残兵で村落からはじきだされた人々だ、などとするひどい論文が発表されていることも明らかにし、厳しく批判している。
 【本論文により、アテルイに関する研究の現段階における一定のまとめがはかられたとともに、今後のいっそうの研究に向けた諸課題も与えられたように思う。また、清水寺への碑建立に至るアテルイ顕彰運動の過程も紹介していただいた。「アテルイ通信」第20号の区切りにふさわしい内容を、<アテルイ情報>に取り上げることができた。新野先生に感謝。】

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2013年1月 2日

情報55 対談「阿弖流為にみる古代東北の気概」

河北新報社の企画による、同社会長一力一夫氏と作家高橋克彦氏の対談。平成9年4月18日付紙面に、大きく掲載された。一力氏はアテルイについて、「東北人の歴史の中で、具体的なイメージを持って登場した初めての人物」、「阿弖流為の精神というのは、西に対するこちらの主張です。だから脈々と生き続けさせなければいけない」と語る。対談の最後には「できれば水沢市に阿弖流為の銅像なんかも欲しいですね、せめて阿弖流為が藤原秀衡くらいに多くの人に知られてほしいと思いますね」(一力)。「阿弖流為は、僕らの中に取り戻していかなくてはいけない心だと思う。何かに立ち向かっていくという、僕らが失った心を彼らは持っていたんだなと思います」(高橋)と語っている。

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2013年1月 2日

情報54 高橋敏男『~大和政権と蝦夷の~確執 』

一昨年、清水寺に建立された〈阿弖流為母禮之碑〉を記念しての出版(平成8年12月)。編著者である北天会会長の高橋敏男氏は碑建立の主体となった関西胆江同郷会の会長。『続日本紀』など、六国史に記された東北に関わりのある部分を現代文にして年代順に抜き出し、注釈と解説を加えた内容。本を販売した利益金は碑の供養、保存、宣伝などの会の運営費に充当される。北天会(℡ 06-831-8110)千二百円。

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2013年1月 2日

情報53 『劇画日高見のアテルイ~展勝地の戦い~』

原作は北上市在住の会社員及川強志さん(34歳)。作画は花巻市在住のアマチュア漫画家星勇希さん。A5版187ページで、第一章「胆沢の勇者」、第二章「反逆者、呰麻呂」、第三章「展勝地の戦い」からなる創作。アテルイの幼少期から日高見の蝦夷の族長になるまでを描いている。 平成9年1月には、及川さんの所属する北上市の歴史同好会「東夷講」主催による発表展示会が、水沢市と盛岡市で開かれた。及川さんは、続編として「巣伏の戦い」、さらにアテルイが処刑されるまでの三作を考えているという。泉出版(℡ 0197-25-3478)、千円。

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2013年1月 2日

情報52 高橋克彦「火 怨~北の耀星アテルイ~」

『河北新報』創刊百年を記念したアテルイを主人公とする大河歴史小説で、本年(平成9年)の元日より朝刊に連載されている。作者の言葉「東北に生まれた最大の英雄アテルイをどのように描くか。「炎立つ」を書きながら私は、いつかは手掛けなければいけない人物として常に意識していた。坂上田村麻呂と堂々と対峙したアテルイこそ東北人にとってのすべての源である。ようやくその時期を迎えて緊張している。この一年、私はまたアテルイを通じて東北と向き合うこととなる。美しい魂をこの物語の中に完成させたい」(平成8年12月20日『河北新報』より)。蝦夷(えみし)の耀(かがや)く星、北の耀星(ようせい)、アテルイ。

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2013年1月 2日

情報51 ライバル日本史〈桓武天皇VSアテルイ〉が文庫本に

平成8年2月8日にNHKテレビで放送された「ライバル日本史」〈平安王朝、東北大戦争~桓武天皇とアテルイ~〉が、角川書店から文庫版の『ライバル日本史』第5巻「挑戦」に収められて発売された。その中で、番組のゲストであった高橋克彦氏は次のようにアテルイについて語っている。アテルイとはどのような人物だったのだろうか「...相当長い期間蝦夷を率いて戦っていますから、若い頃から頭角を表していたのではないかと思います。朝廷軍との戦いで、被害を最小限にくいとめながら軍を追いやったことを考えますと、蝦夷はある程度の軍事力をもっていた国家だったのではないかと想像できます。ですから、その代表であるアテルイは、小さな地域の首長というより、蝦夷を統一した英雄だったのではないでしょうか。彼はただの武将ではなく、平和なときにも政の中心にいて人を指導していて、力が強いだけでなく、人間的にも慕われていたのではないかと思います。...蝦夷と朝廷軍の戦いの記録を見ていますと、...力で戦うというより頭脳プレーです。これは僕の勝手なイメージなんですけれども、アテルイは非常に知性的な人間だったのではないかと思います。」
高橋克彦氏は最後にこう結んでいる。「明治維新以降、東北も中央集権のなかにたぶん入ってしまったのだと思いますが、少なくとも東北が独自性をもって中央に伍していた、その礎をつくったのはアテルイであったし、そのきっかけは桓武天皇との戦いから生まれたような気がします。」

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