2012年12月10日

情報50 角川書店『新版日本史辞典』(1996.11 初版)にアテルイ

「あてるい」で出ていた。全文を紹介する。「阿弖流為 ?-802 (延暦21) 阿弖利為とも書き、大墓公たものきみともいう。奈良後半期 -平安初期の蝦夷えみしの首長。789(延暦8) 胆沢いさわに侵攻した征夷軍を破る。802 配下を率いて盤具公母礼ばんぐのきみもれとともに坂上さかのうえ田村麻呂に降伏したが、河内で斬られた。」

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2012年12月10日

情報49 武光 誠「エミシ・エゾ・アイヌは日本人か」

『別冊歴史読本』第76号(1996年11月発行)所収。「阿弖流為の反乱」に言及しているので紹介する。武光氏(明治学院大学助教授)は、「人びとが狩猟で生活して毛皮を着てくらすより、農耕に従事して布を着る道を選ぶのは、自然の流れだ」という認識をもとに、次のように書いている。
「阿弖流為が農耕をうけ入れなかったわけではない。かれは、土着の豪族の自立性の重視を求め、朝廷が送った地方官の横暴を非難したのである。阿弖流為の軍勢は強く、何度も朝廷の大軍を破った。そこで、東北遠征を命じられた坂上田村麻呂は、農業経営に力を入れ人心をつかむことに力を入れた。生産に従事しない阿弖流為の軍勢はしだいに民衆から孤立していくことになる。そのため、阿弖流為は兵糧不足で降伏した」。はたしてそうだろうか。

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2012年12月10日

情報48 円乗淳一著『エミス アテルイ』(津軽書房)

古代国家と「エミス」との戦いをアテルイを主人公として描いた歴史小説。古代陸奥をめぐる道嶋一族と坂上一族の主導権争いが一方の軸として展開されている。生臭い謀略が渦巻き、それが逆にリアルでもある。そのひとつは、宝亀11年の「呰麻呂の乱」。牡鹿郡大領・道嶋大楯が陸奥介・大伴真綱と謀って按察使・紀広純を殺し、呰麻呂の反逆に見せ掛けることを企てたが失敗するのである。また、アテルイとの最後の戦いでは功名を争う道嶋御楯を夜襲の混乱に紛れて殺してしまう。田村麻呂は非情で残酷な人間として描かれている。「男であれ女であれ、老人であれ小児であれ、出遭った蝦夷は必ず殺せ」と命令し、アテルイについても、「彼奴らは、皇軍の下卒にも劣る辺境の蛮人に過ぎぬよ」と吐き捨てる。田村麻呂ファンにとっては読むに耐えられないかもしれない。

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2012年12月10日

情報47 『タイムスリップ・河北新報』に阿弖流為の特集

『河北新報』創刊百周年記念企画。東北のこれまでの歴史を振り返り、「もし、その時、河北新報が存在したら...」という仮定に立って、特別編集された。
最初の紙面には、「阿弖流為朝廷軍撃破!」の大見出しがあり、阿弖流為の兵に挟撃され逃げまどう朝廷軍の絵が写真のように大きく載っている。「朝廷軍を迎撃、ゲリラ戦」「奥地に誘い込み伏兵配して挟撃」の記事。囲みには「教養に富み、体躯堂々」の見出しと写真入りで阿弖流為の人物紹介がある。そして、中央政府の侵略とエミシの抵抗という「これまでの経緯」が解説されている。
次の紙面には、「朝廷、再侵攻を下命」「勇将田村麻呂を起用、軍備立て直しを指示」の記事。「街録・胆沢侵攻に思う」では、"民の心は奪えぬ"という胆沢の阿弖流為の一兵、"二つの国を認めよ"という胆沢の村の女、他に秋田のエミシ、朝廷の一高官などの声を拾っている。論説「探れ、和平への道」では、「政府はこの無益な戦いを即刻停止し、速やかに東北から撤退すべきだ。」と主張する。平成8年11月14日付け『河北新報』の16面と17面に特集されている。

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2012年12月10日

情報46 井上高秋「坂上田村麻呂VS阿弖流為」

『歴史と旅』臨時増刊(平成8年11月発行)の〈日本史ライバル総覧〉に4ページにわたって掲載されている。同誌の巻頭グラビア<ライバル激突!雌雄決す瞬間>にも、清水寺建立のアテルイ・モレの碑など6枚の写真と小文で2ページがさかれている。井上氏は作家。氏によるとアテルイは「俘囚(従属した蝦夷)」で、「栗原の俘囚長伊治公呰麻呂のような、屈辱の人生をたどり、反旗をひるがえしたはずだ」というのだが、いかがなものか。

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2012年12月10日

情報45 「アテルイ歴史の里祭り」が開催される

平成8年9月15日、水沢市の跡呂井町内会主催による「アテルイ歴史の里祭り」が開催され、<アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋行列>が地区内の約5㌔の道のりを堂々と練り歩いた。この祭りは平成三年、五年と開かれており、今回で三回目となる。この日は、「アテルイを偲ぶ日」祭日宣言、<阿弖流為王記念碑>拝礼、アテルイ音頭奉納なども行われた。

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2012年12月10日

情報44 宮城県多賀城市と岩手県江刺市で「エミシの慰霊祭」

《エミシの慰霊祭~ほくとう銀河・多賀城の集い~》は、平成8年8月10日午後6時から多賀城政庁跡で開催された。主催はエミシの慰霊祭多賀城実行委員会。共催として、江刺市のアテルイ・モレ等エミシを慰霊する会、多賀城市のファンタジア多賀城パート2、縄文人会議、仙台市の東北縄文文化研究会。当会も名前を連ねた。アラハバキ(荒脛巾)神社への関係者参拝の後に慰霊祭を開催、実行委員長挨拶、追悼の辞、開祭の詩朗読、献灯・献花・献杯、と続き、レクイエムとして 【1】 市民ミュージカル『炎の迷宮~アザマロの乱~』より「エミシの歌」、【2】 熊谷真弓さんの縄文土笛演奏、【3】 飯豊鬼剣舞が捧げられた。『炎の迷宮~アザマロの乱~』は、多賀城市市政施行25周年を記念して昨年11月23日、24日の両日に上演された市民手づくりのミュージカル。宝亀11年(780)、伊治城で按察使・紀朝臣広純を殺害し多賀城を焼き討ちした伊治公呰麻呂の反乱を題材としている。
《アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭》は、8月15日午後6時から江刺市体育文化会館で開催された。主催はアテルイ・モレ等エミシを慰霊する会を主体とする同実行委員会。当会も名前を連ねた。江刺市における慰霊祭は昨年に続き二回目。富沢会長の挨拶、江刺市長による追悼の辞、開祭の詩朗読、献灯・献杯、僧侶の読経のあと、約30人の参加者が焼香、最後に鹿踊りを奉納した。

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2012年12月10日

情報43 『都道府県展望』にアテルイの顕彰活動が紹介される

全国知事会発行『都道府県展望』453号(平成8年6月発行)の「列島縦横」に2ページにわたりアテルイの顕彰活動が紹介された。埋もれた歴史を発掘、再評価する動きが各地に芽生えている。それは単なる歴史の再発見にとどまらず、人々の心を揺り動かして新らしいタイプの地域づくりへと発展する可能性を秘めている。その典型的事例が岩手県の胆江地区で盛り上がっている「アテルイ(阿弖流為)の事績掘り起こしと再評価の運動」であるとの評価である。「アテルイを顕彰する会」の発足、清水寺境内への顕彰碑建立、巣伏の戦勝(延暦八年)にちなんで名付けた「延暦八年の会」によるアテルイ関係イベント等の開催、水沢市内のアテルイのシンボル像を据えた公園、アテルイ歴史公園(仮称)の整備計画と市民有志による物見やぐらを備えた砦の再現等が具体的運動としてとりあげられている。

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2012年12月10日

情報42 及川 洵「胆沢の蝦夷(えみし)論~アテルイ以前について考える~」

『岩手考古学』第8号(1996年3月発行)所収。「八世紀の胆沢の蝦夷」をアイヌ人と考え、アテルイをアイヌ語で解釈する研究者もいる現状から、「古代胆沢の蝦夷はアイヌ人なのか」ということについて論述する。まず、岩手県南地域の先住民は約八万年前にさかのぼることができるが、北海道の旧石器時代は二万一千年前以降であることから、「岩手の蝦夷の先住民を北方系のアイヌ人とするのは認めがたい」とする。次に、岩手県にナイなどのアイヌ祖語からと思われる地名がもたらされるのは一万三千年前の細石刃文化の南下の頃からであるが、以後、二言語(日本祖語とアイヌ祖語)併用時代が続き、岩手県南地域は縄文前期頃、県北以北においても縄文後期か晩期頃から次第に分離が進んでいったことが言語学者の研究と文化圏との関わりを検討するなかで推論できるとし、胆沢地方ではその後の弥生文化の波及、石包丁や水田の発見、五世紀末と推定される角塚古墳の築造などにみられるように、東北南半地域文化圏への組み入れが強いとする。そして、北海道系土器については多量に出土する土師器にくらべごく小量で、交易によるものと考えられ、地名や文化に影響を与えるほどのものではないこと、またアイヌ語で解釈している地名の中には日本祖語で解釈できるものもあり、歴史的背景などの十分な研究抜きの安易な地名解釈には疑問があるとする。以上などから、古代胆沢の蝦夷をアイヌの子孫と考える根拠はない、と結論している。

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2012年12月10日

情報41 アテルイはすでに中学の教科書にとりあげられていた

 『通信』前号掲載◆情報39で、来年度の中学の新教科書にアテルイが登場することを紹介しましたが、現在使用中の中学の教科書にもすでにとりあげられていたことが確認されました。教育出版㈱発行の笹山晴生ほか監修『新版 中学社会 歴史』(平成4年2月29日文部省検定済)です。
「伊治呰麻呂の乱と豪族阿弖流為の抵抗」というタイトルがついた〈地域から歴史を考える〉という1ぺージの囲みの中で、789年に政府軍が蝦夷の豪族阿弖流為の本拠地を攻撃した様子を『続日本紀』の一部を要約して紹介しています。同社の来年度からの新教科書では、その前後に詳しい叙述が加わり、アテルイがより歴史的に取り上げられています。

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2012年12月10日

情報40 「みちのく社民党宣言」にアテルイの精神

 岩手県社民党代表の沢藤礼次郎衆院議員は、東北地方独自の政策集団「みちのく社会党」の結成を呼びかけるという。その「宣言」(草案)の三つの柱のひとつは、「【3】県民と共に地方自治の立場に立ち、『われわれは坂上田村麻呂の末えいではなくアテルイ精神の承継者であることを誇りとする』というもの。」
【平成8年7月1日付『読売新聞』岩手県版】

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2012年12月10日

情報39 中学校の新教科書にアテルイ登場

来年度から中学校で使われる歴史の教科書の最新版七冊のうち、三冊でアテルイを取り上げているという。平成8年7月1日付の読売新聞朝刊で知る。「ある教科書はアテルイについて欄外で『かつては朝廷に背いた悪人とされていたが、近年、地元民の利益を守ろうとした英雄として見直されるようになった』と記述。坂上田村麻呂が朝廷にアテルイの命ごいをしたと書いた本もある。」と紹介している。ようやくという感もあるが、アテルイの顕彰において画期的なことである。

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2012年12月10日

情報38 及川由巳「随想 田村麻呂と阿弖流為のよみちがい」

 筆者は水沢市埋蔵文化財調査センター所長。センター内に展示されている田村麻呂の肖像と悪路王の頭首像との無言の対話から、「処刑」されたことの二人の『よみ間違い』に思いを綴る。筆者には、田村麻呂の阿弖流為に対する「謝罪と嘆きの悲痛な声」「悔悟の叫び」が聞こえ、怒りと無念さを露わにした阿弖流為は「当時の蝦夷が受けた虐待、惨状など」を語りかけてくるという。【『岩手経済研究』1996年5月号】

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2012年12月10日

情報37 吉川団十郎 CD「みちのく古代史~北の大地の鬼の唄~」

 宮城の団十郎を自称する歌手の吉川さんが作詞作曲し、歌いこんだエミシをテーマにしたアルバム。全7曲で、「北天無情」はアテルイに捧げる唄。歌詞の一部(2番)を紹介する。
 /北のまほろば/飛ぶは白鳥/祈れ祈れ/アテルイ祈れ/敵か味方か/田村麻呂/山に聞け河に聞け/天照る天下の行方。1枚1500円。申込は吉川さん方、電話0224(83)5030

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2012年12月10日

情報36 江本好一「母礼の根拠地」

 アテルイと共に降伏し、斬首された「盤具公母礼」。その母礼の根拠地について、延暦八年の戦いと現地の地勢および伝承などから検討を行い、現在の胆沢町の大歩・小歩一帯をそうだとする新説を提唱する。
延暦八年における征夷軍は前中後の三軍編成であったが、その中で「左中軍」というのは中軍が進行方向に向かって左(西)方面に展開していたと解すべきで、それはその方面(大歩・小歩)に農業生産を主体とした蝦夷の大きな拠点があったからである。大歩・小歩は今はオオアゴ・コアゴといわれるが、これはオオアグ・コアグであったと思われ、この一帯は「アグ」と一つで呼ばれ、これが「イサワのアグ(胆沢の歩)」「イのアグ」となり「イアグ」「イハ(ワ)グ」に転訛して公の賜姓を付ける時、「盤具公」と表記された。という考察である。
高橋富雄氏の母体一体説について、「河東への渡河軍がまさに侵攻した通過点に母礼の勢力圏が存在したことになり、その時点で、少なくとも阿弖流為と共に、母礼の名前が出てきてもよさそうであるが、全く無いというのは納得し難いものがある」との指摘は頷ける。【『歴史研究』418号(新人物往来社1996年3月)】

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2012年12月10日

情報35 高橋克彦『風の陣~立志篇~』

「陸奥国から平城京に黄金を運ぶ護送役となった若き蝦夷・丸子嶋足は兵衛府の官人として都に留まり、異例の出世を遂げる。やがて、彼は奈良朝を震撼させた政変・橘奈良麻呂の乱の渦中に自らの身を投じたのであった...。『炎立つ』の時代を遡ること三百年、迫り来る奥州動乱の兆しのなかで躍動する若き蝦夷たちの志を描く」歴史小説。丸子嶋足は牡鹿郡の出身で、のちの道嶋嶋足。伊治鮮麻呂(これはるのあざまろ)も重要人物として登場し、嶋足との交友を深めている。これにいずれ阿弖流為も登場してくるのであろう。【PHP研究所刊、1600円 】〔初出誌『小説歴史街道』1994年11月号~1995年10月号〕

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2012年12月10日

情報34 新野直吉「蝦夷とは何者か~阿弖流為の実像を探る~」

アテルイの名は『続日本紀』で「阿弖流為」、『日本紀略』等では「阿弖利為」と表記され、「流」と「利」が別字である。新野氏はまずこの問題について「夷語というものの聴き取りと漢字を音標文字として表記することについて、国史の史料になった記録や文書を作成した吏僚によってある種の幅のあったことは、...類例のあるところである」との自身の見解を示しながら、「しかしこれも一解で、...大墓や盤具の訓みとともに別見もあり得よう」と最初に述べる。阿弖流為研究の進展を意識されてのことであろう。
【1】、アテルイたちの生活基盤は農業にあった、それも相当の熟度に達していたと考える。【2】、一千五百の蝦夷軍が六千の征討軍を狭い北上川東岸に誘い込んで大敗させただけだとの説もあるが、それでは過小評価になる。彼の兵力基盤はそう狭少ではあるまい。【3】、アテルイとモレが「面縛待命」の状態にあったと説く学者もいるが、史料にはそこまでは書いていない。だから将軍は和睦扱いをしていたと見ることも不当ではない。一部の論の如く京進なら「降」と記される俘は在京使役か改めての移配かであろう。など、最近の研究を検討したうえでの見解も述べられている。
また、胆江地方の「アテルイの里」宣言、関西胆江同郷会による阿弖流為と母禮の碑建立、「アテルイを顕彰する会」の存在と「アテルイ通信」なども紹介している。【『歴史読本』1996年4月号】

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2012年12月10日

情報32 『歴史と旅』臨時増刊号 日本古代史の100人

100人の中に、坂上田村麻呂とアテルイが入っている。田村麻呂については、左方郁子氏が執筆、アテルイとの戦いを中心に記述している(4ページ)。その中で、モレを公母礼(きみもれ)としているのは明らかな誤りであろう。アテルイについては、荒川法勝氏が「蝦夷の大酋長アテルイ」の題で執筆(2ページ)。荒川氏によると、アテルイは「蝦夷(えぞ)の日下将軍」であり、「北上川の中流域に、広大な独立国を結ぶ王であったと思う」というのである。

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2012年12月10日

情報31 今泉隆雄「三人の蝦夷-阿弖流為と呰麻呂・真麻呂-」

三、大墓公阿弖流為では、〈阿弖流為研究〉のポイントともいうべき内容が各項目に整理されて述べられている。当会会報『アテルイ通信』に掲載した及川洵氏、伊藤博幸氏の研究についてもかなりの部分でふれている。例えば大墓公の姓について、及川氏は阿弖流為が帰降した後に賜姓されたと考えるのに対し、「私は彼が延暦八年以前にすでに国家に帰服して賜姓されていたが、賊となったので姓を剥奪され、さらに降伏したので本姓に戻されたと考える」とか、阿弖流為らの入京は裁判のためではなく、「戦果としての俘虜の京進として行なわれたと考えられる」など、今泉氏の見解が積極的に述べられている。
阿弖流為と母礼の姓についての訓は、「両人は夷であるからウジ名は夷語による地名で、また名も夷語によるものであろう。これらの表記は夷語の音を畿内の官人が漢字表記したものである。ウジ名は夷語であるからオオハカとかオオツカのように和語として意味を持つ訓読はさけた方がよく、万葉仮名としてまたは音読して大墓はタモ、盤具はバングと訓ずる」としている。 処刑地については、杜山・植山・椙山という文字の異同があるが、神英雄氏の「椙山」説を検討し、「杜山が誤りであることを認め」つつ、「一概に植山が誤りで椙山が正しいとはいえない」と、「今のところ」と断って両説を併記している。他。〈阿弖流為研究〉の必読論文である。【『日本古代国家の展開(上)』所収

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2012年12月10日

情報30 平成7年9月10日付・読売新聞日曜版

毎週一面に梅原猛氏(哲学者)の『地霊鎮魂 京都もののかたり』が掲載されている。その第65回「坂上田村麻呂と清水寺縁起」のなかで、わずかではあるがアテルイのことにもふれた文がある。
「...東征に赴く田村麻呂がここで延鎮と出会い、寺を建て仏を造り、戦勝を祈り、そして無事帰還すると、朝廷より先に清水寺に詣り、観音さまにお礼を言ったという話はよく解る。武将には信仰が必要である。信仰なくして人は勇猛果敢に戦うことが出来ない。田村麻呂は、蝦夷の族長・大墓公阿弖流為と食うか食われるかの激しい戦をした。現在、清水寺には阿弖流為の慰霊塔が建てられている。それは、長い間賊将とされて来た阿弖流為を見直そうとする歴史の動きに沿ったものであろうが、床しいことである。」

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2012年12月10日

情報29 水沢市埋文センターで「アテルイ講座」

水沢市埋蔵文化財調査センター主催の古代史講座「アテルイの時代を考える」は、4回にわたって開かれる。日程と内容は次の通り。平成7年11月26日「終末期古墳とエミシ - アテルイ前史」(高橋千晶学芸員)、12月17日 「古代エミシの社会」(佐々木千鶴子学芸調査員)、1月21日 「アテルイと東北大戦争」(池田明朗専門学芸員)、2月18日 「アテルイをめぐる2、3の謎」(伊藤博幸センター副所長)

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2012年12月10日

情報28 清水寺でアテルイ・モレの碑建立一周年法要

平成7年 11月11日(土)午前10時から碑の前で法要、11時から寺務所内洗心洞で清水寺森貫主の法話、12時から懇親会が行われた。碑を建立した関西胆江同郷会が清水寺などと協議し、除幕式が行われた11月6日の週の土曜日に毎年供養することにしたもの。約80人が参加した。

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2012年12月10日

情報27 アテルイを顕彰する「巣伏の戦いの跡」碑を水沢市に寄贈

平成7年8月1日、水沢市の進友会(佐々木勲会長)は還暦を迎えることを記念し、アテルイを顕彰する碑の建立などを内容とする寄贈目録を水沢市長に手渡した。碑は自然石で高さ、幅とも2㍍ほど、「巣伏の戦いの跡」の碑文を刻む。このほか碑の周辺には樹木を植え、小庭園を整備する。水沢市では、設置場所や時期を検討し、進友会の善意に応えるとしている。

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2012年12月10日

情報26 「地方史研究の現状・岩手県」(1995.6『日本歴史』第565号)

〔古代〕四、蝦夷社会論の中で、阿弖流為研究の現状をとりあげている。著者は水沢市埋蔵文化財調査センター副所長の伊藤博幸氏(当会幹事)。以下紹介する。
「蝦夷戦士首長の象徴が阿弖流(利)為である。従来の阿弖流為研究はひとえに対国家関係でのみ論じられてきた。そこには蝦夷の中の阿弖流為らの位置付けを見出すことができない。本格的阿弖流為研究は及川洵「アテルイをめぐる二、三の問題」(『岩手考古学』四、1992年)に始まるといえよう。及川は令制に基づかない阿弖流為らの処遇に関して考察を加えている。公姓の非剥奪(付与?)、市外での処刑、あるいは彼らの入京は事実かなど確かに検討すべきことが多い。高橋富雄「大墓公阿弖流為と盤具公母禮」(平安博物館研究部編 『角田文衛博士古希記念古代学叢論』同館、1983)は地名や表音文字の検討から原典復原を行い彼らの本拠地問題に及ぶが、神英雄「蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察」(日野博士還暦記念会編 『歴史と伝承』永田文昌堂、1988)の諸写本検討による批判もあり、『紀略』『逸史』誤記説は成立し難い。また神は阿弖流為斬殺地が河内国〈杜〉でなく〈椙〉が正しいことを指摘した。」

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2012年12月10日

情報25 伊藤仁『蝦夷の播風』

宝亀五(774)年、ウクハウの決起により東北三十年戦争(アテルイの降伏まで)の幕が切っておとされた。アザマロもついに決起し、奥羽三関の逆封鎖を狙うが戦死する。アテルイは朝廷軍を二度にわたり撃破。坂上田村麻呂を征夷大将軍とする第三次の征討軍に備え、衣川に沿った三ヶ所に強固な関を築造、その間を長大な柵で結んだ。...アザマロの苦悩と戦い、朝廷軍を迎え撃つアテルイの戦い等を描く興味あふれる歴史小説。筑波書房刊(1995年6月)。 

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2012年12月10日

情報24 佐藤邦武『アテルイ・宗任』

アテルイから安倍一族の宗任に至る歴史を現地取材を交えて探訪、エッセー風にまとめている。前半部の「奥州北上川決戦のあと」が、アテルイの時代をとりあげている。『東日流外三郡誌』への関心、アイヌ語による地名解釈などが盛り込まれ、枚方市交野公園の「首塚」についても取材している。著者は岩手県江刺市の出身で福岡市在住。岩手出版刊(1994年12月)。

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2012年12月10日

情報23 水沢市で「アテルイを偲ぶ観桜会」

北海道平取町などに住むアイヌ民族の一行が、アテルイの供養と交流を目的に岩手県の松尾村と水沢市を訪れた。一行はアイヌ語学校長の山道康子さんを団長とする28人。山道さんはアイヌ文化の伝承者として知られる。平成7年4月29日に松尾村でカムイノミ(神への祈り)とチャルパノミ(先祖供養)などを行い、翌日の30日には水沢市の羽黒山・出羽神社で開催された「アテルイを偲ぶ観桜会」に参加した。出羽神社では、幹事の熊谷達雄氏他有志約30人が出迎えて、交流。境内の神楽殿で、アイヌの少女たちによる紙芝居や民族に伝わる歌と踊りなどが披露された。最後に、参加者も交えてアテルイを供養する神事が行なわれた。山道さんは、来年も訪れたいという。

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2012年12月10日

情報22 『北天の雄 阿弖流為・母禮之碑建立記念誌』発刊

京都・清水寺境内に顕彰碑が建立されたのを記念して関西胆江同郷会(高橋敏男会長)が発刊、建立基金寄付者などに配られた。記念誌(B5判 71ぺージ)は、関係者の寄稿や祝文をはじめ、建立までの経過などが詳細にまとめられている。この記念誌は胆江日日新聞社にも届けられており、希望者には無料頒布するとのことである。

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2012年12月10日

情報21 アテルイ・ライブラリー創設事業記念講演会

平成7年2月5日、延暦八年の会(佐藤秀昭会長)と水沢地方振興局が主催し、当会も後援して開催された。水沢市立図書館内にコーナーが設置される「アテルイ・ライブラリー(202冊)」の贈呈式のあと、新野直吉秋田大学長が『阿弖流為と田村麻呂』と題して講演。アテルイをとりあげた自身の多くの著作から、アテルイの評価をより明確にしてきた過程を中心に話した。 なお、延暦八年の会は、『アテルイとエミシ関係文献目録』(文献数、1675)を作成したほか、地元におけるアテルイの復権と顕彰の記録(1982~1995.2)でもある『アテルイ・エミシ関連新聞記事集』12、また、『アテルイ・エミシ関係雑誌論集』12も編集作成した。『文献目録』については、一冊千円で頒布している。

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2012年12月10日

情報20 「アイヌ民族のアテルイ慰霊祭に疑問」

当会の会員でもある及川洵氏が『胆江日日新聞』に寄稿し、平成6年12月29日付の同紙に掲載された。及川氏は、「アテルイをアイヌ人の祖先であるとすれば、蝦夷=アイヌ人...になるが、...アテルイを研究し、遺跡を調査研究している者として疑問を感じざるをえない」とし、【1】アイヌ語地名の「ナイ」、「ベツ」の分布は、「盛岡以北に多く、胆沢地域はまばらである」こと、【2】北海道の後北式土器についても「水沢市内では石田遺跡から二片発見されているのみで、同時期の土師器の多量な出土にくらべ問題にならない」こと、【3】「縄文前期~中期(六千~四千年前)岩手県北から北海道渡島半島にかけて同筒下層、上層式土器群が展開したが、胆沢地域は大木式土器群が展開し、全く異なる文化圏を形成している」こと、などから、「後期旧石器時代(三万年前)以降、縄文早期の一時期を除き、他の縄文時代、弥生時代、古代に至るまで、北海道文化圏と胆沢文化圏が同一になったことはない」と、断じている。古代蝦夷(エミシ)がアイヌ民族であるか、どうかは、これまで多くの学者が研究し、論争を行なってきたものである。及川氏は、「思いつきやムードではなく、純粋に学問的に考えて頂きたい」と結んでいる。

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2012年12月10日

情報19 「澤井アクさんと古代岩手を語る会」が開催される

通信前号〈情報17〉で紹介した澤井アクさんの「アテルイの慰霊祭を岩手で」という呼び掛けに応え、盛岡市の会社社長熊谷達雄氏を代表世話人とする「語る会」が平成6年12月21日に北上市において開催された。10人余の参加があり、澤井アクさんが講話、慰霊祭については「アイヌの古式にのっとった方法で行うことで一致した」という。〔12月24日付『河北新報』記事より〕

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2012年12月10日

情報18 大友幸男著『江釣子古墳群の謎』

副題が古代東北と蝦夷。アイヌ語による地名説明などが全体にわたって展開されている。著者は大正十三造の筆名で『岩手の古地名物語』などを発表、そこで延暦八年における胆沢の戦いや、アテルイについて詳述した。また1977年から78年にかけて『岩手日報』に397回連載した「翔けろ蒼鷹」は、アテルイを主人公とする長編小説で、最も早い時期にアテルイを取り上げた作品として記憶に残る。『江釣子古墳群の謎』は三一書房発行。

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2012年12月10日

情報17 「アテルイの慰霊祭 来春、岩手でぜひ」

 北海道ウタリ協会理事の沢井アクさんが中心になって準備を進め、協力を呼び掛けている。慰霊祭ではアテルイの盟友モレ(母礼)、二戸周辺を拠点としたイカコ(伊加古)も弔う考えという。沢井さんによると、アイヌ語でアテルイは「光輝く人」、アクルイは「弓の名人」を意味するという。〔平成6年11月7日付『岩手日報』記事より〕

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2012年12月10日

情報16 及川和哉著『えみしとは誰れ』

古代東北の歴史をわかりやすくまとめた一冊。「えみしとは誰れのことか」「俘囚の怒り爆発」「アテルイの必策」「坂上田村麻呂が登場」「平地の城胆沢城」など十五項目に分け、記述されている。及川氏は岩手県文化財愛護協会理事長。水沢市埋蔵文化財調査センター監修、A4判、50ページ。

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2012年12月10日

情報15 えみしと日高見・東北古代文化の源流を探る山国文化ゼミナール

平成6年10月8日から10日まで、蝦夷学会準備室(事務局・盛岡市)の主催により遠野市で開催された。一日目には郷土教育全国協議会会長柴田弘武氏の「近年の蝦夷論について考える」と題する基調報告、二日目には「えみしと鉄文化」などについて発表がなされた。〔10月4日付『岩手日報』夕刊記事より〕

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2012年12月10日

情報13 小岩鷲山(末治)「大墓公・阿弖流為」

平成6年10月2日と3日の『胆江日日新聞』に発表。アテルイは『続日本紀』では「賊帥夷阿弖流為」として、『類聚国史』『日本紀略』には「夷大墓公阿弖利為」として登場する。氏は、「大墓公」をタモノキミなどと読んでいる説ついて根拠がないとし、「和名抄によれば、関東に荒墓郷があり、アラハカゴウと訓じているので、これと同じように、大墓もオオハカと訓むのが至当である」としている。また、「照井氏がアテルイから派生した」という説には賛同できると、宮城、岩手県内の地名などを掲げている。小岩氏は岩手県史執筆員で日本考古学協会会員。

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2012年12月10日

情報12 井沢元彦「逆説の日本史」

『週間ポスト』に連載中であるが、同紙平成6年9月9日号と16日号に「"蝦夷征伐"とアテルイ処刑の不思議」の項目が登場。そこで井沢氏は、【1】「アテルイの処刑は、桓武の決断と考えていい」、【2】怨霊におびえる桓武がアテルイを処刑できたのは「アテルイ(蝦夷)は怨霊化しないという確信があった」からで、「蝦夷たちは"人間以外"であると考えていた」からだと、断じている。

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2012年12月10日

情報11 遠藤昭一著『私観 アテルイ像を求めて』

地元新聞に連載した「三十八年戦争の始期」、「私のアテルイ像」のほか、「呰麻呂の乱」、「覚鱉城推定考」、「延暦八年胆沢の乱」、「アテルイ等の降と斬刑」などを収める400ページを超える労作。ひとり六国史と取り組み、現地調査も加えて6年の歳月をかけてまとめた。遠藤昭一氏は当会の会員。この平成6年8月に自費出版した。

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2012年12月10日

情報10 愚安亭遊佐、又重勝彦著『アテルイ』

平成6年9月に岩手県各地(水沢市、釜石市、花巻市、盛岡市)でひとり芝居「アテルイ」を演じた愚安亭遊佐。なかでも水沢市の黒石寺境内を舞台とし、自然と一体となって演じたひとり芝居は感動的であった。本書の第2章にはそのシナリオ「アテルイ」を収録している。また、第三章に又重勝彦氏の「アテルイ紀行」がある。自然食通信社の発行(発売元新泉社)。

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2012年12月10日

情報9 『歴史と旅』(秋田書店)平成6年9月号

 本号は〈怨霊残酷物語〉の特集で、表紙は悪路王の首像(「アテルイの面」と紹介されている)で飾られている。特集の中に、荒川法勝氏(作家)の「みちのくの悪路王の実態」が掲載されている。「悪路王とは、みちのくに住み、この世に怨みを残し、無残な最後を遂げた鬼神をいい、アテルイを指す!」と、氏は書く。

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2012年12月10日

情報8 新野直吉著『田村麻呂と阿弖流為』(吉川弘文館)

 「私は、阿弖流為のことについても、もう少しく文学的表現をすれば、誰よりも早いときから誰よりも高く評価してきた」という著者は現秋田大学長で東北古代史の権威。副題に「古代国家と東北」とあり、田村麻呂と阿弖流為の二人を正面において、その背景であり基盤である律令時代の国家と東北の切り離しえない歴史を著述。田村麻呂と並ぶとはいえ阿弖流為を主題にしたのは、歴史書としては初めて。

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2012年12月10日

情報7 随想「二つの首像」

 平成6年7月25日の胆江日日新聞に、梅森健司氏が自分の眼で見た「二つの首像」について書いている。ひとつは、茨城県鹿島神社所蔵の「悪路王」の首像。もうひとつは、束稲山の頂上近くにあり「束稲荒神」と呼ばれる高さ2メートル余の顔面像。
 また、達谷窟入口前に立てられた新しい説明板についても触れている。そこには「この頃達谷窟毘沙門堂の縁起が中央寄りであるとか、甚だしきは書き替えるべきであると言う人が来る...」との書き出しで、「当時のみちのくこそがこの世の楽土で蝦夷こそわが祖先との考えがあり、悪路王は奪われる側で善、大将軍は奪う側で悪という単純な区分がなされている。これは可笑しい」等と書いてあるという。

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2012年12月10日

情報6 異郷の地で散ったえみしの雄『ああ、アテルイ』

 関西胆江同郷会の高橋敏男会長が、大阪の歴史懇談会で講演した内容をもとに冊子(A6判、38ページ)とした。古代東北の歴史のほか、清水寺境内にアテルイとモレの顕彰碑を建立する運動の経過なども紹介している。著者のアテルイにかける熱意がひしひしと伝わる。問い合わせは胆江日日新聞社。

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2012年12月10日

情報2 『今はむかしアテルイの里』の歌

 『岩手日報』(平成6年4月20日付)の「わが校が一番(54回)」に、水沢市常盤小学校が登場。歌による文化の伝承として、アテルイをとりあげた表現集会への取り組み、そして職員が作詞し、PTAが作曲した『今はむかしアテルイの里』の歌が今も全校朝会や児童集会で歌われていることが紹介されている。歌詞の一部は、「ときをこえ/かけてゆけば/そこは父なる大地と/馬と清水とヒタカミの/今に伝えた北上川/今は昔アテルイの/ああアテルイ/エミシ のかしら/里を守らんと燃えた人...」

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2012年12月10日

情報1 マンガ『鬼神人首丸』

『岩手日日新聞』(平成6年4月11日付)の「ああ言えばコウユウ録(124回)」に、人首丸伝説をマンガにし自費出版した伊藤満氏(一関市厳美町杖立原36バース企画代表)が紹介されている。人首丸(ひとかべまる)はアテルイの甥(おい)にあたり、江刺市米里の地を舞台に朝廷軍と戦った蝦夷の武将として地区の人々に語り継がれている。その伝説は「人首町」「人首川」の地名ともなり、今日に残されている。伊藤さんは、「今回の仕事でエミシへの思いが深まったので伊治公呰麻呂からアテルイまで、何年かかるか分からないけど、やり遂げたい」と話しており、次の作品の出版が楽しみである。

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2012年12月10日

アテルイ広場に「阿弖流為の郷」の石碑建つ

水沢市東大通り三丁目の通称アテルイ広場に「阿弖流為の郷」の石碑が建立され、平成6年5月24日午後、除幕式が行なわれた。建立したのは東水沢地域振興協議会で、石碑は台座を含め高さ1.8㍍、横2.15㍍の黒御影石。碑の表面には後藤水沢市長の揮毫で「阿弖流為の郷」と刻まれ(写真)、裏面にはアテルイ広場の説明と地名(跡呂井)の由来などが記されている。

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2012年12月10日

水沢市跡呂井町内会でアテルイ凱旋行列

平成5年9月15日、アテルイの名に由来すると言われている水沢市の跡呂井地区で「アテルイ歴史の里まつり」が開催され、アテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋行列などが行なわれた。当日は神明神社境内において、9月15日を「アテルイを偲ぶ日」とする祭日宣言、「古代東北の英雄アテルイ王千二百年祭記念碑」への参拝などの後、実行委員会で考案し作製した当時の衣装を身にまとった約50人(写真)が刀や槍を持ち、馬に乗ったアテルイ役の佐々木町内会長(当会の副会長)を先頭に勝ちどきを合図として行列が出発した。行列は延暦八年(789年)に紀古佐美率いる朝廷軍をアテルイに指揮されたエミシ軍が撃破した巣伏の戦いの凱旋を再現したもので、のぼりを立て、ほら貝を吹き鳴らすなどして地区内を勇壮に練り歩いた。跡呂井地区では平成元年に初めてアテルイ凱旋行列を行なっており、今回は4年ぶりの行列が実現された。

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2012年12月10日

「巣伏古戦場碑」が建立される!

 延暦八年(789年)、アテルイが朝廷軍を打ち破った合戦場跡を後世に伝えようと、江刺市内の有志(荻田耕三氏他3人)が北上川に架かる四丑橋の東側に戦場跡碑を建立した。碑は高さ2.4メートル、奥行27センチ、幅36センチ。表面には「大墓公阿弖流為等 巣伏古戦場」と刻まれ、裏面には『続日本紀』から巣伏の戦いに関する碑文解説がついている。碑は平成5年5月9日に完成したが、戦いのあった日にあわせ6月3日の建立となっている。

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2012年12月10日

テレビ朝日番組ニュースステーションで特集「よみがえる先住民・蝦夷」放映される

 平成5年4月9日、テレビ朝日系番組で高視聴率を誇る『ニュースステーション』において、国際先住民年を記念し特集「よみがえる先住民・蝦夷(えみし)」が全国に放映された(岩手県など一部の地方を除く)。この特集は、水沢市で最近アテルイが急激に人気を得ていることを『商工水沢』の記事から伝え、水沢市街頭でのアテルイについてのインタビューに始まった。そしてまず『日本書紀』の記述から蝦夷(えみし)とマタギの関係が探られる。さらに縄文人と蝦夷との関係について埴原和郎教授が説明、蝦夷が日本の先住民の流れにあることが明らかにされた。続いて、まさに「よみがえる先住民・蝦夷」の象徴的運動として当会のアテルイの顕彰活動が紹介されたのである。
最後は、アテルイ顕彰碑を清水寺に建立することについて、同寺執事長・大西真興氏が建立予定地を案内、次のように語った。「清水寺の御開山である坂上田村麻呂公が、かつて今の東北でありますけど、蝦夷征伐といわれて、当時の時代背景からすればしょうがなかったことかもしれませんけども、数にものをいわせてその辺を制圧したという歴史的な事実があります。そのことにつきましては、寺のひとつの痛みでもあります。それが水沢地方の地元から、実はそういう方ではなかったと、大変情け深い武将であって、地元の英雄アテルイと大変肝胆相照らす仲であって、田村麻呂公とアテルイとの本当の姿をですね、1200年たった今日に、また一般の人たちに知ってもらいたいと。これは大変意味のあることだと考えております。」清水寺に「アテルイ顕彰碑」を建立する運動が全国に紹介され、その反響はすぐさま当会への問い合わせ等になって現われている。建立実現に支援の輪をさらに広げよう。

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2012年12月10日

NHK大河ドラマ「炎立つ」に阿弖流為と母礼が登場

すでに多くの会員の方々も見られたものと思うが、平成5年7月4日に『炎立つ』の第一回が放送された。「藤原四代」をテーマとする高橋克彦氏の原作にはアテルイが登場しないことから、触れないのかとも心配したが、江刺市での第二回ロケで里見浩太郎がアテルイ役にふんし、戦いのシーンなどを収録したとの新聞記事を読み楽しみにしていた。
 もう七年前になるが、NHK『東北アワー10』でキャスターの高橋克彦氏が第七話に「蝦夷大首長アテルイの謎」をとりあげている。その結びで「謀殺されたアテルイの怒りは我々の怒りである。と同時に、我々は東北に生まれ育ちながら、我が内なる東北を見捨ててきたのではないか、そんな反省にも駆られる。アテルイが悪路王と呼ばれることを、少しの抵抗もなく受け入れてきたのである。それは結局、東北人としての自己否定につながるのではないのか?......いつかアテルイを誇りに思える日が来た時、東北は新しい歴史を刻んでいる、そんな気がしてならない。またひとつ、熱い東北が見えてきた。」と語ったことを思い出しながら、アテルイが登場する冒頭のシーンを見た。

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2012年12月 2日

甦るアテルイ、復権の歩み

~資料・アテルイ復権関係年表~

蝦夷の首長アテルイに関わる一部の事は、正史とされる『続日本紀』と『日本後紀』の複数箇所に記録され、アテルイが今から千二百年をも前に実在した歴史的人物であることが知られる。『続日本紀』の延暦八年(789)の記事には、その年における朝廷軍の胆沢(岩手県奥州市付近)侵攻にアテルイを指導者とする蝦夷の戦士たちが立ちはだかったことが、『日本紀略』と『類聚国史』の延暦二十一年(802)の記事にはアテルイらの降伏と斬刑にいたる『日本後紀』の記事を原文とするとみられる内容が伝わっている。

これらの記事内容は確かに僅かにすぎないが、一人の蝦夷にかかわる記録(史料)として見た場合は、他に例を見ることができないものである。朝廷の大軍による三度の胆沢侵攻に対決し、一度は敗退させるなど、十数年間にわたって古代国家に抵抗し続けたことが、特にも際立っていたことからするものであろう。

しかし、そのような歴史的事実は、「正史」に記録されたにかかわらず、時の経過とともにいつしか彼方に押しやられた。アテルイは長期にわたる戦いの末、征夷大将軍として名を馳せた坂上田村麻呂のもとに降伏し、斬刑に処せられたのであったが、後の時代の圧倒する坂上田村麻呂伝説のなかで、アテルイはその名前すら消し去られてしまったのであった。

鎌倉時代後期の作とされる『吾妻鏡』は、文治五年(1189)に源頼朝が「田谷窟(達谷窟)」(岩手県平泉町)に立寄った際に、「これ田村麻呂利仁将軍綸命を奉じて征夷の時、賊主悪路王ならびに赤頭等塞を構える岩屋なり」との説明を受けたことを記している。「悪路王」という名前の初見であるが、その名は特に北東北の田村麻呂伝説のなかに多く出てくることが知られている。本来なら、伝説であれ、田村麻呂と対置されるべきはアテルイであるはずだが、なぜかその名は悪路王なのである。しかも、その悪路王は達谷窟付近の伝説では、良民を苦しめ女子供を掠める賊の主なのであった。

また、『元享釈書』(1322年)の清水寺延鎮伝には、坂上田村麻呂が駿州の清見関(静岡県清水市付近)まで攻め上がってきた「奥州の逆賊高丸」を追撃して神楽岡で射殺したことが記されている。この「高丸」という名前もよくでてくる。田村麻呂が征伐した賊は悪路王であり、高丸であり、他では大武丸(大岳丸、大嶽丸)であったりもするが、このような伝説が史実であるがごとくに広く語り継がれる時代が続くのである。アテルイの名はほとんど忘れ去られていたと言ってよかった。

この間に「大墓公阿弖利為」の名前を記した書物として目に付くものといえば、徳川光圀が編纂した『大日本史』(1709年完成)と佐藤信要『封内名蹟志』(1741年)、相原友直『平泉雑記』(1773年)くらいではなかろうか。『前々太平記』(1715年)は「大墓公」とだけ記述している。

大きな転換点となったのは、やはり明治維新以後であり、近代に入ってからであった。
「正史」に残る記事をとりあげるだけでなく、アテルイに関係する地を具体的に比定する試みなどが始まるのである。大槻文彦『復軒雑纂』(1902年)は、「阿弖流為の居」について、「膽澤郡水澤町の東に接して、安土呂井村あり、是れ、阿弖流為の居なりしなるべし、西岸にあれど、「比至」とあれば、妨げあらじ」(「古奥舊地考摘録」)とした。吉田東伍『大日本地名辞書』(1900-1907年)は、阿弖流為は「水澤驛東の跡呂井の酋長」と推断しつつ、盟友の盤具公母礼についてふれたほか、二人が斬殺されたところは河内国交野郡の宇山(現枚方市)で、その墓は同郡藤坂の鬼墓(王仁墓)ではないかと推定した。この両書をアテルイ研究の第一歩として位置付けることができよう。

また、明治から昭和にかけて出版された歴史書の「蝦夷征伐」や坂上田村麻呂の記述のなかで、「大墓公阿弖利為」の名前をあげたものもいくつか見えるようになるが、いずれも「賊」の扱い以外ではなかった。アテルイが正しく評価され始めるのは、伝統的権威から相対的に解き放たれる戦後を待つことになる。

以下は、戦後におけるアテルイの復権の歩みを年表形式にして示したものである。アテルイ没後1200年記念企画展「甦れ、アテルイ」に展示した<アテルイ復権年表>に、現在までの事項を新たに加えるなどした。詳細にすぎるが、アテルイの復権経過をたどる基礎資料として一覧していただければ幸いである。

アテルイ復権関係年表
資料:アテルイ情報

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2012年12月 2日

アテルイ復権関係年表

1949年7月胆沢郡社会科研究室編『胆沢地域の開拓と発展の歴史』延暦八年胆沢の戦いを記述
1952年9月及川儀右衛門「上代の膽澤(膽江)平野」(『奥羽史談』3巻2号)
1955年9月高橋崇「延暦・弘仁期に於ける所謂「蝦夷征伐」に就いて」(『文化』19巻5号)
氏家和典「蝦夷の抵抗とその背景」(『文化』19巻5号)
1959年6月高橋崇『坂上田村麻呂』 アテルイの戦いを詳述、悪路王の伝説にもふれる
1961年1月『岩手県史』第1巻 「征夷の推進」
1963年9月~岩淵憲次郎「胆沢之蝦夷物語」(『胆江日日新聞』53回連載)
10月高橋富雄『蝦 夷』 「阿弖流為と田村麻呂」
1968年7月小岩末治『大墓公と悪路王』
1970年10月高橋崇「坂上田村麻呂と阿弖流為」(『古代の日本』第8巻東北)
1971年2月~高橋富雄『胆沢城』(『岩手日報』連載)
1972年1月今東光『蒼き蝦夷の血』第1巻 アテルイにふれる
3月井上薫「宇山に蝦夷を斬る」(『枚方市史』第2巻) アテルイの斬殺地に言及
11月関口明「蝦夷の反乱とその歴史的意義」(『歴史学研究』390号)アテルイの反乱
1974年1月同人詩誌『化外』創刊(化外の会)
7月高橋富雄『古代蝦夷』 「大墓公阿弖流為」
11月『水沢市史』第1巻 「征夷に対する抵抗」
1975年□月集英社発行『学習漫画日本の歴史』(和歌森太郎考証解説)3巻にアテルイ登場
1976年4月~河北新報紙が「蝦夷 古代東北の英雄たち」を連載 「第二部 阿弖流為」
5月戸石泰一『火と雪の森』 アテルイにふれる
7月相沢史郎『<ウラ>の文化』 「東国に葬られたアテルイの首」
□月水沢市内の菓子店が銘菓「アテルイの里」を発売
10月豊田有恒『陸奥の対決 小説・蝦夷征服史』 アテルイが登場する歴史小説 
1977年1月豊田有恒「蝦夷征服」(『戦乱日本の歴史2 辺境の争乱』)
8月相沢史郎『詩集 悪路王』
月~大正十三造『翔けろ蒼鷹』(『岩手日報』379回連載) アテルイ決起までの小説
1978年1月平川南「東北大戦争時代~東北の動乱~」(『古代の地方史』第6巻奥羽編)
6月新野直吉『古代東北史の人々』 「坂上田村麻呂と大墓阿弖流為」
1979年3月河北新報紙が「蝦夷の統領ここに眠る?」の特大記事掲載
1980年3月『岩手の歴史ものがたり』に「えみしの王アテルイ」
1981年1月澤田ふじ子『陸奥甲冑記』 アテルイの戦いを叙述。第3回吉川英治新人賞受賞
12月小学館発行『学習まんが少年少女日本の歴史』第4巻 アテルイ登場
1982年2月水沢市教育委員会、河北新報社主催 < 胆沢城展 > を水沢市内で開催
「悪路王首像」(茨城県鹿島神宮所蔵)とアテルイ斬刑地の写真パネルを展示
4月集英社発行『学習漫画日本の歴史』第4巻(笠原一男監修) アテルイ登場
5月学習研究社発行『学研まんが日本の歴史』第4巻 アテルイ登場
9月河北新報社が鹿島神宮所蔵「悪路王首像」の複製を製作 水沢市ほかに寄贈
11月同人誌『えみし』創刊(江刺市えみしの会)
1983年3月『江刺市史』第1巻  延暦胆沢会戦記とアテルイ、モタイ等について詳述
4月高橋富雄「大墓公阿弖流為と盤具公母禮」(『古代学叢論』)
3月~泉千年『日高見物語』全5巻(1~3巻呰麻呂篇 4・5巻 阿弖流為篇 )
5月古代日本を感ずる会が北上市内でアテルイの霊を慰める祈祭等を開催
1984年9月河北新報社が水沢市内に中一弥画「胆沢の合戦」大パネル画を寄贈設置
1985年10月NHKテレビ東北アワーで「蝦夷大首長アテルイの謎」を放送
1986年6月高橋崇『蝦 夷』 「蝦夷の英雄時代」「異説・征夷英雄伝」
1987年7月~水沢市成人大学講座「阿弖流為(アテルイ)セミナー」開催
10月北方の王者アテルイの会開催
1988年3月水沢地方振興局が観光ガイド『再発見 アテルイの里』を刊行
4月神英雄「蝦夷梟帥阿弖利為・母礼斬殺地に関する一考察」(『歴史と伝承』)
6月東北電力主催「アテルイ講演会」開催
8月佐藤孝一『陸奥太平記~前編アテルイ物語~』
12月安久沢連『朔風すさぶ彼方』 大和への服属を拒んだ蝦夷、アテルイを叙述
1989年7月水沢地方振興局のアテルイの里構想研究事業開始
9月水沢市の跡呂井町内会がアテルイ王千二百年祭を開催
「アテルイ王千二百年祭記念碑」を建立し、アテルイ王武者行列を実施
10月延暦八年の会がテレホンカード「アテルイは生きている」(悪路王首像)を製作
11月延暦八年の会編『アテルイとエミシ』
延暦八年の会が『アテルイとエミシ展~巣伏の戦い戦勝千二百年記念~』開催
水沢地方振興局がシンポジウム「いま、蘇るアテルイ」を水沢市内で開催
12月テレビ岩手の番組で水沢市から「アテルイとエミシ」を放送
1990年6月菊池敬一『北天の鬼神~阿弖流為・田村麻呂伝~』
9月水沢地方太鼓振興協議会に「アテルイ太鼓」の譜面
10月水沢地方振興局がアテルイの里文化講演会を開催 高橋克彦氏「古代東北の謎」
11月テレビ岩手の番組で「アテルイは生きている」を放送
12月沢藤範次郎作、和紙張り子「阿弖流為人形」 東北ふるさと物産展東北通産局長賞
1991年2月高橋崇『律令国家東北史の研究』
3月水沢酒造が「自然酒アテルイ」を初搾り
4月<アテルイを顕彰する会>設立  記念講演「アテルイ雑感」(小林晋一)
5月アテルイを顕彰する会の会報「アテルイ通信」第1号発行
7月関西水沢胆江同郷会がカセットテープ「ああアテルイ」を一般販売
アテルイの里・胆江工業クラブ設立
9月第1回アテルイ杯争奪胆江中学サッカー選手権開催(産経新聞社主催)
アテルイを顕彰する会がフォーラム『虚像から実像へ、アテルイ』を開催
10月瀧浪貞子『集英社版日本の歴史5 平安建都』にアテルイの記述
11月林太郎『阿弖流為の反乱』 アテルイの戦いを描いた歴史小説
1992年1月井口朝生『北の砦~将軍田村麻呂』 アテルイの戦いを描いた歴史小説
2月地球にやさしいアテルイの里推進協議会が設立
文部省検定 教育出版『新版中学社会 歴史』(笹山晴生、奥田義雄監修)
「伊治公呰麻呂の乱と豪族阿弖流為の抵抗」を記述
4月水沢市42歳厄年連「成翔会」がアテルイにちなんだ「北天踊り」を創作
□月及川洵「アテルイをめぐる二、三の問題」(『岩手考古学』第4号)
5月水沢市の小学校社会科副読本『わたしたちの水沢市』全面改版 アテルイの名
6月定村忠士『悪路王伝説』
7月アテルイを顕彰する会が第1回アテルイ・シンポジウムを金ヶ崎町で開催
10月水沢市のアテルイ広場に「北方の王者アテルイ像」建立
11月水沢青年会議所企画製作の静止画ビデオ「アニメ アテルイ」上映会
1993年4月ニュースステーション(テレビ朝日)の特集「よみがえる先住民・蝦夷」でアテルイ顕彰活動を紹介
6月江刺市に < 大墓公阿弖流為等 巣伏古戦場 > の碑建立
7月NHK大河ドラマ『炎立つ』第1回に里見浩太郎扮するアテルイが登場
9月水沢市の跡呂井町内会がアテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋行列(第2回)
11月水沢市埋蔵文化財調査センター開設 映像コーナー「古代東北蝦夷の世界」
1994年2月アテルイの里のイメージソング「アテルイの火群」(作曲「姫神」星吉昭)
5月水沢市のアテルイ広場に <阿弖流為の郷> の石碑建立
8月新野直吉『田村麻呂と阿弖流為』
9月愚安亭遊佐ひとり芝居「アテルイ」岩手県公演
11月京都清水寺に < 北天の雄 阿弖流為 母禮之碑 > を建立
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会
1995年2月延暦八年の会がアテルイ・ライブラリー記念講演会を開催
3月延暦八年の会編『 < アテルイとエミシ > 関係文献目録』
4月北海道平取町のアイヌ民族一行が水沢市で「アテルイを偲ぶ観桜会」を開催
6月伊藤仁『蝦夷の播風』 アテルイの戦いを描いた歴史小説
梅草一郎「マンガに描かれたアテルイの顔」(『アテルイ通信』第14号)
8月アテルイ・モレ等エミシを慰霊する会が「アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭」を江刺市内で開催(以降、毎年実施)
縄文アテルイ・モレの会が枚方市片埜神社で「日高見大戦ほか戦没者慰霊祭」を開催(以降、毎年実施)
水沢市の進友会が < 巣伏の戦いの跡 > 碑建立
9月アテルイ歴史の里振興会がアテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋行列(第3回)
10月『図説岩手県の歴史』に「アテルイの世界」(伊藤博幸)
11月今泉隆雄「三人の蝦夷~阿弖流為と呰麻呂・真麻呂~」
関西胆江同郷会等が、清水寺でアテルイ、モレの法要(以降、毎年実施)
11月~水沢市埋蔵文化財調査センターが古代史講座「アテルイの時代を考える」を開講
1996年2月NHKテレビのライバル日本史で「東北大戦争~桓武天皇とアテルイ~」を放送
文部省検定 三社の中学校の歴史教科書がアテルイを記述
3月アテルイを顕彰する会が第4回アテルイ・シンポジウムを開催
吉川団十郎のCD「みちのく古代史~北の大地の鬼の歌」発売 「北天無情」
4月江刺市愛宕梁川、後中野遺跡からアテルイ時代の畑跡と墓跡が出土
9月水沢市跡呂井町内会が「アテルイ歴史の里祭り」を開催 アテルイ凱旋行列
10月円乗淳一『エミス アテルイ』 アテルイの戦いを描いた歴史小説
水沢市杉の堂遺跡からアテルイ時代の焼失した竪穴住居跡が出土
11月「タイムスリップ・河北新報」第1回で阿弖流為朝廷軍撃破!を特集
及川強『劇画日高見のアテルイ』
1997年1月~河北新報紙が高橋克彦の歴史小説『火怨~北の耀星アテルイ~』を連載
1999年10月に単行本、第34回吉川英治文学賞受賞
3月新野直吉「阿弖流為、その風土性豊かな復活」(『岩手の歴史と風土』)
延暦八年の会編著 歴史副読本『古代アテルイの里』千五百冊を管内各校に配布
9月照井顕、アテルヰじゃんず楽団のCD『潮騒の森』発売「阿弖流為・古代からの風」
1998年2月延暦八年の会がアテルイ研究活動で岩手日日新聞文化賞を受賞
岩手県立大学の入試問題に「阿弖流為」の名前
4月梅草一郎「『東日流外三郡誌』世界のアテルイ」(『アテルイ通信』第22号)
7月米沢牛ひとり芝居「アテルイの首」宮城県公演
11月盛岡市でシンポジウム「古代東北日本の再発見」開催(解放出版社他主催)
12月たつみや章『月神の統べる森で』 アテルイが登場する長編ファンタジー(全5巻)
1999年2月胆江地方に「アテルイの里地域づくりネットワーク」設立
3月大阪府枚方市が「蝦夷の首長阿弖流為らのゆかりについて」の案内板設置
8月新版『岩手県の歴史』に「アテルイの世界」の項(伊藤博幸)
11月アテルイの里シンボルマーク(悪路王首像)に関する千人アンケート実施
第8回水沢市民祭に市民ミュージカル「北天の風・戯作アテルイ伝」
1992年10月北海道北見で発見した小惑星に「Aterui」と命名
12月延暦八年の会がシンポジウム「アテルイと悪路王伝説」を水沢市で開催
2000年3月アテルイのイメージ肖像制作発表(水沢地方振興局、延暦八年の会)
岩手県公立高校入試問題に「阿弖流為」
5月NHK教育テレビの歴史でみる日本で「蝦夷の首長・アテルイ」を放送
7月熊谷達也『まほろばの疾風』 アテルイの戦いを描いた歴史小説
8月~月刊コミック誌に原哲夫画『アテルイⅡ世』連載
10月アテルイ没後1200年記念事業準備委員会発足
11月~延暦八年の会がアテルイ出前講座(28ヶ所)実施
2001年3月教科書検定 8社の中学校の歴史教科書がアテルイを記述
4月アテルイ没後1200年記念事業実行委員会(会長:後藤晨水沢市長)設立
6月アニメーション映画『アテルイ』製作支援水沢地区推進委員会設立
アニメーション映画『アテルイ』製作上映運動推進県民の会発足
7月アテルイ没後1200年記念事業プレ開幕記念大会を江刺市で開催
8月~劇団わらび座のミュージカル「北の耀星アテルイ」上演開始(秋田県田沢湖町)
9月アテルイ関連遺跡・水沢市羽黒山市民発掘実施
(主催:延暦八年の会、アテルイを顕彰する会、羽田地区振興会)
11月伊藤満『北の将星アテルイ』
12月梅草一郎「アテルイ最期の地について」(『アテルイ通信』第36号)
『週間 ビジュアル日本の歴史 奈良から平安へ5』にアテルイの記述
2002年2月日本経済新聞の文化欄に「古代東北、英雄の顔」(延暦八年の会代表佐藤秀昭)
3月『週間 再現日本史 原始・奈良10』にアテルイの記述
5月前沢町に<母禮をたたえる会>発足
6月~花巻市で連続公開講座「アテルイ~悪路王からアテルイ~」開催(5回)
6月旅情報誌『トランヴェール』の特集に「みちのく歴史紀行・その名は阿弖流為」
中津文彦「東北の英雄・アテルイが「逆賊」にされた本当の理由」(『歴史街道』)
梅草一郎「アテルイの降伏から斬殺まで」(『アテルイ通信』第38号)
インターネットに「アテルイふぁんサイト 日高見国見聞記」が開設される
7月池田文春作 長編漫画「阿弖流為」(ビジネスジャンプ増刊『ビージャンこん』№7)
水沢菓子組合が共通銘菓「アテルイ夢伝説」を企画発売
8月~長編アニメーション映画『アテルイ』完成(シネマ東北)全国上映開始
8月新橋演舞場で市川染五郎主演の中島かずき作『アテルイ』上演 岸田戯曲賞受賞
水沢市羽田町のうぐいす沢神楽保存会が創作神楽「アテルイ」を初披露
胆江日日新聞社がアテルイ没後1200年記念『坂上田村麻呂展』を開催
第8回アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭を江刺市で開催
アテルイ・モレ没後1200年祭が枚方市で開催される(縄文アテルイ・モレの会)
胆沢城造営・アテルイ没後1200年記念歌「天空アテルイ」(あんべ光俊作曲・歌)
9月母禮の慰霊祭が前沢町で開催される(母禮をたたえる会)
9月~劇団わらび座のミュージカル「北の耀星アテルイ」全国公演開始(水沢市より)
9月水沢市の跡呂井町内会がアテルイ巣伏の戦い大勝利凱旋行列(第4回)
延暦八年の会がシンポジウム「アテルイとエミシの時代」を水沢市で開催
アテルイを顕彰する会が企画展「甦れ、アテルイ」を水沢市と江刺市で開催
アテルイの里・姫神コンサート~天空を駆けるアテルイの想い~
水沢市でアテルイ没後1200年記念大会開催、アテルイ顕彰活動者表彰
10月奈良市で歴史街道シンポジウム「古代の東北と畿内~黄金ロードから、東北の強者アテルイの輝きまで~」開催、奈良新聞に特集記事
水沢観光物産センター<Zプラザ・アテルイ>オープン
水沢市内にショッピングセンター<カルチャーパーク・アテルイ>開店
京都でアテルイ没後1200年記念講演会開催 三好京三「蝦夷と北天の雄」
11月前沢町で「母禮シンポジウム」開催
清水寺<阿弖流為・母禮の碑>供養(関西アテルイ・モレの会)
第11回水沢市民祭で創作劇「アテルイ外伝」上演
12月大阪府枚方市に坂上田村麻呂と阿弖流為を学習する<歴史懇話会>発足
及川洵『アテルイ研究入門』
2003年1月河北新報文化賞に<胆江地域アテルイ顕彰グループ>が受賞
2月『毎日小学生新聞』の「この歴史ホント?ウソ?」にアテルイ
樋口知志「延暦八年胆沢の合戦の再検討」(『アテルイ通信』第40号)
3月第三回前沢町民劇場「北天の雄 母禮物語」上演
4月京都清水寺本堂で劇団わらび座がミュージカル「北の耀星アテルイ」を上演
水沢観光物産館Zプラザ・アテルイにアテルイ・インフォメーションセンターを開設、特別企画展「蘇れアテルイ~第1回わが名はアテルイ~」
6月~アニメ・ファンタジア水沢の開催(毎月2回、アニメ「アテルイ」ほかを上映)
8月アテルイを顕彰する会がアテルイの命日9月17日を「アテルイの日」として制定する取り組みを総会で決定
「北海道新聞日曜版」(10日)が「大和朝廷と戦ったアテルイの地」を特集
第9回アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭(同慰霊祭実行委員会主催)が江刺市の歴史公園えさし藤原の郷で開催される(15日)
第9回日高見大戦戦没者慰霊祭(縄文アテルイ・モレの会主催)が枚方市片埜神社で開催される(22日)
9月アテルイ史跡写真コンテスト・写真展及び「アテルイの日」制定賛同色紙展(水沢地方振興局主催、延暦八年の会主管)を水沢市内で開催(11~18日)
「アテルイの日」制定記念講演会、井沢元彦「アテルイについての逆説」開催
「アテルイの日」制定記念車座トーク、高橋富雄、一力一夫他「大いにアテルイを語る」開催(13日)。アテルイを顕彰する会と延暦八年の会の主催
水沢市の進友会が「アテルイの日」制定を契機に乙女川河川公園巣伏古戦場跡碑で第1回アテルイ鎮魂祭を開催(19日)
11月京都清水寺の阿弖流為・母禮の碑前で関西アテルイ・モレの会主催による法要が行われる(8日)
2004年5月水沢市ZホールでDVD「アテルイ」の完成試写会(27日)
6月アテルイを顕彰する会が『阿弖流為復権(2001年~2003年)』を発行
8月青森ねぶた祭りに「北の炎・阿弖流為」出陣(1日)
第10回アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭(同慰霊祭実行委員会主催)が江刺市の歴史公園えさし藤原の郷で開催される(15日)
第10回日高見大戦戦没者慰霊祭(縄文アテルイ・モレの会主催)が枚方市片埜神社で開催される(20日)
9月アテルイを顕彰する会・延暦八年の会主催「アテルイの日」記念フォーラム、高橋克彦他「北の力で」開催(28日)
11月京都清水寺の「阿弖流為・母禮の碑」建立十周年の法要が関西アテルイ・モレの会主催により行われる(6日)
2005年8月第11回アテルイ・モレ等エミシの慰霊祭(同慰霊祭実行委員会主催)が江刺市の歴史公園えさし藤原の郷で開催される(15日)
岩手県矢巾町の矢巾北中学校の生徒が横浜市で開かれた全国中学校総合文化祭で群読劇「アテルイ」を上演(21日)
9月水沢市の跡呂井地区で第6回アテルイ歴史の里まつりが開催される(11日)
水沢市羽田町羽黒山頂に「阿弖流為・母禮慰霊碑」を建立、除幕式(17日)
11月京都清水寺で古代蝦夷の英雄アテルイ・モレの慰霊法要が開催される(5日)
2006年4月馬部隆弘「蝦夷の首長アテルイと枚方市」(『史敏』通巻3号)
6月阿弖流為・母禮を慰霊する会(及川松右衛門会長)発足(21日)
9月奥州市水沢羽田町羽黒山頂で阿弖流為・母禮等の慰霊祭が開催される(17日)
母禮をたたえる会が母禮の慰霊祭を奥州市前沢区で開催(19日)
10月東京サンシャイン劇場でミュージカル「AKURO悪路」上演(19日~29日)
2007年3月枚方市牧野公園で「伝阿弖流為・母禮之塚」建立除幕式(4日)
9月奥州市水沢羽田町羽黒山頂で阿弖流為・母禮等の慰霊祭が開催される(15日)
10月アテルイを顕彰する会と阿弖流為・母禮を慰霊する会が羽黒山第二次発掘調査を実施(5日~9日)
11月京都清水寺で阿弖流為・母禮の慰霊法要が関西アテルイ・モレの会主催により行われる(10日)
2008年5月安久澤連『北風の譜~陸奥蝦夷争乱悲話~』発刊
9月奥州市水沢羽田町羽黒山頂で阿弖流為・母禮の慰霊祭が開催される(13日)
奥州市の跡呂井地区で第7回アテルイ歴史の里まつりが開催される
母禮をたたえる会が母禮の慰霊祭を奥州市前沢区で開催(16日)
11月京都清水寺で阿弖流為・母禮の慰霊法要が関西アテルイ・モレの会主催により行われる(8日)
2009年2月及川洵著小説『阿弖流為』(文芸社)発刊
5月メタルバンド、クリスタルオワナイトがCDアルバム「アテルイ」を発売
9月奥州市水沢羽田町羽黒山頂で阿弖流為・母禮の慰霊祭が開催される(12日)
母禮をたたえる会が母禮の慰霊祭を奥州市前沢区で開催(15日)
奥州市水沢の進友会が巣伏古戦場跡碑前でアテルイ鎮魂祭を開催(17日)
11月京都清水寺で阿弖流為・母禮の慰霊法要が関西アテルイ・モレの会主催により行われる(14日)
2010年9月奥州市水沢羽田町羽黒山頂で阿弖流為・母禮の慰霊祭が開催される(11日)
母禮をたたえる会が母禮の慰霊祭を奥州市前沢区で開催
奥州市水沢の進友会が巣伏古戦場跡碑前でアテルイ鎮魂祭を開催(17日)
11月京都清水寺で阿弖流為・母禮の慰霊法要が関西アテルイ・モレの会主催により行われる(13日)
2011年4月劇団わらび座がミュージカル「アテルイ 北の耀星」を再演(10日)
5月及川洵著『阿弖流為と田村麻呂伝説』(胆江日日新聞社)発刊
千尼田著『蝦夷水沫 阿弖流為の叫び』上下巻(文芸社)発刊
9月奥州市水沢羽田町羽黒山頂で阿弖流為・母禮の慰霊祭が開催される(10日)
「アテルイの日」記念講演会(アテルイを顕彰する会主催)熊谷公男東北学院大学教授
「坂上田村麻呂と阿弖流為」を奥州市水沢で開催(17日)
奥州市水沢の進友会が巣伏古戦場跡碑前でアテルイ鎮魂祭を開催(17日)
11月京都清水寺で阿弖流為・母禮の慰霊法要が関西アテルイ・モレの会主催により行われる(12日)
岡本雅享(福岡県立大学准教授)論文「アテルイ復権の軌跡とエミシ意識の覚醒」(『アジア太平洋レビュー』第8号)発表
2012年8月青森ねぶた祭の最高賞ねぶた大賞に「阿弖流為と清衡」、知事賞に「東北の雄 阿弖流為」
9月奥州市水沢羽田町羽黒山頂で阿弖流為・母禮の慰霊祭が開催される(8日)
奥州市の跡呂井地区で第8回アテルイ歴史の里まつりが開催される(9日)
奥州市水沢の進友会が巣伏古戦場跡碑前でアテルイ鎮魂祭を開催(17日)
母禮をたたえる会が母禮の慰霊祭を奥州市前沢区で開催(18日)
11月京都清水寺で阿弖流為・母禮の19回目の慰霊法要が関西アテルイ・モレの会主催により行われる(10日)
12月枚方市の小中高生が現代版組踊り「火怨の蝦夷 阿弖流為」を舞台公演(23日)
2013年1月NHK盛岡放送局「おばんですいわて」でアテルイ特集「アテルイ伝を100倍楽しむ!」(7日、8日、9日)
BSプレミアムで『アテルイ伝』第1回放送(11日)。毎週金曜日全4回。
NHK総合などで「アテルイと蝦夷」放映
斉東野人著『阿弖流為別伝 残照はるかに』(海象社)発刊
BSプレミアムでBS歴史館「不屈の英雄アテルイ~古代東北の底力」放映(31日)
2月『歴史街道』2月号に、[特集]東北の英雄アテルイ 他
奥州市埋蔵文化財調査センターで長編アニメ「アテルイ」上映会(24日)
オリジナルサウンドトラック『火怨・北の英雄アテルイ伝』(川井憲次)発売
3月読売新聞(大阪)『碑にきく』に「伝阿弖流為・母禮之塚」〔枚方市〕
NHK総合で大型時代劇「火怨・北の英雄アテルイ伝」前編放送(23日)
NHK総合で大型時代劇「火怨・北の英雄アテルイ伝」後編放送(30日)
4月国立天文台水沢V LB I観測所に導入され、始動した世界最速天文学専用スーパーコンビューターの愛称は「アテルイ」〔奥州市水沢〕
5月「三春春まつり」〔福島県田村郡〕の時代行列にアテルイとモレが登場(5日)
田中R工房主催「英傑アテルイ人形展」開催〔千葉県千葉市〕(9日~)
6月及川洵著『蝦夷アテルイ』(文芸社セレクション)発刊
DVD「火怨・北の英雄アテルイ伝」発売
8月第17回湘南ねぶた祭りに「阿弖流為」出陣〔神奈川県藤沢市〕
9月第9回阿弖流為・母禮の慰霊祭〔奥州市羽黒山〕(7日)
第12回母禮の慰霊祭〔奥州市前沢区生母耕雲院〕(13日)
「アテルイの日」イベント開催〔奥州市〕。アテルイ太鼓他(17日)
円城寺龍句集『アテルイの地』(角川学芸出版)発刊
第7回アテルイ・モレ祭〔大阪府枚方市牧野公園〕(23日)
JR東日本主催の駅からハイキング「古代英雄アテルイと南部鉄器の里めぐり」〔JR水沢江刺駅〕(23日)
『週刊 新発見!日本の歴史』13号に「坂上田村麻呂と阿弖流為」(樋口知志)
10月樋口知志著『阿弖流為』(ミネルヴァ書房)発刊
11月第20回阿弖流為・母禮の法要〔京都清水寺〕(9日)
12月ひらかた肝高倶楽部主催、現代版組踊「火怨の蝦夷、阿弖流為」第2回公演
〔枚方市市民会館大ホール〕(1日)
奥州市立常盤小学校の校庭に「アテルイの里」の石碑(室塚あや子氏が建立)
2014年2月奥州市埋蔵文化財調査センターで長編アニメ「アテルイ」上映会(16日)
3月ウォーゲーム日本史第21号『阿弖流為伝』発売(20日)
5月奥州市の東水沢中学校に<阿弖流為の郷>の石碑建立(室塚邦良・あや子夫妻の寄贈)(12日)
9月第10回阿弖流為・母禮の慰霊祭〔奥州市羽黒山〕(6日)
第13回母禮の慰霊祭〔奥州市前沢区生母耕雲院〕(9日)
「アテルイの日」記念講演会 伊藤博幸「延暦8年の合戦を読み解く」〔奥州市〕(17日)
JR東日本主催の駅からハイキング「古代英雄アテルイと南部鉄器の里めぐり」〔JR水沢江刺駅〕(21日)
第8回アテルイ・モレ祭〔大阪府枚方市牧野公園〕(23日)
11月第21回阿弖流為・母禮之碑法要~建碑20周年記念~〔京都清水寺〕(8日)
12月ひらかた肝高倶楽部主催、枚方歴史ミュージアム「火怨の蝦夷 阿弖流為」第三回公演
〔枚方市市民会館大ホール〕(14日)
2015年1月「氷刀火(ひとか)伝 カムイレラⅡ」公演 ミュージカル座
2月長編アニメーション「アテルイ」上映会〔奥州市埋蔵文化財調査センター〕
4月『日本経済新聞』文化欄に「蝦夷の英雄 結ぶ絆」掲載
5月及川洵著『蝦夷アテルイ(修訂・新装版)』(文芸社文庫)発刊
創像工房新人公演「アテルイ」(原作:中島かずき)
7月歌舞伎「阿弖流為」公演〔新橋演舞場〕
大阪高校演劇祭で金蘭会高校演劇部が「アテルイ」(中島かずき作)上演
8月幻想時代劇「阿弖流為~歴史から消された王~」公演〔新宿村LIVE〕
9月第11回 阿弖流為・母禮の慰霊祭〔奥州市水沢羽黒山〕
第9回アテルイ歴史の里まつり〔奥州市水沢神明社〕
第9回アテルイ・モレ祭〔大阪府枚方市牧野公園〕
10月歌舞伎NEXT『阿弖流為』公演〔大阪松竹座〕
第13回 アテルイ・モレ~ロマン古道~東海道を歩く会
11月第22回 阿弖流為・母禮之碑 法要〔京都清水寺〕
12月『火怨の蝦夷 阿弖流為』公演〔大阪歯科大学楠葉学舎〕
「晦日明治座納め・る祭」第1部お芝居「将の器」〔明治座〕

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2012年12月 2日

阿弖流為 母禮 慰霊碑

阿弖流為 母禮 慰霊碑

建立場所
岩手県奥州市水沢羽田町字御山下 羽黒山山頂
建立年月
平成17年(2005)9月17日
建立者
阿弖流為・母禮慰霊碑建立実行委員会(会長 及川松右衛門)
碑の概要

碑は黒御影石で芝台、台座をいれると高さ2.61m、幅1.66m。
石碑には阿弖流為と母禮の名前を並べ、その下に 慰霊碑と刻まれている。揮ごうは清水寺の森清範貫主。碑の脇に高さ1.2mの碑誌が建つ。
慰霊碑にはアテルイとモレが処刑された河内国の土(枚方市牧野公園内の塚の土)を分霊として納めている。
建立場所は羽黒山頂の出羽神社から西に200mほどのところで、胆沢平野を望む一段と高い絶好の場所。

碑誌文面

宝亀七年(七七六)以来、度重なる朝廷軍の攻撃に対し古代胆沢の蝦夷と呼ばれた人々は、郷土を守るべく敢然と立ち上がりました。
延暦八年(七八九)には勝利を収めましたが、その後も繰り返された戦いにより多くの命が失われ、胆沢の地は荒廃しました。
地元胆沢の長阿弖流為と母禮は、仲間五百余人と共に坂上田村麻呂に降伏します。
二人は、延暦二十一年(八〇二)八月十三日(九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。
阿弖流為、母禮をはじめとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛、友情は私たちの誇りです。
ここに多くの賛同者の浄財により、ゆかりの地に慰霊碑を建立し、永く顕彰します。

平成十七年(二〇〇五)九月十七日
後 藤 晨 撰文

碑説明板

アテルイ・モレ顕彰の地
朝廷は服属しない陸奥の民を夷狄・毛人・蝦夷などと呼び、蔑視していましたが、八世紀の中ごろ以後、砂金が採掘され、農耕が進み、馬が飼育されるようになると、宝亀七(七七六)年の第一回以降四回にわたって大軍を動員し、攻め入ってきました。
胆沢の長アテルイと盤具の長モレは、この侵略阻止に立ち上がり、延暦八(七八九)年、巣伏(四丑橋付近)の戦いでは、紀古佐美の朝廷軍に大勝利をおさめました。
その後も朝廷軍は再三侵攻し、延暦二十一(八〇二)年には胆沢城が築かれたため、やむなく仲間五百余人とともに、坂上田村麻呂に降伏しました。
二人は同年八月十三日(新暦九月十七日)に河内国(大阪府枚方市)で処刑されました。この羽黒山は、『続日本紀』延暦八年六月条の「四百人ばかりありて、東山より出でて官軍の後を絶てり」の東山に比定できることから、私たちはアテルイ・モレを始めとする先人たちの自主独立の気概、郷土愛に深く心を打たれ、ここに慰霊碑を建立しました。今後、この地を「顕彰の地」として、永く語り継ぎたいと考えています。

平成二十一(二〇〇九)年九月十七日
アテルイ・モレを慰霊する会    及川洵 撰文

建立経緯

京都清水寺に平成6年に碑が建立され毎年法要が行われているが、地元では顕彰すれども慰霊する碑はなく、 碑建立はアテルイに関心を寄せる地元関係者の長い間の念願になっていた。 当会の及川洵会長をはじめとする水沢市(現奥州市水沢)羽田町の有志を中心に、同町の羽黒山頂への建碑を呼びかけ、2004年2月に碑建立実行委員会(及川松右衛門会長)が設立され、準備が進められた。 同年11月には、アテルイとモレが処刑された河内国の土を分霊として慰霊碑に納めることとし、枚方市の片埜神社の協力を得て、隣接する牧野公園の塚の土をもらいうけた。
翌年の7月27日に地鎮祭を行い、9月17日の「アテルイの日」に合わせて入魂並びに除幕式を行った。

慰霊祭

毎年9月の第2土曜日に慰霊碑の前で執り行われます。
阿弖流為・母禮を慰霊する会(佐藤健寿会長)の主催で、当会も毎回開催に協力、参加しています。

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2012年12月 2日

北天の雄 阿弖流為母禮之碑

北天の雄 阿弖流為 母禮之碑撮影:和賀亮太郎

建立場所
京都府京都市東山区清水 清水寺南苑
建立年月
平成6年(1994)11月6日
建 立 者
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会
碑の概要

総高235㎝(台座含む)。碑石は岩手県産御影石(高さ185㎝、幅165㎝)。碑表面に東北地方の地図が彫り抜かれ、清水寺の森清範貫主の筆で<北天の雄 阿弖流為母禮之碑>と刻まれている。碑裏面には碑の説明文と建立者の名が刻まれている。

碑説明文
八世紀末頃まで東北・北上川流域を日高見国と云い、大和政府の勢力圏外にあり独自の生活と文化を形成していた。政府は服従しない東北の民を蝦夷と呼び蔑視し、その経略のため数次にわたり巨万の征東軍を動員した。
胆沢(岩手県水沢市地方)の首領・大墓公阿弖流為は近隣の部族と連合し、この侵略を頑強に阻止した。なかでも七八九年の巣伏の戦いでは勇猛果敢に奮闘し政府軍に多大の損害を与えた。
八〇一年、坂上田村麻呂は四万の将兵を率いて戦地に赴き帰順策により胆沢に進出し胆沢城を築いた。阿弖流為は十数年に及ぶ激戦に疲弊した郷民を憂慮し、同胞五百余名を従えて田村麻呂の軍門に降った。田村麻呂将軍は阿弖流為と副将・磐具公母礼を伴い京都に帰還し、蝦夷の両雄の武勇と器量を惜しみ、東北経営に登用すべく政府に助命嘆願した。しかし公家達の反対により阿弖流為、母礼は八〇二年八月十三日に河内国で処刑された。
平安建都千二百年に当たり、田村麻呂の悲願空しく異郷の地で散った阿弖流為、母礼の顕彰碑を清水寺の格別の厚意により田村麻呂開基の同寺境内に建立す。両雄をもつて冥さるべし。

一九九四年十一月吉祥日
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、関西岩手県人会、京都岩手県人会

顕彰碑文面

八世紀末頃、日高見国胆沢(岩手県水沢市地方)を本拠とした蝦夷の首領・阿弖流為(アテルイ)は中央政府の数次に亘る侵略に対し十数年に及ぶ奮闘も空しく、遂に坂上田村麻呂の軍門に降り同胞の母礼(モレ)と共に京都に連行された。
田村麻呂は敵将ながらアテルイ・モレの武勇、人物を惜しみ政府に助命嘆願したが容れられず、アテルイ・モレ両雄は八〇二年河内国で処刑された。
この史実に鑑み、田村麻呂開基の清水寺境内にアテルイ・モレ顕彰碑を建立す。

建立経緯

関西在住の岩手県水沢市(現奥州市水沢)周辺出身者で組織する関西胆江同郷会(高橋敏男会長)は、河内国で処刑されたアテルイとモレの供養碑を建立すべく平成元年頃より活動を進めていたが、平成2年10月に清水寺に対し同寺域にアテルイ、モレの供養碑を建立したい旨の要望書を提出、平成3年2月に応諾の正式決定をいただくに至った。清水寺の格別の厚意、同郷会の熱意、水沢、岩手にゆかりある人の尽力もあった。
清水寺への碑建立の決定は地元水沢においても大きな賛同をもって受け入れられ、これを機にアテルイを顕彰する会(藤波隆夫会長)が設立されるなど、アテルイ顕彰の一大事業として推進がはかられることになった。
関西胆江同郷会、アテルイを顕彰する会、水沢市関係者等が、平成3年10月と平成4年5月に清水寺を訪問、碑の建立場所、碑の規模、建立年等を協議、基本合意し、平成6年(1994年)の平安建都千二百年祭の年に合わせて建立された。

法   要
毎年11月の第2土曜日に碑の前で顕彰と慰霊供養の法要が執り行われます。
関西アテルイ・モレの会(和賀亮太郎会長)の主催で、当会も毎回参加しています。

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2012年12月 1日

設立

設立 平成3年(1991年)4月27日

延暦八年(789年)、アテルイ率いるエミシ軍が現在の岩手県胆沢地方に侵攻した数万の朝廷軍と対決し、巣伏の戦いで大敗させた。この胆沢の合戦から1200年にあたる平成元年(1989年)は、アテルイ復権と顕彰活動の画期をなす記念すべき年になった。

水沢市(現奥州市水沢)の跡呂井町内会は「アテルイ王千二百年祭」として記念碑建立と巣伏の戦い大勝利凱旋武者行列を実施、市民グループの延暦八年の会は巣伏の戦い大勝利1200年を記念する「アテルイとエミシ展」を開催。また県水沢地方振興局は胆江地方を「アテルイの里」と名付け、シンポジウム「いま、蘇えるアテルイ」を主催するなど、アテルイを顕彰しようとする機運は一挙に大きな流れになったのである。

一方、関西胆江同郷会は同じ頃にアテルイとモレが処刑された関西に供養碑を建立すべく運動をすすめていたが、坂上田村麻呂創建と伝えられる京都の清水寺が境内への碑建立を快諾、アテルイ顕彰の一大事業としてアテルイの地元での運動も要請されるに至った。

このような状況のなかで、アテルイ碑建立事業の推進と幅広いアテルイ顕彰活動の持続的な展開を担う組織の必要性から、広く有志が結集し、平成3年(1991年)4月27日に<アテルイを顕彰する会>が設立された。

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2012年12月 1日

役員

1991年4月設立時の役員

役職名氏  名所属団体等
会  長藤波隆夫水沢の歴史と文化を考える会会長。黒石寺。
副会長佐藤秀昭延暦八年の会会長。岩手出版社主。
副会長佐々木盛水沢市跡呂井町内会会長。
副会長高橋敏男関西胆江同郷会会長(関西アテルイ顕彰会会長)
顧  問池田雅美富士大学名誉教授。アテルイの里構想研究会会長。
顧  問菊池芳雄水沢商工会議所副会頭。北方の王者アテルイの会副会長。
顧  問千葉政士衣川青史会会長。胆沢郡衣川村前教育長。
顧  問高橋利明胆沢郡衣川村文化財調査委員長。衣川青史会事務局長。
顧  問千田一彦胆沢郡前沢町芸術文化協会会長
顧  問阿部久三北方の王者アテルイの会会長。水沢市文化財調査委員。
幹  事佐藤博幸水沢市教育委員会。延暦八年の会。
幹  事千葉周秋胆沢郡金ヶ崎町教育委員会。くらしと文化を記録する会代表。延暦八年の会。
幹  事小原正治胆沢史談会会長
幹  事高橋延明胆沢郡衣川村教育委員会
幹  事伊藤郁雄えみしの会(江刺市)
幹  事伊藤正次胆沢郡前沢町教育委員会
幹  事安倍満穂関西胆江同郷会副会長(関西アテルイ顕彰会副会長)
監  事新田清二水沢商工会議所会頭。水沢信用金庫理事長。
監  事大衡貞子北方の王者アテルイの会副会長
事務局小河原淳延暦八年の会副会長
事務局安彦公一延暦八年の会
事務局朝倉 授延暦八年の会

2023年8月選任の現役員

役職名氏  名所属団体等
会  長安彦公一胆江日日新聞社取締役・主筆、延暦八年の会
副会長和賀亮太郎関西アテルイ・モレの会会長
副会長千葉周秋地域文化学研究所主宰
副会長後藤博志NPO法人奥州おもしろ学副理事長
顧  問新野直吉秋田大学名誉教授。秋田県立博物館名誉館長
幹  事斉藤哲郎日本微生物研究所代表取締役社長
幹  事伊藤郁雄えみしの会(奥州市江刺区)
幹  事梅田光生水沢招魂社奉賛会会長
幹  事渡邊晃三後藤新平顕彰会常任理事
幹  事佐藤義昭元岩手県・県南広域振興局副局長
幹  事高橋十一元奥州市観光物産協会副会長。水沢タクシー代表取締役
幹  事佐藤晃信佐藤晃信税理士事務所所長
幹  事佐藤博幸佐藤歯科医院院長
監  事関口善之介NPO法人奥州おもしろ学常務理事
監  事渡辺 晃元胆江日日新聞編集委員
監  事菅原睦夫元奥州市水沢佐倉河地区センター長
事務局長朝倉 授延暦八年の会事務局長

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2012年12月 1日

主な活動

平成 3年(1991)4月
アテルイ顕彰碑(仮称)清水寺建立の募金活動開始
平成 3年(1991)5月
会報『アテルイ通信』発刊
平成 3年(1991)9月
フォーラム「虚像から実像へ、アテルイ」(豊田有恒、今泉隆雄、工藤雅樹)開催
平成 4年(1992)7月
第1回アテルイシンポジウム(作家光瀬龍、他)開催
平成 6年(1994)3月
第2回アテルイシンポジウム(三好京三、米地文夫、斎藤利男)開催
平成 6年(1994)5月
アテルイ顕彰碑(仮称)建立募金終了(受託寄付金合計3,565,786円)
平成 6年(1994)9月
愚安亭遊佐・ひとり芝居「アテルイ」岩手県公演を延暦八年の会と共催
平成 6年(1994)11月
京都清水寺に<北天の雄 阿弖流為 母禮之碑>建立
平成 7年(1995)2月
延暦八年の会主催講演会「阿弖流為と田村麻呂」(新野直吉秋田大学長)を後援
平成 7年(1995)8月
江刺市においてアテルイ・モレ等エミシの慰霊祭を実行委員会で開催
平成 8年(1996)3月
第3回アテルイシンポジウム(工藤雅樹、大矢邦宜)開催
平成 8年(1996)8月
エミシの慰霊祭~ほくとう銀河・多賀城の集い~に共催団体として参加
平成10年(1998)3月
京都・清水寺アテルイ・モレ法要と記念植樹の旅を共催
平成10年(1998)5月
「胆沢の合戦」大パネル画の新調移設記念にシダレザクラを寄贈
平成10年(1998)10月
歴史探訪ツアー(宮城県北部方面、伊治城跡ほか)の開催
平成11年(1999)12月
延暦八年の会主催シンポジウム「アテルイと悪路王伝説」(新野直吉、三好京三他)を後援
平成12年(2000)7月
公開研修会・講演「アテルイ降伏後の胆沢地方について」(樋口知志岩手大教授)開催
平成13年(2001)4月
アテルイ没後1200年記念事業実行委員会(会長水沢市長)に幹事として参加
平成13年(2001)6月
アニメ映画「アテルイ」製作支援水沢地区推進委員会に幹事として参加
平成13年(2001)6月
工藤雅樹福島大学教授による羽黒山(水沢市羽田町)現地踏査と講演会を開催
平成13年(2001)9月
アテルイ関連遺跡羽黒山市民発掘を実施(参加335人、5日間延べ549人参加)
平成14年(2002)9月
アテルイ没後1200年記念企画展「甦れ、アテルイ」開催
平成14年(2002)9月
延暦八年の会主催シンポジウム「アテルイとエミシの時代」(今泉隆雄、熊谷公男他)を後援
平成15年(2003)9月
「アテルイの日」制定。記念講演会「アテルイについての逆説」(井沢元彦)、
車座トーク「おおいにアテルイを語る」(一力一夫、高橋富雄)開催
平成16年(2004)3月
『阿弖流為復権~アテルイ没後1200年顕彰事業関係報告集~』発行
平成16年(2004)9月
「アテルイの日」記念講演(高橋克彦)、DVD「アテルイ」鑑賞会の開催
平成17年(2005)9月
水沢市羽田町の羽黒山への‹阿弖流為母禮慰霊碑›建立を推進
平成18年(2006)12月
会報『アテルイ通信』第50号発行
平成19年(2007)9月
奥州市羽黒堂古舘遺跡発掘調査を阿弖流為母禮を慰霊する会と共催で実施
平成23年(2011)9月
講演会「坂上田村麻呂と阿弖流為」(熊谷公男東北学院大学教授)開催
平成24年(2012)12月
ホームページ開設
平成25年(2013)9月
「アテルイの日」のイベント開催
平成26年(2014)9月
第10回 阿弖流為・母禮の慰霊祭を共催
平成26年(2014)9月
講演会「延暦8年の合戦を読み解く」(伊藤博幸岩手大学特任教授)開催
平成26年(2014)11月
京都清水寺 阿弖流為・母禮之碑建立20周年記念法要に特別参加
平成30年(2018)3月
会報「アテルイ通信」第70号発行
令和01年(2019)9月
第15回阿弖流為・母禮の慰霊祭〔事業終了〕

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2012年12月 1日

関係図書

刊行物

1
『アテルイ通信』第1号(1991.5)~第73号(2022.7)
2
『アテルイ没後千二百年記念特別企画展「甦れアテルイ」』(2002.9)
3
『阿弖流為復権 ~アテルイ没後1200年顕彰事業関係報告集~』(2004.3)
4
『岩手県奥州市羽黒堂古館遺跡(「伝アテルイ砦」調査)』(2007.12)

会員著作等

及川 洵元会長(故人)『蝦夷アテルイ』(文芸社2013.6)(修訂・新装版2015.6)
『アテルイ研究入門』(2002.12)
『阿弖流為』(2009.2 文芸社 小説)
『阿弖流為と田村麻呂伝説』(2011.5 胆江日日新聞社)
伊藤博幸前会長(故人)共著『岩手県の歴史』(1999.3山川出版社)「アテルイの世界」
安彦公一会 長『日高見抄』上下(2002.1胆江日日新聞社)
佐藤秀昭元副会長『アテルイ』(2002.8 岩手日報社)
高橋敏男元副会長(故人)『-大和政権と蝦夷の-確執』(1996.12 胆江日日新聞社)
千葉周秋副会長『エミシ・タムラマロ伝説』(1989.11)(増補版2002.9)
一力一夫元顧問(故人)『「3/4世紀」回顧』(2000.11)「アテルイ讃歌」
新野直吉顧 問『古代東北の開拓』(1969.11 塙書房)
『古代東北史の基本的研究』(1986.7 角川書店)
『田村麻呂と阿弖流為』(1994.8 吉川弘文館)他多数
三好京三元会員(故人)『北天の雄 母禮物語』(2002.6)
遠藤昭一元会員(故人)『私観アテルイ像を求めて』(1994.8)
安久澤連元会員(故人)『朔風すさぶ彼方』(1988.12)
『北風の譜 陸奥蝦夷争乱悲話』(2008.5 鳥影社)
吉川団十郎会員CD 『みちのく古代史~北の大地の鬼の唄~』(1996.3)
千尼田会員『蝦夷水沫阿弖流為の叫び』上下巻(2010 11文芸社)
小林忠明会員『アテルイを育てた女たち』(2014.6 龍書房)
おおぎやなぎちか会員『アテルイ 坂上田村麻呂と交えたエミシの勇士』(2021.1.30 くもん出版)

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2012年12月 1日

主な掲載論考等

新野直吉秋田大学名誉教授「延暦八年紀、二十一年紀の阿弖流為」(29号)
工藤雅樹
(故人)
福島大学名誉教授「アテルイ以前の胆沢地方」(17号)
「古代蝦夷の社会」(58号)
今泉隆雄
(故人)
東北大学名誉教授「律令国家とエミシ~律令国家側からみたアテルイ~」(65号)
樋口知志岩手大学教授「アテルイ降伏後の胆沢地方について」(32号)
「延暦八年胆沢の合戦の再検討」(40号)
熊谷公男東北学院大学名誉教授「坂上田村麻呂と阿弖流為」(62号)
神 英雄龍谷大学短期大学元講師「阿弖流為・母礼の斬殺地について(抄録)」(4号)
井沢元彦作家「アテルイについての逆説」(43号)
一力一夫
(故人)
高橋富雄
(故人)
河北新報社社主
東北大学名誉教授
「~ 「アテルイの日」制定記念車座トーク ~
おおいにアテルイを語る」(44号)
小林晋一
(故人)
元水沢市史専任編纂委員「アテルイ雑感」(1号)
佐久間 賢元奥州市埋蔵文化財調査センター所長「アテルイ探訪」(69号)
及川 洵元会長(故人)「アテルイの謎をめぐって」(5号)
「アテルイは朝廷から良字を与えられている」(9号)
「アテルイとエミシ研究をめぐる諸問題」(19号)
「アテルイの処刑」(48号)
伊藤博幸
(故人)
前会長
元岩手大学特任教授
「アテルイの降伏について」(8号)
「シリーズ阿弖流為」(25号)
「考古学から古代蝦夷社会を考える」(49~52号)
「延暦8年の合戦を読み解く」(66号)
「奥州市杉の堂遺跡と製塩土器」(72号)
及川けい会員「大墓公」の読みについて」(73号)
朝倉授
(梅草一郎)
会員・事務局長「マンガに描かれたアテルイの顔」(14号)
「『東日流外三郡誌』世界のアテルイ」(22号)
「アテルイ関連古跡・羽黒山について」(35号)
「アテルイ最期の地について」(36.37号)
「新しい中学の歴史教科書とアテルイ」(37号)
「アテルイの降伏から斬殺まで」(38号)
「甦るアテルイ、復権の歩み」(41号)
「「阿弖流為」、そして「大墓公阿弖利為」」(42.46号)
「「大墓家」銘墨書土器と「大墓公」」(60号)
「平成26年度検定済「歴史」教科書に記述されたアテルイ」(第67号)
「アテルイの処刑地について~「牡山(男山)」説への疑問~」(第68号)

バックナンバー目次第1号(1991.5)~第73号(2022.7)

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2012年12月 1日

申し込み

アテルイに関心がある人で、会則を承認し会費(年2,000円)を納入いただければ、どなたも入会できます。
会員には会報『アテルイ通信』(不定期)が送られるほか、会が行う事業等に参加することができます。
会費の払込は、

ゆうちょ銀行振替口座

口座記号番号02270-9-143215
口座名称アテルイを顕彰する会

会則

名称

第1条

本会の名称は、「アテルイを顕彰する会」とする。

目的

第2条

この会は、アテルイ、モレなどを顕彰し、この地に生きた者の誇りと融和の輪を広めることを目的とする。

事業

第3条

本会は前条の目的を達成するために、次の事業を行なう。
(1)アテルイ顕彰のための研鑽を深める。
(2)アテルイ顕彰に係る諸事業。
(3)その他、目的達成のための必要事項。

組織

第4条
1.
本会は第2条(目的)の趣旨に賛同するものをもって組織する。
2.
本会には会長1名、副会長3名以内、幹事10名以内、監事3名以内、事務局長1名を役員として置き、総会において選任する。
3.
役員の任期は2年とし、その再任を妨げない。
4.
本会は必要に応じ、会長が委嘱する顧問を置くことができる。

運営

第5条
1.
本会は、会員をもって年1回、総会を開催する。
2.
本会は会長が統括し、会議の議長となる。但し、会長の事故ある時は、副会長がこれにあたる。
3.
役員会は、事業の運営・執行にあたる。
4.
会議は、出席者の過半数をもって決する。

付議事項

第6条

総会に付議する事項は次の通りとする。
(1)運営の基本方針に関すること。
(2)予算及び決算に関すること。
(3)役員の選任に関すること。
(4)会則の改廃に関すること。
(5)その他、この会の運営における重要事項に関すること。

経費及び会計

第7条
1.
本会の運営に必要な費用は、会費、寄付金、補助金、その他の収入をもってあてる。
2.
会計年度は、毎年4月1日に始まり翌年3月31日に終わる。
3.
会費は、年間2,000円とする。

住所

第8条
本会の住所は岩手県奥州市水沢新小路21番地1 ヒグチビル1階 安彦事務所内とする。

平成 3年 4月27日制定
平成13年 6月 9日改定(第4条2、他)
平成26年 7月26日改定(第8条)
令和 5年 8月26日改定(第8条)


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2012年12月 1日

延暦八年朝廷軍の衣川軍営

衣川の丘陵衣川の丘陵

延暦八年(789)3月28日、多賀城を出発し胆沢に侵攻した朝廷軍は「河を渡り」「三処」に軍営を置いたことが『続日本紀』に記されている。
この「河」とは北上川支流の衣川であり、朝廷軍は川を渡ったこの丘陵一帯に約三万の兵士を駐留させ、一万二千四百余の輜重兵が玉造塞までの間を食糧運搬で往復していた。
この丘陵から北を望めば広大な胆沢扇状地が見渡すことができる。

衣川の営跡の標柱衣川の営跡の標柱

奥州市衣川区陣場のサンホテル衣川荘の小庭園に立っている。
標柱の正面に「衣川の営跡」、右横面に「伝 紀古佐美がアテルイを攻撃した東の基地」と刻まれている。
標柱の近くに立つ「陣場」の説明板には「延暦八年(七八九)紀古佐美の征夷にあたり衣川に三ケ所 の営が設けられたがその内の東端の営跡と伝えられる。...」とある。

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2012年12月 1日

延暦八年巣伏の戦い跡

巣伏村=四丑橋

延暦八年の胆沢の合戦は、北上川の東側を北上する四千の朝廷軍と三百人ばかりの蝦夷兵の小規模な 戦闘に始まり、後退する蝦夷軍を追撃する朝廷軍が巣伏村に至り、迎え撃った蝦夷軍との 大激戦となる。いわゆる巣伏の戦いである。
この「巣伏」(すふし)の地名は、現在に「四丑」(しうし)地名として残っている。

巣伏古戦場碑巣伏古戦場碑

平成5年(1993)6月に、江刺市内(現奥州市江刺区)の市議会議員荻田耕三氏他3人でつくる「青駒ダイナミックス」により北上川に架かる四丑橋の東側(江刺市愛宕金谷)に建立された。
石碑の高さ2.4m、奥行27㎝、幅36㎝。表面に「大墓公阿弖流為等 巣伏古戦場」と刻まれ、裏面には 「続日本紀抄」として巣伏の戦いに関する部分の記述が刻まれている。
建立の日を戦いのあった日にあわせ6月3日としている。

巣伏の戦いの跡碑巣伏の戦いの跡碑

水沢市の昭和10年(1935)生まれの同級生組織・進友会(佐々木勲会長、会員300人)が、 平成7年(1995)に還暦を迎えることを記念し、水沢市佐倉河北田の物見やぐらが立つ公園 (巣伏古戦場跡公園)内に「巣伏の戦いの跡」と刻んだ石碑を建立、周辺環境も整備した。
同公園内には、東に北上川を望む物見やぐらの階段下に「蝦夷の群像」碑も設置されている。

東山=羽田町羽黒山東山=羽田町羽黒山

「アテルイ顕彰の地」の標柱と説明板がある。

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2012年12月 1日

跡呂井(アトロイ)の地

準備中

昔、安土呂井村
奈良時代、岩手県内の蝦夷の最大遺跡
1996年9月から発掘調査が進められていた水沢市の杉ノ堂遺跡(跡呂井二ツ壇地区)
奈良時代の焼失住居跡五棟が発見された。

「胆沢の合戦」大パネル「胆沢の合戦」大パネル

平成10年(1998)5月16日、水沢市(現奥州市水沢)花園町の花園ポケットパークに設置された。
中一弥画「胆沢の合戦」(河北新報社所蔵)は、延暦8年の巣伏の戦いで、馬上で指揮をとるアテルイ とエミシ軍が朝廷軍を北上川に追い落とす場面を描いている。
1980年秋に河北新報社から水沢市にその拡大パネルが寄贈され、跡呂井の地名が残る花園町に 設置されていたが、傷みが目立ってきたことから、ポケットパークの整備にあわせて水沢市が県補 助と河北新報社の協力を得て移設、新調した。当会は記念にシダレザクラを寄贈し植樹した。

アテルイ王記念碑アテルイ王記念碑

平成元年(1989)年9月、水沢市(現奥州市水沢)跡呂井地区町内会が町内の神明社境内に建立。
アテルイ率いる蝦夷軍が五万を超える朝廷軍を撃破した「巣伏の戦い」から千二百年目となることを 記念して、石碑には「古代東北の英雄 アテルイ王千二百年祭記念碑」と刻まれている。
3年に一度開催される「アテルイ歴史の里まつり」は、この碑の前での神事から始まる。

北方の王者アテルイ像北方の王者アテルイ像

平成4年(1992)10月20日、水沢市(現奥州市水沢)常盤地区のストリートシンボルとして製作され、 東大通り三丁目のアテルイ広場の西奥に設置された。
表面に抽象化したアテルイの顔が描かれた大火炎土器の形状で、 高さ約6m、上部直径約3m、下部約2mの円筒形。夜間は赤い目が光るようになっている。
市内の及川哲夫氏の制作で「北方の王者アテルイ」の題名がある。

阿弖流為の郷碑阿弖流為の郷碑

平成6年(1994)5月24日、東水沢地域振興協議会により、水沢市(現奥州市水沢)東大通り三丁 目の「アテルイ広場」の前面に建立された。
石碑は台座を含め高さ1.8m、横2.15mの黒御影石。
表面に後藤晨水沢市長の揮ごうで「阿弖流為の 郷」と刻まれ、裏面にはアテルイ広場の説明と地名(跡呂井)の由来などが記されている。
この石は当会が京都清水寺への碑石候補として大東町の首藤哲夫氏より寄贈を受けていたもので、 同氏の賛意を得て寄贈した。

アテルイ生誕の地の標柱アテルイ生誕の地の標柱

水沢市(現奥州市水沢)の四丑地区の住民95人で組織するアテルイ河川歴史公園を推進する会 が、平成15年(2003)からアテルイの史跡の場所を紹介する看板と標柱の設置に手作りで取り組み、 3年がかりで完成させた。
この「アテルイ生誕の地 跡呂井」と記された標柱は、神明社(奥州市水沢神明町)境内に設置され ている。

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